■モネを超える試み、言葉のかたちをとる想念、レミニッサンス
前章の末尾、筆が走って思わず書きつけた「生きる歓び」の語に触発されて、定家の歌の世界における「歓び」に関連する話題を二つとりあげ、定家をめぐる予備的考察をしめくくりたいと思います。一つは、プルーストの無意志的想起と定家の本歌取りに共通する、認識と言語にかかわる「特別な歓び」や「力強い歓び」について。二つ目の話題は、世阿弥を典型とする日本の中世美論における「感」、すなわち「かたち」を通じて「もの」の「いのち」にふれた時に得られる「深遠な歓喜」をめぐって。
第一の話題。芳川泰久著『謎とき『失われた時を求めて』』に書かれていたこと。
1.汽車の窓に展開される光景─隠喩的な錯視、にじみと濁り
『花咲く乙女たちのかげにU』に、バルベックへ向かう列車の窓にバラ色の朝の光景と夜の村の光景が共存し、明け方の光の変化に応じて刻々とその姿を変えてゆくさまを描いたくだりがある。芳川氏は、この場面を「まるで、時間によって変化する光の姿をとらえた印象派の絵のようではないか」(80頁)と感じ、時刻の違いによる光の量と質の描き分けを別々の絵という平面で試みたモネの連作「ルーアン大聖堂」を連想する(84頁)。[*]
そして、それが的外れでないことの根拠として、ラスキン著『アミアンの聖書』の仏訳に付した序文で翻訳者・プルースト自身が、「そうした時刻[光の変化によって聖堂の見え方にちがいが生じる朝、午後、夕刻──引用者註]をクロード・モネは傑出した画布に定着しているが、その画布には、人間たちが作ったあの物体、それでも自然が自らのうちに投げ込んだカテドラルという物体の生命が見いだされる」としたためていること(85-86頁)を示したうえで、芳川氏は、「私」が左右の車窓からの光景に引き裂かれたままではいず、「間欠的で対立する断片をつなぎ合わせ、新しい画布に替えようとし、そうしてひとつの全体の眺めと一枚の連続した絵[タブロー]を手に入れようとつとめた」と書かれていることに注目し(87頁)、そのような「時間の兆す平面」(88頁)をめざしたところに、モネの試みを超える視点が芽生えていると指摘する(92頁)。
《異なる時間を一枚の平面に定着すること。プルーストの念頭にあったのは、どうやら日本の絵巻物のように、時間の違いを季節の移ろいとして空間に並置することではないようだ。たしかに、その試みは絵画ではきわめてむつかしいだろう。しかし、…プルーストはこれを[海を陸と、陸を海と錯視させる絵を描いた──引用者註]エルスチールという画家に『失われた時を求めて』のなかで行なわせている。そしてそのことを、さらに言葉という表現領域で考える。二つのイメージで「一枚の連続した絵[タブロー]」をつくろうとするのだ。この二つのイメージを一つに収めることができる表現方法とは、隠喩にほかならない。その効果とは、二つのイメージの重合によるにじみであって、これが絵画にとってむつかしいのは、色のにじみが濁りを招き寄せるからだ。その意味でも、この試みは言葉という領域に向いているのかもしれない。》(『謎とき『失われた時を求めて』』87頁)
プルーストにとっての隠喩は、「異なるものどうしを等価性によって結ぶこと」であって、車窓から見た二つの異なる光景のあいだを往還する「私」の動きこそ、異なるものをつなぎとめる隠喩の媒介的な働きそのものと言える(101頁)。そして、そのような「隠喩的な錯視」という方法が、「いま見ているもののうちに、過去という異なる時間に見たものを重ねて想起するための方法」ともなり得る(101-102頁)。芳川氏はそのように指摘し、「マルタンヴィルの鐘楼体験」へと筆を進める。
2.マルタンヴィルの鐘楼体験─言葉の発生、エクスタシス
それは、ゲルマントの方への散歩の途中、知り合いの医師の馬車に拾われ自宅に送ってもらったときの出来事で、動く馬車の窓から見るマルタンヴィルの二つの鐘楼と、それよりもっと遠くの高原に立っているヴィユヴィックの鐘楼とがまるですぐ近くにあるように並んで見えたとき、「とつぜん、私はほかのどんな歓びとも似ても似つかないあの特別な歓びを感じた」(120頁)というもの。
「やがて、鐘楼の描く線と夕日を浴びたその表面が、まるで一種の表皮でもあるみたいに裂け、そのなかに隠れていたものがほんの少しだけ姿を現し、自分にとって一瞬前には存在しなかったひとつの想念を私は抱き、それは頭のなかで言葉のかたちをとった。そして、いましがた鐘楼を見て感じた快楽がひどく増大したため、一種の恍惚にとらえられ、私にはもうほかのことは考えられなくなった。」(『スワン家の方へT』)
ここで「私」が語っている、夕日を浴びた鐘楼の表面の下に隠れていた「何か」をめぐって、芳川氏は次のように述べる。
《『失われた時を求めて』を最後まで知っている読者なら、そこから不意に、プルースト的に言えば、無意志的想起によって姿を現すことになるのはまさに〈時間〉という真実であり、具体的には過去の時間、つまり記憶だと答えることができるだろう。しかし、このときの年少の「私」には、過去の時間も記憶の貯蔵も充分にはない。その〈時間〉に代わって姿を現すのが、「言葉」にほかならない。「言葉の発生」と呼ばれる事態だが、それが『失われた時を求めて』においては、真実の開示の代わりをしている、ということだ。》(『謎とき『失われた時を求めて』』123-124頁)
もう一つ、芳川氏がここで注目するのが、「私」をとらえる「恍惚」(「エクスタシス」=「自分の外に立つこと、忘我、脱自」)という語だ。
《…鐘楼の表面が裂けることで、「何か」が開示される代わりに発生した言葉にも、この「自分の外に立つこと」、「脱自」の構造があるだろうと推測可能になる。結果から言うと、それはプルーストが文体のなかでも重要視した隠喩の構造に体現されている。「喩えられるもの」(たとえば「闇」)と「喩えるもの」(たとえば「巨大な夜の鳥」)の関係でいえば、隠喩とは、「喩えられるもの」が「喩えるもの」という異なるイメージを介して「自らの外に立つこと」にほかならないからだ。(略)
後年の「私」は偶然性に支配されない時間を「純粋状態の時間」と呼ぶ。「私」はそうしながら、隠喩が自らのなかで異なるもの(とはいえ、そこには共通の特質がある)どうしを結び合わせることで、錯視として両者に共通な本質を引き出すのだが、そのとき、その二つのものを「時間の偶然性」から救うことになる、と考えるにいたる。ここで、隠喩の問題に時間の問題がつながるのだ。そしてこの異なるものを、微差を刻む二つの感覚と考えるとき、その二つの感覚を同じものと見てとることで惹起されるのが、まさにプルーストのいう無意志的想起[レミニッサンス]にほかならない。つまりこの無意志的想起[レミニッサンス]じたい、われわれが日常的にさらされている時間の偶然性の外に立つことを意味してもいるのである。そのように、時間の偶然性の外にあるのが「純粋状態の時間」にほかならない。》(『謎とき『失われた時を求めて』』125-126頁)
