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Web評論誌「コーラ」
26号(2015/08/15)

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■生起と喩のメカニズム、再説
 
 中沢新一氏によって、吉本隆明の「自己表出」と「指示表出」に重ねあわせて論じられた「生起」と「喩のメカニズム」について、いま少し、こだわりたいと思います。
 
 まず、生起について。
 中沢氏自身が書いていたように、この語は、ハイデガーの「エアアイグニス[Ereignis]」に由来します。一般には「事件、出来事」と訳され、英語では「イベント[event]」、フランス語では、(たとえば、丸山圭三郎が『言葉と無意識』で、「人間は、言葉をもったために生じたカオスへの恐怖と、それをまた言葉によって意味化する快楽に生きる。この恐ろしさとめくるめく喜びこそ、ルドルフ・オットーのいう〈ヌミノーゼ的体験〉であり、形を絶えず突き崩す動きと、動きを絶えず形とする力の舞台であり、そこで起きる〈出来事〉[エヴェヌマン]とは、同時に形であり動きであると言ってよい。」と書いていた、その)「エヴェヌマン[e've'nement]」にあたる語です。
 後期ハイデガーの思索を導く「主導語」であり、翻訳不可能とさえいわれる「エアアイグニス」の概念が主題的に論じられたのは、ハイデガー第二の主著、あるいは真の主著とも評される『哲学への寄与』でした。鈴村智久氏は、論考「Martin Heidegger archives5」において、この高度にエソテリック(秘教的)な著書のなかで、ハイデガーは、「「存在」が我々「存在者」を「呼び求める」という、その存在それ自身の「不可視」の「活動」」を「エアアイグニス」と規定していて、このことを、『哲学への寄与』のもう一つの鍵概念である「深淵[Abgrund]」とあわせ考えると、そこに「霊的な意味」が結びついてくる、と書いています。
《「深淵」とは、「時間が空間を開く」こと、「空間が時間を開く」ことが、同時に生起する原-時間、原-空間そのものである。そこは、「存在」が自己を秘匿するという仕方で開示される場であると同時に、「根源的な空虚」である。先に紹介したEreignis(エアアイグニス)の意味を看取して再考すると、まさに我々人間が「存在する」ということを、成立せしめる「存在」そのものとの関係性(=エアアイグニス)の「現場」として、「深淵」は存在するのである。》
 鈴村氏はここで、諏訪春雄著『霊魂の文化誌』を参考に、「他界」という民俗学の概念を導入します。「諏訪氏によれば、「他界」から出現するのが「幽霊」であり、「異界」から出現するのが「妖怪」である。「他界」が「世界」と隣り合った同心円として存在しているのに対し、「異界」は「世界」の円と完全に重なり合っている。つまり、「世界」のあらゆる領域が、何らかのシャーマン的祭儀、もしくは心霊現象などを通じて突然、「異界」化する可能性を持つとされている。」
《以上の、『寄与』における「深淵」という用語を、意図的に「他界」に、「存在」を「幽霊」に交換してみよう。すると、極めて強い衝迫力を維持して意味が通じるばかりか、むしろハイデッガーが何をイメージして「深淵」について語っていたのかが理解できる。「他界」とは、まさに現世であるこの「世界」の時空を発現させる根源的な場である。「世界」において「幽霊」の存在が不可視であるのは、幽霊が「見えない」という「自己秘匿」によって退隠しているからであり、この幽霊の「隠れ」の場こそが、まさに「他界」=「深淵」なのである。
 我々人間は、「世界-内-存在」として、「我・今・ここ」に属するが、「幽霊」は世界の「外」である「他界」=「深淵」に属している以上、常に「かの者・かの時・かの場所」に属する。また、通常の現世である「世界」に属す我々にとって、「他界」の根拠が「現れないこと」もまた、「深淵」の持つハイデッガー的意味と符合する。そして、ハイデッガーが「時間脱出/空間脱出」によって、「存在」それ自身が住まう「深淵」と対峙できると考えていた以上、我々はシャーマニズムにおける「世界の中心化」の原理や、祭儀におけるekstasis(脱魂)によって、まさに「他界」に属する「霊的‐存在」に、対峙することができるのである。
 こうして、我々は『寄与』の最大のテーマであるエアアイグニスの真意の一端に、まさに接触する。エアアイグニスの原義としての、「呼び求めること」は、「霊的-存在」が、「存在者」を「深淵-他界」に向かって、招き寄せることである。》
 ここで「深淵」を「沈黙」とおきかえて、それに、講演「芸術言語論――沈黙から芸術まで」のなかで吉本隆明が、大要、「言語というものは、沈黙の幹と根を重要な根底とする「自己表出」と、コミュニケーションという枝葉の問題にかかわる「指示表出」とが、縦糸と横糸みたいに織り合わせてできている」、と語っていることに関連づけて考えるならば、「エアアイグニス」とは、脱魂や憑依(憑霊)、祈りや預言といった儀礼、言語現象から発生する詩的言語のはたらきそのものではないかと思えてきますし、あるいは、ここで議論されているのは、文字通り幽霊が登場し、生者にむかって「呼び求める」能の劇的構造のことだったのではないかと思えてきます。
 
