■祖述と註釈をめぐる前口上
以下、『言語にとって美とはなにか』のエッセンスと思われるもの、いわば吉本隆明の芸術言語原論を自由間接話法のかたちで(その「特異な」と形容してもいい「書きざま」を損なわないかたちで)祖述し、若干の註釈をほどこします。
その前に、本篇に先だつ註をひとつ。
山城むつみ氏は「小林秀雄のクリティカル・ポイント」(『文学のプログラム』)で、小林秀雄のドストエフスキイ論に見られる、引用や書き写しではなく、原作を反復的に再構成していく奇怪で異様な「書きざま」をめぐって、「小林は『罪と罰』を書こうとしているのではないだろうか。しかも、『罪と罰』の小林秀雄ヴァージョンをではなく、妙な言い方になるが、小林はあのドストエフスキイ作の、あの『罪と罰』を書こうとしているのではないだろうか。」と書き、その目論みを、「原作を反復的に創作する」こともしくは「批評」=「創作」と規定しています。
ちなみに、これは吉原順之氏の 「『感想』をたどる 番外編」に書いてあったことなのですが、郡司勝義の「一九六〇年の小林秀雄」(『文學界』2002年9月号)に、平野謙から「『感想』は祖述だ」と批判を受けた小林秀雄の反論が紹介されています。「ベルグソンを一行でも讀んでゐたら「祖述」かどうか、すぐ判つただらうに、世の中に無責任の横行これに過ぎたるはない。だが、年月が經つて同じことを繰返すのも、この世のことだね、昔、僕が「『罪と罰』について」(昭和九年)を連載したとき、大宅壯一といふ大知識人が新聞で同樣の發言をして僕を嘲つたものだ。彼らは祖述が寧ろ生産的な營みだとは、全く知らないし、知らうともしない。これは僕の發明だといつていいものだ、フランスでは見かけるが、わが國では僕が初めてだ、他にあつたとしたところで僕のやうに工夫をこらしてはゐない。」
また、内田樹氏の 「オリジナリティについての孔子の教え」に、「述べて作らず」(『論語』述而第七の一)の意味をめぐる白川静の文章が引かれています。「過去のあらゆる精神的遺産は、ここにおいて規範的なものにまで高められる。しかも孔子は、そのすべてを伝統の創始者としての周公に帰した、そして孔子自身は、みずからを「述べて作らざる」ものと規定する。孔子は、そのような伝統の価値体系である「文」の、祖述者たることに甘んじようとする。しかし実は、このように無主体的な主体の自覚のうちにこそ、創造の秘密があったのである。伝統は運動をもつものでなければならない。運動は、原点への回帰を通じて、その歴史的可能性を確かめる。その回帰と創造の限りない運動の上に、伝統は生きてゆくのである。」(『孔子伝』,『白川静著作集6 神話と思想』)
なにが言いたいのかというと、私がこれから試みる「祖述」は、小林秀雄が「発明」した創造=批評という高度な生産的営みを模そうとするものではないし、ましてや「無主体的な主体の自覚」をもった祖述者・孔子の真似事を企てるものでもなくて、ただ字義通りの祖述であるということ、これに尽きます。
言わずもがなの蛇足をくわえると、「註釈」についても、それは、「注釈学は、「哲学」をディコンストラクトする‘外部性’であり」、『論語』を「最上至極宇宙第一の書」と読んだ伊藤仁斎以後、「哲学は注釈学としてしかありえない」(柄谷行人「江戸の思想」,『現代思想』[臨時増刊]1986年9月号「特集|江戸学のすすめ」)と言われるような意味合いのものではないし、ましてや、子安宣邦氏が『「事件」としての徂徠学』で述べているような、「孔子の道は、先王の道なり」という徂徠の言葉を「言説=事件・出来事」としてとらえるアプローチが斥けようとする「テキストの内側への読みの深化」、すなわち「所与の言説によってもう一つのほんとうの言説、テキストの筆者のほんとうの意図として読みとられた言説を再構成すること」をめざすアプローチに与するものでもなくて、ただ備忘録がわりの私註をほどこすという、リテラルな意味でしかありません。(それにしても「言説=事件・出来事」は、いかにも「生起、エアアイグニス」を思わせる。)
■吉本隆明の芸術言語原論(言語の理論)
T.言語の理論─自己表出と指示表出
T−1.言語の本質
(1)言語発生の機構─幻想と現実
◎言語、文学、芸術は、マルクスがまともにとりあげなかったテーマのひとつだが、『ドイツ・イデオロギー』のフォイエルバッハ論に次の言葉が残されている。「言語は意識とその起源の時を同うする。──言語とは他人にとつても私自身にとつても存在するところの実践的な現実的な意識であり、また、意識と同じく、他人との交通の欲望及び必要から発生したものである。」
