Web評論誌「コーラ」37号/哥とクオリア 第50章 夢/パースペクティヴ/時間(その1)

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Web評論誌「コーラ」
37号(2019/04/15)

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《かつては歌というものは、記憶のためのものだったのだろう。叙事詩と呼ばれる、歴史を残すための記憶代わりに歌い継がれてきたものに違いない。だが、やがてそれは変質してゆく──「その時何が起きたのか」ではなく、「その時何を感じたか」が歌われるようになったのだ。人間がつかのまの生のあいだに体験する、普遍の感情、普遍の心情を。》(恩田陸『蜜蜂と遠雷』)
 
■夢、文字以前の世界の記憶
 まず、先付の話題から。
 縁あって、ある事業家の呼びかけで始まった、持続可能な未来社会の構想とその実践をめざす人々の集いに加わり、まず初年度のプログラム(構想篇)として企画された研究会、具体的には、能楽師の安田登さんを講師に招き、炎天下の京都は建仁寺の塔頭・両足院にて催された座学と実習(能の舞の極めて初歩的な手ほどき)、そして祇園花見小路の小料亭に場を移しての懇親会に参加する機会を得ました。
(この研究会の成果は、その年の暮れ、京都議定書二十周年を記念して京都国際会館で催されたシンポジウムにおいて、事業家有志による未来構想として発表された。ただし、本稿執筆時は、第二回目の研究会を終えたばかりで、秋の最終の会合、そして十二月のシンポジウムをにらんで各自構想をあたため始めた頃のこと。)
 安田師の講義は、研究会と並行して刊行された『あわいの時代の『論語』──ヒューマン2.0』と『能──650年続いた仕掛けとは』の中味を凝縮し、著者の肉声と板書(故・白川静の「文字講話」での振る舞いを髣髴とさせる)、そして時折のパフォーマンス(漱石「夢十夜」の朗読など)を織り交ぜた贅沢なもので、質疑応答や懇親会での雑談(安田師が書評を書いた國分功一郎著『中動態の世界──意志と責任の考古学』の話など)も含め、とても刺激的なものでした。
 その時の話題から一つ、心に残ったものをとりあげます。
 師によると、人類が経験した直近のシンギュラリティは文字の誕生で、この外部記憶装置発明の結果としてもたらされた脳の余白を活用して精神的諸活動が、すなわち「心」が生まれ、リニアな時間の観念(過去への後悔、未来への不安を含めて)やリニアな論理が発達した。そして、心以前、文字以前の世界は、私たちの夢の中に閉じ込められていった[*]。それは、心以前の時代に書かれたシュメール語の神話や古代ギリシャの「イーリアス」などを読めばわかる。
 これらのことについては、私の不確かな記憶にたよるより、公開されたドキュメントでの発言を引くことにします。たとえば、『WIRED.jp』に掲載されたドミニク・チェン、酒井雄二との鼎談「紀元前に起きたシンギュラリティからの「温故知新」:能楽師・安田登が世界最古のシュメール神話を上演するわけ」の中で、安田師は次のように語っています。
《心ができたばかりの神話や文学には、心以前の世界の記憶が残っています。その時代の神話には、たとえば「未来のことを考えない」、「話が突然飛ぶ」、「色が少ない」などといういくつかの特徴があります。これはわたしたちが夜見る「夢」の世界に似ているでしょう。
 心以前の世界は、言葉によって生みだされた「心」によって上書きされ、夢の中に封じ込められたのだと思います。そして、文字の発明というシンギュラリティによって「心」が生まれたなら、ロボットやAIによって生まれる次のシンギュラリティは、まったく別の何かになるはずです。》
 
 ここで言われる「まったく別の何か」(=ヒューマン2.0)に関連して、いま一つ、『みんなのミシマガジン』掲載の最相葉月との対談「「心の時代」の次を探して」での発言を引きます。
《ただ、この「不安がない」[前向性健忘症や認知症の人のように、「永遠に今を生きる」人には未来に対する不安がないことを指す──引用者註]というのは、未来の時間感覚だけでなく大昔の時間感覚の可能性もあると思うのです。古代の叙事詩や神話を読むと、人間による選択や計画がありません。選択をするのは神様で人間はそれに従うだけ。あと古代の物語の特徴としては「色彩が曖昧」であることと、そして「嗅覚が少ない」ことがあります。これって夢に似ていませんか。夢の中で「う〜ん」と計画を立てることってあまりないでしょ。選択もできない。色も曖昧だし、匂いもあまりない。ひょっとしたら人間は、古代の時間感覚を「夢」として記憶しているんじゃないかと思うのです。
 少し話が飛びますが、人間は視覚以外にも「見る」力を備えています。夢がその代表例で、光を網膜で感じなくとも、たしかに「見る」ことができます。そう考えると、人間の意識にはもっとさまざまなステージがあってもいいはずで、さらなる意識のステージを獲得すれば、脳の拡張が起こるはずだと思っています。
 脳の拡張は、時間の認識に大きな変化をもたらす可能性があります。今の私たちは、過去・現在・未来のリニアな流れで時間を把握しているつもりになっていますが、実は時間そのものを形容する言葉を持ちあわせていません。「長い時間」とか「遠い過去」とか、距離の概念を援用して時間を把握しているにすぎません。時間を直線的に捉えてしまうのはそれが理由で、時間認識を変えるには、脳の構造や知覚そのものを変える必要があります。》
 