■エアアイグニス、あるいは水の現成
 
 「生起」すなわち「エアアイグニス」は、華厳教学にいう「性起(しょうき)」におきかえて考えることができます。(『哲学の寄与』は「エアアイグニスについて」の副題をもち、邦訳では『哲学への寄与論稿(性起から〔性起について〕)』(創文社「ハイデッガー全集」第65巻)とされている。)
 このこと、つまり「エアアイグニス」と「性起」との関係についてては、頼住光子氏が、「西洋哲学と道元禅──「エアアイグニス」と性起の間」(『正法眼蔵入門』)などで論じていますが、ここでは、頼住氏が研究代表者となった「道元の思想構造の総合的研究─比較思想的観点から」の研究成果報告書の該当箇所を抜き書きしておきます。
《ハイデガーの「エアアイグニス」は、隠されたものとして常に人間に呼びかけ続けているものであり、それに応える人間によって露わにされ続けるというダイナミズムとして捉えられる。それは、華厳教学の摂取において、「性」(本質)の静態性を越えて、はたらきとしての真理の力動を強調した道元の「現成」概念に相当するものであると考えられる。このことは、スタティックな真理を立てる「実体論的形而上学」を批判し、「生き続けるはたらき」を宣揚したハイデガーの営為に通じている。スタティックな普遍性を超えた力動的根源にまで遡るこの地点こそ、道元とハイデガーの思想の対話のみならず、「神々の争い」に満ちた現代における対話の起点として示唆的である。》
 ハイデガーの「エアアイグニス」が、華厳教学の「性起」の批判的摂取を介して、道元の「現成(げんじょう)」につながりました。そして、『井筒俊彦 言語の根源と哲学の発生』(KAWADE道の手帖)に収めれた文章(「井筒俊彦と道元」)のなかで、頼住氏が、「井筒は、道元を、ある究極的な実在体験について沈黙せずそれを論理化し、言語化した例外的な禅者と捉えていた。井筒にとって道元は、禅の修行と哲学的思惟とを両立し得た点で自分の先駆者であり、同時に、ギリシアの哲人たちやイスラーム神秘主義思想家などと同様に、修行を基盤とした至高体験を論理化した、神秘道と哲学との両者を兼ね備えた神秘主義哲学者であった。」と書いているように、道元は、井筒俊彦が共感し傾倒してやまない先達でした。
 『意識と本質』から、関連する文章を引きます。井筒俊彦はそこで、『正法眼蔵』第二十九「山水経」巻の「水現成の公案」を、井筒自身の言語=存在分節論の観点からとりあげています。いわく、「分節(U)」すなわち無「本質」的分節の次元においてはじめて、水の真のリアリティが現成する。それは、「無分節者の直接無媒介的顕現としての水」であり、「本質」(として妄想されたもの、たとえば「水は流れるもの」)の繋縛をはなれた、自由無碍にして生々躍動する姿における「本水」である。
《ここで道元が強調していることを、哲学的に要約すれば、ほぼ次のようなことになろう。無分節者が不断に自己分節していく、その分節の仕方は限りなく自由。我々人間が、人間特有の感覚器官の構造と、コトバの文化的制約性とに束縛されながら行う存在分節は、無限に可能な分節様式の中の一つであるにすぎない。それがいかに狭隘な、一方向的なものであるかは、いま仮りに天人の目になり、魚の目になって、我々が通常、水ときめこんで疑いもしないでいるものを、天人や魚の視点から新しく分節し直してみればすぐわかる、と。[水は天人にとって「宝石の首飾り」であり、魚にとって「宮殿]である。]
 だが、道元の存在分節論はなお続いて、ついに究極の一点にまで我々を導いていく。「人見」、すなわち人間だけに特有の視点を離れ、天人や竜魚や餓鬼たちの視点まで含めた高次の視点に現われてくる「随類の諸見不同」なるところをも超えて、さらに「水、水を見る」ところに跳出しなければならない、と道元はいう。人が、天人が、あるいは魚が見る水ではなくて、水が見る水。
(略)
 「水、水を見る」。ここに分節(U)はその幽玄な深みを露わにする。本来、分節なるものが、コトバの意味作用と密接不離の関係にあることは先に詳説したところであるが、「水、水を見る」の境位は、人間の言語的主体性の域を超えている。そこに水を見る人間がいないから、「人、水を見る」のではなくて、「水、水を見る」のだ。すなわち、人間がXを見て「水」という語を発し(あるいは、頭に浮べ)、水として分節されたXに水という‘もの’を見る、のではない。水が水そのもののコトバで自らを水と‘言う’(「道著」する)のだ。水のこの自己分節を「水、水を見る」という。水そのもののコトバで、とは無分節者自身のなまのコトバで、ということ。水が水自身を無制約的に分節する、それが水の現成である。だから分節された水は明々歴々として現成するけれど、これに「本質」を与え、水を「本質」的に固定するような言語主体はここにはない。しかしながら、水が水自身を水にまで分節するということは、結局、分節しないのと同じである。分節しながら分節しない、それこそ無「本質」的存在分節の真面目でなければならない。》(『意識と本質』)
■M領域と群論・その他の註記
 
