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Web評論誌「コーラ」
27号(2015/12/15)

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■言語芸術論の構図をめぐる試行的考察(Ver.2)
 
 前章の末尾に、吉本隆明の芸術言語原論(言語の理論)を、X・Y・Zの三本の座標軸に関係づけて概観したラフ・スケッチを掲げました。それは製作者自身、得心がいっているわけではない難点だらけの、荒削りな試作品でしかないものでした。その後、像と喩にもとづく表現の理論と三基軸との関係についてあれこれ考えをめぐらせ、そこに、吉本表現論における第三の要素(であり、かつ、韻律・撰択・転換・喩につづく第五の表現段階)であるところの「パラ・イメージ」の概念をどう位置づけたものかと思い悩み、そのあげく、(あいかわらず、意味や価値といった言語の属性をうまく拾いあげることができていませんが)、第二の試作品をこしらえてみたので、その概略(というか、骨格と若干の素材)を以下に記しておきます。
 
 はじめに、三本の座標軸の定義を再掲する。
 X=空間性の根源にある身体の受容性、つまり感覚的知覚的作用にかかわる軸
 Y=時間性の根源にある了解の仕方としての情動、意識、意味、概念、等々の領域にかかわる軸
 Z=言語表現に固有な時間性と空間性をあらわす軸
 以下の構図には、三つの切れ目がある。「言語以前/言語以後」と「音声言語/文字言語」と「表出/表現」。これらを組み合わせると、たとえば「表出{言語以前/言語以後(音声言語/文字言語)}/表現(文字言語)」などと表示することができる。そしてその前後、あるいは上方と下方に、「クオリアの空(宇宙)」と「ペルソナの海」という二つの領野がひろがっている。
 
T 言語以前(意識以前)─「クオリアの空(宇宙)」から
 X=視覚像
 Y=聴覚音
 Z=体性知覚
 
U 音声言語
 X=韻律(場面)
 Y=音韻
 Z=場面撰択
 
V 文字言語
 X=指示表出
 Y=自己表出
 Z=場面転換
 
W 芸術言語(表現)─「ペルソナの海」へ
 X=像
 Y=喩
 Z=パラ・イメージ
 
 素材1.パースの『連続性の哲学』から。
《われわれが現在経験する色、匂い、音、あるいはさまざまに記述される感情、愛、悲しみ、驚きは、すべて太古の昔に滅びたもろもろの質の連続体から遺された残骸であると考えざるをえない。それはちょうど廃墟のそこかしこに遺された円柱が、かつてはそこにいにしえの広場があって、バシリカ聖堂や寺院が壮麗な全体をなしていたことを証言しているのと同じである。しかし、その広場が実際に建立される以前にも、その建築を計画した人の精神のうちには、ぼんやりとして不十分な現実存在があったことであろう。まさしくこれと同様に、わたしはあなた方に、存在の初期の段階には、現在のこの瞬間における現実の生と同じくらい実在的なものとして、感覚質の宇宙が存在したのだと考えてもらいたいと思う。この感覚質の宇宙は、それぞれの次元間の関係が明瞭になり、縮減したものになる以前の、もっとも初期の発展段階において、さらに曖昧な存在形態をもって実在していたのである。》(伊藤邦武編訳『連続性の哲学』(岩波文庫)) 
 素材2.吉本隆明と養老孟司氏との対談「身体と言語」(『吉本隆明「五つの対話」』所収)から
【養老】言語に関しては、言語を構成出来る感覚というのも、やっぱり大脳皮質の表面に出ている三つの感覚ですね。目と耳とそれから体性知覚と言いまして、その三つは言語をつくれます。体性知覚では点字が出来ますし、字はもちろん書けます。それからもちろん音は入ってきます。しかし味と匂いでは駄目だと思います。これは解剖学的にも脳に投射される位置が違いますので、味覚と嗅覚というのは、大脳の辺縁系と呼ばれる部分に多く入る。同じ皮質でも新皮質ではない。もし食べ物で言語が構成出来ると面白いなと思うんです。つまりコックさんが、お客さんに、バカとか、お前もかということを料理の味付で出来るはずですね。匂いのほうも全く同じで、香水を変えたら愛してますとか、お前さん、大嫌いとか、そういうメッセージが伝えられるかというと、この二つの感覚はその構成が出来ませんでしょう。それは脳の構造の側からも対応していますね。だから五感って簡単に言いますけど、三感、二感。
【吉本】ソシュールという人はそこらへんのところでひっかかっていやになっちゃったというふうに思えますね。
【養老】かもしれませんね。だから僕はソシュールはそのまま脳に移ればよかったんだと思うんです。
【吉本】そうですね。今お聞きして、そういう感じしたですね。
 僕が『言語にとって美とはなにか』というのを書いたときには、そういうことが怖いから──怖いからというか、文字に書かれた以降のものしか扱わないということにしたんです。言語というのは、本当にやろうとすればソシュールがひっかかったようなことにひっかからなくちゃならない。そうすると、どうしても、これは成り立たんよということになります。つまりどうしていいかわからないよということになってしまうと思うんですね。聴覚というのと概念構成というものとが、ある音を発したところにたまたま合致した場面が一つ出来て、それが言語だということになって、これを実体あるもののごとく扱えといったって、それは全く無理な話だと思うんですね。だからソシュールなんか、きっと、そういうふうにまいったというか、いやになっちゃったような気がするんですがね。これは文字に表記されたということになってくると、ある意味で事は簡単になってきますけどね。
【養老】視覚系として処理されてきますから。
【吉本】そうなんです。視覚系として処理されて、たまたま、それこそ価値概念みたいのが出てきた時には、僕流の逃げ方で言えば、指示表出と自己表出というのがあるんだとかいって逃げるというか、やればなんとかかんとか辻褄は合っていくということになるんです。ソシュールは根本的にひっかかって、根本的に座礁したと言いましょうか、そういうふうに思えます。
 ここで、関連する養老の発言をいくつか引く。「目というのは本来ロジック持ってないですから。耳とか運動系は、自分がやったこと──特に運動がそうですが──が結果を生んで、その結果、状況が変わって、それに対してまたやっていかなきゃいけないという、非常に複雑な論理を持っています。」「時間をもともと含んだ運動のような感覚と、時間を切ることが出来る目の感覚、その二つを組み合わせると時という観念が出てくるかなあと思います。」「目というのは本質がない。…目というのは、いわゆる本質論にはならない。ところが価値というのは、間違いなく、いわば物の本質みたいなものに言及しているわけです。目はむしろこういうものから切り離されている。」「言葉というのは、新皮質の機能として考えると、非常に端的に言えば、視覚と、聴覚ないし運動系の重なった部分だというふうにいえると思います。」
 
