Web評論誌「コーラ」32号/哥とクオリア 第43章 中間総括──古今集仮名序をめぐって

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Web評論誌「コーラ」
32号(2017/08/15)

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 貫之歌論とその自然な展開、あるいは乗り越えとしての俊成や定家を含めた王朝和歌の世界の姿態変化を概観する、という当初の目論みを大きく超過して、本来、貫之現象学の道具建てをもってしては叙述できない「広義の」定家論理学の世界(「詠みつつある心」=「生きたるもの」の界域、等々)へと踏み外し、かつ、生成途上の未熟な概念(「本歌取り」=「無意志的想起」がもたらす「生きる歓び」、等々)とともに先走っていきました。
 この、なかば意図的な逸脱から早々に帰還し、態勢を整え、本来の道へと軌道修正をはからねばなりません。その本来の道とは、広狭両義の貫之現象学の世界の実質をめぐり、数々の迂回路に迷いこみながら積み重ねてきた議論の蒐集・整理・整頓(たとえば、前章で試みた「心」の分岐説の再構成や、自問自答に終わった「イマージュ、フィギュール、パライメージ」分類作業の仕上げ)を通じて、貫之現象学の諸相もしくは諸層を並べ立てた目録、概念の部立てのようなものを編集し、その上で、これまで仄めかし、かつ先送りしてきたいくつかの枢要な論点(たとえば、貫之の現象学的歌論における強い私的言語)について、俊成系譜学や定家論理学との関係に留意しながら本格的に考察を加え、もう充分長くなりすぎた論考に一応の決着をつけることに外なりません。
 本章は、いわば、そのための短い中間総括と今後の(後半戦に向けた?)課題と展望を、自省・自戒・自励の意味をこめて書き残そうとするものです。中味は先日、ある会合で「十分間の興味深い話」という趣向のもと、八十人ほどの前でスピーチをする機会があり、その時、個人的に今もっとも興味をもって取り組んでいることとして、王朝和歌の世界について話をしたその内容です。実際に話すことができたのは「前段」の補助線の話題まで、「後段」はその結論だけ駆け足で述べて終了したものに加筆しています。
 
■貫之が語った深いこと
 
 いつの頃からか、そして何がきっかけだったか、もうかれこれ十年以上も前のことなのでかなり曖昧になってきているが、平安朝期の、王朝和歌と呼ばれる華麗な文芸の世界、とりわけ紀貫之、藤原定家といった斯界の大御所たちが書き残した歌論の世界に惹かれつづけてきた。
 この時代の和歌や歌論を通じて培われた美意識、言語感覚、思考の様式は、応仁の乱を越えて日本の精神的伝統の基本、骨格をなすものとして受け継がれ、磨かれ、変容し、展開していったのではないか。[*]
 このことを自分の目と手で確認するため、関連する書物を読み、抜き書きし、考え、書き留めたものを友人が発行しているウェブ評論誌に連載してきた。この作業はまだ完成していない。十年かかって貫之の歌論が極められない。早く定家の世界に浸りたいが、それには後十年くらいかかるかもしれない。
 
 紀貫之の歌論というのは、古今和歌集仮名序のこと。冒頭の四つの文に、そのエッセンスが凝縮されている。
 
 やまとうたは、ひとのこゝろをたねとして、よろづのことの葉とぞなれりける。
 世中にある人、ことわざしげきものなれば、心におもふことを、見るもの、きくものにつけて、いひいだせるなり。
 花になくうぐひす、みづにすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるもの、いづれかうたをよまざりける。
 ちからをもいれずして、あめつちをうごかし、めに見えぬ鬼神をも、あはれとおもはせ、おとこ女のなかをもやはらげ、たけきものゝふのこゝろをも、なぐさむるは哥なり。(日本古典文学大系・第八)
 