 前章の末尾で、「深層、垂直、発生、…」と「表層、水平、現象、…」の二つの系列に「自己表出、生起」と「指示表出、喩」の対概念を関連づける際、私は、「自己表出、生起」が「深層」に、そして「指示表出、喩」が「表層」にといった単純な重ねあわせをしてすますわけにはいかない、と自戒の弁を註記しました。
 その趣旨は二つあります。第一に、潜在的夢思想、顕在的夢内容の概念にでてきた「潜在/顕在」と「深層/表層」を単純に重ねあわせることはできないということ。強いて両者を合成するなら「深層(潜在+顕在)/表層」となるでしょうし、そこに「無意識」の概念を導入すると、井筒俊彦の拡張された「意識の構造モデル」に、すなわち「C領域(無意識)/B領域(言語アラヤ識)+M領域(中間領域、想像的イマージュの場所)/A領域(表層意識)」になるのではないかと思います。
 なにが言いたいのかというと、顕在的深層意識すなわちM領域こそが、意味の増殖をつかさどる喩のメカニズムの本拠地なのではないかということです。(これに対して、A領域における喩は、意味の伝達をつかさどる修辞技法として、吉本隆明の表現をつかえば、「壁画」的に分類される対象となります。)そして喩とはフィギュールであり、M領域にうごめくものは、ほかならぬ想像的イマージュすなわち像なのだから、ここに喩と像、フィギュールとイマージュをめぐるあやしい関係が、(たとえば、吉本隆明が『言語にとって美とはなにか』で、「意味的な喩」とともに呈示した「像的な喩」という概念の正体はなにか、といったかたちで)、解明されるべき論点として浮かびあがってきます。
 さらに、井筒俊彦によれば「マンダラ」は「M領域に現成する存在構造を形象化した深層意識的絵画」の一例にほかならないのですから、井筒豊子のいう「自然曼荼羅」(和歌的創造主体の視野に現成するところの「景観」で、その「表象的一典型」を国宝・那智瀧図に見ることができるもの)と「フィギュールとしての和歌」をめぐるあやしい関係、もしくは無関係といった論点もあわせて浮かびあがってくるでしょう。
 第二の趣旨は、そもそも「自己表出/指示表出」と「生起/喩」を平面的に重ねあわせること自体が乱暴きわまりない議論であるということ。概念の先祖、親戚探しをするなら、吉本自身が言及しているマルクスの「交換価値/使用価値」(「経済の記述と立場──スミス・リカード・マルクス」,『吉本隆明の経済学』)をはじめ、夏目漱石(『文学論』)の「F(焦点的印象または観念)/f(Fに付着する情緒)」(「飛躍と転回」,『柄谷行人インタヴューズ 1977―2001』)や、フッサール(『論理学研究』)の「表現(意味記号)/指標(指示記号)」(詩人・富哲世の指摘、なお竹田青嗣著『世界という背理──小林秀雄と吉本隆明』に同趣旨の記述がある)など、まだまだ蒐集の余地があります。(他にも、ソシュールの「連合/連辞」やヤコブソンの「選択/結合」「置換/結構」、量子力学の「波動性/粒子性」、はては「歴史/世界」や「時間/空間」、等々。)
 このことと関連するのではないかと思うので、吉本隆明があるインタビューに答えて語った言葉を引きます。