 夢、夢の視覚、夢の時間。私が、貫之現象学のA層、その第二の相を構成するものと考えた三つの項が、ここにいきなり、揃い踏みで登場しました。
 
[*]周防柳著『逢坂の六人』の、新鮮な果汁がとびちったあとの微香のように清々しい文章を賞翫していたときの幸福な読中感は、読み終えて数年を経たいまでもはっきり覚えている。読後の余韻ではなく、いまそこに湧きあがるアクチュアルな感覚として……。
 この、貫之を主役兼舞台回しとして、「The Magnificent Six」すなわち六歌仙をめぐる虚構の歴史ストーリーと、古今集編纂にまつわるあり得たかもしれない物語を丹精こめて、連作小説風に綴った作品の冒頭に、まるで見てきたようなつくりごと、私にはいっそ美しいと思われる嘘事が、次のように語られていた。
《貫之は空想の世界に遊び、架空の天地にさすらうことが、なによりも楽しかった。屏風絵に歌を添えることはたんなる画賛を考えることではなく、その絵の中の人間になりきって、野山を逍遥し、花鳥を愛でることであった。貫之には、いつも夢の中に生きているようなところがあった。》(26頁)
 
 夢の中に生きている貫之。思えば、この論考群の当初の目論見は、貫之の歌を夢の世界の現象として読むというものだった。夢のあり様そのものを詠む歌、あるいは夢の体験をライブでかたどる言葉として(第4章参照)。
 その夢の中に閉じ込められていたのは、文字以前の音声言語つまり「聲」だったかもしれない。そしてその延長線上に、すなわち「夢(聲)」としての王朝和歌、言い換えると貫之現象学の世界の行き着く果てに、「映画」としての中世和歌が、すなわち「言葉が見る夢」(第四人称、死者が詠む歌)としての定家論理学の世界がひらかれ、その言語空間を食い破って、たとえば世阿弥の無心や芭蕉の風雅(虚心)が、個別の身を纏ったペルソナとして立ち現われてきたのかもしれない。
 
■絵文字とパラレリズム
 
 文字以前の世界について考えるとき、(アンドレ・ルロワ=グーランの『身ぶりと言語』やスティーヴン・ミズンの『心の先史時代』、ジュリアン・ジェインズの『神々の沈黙──意識の誕生と文明の興亡』等々と並んで)、カルロ・セヴェーリ著『キマイラの原理──記憶の人類学』の議論が、示唆に富んでいます。
 その要点を抜きだします。いわく、純粋な口承伝統や文字だけを使用する伝統などというものは、西洋文化のイデオロギー的イメージに過ぎない。現実に存在するのは両極の間の数多くの中間段階であって、それらの段階を支配するのは非西洋的な記憶術を鍵とする「儀礼的記憶の実践に基づく図象的伝統」、すなわち「イメージと言葉との間に定められる記憶術的関係の類型に基づいて、‘図象に依拠する伝統’──口承のみに基づくものではないが、言語の音声表記は知らない伝統」である。(9-10頁)
 ここで言われる「図象」とは、たとえばアメリカ先住民の絵文字のこと。また「儀礼」を実践するのはシャーマンで、儀礼におけるコミュニケーションで用いられる特殊な言語形式は、ローマン・ヤーコブソン由来の「パラレリズム」にほかならない(41頁)。
 この二つのもの、すなわちイメージと言葉との間の「記憶術的関係」に関連して、セヴェーリは、「文字を持たず、図象に依拠すると同時に口承的でもある伝統」に「典型的な、一種の記憶の「原型(Urform)」」とも言うべき、「物語形式とは異なる文学形式」のことを、「歌の形式(la forma-canto)」と名づけている。「そこではイメージと言葉は、論理的にも詩的にも同等の比重を持つ。」41頁)
《アメリカ先住民の絵文字は、未発達で、個人的で、恣意的な文字ではない。それは記憶術、すなわちパラレリズムを構成する図象部分である。それがテクストを表現できるのは、ひとえにその構造を反映しているからである。(略)
 しかし、記憶術とはおしなべて想像力の技術でもあり、それは絵文字にも当てはまる。絵文字もこの意味で、記憶術の典型的な形式をそなえている。すなわち一方で、記憶、分類、推論の連鎖を、他方で、喚起、着想、詩的想像力の連鎖を内包している。それというのも、すでに見たように絵文字は、口承伝統によって確立されたある秩序に具体的な言葉を固定するとはいえ、つねに視覚的なヴァリエーションや細部を付加することで、イメージによって情報をさらに豊かにするからだ。
 だがそれだけではない。絵文字を特徴づける自由さと一貫性とのこの均衡は、記憶の実践そのものを導く認識上のパラレリズム的構造がより深い次元で作用しているという事実に依拠している。それは、言語的特徴と図象的特徴を同じ仕方で、すなわちモザイクの石片のように操作し、手法は多様だが、しかし共通の論理にしたがってそれらを結びつけるよう促す技術である。第一の確認事項を共有しよう。すなわち、アメリカの伝統において絵文字に転記される歌の形式は、連続的展開(語られる物語をまさに支える期待を聴く者の心に生み出し、次第に絶頂へともたらし、最終的に満足させるという相互作用)に依拠するのではなく、むしろ心的表象のパラレリズム的構造に基づいている。それは、パラレルな連続によって言葉を表象する図象的手法である。テクストとイメージを組み合わせるある種の手法は依然として存在する。だが、物質的媒体に転記され、ある定められた秩序に方向づけられた、現実的イメージに客体化される。記憶術的表現は、純粋な心的プロセスではあるが、この図象技術に非常に近いのだ。
 このプロセスは──記憶に関わるすべてのことと同様に──「記憶」という受動的背景に、ただ情報を怠惰に、あるいは機械的に獲得することだけに関わるわけではないことを指摘しておかねばならない。それは、喚起作用に典型的な心的再構築にも、あるいは心的表象という思考の実践そのものにも密接に関わっている。記憶に関する理論的、経験的、歴史的な研究はおしなべて、推論と喚起作用とのこの密接なつながりを主張している。それゆえ心のなかのパラレリズムは、テクストをその構造において保存する手法であるだけでなく、テクストから演繹し、カテゴリーや世界の諸相、さらには表象したい世界の典型的な(目には見えない)被造物までも表現し用いる手法でもある。》(水野千依訳『キマイラの原理』221-222頁)
 
