Web評論誌「コーラ」29号/哥とクオリア 第39章 和歌三態の説、定家編─影のない世界

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Web評論誌「コーラ」
29号(2016/08/15)

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■定家と虚なるもの、あるいは「かげもなし」の余韻
 
 俊成自讃の「おもて歌」が、歌の本質を「広がり」にではなく「深み」において見る中世詩歌の特徴を自覚的・予感的にあらわしていた、と大岡信氏が指摘する「夕されば野べの秋風身にしみて鶉なくなりふかくさの里」であったとして、それでは、定家の代表歌はなんだろうか、それは、武野紹鴎が佗び茶の湯の心をこの歌に見出した、と「南方録・覚書」が伝える「見わたせば花も紅葉もなかりけりうらのとまやの秋のゆふくれ」なのか、いや、百人一首に撰入された「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ」こそ文字通りの自撰歌ではないか、いやいや、それは「歌織物」(林直道)もしくは「グラフィック・アナグラム」(丸山圭三郎)を編集する企みゆえの撰歌だったかもしれない、などと自問自答しているうち、成立年及び作者はともに未詳ながら、後鳥羽院から西行法師まで十七人の新古今歌人が各々十首ずつ秀歌を自撰したとされる「自讃歌」なる文献があることを知り、さっそく検索し定家の部を拾い読みしたところ、掲載順が価値の序列をあらわしているわけではないにせよ、第一の「春の夜の夢の浮橋とだえして嶺にわかるる横雲のそら」と第三の「年もへぬいのるちきりはゝつせ山おのへのかねのよそのゆふくれ」の間に掲げられていたのが、
 
  駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ
 
で、定家のこの歌は、『新々百人一首』の「冬」の部十首の最後から二番目にすえられ、「春の夜の」や「来ぬ人を」と共に、「定家の作中、最も人口に膾炙したもの」(新潮文庫・上巻、443-444頁)であったと記されています。丸谷才一の文章は、例によって、名人藝というか、もはや神域に達すると言っていい出来映えのもので、わけても、「日本文学史は百余年前まで、この詩人=批評家の美意識と文学観によつて支配されてゐた。」(463頁)と、破格の文学史的位置づけをあたえた定家を向こうにまわして、その語り口はひとしお冷え冷えとした冴えをみせているように感じます。
 この作品は、万葉集歌「苦しくも降りくる雨か三輪が崎佐野のわたりに家もあらなくに」(長忌寸奥麻呂[ながのいみきおきまろ])を本歌としており、丸谷才一によると、「古来、本歌どりの模範としてあがめられてきた」(445頁)一首で、室町時代の人々にとっては「派手な本歌どりの傑作であつた」(446頁)。定家詠と本歌に共通するのは佐野という歌枕と「わたり」の語で、丸谷氏はこの「わたり」の語義をめぐって、奥麻呂の歌の場合は「わたり」すなわち川の「渡し」場であることで諸注はおおむね一致している気配であるのに、定家詠の「わたり」となると二説、つまり「渡し」と「附近、一帯、あたり」の二つの考え方に分かれ、かつては後者の説が多数派だったのが、最近になって新古今集の当時「佐野のわたり」は渡しとして意識されていたことを論證する有力な研究が出てから、前者の考え方がほぼ定説となったと紹介したうえで、しかし定家の作品には、たとえば「舟人」などの川や海や渡し場を提示する要素がまったくなく、そのことのほうがむしろ重大なのだ、と論題を設定します(447-449頁)。
 ここから先の丸谷才一の考察はとりわけ見事で、かつ、示唆に富んだものなので、以下、いくつかの塊にわけて抜き書きし、玩味していきたいと思います。
《それにもともと、この三十一音の提出する事物としては何があるだろうか。もちろん、駒がある。袖がある。かげ(ものかげ)が……ない。そして、「かげもなし」といふこの断乎たる否定、特に‘も’といふ助詞によつて、ものかげがないとわかつたとき、袖を払ふしぐさもなくなり、同時に袖もほとんど消え失せ、駒もまた幻の獣となりかける。あとに残るのは降りしきる雪の、それも夕暮だ。光は乏しく、一切は茫々とけぶる。ここが佐野だとはわかつてゐても、しかし川に近いことなどもはや意識されない。渡しのことなど忘れかけてゐる。とすれば……そのとき「佐野のわたり」はほとんど佐野のあたりといふことになるのではないか。
 つまりわたしの言ひたいのは、定家がこの歌を詠むに当つて「佐野のわたり」を渡しとしてとらへてゐたかどうかではなく(もちろん彼は渡しとしてとらへてゐた)、この和歌ができあがつたとき、「佐野のわたり」は果して渡しとして感じ取られるかどうかである。それはずいぶん疑はしいだらう。「わたり」といふ言葉が渡しを指示する積極的な力は、もちろん「佐野の」といふ限定でいちおう補強されてはゐるものの、しかし、一つには上の句の「かげもなし」の余韻で、そしてさらには下の句の雪と夕暮とに埋められ、消され、拭い取られて、極めてわづかなものになつてしまつた。どうもそんな気がする。》(新潮文庫・上巻、449-450頁)
 ここに見られるのは、文学的推論のあざやかな実例にほかならず、それはつまり、虚構世界の客観性とでもいうべきもの、フィクショナルな「つくりごと」の世界における「虚なる現象」もしくは「反−実象」[*]、すなわち「虚象、パンタスマ」の客観性や、それをなりたたせる諸法則への「科学的」と形容していいアプローチがもたらすものなのだろうと思います。定家や、定家を論じる丸谷氏の場合であれば、それは、言葉の本質と機能とその伝統にたいする洞察にねざした「歌学的」アプローチと言うべきでしょうが。
 