こうして、隠喩的な錯視と無意志的想起とがつながった。
3.プチット・マドレーヌと不揃いな敷石─レミニッサンス、異なる時間の共在
ある冬の日の朝、母に勧められた紅茶にひと切れのマドレーヌ菓子を浸して食べたとたん「うっとりとするような歓び」(176頁)がひろがり、かつて日曜の朝ごとレオニ叔母が紅茶か菩提樹のお茶に浸してマドレーヌを出してくれた、コンブレーの日々の記憶がありありと姿をあらわす「プチット・マドレーヌ」体験。午後の集い(マチネー)に出かけたゲルマント大公邸の中庭の二つの不揃いな敷石につまずいた瞬間に「至福感」(199頁)が襲い、かつて体験したヴェネツィアのサン・マルコ寺院の洗礼堂にある二つの不揃いなタイルを喚起する「不揃いな敷石」体験。(ちくま文庫『失われた時を求めて10』315-316頁参照)
この無意志的想起の挿話のうち敷石の方がマドレーヌのエピソードよりも「古い」ことを、「カルネ」と呼ばれる創作手帖の記述にもとづき明らかにした先行研究(204-206頁)を踏まえて、芳川氏は、プルーストが無意志的想起の媒介として石という物質を選んだ理由を、その、時間の経過とともに大勢の人の足裏に踏みしめられ摩滅した「すり減った石の平面」(260頁)のうちに見いだしている。それはまた、「列車の車窓から見た時間の異なるように見える二つの光景から「一枚の連続した絵」をつくるにはどうしたらよいのか」という問いへの答えでもあった。
《それは、現行の平面として現在を刻むと同時に、すり減ったことでそこに同時に過去の時間をも刻む。すり減った石の不在の面とは、だから常に現在と過去を共在させている平面ではないか。すり減った石の表面には、常に二つの時間が刻まれている。これが問いへの答えである。もちろん、すり減った部分は見えない。しかしその見えない表面[フロント]こそが、現在の面に共有されているのである。》(『謎とき『失われた時を求めて』』261頁)
芳川氏は、母とともにサン・マルコ洗礼堂に入った「私」が、キリストの受洗図を見ながら大理石のモザイクの床を踏みしめていたとき、二つの感覚が同時に働いていることに注目する。「敷石の摩滅による時間の経過に足裏で触れながら、視線を介して、時間の経過した絵を見ている…。この共通感覚によって、石の摩滅に時を感じたであろう触覚が絵を見る視覚にまで伝播したかのようなページが、『見いだされた時』にはある。」(『謎とき『失われた時を求めて』』261-262頁)
芳川氏がここで引用するのは、次のような文章だ。「神秘を愛する人びとは、事物が、それを眺めた人たちの視線の何かを保存していると思いたがり、記念建造物や絵画は、数世紀にわたる多くの賛美者の愛と熱視が織りあげた感覚のヴェールにまさに覆われて、こちらに姿を見せるのだと信じたがる。」(『見いだされた時』)
本書の最後で、芳川氏は、プルーストのこの摩滅した石の表面(一枚のタブロー)を、ベルクソンが『物質と記憶』に記した「物質の過去はまさにその現在のなかで与えられているのだ」、「過去は物質によって演じられ、精神によってイマージュ化されねばならない」といった言葉と引き合わせる。
《物質によって「演じられ」た過去とは、精神によって「イマージュ化され」た過去とは、まさに『失われた時を求めて』の「私」が事物や対象のうちに、ここには何かがある、何かが隠されている、と直観した真実の開示と呼んだものにほかならない。結局は、そうした真実は、そこに潜んでいた過去や記憶として無意志的想起によってとりだされることになる。その意味で言えば、「演じられ」た過去を宿す物質のひとつが石なのだ。すり減ったその表面とは、「演じられ」た過去であり、「イマージュ化され」た精神にほかならない。》(『謎とき『失われた時を求めて』』269-270頁)
[*]山田哲平氏の「日本、そのもう一つの──貫之の象徴的オリエンテイション」(『語りのポリティクス』所収)に、モネと貫之の関係について説き及んだ文章があることは、第16章でとりあげた。この山田氏の議論に触発されて、たとえば、モネ=貫之、セザンヌ=俊成、ピカソ=定家、といった対比、あるいはフランス映画思想の系譜でいえば、バザン=貫之、ブレッソン=俊成、ドゥルーズ=定家、といった対比が考えられないか、などと夢想をたくましくしている。
それはそれとして、原田マハ著『ジヴェルニーの食卓』にでてきたモネの述懐が印象深いものだったので、この場を利用して、書きうつしておく。「時間によって風景は変わるんだ。いま見ているこの景色だけがすべてじゃないんだ。ああ、なんでそんな単純なことに気づかなかったんだろう。なんでそんな当たり前のことが……こんなに、こんなにうれしいんだろう」
いまひとつ、ガストン・バシュラール『夢みる権利』に収められた「睡蓮あるいは夏の夜明けの驚異」から。「世界は見られることを望んでいる。見るための眼が存在する以前には、水の眼、森閑とした水の巨きな眼が、花々の開くのをみつめていた。そして、世界が自分の美を最初に意識したのは──誰が異論をはさみえようか──この水に映った影においてなのだ。同じように、クロード・モネが睡蓮を眺めて以来、イール・ド・フランスの睡蓮は前よりも美しく、大きくなった。」(渋沢孝輔訳、ちくま学芸文庫18-19頁)
■無意志的想起と本歌取り(その一)
本稿で、私は、無意志的想起と本歌取りを同じ土俵(平面)のうえに並べて論じようとしています。しかし、本歌取りとは和歌におけるいわば「意志的」なテクニックであって、この点で、「無意志的」想起のメカニスムとは決定的に異なるものです。異なるものを共在させる力の場が「体」である。あるいは、異なる事象を同一の概念で括るのが「虚体」としての言語のはたらきである。と、そう言ってはみても、ではその「力」や「はたらき」の実態はなにかを語らなければ、それはただの呟きでしかないでしょう。
ここで、「作者の心」(生身の歌人=詠歌主体の実感や趣向)と「歌の心」(歌に詠まれた心=意味)と「詠みつつある心」(詠歌時においてのみ生じている虚構の、しかし動的な生命をもった心)の区別をもちだして、本歌取りという「意志的」テクニックを講じるのは「作者の心」だが、実は、その詠歌プロセスにおいて生起する「詠みつつある心」のうちにこそ「無意志的」想起が生じるのである、などと言うことで、この矛盾を解消することができるのではないか。私はそう考えています。