 そのような意味での「(目には見えない)被造物」、たとえば「ジャガーの咆哮をする鳥」や「鳥の囀りをするジャガー」といった「キマイラ」を表現するパラレリズム的想像力の技術を、セヴェーリは「客体的パラレリズム」と呼び、いま一つの技術、すなわち「再帰的パラレリズム」と名づけられたそれと区別しています。[*]
《絵文字は、すでに見たように、きわめて限定された記号領域に適用されるだけでなく、ある種の話者を前提としていた。したがって、対象に対する関係だけでなく、絵文字の儀礼的使用を特徴づけている主体に対する関係も存在する。パラレリズム──固有名の純粋な一覧よりも複雑な現象を記憶するために「顕著さ」と「秩序」を体系化する手法のひとつ──が、アメリカ先住民の伝統において、儀礼用の歌の記憶を組織づけていることを考察した。だが、パラレリズムは記憶のコード化装置であるだけではない。記憶の喚起を方向づける手法でもあり、さらには喚起が仄めかす想像力を導く手法でもある。パラレリズム的記憶術から、こうして別のキマイラが誕生する。「天のジャガー」、「樹木としての女」、「雷鳴としての蛇」──パラレリズム的想像力の正真正銘の被造物が生まれるのだ。この種のパラレリズムは外的世界の解釈に適用されるため、私たちは‘客体的’と呼んだ。
 だがこうした伝統において、パラレリズムは世界観にだけでなく、この世界観を表明する者の定義、すなわちシャーマン像そのものにも影響を及ぼしていた。この種のパラレリズムは、儀礼的発話の主体に適用されるため、私たちは‘再帰的’と呼んだ。絵文字研究の展開から、私たちはこうしてシャーマンの歌の中心となる存在の誕生を研究することとなった。すなわち「記憶としての私」、儀礼用の歌が描写する複雑な話者の誕生である。》(同350-351頁)
 
 キマイラという語は、坪内逍遥の「歌舞伎キマイラ説」を連想させますが、私は、セヴェーリの議論はむしろ能にこそ、しかもその核心部分において妥当するのではないかと思います。
 以下は、思いつきの域を出ない素人談義にすぎません。──能舞台において立ち現われるのが、文字以前、心以前の世界の記憶をとどめる夢であるとして、そこでは、舞(図象的記憶、絵文字のような?)と謡(儀礼的記憶、あるいはシャーマンの語り?)とが同じパラレリズムの構造をもってひとつの形式をかたちづくり、やがて「記憶術=想像力の技術」のはたらきを介して客体的世界の象徴的変容をもたらし、話者(シテ)の再帰的誕生をうながす。つまり、夢が現実化(物質化)する……。
 