 素材3.前田英樹著『映像=イマージュの秘蹟』(第四章「過去の即自存在について」)から。
《…ゼリー状の複製人間たち[ソラリスは「科学者たちの睡眠中の思考に現われる人物をニュートリノ系のゼリー状の物質に組成してつぎつぎと出現させてしまう」──引用者註]は、単なる物質でも、また科学者の意識の幻覚でもなく、実在する記憶それじたいである。このような記憶は、人間の心理的機構のなかで作用する何ものかではなく、意識でも物質でもない純粋に即自的なソラリスの流動として実在しているものである。なるほど、キャメラが捉えているハリー[クリスの前にあらわれた、十年前に自殺した妻]は、現実の上では演技する俳優の身体であるが、〈現実的なもの〉は私たちの中枢的な知覚のがわにあって、キャメラの知覚のがわにはない。『惑星ソラリス』が知覚しているハリーの身体は、解剖学が私たちに教えるような現実的な諸器官の構造も神経系統も持ってはいない。それは、ソラリスの流動から分化した即自的な記憶の身体(le corps)として存在しているだけである。
 もちろん、『惑星ソラリス』のキャメラによる知覚は、それ自身の持続のなかにあり、持続するものは異質化の特定のリズムのなかにある。各ショットはステーションの内部をつねにゆっくり移動し、旋回し、ズーム・イン、ズーム・アップを繰り返しながら、やがてつぎのショットに接合される。各ショットの律動は、あきらかにソラリスの海のゆるやかな渦動のリズム、限りない深部から伝わる長大なうねりのリズムに浸されている。ひとつのショットが示す延々とした変化は、ソラリスの粘着する泥状の海のように、あらゆる瞬間において未完成であり、同時に超絶した安定を示していると言える。》(『映像=イマージュの秘蹟』)
 惑星ソラリスのプラズマの海は、「隠されたもの」である。「ソラリスはステーションの外部にあるのではなく、ステーションこそが隠されたソラリスからの分化の結果として、ソラリスの内部にある。」「ソラリスは単一なものではなく、潜在的なものであり、潜在的なもの一般としてこの宇宙の全域に存在する。」「つまり、彼[クリス]はソラリスが地球の潜在的次元にほかならないことを知ったのである。ソラリスの海に正確に向かい続けることは、地球の最もはるかな次元へと帰還していくことでなくて何だろう。」
 