 私が十年かけてやってきたこと、そして次の十年を費やして取り組もうとしていることは、結局、この短い文章をどう理解するかということに尽きる。
 正統な解釈は、次のようなものだ。
 仮名序の第一の文は和歌の本質、つまりそもそも和歌とは何かを語っている。「やまとうた」=「和歌」は、「ひとのこゝろ」=「人の内面の実感や思想」を「よろづのことの葉」=「様々な言語表現」であらわしたものである。
 これに対して、仮名序の第二文は和歌が和歌であるための条件を述べている。「世の中」=「人の世、人間社会」にある人は、かかわる「こと」やなすべき「わざ」が煩瑣なので、心の内に思うことが多くたまる。
 しかし、それを言葉で言い出しただけでは和歌にならない。悲しいという感情を言葉でただ「悲しい」と言い表したものは和歌ではない。
 目に見えるもの(散りゆく桜)や音に聞こえるもの(雁が音)、つまり花鳥風月に託して表現するのが和歌である。(美学者・尼ヶ崎彬氏の説にもとづく。)
 私は、仮名序第二文の解釈には説得されるが、第一文に関するそれは納得がいかない。
 何よりも、「ひとのこゝろ」を「人の内面の実感や思想」ととらえること、つまり世の中にある人が心にいだく「思い」と同列にととらえることが不満である。
 貫之はもっと「深いこと」を言っているのではないかと思うからだ。
 ここで言う「深いこと」とは、今から千百年も前に生きた貫之だから、現代人にはもうとうに実感できなくなった古代的なことを言っているに違いない、という趣旨である。
 ここから私の解釈が始まる。解釈というより「深読み」が。その解釈=深読みには、前段と後段の二段階がある。
 
 まず前段。「ひとのこゝろ」が意味しているのは「人の内面の実感、思想」などではない。それは言語以前の事象、文字通り「ことの葉」へと生長する「たね」となるもののことを言っている。
 そのような言語以前の「ひとのこゝろ」が、そのまま「よろづのことの葉」になったのが「やまとうた」なのだ。
 すなわち「やまとうた」は始まりの言語である。それは「こゝろ」と過不足なく一致する「ことの葉」である。(オノマトペの塊かハナモゲラ和歌のような?)
 かくして、仮名序第一文で貫之が語ったのは、一種の言語起源論だったことになる。
 そして、「やまとうた」が生まれて後、始まりの言語が誕生した後に、世の中にある人が日常的に使う言語が発展していった。(「見るもの」=「文字言語」や「きくもの」=「音声言語」といったかたちで?)
 
[*]茶道、生花、和菓子、能楽、俳諧、等々の文化や芸能(武道も?)における美意識や身体感覚、言語感覚、国学や新国学(民俗学)、京都学派(西田幾多郎、和辻哲郎、九鬼周造)、折口信夫、川端康成、小林秀雄、三島由紀夫、埴谷雄高、吉本隆明、等々の思想的営為や哲学的思考の基本形もしくは雛形は、王朝和歌の美学にあると思う。
 たとえば、昨今の国内政治における「忖度」や「揚げ足取り」の隆盛は、見立て、掛詞、本歌取り、等々の和歌的レトリックの堕落した形態ではないかと思えるし、また、『土佐日記』は古代のブログだったという説を敷衍すると、三十一文字の和歌はツイッター、歌日記や歌物語は画像・動画付きのフェイスブック、私家集はインスタグラム、百人一首はキュレーション・サイト、といった対応が考えられる。
 そもそも、和歌ブーム(百人一首ブーム)の火付け役となった『ちはやふる』や『超訳百人一首 うた恋い。』を思うと、和歌はクール・ジャパンの象徴ともいえるマンガ、アニメとの相性がいい。
 
■第一の補助線、さえずり言語起源論
 
 ここで一本、補助線を引く。
 現代科学における言語起源論を援用する。岡ノ谷一夫氏。専門は神経生態学・言語起源論。
 私は、『言葉の誕生を科学する』(小川洋子さんとの共著)を読んで強烈に惹かれ、その後、『さえずり言語起源論――新版 小鳥の歌からヒトの言葉へ』と『「つながり」の進化生物学』を読み、すっかりファンになった。
 
 その岡ノ谷さんによると、言語は歌(鳥のさえずり=求愛歌)から生まれた。
 
◎ジュウシマツの歌に文法があるという発見を通じて、一つひとつは意味をもたない歌要素でも、それらを文法的に配列する行動が進化することがわかった。この事例は、意味のないところにも、文法という形式が進化しうることの存在証明である。(『さえずり言語起源論』107頁)
 