《『言語にとって美とはなにか』を発表した時に評価してくれた人が二人いて、ひとりは、僕が東京工業大学にいた時の数学の先生で、遠山啓さんという人。もう一人は、代数論の彌永[昌吉]さんという人です。このお二人は誉めてくださった。数学に表現論という考え方がありまして、それを僕がある程度心得ていたということがあるんです。(略)代数論の大家で、アンドレ・ヴェイユという数学者がいまして、その人がレヴィ=ストロースに群論の手ほどきをした時に使った文献があります。僕の表現論という概念はそこからヒントを得た部分が多いと思います。》(『吉本隆明が語る戦後55年 第2巻──戦後文学と言語表現論』)
 数学の表現論のことなどとても手におえないし、たとえ多少聞きかじっていたとしても軽率に言及すべきではないと思いますが、付け焼き刃で遠山啓の本を読んでいて次のような記述が目にとまりました。『現代数学入門』に収められた「数学は変貌する」という文章の群論を解説したところにでてくる比喩です。吉本隆明が『言語にとって美とはなにか』の根底に数学の表現論があると語っていることの意味は、おそらくこのあたりにあるのだろうと私は直観しています。
 いわく、「群」とは何らかの「操作」(オペレーション、手続き)の集まりをいう。それは二つの操作を結合して第三の操作が出てくる代数的構造をもっている。生物の現象など時間・空間の両面にわたる動的な体系、動的な構造を理解するのに有効な方法である。その方法とは、何かの構造を知るためにそれを動かしてみる、ある操作でそれを変化させてみる、そうしてどう変化するかを見てそのものの構造を知るというやり方である。たとえばスイカを割らずに外から叩いて熟度を調べる、医者が患者のおなかを触診する、地下の地質の構造を地震波の伝わり方で調べるといった「打診」的方法であって、解剖学的な方法ではない。幾何学でも原子の世界でも建築でも模様でも絵でも、およそ構造をもつものであれば群論の打診的方法が使える。
 吉本隆明が『言語にとって美とはなにか』で多重多様に展開している言語の二重性の概念を、「深層=垂直=発生=自己表出=生起=…/表層=水平=現象=指示表出=喩=…」といった類の平板な二項図式でもって静的・平面的にとらえるのはミスリーディングです。言語表現物という「生きた」動的体系、多重多様な動的構造に拮抗しうる、それ自身「生きた」ダイナミックな操作群として、吉本表現論はとらえられなければなりません。
 寄り道が長くなりすぎたあげくに、すこし先走りました。
 合田正人氏は『吉本隆明と柄谷行人』の第三章「意味とは何か」で、吉本による言語論の核心は「像(Bild,image)」と「喩(figure)」に関する考察であると書いています。この指摘は正鵠を射ている。私はそう考えるのですが、このことを確認するためには、『言語にとって美とはなにか』の理論的考察を(自由間接話法のかたちで)濃縮し、私自身の関心や理解力にそくして復元するという難儀な課題をクリアしておかねばならないでしょう。
 
