Web評論誌「コーラ」34号/哥とクオリア 第45章 錯綜体/アナロジー/論理(その1)

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Web評論誌「コーラ」
34号(2018/04/15)

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■見えないものを「見る」こと
 
 貫之現象学を織りなす諸相群の基底となるA層。その第一の相は、「錯綜体/アナロジー/論理」の三つの項で構成されます。以下、順次、概観しますが、その前に、いわばウォーミング・アップとして、伊藤亜紗著『目の見えない人は世界をどう見ているのか』の議論を引きます。
 いわく、美学とは「言葉にしにくいものを言葉で解明していこう、という学問」(25頁)である。「言葉にしにくいもの」の第一位は質的なものをとらえる感性のはたらきで、感性的認識は身体のはたらきである。第二位は芸術。芸術作品にも身体は密接にかかわってくるのであって、美学の究極形態は「体について(言葉で分析したものを)体で理解する」(26頁)ということだ。それは「身体一般」などという実在しないものをめぐる抽象論ではない。普遍と個別の中間あたりで体をとらえ、身体一般の普遍性が覆い隠していた「違い」を取り出そうとするものである(28頁)。
 この「新しい身体論」(新しい美学)の最初のリサーチの相手として、著者は「見えない人」に白羽の矢を立てました。以下、私自身の手控えとして、伊藤氏の著書からいくつか、琴線に触れたところを抜粋します。
 
◎見えない人は、どこから空間や物を見るかという「視点」に縛られない。だから、三次元のものを平面化(圧縮)せず、三次元のまま空間の中でとらえている。そこでは表と裏、内と外が等価なものになる。(69頁、77頁)
 
◎器官と能力の結びつきは流動的で、見える人が目を使って読むように、見えない人は「手で読む」。「触る」が「見る」に接近する。(82頁、109頁、113頁)
 
◎ブラインドサーフィンに見られるように、見えない人は対象の運動に合わせて、対話的に自分をコントロールする。自分でないもの(たとえば自然)をうまく「乗りこなす」。(130-131頁、134頁)
 
◎触覚や聴覚や全身を使って「見る」ことができるように、言葉を交わすことによって「他人の目で見る」こともできる。(154頁、187頁)
 著者が「ソーシャル・ビュー」(158頁)と呼ぶ見えない人の美術鑑賞では、見える人と見えない人がいっしょになって、見えているもの(客観的な情報)と見えていないもの(主観的な経験に根ざした意味)を言葉にしながら(164頁)、作品がどう作られているかという知識ではなく、どんな作品であるかという解釈(170頁)を共同作業で探し求めていく(169頁)。頭の中で作品を作り直していく(183頁)。
 
◎見えない人が作り出す意味の究極形態は「ユーモア」である(190頁)。障害を笑うことで緊張(善意のバリア)がほぐれ、お互いの文化的差異を尊重するコミュニケーションの端緒が開かれる(205頁)。
 
 議論のほんの切れ端、断片の抜き書きでしかありませんが、これらを凝っと眺めていると、いままで考えたことのない思考群が、言葉以前のかたちのまま立ち上がってきます。
 
 ……見えない人が見えない世界を「見る」こと、見える人が見えない世界を「見る」こと、見えない人と見える人が言葉を交わして見えないものを「見る」こと、言葉にできないことを「言葉にする」こと、言葉を「読む」こと、意識できないものを「意識する」こと、自分でないものを「制御する」こと、等々が、同じ一つのフィールドに並び立ち、相互に入れ子の関係を切り結んでいく。
 そこに、古典和歌における感覚の論理の変遷にかかわる「見ゆ」(万葉集)と「眺め1」(古今集)と「眺め2」(新古今集)が、白川静の「見る」や井筒俊彦の「読む」とともに折り重なり(第25章参照)、さらにその上に、万葉集における「外観・景観の展望」から、古今・新古今の時代の、虚と実、空と現にあいわたる同時俯瞰的な展望(三次元のものを三次元のままとらえ、表と裏、内と外が地続きとなる特異な視点、パライメージあるいはユーモアにつながるパースペクティヴ[*])へとその意味を変貌させる「みわたし」の視野が交叉し、錯綜していく(第32章参照)。……
 