詠まれつつある作品とともに立ち現われる「詠みつつある心」が、その本来の住処とする場所は、歌の道の深き伝統に根ざした詞の世界、すなわち累々たる和歌(歌の心)の集蔵庫(「和歌そのもの」あるいは「歌の心そのもの」の界域といってもいい)ではないかと思います。このヴァーチュアルな次元から「いま、ここ」のアクチュアルな次元にむけて生起した「詠みつつある心」にとって、古歌(本歌)は一種の手続き記憶のようなもので、意識して思い出そう(言語化しよう)とすると、そのかたちが壊れてしまうでしょう。具体の歌人、たとえば定家の詠歌行為によって物質的現象として、つまり声と文字にかたどられた作品(「個々の和歌」あるいは「個々の歌の心」)として現象界に出現したとき、そこに、和歌のレトリックとしての本歌取り(詠歌主体=作者の心にとって)が、同時に無意志的想起としての巧まざる本歌取り(詠みつつある心にとって)になっている、といった「無意志的想起の意志的創出としての本歌取り」とでも表現すべき事態が成り立っているのではないかということです。
(貫之現象学の世界において「貫之が自然を詠んだものでもよし、自然が貫之を通して自己を詠んだものでもよい」といえる事態がなりたっているとすれば、定家論理学の世界では、本歌取りの技法を駆使して定家が和歌を詠むことと、それとは逆に言語の方が、定家のうちに宿っているもう一つの「作者の心」である「詠みつつある心」(イマジナルな「作者の心」と言っていいかもしれない)を起動させ、無意志的想起のメカニスムを介して古歌(本歌)を顕現させることとが同義であるような事態がなりたっている。つまり「定家が言語(個々の和歌作品)を詠んだものでもよし、言語(和歌作品の集蔵体)が定家を通して自己を(個別の和歌作品として)詠んだものでもよい」とえる事態。
ちなみに、「詠みつつある心」の概念の提唱者である尼ヶ崎彬氏がいうように、定家の「有心」とはこの「詠みつつある心」にほかならない。そして、私は「有心」=「詠みつつある心」の究極の姿を能の「シテ」のうちに見ることができるのではないかと考えている。すなわち、本歌取りの窮極的現象形態としての能。)
それでは、そもそも「本歌取り」とはどのような営みなのか。
渡部泰明氏は『和歌とは何か』のなかで、本歌取りに対して、「ある特定の古歌の表現をふまえたことを読者に明示し、なおかつ新しさが感じ取られるように歌を詠むこと」(102頁)という定義を与えています。ここには、古歌(本歌)の明示すなわち「古歌をあえて顕在化させる」(107)ことと、古歌(本歌)と新しさの共存という、本歌取りをなりたたせる二つの重要な要件が含まれています。前者は本歌取りをたんなる盗作から区別すると同時に、「本歌と新作歌の相互関係を育てていく」(107頁)という作業への読者の参加を可能にします。後者について渡部氏は、本歌取りした歌の新しさは、「本歌が新作歌に必然性や根拠を与えている、という事実」(103頁)ゆえに成り立っていると指摘しています。そして、本歌自体も、優れた新作歌によって新しい魅力を見せ始めることがあると(125頁)。
《…本歌取りでは、従来それほど目立たなかった古歌を、鮮やかに蘇らせることすらある。これはおそらく、本歌と本歌取り作品との関係が、古歌から新作歌へという一方的なものではなく、お互いに影響を与え合う、双方向的なものだからなのだろう。優れた本歌取りの営みによってはじめて、本歌は新たに発見され、再生するのである。
なぜ再生するのかといえば、本歌が新作歌に必然性や根拠を与える、と述べた本歌取りの特徴がそこに関わってくる。本歌取り歌を成り立たせる始原の位置に、本歌が立つからである。本歌があるからこそ新作歌が存在する。本歌は、新作歌に存在意義を供給するものとして、価値の源泉となる。いわば新作歌にとっての、憧れの対象となるのである。本歌取りとは、古歌への憧憬を形にしたものだということができよう。》(『和歌とは何か』125-126頁)
本歌取りをめぐる渡部氏の議論で興味深いのは、次の二点です。
その一は、本歌取りは「美学的」であるより「行為的」なものであるという指摘。本歌取りは、歌人たちの集まる特定の場に興趣をもたらすという、儀礼的空間における「現場的な感覚」を基本にしているということです。それは、「本歌取りの歌は、本歌を暗唱し朗誦する声を重ねて響かせるよう、要求している。」(108頁)と指摘されていることと裏腹な関係にあります。
二点目については、渡部氏の文章を丸ごと引きます。
《古代社会から中世社会へと移行する過程で、個人の、個人による表現とでもいうべき、歌の言葉の個人性が表面化してきた。類型表現を大事にすることも、伝統を重んじることも、つきつめれば表現を集団のものと見なすことだから、この時代に和歌表現が大きな矛盾をはらむようになったといえる。和歌にとって危機的状況である。本歌取りは、個性を生かしつつ古い物を尊重するという、危機脱出を賭けて編み出された方法であった。》(『和歌とは何か』127頁)
私は、先の引用文中の「本歌があるからこそ新作歌が存在する」という渡部氏の指摘を、字義通りに受けとるべきだと考えています。そしてそのことの意味は、そこでいわれる「古歌、本歌」を「集団の表現、類型表現」と、「新作歌、本歌取り作品」を「個人の、個人による表現」と読み換えることで明確になると考えています。これらのことについては、本歌取りと無意志的想起との関係につき、いま少し立ち入って考察したあとで、あらためて触れることにします。
ここで、定家詠から二つ、本歌取りの実例を見ておきたいと思います。
最初の歌は、かの「駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ」で、丸谷才一は、「一体この騎[の]り手は雪の夕べなのに何のため旅してゐるのか」(453頁)と問いをたて、それは「誰かのところへ逢ひに行つたのだ」、「その相手はおそらく女だつたのではないか」(454頁)と推理しています。そして、その證拠のひとつとして差し出しているのが、定家にとって「駒とめて」の本歌は、万葉集の歌というよりむしろ源氏物語の引歌であったこと、具体的には、第五十帖「東屋」で、浮舟と契る直前に薫が「さののわたりに家もあらなくに」と口誦んでいる「事実」です。[*]
《それはほとんど民謡めいてゐる何かだらう。それゆゑにこそ、『新勅撰集』に撰入する際、読人知らずとするのがふさはしかつたのだし、また、それゆゑにこそ、三輪が埼や佐野のわたりはそれぞれ実は山吹の崎や宇治のわたりと重なり合つてゐて、その二重写しのイメージを無理に分けようとするのは愚しいことなのだ。とすれば、その本歌取りである定家の詠において、佐野のわたりは当然、宇治に近いことにならう。すくなくとも、さういふ局面を備へてゐる地名だといふことは否みがたいはずである。定家の一首が描いてゐるのは、そのやうな土地としての佐野を、しかし車に乗つてではなく馬で、供を連れてではなくだた一人、雨の宵ではなく雪の夕べ、浮舟に逢ひにゆく薫であつた。ぢかに描いてゐると述べては言ひすぎになるならば、さういふ面影をしのんでゐると言ひ直さうか。とすれば、一首が単に雪の旅の苦しさを詠んだだけの辛い歌ではなく、「おもしろき」歌、艶麗な歌であるのは、むしろ必然的な結果であつた。この三十一音には恋ごころが仕掛けられてゐる。》(『新々百人一首・上巻』461-462頁)