なぜ、通俗マルクス主義者たちは「他人にとつても私自身にとつても存在するところの実践的な現実的な意識」(他の人々にとって存在するとともに、そのことによってはじめて私自身にとってもまた実際に存在するところの現実的意識)というような、捨てるには惜しい微妙ないいまわしを投げすててしまうのだろうか。マルクスが「意識」とここでいうとき、じぶんに対象的になった「人間的」意識をもんだいにしており、「実践的」というとき、「外化」された意識を意味している。こういう限定のもとで、外化された現実的な意識としての「言語」は、じぶんにとって人間として対象的になり、だからこそ現実的人間との関係の意識、いわば対他的意識の外化になる。
言語が「他人との交通の欲望及び必要から発生した」とする見解は、「人間の交際(交通)の手段として奉仕するために存在し」というスターリンの改作をゆるすものではない。『ドイツ・イデオロギー』は、言語についてもスターリンなどよりずっと上等であって、「自己自身との交通の欲望及び必要から発生した」といいかえても一向さしつかえない「外化」の概念としてこれをつかっていることは、その思想形成の過程をたどったことのあるものには、誤解の余地はない。
◎労働の発達が言語の発生をうながしたことと、うながされた言語を人間が自発的に発することとのあいだには、比喩的にいえば千里の径庭がある、このへだたりは、あたかもエンゲルス(「猿の人類化への労働の関与」)の「成立しつつありし人類は、相互に何事かを言はなくてはならぬまでになつた」といういいまわしや、『ドイツ・イデオロギー』の「他人にとつても私自身にとつても存在するところの実践的な現実的な意識」(他の人々にとって存在するとともに、そのことによってはじめて私自身にとってもまた実際に存在するところの現実的意識)といういいまわしに対応している。
この千里の距たりを、言語の「自己表出」として想定できる。自己表出は現実的な条件にうながされた現実的な意識の体験がつみ重なって、意識のうちに「幻想」の可能性としてかんがえられるようになったもので、これが人間の言語が「現実」を離脱してゆく水準をきめている。それとともに、ある時代の言語の水準をしめす尺度になっている。言語はこのように、対象にたいする指示と、対象にたいする意識の自動的水準の表出という二重性として言語の本質をつくっている。
◎言語は、動物的な段階では現実的な反射であり、その反射がしだいに意識の「さわり」をふくむようになり、それが発達して自己表出として指示機能をもつようになったとき(現実的な対象にたいする反射なしに、自発的に有節音声を発することができるようになり、それによって逆に対象の「像」を指示するようになったとき)、はじめて言語とよばれる条件をもった。たとえば狩猟人が、自己表出のできる意識を獲得しているとすれば「海(う)」という有節音は自己表出として発せられて、眼前の海を「直接的」にではなく「象徴的」(記号的)に指示することとなる。このとき「海(う)」という有節音は言語としての条件を完全にそなえることになる。
こういう言語としての最小の条件をもったとき、有節音はそれを発したものにとって、じぶんをふくみながらじぶんにたいする音声になる。またそのことによって他にたいする音声になる。反対に、他のためにあることでじぶんにたいする音声になり、それはじぶん自身をはらむといってもよい。
(2)言語進化の特性─類と個、対自と対他
◎ある時代のひとつの社会の言語の水準は、ふたつの面からかんがえられる。言語は自己表出の面から、わたしたちの意識にあるつよさをもたらすから、それぞれの時代がもっている意識は言語が発生した時代からの急げきなまたゆるやかなつみかさなりそのものにほかならない。しかし指示表出としての言語は、あきらかにその時代の社会、生産体系、人間のさまざまな関係、そこからうみだされる「幻想」によって規定される。しいていえば、言語を表出する個々の人間の幼児から死ぬまでの個々の環境によっても決定的に影響される。
こんなふうに言語にまつわる永続性と時代性、または類としての同一性と個性としての差別性、それぞれの民族語としての特性などが、言語の対自と対他のふたつの面としてあらわれる。言語表現である文学作品のなかにわたしたちがみるものは、ある時代に生きたある作者の生存とともにつかまれて、死とともに亡んでしまう「何か」と、人類の発生からこの方、つみかさねられてきた「何か」の両面で、これは作者が優れているか凡庸であるかにかかわらないものだ。
(3)非言語的段階─音韻(自己表出以前の自己表出)と韻律(指示表出以前の指示表出)
◎原始人の叫びごえが特定の律動をもち、意識の自己表出をもつようになって、言語の条件が完成するまでに、どのような段階をへたかは確証されないとしても、特定の音の組合せが、特定の対象にむすびつき、その象徴としてあらわれたことは、たれも否定することができない。この過程は個々の原始人の音声のちがいがあるにもかかわらず、そのなかから個別的な音の響きをききわけて個別的なちがいをみとめるとともに、抽出された音声の共通性をみとめるようになったことを意味している。