[*]市川浩著『現代芸術の地平』に収められた「パースペクティヴについて」の冒頭の一文が、当面の使い途がないまま浮遊している。
《人間に不可能な認識がある。それはパースペクティヴをもたない認識、すなわち無観点の認識である。神に不可能な認識がある。それはパースペクティヴによる認識、すなわち観点による認識である。身体をもたない純粋精神としての神は、われわれが認識するような遠近法的な世界を知ることは決してないであろう。
‘ここ’は私の現存する場所である。神にとって‘ここ’はなく(もしあるとすれば神は有限である)、神は‘ここ’にあると同時に‘あそこ’にもある、つまりいたるところに遍在するか、あるいは‘ここ’と‘あそこ’を超越しているかのいずれかでなければならない。奥行きとか遠近は、‘ここ’から‘あそこ’へのへだたりであるから、神にとって奥行きや遠近は存在しない。
‘いま’は私が現存する時である、神にとって‘いま’はなく(もしあるとすれば神は有限である)、神は‘いま’にあると同時に、まだない‘未来’にも、もはやない‘過去’にも遍在するか、あるいはそれらを超越しているかのいずれかでなければならない。時間的なパースペクティヴは、‘いま’から未来への、また‘いま’から過去へのへだたりを前提するから、神にとって時間的なパースペクティヴは存在しない。パースペクティヴは有限者に固有の秩序である。》(11-12頁)
 
■能力としての錯綜体
 
 ところで、私が伊藤氏の著書に興味をもったのは、三浦哲哉著『映画とは何か』の第一章「パンルヴェ的世界」の註に、次のような文章を見つけたからです。「芸術作品の受容経験を、「舞踏」という観点から思考したパンルヴェの同時代人にポール・ヴァレリーがいる。「身体の生理学」と詩論とを結びつけたヴァレリーの思考について本書で触れることはできなかったが、次の文献を通して貴重な示唆を得た。」(63頁)
 私もまた、三浦氏がそこに挙げた文献、伊藤亜紗著『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』を読んで、貴重な示唆と多大な刺激を受けたのでした。「ヴァレリーにとって詩=作品は、読者を「行為」させ、身体的諸機能を開拓するという「大きな目的」を持った「装置」であった。このような装置を組み立てることをめざしたヴァレリーにとって、詩を作る実践は、単なる「言葉をあやつる作業」ではなく、人間の身体の機能の仕方を探求することにつながっていく。」(『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』73頁)
 この、装置としての詩、「生理学としての詩」(248頁)によって発見され、所有される身体の機能、その潜在的能力を言い表わすために、ヴァレリーは「錯綜体」の概念を考案しました(233頁)。伊藤氏によると、錯綜体をめぐってヴァレリーが試みたさまざまな定義のうち、もっとも簡潔で包括的なそれは、「わたしのうちにある潜在的なものの総体」であり、「そのつどの現在において現動化される潜在的なもの」という規定です(233-234頁、269頁)。そしてそれは、当時のフランスの知的風土を席巻したある思想との関係を想起させる、と伊藤氏は指摘します(236頁)。
《その思想とは、いうまでもなくフロイトの精神分析である。ヴァレリー自身も、その近さは意識していた。というより、錯綜体という概念は、最初からフロイトを批判する意図をもって構想されたものであるというほうが正しい。なぜなら、「錯綜体(Implexe)」という命名は、明らかに「コンプレックス(Complexe)」を意識しているからである。普遍的な人間がもつ可能性への関心はヴァレリーが以前から持っていたものだが、それがこの精神分析由来の概念との比較によって明確な形をとったところに、錯綜体という概念の特異性がある。錯綜体は、ヴァレリーが無意識や下意識についての考えを修正する目的で提出した概念なのである。》(『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』237頁)
 伊藤氏はつづけて、「私が「‘錯綜体’」と名付けるものを、人々が「無意識」ないし「下意識」と名付けているものと混同してはならない」(『カイエ』)という言葉を引き、また、デリダの議論に拠りながら、「ヴァレリーはフロイトのように、夢を象徴体系としてはとらえない。あくまでイメージの組み合わせや継起、変換がいかにして起こるかという形式的な問題こそがヴァレリーの関心であった。」(238頁)と書いています。そして、ヴァレリーの対話篇『固定観念──あるいは海辺の二人』の「わたし」が、「「錯綜体」とは「活動」ではありません。まったく正反対です」と語ったことを指摘したうえで、次のように論じます。
《つまりヴァレリーの理解によれば、「無意識」や「下意識」とは、「壁越し」や「地下室」、つまり意識のおよばないところで働いているひとつの「活動」である。それはさまざまな謎、私たちの行為や失調についての謎を説明してくれるものであり、それというのも、無意識や下意識の活動は「隠されたバネ」として、私たちの目に見える活動の背後にあってそれに推進力を与えているからである。》(『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』239頁)
 それでは、無意識や下意識が「活動」であるとして、それとは「正反対」とされる錯綜体はいったい何なのか。『固定観念』の「わたし」は続けて言う。「「錯綜体」とは「能力」です。」
《ヴァレリーにとって、無意識や下意識に関して批判すべきは、現れている活動の‘背後に’、‘より深いところに’、それを操る別の潜在的な活動を設定するという、この二段構えの構造、すなわち「抑圧」の構造である。ヴァレリーにとって活動は、意識のおよばないところと意識のおよぶところに二つあるのではない。潜在的なものは、構造化されることによって、感じたり、反応したり、作ったり、理解したりする私たちの行為のために使用可能になるのである。ヴァレリーが錯綜体を「活動」ではなく「能力」であるというのは、それが行為を「操る」からではなく、構造化されることによって行為のために「使用可能」となるからである。この現動化には、「抑圧」の契機はまったくない。ヴァレリーの錯綜体が、間接的で偽りの仕方でしか知覚されず、そのものとしてその総体を認識できないのは、無意識や下意識のように、それが意識のおよばないところにあるからではない。それはたんに、錯綜体が「ひとりの人間の潜在的な可能性の総体」という超(非)時間的な概念だからである。》(『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』239頁-240頁)
 錯綜体の概念は、「現在ではフランスの国語辞典に載る程度にまで人口に膾炙し、我が国でも市川浩の著作によってヴァレリーの専門家以外にも知られるところとなった」(234頁)。伊藤氏はそのように書き、これに付した註のなかで、『精神としての身体』を挙げています。
 