■若干の補足、像と喩の交錯するところ
 
 前節の構図のうち、最後に掲げたもの(W)について、若干、補足します。
 まず指摘しておかなければならないのは、そこではじめて登場する「像」は、本来、言語とは異なる領域(言葉の外)に属する事象だということ。像にも、三本の座標軸に対応する三つの相、すなわち「X=像1(感覚面)」「Y=像2(情動面)」「Z=像3(言語面)」があって、構図Wに出現するのは、このうちの「像3」(言語によってあらわされ、喚び起こされ、つくられる像)であるということです[*]。
 前章で引用した文章のなかで、吉本隆明は、「言語に像をあらわしたり喚び起こしたりする力があるとすれば、言語が意識の自己表出をもつようになったところに起動力をもとめるほかない。/しかしそれとは逆に言語の像をつくる力は、指示表出のつよい言語ほどたしかだといえる。この意味で言語の像は、言語の指示表出と対応している。いいかえればつよい自己表出を起動力とするよわい指示表出か、あるいは逆によわい自己表出を起動力にしたつよい指示表出に起因するなにかだというべきだろうか。」(『定本 言語にとって美とはなにかT』)と、煮え切らない議論を展開していました。
 要するに、よくわからない、ということだと思います。なにしろ、「もしも言語が像を喚び起こしたり、像を表象したりできるものとすれば、意識の指示表出と自己表出とのふしぎな縫目に、その根拠を求めるほかはない。」というのですから。このこと、つまり「言語の像」(像3)の実質について考えるためには、「意識の指示表出と自己表出とのふしぎな縫目」において像が喚び起こされ、表象されるさまを、あたかもアヴィセンナの「空中人間」か「あくがれいづる魂」のごとき浮遊する意識となって、みわたし、俯瞰することが有効ではないかと思います。あるいは臨死者が、死の床に臥した己の肢体を「ふしぎなななめにおかれた位相」から見下ろすように。
 いや、そもそも問題の立て方が間違っていたのかもしれません。間違っていたというより、言語のなかの像を考えるのではなく、むしろ逆に、像、イメージのなかの言語表現(あるいは、言語内存在である喩的表現)を考える、という問題設定のほうがより生産的なのかもしれない。そんなふうに思えてきます。実は、「イメージ論」と題された講演(1986年、『吉本隆明〈未収録〉講演集5 イメージ論・都市論』所収)で、吉本隆明は次のように語っているのです。
《前に僕は文学の理論的な考察として『言語にとって美とはなにか』という仕事をしたんですが、それは文学というものを言葉の芸術として扱った場合に、どういう問題が出てきて、どういうことが云えるかをやったわけです。そういうことをやってきた後で、結局、何が変化してきているか、変化してきているものは何かと考えてみると、ひとつは言葉というものが基本にあって、あらゆる芸術の分野の表現が行なわれているという考え方をとると、言葉は人間に付随したものだから理論的な考察ができると考えてきたんですが、少しその考え方を変えて、文学を言葉の芸術と扱わないようにして、文学も音楽も絵画も、その他デザインでも何でも、映像から画像に至るさまざまな分野の芸術の表現の中のひとつとして文学の表現を扱うという扱い方をしたらどうなるだろうかということが、どうしてもやってみたかったわけです。(略)
 そうすると、一種のイメージとして、言語の芸術あるいは言語の表現として文学を考えるのではなくて、イメージの表現として文学を考えるという考え方がもしできるならば、文学もほかの映像諸分野も画像の諸分野も同じ論理構成というか、同じ考え方で相対的に扱うことができるんじゃないかというモチーフがあって、それを何とかやということがひとつあったのです。》(『吉本隆明〈未収録〉講演集5 イメージ論・都市論』)
 ここで述べられているのは、吉本が当時とりくんでいた『ハイ・イメージ論』のモチーフのひとつです。他のもうひとつのモチーフが、「究極イメージというものを一種の念頭において、そこを基盤にして、イメージの理論として文学も一緒にはめ込んだまま全般的に芸術分野を扱えないか」というものでした。「究極イメージ」とは、地面に平行な水平視線と、これに直行する真上からの垂直視線(死に瀕した人の体験の中にしばしば記録される高次の映像体験)の交点を同時行使したときに出現する(「像4」とでも名づけるべき)イメージのことで、かの「パライメージ」の議論につながっていくものです。
 
(いま少し補足を加えると、私は、像と喩の関係をめぐって、「像=形=リズム=生命の本質」に対する「喩=姿=あらわれ=生命の躍動」という対比について考えはじめている。丸山型三郎が『言葉と無意識』で「形を絶えず突き崩す動きと、動きを絶えず形とする力の舞台」云々と語っていた事態(このことについては、第34章でハイデガーの「エアアイグニス」に関連づけて言及し、第10章では該当個所を含む全文を引用した)が、あるいは「詠みつつある心」(尼ヶ崎彬)に典型的な「いま・ここで〜しつつある」運動が、喩の本質に通じているのではないかということだ。また、このことと関連して、「X=像(イマージュ)=形」「Y=喩(フィギュール)=姿」「Z=虚象(パンタスマ)=体(フィールド)」といった概念の組合せを考えはじめているのだが、これらのアイデアについては、いずれ「X=貫之」「Y=俊成」「Z=定家」という本邦古典詩歌の三相、三極をめぐる議論のなかで展開していきたい。)
 