薫がつぶやく古歌が「民謡」めいているという指摘は、本歌取りの技法が編み出された歴史的背景に、新古今集の時代、集団から個人へ、類型から個性へと和歌表現における個人性が表面化してきたことがあるという渡部氏の指摘と響きあっています。そして、本歌が口誦まれるのが虚構世界のなかの虚構のペルソナにおいてであったことは、定家における本歌取りの意味合いに濃い陰影をあたえています。
[*]丸谷才一が挙げるもう一つの論拠は、新古今集における「駒とめて」の歌の配列である。一首一首を孤立した形で鑑賞するのではなく、「勅撰集といふアンソロジーを一つづきの絵巻物として受取る態度」で、前後に配置された歌との関係性をつぶさに見ていくと、(このあたりの手並みは、文学的名人藝というべきもので、あらすじを述べるだけではその味わいも深みも消えてしまうと思うので、具体的な論証の過程は省く)、「ただ雪にけぶるだけにすぎない佐野のわたりがこんなにも艶麗なのは、実は馬上にあつて悩む男ごころ、すくなくとも恋に極めて近い思ひのせいなのである」という結論に達する(456頁)。
ここで、この場を借りて、「本歌取り」をめぐる大岡信著『うたげと孤心 大和歌篇』の議論を引く。加茂神社に詣でた際、今様「春の初めの梅の花、喜び開けて実なるとか、お前の池なる薄氷、心解けたる只今かな」の第三句を、眼前のせせらぎの名を呼びこみ謡い変えたことを後白河院が「折に合ひてめでたかりき」とたたえた、とある「梁塵秘抄口伝集」巻十の記述を紹介したうえで、大岡氏は次のように論じている。
《「お前の池なる薄氷」を「前の流のみかは水」、あるいは「みたらし川の薄氷」と変えたところで、大した変りはないではないか、というのは、文字づらの解だけにとらわれた現代人の一方的批評にすぎない。今様歌謡を神前あるいは禁裏で謡うとき、謡い手はそれを聖なるものに奉納しているのであり、たとえ古歌であろうとも、それをたった今作られた、この場に即したものとして奉納することこそ、賀の心を尽すしわざにほかならなかったのである。だから、歌の文句を変更することには、重要な意義があった。そこには、歌を土地の霊に捧げた古代的心性の生き生きした伝統があったのだ。後白河院が「折に合ふ」ものをことさら愛し賞讃した理由はそこにあった。「芸能」の本質に根ざした行為が、ここにはあったのである。
この問題をもっと押しひろげていけば、私たちは、「本歌取り」ということが日本の和歌をはじめとする文芸一般、芸能一般においてきわめて重要である理由について、ある大切な示唆を得ることができるだろう。》(同時代ライブラリー『うたげと孤心 大和歌篇』275-276頁)
■無意志的想起と本歌取り(その二)
尼ヶ崎彬氏は、『花鳥の使』で、「(少なくとも『近代秀歌』や『詠歌大概』を著した時期の)定家にとって、〈あるべき歌〉の典型は、「本歌取り」に見出されていたと考えられるだろう」と書き、その実例として、「さむしろに衣かたしき今宵もや我をまつらん宇治の橋姫」を本歌とする定家詠「さむしろや待つ夜の秋の風ふけて月をかたしく宇治の橋姫」をとりあげ、次のように論じています(134頁)。
いわく、一見して、語の統辞関係が解体されている。「風・ふけて」や「月を・かたしく」の語の結合は意味を成さない。語の一つ一つが裸で放り出され、その語が含意(暗示)しうるイメージや意味が文脈による限定を免れて浮遊している。「さむしろ」=寒い・狭筵、「風ふけて」=夜更けて・風吹きてのように、一つの語が同時に多くの意義や面影を帯びている。しかも、その語彙の断片は十分に本歌を示唆し、その風情を想起させる。文の表面上の非構成にも拘らず、本歌を知る享受者の意識の中では、意味統合は完全に再現されている。そして喚起された本歌の風情が、文脈として新歌の各語の機能を限定してゆく。
《こうして我々は、言葉の約束事を破壊したような定家の歌に、本歌以上の精密なイメージが宿されているのを見る。しかし、この効果は、本歌が作者と享受者の共有財産としてあればこそ可能となったものである。本歌という文脈がなければ、解体されて多義性の中を漂う語句は、決してその意味を顕わさないだろう。
「月をかたしく」一句をとっても、本歌を知らぬ者には、片敷くものが「衣」であると分らない。逆に、和歌の言語的伝統に明るい者なら、袖の露に月が映るという類型的趣向を想い出し、橋姫の片敷く衣に落ちる涙の露に月影の宿るさまを想像することができるであろう。》(『花鳥の使』135-136頁)
語の統辞関係が解体され、意味とイメージの多義性の中を漂う作品(本歌取り歌)に、実は「精密なイメージ」が宿っていることを、和歌の言語的伝統や類型的趣向に明るい読み手に感得させる「文脈」(もしくは作者と享受者の「共有財産」)としての本歌。ここには、読者参加によって「本歌と新作歌の相互関係を育てていく」ことが本歌取りの要諦であり、その際、新作歌は本歌によってその必然性や根拠を与えられるのだという渡部氏の定義に通じる考え方があります。本歌があるからこそ(本歌が読者の意識のうちに顕在化しているからこそ)新作歌の新しさが、そしてそもそも新作歌が一個の言語的表現物として存在する根拠がある、というわけです。
しかし、尼ヶ崎氏の議論には、渡部氏の定義に合致しないところがあります。なによりも、「さむしろや」の定家詠は、本歌を明示し顕在化させはしても、本歌に敬意を払い、その新たな魅力を発見し、「いま、ここ」に再生させている、などとは到底言えません。むしろ、本歌を破壊し、その心と詞を手前勝手に再生利用しているようにさえ感じられます。だから、ここには、「本歌取りの歌は、本歌を暗唱し朗誦する声を重ねて響かせるよう、要求している。」といった関係性はなりたっていません。
定家の本歌取り歌は、もはや暗唱・朗誦の対象ではない。というより、「定家にとって、〈あるべき歌〉の典型は、「本歌取り」に見出されていた」というのですから、そもそも定家の歌は、広狭いずれの意味においても、本来「本歌取り歌」なのであり、したがって、すべての定家詠はおよそ暗唱・朗誦の対象にはなりえない、ということになるでしょう。尼ヶ崎氏は、本歌取りの実例の検討をふまえて、定家における和歌のあり方を、次のように総括しています。