■拡張された錯綜体の概念
 
 市川氏は、『精神としての身体』第一章の最後の節で、ヴァレリーの錯綜体について、「ソシュール言語学の用語を転用すれば、はたらきとしての身体のあらゆる可能な統合関係 rapport syntagmatique と連合関係 rapport associatif の総体ともいうべきものである」(講談社学術文庫119頁)と書いています。そして、イェルムスレウが「連合」を「系列 paradigmatic」の語でおきかえ、「統合関係」を「顕在的な連立 both-and[あれもこれも]の関係」と、「系列関係」を「潜在的な交替 either-or[あれかこれか]の関係」と説明したことを踏まえて、次のように論じています。
《したがって統合関係として現実化されない系列を考えることはできるが、その背後に系列の潜在していない統合を考えることはできない。統合は、系列が背後にあることによって存在しうるのである。いいかえれば‘ことば’、すなわち統合の連鎖は、系列のメンバーのうちから選択された要素が、一定の構造に排列されることによって成立する。
 比喩的にいえば、われわれの行動は、顕在化した一つの統合であり、〈錯綜体〉は、可能的なもろもろの統合とその背後に潜在するもろもろの系列の総体である。現実的統合体としての身体は、こうした錯綜体としての身体の偶発的な一機会にすぎない。》(講談社学術文庫『精神としての身体』120頁)
 市川氏の議論は、以後、「あらわれ」としての身体、すなわち現実的統合としての身体をめぐるもの(「現象としての身体」)から、これを支える可能的な錯綜体、すなわち「あらわれないもの」としての身体をも組み込んだ「はたらきとしての構造」をめぐるもの(「構造としての身体」)へと移行していきます。そして、そこで論じられる錯綜体の概念、すなわち現実的、潜在的、可能的な「身の統合」としての錯綜体は、ヴァレリーのそれを拡張した市川浩独自のものになっていきます。このことを、『精神としての身体』の九年後に刊行された『〈身〉の構造──身体論を超えて』で確認しておきます。
《したがって錯綜体は可能的なもろもろの統合とその背後に潜在するもろもろの系列の総体ということになります。
 しかし錯綜体は、数学の体系、あるいはライプニッツの体系のような、理論的にはあらかじめ確定された(プレエタブリ)体系ではありません。生きることのなかで、たえず新たな結合が生まれ、気づかれない癒合が起こっているような、たえず生成する星雲状複合体[ネビュラス・コンプレックス]ともいうべきものです。こうしてわれわれが自己のうちにあるとは知らなかったものを自己のうちから引き出したとき、われわれは気づかないまま、われわれは錯綜体に直面しています。逆にいえば、現実的統合は、可能的なものの総体である錯綜体に支えられて初めて成立しますが、現実化することによって錯綜体を抑圧し、無意識化します。
 これが狭義の錯綜体ですが、私は現実的統合と可能的統合、およびそれらの背後に潜在する系列をふくめた一種の遍統合体をも広義の錯綜体と呼びたいと思っています。》(講談社学術文庫『〈身〉の構造』198-199頁)
 ひとつ気になるのは、「現実的統合は、…現実化することによって錯綜体を抑圧し、無意識化します」という文章です。そこに「抑圧」や「無意識」という語が用いられている点で、ヴァレリーが「無意識や下意識と混同してはならない」と規定した錯綜体の概念とうまく整合しないからです。
 この点については、市川氏が、引用文の少し後で、「潜在的な統合可能性から、ある現実的統合が実現するとき、その過程は単なる選択というスタティックな過程ではなく、しばしば抑圧というダイナミックな過程を含んでいる」(207頁)と書いていることを手がかりにして、そもそも市川氏がいう「抑圧」はフロイト流の「抑圧」のメカニズムを指すものではなく、潜在的なものが顕在化する「現働化」(伊藤氏の用語では「現動化」、アクチュアライゼーション)のプロセスがはらむ「力動性」を表現した語である、そして「無意識」とはそのようなプロセスを起動させる「力の場」を指している、などと強弁することによって「問題」を回避することができるかもしれません。
 もちろん、市川氏がヴァレリーとは異なる議論を展開してもかまわないし、そもそも「広義の錯綜体」はヴァレリーオリジナルの概念を拡張したものなのですから、以上の「弁解」は無用なことでしょう。ただ、ヴァレリーが「抑圧」の構造を批判した理由を考察するとき、錯綜体の概念が「詩の生理学」ともいうべき思考と切り離せないこと、そしてヴァレリー自身が「創造」の現場に身をおく詩人であったことを抜きにできないと私は考えていて、だから、(貫之現象学の諸相の起点となる「錯綜体」の概念を入手するためにも)、市川浩オリジナルの錯綜体の概念がこの一線を超えてほしくないのです。
 