[*]和歌におけるパラレリズムをめぐって。
 その一。尼ヶ崎彬氏は『縁の美学──歌の道の詩学U』に収められた「枠と縁──詩歌の文法」で、詩歌を詩歌たらしめる形式条件を満たす二つの修辞原理について、次のように記している。
《一つは韻律図式や対句など、平行性によって語列が人工的図形であることを目立たせるものである。もう一つは語の連想関係に基づく非文法的統辞である。この連想関係には隠喩や換喩などの比喩表現も含めることができるだろう。しかし特に和歌においては、歌枕、枕詞、掛詞、本歌取といった形で独特の約束事が形成された。この二つの修辞原理の前者を「枠」、後者を「縁」という言葉で表すなら、どこの国の詩歌も両者を形式条件として持つとしても、日本の場合は比較的「枠」の条件が弱く、「縁」の条件が大きな役割を受け持ったと言えるだろう。》(『縁の美学』20頁)
 
 ここで言われる「平行性」が、「言語学と詩学」でヤーコブソンが、「詩の作為的部分…は、平行性の原理に帰着する」云々というジェラード・ホプキンスの言葉の引用を通じて、詩の一般的で根本的な問題として導入した「パラレリズム」にほかならない(『一般言語学』208頁)。
 その二。山田哲平氏は『反訓詁学──平安和歌史をもとめて』で、大陸とは別個の日本文化を和歌によって創造しようとした古今集時代の貫之は、「対句に見られる大陸的コントラストを、列島的なアナロジーとしての縁語に変換」(83頁)したと書いている。そして「縁語に準ずるものとして、パラレリズム・並行を挙げねばならない」(15頁)として、貫之によって「縁語とパラレリズムによる国風化」が確立されたと括っている。
 山田氏の議論の詳細はここでは措く。注目したいのは、和歌におけるパラレリズムの位置づけが、先の尼ヶ崎氏の議論と真逆になっている点だ。これはまだ充分に吟味ができていない感覚的な物言いでしかないのだが、私は、この二人の議論は本文で取りあげたパラレリズムの二つの用法に関連づけて考えることができると思う。尼ヶ崎氏の議論はセヴェーリが言う「客体的パラレリズム」に、そして山田氏の議論は「再帰的パラレリズム」にそれぞれ深いところで関係している、といった具合に。
 ちなみに、第15章でとりあげた論文「日本、そのもう一つの──貫之の象徴的オリエンテイション」で、山田氏は、貫之歌「二つ来ぬ春と思へど影見れば水底にさへ花ぞ散りける」をめぐって、「水中にもう一つの別の春を見る、ということは、水面の反映を、単なる鏡像とは見ていないことである。それは現実世界に並行して存在するもう一つの自立した空間世界として理解されているのである。」(『語りのポリティクス』255頁)と書いていた。(現実世界の単なる鏡像ではなく、現実世界に並行してパラレルに存在するもう一つの自立世界。これを夢の世界そのものと見ることができるのではないか。)
 蛇足を加えると、三島由紀夫は「日本文学小史」で、古今集の歌人は、条件的仮定法の多用によって現実の目前の花を架空の夢幻の花へ転化するよすがを知ったのだが、そういう操作による傑作はなお乏しく、その完熟を新古今集に俟たねばならなかったと指摘したうえで、「架空の夢幻の花の美しさは、却って、紀貫之の、次のような無技巧の簡素な歌によってよくあらわれている」と記し、「やどりして春の山辺にねたる夜は夢の内にも花ぞちりける」を挙げている(中公文庫『古典文学読本』157頁)。
 
■文の原理・絵の原理
 
 これより本論。ひさしぶりに永井均著『私・今・そして神──開闢の哲学』を読みかえしていて、これからの議論のキモになると思われる記述を見つけたので、まず、その引用から始めることにします。
《夢を見ているとき、われわれはそれが‘後で思い出される’ことを意識していない。それは突如として思い出される。かりにもし夢を見ているときに後で思い出されると思っていたとしても、その思いと思い出しとは結びついていない。
 現実に生きているとき、われわれはすでにそれが‘後で思い出される’ことを知っている。思い出される可能性があらかじめ知られていて、それが思い出される。現在は、過去になったときはじめて過去だとわかるのではなく、現在であるその時すでにして必ず過去になることが知られている。つまり、現実の現在は、可能な現在のひとつにすぎないことが、その現場においてあらかじめ知られているわけだ。現在を可能な現在としての過去や未来の視点から位置づける超越論的構造が体験自体に宿っている。
 文(命題)は否定できるが、絵(像)は否定できない。否定文(命題)は作れるが、否定絵(像)は描けない。これが言語の本質に属することは、『論理哲学論考』の根本洞察だった。だがそれなら、文は時制変換可能だが、絵はそれが不可能だ、も同じだろう。肯定絵を否定絵に変換する操作と同様、現在絵を過去絵に変換する操作もない。が、肯定文を否定文に変換する操作と同様、現在文を過去文に変換する操作は必ず存在する。言語をもつ存在であるわれわれは、端的な現在を可能な現在の一例として把握できるからだ。そしてそれは、まさにカント的な超越論的構成作用に基づいている。
 時制と同じことは、人称についてもいえるだろう。一枚の人物画はそれ以外の情報なしには自画像であるともないとも分からない。絵は人称を描けないからだ。対して、文は文自体の中に人称情報を繰り込むことができる。つまり私は私自身を、つまり現実の私を、可能な「私」の一例として把握し、「私は」と語り出すことができる。そのことによって、ただそのことによってのみ、過去や未来と同様、他我(他者の「私」)もまた必然的に存在することになるわけである。いわゆる独我論が誤りであることの根拠は、結局はそこにしかありえないだろう。
 客観的時制構造と客観的人称構造を構成することによって、今と私をその内部に含んだ(客観的に位置づけた)客観的世界を成立させることができること、人々が「あたりまえ」のように感じているこの事実は、真に驚くべき事件なのである。》(『私・今・そして神』140-141頁)
 