 では、なぜ鳥は(あるいは人は)歌うのか。それは「情動」(エモーション、アフェクト)ゆえである。
 
◎情動から歌が生まれ、そこから言語が生まれる。すると、世界は言語によって切り分けられるようになる。言語を生み出した情動それ自体も、言語によって切り分けられ、より複雑な感情が生まれてくる。こうして人間のコミュニケーションは、言語と感情の2つの要素から成り立つようになった。(『「つながり」の進化生物学』216-217頁)
 
◎言語が他者に向けた歌から生まれたように、他者に伝えたいと思う自分自身の心さえも、他者との相互作用から生まれてくる。心は、コミュニケーションが生み出した、最も重要なものなのではないか。(同254頁)
 
 こうして、「情動」⇒「歌(さえずり)」⇒「言語」⇒「感情」(⇒伝えたいと思う「心」)の定式が得られた。この岡ノ谷説を、貫之の仮名序にあてはめて考えてみる。
 まず、「情動」=「ひとのこゝろ」の等式が成り立つのは見易いと思う。そうだとすると、もはや「ひとのこゝろ」=「人の内面の実感、思想」は成立しない。
 ここで、「ひとのこゝろ」を「人の心」ではなく「一の心」と読み解く説を導入する。「ひとのこゝろ/よろづのことの葉」を「一の心/萬の言の葉」の対句表現と解釈するのである。(国語学者・小松英雄氏による。)
 私はこの解釈に賛同する。そして、「ひとのこゝろ」=「一の心」を、言語以前、人間社会以前のすべての「生きとし生けるもの」に通底する、より根源的な生命世界を言い表したものととらえる。
 それを「カミ(迦美)」と名づけていいと思うし、そのような意味合いをこめて「自然」と呼んでいいと思う。
 仮名序の第三文「花になくうぐひす、みづにすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるもの、いづれかうたをよまざりける。」は、そのような「カミ=自然」の世界の出来事に言及している。
 そこで言われる「うた」が、岡ノ谷さんの「歌(さえずり)」に相当する。そして、そのような「うた」のうち、人が歌う「うた」が、あるいは倭の国の人が口にする「うた」が「やまとうた」である。
 始まりの言語である「やまとうた」は、天地を動かし、超常的神霊の心を動かす力をもつ。
 仮名序第四文に、「ちからをもいれずして、あめつちをうごかし、めに見えぬ鬼神をも、あはれとおもはせ…るは哥なり。」とあるのは、そうしたコトダマの力のことを言っている。
 始まりの言語としての「やまとうた」から、世の中にある人が日常的に使う「ことの葉」の体系が発達する。この言語によって、「ひとのこゝろ」それ自体が切り分けられ、より複雑な「思い」が生まれてくる。
 他者に伝えたいと思う心、言葉にして「いひいだ」したいと思う心が生み出される。そして世の中にある人、たとえば歌人が和歌を詠み出す。
 和歌は、男女の仲を和らげ、武人の心を慰める力、すなわち人の世におけるコトダマの力をもつ。「ちからをもいれずして、…おとこ女のなかをもやはらげ、たけきものゝふのこゝろをも、なぐさむるは哥なり。」
 かくして、「情動」⇒「歌(さえずり)」⇒「言語」⇒「感情」(⇒伝えたいと思う「心」)のさえずり言語起源論と、「ひとのこゝろ」⇒「やまとうた」⇒「ことの葉」⇒(世の中にある人が内面にいだく)「思い」(⇒「いひいだ」す「心」)の貫之歌論が相即する。
 
 ここで一つ「実証」を挿む。
 貫之の『土佐日記』(1月17日)に次の和歌が出てくる。
 
○影見れば波の底なるひさかたの空漕ぎわたるわれぞわびしき
(雲ひとつない明け方の空に、月が残っている。波の静かな海に船を漕ぎ出し、水面に映るその月の影を見ていると、空の高みが海の底へと転じていく。広大な空に浮かんだ船に乗り、ただ私独り漕ぎ渡っていく、この寂寥。)
 