 さて、市川氏の議論は、これ以後、機械や制度や言語によって「仲だちされた」錯綜体の概念を経て、表面性(皮膚の限界)を超える身体の拡大へ、すなわち「上へ(スーパー)」「横へ(トランス)」「下へ(インフラ)」と超出する「超身体」へ──これとパラレルなかたちで、意識の拡大=「超意識」化もしくは意識の解放=「解脱」へ──と向かっていきます。そして、『〈身〉の構造』の「原本あとがき」の最後に、「身体は全体を内蔵しない〈断片〉である」と書かれているように、「現象としての身体」「構造(はたらき)としての身体」に次ぐ第三の「生成(運動)としての身体」(断片としての錯綜体)とでも表現すべきテーマに沿った、さらなる拡張がめざされます。
 その後の市川身体論については、別の機会に参照することになるかと思いますが、ここでは、広義の「錯綜体」=「現実的統合と可能的統合、およびそれらの背後に潜在する系列[=連合]をふくめた一種の遍統合体」[*]を、私自身の「伝導体」の概念と関連づけて考えてみたいと思います。その際の手がかりは、市川氏が、錯綜体をソシュールの「統合・連合関係」に関連づけたことにあります。
 
[*]『〈身〉の構造』刊行の翌年に発表された「身体による世界形成」では、次のように書かれている。(この論文は、後に『〈中間者〉の哲学──メタ・フィジックを超えて』に収録され、中村雄二郎編『身体論集成』に再録された。)
《〈身〉の統合のうちには、現にはたらいている顕在的統合のほかにも、現にはたらいてはいないが、すでに先天的にセットされ、あるいは習慣や訓練によってセットされた現実化可能な潜在的統合(たとえば泳げる人にとっての水泳)がある。われわれは潜在的統合がかかわりうる世界をも、比較的明瞭に分節化された素描的世界(泳ぎによってかかわる水中世界)として、潜在的に生きている。
 しかしまだセットされてはいないが、訓練次第でセット可能な統合(泳げない人にとっての水泳)がありうるだろう。それによってわれわれは、もう一つの可能的世界とかかわる。これはより漠然としか〈身分け〉されず、想像によって観念的に点描される可能的世界である。
 さらに不可能な統合と関係不可能な世界がある。これとても、われわれを行動に駆り立てる点では現実的なのである。そのあるもの(たとえば空を飛ぶ、肉眼では見えないものを見る)は、機械を仲だちとする統合によって現実化される。しかしまったく不可能な統合もまた、夢としてわれわれの世界を構成する。ただ夢が〈夢〉という引き出しにしまわれているかぎり、何ほどのこともない。オーストラリアのアポリジニーにとって、夢は現実以上の真の現実であるという。》(『身体論集成』171-172頁)
 市川浩によって拡張された「錯綜体」(身の統合)の概念は、「顕在的(現実的)統合+潜在的統合+可能的統合+不可能な統合(夢)」の四つの項で考えなければいけない。
 このような「〈身〉の多次元の統合」に「多次元の世界の相貌」が相応している(170頁)。それらを、第39章の註で言及した九鬼周造(講義「文學概論」)の議論と重ね合わせて、「現実的世界」=「現実的存在」、「潜在的世界」=「積極的無(現実的存在でないという無)」、「可能的世界」=「可能的存在」、「関係不可能な世界」=「消極的無(可能的存在でもあり得ないという無)」という等式で結ぶことができる。
 いまひとつ、「身体による世界形成」から、さしあたり使い途のない断片を引く。市川氏はそこで、(「重々無尽の縁起」という華厳経の思想につながる語彙を用いるとともに)、身体、世界、理論、芸術作品を錯綜体と呼び、また「虚在」といいかえている。
《世界は重畳無尽の現実的ならびに可能的関係(縁起)からなる錯綜体である。それは存在でもなければ、不在でも、非存在でもなく、そのいずれでもありうる虚在とでもいうべきものである。このような錯綜体に近づく道は、世界の錯綜体に相応する錯綜体としての身体を介し、世界の断片から出発して、それ自身虚在である虚構の相関物を構成することによってである。この〈世界模型〉は、問題にする領域や次元によって、理論とか、モデルとか、作品とか呼ばれる一種の錯綜体を形づくる。それはある種の芸術作品(たとえばパフォーマンス)のように、現実的出来事と現実的関係を含むことがあり(広義の錯綜体)、ある場合は理論のように、可能的出来事と可能的関係のみを含む(狭義の錯綜体)。いずれにしてもそれは世界に全面的に、またスタティックに照応するわけではない。それは世界の錯綜体をあるパースペクティヴから開くキイであり、たえず組み替えられる実践的モデルである。この仮構の錯綜体は、世界を表現すると同時に世界を発見させ、われわれにとっての世界を創造する。仮構の世界模型による限定が、錯綜体としての世界のうちに現実化されうる可能的構造を素描し、現実的にか、想像的にか、機械や記号の仲だちによってか、それをわれわれに経験させるのである。》(『身体論集成』174-175頁)
 