こういう有節音声の抽出された共通性が「音韻」として認められたことは、器官としての音声が、意識の自己表出としての音声に高められたことと対応している。三浦つとむが『日本語はどういう言語か』のなかで、音韻は、表現上の社会的約束にむすびついている音の一般的な面であり一族であるという云いかたでさしているものは、これに対応している。
◎時枝誠記は『国語学原論』のなかで、韻律(リズム)は言語における最も根源的な「場面」であって、言語はリズム的場面の外に実現すべき場所を見出すことが出来ない(場面は表現に先立って存在し、つねに表現そのものを制約する)と書いている。この韻律観はとても興味深いが、わたしたちを満足させない。
わたしたちは、原始人が祭式のあいだに、手拍子をうち、打楽器を鳴らし、叫び声の拍子をうつ場面を、音声反射が言語化する途中にかんがえてみた。こういう音声反応が有節化されたところで、自己表出の方向に抽出された共通性をかんがえれば「音韻」となるだろうが、このばあい有節音声が現実的対象への指示性の方向に抽出された共通性をかんがえれば言語の「韻律」の概念をみちびけるような気がする。だから言語の「音韻」はそのなかに自己表出以前の自己表出をはらんでいるように、言語の「韻律」は、指示表出以前の指示表出をはらんでいる。
対象とじかに指示関係をもたなくなって、はじめて有節音声は言語となった。そのためわたしたちが現在かんがえるかぎりの韻律は、言語の意味とかかわりをもたない。それなのに詩歌のように、指示機能がそれによってつよめられるのはそのためなのだ。リズムは言語の意味とじかにかかわりをもたないのに、指示が抽出された共通性だとかんがえられるのは、言語が基底のほうに非言語時代の感覚的母斑をもっているからなのだ。これは等時的な拍音である日本語では音数律としてあらわれている。
T−2.言語の属性
(4)意味と価値、こちらがわとあちらがわ
◎指示表出と自己表出を構造とする言語の全体を、自己表出によって意識からしぼり出されたものとしてみるところに、言語の「価値」はよこたわっている。あたかも、言語を指示表出によって意識が外界に関係をもとめたものとしてみるとき言語の「意味」につきあたるように。
ここでいくらか注意すべきは、ソシュールのように、言語の価値が、等価概念と交換概念なしには成り立たないということではない。すでに言語の表出が、人間の意識の自己表出と指示表出の構造であるとみてきた段階で、ことさらその必要はない。ただ、人間の意識が「こちらがわ」にあるのに、言語の価値は、「あちらがわ」に、いいかえれば表現された言語にじっさいにくっついて成り立つということだけだ。
■吉本隆明の芸術言語原論(表現の理論)
U.表現の理論─像(イマージュ)と喩(フィギュール)
U−1.像の生起、言語学との訣れ
(5)像の喚びおこし
◎机の上の緑色の灰皿を眼でみながら「ハイザラ」という言葉を発したとする。このとき灰皿の「像」をひきおこすことはない。しかし眼をとじて「ハイザラ」といったとすれば、灰皿の「像」を喚びおこすことができる。ただ灰皿を眼でみた直後に眼をとじて「ハイザラ」という言葉を発したときには、直前までみていた灰皿の視覚像に制約される。眼をとじて突然に「ハイザラ」という言葉を発したときうかんでくる灰皿の「像」の自由さとはちがっている。それは視覚像と言葉のあいだに喚びおこされる像と言葉と意識のあいだに喚びおこされる像とのちがいだといっていい。
像とはなにかが、本質的にわからないとしても、それが対象となった概念とも対象となった知覚ともちがっているという理解さえあれば、言語の指示表出と自己表出の交錯した縫目にうみだされることは、了解できるはずだ。あたかも、意識の指示表出というレンズと自己表出というレンズが、ちょうどよくかさなったところに像がうまれるように。
◎言語の像は、もちろん言語の指示表出が自己表出力によって対象の構造までもさす強さを手にいれ、そのかわりに自己表出によって知覚の次元からははるかに、離脱してしまった状態で、はじめてあらわれる。あるいはまったく逆であるかもしれない。言語の指示表出が対象の世界をえらんで指定できる以前の弱さにあり、自己表出は対象の世界を知覚するより以前の弱さにあり、反射をわずかに離れた状態で、像ばかりの言語以前があったというように。言語の像がどうして可能になるか、を共同体的な要因へまで潜在的にくぐってゆけば、意識に自己表出をうながした社会的幻想の関係と、指示表出をうながした共同の関係とが矛盾をきたした、楽園喪失のさいしょまでかいくぐることができる。
(6)文字と像、表出と表現
◎文字の成立によって、表出は意識の表出と表現とに分離する。言語は意識の表出であるが、言語表現が意識に還元できない要素は、文字によってはじめてうまれたのだ。文字にかかわることで言語の表出は、対象になった自己像が、じぶんの内ばかりではなく外にじぶんと対話をはじめる二重のことができるようになる。