[*]九鬼周造の「文學概論」講義に、「藝術は単に「ない」事柄をつくるのみならず「有り得ない」事柄迄もつくり出す」とある。
《近松が「藝といふものは實と虚[うそ]との皮膜の間にあるもの也」といふ場合の虚[うそ]とは単に「ないこと」だけではない.「有り得ない事」をも含んでゐる.(略)藝術は單に「ない」事柄をつくるのみならず「有り得ない」事柄迄もつくり出すのである,藝術は積極的無の世界から消極的無の世界へまで領域をおし進めてゐる.單に現實的存在でないといふ無の領域から可能的存在でもあり得ないといふ無の領域へまでも藝術は行つてゐる.さういふところに藝術の藝術性がよく表はれてゐる.人形芝居といふやうなものは虚[うそ]が實として妥当してゐる場合である.女形の俳優なども同様である.》(「講義 文學概論」,『九鬼周造全集第11巻』80-81頁)
 九鬼によれば、「存在」に「現實的存在(ens reale,ens actuale)=狭義の存在(existentia)」と「可能的存在(ens possibile)=本質(essentia)」の二つの様態があるのに対して、「無」(または非存在)には「積極的無」(「現實的存在でないといふ無の領域」=「ない」事柄)と「消極的無」(「可能的存在でもあり得ないといふ無の領域」=「有り得ない」事柄)とがある(25頁、27頁、83頁)。
《藝術にあつては虚[うそ]とか矛盾とか不可能とかいふことが生きて来る.即ち消極的無も藝術にあつては有として存在してゐる.さきに存在の表現がそれ自身のうちに目的を有つてゐるのが藝術であると云つた.また文學とは存在が言語によつて表現されることそれ自身であると云つた.その場合の存在といふうちには積極的無のみならず消極的無も含まれてゐるのである.絶対的な意味で無といふ様なものはない.いはゆる無も何等かの意味で有である,存在である.》(「講義 文學概論」,『九鬼周造全集第11巻』82頁)
 私の「哥の伝導体」の構図、それは「空/現」(「ヴァーチャルなもの/アクチュアルなもの」)の垂直軸と「虚/実」(「イマジナリー・フィクショナル・ポッシブル・イデアルなもの/リアルなもの」)の水平軸の直交する二軸によって導出され、「現かつ実」(第1象限)から「現かつ虚」(第2象限)、そして「空かつ虚」(第3象限)から「空かつ実」(第4象限)まで四つの象限で略示されるものなのだが、その構図によると、「現實的存在」は「現かつ実」の、「可能的存在」は「現かつ虚」の、そして「積極的無=「ない」事柄」は「空かつ実」の、「消極的無=「有り得ない」事柄」は「空かつ虚」の領域に、それぞれ形式的に対応させることができる。
 本文で「虚なる現象」や「反−実象」と書いたのは「現かつ虚」の領域における存在のことであって、この表現は、アクチュアルなものとしての「現象」にリアルな「実象」(実なる現象)とイマジナリーな「虚象」(虚なる現象)の二つの様態があり、この二つのものは互いに「反」である(両立しない)、という関係をふまえている。
 ただし、話がややこしくなるが、私が本章で考察しようとしている「虚象、パンタスマ」は、九鬼のいう「有り得ない」事柄すなわち「消極的無」を含んでいる。つまり、「虚象」が棲息するのは「現かつ虚」及び「空かつ虚」の界域なのである。「現」と「空」にそれぞれ「実」と「虚」の様態があるように、「実」と「虚」にはそれぞれ「現」と「空」の二つの様態がある。したがって、「虚象」が「有り得ない」事柄すなわち「消極的無」を含んでいるように、「実象」は「ない」事柄すなわち「積極的無」を含んでいる。
 問題は、いまここで「含んでいる」と書いたことの実質はなにかである。前章で引いた文章(「しかし、詩的言語が、その意味を、生活世界の映像ではなく、詩的世界内部での〈価値体験の型〉に依存する時(顕在的には〈引用〉、非顕在的には〈含み〉)、〈言葉〉は日常の規約を超えて自由に結合し、自律的な世界を産出、展開することができたのである。」)のなかで、尼ヶ崎彬氏が「含み」と名ざしているのは、そのような問いにたいするひとつの回答になり得ていると思う。
 
■「かげ、そして夢」のごときものが立ち現われる
 
 ここで、私的な挿話をはさみます。
 私はこれまで、「駒とめて」の歌を、およそ次のような情景(精確には、言語空間のあり様)を描写した作品であると受けとめていました。以下、かつて第13章で概観した淺沼圭司氏の議論(『映ろひと戯れ──定家を読む』)や第8章でとりあげた大岡信氏の議論(『詩の日本語』)を(そして、第36章で述べた「パライメージ」の解釈をめぐる議論を、あたかも夢における潜在思想のように暗黙裡に)とりいれ、すこし敷衍したかたちで述べてみます。
 