■深層意識の言語風景
 
 丸山圭三郎著『ソシュールの思想』によると、ソシュールは「語の二つの存在の場、もしくは語同士の間の関係の二つの領域」として、顕在的な「連辞関係 rapport syntagmatique」(ある文において saw が see の過去形であり名詞の「のこぎり」でないことは、時間的・空間的線条性をもった文中の前後関係によって決まる)と潜在的な「連合関係 rapport associatif」(ある文において選択された saw と、これと同じ位置を占め得たであろう met,hit,loved などの語群との関係)を示した。イェルムスレウは後者を「範列関係」と言いかえたが、「この新しい術語によって、ソシュールの考えていた「イメージの帯」という豊かな発想が幾分とも損なわれたのは残念なことと言わねばならない」(99頁)。
 また、ヤーコブソン(「言語の二つの面と失語症の二つのタイプ」)は、失語症に選択能力の障害(連合関係がこわれる)と結合能力の障害(連辞関係がこわれる)の両極の型があり、前者では隠喩(メタファー)型ディスクール(類似性によって話題が進行する)が阻害され、後者では換喩(メトニミー)型ディスクール(隣接性によって話題が進行する)が阻害されるとした。
 これより先は、『カオスモスの運動』に収められた「深層意識のメタファーとメトニミー」に拠りますが、意味の類似・隣接概念にもとづくヤーコブソンの連合・連辞関係の解釈や、これを「批判的に乗り超えたはずの」グループμの理論が、いずれも「意味の自明性」という前提から出発していることに「大きな疑義」を抱いた丸山氏は、この論文で、ラカン(シニフィエなきシニフィアンの連鎖)、フロイト(夢の理論)、ソシュール(連合・連辞関係)の再検討を通じて、「精神分析・言語哲学的見地からのメタファー、メトニミー論」(講談社学術文庫133頁)を試みています。以下、その要点を抜きだします。
 
1.深層意識の言語風景をめぐって
 
◎ラカンは、シニフィエなきシニフィアンの連鎖からなる流動的な深層意識の言語風景を語った(146頁、169頁)。
 それは大乗仏教・唯識派が言う「アーラヤ識」の言葉に近く、表層意識の言葉(=ラング)と違って明確な分節性のない「呟き」のようなものであり、「アミーバのように伸び縮みして、境界線の大きさと形を変えながら微妙に移り動く意味エネルギーの力動的ゲシュタルトとして現れてくる」(井筒俊彦『意味の深みへ』)。(153-154頁)
 
◎深層意識の言語風景は、夢に見る光景の流動性と共通する(149頁)。
 フロイトによれば、夢の本質は「夢思想」の「夢内容」への変容=翻訳の作業であり、その主なものは「圧縮」と「置き換え」である(149頁)。ラカンはこの夢の作業こそがメタファーとメトニミーであると考え、「圧縮=メタファー」「置き換え=メトニミー」と解した(150-151頁)。
 