◎言語には、自己表出にアクセントをおいてあらわれる自己表出語と、指示表出にアクセントをおいてあらわれる指示表出語があるように、言語本質の表記である文字にも自己表出文字と指示表出文字がある。
わたしたちは指示表出語に、意味や、対象の概念のほかに、それにまつわる像をあたえているし、またあたえうる。表意文字でかくことができるのは、もちろん指示表出語にかぎられている。そして指示表出語だけでなく、言語の指示表出へのアクセントは大なり小なり像をあたえるという点に、言語表記の性格にとって最後のもんだいがあり、また言語の美にとって最初のもんだいがあらわれる。
◎言語の表現が、対象としてつくられた像意識と合致するためには、ある領域が限られなければならない。そしてある領域内では表出された言語は、あたかもそれ自体が「実在」であるかのように像意識の対象でありうるのだ。それは、もともと言語にとって得手な領域ではないため、指示表出の強弱と自己表出の強弱とが、縫目で冪乗されるときにだけありうるといっておくべきだとおもう。それは言語がたんになにか物象を対象に指示したことによっても、いわねばならぬ必然で思わずいってしまったことだけでもうみだせない。じぶんに対象的になったじぶんの意識が、「観念」の現実にたいして、なお対象的になっているといった特質のなかで、言語として表出されるときに、はじめて像的な領域をもつといえる。
◎言語にとっての美、すなわち文学もまた意識の表出であるが、この表出はその内部で、「書く」という文字の表現が成り立つとともに、表出と表現(produzieren)とに分裂する。
このことは、人間の意識を外にあらわしたものとしての言語の表出が、じぶんの意識に反作用をおよぼすようにもどってくる過程と、外にあらわされた意識が、対象として文字に固定されて、それが「実在」であるかのようにじぶんの意識の外に「作品」として生成され、生成されたものがじぶんの意識に反作用をおよぼすようにもどってくる過程の二重性が、無意識のうちに文学的表現(芸術としての言語表出)として前提されているという意味になる。
現在まで流布されている文学理論が、いちように「文学」とか「芸術」とか以上に、その構造に入ろうとはせず、芸術と実生活とか、政治と文学とか、芸術と疎外とかいいならわせば、すんだつもりになるのは、表出という概念が固有の意識に還元される面と、生成(produzieren)を経て表現そのものにしか還元されない面とを考察しえなかったがためだ。
U−2.喩のメカニズム
(7)言語表現の共通基盤、螺旋状にはせのぼる表現の段階
◎言語表現のうちがわに、いくつかの共通の基盤を抽出することができる。それは、歴代の個々の表現者が自由に表現したものが偶然につみかさねられて、全体としてはあたかも必然なあるいは不可避なものとしてつくりげた共通性だといえる。この共通基盤は、表現としての韻律・撰択・転換・喩に分類すれば現在までの言語の表現のすべての段階をつくすことができる。
わたしたちはいま、芸術としての言語表現の半歩くらい手前のところにいる。半歩手前というのは、言語表現を文学芸術とみなすにはまだ「構成」(詩、物語、劇)ということを、取扱っていないからだ。構成を扱わなければ反復、高揚、低下、表現のはじめとおわりが意味するものをしることができない。
◎音数律は、日本語のうみだしたいちばん強力な構成の枠ぐみであり、日本語の指示性の根源である。
おそらく、短歌的なものの単純な中味が、どうして音数律のなかでひとつの自立した美をあたえるかという問いには、それが日本の文学(詩)発生いらいの自己表現のいただきに連続したつみかさねをもつからだというかんがえをもってこなければとけない。
◎わたしたちは、喩と喩のなかでの韻律のはたらきと、言語の韻律のはたらきをながめることで、つぎのようなことをみてきた。ひとつは、ある作品のなかで場面の転換はそのまま過程として抽出せられたとき喩の概念にまで連続してつながっており、また、喩はその喩的な本質にまで抽出せられない以前では、たんなる場面の転換にまでつながっているということだ。喩の抽出がすでに慣用されてふつうになったものが、隠喩・諷喩・引用喩・反語法……などといった修辞的な区別になる。そして、喩の概念が縮退した状態をかんがえれば、たんなる場面の転換というところにたっする。
それならば、場面の転換が縮退したところ、あるいはより混沌とした未分化なところを想定すれば、なにがのこるのだろうか。たとえば、たんに任意にとったフィルムをつなぎあわせたにすぎないような記録映画も、場面を意識的にしろ無意識的にしろ撰択したところにすでに初原的な美のもんだいが成り立っている。なぜ、その場面を「えらんだ」かというところには、すでに撰択の美があらわれている。言語の表現も、自己表出の意識としてべつもんだいではない。言語の場面の転換の縮退したところには、場面そのものの撰択ということがのこるのだ。