[*]これとうらはらな関係にあるのが「喩」で、言語に固有の事象である喩にも、「X=喩1(感覚喩)」「Y=喩2(意味喩)」「Z=喩3(概念喩)」の三つの相があるといえる。ここで用いた感覚喩・意味喩・概念喩の区分は、「喩法論──詩人論序説3」(『詩とはなにか───世界を凍らせる言葉』所収)などに基づくもので、『言語にとって美とはなにか』では、前二者がそれぞれ「像的な喩」「意味的な喩」と表記され、「概念喩」に対応する術語はとくに与えられていない。
 しかし、島尾敏雄の「夢の中での日常」の特異な表現(「父の口から吐かれた瓦斯体のものを母の口から別の瓦斯体によつて、中和させるか何かしなければ、此の廃墟のただ中に奇妙に取残された或る地点を中心にしてこの国全体が崩壊しさうであつた。」「やがて私はその家を出てゐた。口の中は歯がぼろぼろにかけてしまつてゐた。手でいくらつまみ出しても、口の中には歯の粉砕された粉がセメントの様に残つた。私は自分の口をまるでばつたかきりぎりすの口のやうに感じてゐた。」)をめぐる次の文章には、採用されなかった「概念喩」のアイデアの可能性が拡張され、現実(たとえば「この世」)と非現実(たとえば「あの世」)を「熔接」する強力な喩法として、(あるいは、芳川泰久氏が『謎とき『失われた時を求めて』』のなかで書いているように、隠喩とは「喩えられるもの」が「喩えるもの」という異なるイメージを介して「自らの外に立つこと」(脱自)であって、この隠喩の構造を時間に当てはめ、隠喩が自らのなかで結び合わせる二つの「異なるものを、微差を刻む二つの感覚と考えるとき、その二つの感覚を同じものと見てとることで惹起されるのが、まさにプルーストの無意志的想起[レミニッサンス]にほかならない。つまりこの無意志的想起じたい、われわれが日常的にさらされている時間の偶然性の外に立つことを意味してもいるのである。そのように、時間の偶然性の外にあるのが「純粋状態の時間」にほかならない」のだとして、そのような無意志的想起を介した脱自=恍惚をもたらす方法として)、言語表現の領域を超えて機能する喩法、もはや喩の範疇を超えた普遍的な、たとえば「パライメージ」の生成にいたるベクトルをはらんだ表現段階にある(「喩4」とでも名づけるべき)ものとして、リニューアルしたかたちで叙述されているのではないかと思う。
《すこしくらいなところで読みすごしてしまえば、散文のばあいの意味的または像的な【喩】として、いままでふれてきたものとおなじようにおもえる。でもこれらの【喩】は対象にした現実の意味とむすびつかない次元に指示性が変位されている。たとえば「手でいくらつまみ出しても、口の中には歯の粉砕された粉がセメントの様に残つた」は事実そのままを指しているようにみえるが、じっさいにはありえないことの記述であることがわかる。もちろん、誇張でもなく、幻想でもなく、ましてフィクションをかいているのでもなく、ここには対象となった現実と、自己表出を極度につらぬくことで変位された非現実性とが像的な【喩】として、ほとんど継ぎ目がわからないほど巧みに熔接[ようせつ]されているのだということがわかる。「私は自分の口をまるでばつたかきりぎりすの口のやうに感じてゐた」というのもおなじで、たんなる像的な【喩】のように自分の口の像をばったやきりぎりすの口の像とむすびつけたとはうけとれない。〈自分の口がばったかきりぎりすの口に“なってしまった”〉というように、いわば現実と非現実を自己表出の変位によって熔接した【像的な喩】とみたほうがいい。》(『底本 言語にとって美とはなにかT』)
■パライメージ、あるいは臨死者が上から見ている映像
 
 吉本隆明は、別の講演「普遍映像論」(1988年、『吉本隆明〈未収録〉講演集5 イメージ論・都市論』所収)では、「あらゆる表現はイメージの論、あるいは像のイメージの学として統一することができるというのが僕のモチーフです」と語り、言葉とイメージの問題をめぐって、ドストエフスキーと島尾敏雄という「死からよみがえった体験」をもつ二人の作家をとりあげでいます。以下に、その発言から、いくつかのキーワードを拾っておきます。
 
◎存在が視覚、視線そのものになる体験
「…ドストエフスキーの死から帰ってきた体験と、ドストエフスキーの作品の中の登場人物たちが演ずる体験とが、イメージと言葉の体験として、あるいはイメージの表現と言葉の表現として関連する、……この関連の仕方をもし抽象化していうと、存在あるいは存在感を無化してしまっている。自分の存在感が無になってしまって自分はただイメージを喚起する視覚、あるいは視線自体になってしまう。そういうひとつの体験だったと考えればいいのではないか。」
「ふつうのイメージ、視覚像、あるいはふつうの映像に対して、もうひとつそれを上から見ているところの映像、これをパライメージと名づけるとすると、パライメージを同時に喚起することができるかどうかが、たぶんイメージ論としていえば現在いちばん高度なイメージの理論的・抽象的な原理になると思います。」。
「…それも死の体験と関連しますが、自分の肉体的な存在感が全部、視覚になってしまう、あるいはイメージになってしまうという体験が、パラの位置のイメージをつくる場合に非常に重要な役割を持ちます。だいたいにおいてパラ位置からのイメージと、普通の場面でのイメージとが同時に行使された場合を考えれば、たぶんそこのところで現在考えられる最も高次な映像を理解することができるのです。」
 