◎また、深層意識の言葉は、狂気の言葉や詩人・言語芸術の言葉と共通している(168頁)。
 詩人の言葉にあって、メタファーは「語の多義化」を、メトニミーは「文の多義化」をひきおこす(158頁)。たとえば小町歌「花の色は」では、「花」は桜のメトニミーもしくはシネクドックであり、女性の美のメタファーである。また、「いたづらに」は「よにふる」「ながめせしまに」「うつりにけりな」を重層的に修飾している。(158-159頁)
《…深層の言葉に働く〈連辞関係〉とは、コード化されていない差異の離合集散であるから、そこでは必ずしも文法的とは限らない〈語の連鎖〉が移動する不断の動き(=置き換え、メトニミー)が見られるのに対し、〈連合関係〉にあっては、一つの語が他の語を排除することなく互いに重なりあって(=圧縮、メタファー)、豊かなイメージがつくり出され、表層の言葉とは異なる多次元性・可逆性・ポリフォニー性を生み出す。
 さらに重要な相違として指摘しておかねばならない点は、意識の深層において次々と置き換えられたり圧縮されたりする語を喚起する媒体としては、語の‘意味’より‘音’の類似性の方が圧倒的に優勢であるということである。
 たとえば、〈桜〉から梅や桃といった花、あるいは桜の咲く頃にとれる小鮎、さらには桜色の海老や貝を連想するイメージの帯は、〈桜〉という語の‘意味’がきっかけとなっている。他方、私たちの連想には、語の‘音’だけがきっかけとなるイメージ群もある。この場合であれば、〈サクラ〉から枕、和倉、神楽、櫓、胡坐などが連想されるたぐいで、これらの語の間には何ら意味の類似性はない。(略)
 また、深層の言葉の特徴である音のイメージを媒介とした連合関係が、異質なものを同一化したり、同一物を複数に分裂させる狂気の言葉にも通底することに注目したい。S・アリエッティによれば、述語の‘音の同一性’によって異なるものを同一視するのが精神分裂病の心的構造の典型であり、この論理は古論理的[パレオロジカル](フォン・ドマールス用語では擬論理的[パラロジカル])だという。》(『カオスモスの運動』161-163頁)
2.シニフィアンの連鎖をめぐって
 
◎ラカンが用いるシニフィアンとシニフィエは、ソシュールの用語とイコールではない(140頁)。それはストア学派=聖アウグスティヌスから借りた概念(シグナーンス=語の音形とシグナートゥム=意味)である(146頁、169頁)。
 
◎表層意識の言葉のあり方から深層意識の言葉の活動へと垂直に下降(188頁)したソシュールは、シニフィアンとシニフィエは不可分離だと言った。言語に先行する観念や事物のカテゴリー(レファラン=指向対象)を排除したからである(170頁)。
《それでは、ソシュールの〈シニフィエ〉がレファランでも、ア・プリオリな観念でもないとしたら何なのか。実はこれこそが小論のテーマであるメタファーとメトニミーという言語芸術的手法が生み出す、これまで存在しなかった新しい意味であり、「空のもつ限りない充溢」なのである。ソシュールが言葉の生成の現場にあっては「シニフィアン、シニフィエは共起的であり不可分離である」と言ったのは、こうした事情をさしていた。
 P・ヴァレリー風に言えば、手段としての‘歩行’がもつような目的がないところに生み出される、‘舞踏’の意味と美しさである。》(『カオスモスの運動』172-173頁)
◎ソシュールは「意味生成の現場」における言葉を、表層意識で使われる「記号 signe」と区別して「セーム se'me」と呼んだ。「〈セーム〉とは私たちの身と意識の深層に動く言葉であり、既成の意味をもたない語や文のことなのだから、ラカンのいう〈シニフィアン〉にほかならない。」(173頁)
《ラカンの〈シニフィアン〉とソシュールの〈セーム〉は、ともに指向対象や共同主観的な‘意味’から切断されている。唯一の相違は、ソシュールが〈セーム〉と共起する不可分離の「シニフィアンとシニフィエ」を重視していた点であろう。つまり、ラカンの〈シニフィアン〉は意味[シニフィエ]をもたない音でしかないが、ソシュールの〈セーム〉は、表層言語の意味とは異なる、新しい意味をになっているのである。この〈意味〉こそが、小論で検討したメタファー=圧縮=連合≠ニ、メトニミー=置き換え=連辞≠ェ生み出すシニフィエであり、いずれも既成の語の‘音’のイメージの類似性を媒介に、一方は凝縮し重なりあい、他方は絶えまなく置き換えられて姿を変える。そこには‘語の充溢’という過剰な意味作用と、‘語の空化’という相反する現象を通して通常の意味作用の破壊が起きる。》(『カオスモスの運動』173-174頁)
 