 新宮一成氏によると、空を飛ぶ夢は、言葉を初めて話したときの感覚的な記憶をとどめている。
 
◎「言葉を話すようになる」ということ、夢の言葉でいえば、「空を飛ぶこと」は、自分の外に出ること、自分以外のものになり、自分を外から見る力を手に入れることである。それは生きている自分の外側に出ることなのだから、死者の世界を経由することなのである。もともと、言葉の世界というものは、死んだ人たちの亡骸を集めた平面のようなものである。(『夢分析』)
 
 このことを念頭において、私は「影見れば」の貫之歌を次のように解する。
 貫之がこの歌に詠みこんだのは、始まりの言語(やまとうた)に触れたときの原初の感覚、すなわち「空=言語世界(死者の世界)」に立ち入ったときの寂寥感(浮遊感)だったのではないか。
 牽強附会を重ねると、そこから開けたもう一つの言語世界(ことの葉の世の中)にある「われ」、つまり「海=物の世界(生者の世界)」に浮かぶ船を操っているもう一つの「われ」は、水面に刻まれた軌跡、すなわち仮名文字そのものとなった「われ」なのではないか。[*]
 
 以上が、古今集仮名序の冒頭文をめぐる私の解釈=深読みの前段。ここから、後段の解釈=深読みが始まる。
 しかし、それはまだ完成していないので、ここでは荒削りな(充分な論証も「実証」も経ていない)結論を述べる。結論というか仮説を提示する。
 前段の深読みの結果、仮名序第一文の「やまとうた」の世界と第二文の「和歌」の世界が分断され、「ひとのこゝろ」(カミもしくは自然)と「思い」(世の中にある人が心に思うこと)が分離した。
 前者は、いわば歴史を超えた神話的古代における一回限りの出来事の世界(カミの世)、後者は、現代につながる世の中の「ことわざ」しげき世界(人の世、言語世界)である。
 後段の解釈では、この二つの世界がつながる。
 世の中にある人、たとえば紀貫之という固有名をもつ歌人が、ある状況において具体の和歌を詠むことのうちに、かの「やまとうた」の誕生という(カミの世における)一回限りの出来事が、「いま・ここ」において初めてのこととして反復される。
 世の中を生きる歌人が和歌を詠むことを通して、始まりの言語の誕生という天地開闢の出来事、古事記に言う「あめつちのはじめのとき」の出来事が反復するのである。
 それはなぜか。実は、和歌を詠んだのは貫之ではないからである。
 いやもちろん、「影見れば」の和歌を詠み『土佐日記』のうちに組み入れたのは紀貫之自身である。それは否定しようのない歴史的事実である。
 そうではなくて、貫之が和歌を詠むことと、「ひとのこゝろ」すなわち「カミ=自然」が貫之を通して自己を詠むこととが区別できない。同じことになる。そのような事態が成り立っているのではないかと言いたいのだ。
 
 西田幾多郎の『善の研究』に次のような表現がある。
「雪舟が自然を描いたものでもよし、自然が雪舟を通して自己を描いたものでもよい。元來物と我と區別のあるのではない、客觀世界は自己の反影といひ得る樣に自己は客觀世界の反影である。我が見る世界を離れて我はない」云々。
 これを借用すれば、「貫之が自然を詠んだものでもよし、自然が貫之を通して自己を詠んだものでもよい」。
 『新約聖書』(ガラテヤ)に、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」とある。私見では、ここで言われている事態と「貫之が自然を詠んだものでもよし」云々と言える事態は同じ構造をもっている。
 
[*]さらに牽強附会を重ねると、同じく『土佐日記』(2月9日)に出てくる「千代経たる松にはあれど古の声の寒さはかはらざりけり」の中にも、「古(いにしへ)の声」すなわち始まりの言語(やまとうた)と「千代経たる松」すなわち仮名文字で書かれた和歌との対比が(「わびしさ」につながる「寒さ」の感覚を伴って?)詠みこまれているのではないか。
 ことのついでに、ここで取り上げた二首を含め私が気になっている(気に入っている)貫之歌を拾っておく。
 
○さくら花散りぬる風のなごりには水なき空に波ぞ立ちける
○桜散る木の下風は寒からで空に知られぬ雪ぞ降りける
 
○結ぶ手の雫に濁る山の井の飽かでも人に別れぬるかな
○手に結ぶ水に宿れる月影のあるかなきかの世にこそありけれ
 
○二つ来ぬ春と思へど影見れば水底にさへ花ぞ散りける
○影見れば波の底なるひさかたの空漕ぎわたるわれぞわびしき
 
○人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける
○千代経たる松にはあれど古の声の寒さはかはらざりけり
 