◎夢のイメージとパラ位置からの文学的イメージとの相違
「…自分の肉体的な存在がなくて、全部視覚に化してしまっている、あるいはイメージ自体に化してしまっているという場面で見られうるものが夢のイメージだといえます。夢のイメージはだいたいにおいてそうなのであって、自分の存在感、つまり肉体などは全然なくて、自分はただのイメージ、または視線に化してしまっているのだけれども、そこで出てくるのが夢のイメージだということができます。」
「…これ[夢の中のイメージ]を文学・言葉の表現にするためには、パラ位置にあるイメージだけは、作家なら作家の存在感と一緒になければならない。/つまり一緒になければ文学作品・言葉の作品としては形成されないといえると思います。また夢のイメージとパラ位置からの文学的なイメージとの相違は、単にそこだけだといえばよい思います。」
「文学作品の中で表現されるイメージという場合には、パラ位置のイメージだけは自分の存在感ととくっついたかたち、つまり存在感、あるいは主体のところからパラ位置イメージだけが出てくる。……/そこの構造がうまく理解できると、たぶん文学作品も一種のイメージ論として、映像とか絵画とかと同列に扱うことができることになると思われます。」
 
 この「上から見ている」イメージに関連して、「言葉以前のこと」(1992年、『詩人・評論家・作家のための言語論』所収)という講演では、次のように語られます。これは、吉本隆明が「臨死体験で上のほうから自分をみているというのはありえますか」と尋ねたところ、養老孟司が、聴覚は最後まで働いているから、耳が聞こえれば、それに眼が連合してみえることはありうるかもしれないと答えたことをふまえた発言です。
《ぼくは胎児という状態にはふたつの意味があるとおもっています。人間の生命の循環みたいなものをかんがえると、胎児から前向きに生まれてくるばあいと、死に瀕して後ろ向きに胎児にもどるばあいのふたつがあるとおもうのです。
 臨死体験のような瀕死の状態で起こる聴覚と視覚の一種の連結は、後ろ向きに胎内へ入っていくことと同じだから起こるのではないかという解釈になるわけです。これもぼくの思い込みといえば思い込みですが、いまに医学がもっと発達して、明瞭にうそかほんとうかを科学的に判断できるような気がします。
 ぼくはありうると判断するわけです。耳が聞こえる状態さえあれば、眼がみえるということが長時間ではないがありうるのではないか。そういう解釈からいくと、胎内体験には前向きのときと後ろ向きのときがあって、ここのところが科学的に解明できれば、一種の宗教と科学とが接合できる地点だとおもうわけです。また、これがうそだとわかっても、ぼくにとってはどちらでもいいのです。それは錯覚だと科学や医学が確定してくれれば、それでもいいわけです。いまのところの解釈だと、聴覚で視覚のイメージがつくれるのではないか、また臨死体験はありうるのではないかとおもっているわけです。》(『詩人・評論家・作家のための言語論』)
 吉本隆明が言及していた養老孟司との問答と関連して、先に素材としてとりあげた「身体と言語」に、とても刺激的なやりとりがあるので、関係する箇所を抜き書きしておきます。
【養老】吉本さんと前にお話した臨死体験ですね。あれ、どうでしょうね。上から見ていると言いますでしょう。
【吉本】そうですね。
【養老】あの視点というのが、子供が立ち上がった時にがらっと世界が変わる、そういうところと何か関係ないか。あるいは人間が立ったという時の視野の転換ですね。
【吉本】宗教的な人はまた違うことを言うんでしょうが、僕は意識がだんだん死に近くなって減衰してきた時に、原始的なというか、人間以前的なというかわかりませんが、そういう視覚みたいなのが、実際起こる場所があるんじゃないかなみたいに理解したんです。
【養老】それが人間が立ったという歴史的な事実に関連があるか、あるいは個体発生で言えば、四つんばいに這っていたのがいつか立ち上がって、視点の転換が起こったという、その記憶はわれわれはもうないわけですけども、非常に深いところに刷り込まれているかもしれません。それが臨死体験になると、上から見ているという、なぜかそういう感じが出てくる。なんか関係がありそうな気がします。
【吉本】そうですね。立てない時期の赤ん坊というのは、一年足らずでもあるわけですからね。
【養老】あれ、非常に不思議ですね。これは、目じゃなくて、恐らく耳かなというふうに思ったりするんです。耳のほうが、ご存じのように後まで残る感覚ですから。それで視覚像を耳のほうから再構成して。
【吉本】ああ、そうですか。先ほど…言われた、脳の視覚領と聴覚領が重なったところが言語領で、その両側のこちらとあちらではつながりがあるということですね。
【養老】ご存じのように、気を失う時に最後まで残るのが耳で、正気に戻ってくる時に最初に回復してくるのは耳ですね。だいたい臨死体験の時に、誰かが喋っているとか、その内容とか、そういうのが伴っていませんか、そのシーンに。音が伴っていれば、多分間違いなくそういうことかもしれないという気がしますね。
【吉本】そうか。そうか。それは面白いですね。
【養老】耳のほうがしぶといんですね。目と耳を比較すると、ニーチェのアポロ的芸術とディオニュソス的芸術。ディオニュソスのほうが人間を根底から動かすという。それは日常的なことにも確かに出ている。正気に戻る時、音が最初に聴こえたという。「大丈夫?」という声がまず聴こえるというんです。それから目をパッチリ開けるという順序に必ずなっているわけで。
■離見の見、あるいは仮面の裏側からの視線
 