《俊成において、和歌は、現実を詩的構えによって切り取り、ある型にあてはめるものであった。詠歌は、その〈場〉を一挙に詩的現象へと変貌させ、世界は詩的言語によって意味づけられた。言換えれば、「花」も「紅葉」も和歌によってその「色」と「香」を与えられたのである。
定家においては、しかし、現実をどう切りとるかはもはや問題ではない。現実がどうありうるかでさえ、実は問題ではない。彼が見ているのは、現実の外に立つ詩的世界であって、そこから〈型〉として定着している言葉や風情を引用し、交錯させるのである。誰も、ある現実の場に対し、定家の歌を朗詠して、その〈場〉を一定の〈型〉へと凝結させることはできない。定家が構成した〈価値体験の型〉は、現実にはありえないような構造をもっているからだ。いや、おそらくそれは、もう〈型〉でさえないのだろう。》(『花鳥の使』138-139頁)
それでは、俊成歌論を継いだはずの定家に、一体何が起こったのか。尼ヶ崎氏の議論は、ここから、「〈型〉として把えることはできないが〈何となく〉あるような「心」」(142頁)を詠む「幽玄体」へ、そして、「もはや有限な「風情」の型ではなく、さまざまの型と詞とが渦巻く、言語化以前の心的状態」(148頁)へ、すなわち「ただ詠作時に、いわば虚像として生じる「作者」(詩的主観)」の「心」へ、もしくは、「和歌の産出過程においてのみ生じている、虚構の、しかし動的な生命をもって「深くなや」むことのできる「心」」=「詠みつつある心」、つまり「有心」へと進んでいきます。(これらのことについては、これまでから断続的に散見してきたし、また、次節で別の視点から確認することになると思うので、これ以上は立ち入らず)、ここでは、当面の関心事に限定して、これに関連する一節を抜き書きしておきます。
《従来の、現実を〈型〉に凝結させるような詩的言語を一次仮構と呼ぶとすれば、定家の、現実と直接関らず、一次仮構を素材として組立てられた言葉のあり方を、二次仮構と呼んでもいいだろう。それは素材である一次仮構に精通しない者には理解不能な言語(達磨歌)である。またそれは、現実の場を決して凝結させることができないために、折に触れて詠歌されることも殆どない歌である(「彼の卿が秀歌とて人の口にある哥多くもなし」『後鳥羽院御口伝』)。
しかし、二次仮構の歌は、〈言葉の型〉こそその自由さの故に美しいものとなっても、〈価値体験の型〉は極めて曖昧なものとなるだろう。というより、それは〈含み〉(非顕在的な価値体験の型)の錯綜にとどまって、〈型〉にまで凝結しないかもしれない。この時、定家の歌は、詩的伝統の〈含み〉を精一杯に孕んだ「姿」こそ美事だが「心」が見当らないという批判をうけることは、当然に考えられる。》(『花鳥の使』141頁)
最後のセンテンスで言われる「心」は、和歌をいわば「あちら側」においたときに見えてくる「歌に詠まれた心」のことです。これに対して、「詠みつつある心」は和歌の「こちら側」を本来の住処とするものです。そこは、尼ヶ崎氏が「現実の外に立つ詩的世界」と呼んだ場所でもあり、「含み」すなわち非顕現的現象の世界であり、イマジナルなものの跋扈する「虚なる」界域でもあるでしょう。
さて、以上のことを踏まえて、前々節で引いた芳川氏の議論を、本歌取りに関連づけながら再度とりあげたいと思います。その大要は、およそ次のようなものでした。
第一に、無意志的想起は「異なる光景、異なる時間、異なる感覚(クオリア)」を同じ一つの平面上に、等価なものとして共在させる隠喩的構造をもっていたこと。そして、そうした喩的関係を媒介する「はたらき」をするのが、「生きた」身体の動静であること。
第二に、無意志的想起によって姿をあらわす「過去、記憶」の原初形態は、いずれ実体験によってその実質が充填されることになる「言葉のかたち」をとったものであること。(大森荘蔵がいうように、そもそも想起に伴うのは(アリストテレスの「共通感覚」にまでにさかのぼる)「言語覚」であって、想起されるのは言語的制作物(物語り)にほかならないのだとすれば、すなわち、「古物になった現在経験の再経験ではなくして過去それ自体を直接に経験するのが想起である。何かを見たり聞いたりするのではなく、何かを見た、何かが聞えたという過去形の直接的な初体験なのである」(ちくま学芸文庫『思考と論理』39頁)としたら、「実体験によってその実質が充填される」などといった限定は不要だろう。)そして、無意志的想起がもたらす「歓び」とは「脱自」による「恍惚、エクスタシー」にほかならないこと。
第三に、無意志的想起がもたらす「歓び」は、「物質的恍惚」とも呼ぶべき、言語以前の共感覚的な身体(=時間と知覚を宿した物質)の体験であること。
本歌取りもこれと同様に、古歌(本歌)と新作歌(本歌取り歌)、集団的類型歌と個人詠(吉本隆明が定家十体を分類する際に使った言葉を借用して、「俗謡」と「純粋詩」と言い換えてもいい)とを、歌人たちの身体的行為(唱和)によって、「いま、ここ」にある同じ一つの場に共在させる営みです。そして、本歌取りによって顕在化する本歌は、実生活における体験とは必ずしも連動しない詞の産物にほかなりません。
ここで留意すべきことは、渡部氏が、本歌は新作歌に必然性や根拠、存在意義、価値を与える源泉であると指摘していたことです。「本歌取り歌を成り立たせる始原の位置に、本歌が立つ」、あるいは「本歌があるからこそ新作歌が存在する」というわけですが、私は、この渡部氏の指摘を、次のように解しています。
すなわち、始原の位置に立つ本歌とは、個々の和歌作品のことではなく、かつて(集団的であれ、個人的であれ)詠まれ、歌われたすべての和歌の集蔵庫(和歌そのものが住処とする「和歌アラヤ識」などと呼んでいいかもしれない場所)のことである。そして、すべての具体の和歌作品は、このヴァーチュアルな集蔵庫から立ち現われたイマジナルな「詠みつつある心」の「はたらき」によって、つまり集蔵庫に対するアクセス(検索と引用)によって、「いま、ここ」のアクチュアルな場に現象させられた本歌取り歌にほかならない。だから、「本歌があるからこそ新作歌が存在する」。(和歌の集蔵庫は、私の言葉でいえば「生きたるもの」すなわち「体」であり、そして、この「体」から生起しその「はたらき」そのものであるところの「詠みつつある心」が「象」(もしくは「肖」)である。)
これは、前節の冒頭にあらかじめ書いておいたことの焼き直しにすぎません。ここで新たにつけ加えることがあるとすれば、「和歌そのもの」と「個々の和歌」との「あいだ」、あるいは両者の「差異」のうちにこそ、本歌取りがもたらす「歓び」があるのではないかという論点です。芳川氏は、「隠喩とは、「喩えられるもの」が「喩えるもの」という異なるイメージを介して「自らの外に立つこと」にほかならない」と書いていましたが、ここで言われる「隠喩」を「本歌取り」におきかえて考えれば、本歌取りの「歓び」とは、「和歌そのもの」から「個々の和歌」が(個別化された具体の本歌と本歌取り歌として)切りだされることにともなう、存在様態と存在次元の転換の「歓び」であると言うことができるでしょう[*]。自らの外に立つこと、すなわち「脱自、エクスタシー」。それは、ランガージュ(言語活動、言葉の発生)そのものがもたらす「歓び」に通じている、と言っていいかもしれません。