 本論、あるいはこれからの議論とは、言うまでもなく、章名にでてくる「夢」や「パースペクティブ」や「時間」をめぐる考察、それも王朝和歌や貫之歌輪の世界のあり様に即したそれであって、いま抜き書きした文章のどこに、その「キモ」があるのかというと、それは、「文の原理」と「絵の原理」の対比を通じて、カントの超越論的構成作用に拮抗しうる「夢の原理」の存在が鮮やかに示唆されていたこと(精確には、現実世界の原理に拮抗する夢世界の原理の存在可能性とその様相が、現実世界の内部における「文の原理」と「絵の原理」との対比を通じて、鮮やかに炙りだされていたこと)にほかなりません。
 それでは、その「夢の原理」とはいかなるものか。それを一言で表現するならば、「夢の世界の構造・意識のレイヤーは、現実世界の構造・意識のレイヤーよりも次数が一つ少ない」となるでしょうか。あるいは、夢の世界では、否定と肯定、過去・未来と現在、他我と私、可能性と現実性とが地続きになる(精確には、否定と肯定、等々の対立する二項が、いずれも後項のうちに収斂していく)、と言ってもいいでしょう。
(夢の世界とは何か。永井均の議論にそくして、またセヴェーリの議論に重ねあわせながらこれを定義すると、次のようなものになる。すなわちそれは、不可視の次元における、文字以前の言葉とイメージとの「記憶術的関係」にもとづく「歌」の世界であり、可視的次元における「文の原理」と「絵の原理」が(絵日記のように)合成されて出来あがった「物語」の世界とはその存在様相を異にする。)
 以下、節をあらためて、渡辺恒夫氏の議論に依拠しながら、「夢の原理」について少し詳しく見ていくことにします。
 
■夢世界(異界)の原理
 
 これまでの夢の研究には、決定的に欠けていたものがあった。それは、夢は「世界」である、という認識だ。渡辺氏は『夢の現象学・入門』の「プロローグ」にそう書いています。夢の世界は、現実世界と対等の「体験世界」である。しかし、まったく同じというわけではない。夢世界を支配する基本的な体験構造、すなわち夢世界の原理と、現実世界の基本的な体験構造、現実世界の原理とは異なっている。だから、夢は「異界」なのである、と。(12頁)
 著者は、フッサール現象学の方法にのっとって、まず、現実世界との比較のもとで「夢世界の原理」を摘出し、次いで、現実世界における体験構造が夢世界(異界)においてどのように変容しているかを解明していきます。以下、その議論を私なりに整理し、要約してみたいと思います。
(いま、「私なりに」と断ったのは、分類作業の疎漏が念頭にあったからだが、加えて、夢世界の原理と現実世界の原理の違いを、時制、様相、人称、感情という四つの「文法的」フェーズにおける変容として整理した点で、渡辺氏オリジナルの議論を逸脱しているからにほかならない。
 ちなみに、「他者になる夢」の類型に「感情」という語をあてはめたのは、いわゆる他者問題、他者の心の実在を確信させる条件は何かという問題をめぐって、フッサールが当初リップスの感情移入説に拠ったことを踏まえているのだが、以下の抜粋ではこのあたりの事情を割愛している。それに、「感情」を時制や様相や人称とともに文法的カテゴリーに含めて考えようとしている点は、私の勝手な議論である。)
 
1.夢世界の原理(志向的構造・意識の一重化)
 
〇現実世界にあって、「これが現実だ」という確信を与えている意識作用は知覚である。現実という名の体験世界では、知覚の独裁体制のもとに、さまざまな意識作用が整然と構造化されている。
 夢世界の現象学的構造は、これと全く異なる。そこでは、想起も、予期も、反実仮想の想像も、記号作用に基づくフィクションも、即、知覚となって、「これが現実だ」という確信を与えるのである。
 構造的には、現実世界は複雑で夢世界は単純だが、内容的には、知覚以外は「仮定に過ぎない」現実世界よりも夢世界の方がはるかに豊饒である。(33頁)
〇現実世界では、意識は二重の構造を備えている。すなわち、想起・予期・空想などの「思い浮かべる」志向的意識は、「思い浮かべられた当の対象像」と「思い浮かべているに過ぎない」という暗黙の気づき(暗黙裏の覚知)との二重構造を備えている。
 これに対して、夢世界では、この暗黙の気づきが消滅して、意識は一重構造になる。すなわち、過去や未来や架空存在を思い浮かべると、「思い浮かべられた当の対象像」だけになり、それらを「現に知覚している」のと同じことになってしまう。(40-41頁)
 