■第二の補助線、神の存在論的証明ほか
 
 ここで二本目の補助線を引く。最後まで引けるかどうか判らないし、いま述べた結論=仮説にどこまで肉薄できるか自信はないが、とにかくやってみる。
 第二の補助線は、哲学者の永井均氏[*1]によると、キリスト教神学を含めた西洋哲学史全体が同じ一つの問題をめぐって展開されてきた、という壮大なパースペクティヴをもったものになる。だから、それは一本ではない。糾える縄の如しである。
 
 まず、神の存在論的証明をめぐる話題から。
 故・木田元氏による解説が分かりやすかったので、かいつまんで紹介する。(『ハイデガー拾い読み』)
 
◎西洋中世のスコラ哲学者たちは、一種の論理ゲームとして、(彼らにとって)疑問の余地のない神の存在を論証しようとした。
 その試みの一つが「存在論的証明」と呼ばれるもので、簡単に言えば次のようになる。
 @神はもっとも完全な存在者である。すなわち、神はすべての肯定的な規定をそなえた存在者である。
 Aところで、「存在する」も一つの肯定的規定であり、当然のことながら神はこの規定をそなえている。
 Bしたがって、神は存在する。
 
◎カントはこの存在論的証明を否定した。
 現に目の前にある現実的な百ターレル銀貨と、ただ頭の中に思い浮かべられただけの可能的な百ターレル銀貨とは全く異なる。「存在する」というのは「レアール(リアル)な述語」ではない、と言ったのである(『純粋理性批判』)。
 
◎このカントのテーゼをめぐって、ハイデガーは次のように論じた。
 @カントの時代にあって、「レアール(リアル)」という形容詞は「実在的」というような意味はもたず、「物の事象内容」を指していた。「レアールな述語」とは「AはBである」(例「犬は四つ足である」)という命題における「Bである」のことであって、そのAが実在するかしないかについては何も言っていない。(現実的な百ターレルも可能的な百ターレルも、その事象内容に関しては全く同じである。)
 Aこれに対して、「Aがある」=「Aが存在する」という命題における「がある」=「存在する」は、主語概念の事象内容を示す「レアールな述語」ではなく、その主語概念に対応する対象と、これに対して判断主体がおこなう認識作用とのあいだの関係を示しているにすぎない。
 Bしたがって、「存在する」をレアールな述語(事象内容を示す述語)に含めて、「ゆえに神は存在する」と結論するのは誤りである(と、カントは言った)。
 
 私は、神の存在論的証明を初めて知ったときの、両手で自分の両足首をつかんで身体を持ち上げるような、あの奇妙な感じ(初めて言葉を話すようになったときの寂寥感=浮遊感のような?)が忘れられない。
 また、カントの批判の本当の意味を知ったときに味わった、古代ギリシャ以来の存在論の全歴史が一気に「である」(本質存在)と「がある」(事実存在)の二つの存在の差異のうちに凝縮されていった、あの眩暈にいまでも時折おそわれる。
 それらの感覚(私は「哲覚」と名づけている)は、もしかすると私が王朝和歌の言語世界に感じつづけてきた、あの独特の感覚に通じているのではないか。
 
 個人的述懐はさておき、ここで、神の存在論的証明をめぐるカント=ハイデガーの議論を踏まえて永井さんが論じている、「アクチュアリティ」と「リアリティ」の対概念を導入する。(『現代哲学ラボ第4号──永井均の無内包の現実性とは?』他)
 
◎「アクチュアリティ」は現実的な百ターレル銀貨(の存在)に、「リアリティ」は現実的か可能的かを問わない百ターレル銀貨(の事象内容)にそれぞれ対応している。
 この区別、すなわちそれが現実にあるかないかという、事象内容にかかわらない「アクチュアル」の問題(事実存在の問題)と、それが何であるかという事象内容的な「リアル」の問題(本質存在の問題)との区別は、人称(私)、時制(今あるいは現在)、様相(可能的か現実的か必然的か)の場合にもあてはまる。
 