ところで、本歌取りの「歓び」は誰にたいして、あるいは何にたいしてもたらされるのかというと、それは、本歌と本歌取り歌に詠まれた二つの「心」を、(そして、作者と読者の二つの「心」を)、ともに自らの「心」としてリアルに体験する「体」、すなわち歌の詠み手の「身体」にほかなりません。そして、この場合における「歌の詠み手」とは、「詠みつつある心」を自らの「心」とするイマジナルな詠歌主体のことです。
芳川氏による無意志的想起の第三の特徴は、それがもたらす「歓び、エクスタシー」の物質性、身体性(共感覚性)にありました。和歌の本歌取りは詞の世界の話なので、この点で、無意志的想起との関係が切れそうですが、しかし、「詠みつつある心」という概念のとらえ方しだいで、ふたたび両者の密接な関係を構築することはできます。私は、「詠みつつある心」の物質化された極限の姿を、能舞台のうえに顕現する「ペルソナ」のうちに見ることができると考えているのですが、たとえば、そのような思考回路を経て、無意志的想起と本歌取りとが共在する場を構想することは、けっして荒唐無稽な試みではないと思います。
[*]「和歌そのもの」と「個々の和歌」との「あいだ、差異」を、「存在そのもの」と「存在者」とのあいだの「存在論的差異」(ハイデガー)や、「生命そのもの」と「個々の生きもの」とのあいだの「生命論的差異」(木村敏)にならって、「歌論的差異」と呼んでみてもいい。
木村敏著『からだ・こころ・生命』に、「「生命そのもの」と「個々の生きもの」とのあいだの、いいかえればアクチュアリティとリアリティのあいだの、一種の「存在論的差異」」(75頁)という表現がでてくる。これを参照するならば、「歌論的差異」における「和歌そのもの」は「アクチュアリティ」の次元に、「個々の和歌」は「リアリティ」の次元に所在することになる。
私の理解では、「和歌そのもの」は本来、ヴァーチュアルな次元(井筒俊彦の意識の構造モデルでいうB領域)に在り、イマジナルな次元(同じくM領域)で稼働する「詠みつつある心」の「はたらき」によって、アクチュアルな「いま、ここ」の次元へと(A領域を突き破って)マグマ状に噴き上げる。そしてその冷却とともに、個別化された具体の本歌および本歌取り歌という「個々の和歌」作品が、リアルな次元(音声と筆痕によって現象する物質的な次元)に晶出する。木村氏が言っていることを「歌論的差異」にあてはめると、そのようなことになるのではないか。
ちなみに、定家詠「さむしろや待つ夜の秋の風ふけて月をかたしく宇治の橋姫」は、語の統辞関係の解体のうちにイマジナルな次元の痕跡をとどめ、かつ、個別化された具体の本歌との分離を果たしきれないままA領域で結晶化した、いわば「本歌取りしつつある本歌取り歌」であった、と言うことができる。
■有心・無心・虚心[*]
第二の話題。新川哲雄著『「生きたるもの」の思想──日本の美論とその基調』は、俊成・定家を起点とする中世美論の基調をなしていた思想を、作品を生みだす側の思考を手がかりに考察した著書で、いま、その概要、議論の骨格を抽出してみると、次のようなものになります。
1.「余情・優・艶・たけ高し・とほ白し・幽玄・さび・冷え・枯れ」等々、作品を観賞・享受・批判する側が得た「感」をいい表わす様々な言葉がある。それぞれの「感」の微妙な相違が、それらの言葉の違いに託されている。
しかし、作品を生みだす側の人々が考えていたものは、実は、その相違をこえたある一つの基調であった。それは、様々な「感」がもつ情調・味わいの基底に共通している「ものの見方」のことである。(4-5頁)
その基調は、「幽玄・冷え」といった美の顕われの諸相の基底をなすだけでなく、詩歌論(歌論、連歌論、俳論)や能楽論、茶湯論、立花論、書論、画論といった様々な美の領域における思想的基盤ともなっていた。(272-273頁)
2.それでは、中世美論の基調をなす思想とはなにか。
能楽論からとりだされたそれは、演者の舞姿という「かたち」を通じて「もの」の「いのち」にふれた時に得られる歓喜を、最も深遠な「感」とするというものだった。
人はそれによって己と世界が確かに「ある」ことを体感し、己が「生きてある」ことの確かさを手にする。その時得られる言葉にし得ない「感」を、能において最も深い基層に据えられた美の相としてとらえることができる。(313頁)
3.多くの歌人や能の演者、茶人・花人・書家・画人にとっての最大の課題は、いかにすれば彼らが生み出す「かたち」の上に、「生きたる」という「感」を人に与える何かを顕わし得るかということであった。
「感」を表わすのではなく、その何か、つまり「いのち」を「かたち」の上に顕わすこと。
この問に対する彼らの答は、「物」の「いのち」を「加持」することであり、それが達成できれば自然に「かたち」の上に「いのち」が「出で来る」ことに「なる」と考えたのである。(315-316頁)
4.では、いかにして「いのち」を「加持」するか。
無心・無我・無私となって「物」を「観」ずること、「心」をすましてその「境」に入りふすことによって。(316-318頁)
その時、天の岩戸が開き、再び光がさす。人は瞬時にして一切の「物」の確かさに触れ、己が生きてあることの確かさを手にする。その確かさに触れた歓喜・いのちの輝きが「花」である。
岩戸を開けたのは演者でもなく、観客でもない。演者が「する」のではなく、自然に「なる」こととして「花」を語るしかないのである。(30頁)
心の琴線にふれた書物を「縮約」する際、いつも襲われる空しさがあります。それは、これではこの本にこめられた豊穣な可能性が掬えていない、少なくとも、この書物に没頭していたとき、私の脳髄に立ち現われていた思考の躍動が定着されていない、(たとえば、私がもっとも刺激を受けたのは、「見所[けんじょ]」という語に「一応観客と考えてよいが、本来観客席を意味する言葉で、観客を個々の存在ではなく、一つの雰囲気を生み出す〈場〉として包括的とらえる考え方を示す」(18頁)と括弧書きで註がつけられた個所なのだが、このことがうまく織りこめていない)、そしてなによりも、その書物を読み耽っていたときの、あの幸福な「いのち」の輝きのごとき瞬間がすっぽりぬけおちている、といった不満なのです。