2.夢世界における体験構造の変容
 
【T】時間の変容(時制)
 
 T−1.過去・未来の現在化
〇夢の世界では、すべてが現在形として起こっている。つまり、現在のできごととして「知覚」される。夢世界の時間的体験構造には、仮定法未来という次元がない。過去形も反事実的条件法も存在しない。夢世界では、過去の回想も未来の予期も、過去や未来への短い時間旅行(タイム・トラベル)になってしまう。(22〜27頁、46頁、55頁)
 
 T−2.夢の中での過去想起─互いにつながり合った夢
〇夢の中で過去に見た別の夢を想起すると、「こんな夢を見た」という夢想起にはならず、現在の夢世界にとっての過去として想起されることがある。今見ている夢との整合性・首尾一貫性を確保するため、過去の夢が「今の状況」にとっての「現実の過去」として位置づけられるのである。
 これは一見、「夢世界の原理」(夢の体験構造の一重性、夢世界に過去形は存在しない)に反するように見える。しかし、そこでは、過去想起といっても過去を「ありありと思い浮かべる」ところまでいかず、再認や知識(意味記憶)の域に留まっている。その結果、現在の夢と過去の夢とがつながり合ったのである。(54〜56頁)
 
【U】虚構の現実化(様相)
 
 U−1.物語の中で生きる夢[*]
〇夢世界では、生の現実とフィクション(非現実)の二重性を生きることはできない。文字や映像のような記号によって呼び起こされた想像は必ず現実化する。(30頁)
 夢の世界では、解釈対象ともなり知覚対象ともなるような二重性を帯びた記号は存在しえない。記号は必ず透明化する。記号が意味する架空のできごとが現実に知覚され、架空の世界を現実に生きることになる。(31頁)
 夢世界では反実仮想は現実化する。物語は現実化し、私はその中で生きることになる。(60頁、63頁)
 
 U−2.自己の交替性を生きる夢、あるいは世界の二重化
〇夢の中で進行するドラマの登場人物である私を、私自身が第三者視点で見ているというタイプの夢がある。
 このような、物語を内側から生きると同時に外側から鑑賞している「自己の二重性」は、一見、夢世界の原理に抵触するように思われるが、そうではない。現実世界の意識に伴う「ドラマの登場人物に過ぎない」という虚構意識が、夢世界では欠落しているからである。
 だから、二重性を生きるといっても、厳密に同時的に二重性を生きているのではなく、いわば(ホンモノの私とドラマの登場人物に扮した私との)交替性を生きている、といった方がよいかもしれない。(70-71頁)
〇あるいは、次のようにいえるかもしれない。すなわち、見られる自分がいて、それを上から見ている自分が別にいるという入れ子細工的構造がはっきりした夢にあっては、覚醒意識に特有の志向的意識の二重構造が消える代わりに、世界が二重化したのだと。(78頁)
 
【V】自己の分裂(人称)
 
 V−1.自分が二人いる夢
〇夢世界の原理(「……に過ぎない」という自覚が消滅し、二重意識が一重になる)を維持する代償ででもあるかのように、世界ではなく自己が二重化=分裂する夢がある。たとえば、過去の私を現在の私が「純粋の視線」となって見下ろしている夢。(75-76頁)
〇これと違って、見る自分と見られる自分が同じ世界にいる純粋な自己分裂の夢がある。また、過去に生きた「誰か」として生きている自分を、映画でも見るように楽しむ夢がある、これらの場合でも、夢世界の原理は貫徹している。「もしも……に自分がいたならば」という反実仮想の現実化と解することができるからである。(78-80頁)
〇自分が二人いる夢には、次の四つの異なるタイプがあった。これらの夢において、なぜ夢見者である私が物語の中に完全に入り込まず、夢見者の視点が残存したのかという疑問が残る。(80-81頁)
 @ ドラマの登場人物である私を、私自身が第三者視点で見ている夢
 A 過去の私を現在の私が「純粋の視線」となって見下ろしている夢
 B 二人の自分(見る自分と見られる自分)が同じ世界で対峙する夢
 C 過去の「誰か」の人生を自分の人生として、その物語を楽しむ夢
 