◎わたしたちは現在、「韻律」(言語における最も根源的な「場面」)をいちばん根のところにおいて、「場面の撰択」をつぎにやってくる表現の段階とし、さらに、「場面の転換」をへて、いちばん高度な「喩」のもんだいにまで螺旋状にはせのぼり、また、はせくだる表現の段階をもっているといっていい。そして、文学の表現として、言語がつみかさねてきたこれらの過程は、現在の水準の表現にすべて潜在的には封じこめられている。そしてこれが、指示表出としての言語が「意味」としてひろがって交錯するところに、詩的空間・散文的空間の現在の水準がえがかれる。
また、唱うべき対象を「えらびとる」ことができないままに表現された記紀歌謡のような古代人の詩の世界から、すでに高度な喩をつかって現実に撰択している「社会」との関係を超えようとする欲求をあらわしている現在の文学の世界にいたるまで、言語がつみかさねてきたながい過程は、現在の言語空間の水準を構成している。
(8)喩の二重性と位相
◎どんなに言葉をつみ重ねても、現に眼のまえにその光景を視ながら、それをそのまま言語で再現できないことは先験的にきまっている。言語は自己表出を手に入れたときから知覚の次元を離脱してしまったからだ。もし、あるひとつの文章が野原いちめんにさいた白いクローバーの像をほうふつとさせることができたとすれば、その文章は視覚的な印象のつみ重ねによらず、言語像をよびおこす力をくみあわせた想像的な表出の力によっている。
こういうところに言語の意味と像との深淵がよこたわっている。もし、深淵の一端に意味だけをひらいている言語をかんがえ、他の一端に像だけをひらいている言語をかんがえれば、わたしたちが価値としてみている言語の表現は、すべてこの両端をつなぐ球面のうえに、この二端の色に二重に染めあげられて存在している。言語は、現実世界とわたしたちとのあいだで故郷をもたない放浪者ににている。
言語は故郷をもたない放浪者であるため、ひとつの言語とべつの言語とをむすびつける唯一つの本体──つまり人間が、そのあいだに存在しさえすれば、その社会のなかで社会とたたかい、矛盾している根拠から、どんな言語と言語のあいだでも自由に、しかしその人間の現実社会での存在の仕方にきめられて連合させることができる。喩はそんな言語の質があるからはじめて可能となるのだ。
◎隠喩、諷喩、引用喩……といったように喩を壁画的に分類するよりも、ただ「像的な喩」と「意味的な喩」の両端があり。価値としての言語の喩はこの両端をふまえた球面のうえに大なり小なりそのいずれかにアクセントをおいて二重性をもってあらわれてくるといえば充分だとおもう。これが喩の本質で、この本質をふまえたうえは、修辞学的な迷路にさまようひつようはまったくない。
喩は言語をつかっておこなう意識の探索であり、たまたま遠方にあるようにみえる言語が闇のなかからうかんできたり、たまたま近くにあるとおもわれた言語が遠方に訪問したりしながら、言語と言語を意識のなかで連合させる根拠である現実の世界と、人間の幻想が生きている仕方が、いちばんぴったりと適合したとき、探索は目的に命中し、喩として成り立つようになる。
◎おそらく、喩は言語の表現にとって現在のところいちばん高度な撰択で、言語がその自己表出のはんいをどこまでもおしあげようとするところにあらわれる。「価値」としての言語のゆくてを見きわめたい欲求が、予見にまでたかめられるものとすれば、わたしたちは自己表出としての言語がこの方向にどこまでもすすむにちがいないといえるだけだ。そして、たえず「社会」とたたかいながら死んだり、変化したり、しなければならない指示表出と交錯するところに価値があらわれ、ここに喩と価値とのふしぎなななめにおかれた位相と関係があらわれている。
■二つの基底から三つの基底へ
たくさんの大切な論点を拾いそこねていると思います。これから先、『言語にとって美とはなにか』を読みかえすたびに、これとは別のかたちの縮約がもたらされることになるでしょう。満身創痍であることを深く自覚しつつ、先にすすみます。
さて、以上に抜き書きした議論のいたるところで、タテ軸とヨコ軸、もしくは虚軸と実軸の交叉による二元論を見ることができました。いま、目にとまったかぎり無造作に抽出してみると、次のようになります。
〇言語発生機構にかかわる「対自的意識/対他的意識」。
〇言語発生以前の非言語的段階における「音韻(自己表出以前の自己表出)/韻律(指示表出以前の指示表出)」。
〇言語の二つの本質「自己表出/指示表出」。「幻想/現実」。
〇言語の進化にまつわる「永続性/時代性」。「類(同一性)/個(差異性)」。「人類の発生からこの方つみかさねられてきた「何か」/ある時代に生きたある作者の生存とともにつかまれて死とともに亡んでしまう「何か」」。
〇言語の二つの面「対自/対他」。
〇言語の二つの属性「価値/意味」。