 直立二足歩行と言語の使用とがヒトを人たらしめる決定的な要素であり、また、新宮一成氏が『夢分析』のなかで書いていたように、「言葉を話すようになる」ことは夢の言葉でいえば「空を飛ぶ」ことであり、かつ、空は言語の場であり、言葉の世界とは死者の世界にほかならないのだとしたら、死に臨んだ者が体験する上方からのイメージは、直立歩行や「聴覚音⇒言語的概念⇒視覚像」といった言語獲得のプロセスを反覆的に表現するものであり、かつ、死者たちの世界(言語世界)がまなざすものである、などといったことがいえるでしょう。
 そして、そのような垂直的な夢のイメージ(パライメージ)のうちに主体の存在感がはりついているとき、(あたかも、貫之詠の「影見れば波の底なるひさかたの空漕ぎわたるわれぞわびしき」で、水底に空を映した「海」を漕ぎわたるわれの(指示表出的な)水平視線と、水底に映った「空」を漕ぎわたるわれの(自己表出的な)垂直視線とが重ね合わされ、このうち、後者の視線のうちに「われ」の存在感(寂寥感)が付着していたように)、それは、言語における通常の像や、韻律⇒撰択⇒転換⇒喩とはせのぼる表現の段階を超えた、より高次の言語表現となるわけです。
 
 ここで、パライメージの概念をめぐる以上のような(「臨死者モデル」とか「上方からの視線モデル」とでも名づけるべき)解釈とは別の、もうひとつの理解のしかたをとりあげたいと思います。
 手がかりとなるのは、古東哲明氏が『〈在る〉ことの不思議』の終章「他界からの視線」で展開した議論です。古東氏はそこで、次の二つの「他界」のあり様を呈示しています。
 
◎「他界T」=「人間の祈りや慟哭や戦慄を光源とする投影機[彼岸に世界観を投影する視座]が、はるか彼方の銀幕上に遠心的に描きだす映像」
◎「他界U」=「この世を浮揚した遊離魂が、翻してこの世を観る、その立地場面…、あるいは、まなざす眼それじたいがそこに編みこまれている場所」
 