■錯綜体と伝導体
 
 少し先走って抽出したところもありますが、以上のことを参考にしながら、私自身が考想してきた伝導体の概念についてあらためて考えてみたいと思います。まず手始めに、ソシュールの「連辞(統合)・連合関係」をめぐる議論から、関連するキーワードを拾います[*]。
 
★連辞(統合)=連立(あれもこれも)=結合=メトニミー=置き換え
★連合=交替(あれかこれか)=選択=メタファー=圧縮
 
 私の考えでは、「連辞(統合)」は「空/現」の垂直軸(「空⇒現」の垂直的連立)にかかわり、「連合」は「虚/実」の水平軸(「虚⇔実」の水平的交替)にかかわります。そして、これらの二軸が直交してかたちづくる四つの世界(象限)を、市川浩氏によって拡張された錯綜体の概念(本章第二節とその註を参照)に対応させることができます。
 
★第一世界(現・実の界域)=顕在的(現実的)統合
★第二世界(現・虚の界域)=可能的統合
★第三世界(空・虚の界域)=不可能な統合(夢)
★第四世界(空・実の界域)=潜在的統合
 
 なお、「空・現・虚・実」の四項は、伝導体の四つの頂点となるもの(たとえば、正四面体の四つの頂点のごときもの)ですが、これらを、以前(第7章で)示した伝導体の「試案」にあてはめると、次のようになります。
 
★空(virtual)=逆喩(oxymoron):仮面記号(mask):生産(production)
★現(actual) =隠喩(metaphor):類似記号(icon):洞察(abduction)
     ※
★実(real)  =換喩(metonymy):指標記号(index):帰納(induction)
★虚(imaginal)=提喩(synecdoche):象徴記号(symbol):演繹(deduction)
 
(ここで「現=隠喩:類似記号:洞察」とは、頂点「現」において、「現・虚」の界域と「現・実」の界域を「虚⇔実」の水平的交替の関係性のもとで選択的につなぐレトリック、記号、推論形式が、それぞれ「隠喩、類似記号、洞察」であることを示す。そして「空=逆喩:仮面記号:生産」は、これらと同型のはたらきを頂点「空」においてはたすレトリック、記号、推論形式を示している。
 また「実=換喩:指標記号:帰納」は、頂点「実」において「空・実」の界域と「現・実」の界域を「空⇒現」の垂直的連立の関係性のもとで結合するのが「換喩、指標記号、帰納」であることを示し、「虚=提喩:象徴記号:演繹」は、これらと同型のはたらきを頂点「虚」においてはたすレトリック、記号、推論形式を示す。)
 
 ここまでのところで、三つの論点、というか理論的難点があります。
 その第一は、「連辞=垂直、連合=水平」の対応づけが、以前(第27章で)、「言語フィールドとしての和歌」をとりあげた際に試みたそれと、真逆になっていることです。私はそこで、井筒豊子によって論じられた言語の二つの側面を、次のように括りました。
 
◎シンタックス:「水平」方向の時間軸にそって線的、継起的に機能展開する語の統辞的側面
◎アソシエイション:「垂直」方向の空間軸にそって面的、共時的に展開する意味単位の連鎖連合的側面
 