■余録と補遺、他界について・その他
 
 先走りついでに、いくつか気になったことを、脈絡なく書き残しておく。
 まず、吉本隆明の表現論が「生きた」ダイナミックな操作群あると書いたことに関して。それではそこでいう「操作」とはどういうものか。
 たとえば韻律・撰択・転換・喩のそれぞれが、そして喩のうちの「像的な喩」と「意味的な喩」のそれぞれがまた(詩人・評論家・作家に共通する)「操作」である。「ある作品のなかで、場面の転換はそのまま過程として抽出せられたとき喩の概念にまで連続してつながっており、また、喩はその喩的な本質にまで抽出せられない以前では、たんなる場面の転換にまでつながっている」(『定本 言語にとって美とはなにかT』)といわれるときの「抽出」が(主として評論家にとっての)「操作」をいいあらわす語である。
 操作は「方法」に、抽出は「抽象」に通じる。菅野覚明氏は『吉本隆明──詩人の叡智』で、吉本隆明の思想的方法の核心をめぐって次のように書いている。
《…古典物理学の理論が量子力学的世界の現象を記述できなかったように、外部の現実に即して立てられた理論は、たとえそれが個人の自由や解放の論理であっても、個の個としてのあり方を捉えることはできない…。言い換えれば、個の内部世界をそれとして記述するためには、外部現実を捉えるのとは異なった、新たな方法が必要だということである。物理学は、「対象を可分である限りの微細な本体論的単位に分割」していくことによって、量子力学の世界に行きついた。同様に類推するなら、物理学が石ころや自動車を、電子や陽子に分割して捉え直し(=名づけ直し)たように、内部意識を「本体論的単位に分割」し、それを記述する方法(概念・座標系)をまずは手に入れなければならない。吉本の思想的方法の核を成す「抽象」とは、そのような操作を意味している(「すべての現象を基本的な‘原理’に還元すること。原理的なものはすべて抽象的である」)。詩「固有時」が、「日本近代・現代詩史の中で、まったく類例のない異数の方法的突出であった」(北川透「〈転位〉の方法──吉本隆明の詩」)と見られるのは、扱われている事がらが、それまでの詩が依拠していた座標系とは異なる、新たな座標系の中で座標づけられているからである。吉本は、この座標変換の操作を「抽象」という言葉でいいあらわすのである。》(『吉本隆明──詩人の叡智』)
 いま一つ、柴田弘美著『開かれた「構造」──遠山啓と吉本隆明の間』の議論を引く。
 いわく、自同律や排中律を絶対的なものとしてしまうと世界は二分され、果てしない叩き合い、罵り合いが繰り返される。「不快」「ぷふふい」というだけで済ましているわけにはいかない。吉本はこうした不毛な党派的抗争の根っこに潜む「論理の病」を一挙に止揚する方途を見出した。これら対立し反発しあう概念は実は直交する座標軸(基底ベクトル)のように「互いに独立」なのではないか。
《…この「互いに独立」という一つの関係性は…「基底」に要請される基本的な条件だということである。空間を「張る」もしくは「生成する」ために「基底」はこの条件を満たさなければならない。そして吉本は言語の空間構造的把握に際して、史的必然性を担うものと、個体的な偶然性、一回きりの現在性を担うものと、二つの概念を〈互いに独立な〉「基底」として定立し、史的決定論とも、反ないし没歴史的「構造主義」ともはっきり違う理論を構成していったのだと考えられる。》(『開かれた「構造」』)
 ここでいわれる「史的必然性を担うもの」がタテ軸(自己表出)に、「個体的な偶然性、一回きりの現在性を担うもの」がヨコ軸(指示表出)につながっている。私自身は、吉本隆明の方法=抽象すなわち「座標変換操作」のもっともシンプルなかたちはタテ・ヨコの二軸ではなく、「固有時との対話」にでてくるX・Y・Zの三つの座標軸でとらえるべきだと考えている。
 次に、他界をめぐって。
 諏訪春雄著『霊魂の文化誌──神・妖怪・幽霊・鬼の日中比較研究』によると、他界は「ほかの場所、死者の世界」という二つの意味をもつ。後者の意味は中国に出典がなく、鎌倉時代になってはじめて用例がみられる。これに対して、異界は異人とむすびついて新しくつくられたことばである。
《異界は空間的な概念である。人間が日常生活をいとなむ空間とかさなり、あるいはその周辺にひろがる非日常空間をいう。この異界は、内にたいする外の語であらわされる関係概念であって、その位置は相対的にうつりかわってゆく。たとえば、昨日まで村の外にひろがる未開の地であって異界を形成していた場所が、今日は開発されて内にとりこまれ、異界はさらにその外にひろがってゆく。
 これにたいし、他界は空間概念のほかに時間概念をあわせもつ。現世の非日常空間であるとともに、人間が誕生前および死後の時間をおくる世界である。他界もまた、この世にたいするあの世、此岸にたいする彼岸などの語であらわされる関係概念であるが、しかし、その関係は異界のように可変的なものではなく、絶対的に固定されている。死者のおもむく先である他界が現世に隣接するちかい所にあると意識されることはあっても、現世が他界と同一と意識されることはけっしてない。異界とこの世界との関係が可塑的な同心円であらわされるとすれば、他界と現世との関係は隣接する二つの円を固定してしめすことができる。》(『霊魂の文化誌』)