 ……白一色に塗りこめられた冬の原野。そこでは、「花」や「紅葉」や「うら」や「とまや」といった事物が、(それらの景物は実は現実の事物ではなく、和歌の世界において伝統的にかたちづくられてきた「歌語の体系」あるいは「感性的言語の体系」から切り取られ、配列された語がかたちづくるイメージにほかならないのだが(淺沼前掲書195頁)、とにかく、そのような景物=イメージが)不在である。それだけではない。ここには「動き」が、すなわち、事物どうしのかかわりがもたらす運動や、事物との関係性のなかで遂行されるアクションもまた不在である。
 降りしきる雪に難渋する馬上の人。物陰に移動して馬をとめ、袖に降り積もった雪を払い、雪の小止みになるのを憂い顔で待つ、等々。そうした時間の流れにそった心身の動静やしぐさの一切が、(運動感覚や身体感覚と言われるものをふくめて)ここには「ない」。天から舞い落ちる「雪」もまた「歌語」もしくは「感性的言語」の一種であってみれば、そもそも「降りしきる雪」という事物の運動そのものが「ない」。あるのはただ、白一色に塗りこめられた「佐野のわたり」の冬の情景だけである。いや、歌枕の「佐野」は言うに及ばず、「わたり」や「冬」や「夕暮」もまた「ない」。秋の夕暮よりも、もっと何もない冬の夕暮の「かげ(景)」。その「かげ(イメージ)」さえも、ここには「ない」。なにしろ「かげもなし」なのだから。
 しかし、「何もない」と「かげもなし」とではまったく違う。(「「何もない」と言うことと「花も紅葉もなかりけり」と言うこととは、明らかに効果の違いがある」(尼ヶ崎彬)ように。)ここには、この歌の世界には、少なくとも「見わたされる」対象(客体)との緊張関係をもって対立する「見わたす」主体、すなわち「美的世界でのみ生きることを選択した歌人(美的実存)」(淺沼前掲書195頁)の気配が、その存在の痕跡が、(これもまた淺沼氏が言うところの、「ある」と「ない」、「現前」と「不在」のはざまを典型的な在所とする、不安定で移ろいやすくはかない「香、匂い、おもかげ、かげ、そして夢」のごときものが(淺沼前掲書44頁))、立ち現われている[*]。この希薄な存在感をもった「かげ(面影)」としての主体は、「無色のもののなかに色を見る一種の(内触覚的で)透視的な(心の)眼」(大岡前掲書56頁)をもって、この作品の全幅を覆い、たちこめているのである。
 そして、この「かげ」の気配をいわば透明なスクリーンとして、その見えない平面のうえで、馬上の人という歌中の登場人物(もしくは異なる言語空間、異なる和歌や物語からコラージュ=「引用」された人物)や、馬をとめる、袖に積もった雪をうちはらうといった「動き」をともなったイメージ群が、質料ゼロの雪片のように幾層にも重ね描かれてゆく。あたかも「有り得ない」回想シーンがオーバーラップするように……。
 
 このような「解釈」は、一首の要となる「かげもなし」の「かげ」という語を、貫之歌「影見れば波の底なるひさかたの」の「影」と同様に、あるいはこれよりもっと広く視覚映像(イメージ)一般ととらえ、上の句を、「駒とめて袖うちはらふ」人とその動きの映像はもとより、およそ一切のイメージがここ(佐野のわたり)には「ない」、と読むことではじめて成立するものです。(『日本人にとって美しさとは何か』所収の講演録「言葉とイメージ―日本人の美意識」で、高階秀爾氏は「影=人影」ととらえている。「つまり、この歌は「誰もいない」ということを言っているんです。誰もいない雪の夕暮れの寂しいところというのを、定家はこの歌で表わしました。」(55頁))
 しかし、この読み方は間違っていて、正しくは、「かげ」は降りしきる雪をさける「ものかげ」のことだったのです。ただ、丸谷才一の卓越した文学的推論の行きつく先は私の誤読に近づいている、というより、ほとんど区別がつかない受けとめ方になっているのではないかと、やや強引ですが、私はそのように感じています。
 
 ところで、さきに「虚構世界の客観性」という言い方をしました。客観性は、他者の存在があってはじめて成り立つ概念です。そうだとすると、「つくりもの・つくりごと」の世界において「他者」とはいったい誰なのかという問題がたちあがってきますが、これに答えるのはいたって簡単で、それは、たったいま恥ずかしげもなく独自の「解釈」を開陳して見せた私自身、すなわち「読者」のことにほかなりません。
 
[*]ここに「かげ、そして夢」のごときものとして立ち現われているのは、はたして本文で想定したような詠歌主体(歌の世界のなかで歌を詠む、仮構された詠歌主体を含めて)なのだろうか、それとも享受主体(読者、観客)としてとらえるべきだったのだろうか。
 アンドレ・バザンは「演劇と映画」(『映画とは何か(上)』)で、「演劇的な場」すなわち「舞台という小宇宙」と、映画における「スクリーン」の観念との質的な違いについて次のように論じている。
《絵画が、そこに描かれた風景と混同されることなく、また壁面に開けられた窓でもないのと同様に、アクションが繰り広げられる舞台および舞台装置は、世界に無理やりはめ込まれた、しかしまわりを取り囲む「自然」とは本質的に異質な、美学的小宇宙[ミクロコスモス]なのである。
 それに対し、映画では事情が異なる。映画の原理はアクションのあらゆる境界線を否定する。演劇的な場の概念は、スクリーンの観念とは異質であるどころか、本質的に対立する。スクリーンとは絵画における額縁のような枠ではなく、出来事の一部しか見せることのない、いわばマスク[合成画面を作る際にネガフィルムの不要部分を隠す紙─訳註]なのである。登場人物がカメラのフレームからはずれると、私たちはその人物が視野から消えたのだと理解はするが、その人物はセットの別の場所、私たちからは隠された場所にそのまま存在し続けているのである。スクリーンには舞台裏がない。舞台裏をもつならば、ピストルや表情のクローズアップを世界の中心そのものにしてしまうような映画に固有の魔術を否定することになる。舞台の空間とは対照的に、スクリーンの空間は遠心的なのである。》(野崎歓ほか訳『映画とは何か(上)』(岩波文庫)266頁)
 映画の観客、自己を意識する観客である「私」は、姿の見えない「かげ、そして夢」のごときものとなって、スクリーンの向こう側を歩む。
《現代の演劇人は、相対的なリアリズム演出によって、演技の意識を弱めようとするが…、それに対し映画監督は、観客の意識を刺激するとともに、彼らの内省をも促す方法を発見しつつある。登場人物への同一化のただなかに対立を生じさせるようなやり方だ。このような私的な意識の領域、錯覚の真っ最中での「我関せず」的態度は、観客ひとりひとりに一種のフットライト[「観客と舞台とを切り離す検閲の具体的なシンボル」、あるいは「手前側」の観客を「向こう側」のディオニュソス的怪物から守る「光の輪」「光の帯」「現実界と想像界のあいだで燃え上がる境界線」(258頁)─引用者註]を作り出す。だから演劇映画において自然と対立するのはもはや舞台という小宇宙ではなく、自己を意識する観客なのである。映画においては、『ハムレット』や『恐るべき親たち』であっても、こうした映画的な知覚の法則から逃れることはできず、また逃れるべきではないのだ。エルシノア[『ハムレット』の舞台となるデンマークの街─訳註]や家馬車[『恐るべき親たち』の舞台となる家─訳註]は現実に存在するのであり、姿の見えない私はその中を歩きまわって、ある種の夢がもたらすものにも似た曖昧な自由を満喫する。私は「歩む」、ただし一定の距離は保ちつつ。》(野崎歓ほか訳『映画とは何か(上)』(岩波文庫)280-281頁)
 和歌の作品空間をかたどるものがあるとして、それは「額縁」もしくは「フットライト」(あるいは能における仮面、篝火)のごときものなのだろうか、それとも「スクリーンの外枠」すなわち「マスク」(あるいは次節に登場する「窓枠」)に相当するものなのか。少なくとも「駒とめて」の歌から私が受けとっている印象は、後者である。
 