 V−2.分身の夢、第三者視点の夢
○自分自身の分身に出会うドッペルゲンガー体験は、自己分裂の夢の一種であり、そこから分裂した元の自分自身の視点(夢見者の視点)を消去すると、単なる第三者視点の夢になる。(101頁、105頁)
 視点主体なき純粋の第三者視点の夢の存在は、私たちが日常、自分自身を「他者たちの中の一人の他者」として思い描いていることを示している。(107頁)
〇メルロ=ポンティの「上空飛行的態度」によって、自分自身を含む「他者たち」を上空から眺める架空の視点を設定し、この視点から見た世界こそが「客観的」な世界だと思い込む、その思い込みを夢で現実化・映像化したものが第三者視点の夢である。(111頁)
 
【W】他者への変身(感情)
 
〇「実在する他者になる」ことと「架空の誰かになる」こととは、現象学的にはまったく異なる事態である。(61頁)
 実在他者への変身夢の場合、三重の意識(@その他者になったという想像、Aそれが想像に過ぎないという暗黙の自覚、B私の想像にかかわらずその他者が実在するという暗黙の確信)が一重化する。これに対して、虚構他者への変身夢の場合は、二重意識(@A)が一重化する。(158-159頁)
〇ところが、夢の世界では、実在他者と虚構他者の区別なく他者になることができる。これは、(他者の実在が確信できないまま「世に(隠れ)棲む」独我論者が見出されることで明らかなように)、目の前の他者が実在するという確信が絶対的に強固ではないことを示している。
 だから、(現実世界のみならず)夢世界でも、実在他者と虚構他者とを問わず、変身できてしまうのである。(162-163頁)
 
[*]新宮一成氏は『フロイト全集第5巻』(夢解釈U)の「解題」に、「死んだ人を生きているかのように呈示して見せるということが、夢というものの最も重要な役目の一つであることは疑い得ない」(502頁)と書いている。
《フロイトが最重要視する「無意識の欲望」の具体的な形としては、「生き返りたいという死者の欲望」ないしは「死者が生き返ってほしいが、生き返ってもいつでも好きなときに再びあの世に送り返したい」という生者の側の欲望があるのではないかと考えられる。》(『フロイト全集第5巻』503頁)
 
 渡辺氏の「夢の現象学」は、こうした「無意識の欲望」の概念と相互補完的関係にある。この点で、ヴァレリーの錯綜体の概念から再出発したこの論考群の立ち位置に(半ば)合致している。
《残念ながら夢の現象学は、夢の具体的な動機や細部の内容までも説明はできない。ニュートン物理学が、リンゴが木から落ちることの力学的原理を説明できても、なぜあの枝ではなくこの枝のリンゴが、明日ではなく今日の今に落ちたのかの説明には、果樹栽培の専門家の方が役に立つのと同じことだ。逆にいえば現象学は、夢の具体的な動機や内容を説明するほかの理論、たとえばフロイトやユングの理論と、両立可能なのである。相互補完的関係にあるといってもいい。》(『夢の現象学・入門』60-61頁)
 
 ちなみに、ヴァレリーはフロイトの「誤り」をめぐって、次のように書いている(『カイエ』)。
《フロイト派の誤り──夢の物語に基づいて推論すること。そうした物語は必然的に間違っている──‘言語によって夢を語ろうとすれば、その本質的な性格を必ず変質させることになる’。
 というのも、知覚から表現、そして再び表現から知覚へと移る行為──それが描写が成立する主要な条件なのだが──つまり(P→E)+(E→P)=0という形は夢では不可能だからである──(AB≠BA)。
 夢は、連続的な複分数に類するような(言語の)記述性を見出さないかぎり、描写不可能だろう。》(塚本昌則訳『ヴァレリー集成U』344-345頁)
 
■現実世界の原理
 
 夢は現実世界と対等の「世界」であると渡辺氏は語り、「夢はひとつの現実である」とヴァレリーは『カイエ』に書きつけた。
 というわけで、次章では、ポール・ヴァレリーの「夢の幾何学」を取りあげるのですが、『ヴァレリー集成U』の編訳者・塚本昌則氏はその「解説」に、「ヴァレリーの夢に関する考察の大きな特徴は、夢研究が結局、覚醒時の意識の研究に帰着すると考えている点にある。」(595頁)と書いています。渡辺氏の議論を追いながら、私が気になっていたのも、夢世界の原理の解析を通じて透かし彫りのように炙りだされてくる現実世界の原理の、「カント的な超越論的構成作用」とはニュアンスを異にする、その全貌でした。
 いやむしろ、こう断言したほうがわかりやすいかもしれません。夢世界の原理とは、現実世界の原理が変容して生まれ出てきたものなのではなくて、これとは逆に、夢世界の原理が変容して(四つの文法的カテゴリーの成立と同時に)出来あがったのが現実世界の原理なのだ、と。(あるいは、現実世界の原理から夢世界の原理への変容と、これとは真逆の夢世界の原理から現実世界の原理への変容とが「絶対矛盾的自己同一」的に同時進行しているのだ、と言う方が、事態の真相に迫っているかもしれない。)
 前節の粗い要約中にも、その片鱗が垣間見えてはいたのですが、ここでいくつか落穂拾いとして、もしくは備忘録がわりに拾いだして、以後の議論につないでいきたいと思います。
 