〇意識の自己表出と指示表出の「ふしぎな縫目」からうまれる第三の属性「像」を通じた「表現の理論/言語の理論」の分岐。
〇像の二重性「言葉と意識のあいだに喚びおこされる像/視覚像と言葉のあいだに喚びおこされる像」。
〇喩の二重性「意味的な喩/像的な喩」。
〇表現の理論の骨格をなす二重性「喩(フィギュール)/像(イマージュ)」。
これらの二元論のヴァリエーションの基本は、あらためて言うまでもなく、「自己表出/指示表出」の対概念を基底とする言語の二重性の理論にあります。ところが、論述の対象が言語の理論から表現の理論に移行すると、そこに、(明示的か黙示的か、黙示的であるとして意識的か無意識的か、はともかく)、第三の基底(軸)が導入され、議論の基調が、単純明快な外観をもった二元論から、複雑怪奇な様相を呈する三元論ないし多元論へと転じていくのです。(このあたりの叙述は、中村礼治氏の論考、たとえば 「吉本隆明の三元論」などに示唆を得ているが、内容的には直接の関係はない。)
言語の属性に関する議論の過程で、指示表出の系譜に属する「意味」と自己表出の系譜に属する「価値」に加えて、第三の、言語の指示表出と自己表出の交錯した縫目にうみだされる「像」の概念が導入され、以後、言語と表現の理論における像の位置づけをめぐって、錯綜した議論(たとえば、価値としての言語の表現は、すべて意味と像との深淵の両端をつなぐ球面のうえに存在している、とか、価値としての言語の喩は「像的な喩」と「意味的な喩」の両端をふまえた球面のうえにあらわれてくる、とか、喩と価値とのふしぎなななめにおかれた位相と関係云々、といった議論)が展開されることになるのは、その見やすい例でしょう。
第三の基底、第三の座標軸。それは、タテ軸(虚軸)とヨコ軸(実軸)で決定される平面(虚軸を時間、実軸を空間と規定するならば、四次元時空)を上方(もしくは他界)から眺めおろす垂直の視線をもたらします。吉本隆明は『詩人・評論家・作家のための言語論』に収められた「言語論からみた作品の世界」で、韻律・撰択・転換・喩にもうひとつ加えるとしたら、それは「パラ・イメージ、つまり上方からの視点のイメージ」だと語っています。パラ・イメージについては、後に『ハイ・イメージ論U』で詳細に論じられることになるのですが、実は、『言語にとって美とはなにか』にも、その兆しのような議論がでてきます。
《もしも言語が【像】を喚び起こしたり、【像】を表象したりできるものとすれば、意識の指示表出と自己表出との‘ふしぎな’縫目に、その根拠を求めるほかはない。
ここで、ふたたび言語進化のところでかんがえたものを、あたらしい眼でたどってみなければならぬ。
音声は、現実の世界を視覚が反映したときの反射的な音声であった。そのときにはあきらかに知覚的な次元にあり、指示表出は現実世界を直かに指示していた。しかし、音声が意識の自己表出として発せられるようになると、指示は現実の世界にたいするたんなる反射ではなく、対象とするものにたいする指示にかわった。いわば自己表出の意識は起重機のように有節音声を吊りあげた。
こうして言語は、知覚的な次元から離れた。【像】は、人間が現実の対象を知覚しているときにはありえない意識だ。これはたとえばサルトルが『想像力の問題』のなかで、指摘したとおりだ。言語に【像】をあらわしたり喚び起こしたりする力があるとすれば、言語が意識の自己表出をもつようになったところに起動力をもとめるほかない。
しかしそれとは逆に言語の【像】をつくる力は、指示表出のつよい言語ほどたしかだといえる。この意味で言語の【像】は、言語の指示表出と対応している。いいかえればつよい自己表出を起動力とするよわい指示表出か、あるいは逆によわい自己表出を起動力にしたつよい指示表出に起因する‘なにか’だというべきだろうか。》(『定本 言語にとって美とはなにかT』)
ここに用いられた「起重機」や「吊りあげ」や「起動力」という語が、そして、『言語にとって美とはなにか』の連載開始と同時期に書かれた「詩とはなにか」で、「定常的な意識からはじまって励起された状態から衰退をへて定常的な状態への復帰までの表現を詩とよぶことができる」(『詩とはなにか──世界を凍らせる言葉』)や、「詩において言語は、意識の自己表出としても、指示性においても励起されていて、想像的なものそれ自体である」(同)といった文章のうちに見られる「励起」という語彙が、韻律・撰択・転換・喩へと「はせのぼる」表現の段階と、そして「喩」のつぎにくる高度な表現の方向を指し示していた、と言っていいでしょう。(「詩とはなにか」には、「詩の本質はまったくちがった部分に脈絡をつけることができる場所からしか視えない」という表現もあって、これはまさに「喩のメカニズム」が稼働する場所のことを指し示している。)
■三本の座標軸をめぐる試行的考察
ここで、議論を先に進めるための補助線を引きます。