■「作者が読者になり、そしてまた作者になる」連歌的構造
 
 つづけて、『新々百人一首』の文章を引きます。
《わたしに言はせれば、作者としての定家ははじめ川の渡し場といふこころで「佐野のわたり」といふ歌語を用ゐたけれど──用ゐるつもりだつたけれど、しかし詠み終へたとき、読者としての定家はその「佐野のわたり」を佐野の辺、一帯、あたりといふ気持で受取つてゐたのだ。
 作者が読者になり、そしてまた作者になるといふこの構造は、文学作品一般、詩一般に当てはまるいはば原論ふうの事情だが、『新古今集』の和歌には特に妥当する。といふのは、それは連歌を派生し、しかも同時にその連歌の影響下にあるものだつたからである。たまたま定家の一首がその好例なので、話が進めやすいが、三句切れの和歌が『新古今集』にすこぶる多いのは、後鳥羽院の宮廷における連歌ばやりが直接的にもたらしたものであつた。つまり当時の歌人はしばしば、上の句を連歌の長句として案じ、次いで下の句を短句として付けたのである。そのとき長句の作者は、その長句に対して読者として対応し、次いで短句の作者となるわけだが、付け終つたとき、今度は読者となつてその短句を(長句と短句の綜合を)解釈し鑑賞するわけだ。佐野の渡しである「佐野のわたり」が佐野の辺といふ意にするりと変るのは、このときであつた。ワタリといふ音の響きの指示するものは、ここで雪の夕暮の作用を存分に受けて、中身を改めたのである。》(新潮文庫・上巻、451頁)
 ここに示された「作者が読者になり、そしてまた作者になる」という、(オブジェクト・レベルとメタ・レベル、内部と外部、こちら側とあちら側が反転しあって地続きになる)、いわば連歌的な「構造」の説に触発されて、これとの関連で私が想起したのは、芳川泰久氏が『謎とき『失われた時を求めて』』で論じた「プルースト的な「私」」もしくは「語っている現在」をめぐる議論でした。これはとても魅力的なものなので、すこし詳しく見ておきたいと思います。
 芳川氏は、まず、『失われた時を求めて』の冒頭にあらわれた文章、Longtemps, je me suis couche' de bonne heure. (芳川訳「長いあいだ、私は早くから床についたものである。」(32頁))が複合過去形で、つまり「現在において」(33頁)過去分詞の示す行為の状態にあることを表現する現在完了の形をもった時制で書かれていることに注目します。
《プルーストの冒頭の一文の場合、早く寝ていた習慣は、現在から見て、もう完了してしまっている。いまはもう、その習慣の終わってしまっていることが鮮やかに浮かびあがる。つまりこの文は、そのような過去の習慣を持った「私」が「現在」にいることも示している。もちろん、そのような冒頭の語りの位置する「現在」が、小説内の時間のどの当たりに置かれているのか、というのはこの文だけでは決めがたい。(略)
 しかし、この冒頭で複合過去形を使うということは、そのような「現在」と同時に、その「現在」において語っている「私」の姿が、クローズ・アップされてくることにほかならない。語り手「私」の領域の浮上である。このことが、いかに『失われた時を求めて』がそれ以前の小説と比べ画期的であるかを物語っている。それ以前の小説を、ひっくるめて十九世紀的な小説と呼べば、それらの小説は、過去のことを語るのに、複合過去形を用いはしない。すべては半過去形や単純過去形の世界だった。そこでは、物語られる世界が、それを語る人間の「現在」とは切れている。この「語っている現在」の浮上とともに、二十世紀の小説ははじまると言っても過言ではない。》(『謎とき『失われた時を求めて』』33-34頁)
 「語っている現在」とは、その物語を「語っている私」(語り手)が置かれた時間のことであり、この「語っている私」と対比されるのが、(半過去形や単純過去形や大過去形で)物語られる内容としての「語られる私」(主人公)です。
《さまざまな物語の内容としての過去と、そうした過去を想起している現在、と考えると分かりやすいかもしれない。その意味で『失われた時を求めて』は、語り手が物語を語っていることをはっきりと自覚した新しい小説なのだ。それは、語られた内容をそのまま物語として読者に提供していた十九世紀的な小説とは決定的に位相を異にしていて、いわばそうした物語に、これは語られたことですよ、と示す窓枠を付与したのである。》(同37頁)
 芳川氏によると、この「窓枠」(工藤進「『失われた時を求めて』の冒頭の句について」から切り取られた語彙)から見られる光景は、一種の「動く絵」となっている。また、語り手としての「私」は「視線だけの存在」、「(見られる)対象からは不在であるべき存在」であり、「半ば匿名化した存在」である。(57頁)
《「私」なのに、「私」ではない、とでも言えばよいか。ちょうど、絵を見る視点がさまざまな「私」を許容するが、だれの視点でもないのに似ている。だれもが絵を見る。そのだれもはみな一人称単数として見る。見ているときの主体は、一人称単数的であって、それは三人称的な行為ではない。その一人称単数がいると想定されるところが視点である。つまり絵を見る視点とは、本来的に一人称単数的であり、その一人称単数がだれとも入れ代わる点で匿名的なのだ。》(同57頁)