が、しかし、それはいたって個人的な「感」をめぐることでしかないので、これ以上の駄弁は早々にきりあげることにして、ここでは、以上の要約のうちに、『「生きたるもの」の思想』の論述の三つの柱建てがくっきりと顕われていることを指摘しておきたいと思います。それは、A.美の諸相とその基調、B.作品を生みだす側の思考、C.「する」から「なる」へ、と括ることができます。以下、これらの論点にそくして、定家歌論をめぐる新川氏の議論を、超訳ならぬ「超約」のかたちで摘出します。
A.美の諸相とその基調──「もとの心」とは何か
中世美論は俊成によって開始される。俊成歌論の眼目は、『古来風体抄』で「歌といふものなからましかば、色をも香をも知る人もなく、何をかはもとの心ともすべき」と説いた、その「もとの心」にある。
それでは、中世美論の基調に通じる「もとの心」とは何か。
古今序がいうように、そして俊成も認めているように、人の心を種として詞になったものが歌である。ここで、人が「心におもふこと」が詞になったと考えると、歌によって知られる「もとの心」とは、人がある物にふれて心に想ったことになるだろう。だが、俊成はそうは考えなかった。
たしかに、人の心は詞の種である。しかし、それは、詞になったものが「心におもふこと」であることを意味しない。俊成が人の心を種として詞になると考えたのは、たとえば花・紅葉であり、あるいは『古来風体抄』下巻冒頭に挙げられた四季様々の景物である。つまり、人の心に映ずる天地自然の景気が自ずと詞に「なった」もの(すなわち「物(よろづ)⇒詞(ことのは)」)が歌であると俊成は考えていた。(210-211頁)
歌は「もとの心」を顕わしたものだという考え方の背後に、俊成は天台止観にいう空仮中の三諦円融の理をみてとった。すなわち、「もとの心」とは「真如実相、即空即仮即中なる〈物〉の根源的あり方」(220頁)であり、「人=認識するもの」と「物=認識されるもの」とがともに「もとの心」としてある「即非」の関係に入ることになる。(219頁)
新川氏は、このような「もとの心」(すなわち「美の諸相」(花・紅葉・その他の景物)の「基調」をなすもの)が示している内容を能楽論の検討の際に用いた言葉を使って「もの」の「いのち」と呼び、俊成から定家への継承、「景気のそひたる」体から「有心体」への展開を考える。(211頁、220頁)
B.作品を生み出す側の思考──「余情妖艶体」から「有心体」へ
鴨長明はその歌論書『無名抄』で、俊成が理想とした歌体を「詮はたゞ詞に現れぬ余情、姿にみえぬ景気なるべし」と解説し、「幽玄の体」と称した。(190-192頁)
定家はそれを「余情妖艶体」として継承し(「むかし貫之、歌の心たくみに、たけをよびがたく、ことばつよくすがたおもしろき様をこのみて、余情妖艶の体をよまず。」(『近代秀歌』))、さらにこれを「歌の本意と存ずる姿」すなわち「有心体」へと展開していった(『毎月抄』)。(195頁、205頁)
長明の「幽玄体」(=「余情妖艶体」)と定家の「有心体」は同一内容を指示する語といってよい。一方(幽玄体)は批評の立場からする歌の姿の諸相をいう言葉で、他方(有心体)は詠吟の立場からする歌の本質をいう言葉である。
この「幽玄体=余情妖艶体」から「有心体」への呼称の展開は、世阿弥の「花」から「無心の感」への展開、すなわち「感」を享受する側の論から「感」を生む側の論への深まりと対応している。(206-207頁)
定家は、歌を詠吟する立場から、俊成から継承したものを自覚的にとらえ直していった。だからこそ、俊成や長明が理想の歌を詠む方法を自得にまかせて説き得なかったのに対し、「よろしき歌」すなわち「心のふかき」歌を詠むための方法を「よくよく心をすまして、その一境に入りふしてこそ」(『毎月抄』)と説き得たのである。(207頁)
C.「する」から「なる」へ──出で来る有心、成り入る無心
天台教学において「境」とは「観不思議境として実相の理を観ずること」を意味する(228頁)。つまり、心を澄まして「その一境に入りふす」とは、詠歌対象(現象・事物)に入り切ること、世阿弥の言葉にすれば「(その物に)成り入りぬる」(『風姿花伝』)ことである。
そうした「なる」に至るためには、「無心」であること、つまり「する」努力の果てに自然に何物でもないものとして「ある」ことに「なる」ことが要請される。それが、「心をすまして」ということである。(202-203頁)
心をすますことすなわち「無心」というあり方は、対象の根源的なあり方である「いのち」と一如なるものである。(205頁)
定家の「有心体」とは、歌の「姿」という「かたち」を通じて「もの」の「いのち」(=「もとの心」)を顕現し得た歌、それによって人に深い「感」を与え得る歌のことであり、その歌を詠むために「心をすます」ことが詠者に要請された。(207頁。227頁)
有心体(としての秀逸体)の歌を詠むためには、詠者はその「心」を深く尽くし、「よくよく詠吟して、こしらへて出すべき」であるが、その結果「詠吟事きはま」った果てに「案性すみわたれる」と、自ら「にはかにかたはらよりやすやす」と歌を「詠みいだしたる」ことが〈出で来る〉のであって、それゆえ「わざと(作為的に)よまんとすべからず」。稽古さえ積めば「自然に詠みいださるる事にて候」。これが定家の教えた詠作態度である。(226-227頁)
だが、「一境に入りふす」ことがいかにして「姿」の上に立ち顕われるのか。
つまり、観じている者と観ぜられている境との不二一如、即非のあり様という言語道断の事態がいかにして「詞」に「なる」のか。その時人の「心」はそのことにどう関わるのか。これが定家の論に残された問題であった。(228-229頁)
新川氏は、京極為兼、花山院長親、正徹の歌論、心敬の連歌論のうちに俊成定家の和歌観が継承されていることを確認した上で、この問題に関して次のように述べる。(259頁)
人は音楽を聴くことによって「詞」を用いず「感」を得、何かを悟り知る。それと同様に、人は「境」を観じて「心」に「もとの心」を加持する(その時その場に立ち顕われている「もの」の姿・かたちをそのままに観る人の心に映す(221頁))ことによって、それが何であるかを「詞」でなく悟り知る。
とすれば、「詞」にし得ないものをそれでもなお「詞」にしようと「する」努力の果てに「にはかにかたはらよりやすやす」と「詞」が浮びあがってくる時、「もとの心」を悟り知っている「心」はその「詞」がそれに相応しいものであることを瞬時に知る。
こうして「もとの心」(「もの」の「いのち」)は「境」を観ずることによって「心」に加持された結果、自然に「詞」に「なる」。(269-270頁、317-318頁)
このような中世美論の基調をなす思想は、近世においても継承されている。