《けれどわたしがX軸の方向から街々へはいつてゆくと 記憶はあたかもY軸の方向から蘇つてくるのであつた それで脳髄はいつも確かな像を結ぶにはいたらなかつた 忘却という手易い未来にしたがふためにわたしは上昇または下降の方向としてZ軸のほうへ歩み去つたとひとびとは考へてくれてよい そしてひとびとがわたしの記憶に悲惨や祝福をみつけようと願ふならば わたしの歩み去つたあとに様々の雲の形態または建築の影をとどめるがよい》(「固有時との対話」、『吉本隆明詩全集5 定本詩集』)
菅野覚明氏は『吉本隆明──詩人の叡智』で、「三本の座標軸が設置されたこの空間は、もちろん物理空間そのものではなく、物理空間に比せられた吉本の内部世界である。」と書き、それぞれの座標軸について、次のように定義しています。
◎自然時間(マクロな次元の物理現象を記述する因果的時間)と固有時(ミクロな物象に固有の非因果的時間、内部意識における時間性)に二重化された時間がそれに沿って流れるX軸。
◎今という点に形を与える現在の現実総体の広がりを定義するY軸。
◎本来は一枚の「わたしたち」の時空・風景であるはずのXY平面(対幻想の領域)を、「わたし」のそれと「ひとびと」のそれとに歪ませ引き裂く張力のベクトルを測るZ軸。その上昇の方向は内部世界における共同性の領域(共同幻想)を、下降の方向は個的な領域(自己幻想)を指し示す。
菅野氏はつづけて、「固有時との対話」で吉本がめざしたのは、「上昇させようとする力に逆らって、即ち下降する力[個的なものに徹すること]によって、分裂する個と類、二つの時間、二つの風景を統一すること」であり、「純粋に個的なものの内に、「わたし」と「ひとびと」とが一致する地点を探し求める」ことであったとし、その地点(吉本が「空洞のような個所」(「固有時との対話」,『吉本隆明詩全集5 定本詩集』)と名指した「寂寥の底」)から新たに立ちあらわれる「わたし」、すなわち「ランボオといふ名さへ偶然と思はれるほどの、或る普遍的な純潔な存在」(小林秀雄「ランボオV」)としての無償の「わたし」に、もしあえて一つの名を与えるなら「詩人」こそがもっともふさわしいだろう、と書いているのです。
菅野氏の考察は、通りすがりの一瞥を許さない濃さと深みを湛えているのですが、ここでは、その表面的な意匠のようなものを借用し、もうすこし簡便なかたちで応用してみたいと思います。
講演「言葉の根源について」(『詩とはなにか──世界を凍らせる言葉』)で、吉本隆明は、次のような議論を展開しています。
いわく、すべての「存在するもの」は、それに固有の時間と空間の様式をもっている。言語の表現もまた、言語表現に固有な時間性(フィクションの追体験)と空間性(意味の広がり、受け入れの仕方の広がり)をもっている。それは主観的な内的意識の時間・空間とも、客観的な自然のもっている時間・空間ともちがう。
またいわく、言語表現の時間性、空間性の根源は、身体の受容性と了解の仕方にある。あらゆる感覚器官による受け入れ(聴覚的、視覚的、嗅覚的、味覚的受け入れ)の度合・仕方が空間性の根源にあり、この受け入れたものを「灰皿である」と了解して知覚作用を完了させる、あるいは「不吉なふくろうがとまって鳴いた家の人間は殺してもよい」と了解する、その了解の仕方が時間性の根源にある。
以上の議論の前段をつかって、かの三本の座標軸を再定義すると、X軸=客観的自然の時間性と空間性、Y軸=内的意識の時間性と空間性、Z軸=言語表現の時間性と空間性、となるでしょうか。菅野氏の定義と比較すると、議論の凄みに欠けますが、少なくとも私には、よりわかりやすく見通しのきくもののように思えます。
ところで、ここに、後段の議論を組み合わせると、もっと簡便な定義を得ることができます。Z軸を、言語表現に固有な時間性と空間性をあらわすものとするのは同じですが、X軸を、空間性の根源にある身体の受容性、つまり感覚的知覚的作用にかかわる軸、そしてY軸を、時間性の根源にある了解の仕方としての情動、意識、意味、概念、等々の領域にかかわる軸と定義してはどうかということです。三木成夫の発生学を援用して、X軸は「感覚の動き」、Y軸は「内臓の動き」に(したがって、X軸は「指示表出」性、Y軸は「自己表出」性に)それぞれかかわるものと断定してもいいでしょう。
『吉本隆明「五つの対話」』の序文で、吉本隆明は次のように書いています。
《言葉は聴覚音を概念の音にまで凝集させる磁場をつくる。またこの磁場によって言葉はつくられる。これは文字(記号)が視覚像を概念の形象にまで輪郭づける場面をつくり、またこの場面を文字と呼ぶようになったこととふかく相似している。》(『吉本隆明「五つの対話」』)