 語り手としての私、語っている私は、そのような絵を見る視点に立っている。そして、プルーストはその先に、「本を読む読者」の姿を想定している。『見いだされた時』の最後近く、いよいよ自分の本を書く決心をした「私」は、その本の読者になるであろう人びとについて、「それを私の読者と言うとしたら、不正確でさえあるだろう。というのも、私に言わせれば、そうした人々は私の読者ではなく、本人自身のことを読む読者だからだ」と書いている。このことをめぐって、芳川氏は次のように論じる。
《「私」の書くであろう本の読者とは、その本を通して「本人自身のことを読む」者のことである。「私」の本とは、読者がそこに自分自身を読むための「一種の拡大鏡」にほかならない。そこにもし「私」のことが書かれているとしても、その「私」を通して読者は自分自身のことを読む。そういう本を「私」は書こうというのだ。その意味で、これは視点としての本であり、読者とは、本を読む視点に立つ者のことだ。》(同58-59頁)
 書き手の視点から読者の視点への移動。これとパラレルな事態を、未完の三人称小説『ジャン・サントゥイユ』における、「過去の想起を語っているうちに、その光景の主体であるはずの三人称のうちに一人称性が兆す」(61頁)という、想起の主体(三人称で記述される物語の主人公)の「私(je)」への変容に見ることができる。プルースト的な「私」の匿名性が感覚や知覚の直接性を招き寄せ(63頁)、「彼」から「私」への主体の移行を促す(62頁)。
 ところで、『失われた時を求めて』の語り手の「私」に、作品中で「マルセル」という名が記されている個所が二つある。芳川氏は、先行研究に準拠し、そのうちの一例は「もしこの本の作者と同じ名前を語り手に与えたとしたら」という条件つきであり、もう一つは推敲の手が入っていない草稿ゆえであることを確認したうえで、次のように括る。
《つまり、『失われた時を求めて』の「私」には名前がない。推敲段階では少なくとも、プルーストは「私」の個別性を抹消していて、だからそのとき、個別性の対極にある「私」の匿名性に気づいていたと想定できる。そこから振り返ると、本を書く決心をした『失われた時を求めて』の語り手が、「私」の本の読者とは「本人自身のことを読む読者だ」と言ったのも、そこでの「私」が個別的ではなく、無名で匿名的であるからこそ、読者という不特定多数の「私」と互換可能になりうる、と理解していたからであろう。
『失われた時を求めて』の「私」は、そうした匿名性や直接性のうちに存在している。だから『ジャン・サントゥイユ』にしても、印象や感覚といった直接的なものを書いているうちに、その直接性が働いて三人称のなかに「私」という主語への同調の動きが生じたのではないか。「《私》という形式」[バンヴェニストの概念─引用者註]は、そうした同調になじみやすい。そして『失われた時を求めて』の「私」とは、窓辺に見る視点としてひとり立つ「私」であると同時に、そのような「《私》という形式」としての一面を色濃く持つのである。》(同68頁)
 芳川氏の議論から、定家の虚なる世界へ接近していくための手がかりを、いくつか切りだすことができると思います。
 第一に、芳川氏がいう「語っている現在、語っている私」は、定家の「詠みつつある心」と同質のものなのではないか。そして、「語っている私=詠みつつある心」としての書き手=詠み手という「窓枠」(視点)から見られた光景が一種の「動く絵」であるとは、いや、そもそも芳川氏がいう「絵」そのものが、実は映画体験(もしくは、映画体験と実質的に同等な虚なる世界の体験)のことだったのではないか。つまり、定家の歌の世界は映画の時空間に通じているのではないか。(「駒とめて」の歌が、白一色の冬の原野に立ち現われたパンタスマを描写する、一篇のショートムービーであったように。)
 第二に、「さまざまな物語の内容としての過去と、そうした過去を想起している現在」との関係は、過去に詠まれた本歌と、現在におけるその想起=引用としての本歌取りとの関係とパラレルなのではないか。そして、本歌と本歌取りとを連結する複雑精妙な「視点」の移動は、座(時空)を共にしない者どうしの、時間と空間を隔てた連歌的な構造(すでに撮り終わり、編集し終えた制作者(作者)と、その映画を「いま、ここ」において生起する出来事として、カメラ(「美的実存」の視点)の移動とともにその知覚像を変化させている観客(読者)の感覚、意識との、時空を超えた連結)をもたらすのではないか。(あるいは、「無意志的想起」の意志的創出としての本歌取り。)
 第三に、作者の視点が読者の視点に移動し、三人称のうちに一人称が兆すという議論は、(第36章で言及した古東哲明氏の議論に通じるとともに)、能舞台における死者の復活や超越的なものの顕現に通じているのではないか。そして、能役者の肢体とその舞や歌は、和歌に詠まれた「光景」(歌の心)が、端的にいえば人物が、その「窓枠」(視点)を食い破り、和歌世界の外部に超え出て自らを語っている、その姿であるということなのではないか[*]。
 