◎人称の場合で言うと、この会場の中に一人だけ〈私〉という人がいる。ある意味では誰もが「私」であるけれども、その中に端的な現実の〈私〉つまり「アクチュアル」な〈私〉がいる。
 この現実の〈私〉は、自己意識、来歴の記憶、身体といった事象内容的な問題とは無関係にある。事象内容的な差異をもたない、無内容、無内包の単なるアクチュアリティである。
 
◎「アクチュアル」な〈私〉について言葉で語ることはできない。なぜなら言葉で語るべき事象内容、伝達可能な「リアル」な中味がないのだから。
 「一人だけ他の人と違う人がいる、その目からしか世界が見えない人がいる」と言っても、他の人は「それは私も同じだ」と言うだろう。「アクチュアル」な〈私〉についていくら言葉を尽くして語っても、それは「リアル」な「私」を、すなわち一般的な自己意識のあり方を語ることになってしまうのだ。
 
 自己流の「模書」もしくは「臨書」[*2]はこれくらいにしておこう。
 私は、永井さんが言う「アクチュアル」なものの第四類型を考えている。私、今、世界(もしくは現実)に次ぐ第四の存在。(あるいは、私・今・世界の三つのアクチュアルなものがそこから分岐し出現してくる源。)
 アクチュアルなものは一つ二つと数えることができない。なぜなら、対比すべき他をもたないから。そして、そのような数えることができないものの仲間に「神」がある。永井さん自身が、かつてそう書いていた。
 
◎神が本来になう固有の仕事は、土木工事(世界の物的創造)や福祉事業(心の慰め)ではなく、世界に人間には識別できないが理解はできる変化を与える(例、ロボットに心を与える)仕事だ。(『私・今・そして神──開闢の哲学』49頁)
 
◎もっと高階の神になると、単なる記憶(心理状態)ではなく実在の過去を作ること(ロボットに「はじめからずっと存在していた心」を与えること)ができるし、どの人間が〈私〉であるか、どの時点が〈今〉であるかを決定する能力をもつ。(同57頁,81頁)
 
 ここから先は、まだ見通しが立っていないのだが、私は、この「神」の概念を手がかりに(もしくは「神の愛」に導かれて?)、そこから貫之が言う「ひとのこゝろ」へと遡行し、これを第四のアクチュアルなもの(あるいはアクチュアルなものの源)として位置づけることができないかと考えている。
 それは語り得ないものである。なぜなら、これこれのものとして言葉で語る(他と識別する)内容がないのだから。
 それは他に伝達すべきいかなる内容ももたない。だから、繰り返し何度でも、初めてのこととして立ち上がる(生起する、発生する)。
 それは、仮名序をめぐる前段の解釈=深読みで述べた「情動」のように、言語以前の非歴史的・神話的太古にかつてあり、今はもうないものではない。世の中、人の世において、それは何度でも立ち上がっている(生起している、発生している)。
 私は、それを〈思ひ〉と表記してみたい。〈感情〉(もしくは〈自己−触発〉)と書いてもいいが、ただしそれは「情動」が言語的に分節されて複雑化した「感情」(=「思い」=「人の内面の実感、思想」)とは違う。
 「私が悲しいとき、世界が悲しい」、そのような事態とともにある〈悲しさ〉と言えばいいか。「思いとその思いが実現すること、思いを言葉にすることとその言葉がそこにおいて立ち上がる世界そのものが出現すること(天地開闢)とが区別できない」、そのような〈思ひ〉と言えばいいか。
 人の世に住む歌人は、この言葉では言い表せない「アクチュアル」な〈思ひ〉を、やまとうたに由来する歌詞(うたことば)で表現する。
 言語で表現された和歌は、「リアル」な「心」、つまり伝達可能な内容をもったものになる(ならざるを得ない)。そこに表現されたものは、もはやあの「アクチュアル」な〈思ひ〉ではない。
 しかし、そのような詠歌の全プロセス(和歌の詠み出し、詠誦、詠まれた和歌の鑑賞、受容、評釈判定、再利用=本歌取り、等々)を通して、〈思ひ〉は「今、ここ」で何度でも初めて立ち上がり(生起し、発生し)つづける。やまとうたが「今、ここ」で何度でも初めて詠み出される。
 