 記紀神話や万葉集などに表現されている他界観を検討した柳田國男、折口信夫らの成果をまとめると、古代の日本人の他界観は、「地下他界」(黄泉国・根の国)、「海上(中)他界」(妣の国・常世の国・海宮[わたつみのみや])、「天上他界」(高天原)、「山上(中)他界」、「東方他界」、「西方他界」の六つになる。
《先に他界を異界と区別して、空間的・時間的概念であると規定した。この規定は、〈他界は空間と時間の交錯する場〉であるとかんがえることである。
 根の国は日本民族の故郷にたいする思慕の情が生みだしたといういい方[松村武雄『日本神話の研究』]は、表面的にとれば根の国を空間としてとらえているようであるが、しかし、他界としての根の国は、日本人の空間的な故郷であるとともに、日本人が誕生前の時間をすごし、死後に入りこむ時間でもある。黄泉国は死の観念が生みだしたという表現[同]には、時間的意識がつよくうちだされているようであるが、あわせて、死者が生活する空間でもなければならない。
 日本人の他界観の重要な特色として、まずあげられるのは現世との連続性である。
 他界と現世との連続とは、他界を構成する要素と、現世を構成する要素が同一であり、その間が連続して、往来が自由であったということである。他界にはこの世と同一の景観が展開し、おなじ山川草木、動物が存在する。他界の住人は現世の人とおなじように恋もし、悩みもすれば、喜んだり泣いたりもする。
 記紀神話で、高天原を追放されたスサノオノミコトはその足で出雲国をおとずれて八俣の大蛇を退治し、のちに根の国に住いをさだめる。地上で兄たちに生命をねらわれたオオクニヌシノミコトは、そのスサノオの支配する根の国へにげこみ、そこで数々の冒険ののち、妃のスセリヒメを得てふたたび地上の国へもどる。
 海幸山幸の神話で、兄のホデリノミコトから借りた釣針をうしなったホオリノミコトはその釣針をさがしてわたつみの海の宮をおとずれ、三年の月日をすごしたのち、釣針を入手して、ふたたび葦原中国にもどっている。
 このような例から推して、現世と他界との往来は自由であったとかんがえてよい。そして、平安時代以降に出現する幽霊が、現世と他界とを自由に往来できたのは、日本人の古代からのこの他界観が根底にあったとみられる。》(『霊魂の文化誌』)
 しかし、自由であった現世と他界との往来が、一方で、閉じられてしまった話のあることも見のがすことはできない。著者はそのように書き、のぞき見したことが原因となって他界との往来が絶たれる神話を二つとりあげる。
《このトヨタマヒメの話と前述のイザナミの話には共通点がある。見るなの禁忌はかならずやぶられ、やぶった者の境遇は激変する。古代人の認識では「見る」ことは相手の正体を知るだけではなく、相手を支配し、管理することをも意味していた。自然界と人間界、死と生などが混沌として一つになっていた原始の段階から、しだいに両方がわかれる秩序と文化の段階がやってくる。「見るなの禁忌」は混沌から秩序・整理へとすすんだ人類の認識方法を表現しており、やぶられるのが本来の型であり、いましめをやぶった者が不幸になり、まもった者が幸運になるという筋は、のちの変型である。
 また、現実に他界との往来がすでにとざされてしまったことを知っていた人々が、むかしは自由であったはずであるという思いをこめてつくりあげた話でもあった。
 そして、平安期に現世に姿をみせはじめた幽霊は、この他界観念、すなわち、現実の人には不可能であっても、霊的な存在なら神話世界の住人と同様に自由に往来できるはずであるという考え方にもとづくものであった。》(『霊魂の文化誌』)
 この他界をめぐる議論を、たとえば吉本隆明が「詩魂の起源」(『詩とはなにか──世界を凍らせる言葉』)で論じた「詩の精神=魂」の三つの行動様式(山の頂・海の彼方・洞窟)に接続し、定家の「よそ」と関連づけ、また異界と他界を、(第16章でとりあげた)「二者交換」的なパラレル・ワールドと「二者並立」的な並行世界や、(第32章、第33章で論じた)「内と外」のホリゾンタルな二項対立図式と「一と多」(根源的一者と現象的多)をむすぶヴァーティカルな力動的視点にそれぞれ関係づけて論じることで、和歌のメカニスム(喩と生起)が稼働するフィールド、つまり「同時に形であり動きである」(丸山圭三郎)ものを生起させる力の舞台の成り立ち・構造・稼働原理を解明するための有力な手がかりが得られるのではないか。
 
(35章に続く)

★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。

Web評論誌「コーラ」26号(2015.08.15)
<哥とクオリア>第34章 続・自己表出と指示表出の織物─和歌のメカニスムW(中原紀生)
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