[*]土屋恵一郎著『能、ドラマが立ち現れるとき』の「まえがき 能への解体と再構築」は、短いけれど刺激的な文章で、できれば全文引用しておきたいくらいだが、本文のテーマとのかかわり(たとえば、本歌取りの究極形態としての能)がとりわけ深い箇所を二つ、抜き書きしておく。
《「能」は、白川静の教えに従えば、字源は、水のなかの昆虫の動きのことであった。手足を忙しく動かして水のなかを動いている。その昆虫である。つまり身体を動かすことを意味している。身体芸としての「能」という一般名詞を、申楽の固有名詞にしてしまった時、世阿弥のなかでは、それまでのさまざまな身体芸を総合する芸術としての「能」という構想が働いていたことだろう。事実、世阿弥もその父観阿弥も、田楽や曲舞といった他の領域の芸能を取り入れながら、申楽を「能」という総合芸術へと変革していったのだ。
 この芸能の歴史への世阿弥たちの構えは、室町時代にまでいたる文学の歴史に対して、世阿弥たちがとった一貫した態度にも通じている。
 日本の文学史を考えた場合、室町時代にいたるまでのあいだに、日本文学の代表作といわれるものはすでに多くが登場している。『万葉集』から『新古今和歌集』までの和歌集、歌物語である『伊勢物語』、長編小説である『源氏物語』、軍記物としての『平家物語』『保元物語』『平治物語』、説教集である『今昔物語』『大和物語』、漢詩文である『和漢朗詠集』といった具合である。
 世阿弥は、こうした文字や声によって語られてきたもの、それを総称して「文学」というのであれば、この「文学」を身体芸としての芸能である能へと解体して再構築しようとした。今で言えば、小説の映画化とか劇化ということができる。あるいは、近年のポップカルチャー批評の言葉を使えば、第一次作品群である「文学」を、世阿弥は「能」という身体芸のうちに解体・再構築して第二次作品群としての能の作品群を作ったということができる。
 世阿弥を中心とする能作家たちの先進性は、この第二次作品群としての「能」を作るために、能独自の装置を考案したことにある。つまり、「文学」をそのまま身体芸のうちに物語として導入したのではない。能という装置のうちに解体して、再構築しているのだ。
 それがどのように行われたのかを、この本は分析する。映画やアニメ、コミック、ゲーム、フィギュアにおいて今日までつづく物語の解体、複製、再構築の歴史上の出発点に立ち戻って、その革新的手法を分析したい。》(『能、ドラマが立ち現れるとき』6-7頁)
 
《そこ[本書が分析対象とした十篇の能楽曲目─引用者註]でのテーマは、最初に述べた文学の解体と再構築であるが、さらにそのなかで主旋律となっているのは、文学・物語のなかにいる人物たちを、文学・物語の枠組みから自由にすることである。それを、こう言い換えてもいい。文学・物語のなかで、そこに登場する人物は物語られる存在として、文学・物語を宿命のようにして受け入れる。物語はいわば牢獄のようにして、そこで物語られる人物を支配している。
 能はこの物語の枠組みを解体することによって、物語のなかの人間を物語から解放して、物語上の人物自身が物語について語りはじめる。
 能による文学・物語の解体と再構築のなかで、人間は物語の宿命から自由になる。》(『能、ドラマが立ち現れるとき』8頁)
 能はコピーかオリジナルか。そもそもそのようなことが能における問題となりうるのか。コピーかオリジナルかは「像」に固有の問題である。だとすれば、問題は能舞台に立ち現われるのは「像」か「喩」か「虚象」か、それともそれらとは異なる第四のもの(たとえば、西欧神学に言う「ペルソナ」の概念に相当するもの)なのかということになる。(そしてそれは次のような問いに変形される。能は歌か物語か演劇か、それとも後代の映画の先行形態だったのか。あるいは、歌に先立つ古代的なものの再来か。)
 