ここにでてくる「磁場」や「場面」をY軸にあてはめ、「聴覚音」や「視覚像」をX軸上に位置づけ、そして、これらを「概念の音」に凝縮し、また「概念の形象」にまで輪郭づける力の方向をZ軸になぞらえるならば、ここに、フレミングの左手の法則に類似した関係(Y軸=人差し指=磁界の方向、X軸=中指=電流の方向、Z軸=親指=導体にかかる力の方向)が成り立ちます[*]。(吉本隆明の議論とフレミングの法則、そしてフレミングの法則と三つの基軸(XYZ軸)との関係については、宇田亮一著『吉本隆明 “心”から読み解く思想』に示唆を得ているが、内容的には直接の関係はない。)
ここでいう「力」は、定常状態(XY平面)からの「生起、エアアイグニス」によって、幻想、宗教性、等々の励起状態(吊りあげられた新しいXY平面、すなわち喩のメカニズムがはたらく詩的時空であって、それが衰退すると、種々の比喩形象が壁画的に分類整序される新しい定常状態(修辞空間)にいたる)をもたらす言語のはたらきを指している、と考えることができます。このとき、X軸が吊りあげられて励起するか、Y軸が吊りあげられて励起するか、それともXY平面そのものが(いわば、「球面」状に)せりあがって励起するか、現実の力の様態によって、いくつかのヴァリエーションが想定されるでしょう。
試みに、吉本隆明の芸術言語原論のうち、言語の理論にそくして、その概観をスケッチしておきます。言語の属性(意味と価値と像)の議論がうまく拾えていませんが、いや、そもそも『言語にとって美とはなにか』を通読していた際の躍動がまったく掬えていませんが、これが現時点での水準だとみきわめるしかありません。像と喩を主軸とする表現の理論については、おそらくこれとは違うかたちになるでしょうが、できれば次章以下でとりくみたいと思っています。
@非言語時代
X(0)軸=現実世界を直かに指示する反射的な音声(動物的・知覚的な次元、感覚の運動)
Y(0)軸=意識の「さわり」をふくむ音声(内蔵の運動)
A言語の起源と発生
Z(0)軸=有節音声の共通性の(指示性と自己表出の方向への)抽出
X(1)軸=指示表出以前の指示表出をはらむ韻律(言語における最も根源的な「場面」)
Y(1)軸=自己表出以前の自己表出をはらむ音韻
Z(1)軸=自発的な有節音声の発出、自己表出の意識が起重機のように有節音声を吊りあげる(現実から幻想へ)
X(2)軸=現実の世界の対象を直接的にではなく象徴的(記号的)に指示する言語
Y(2)軸=意識の自己表出として発せられる音声(自分自身を含みながら対自的になり、またそのことによって対他的となる音声)
B言語の進化
Z(2)軸=言語発生以来の急激なまた緩やかな積み重なりとしての意識 の強さ(X軸から)
社会的諸関係からうみだされる幻想による言語の規定(Y軸から)
X(3)軸=言語の対他面のあらわれ(時代性、個性としての差別性、民族語としての特性)
Y(3)軸=言語の対自面のあらわれ(永続性、類としての同一性)
C文学表現への励起
Z(3)軸=想像的なものそれ自体としての言語
X(4)軸=ある時代に生きたある作者の生存とともにつかまれて、死とともに亡んでしまう「何か」
Y(4)軸=人類の発生からこの方、つみかさねられてきた「何か」
[*]三本の座標軸を、X軸=現実界(物の世界)、Y軸=想像界(心の世界)、Z軸=象徴界(詞の世界)におきかえると、かのラカン三体(貫之三体)に近接する。また、X軸=存在、Y軸=本質、Z軸=概念と考えると、ヘーゲル論理学との関係が浮上してくる。そもそも励起=止揚ととらえると、弁証法との関係はどうなのか、といった論点が生起してくる。X軸=個(特殊)、Y軸=類(一般)、Z軸(上昇)=普遍、Z軸(下降)=単独、などとあてはめて考えることもできるだろう。
概念間の類似性や関係性をみいだし構築することに悦びを感じるタイプと、差異性や無関係性を剔抉することに熱中するタイプがあるとすれば、私はあきらかに前者のグループ(折口信夫のいう「類化性能」が優位にたつ側)に属している。これまでから考えつづけてきた哥の伝導体の理論、それは「イマジナリー/リアル」の水平軸と「ヴァーチュアル/アクチュアル」の垂直軸という二本の座標軸でもって設えられた至極単純な、いわば静態的な理論モデルなのだが、いま吉本隆明の思考の基底をなす三本の座標軸のアイデアを知り、これをマグネットにした概念の重ね着の可能性を試しているうち、ヴァーチュアルな力の稼働を組み込んだ動態的モデルへのブレイクスルーのための重要な手がかりが得られるのではないかという期待がめばえ始めている。ただし、この予感が現実のものになるにはまだ数年は要するだろうと思う。
(27号に続く)
★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。
Web評論誌「コーラ」26号(2015.08.15)
<哥とクオリア>第35章 続々・自己表出と指示表出の織物─和歌のメカニスムW(中原紀生)
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