 著者によると、「他界U」もしくは「他界観U」は日本精神史の本流に位置づけることができ、その論理は能舞台のうえに、また世阿弥の「離見の見」のうちにあざやかにえがかれています。以下、その概略を記します。
 まず、他界の住人(シテ)は「鏡の間」に入って面(オモテ)をかけ、すべてを削ぎ落とした裏側の闇に身を沈める。「面にくりぬかれた眼穴は、視野狭窄がおきるほど狭隘である。そのため、外の〈表世界[ひかり]〉をことさら覗こうとする遠心的な眼球運動を要求される、と同時にそのリアクションとして逆むきに、〈裏世界[やみ]〉へ屈折する求心的な眼差しの運動もひきおこされる。オモテ(此界)とウラ(他界)とへ、たがいに背反する視野運動が同時に発露し、内にして外、此岸にして彼岸という奇妙な交錯視界が、役者の視覚レベルで培養される。」
 さらに、拘束服のように固くぶ厚い装束が、一挙手一投足が内面から汲みだされるような身体感覚(キネステーゼ)をはぐくみ、同時に「内心の堺」へと沈凛する「冷えた心」をつむぎだす。
 その他界からの侵入者が「橋懸り」(あの世からこの世へと渡された架け橋)を辿って登場し、しばしのあいだ、此界および見所(此岸人)と接触し、鬩ぎあう場所が「舞台」である。「それは、いわば他界の出店[フロント]でありあるいは逆にこの世の前線基地[フロント]。その他界にして此界なるバルドゥ的舞台をはさんで、役者と観客が入れ子型〔凸凹〕に精神の交流[インター・プレイ]をはじめるとき、不可視の topos としての能演劇空間が開演する。」
 他界人(死者・精霊・神霊・物狂い)の生死往還の筋書きが進行する演劇的意味空間のなかで、「役者のみならず見所の在所[テアトロン]もまたこの世とあの世を流離う。……最初はこの世からあの世を観ている視座が、この世でもあの世でもない宙吊り地帯を経由し、あの世からこの世を観る視座【闇の視座】へ幻容、そしてふたたびこの世にもどる」。
 そのような舞台空間に立つ演者にふさわしい視座(テアトロン)をさして、世阿弥は「離見の見」といい、「目前心後」(眼を前に見て、心を後ろに置け)といいかえた。「それは、心がいわば後頭部からぬけでて、演じている自分の後ろ姿を、さらにその背後から凝視めているような視座に立てというにひとしい。自分の後ろ姿を通して世界を見ているような視座の開眼といってもいい。つまり、一種の体外離脱の誘いである。」
 そのプロセスを詳述すると、まず、肉眼がひらく顕現的位相と心眼がひらく潜勢的位相(面の裏の闇側)との体感的な自己分離現象に身を置く。つぎに、演じている自分もそれを見ている見所もともにふくんだ舞台空間(β位相、肉眼位相=表世界)を、まるで遙か遠景に見透かすようなさらなる背後の位相(α位相、心眼位相=裏世界=闇の劇場)へ想いを潜め、芝居小屋でおこっていることども全体(この世)を遙かな視線の高みから覗き見る視座(テアトロン)へ転身していく。
《…離見の見は畢竟、芝居小屋全体から心を零化(無化)して、むしろそれをすっぽり覆ってみつめているような零地帯(幽玄の堺=闇の劇場=他界U=α位相)に、心の劇場〔「心より出で来る能」「冷えたる脳」「無心の能」「無文の能」(花鏡)〕を開演せよという教えになる。奇言を弄しているのではないことは、そもそも死者(シテ)の演技論であることを勘案すれば納得いただけるかとおもう。
 そのような離見の見(内心・無心・秘めた心)はとうぜん、外(肉眼位相のこの世)にみえてはならない。「内心ありと、よそに見えては悪かるべし……心をば、人に見ゆべからず」(花鏡)。能ある鷹は爪を隠す式の安直な説教ではない。見えるような内心はまだ、〈この世〉にあるということだ。外は見えるが、外からは見えない場所〔まさに仮面の裏側〕が、離見の見(内心・無心・秘めた心)の境位だからだ。さらに敷衍すれば、離見の見は、見所に見てもらうもの(「有=見」)ではなく、見所をそこへ呼びこむ場所(「無=器」)だということである(遊楽習道)。あるいは、離見の見という、無の闇間〔「心行所滅之處」(遊楽習道)〕に開演する「闇の劇場」へ見所をいざない、見所にもおなじ視座を装填させることに、能の本義があるということである。》(『〈在る〉ことの不思議』)
 能は「表現芸術」という近代用語で割りきることはできない。劇はほんとうは見所の側におこっている。「観客はあの世へと歩み往く。演者はこの世へ歩み帰る。その両者の歩み寄りが、心の劇場となって弾け飛ぶ。だから能とは、観客を他界人と化す技芸…。死びとへの同化を媒介に観客もしばし〈死に身〉になってしまう時空の変身劇である。」
 
 補遺として、以上に摘出した、パライメージをめぐる第二の(「能役者(=シテ=死者)モデル」とか「裏側からの視線モデル」とでも名づけるべき)解釈を補強する材料をひとつ、つけくわえます。
 吉本隆明は「パラ(位置)」という語を有機化学にいう「オルト・メタ・パラ」から導入しています。その語義は、平行性、反対側といったニュアンスを帯びているようで、私はそこに「裏側」という意味を読みこんだわけです。(ここにでてきた「表と裏」の対概念は、これまで折にふれとりあげてきた「内と外」や「一と多」の対概念と組み合わせ、XYZの三つの座標軸とも関連づけることで、かの「哥の伝導体」の理論の精緻化につなげていくことができるかもしれない。)
 