アヴィセンナの幽霊、再び
 
 ここで、定家の「詠みつつある心」をめぐる、尼ヶ崎彬氏のオリジナルな議論を確認しておきたいと思います。──西行が、自らの和歌生活の総決算として二つの自歌合を伊勢神宮に奉納することを思い立ち、その判を託したのが歌壇の重鎮俊成(「御裳濯川歌合」)と若干二十六歳の定家(「宮河歌合」)。度重なる催促を経て、定家から三十六番の「宮河歌合」の判が届けられたのは二年余り後のこと。病床にあった西行は二日がかりでこれを読み通し、溢れんばかりの感動を定家に書き送った。西行が注目したのは、判詞中のある表現だった。
《西行は、「作者の心深くなやませる所侍れば」という判定基準の採用を、全く新しいものと見たのである。それまでの和歌批評は、詞づかいの見事さ、傾向の面白さ、イメージの美しさ、全体の情趣の味わい等、要するに作品の出来栄えを問題とするものであって、作者の心の深さや様態を問題にはしない。しかし定家は、作品の「姿」でも「心」(表現内容)でもなく、「作者の心」(表現者の意識)に注目し、その結果、「なやませる」という前例のない批評用語を用いることになったのである。
 新しい批評用語が語られるためには新しい批評基準が立てられなければならない。そしてそのためには、新しい和歌の見方が、つまり新しい和歌思想が生まれなければならない。定家は西行の作品と格闘するうちに、前例のない観点から和歌を語りはじめた。そして西行は、…定家が、はっきりと新しい和歌思想を「なやませる」という語に集約してみせたことに感動したのである。》(『花鳥の使』149-150頁)
 青年定家によって立てられた新しい批評基準、新しい和歌思想を、尼ヶ崎氏は、慎重な手続きを経て、後年の「有心体」に結びつけていきます。──定家は、「古き詞」の表す「心」を、つまり操作対象としての「思いの型」や詞という記号が担っている意味としての「心中の思い」を「有心体」の「心」とは認めない。とすれば、それは作者自身の「心中の思い」であると考えるほかない。つまり「有心」とは、「歌の心」ではなく、「作者の心」の問題である。
《では、定家の「有心体」は、歌人の実体験している心情を詠むものであろうか(それなら紀貫之の歌論と同じになる)。いや、定家の恋の歌の多くが、女性の心を詠んだものであるという一事をとっても、そのようなことはありえない。恋であろうが述懐であろうが、そこに詠まれているのは、実体験としての〈心中の思い〉ではなく、常に虚構の〈心中の思い〉であった。しかもそれは、虚構でありながら、現実に定家の心中にある思いであり、そこから和歌を産出するような「なやませる」過程である。
 つまり「有心体」にいう「心」の所有者は、現実に生活を送っている(生活世界の)歌人その人ではなく、ただ詠作時に、いわば虚像として生ずる「作者」(詩的主観)にすぎない。そして「作者の心」とは、和歌の産出過程においてのみ生じている、虚構の、しかし動的な生命をもって「深くなや」むことのできる「心」である。我々はこのような「心」をとりあえず〈詠みつつある心〉と呼び、「詞」の意味として表現された「歌の心」を〈詠まれた心〉と呼んで区別することにしよう。即ち、「有心体」とは、能動的運動としての〈詠みつつある心〉をもって、所産的内容としての〈詠まれた心〉を産出するような和歌の様式である。》(『花鳥の使』152-153頁)
 そもそも、私がこの(仮に「哥とクオリア/ペルソナと哥」と名づけた)論考群にとりくむきっかけとなったのが、尼ヶ崎氏の「詠みつつある心」をめぐる議論にふれたことでした。『花鳥の使──歌の道の詩学T』と同時並行的に読み進めていた『西田幾多郎──〈絶対無〉とは何か』(永井均)の「独在性の〈私〉」と、この「詠みつつある心」との関係もしくは無関係を探索する、そんなテーマが浮上してきたからでした。
 いま、あらためて読みかえしてみて、「歌人の実体験している心情」や「実体験としての心中の思い」の詠出を和歌の本質とするのが貫之の歌論である、というくだりには違和感を覚えますし、そもそもここに書かれている和歌の思想そのものが(広義の)貫之歌論の世界に属することなのではないかと、そんな思いがこみあげてきます。しかし、もしそうであったとしても、「詠みつつある心」だけは、すなわち、俊成の「歌の道の深き心」つまり「詩的主観」(尼ヶ崎彬)や「美的実存」(淺沼圭司)が「いま、ここ」の「詠みつつある現在」というトポスにおいて生起したところの「詠みつつある心」だけは、貫之歌論を超出する定家オリジナルのものなのだろうと思います。精確には、そのような「詠みつつある心」が、たとえば能舞台における舞(身)や謡(声)のうちに具現化されたとき、そのときこそ、定家歌論のオリジナルな世界が十全に表現されたことになるのではないか。
 と、ここまで書いてきて、私の脳髄には、かのアヴィセンナの「空中人間」もしくは「アヴィセンナの幽霊」(山内志朗『「誤読」の哲学』177頁)が立ち現われています。井筒豊子が「意識フィールドとしての和歌」で、「いま、ここ」という現象的時空にひとつのトポスをもち、それとのかかわりにおいて(のみ)身体的なものと交叉する、としたアヴィセンナ(イブン・シーナー)の空中人間(第28章参照)。
《イブン・シーナーの「空中人間」に見られるところの、この種の、自照的存在の意識性は、東洋で一般に、実践的・道的と称される型の様々な思想から通約的に抽出されるところの、基本的主体構造、の原点でもある。この、自照的な心・身的構造を持つ主体性の形成基盤をなすところの、既成の諸思想的コンテクストと、そしてさらに、それらの史的展開の所産として登場するところの様々な思想的コンテクストとを、線的に結ぶことによって、様々な可能的方向線が引かれ得るし、また、その可能的方向線上に於て、この自照的存在の意識性、心・身的[サイコ・ソマティック]主体性それ自体、の解釈や位置づけや意味つけも、当然、──それら個々の思想系統や思想分野相互間では、具体的に──全く異ってくる筈である。》(「意識フィールドとしての和歌」12頁上)
 井筒豊子は「意識フィールドとしての和歌」を、「俯瞰的に照射された意識の、この、無時間的・空間的位相、という基底的構造は、能の演技にかかわる意識空間や、舞踊や武道の心・身空間、茶道の美的空間意識など、となって展開し、やがて、いわゆる芸道的世界一般を成立させる転換点となった、と考えることも出来るのである。」(22頁下)という文章で結んでいましたが、ここで言われる「能の演技にかかわる意識空間や、舞踊や武道の心・身空間、茶道の美的空間意識」の基底をなすのが、アヴィセンナの空中人間に見られる「主体構造」であり、「詠みつつある心」の存在様式であろうと私は考えています。[*]
 
 ところで、前節で引用した丸谷才一の文章に「ワタリといふ音の響きの指示するものは、ここで雪の夕暮の作用を存分に受けて、中身を改めたのである。」とありました。ここには、聴覚と視覚が言語(書き言葉)のなかで共感覚的に融合する様が描写されているのですが、それにしても、「雪の夕暮」という虚象(パンタスマ)がもたらす「作用」とはいったい何か。その「音楽的」と形容してもいい効果の内実とは何か。それは、これにつづく文章のなかであかされます。
 
[*]過日、日曜美術館四十年記念特別アンコール「私と八木一夫 司馬遼太郎」を観ていると、司馬遼太郎が「八木一夫はモノ(オブジェ焼き)を造ったのではなく、八木一夫という人間(陶芸作家)を造ったのだ」といった趣旨の発言をしていたのが印象的だった。ここで「モノ」ではなく「人間」と言われるときの「人間」が、「語っている私」や「詠みつつある私」や「空中人間」に通ずるものなのだろう。それが「幽霊」の名でも呼ばれることは、とても示唆的である。というのも、死者こそ究極の「作家」であり、それとの対比でいえば、生者は究極の「読者」だと思われるからだ。そして、この死者の世界と生者の世界のあいだに立ち現われる「幽霊」こそが、作家と読者のあいだに生起する心、つまり、「和歌の産出過程においてのみ生じている、虚構の、しかし動的な生命をもって「深くなや」むことのできる「心」」だからだ。
 