◎「現実世界では、知覚の独裁体制のもとに、さまざまな意識作用が整然と構造化されている。対して夢世界は、独裁体制が崩壊し、多様な意識作用が現実感を競い合う、無政府状態にある。」(『夢の現象学・入門』33頁)
 夢の中では、様々な意識作用が「現実感」(知覚=現在化の座)を競い合っている。実はそのような無政府状態こそが、覚醒時を含めた意識の本然の姿なのであって、覚醒時の意識を規整する「現実世界の原理」は、夢世界における時間的体験構造から(おそらくは文字のはたらきを介して)切り出されてきたのではないだろうか。その意味で、実は現実世界の原理こそが夢世界の原理の変容態だったのではないか。
 
◎自己分裂の夢のうちに残存していた「夢見者の視点(パースペクティヴ)」を消去すると、単なる第三者視点の夢になる。これを一般化すると、「夢世界−夢見者の視点(パースペクティヴ)=現実世界」、あるいは「現実世界+夢見者の視点(パースペクティヴ)=夢世界」のような等式が成り立つ、ということになるだろうか[*]。
 
◎「…現実世界の特徴である首尾一貫性というものも、現実世界に固有のものではないと思われてくる。じっさい、いままで数限りなく空中歩行の夢を見てきて、しかも、そのような夢の中では、他の空中歩行の夢を夢世界の中での現実の過去だと認識してきた私は、ひそかに信じているのだ。なぜか私が、たぶん私だけが、空中歩行できる世界が、どこかに実在することを。」(同56頁)
 それは「並行宇宙のような別の時空に実際に生きていた私自身の記憶」ではないか、という一抹の疑いを残す夢(同64頁)。──夢世界における「超越論的構成作用」の可能性。もしくは、夢という錯綜体。
 
◎「実在他者と虚構の他者との区別なく夢では変身できるということは、もともと、現実世界にあっても、実在他者と虚構の他者に、そんなにリアリティの違いがないということではないか?」(同32頁)
 ここで言われる「リアリティ」とは、永井(均)哲学における「現実性、アクチュアリティ」と「実在性、リアリティ」のいずれの概念にあてはまるものなのだろうか。──「その時何が起きたのか」を語り継ぐ「物語」は「実在性、リアリティ」にかかわり、「その時何を感じたか」を伝える「歌」は「現実性、アクチュアリティ」にかかわる。そんな言い方ができるだろうか。
 
[*]これはずいぶん粗雑な議論なので、いま少し中身を吟味しておく。
 まず、夢の体験世界は「夢世界の原理(体験構造)」と「夢見者のパースペクティヴ」とから出来ている。このうち「夢世界の原理」の方は広狭二段で設えられていて、「志向的意識の一重化」(夢世界ではすべてが「知覚」となる、たとえば過去の想起が現在の現実になる)という狭義の原理(法則)と、その広義における具体の内容、すなわち「現実世界の原理」との差異にもとづく四つの変容体験の様態(時間の変容、虚構の現実化、自己の分裂、他者への変身)とから成っている。そして、この後段部分は「夢見者のパースペクティヴ」と綯い交ぜになっていて、いわば文法と意味がアマルガム状に混合している。
 一方、「夢見者のパースペクティヴ」の方も広狭二段で設えられている。狭義のそれは「夢見者の視点」のようなもの(端的に「夢のパースペクティヴ」と呼ぶ)、広義のそれはその視点からひらかれる「夢世界の変容体験」(時間の変容、虚構の現実化、自己の分裂、他者への変身)で、これは広義の「夢世界の原理」と混合している。したがって夢世界は、@狭義の「夢世界の原理」(法則)とA「夢のパースペクティヴ」(視点)とB広義の「夢世界の原理」(夢のパースペクティヴによってひらかれる夢世界の体験)から構成される。
 同様に、現実世界の方も、@狭義の「現実世界の原理」(法則)とA「現実のパースペクティヴ」(視点)とB広義の「現実世界の原理」(現実のパースペクティヴによってひらかれる現実世界の体験)から構成される。夢世界と現実世界に共通して、@原理=法則はAパースペクティヴ=視点とBこのパースペクティヴによってひらかれる体験内容との総体を表現する形式(@=A+B)なので、結局、夢世界と現実世界の違いは「パースペクティヴ+体験内容」(パースペクティヴ現象の総体)の差異に帰着する。
 ずいぶんトリビアルな議論になってしまった。要は、「夢世界−夢見者のパースペクティヴ=現実世界」のような、夢から覚めて現実に戻るといった単純な等式では不都合であるということだ。
 
(51章に続く)
★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。

Web評論誌「コーラ」37号(2019.04.15)
<哥とクオリア>第50章 夢/パースペクティヴ/時間(その1)(中原紀生)
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