 この「水平、垂直」の概念は、井筒論文の記述の全体的傾向を汲み、かつ、私自身の理論的関心にそくして導入したものであって、(というより、横書きを書字方向の標準とする暗黙の前提が、私の頭の中にあったからではないかと、今になって思うのですが、それはともかく)、なんとか理屈をつけて、「連辞=垂直、連合=水平」との整合性をはかることはできるかもしれません。(たとえば、先にふれた「伝導体=正四面体(テトラへドロン)」説やこれを拡張した「伝導体=正五面体(ペンタヘドロン)」説をもちだして。つまり「水平、垂直」の次元を高めることによって。)しかし、ここでは無理をせず、前言を撤回して先に進みます。
 難点の第二は、イェルムスレウが連辞(統合)を「あれもこれも」の連立関係と、連合を「あれかこれか」の交替関係と説明したこと(市川浩著『精神としての身体』による)と、丸山圭三郎氏が、「深層の言葉に働く〈連辞関係〉とは、コード化されていない差異の離合集散であるから、そこでは必ずしも文法的とは限らない〈語の連鎖〉が移動する不断の動き(=置き換え、メトニミー)が見られるのに対し、〈連合関係〉にあっては、一つの語が他の語を排除することなく互いに重なりあって(=圧縮、メタファー)、豊かなイメージがつくり出され、表層の言葉とは異なる多次元生・可逆性・ポリフォニー性を生み出す。」(『カオスモスの運動』)と書いていたこととが整合しない点です。とくに「あれかこれか」の交替関係が「圧縮、メタファー」の概念と整合しません。
 このことについては、丸山氏の議論が「深層の言葉に働く」連辞・連合関係をめぐるものであった点に着目すれば、ひとつの整理がつくのではないかと考えます。たとえば、次のような具合に。──表層の言葉、日常の言語活動において連辞関係とは、文を組み立てること、言葉を言い出すことなのであって、そこでは言葉と言葉は前後関係のうちに重なり合って(「あれもこれも」の連立関係)、置き換え可能な並行的意味世界(分岐する物語)を紡ぎだす。また、表層の言葉に働く連合関係とは、言葉を選ぶことそのものなのであって、そこでは現に表現された言葉だけが意味をもつし(「あれかこれか」の交替関係)、使われなかった言葉はそのニュアンス、陰影、パラレルで可能的な意味合い、含み、等々として圧縮的に表現される。
 第三の難点は、これもイェルムスレウが連辞(統合)を「顕在的」、連合を「潜在的」と規定したことと関係するのですが、表層の連辞(統合)・連合関係と深層の統辞(統合)・連合関係、これら四つのものを「錯綜体=伝導体」の図式のうちに、どのように表現すればいいか、というものです。
 このことについて、私は、@先に示した「第一世界(現・実の界域)=顕在的(現実的)統合」から「第四世界(空・実の界域)=潜在的統合」までの四つの項からなる「伝導体=錯綜体」をまるごと入れ子式に「第一世界(現・実の界域)」のうちに挿入し、高次の「表層」次元における「現実的統合」(顕在的とはかぎらない)へと拡張する、次いで、A第二世界(現・虚の界域)、第三世界(空・虚の界域)、第四世界(空・実の界域)のうちに、高次の「深層」次元における「可能的統合」「不可能な統合(夢)」「潜在的統合」をそれぞれ位置づける、といった操作で対応できるのではないかと、現時点では考えています。
 
[*]第16章で、貫之の屏風歌「二つ来ぬ春と思へど影見れば水底にさへ花ぞ散りける」をめぐる神田龍身氏と山田哲平氏の解釈を比較した。その際に論じたことを、「連辞(統合)」(=山田説)と「連合」(=神田説)の区分にそくして再掲する。
 
★「山田説」:並行世界、垂直的な二者並立関係
 
◎貫之は、水面に映る鏡像がたんなる視覚上の写像ではなく、そこから全く別の世界が開いていることを明らかにするため、「水面」に替え、あえて奥行きを感じさせる「水底」という語をもちいた。この歌には現実世界と、これに並行して存在するもう一つの自立世界が出現している。
 
◎「並行世界」における二世界、つまり「現実世界」と「もう一つの自立世界」との関係、もしくは「アクチュアルな世界」と「ヴァーチュアルな世界」との関係は、(貫之歌「桜散る木の下風は寒からで空に知られぬ雪ぞ降りける」の歌に詠まれた二つの雪(空の下に降る雪と桜の木の下に降る雪)が、あたかも、二つのテレビのディスプレイが隣り合わせに置いてあって、それぞれが別のチャンネルを映し出しているごとく、異なる空間、時間において生起するものとして表象されるように)、「垂直(立体)的な二者並立」の関係と命名することができる。
 
★「神田説」:パラレル・ワールド、水平的な二者交換関係
 
◎ここでは、パラレル・ワールドのごとくに、二つないものがもう一つあることの驚きが歌われている。貫之は、屏風絵に描かれた実像(岸辺に散る桜)と鏡像(水面に映じた桜)との間、いいかえると、まこととまことならざるものとの間で戯れている
 
◎一つの平面(屏風絵)のうえで、(貫之歌「雪降れば冬ごもりせる草も木も春に知られぬ花ぞ咲きける」の歌に詠みこまれた二つの景物(雪と花)が、あたかも、一つのテレビのディスプレイで二つの異なったチャンネルが交互に入れ替わるごとく、「あるときは本当の花であり、あるときは雪の花である」といったかたちで表象されるように)、図(figure)と地(ground)が反転して相互に入れ替わる二世界の関係、すなわち「リアルな世界」と「フィクショナル(イマジナリー、ポッシブル)な世界」との関係は、「水平(平面)的な二者交換」の関係と名づけることができる。
 
(35号に続く)
★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。

Web評論誌「コーラ」34号(2018.04.15)
<哥とクオリア>第45章 錯綜体/アナロジー/論理(その1)(中原紀生)
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