■虚象、「音楽的な効果」としての
 
 さらに、『新々百人一首』の文章を引きます。
《第五句「雪の夕ぐれ」が一首の眼目だといふことは断るまでもない話で、本歌の雨を雪に変へたのが本歌どりの藝の極致だとか、みんながあまり「雪の夕ぐれ」を真似るので「制の詞」、つまり使つてはいけないことに決めたとか、室町のころの歌学書ではいろいろうるさいところだ。しかしわたしとしては、そんなことよりも、この yukino-yu^gure の頭韻に注目したいし、yu^gure のゆるやかな音調が茫漠たる空間のひろがりを暗示してゐる、それを第四句、第五句の四つの o 音がいつそう強めてゐる、と考へたい。制の詞となるくらゐ人々を魅惑したのは、かういふ音楽的な効果のゆゑであつた。が、しかしこの雪は唐突に出て来るのではない。まづ第四句のワタリのなかに含まれてゐるワタが、もちろん意識下においてではあるが綿を連想させ、その綿のイメージが、視野いつぱいにひろがる白い色彩のための準備をしてゐる。いや、もつと前までさかのぼることもできよう。すでに第三句にナシがあつて、これがまことに秘めやかにではあるが梨の花の白さを提示し、その方向でわれわれの無意識を刺戟してゐる。》(新潮文庫・上巻、452頁)
 ここにもまた、文学的推論のお手本を見ることができます。
 言語的無意識の層における非イメージ的、非意味的な音の遊動。言語意識の潜在層における音とパンタスマの連動、イメージ的な連想と意味的な含みの造型。言語的意識の顕在層における音とイメージと意味の相互引用的・修辞的な連結。これら三つの層にまたがる音韻のはたらき、その効果としてのパンタスマやイメージ[*]。神は「音なひ」によって「音づれ」る、音こそ、霊なるものの「訪れ」であった、等々の断片的な言葉(白川静)が記憶の淵から浮かびあがっては消えていく…。
 アンドレ・バザンが「映画言語の進化」(『映画とは何か(上)』)に、「音声は映画の「旧約聖書」を破壊しにやってきたのではなく、それを完成しにやってきた」と書いています。屏風歌の世界から詠歌や連歌を経て、能の詞章の世界へといたる、(サイレント映画からトーキーへの移行にも匹敵する)技術的変化を通じて、和歌はどのように「完成」されていったのか。このことは、夢としての和歌の深層の論理、という論点にもつながっていくことでしょう。
 
[*]安藤礼二氏は、折口信夫のテクストに満ち溢れる「音」(『死者の書』の「した した した」「こう こう こう」など)に注目した吉増剛造、中上健次、松浦寿輝らの顰みにならい、その著書『折口信夫』(第八章「宇宙」)で、次のように書いている。
《神が訪れ、精霊たちが騒ぎ、男たちと女たちが「宴」を繰り広げている祝祭の場には、さまざまな「音」が鳴り響いている。「音」とは森羅万象に共有され、それゆえ、森羅万象を一つにむすび合わせることができる「魂」のことだった。「魂」のなかには過去の時間と過去の空間が重層的に折り畳まれている。その「音」、ライフ=インデキスとしての「音」に導かれるようにして「歌」が発生してくる。「音」は、あるいは「歌」は、過去を現在に接続し、さらには現在を未来にひらく。折口信夫にとって「音」とは、古代と現代、野生と近代を一つにむすび合わせるものだった。だから、折口にとって「歌」とはまず耳に聞こえてくる「音」でなければならず、決して目で見られる「物」ではなかった。》
 
《「音」は、現実的であるとともに虚構的でもあり、客観的であるとともに主観的でもある「像」(イメージ)を呼び起こす。「像」が先にあって「音」があてはめられるのではなく、「音」に導かれて「像」が生起するのだ。そのとき生起した「像」と現実の「物」とは直接の関係をもたない。釈迢空にとって、「自然・自己一元」[斎藤茂吉の「実相に観入して自然・自己一元の生を写す。これが短歌上の写生である」から─引用者註]とは現実でも虚構でもない地平で、外部にも内部にもない「音」の進展、つまり「音」による外界と内界のリズムの同調として果たされる。
 だから、釈迢空の短歌には句読点、「自身の呼吸や、思想の休止点」[『海やまのあひだ』巻末の「この集のすゑに」から─同]をあらわす切れ目が入れられ、歌に「内在して居る拍子」[同]が誰の目にも明らかになるように示される必要があった。(略)
 歌は「音」に導かれて発生し、その「像」すなわち意味は、外界と内界のリズムが同調するところに生じる。そのために人は、一つの場所に留まることなく移動、つまり「旅」を続けなければならない。(略)
 折口信夫にとって、理想の歌とは、「音」のもつ根源的なリズムによって自己の内なる「情」が導き出され、自己の外なる「景」と合一する、というものだった。そういった境地にこそ「「写生」の本髄」があるという。しかも、その場合の「写生」とは、現実の風景を、その場で見ている必要はない。歌を生み出す「宴」が、一夜をかけて行われるように、夜が更けた頃、ただ一人で「音」の記憶をたどりながら、「瞑想」するなかでも充分に果たされるものだった。》
 
《それでは、このような内界と外界のリズムが一致した歌、瞑想的な叙景詩を詠むためには、一体どうしたらよいのか。ライフ=インデキスとしての「音」、「枕詞」のような「音」に導かれながら、ただ狂人のようにその「音」のリズムを反復し、そこから新たな「音」を生み出し、「像」として結晶化させていけばよいのだ。》
 ここで論じられていること、音による森羅万象の一体化、過去の記憶の召喚、像(イメージ)の生起、内界と外界のリズムの同調、情と景の合一、等々は、屏風歌以前の「歌の発生」という、この論考群の射程範囲外(あるいは、それ以前)の出来事をめぐるものだ。
 
(30号に続く)

★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。

Web評論誌「コーラ」29号(2016.08.15)
<哥とクオリア>第39章 和歌三態の説、定家編─影のない世界(中原紀生)
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