蕉門の俳論『三冊子』に「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」、「物の見へたる光」を「時」として「見とめ聞きとむる」云々とあるのは、定家の「一境に入りふして」と同じく「物」を観じてその「いのち」を加持することを言っている。(333-334頁)
[*]定家の有心、世阿弥の無心、芭蕉の虚心。定家の有心が世阿弥の無心に到り、芭蕉の虚心に極まる。そして「広義の」定家論理学が完成する。私はそんな構図を考えている。
風雅・風狂の心、すなわち虚心。「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休の茶における、其貫道する物は一なり、と芭蕉は言っているが、彼の言う風雅とは、空観だと考えてもよろしいでしょう。西行が、虚空の如くなる心において、様々の風情を色どる、と言った処を、芭蕉は、虚に居て実をおこなう、と言ったと考えても差支えあるまい。」(小林秀雄「私の人生観」、文春文庫『考えるヒント3』182頁)
■象工場の哀しみ、短い総括として
新川氏の著作の抜粋作業をしながら、私は、定家の「有心」(イマジナルな「詠みつつある心」)が世阿弥の「無心」から出で来て、能役者(シテ)の「ペルソナ」(仮面)のうちに顕現したとき、つまり死者が生者の世界に蘇ったとき、無意志的想起(=本歌取り)のメカニスムを介して、いわば日本文化の伝統が「いま、ここ」で更新されるのではないか、といったことを考えていました。
日本文化の伝統が更新される、とは大仰な物言いですが、それが更新されるのは、ほかでもないこの私においてであって、それも、すでに出来あがった「日本文化の伝統」なるものが私に理解され、受容されるといったことではなくて、まったく新しく、あるいは天地開闢以来「はじめて」そこに姿をあらわしたかのごとく更新される。起源なき反復、オリジナルなきコピーとしての「日本文化の伝統」(=「風雅」または「虚」の世界)。
まだうまく言葉にできませんが、たとえば、「和歌の集蔵庫」に収められた詞の塊を考えてみると、そこから個々の和歌作品をそれとして切りだすことはできないのですが、しかし、このイマジナルな「ペルソナ」=「詠みつつある心」にとっては、その一つ一つを識別することなどたやすいことで、のみならず、個々の和歌作品のうちに詞でもって造形された虚なる感覚(クオリア)を直接知覚することさえできる。それはあたかも、私が〈私〉であることを神ならば識別でき、のみならず神はほかならぬ〈私〉自身である、といった事態と等価である。そんなたとえ話におきかえることができるかもしれません。
九鬼周造(『「いき」の構造』結論)の口吻をまねて、「概念的契機の集合としての〈ペルソナ〉と、「意味体験」としての〈ペルソナ〉との間には、越えることの出来ない間隙がある。換言すれば、〈ペルソナ〉の論理的言表の潜勢性と現勢性との間には截然たる区別がある」などと言ってみてもいいでしょうが、言葉を重ねれば重ねるほど表現したい事象の輪郭があいまいになっていくので、もうこのあたりでやめておきます。
ひとつだけ述べておくと、「ペルソナ」は、私の語彙では「象」(もしくは「肖」)になります。「広義の」定家論理学の到達点は、(「広義の」貫之現象学の到達点が「クオリア」の言語化にあったとすれば)、この言語的制作物である「象(肖)=ペルソナ」に「いのち」を吹き込み、「現実の外」(=「自分の外」=「風雅」または「虚」の世界)において「象」の世界すなわち「森羅万象」の世界を造形することにあった。村上春樹オリジナルの言葉をもちいれば、藤原定家の歌論世界は「象工場」であったということでしょうか。[*]
最後に、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』から、象工場という比喩を語る「博士」の言葉をいくつか抜き書きして、長くなりすぎた定家編を閉じます。
《いや、象の墓場という表現はよくないですな。何故ならそこは死んだ記憶の集積場ではないからです。正確には‘象工場’と呼んだ方が近いかもしれん。そこでは無数の記憶や認識の断片[チップ]が選りわけられ、選りわけられた断片[チップ]が複雑に組み合わされて線[ライン]を作り、その線[ライン]がまた複雑に組み合わされて束[バンドル]を作り、そのバンドルがシステムを作りあげておるからです。それらはまさに〈工場〉です。それは製産をしておるのです。工場長はもちろんあんただが、残念ながらあんたはそこを訪問することはできん。アリスの不思議の国[ワンダーランド]と同じで、そこにもぐりこむためにはとくべつの薬が必要なわけですな。いや、ルイス・キャロルのあの話は本当によくできておるです》(『村上春樹全作品 1979〜1989 4』373-374頁)
《つまりあんたは自分の手でそれをまとめあげたのです。だからそのぶん極めてはっきりとしたストラクチュアがイメージの集積の中に存在しておるのです。また比喩を使うと、あんたは自分の意識の底にある‘象工場’に下りていって自分の手で象を作っておったわけです。それも自分も知らんうちにですな》(『村上春樹全作品 1979〜1989 4』389-390頁)
《だからさっきも申しあげたように、あなたの中で既に補整ブリッジングが始まっておるのです。要するに記憶が生産されはじめておるのですな。比喩を使わせていただけるならば、あなたの意識下の象工場の様式の変化にあわせて、そこと表層意識のあいだをつなぐパイプが補整[アジャスト]されておるのです》(『村上春樹全作品 1979〜1989 4』408頁)
[*]心敬、世阿弥から芭蕉へいたる「広義の」定家論理学の系譜を、近現代文学に求めるとすれば、新潮文庫『雪国』の解説で竹内寛子が「ドラマの欠如あるいは不必要」と「モノローグに拠る」という点で「和歌により強く繋がっている」と書いた川端康成や、「豊饒の海」の後には定家を書きたいと生前洩らしていた三島由紀夫、そして鶴見俊輔が「眼をこらして、日本文学史を大きくとらえるならば、中世の世阿弥の能の表現方法を引くだけでなく、江戸時代の芭蕉の俳諧からもつよい影響を受けている」と講談社学芸文庫『死霊U』の解説に書いた埴谷雄高をあげることができるが、村上春樹(たしか『海辺のカフカ』の頃のインタビューで『新々百人一首』に読み耽ったと話していた)はこの限りではない。
(32号に続く)
★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。
Web評論誌「コーラ」31号(2017.04.15)
<哥とクオリア>第41章 和歌三態の説、定家編──モネ・いのち・象工場(中原紀生)
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