■虚なるもの、像と喩の彼岸
 
 パライメージをめぐる二つの見方(臨死者モデルと能役者モデル)に共通する事態を、もし一言で表現するなら、私は「虚と実」の対語を選びたいと思います。「ウラの世界」と「オモテの世界」、「彼岸」と「此岸」、「非現実(心眼位相のあの世)」と「現実(肉眼位相のこの世)」、あるいは、「夢のイメージ(存在感と結びつかないイメージ、パラ位置からの「四人称」的なイメージ)」と「普通の場面でのイメージ」、等々、ヴァリエーションはいくつもあるでしょうが、いずれにせよ、それらの対立項が(喩のメカニズムを超えて)複素的に接続され、反転(二者交換)しつつ相関(二者並立)するとき、(吉本隆明の語彙をつかえば、「熔接」されるとき)、そこに、普遍イメージ論のもとでみられた言語芸術(文学)における、現時点で最も高次の表現、すなわち(喩的表現を超える)パライメージが塑型されている、というわけです。
 二つのモデルのうちでは、「能役者モデル」の方が、見所すなわち観客と役者との入れ子型の精神の交流と、また、演者(死者)から観客(生者)への視座の装填が組み入れられている点で、パライメージの概念がもつダイナミックで劇的な構造の力と可能性をうまくとらえているように思いました。
 吉本隆明は『真贋』で、次のように語っています。
《小説家の場合、評論や文芸批評と違って、自己の体験を論理として述べるというだけではなく、自分をひとたび劇化する、あるいはドラマ化するという要素が必要です。(略)
 読者に「ああ、これは俺にしかわからないよ」と感じさせるためには、自己が自己を劇化するという客観性を持つ必要があると思います。言い換えれば、自己を違うものに仕立てられるかどうかということです。小説家としてはそれが創作の一番の眼目になるのではないでしょうか。》(『真贋』)
 ここで言われる「自己劇化」が、より高次の段階にある「自己表出」であるとすれば、「能役者モデル」あるいは「離見の見」のもとでとらえられたパライメージの表現を介して、言語芸術(文学)はさらなる高みへとはせのぼっていくのだと言うことができるでしょう。私は、それを「虚なるもの」の世界と名づけておきたいと思います[*]。
 
(パライメージをめぐる二つの解釈に共通する複素的事態を「虚と実」の対語でもってとらえようとしたのは、いうまでもなく、かの「哥の伝導体」の理論の精緻化を念頭においてのことだ。ほんとうは、虚と実、ウラとオモテ、等々の複素的構成物であるパライメージを言いあらわす語として「象(しょう)」をあて、像と喩、そしてそれらの彼岸に(おそらくは言語的に)設営される「虚なるもの」の世界のうちに、この新たに登場した「象」を位置づけたいと考えていた。ただその議論は、吉本隆明の言語芸術論の土俵を横滑りしていく。)
 
[*]虚なるものをめぐって、江藤淳著『近代以前』(「はじめにU」)から、いくつか気になる文章を引く。江藤淳はそこで、「日本文学の特性を否定的に評価しようとする米国や中国の研究家たちの見解に対して、私にやはり独自の日本文学というものがあり、それは自分を超えた連続体として存在するのと同時に現に自分の内にもあると主張させた決定的な要素は、結局言葉──日本語という言葉と自分とのわかちがたい結びつきの自覚である」と書いている。
《しかしそれは虚体であって実体ではない。ということは、私はそれを自分の呼吸のようなものとして、あたかも呼吸が自分の生存と存在の芯に結びついているように自分の存在の核心にあるものとして、信じるほかないということだ。こういう文字に記される以前の言葉は音楽に似ている。より正確にいえば、そういうものとしてとらえられた日本文学の連続は、表現の意志によって整調された呼吸──音楽をつくりつつある演奏家の呼吸に似たものとして、雑音にすぎぬ日常生活者の呼吸と対立しているのである。
 そういう存在の芯に結びついた言葉が、私にとって日本語しかないということを、私は米国で暮すあいだにしばしば感じさせられた。(略)リチャード・ブラックマーが「沈黙の言語」(The language of silence)と呼ぶところのもの、思考が形をなす前の淵に澱むものは、私の場合あくまでも日本語でしかない。(略)言葉は、いったんこの「沈黙」から切りはなされてしまえば、厳密には文学の用をなさない。なぜなら、この「沈黙」とは結局、私がそれを通じて現に共生している死者たちの世界──日本語がつくりあげて来た文化の堆積につながる回路だからである。》(『近代以前』)
 音楽をつくりつつある演奏家の呼吸に似た言葉。死者たちの世界につながる沈黙に根ざした言葉。このような「虚体」として言葉は、現存する「虚相」(声)と完結する「実相」(文字)の二つの要素からなる。
《歴史には、つねに現存しながらしかも完結して不在だという、まぎらわしい性格がつきまとう。歴史をとらえるということは、この完結の相と現存の相とをともに同時にとらえることである。それは、あるいは、言葉を文字と発語との二面からとらえることに通じるかも知れない。文字は定着させ、客観化させ、完結させるものであり、言葉を発語させる呼吸は流動し、主体の存在と不可分であり、生命が存続するあいだくりかえされるものだからである。
 だとすれば、かりに本居宣長が『紫文要領』で援護している日本語の虚相の表現──「はかなくつたなき」、「何となくしどけなげなる」ものが、日本文学の私的(即自的)・主情的・審美的・在来的な一面を指しているとするなら、その公的(対自的)・主知的・倫理的・外来的な側面は、多分日本語という言葉に文字という実相をあたえた漢文学──宣長があれほど潔癖に排除しようとした「儒仏」的要素が代表しているという仮説も可能かも知れない。》(『近代以前』)
 
(27号の37章に続く)

★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。

Web評論誌「コーラ」27号(2015.12.15)
<哥とクオリア>第36章 像と喩の彼岸──和歌のメカニスムX(中原紀生)
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