 先に述べた後段の結論=仮説への接続を急ぎすぎた。
 強引(牽強附会)で無理があるし、まだ他人の議論に寄りかかりすぎている。もっともっと自分の目と手と口を使って考えないといけない論点が多く残っている[*3]。そもそも、接続できていない[*4]。
 だから、あと十年はかかるかもしれないと言ったのだ。しかし、十年経っても、まだその先がある。
 貫之の時代から三百年後、「こゝろ⇒ことの葉」の貫之歌論が、藤原俊成、定家の親子によって「ことの葉⇒こゝろ」に逆転され、その定家の歌論(美学思想)から、心敬の連歌論や世阿弥の能楽論や利休の佗び茶や芭蕉の俳論が生まれた。
 そして、明治。正岡子規が「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだら集に有之候。」(『再び歌よみに与ふる書』)と激烈な言葉を吐く。
 先は長い。
 
[*1]永井均と短歌(和歌)には浅からぬ関係がある。というか、そういう目で著書やツイッターの記事を読むと、いくつかのつながりが見つかる。
 その一部を紹介すると、『哲学の賑やかな呟き』に収録された「吉本隆明について」という文章。そこで永井さんは「私は文芸理論家(とりわけ詩学者あるいは歌論家)としての吉本氏を最も高く評価している」と書いている。吉本隆明の「美学には、鳥の鳴き声の複雑さの進展にその価値を認めて、そこにこそ言語の起源を求める岡ノ谷一夫の言語理論と通底するものが認められる」。
 私は永井さんのツイッターの記事を読んで、『誰にも分からない短歌入門』(三上春海・鈴木ちはねほか)や『短歌の友人』(穂村弘)といった書物を知った。
 
[*2]永井さんは『私・今・そして神』の「はじめに」で、哲学は特別の種類の天才の傑出した技芸の伝承によってしかその真価を伝えることができない、と書いている。また『なぜ意識は実在しないのか』の「はじめに」では、哲学書は「台本」だと書いている。
 これを読んで私が思うのは、そこで言われる「哲学(書)」は定家の『毎月抄』や世阿弥の『花鏡』のようなものだということ。だから、習うより慣れろ、形より入れ、等々の芸事、武道の要諦が、もちろん書道における「模書」や「臨書」を含めて、そのまま哲学における技芸伝承に通用する。
 
[*3]最大の論点は、永井さんによるリアルなものの三区分、第一次内包=言葉、第二次内包=物、第〇次内包=心(感覚質)のうちの「第〇次内包」とアクチュアルなものすなわち「無内包」との差異、いいかえると「私秘性」と「独在性」の区別だろう。
 私の言う〈思ひ〉もしくは〈感情〉は、「無内包」の現実性(アクチュアリティ)なのか実在性(リアリティ)の範疇に属するもの(第〇次内包)なのか。それとも、かの高階の神のように両者(アクチュアルなものとリアルなもに)をともに作ったり消したりすることができるものなのか。
 私にはまだこれらのことを論じる準備ができていない。『存在と時間──哲学探求1』や連載が始まったばかりの『存在と意味──哲学探究2』を台本もしくは手本にして、自らの目と手と口を使って実演してみなければならない。
 
[*4]接続するためには、ウィトゲンシュタイン由来の「私的言語」と「言語ゲーム」をめぐる議論を導入する必要があるだろう。
 私の見立てでは「やまとうた」は私的言語で、その成立可能性もしくは否定の上に和歌をめぐる言語ゲームが成り立つ。そして私の構想は、貫之の歌論を(私・今・世界・思ひの四つのアクチュアルなものをめぐる、あるいは私・今・世界の三つのアクチュアルなものとそれらの源にある「思ひ」をめぐる)「強い私的言語」に、定家の歌論をこれに拮抗する(アクチュアルなものを産み出す?)「強い言語ゲーム」にそれぞれ関連づけて論じる、というものなのだが、これらのことについても、今ここで論じるだけの体力がない。
(33号に続く)
★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。

Web評論誌「コーラ」32号(2017.08.15)
<哥とクオリア>第43章 中間総括──古今集仮名序をめぐって(中原紀生)
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