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Web評論誌「コーラ」
20号(2013/08/15)

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■アクチュアリティかリアリティか
 
 前々章の最後の節に、歌を「読む」とは歌を「詠む」こと、すなわち、歌に潜むヴァーチュアルな意味(の種子)が読み手によってアクチュアルなかたち(花や実)となって「初めて」経験されることであるといった趣旨のことを論じた際、それは可能的な百ターレルが現実の百ターレルに転化するのと同じことなのだろうかと、疑問符をつけてそう書いた。
 それはもちろん異なる次元に属する転換である。前者は「ヴァーチュアル/アクチュアル」の次元における転換に、後者は「イマジナリー/リアル」(本来は「イマジナリー・フィクショナル・ポッシブル・イデアル/リアル」と表記すべきところ、以下、煩雑を避けてこのように略記する)の次元における転換にかかわることだから。私はそう考えている。(そう考えたいと思っている。)しかし本当にそうなのかという疑問がつきまとう。どこかに概念の混乱もしくが誤用がありはしないだろうか。
 
 私は、(リルケが「もの」の普遍的規定性は「ヴィルクリッヒカイト」(アクチュアリティ)の次元に成立し、「もの」の個的リアリティーは「レアリテート」(リアリティ)の次元に成立するとした、と『意識と本質』に書かれていたことに触発されて)、「ヴァーチュアル/アクチュアル」の軸を「マーヒーヤ」性(「本質」の普遍性)に、「イマジナリー/リアル」の軸を「フウィーヤ」性(「本質」の個体性)にそれぞれ関連づけて考えてきた。
 そしてそこに中世スコラ哲学の二つの存在概念、すなわち「本質存在、エッセンティア」(前章で引いた『意識と本質』の文章中「本質」とよばれていたもの、少なくとも私はそのように理解してあの文章を読んだ)と「事実存在、エクシステンティア」(同様に「存在」)を重ね合わせて、「マーヒーヤ=ヴィルクリッヒカイト=アクチュアリティ=エッセンティア」と「フウィーヤ=レアリテート=リアリティ=エクシステンティア」という亜独英羅の四言語にまたがる二つの概念の系譜を思い描いていた。可能的もしくは現実的な百ターレル銀貨は前者「エッセンティア」の系譜ではなく、後者「エクシステンティア」の系譜に属するものと想定していた。
 ところがハイデガー(『現象学の根本問題』『形而上学入門』、また木田元『反哲学史』『ハイデガー拾い読み』)によると、西洋の形而上学的思考はソクラテス以前の「フュシス」(生きた自然)が「エイドス、形相」あるいは「それが何であるかという存在」と「ヒュレー、質料」あるいは「それがある(かないか)という存在」に分岐したことに端を発し、これらの存在概念がそれぞれ「エッセンティア」と「エクシステンティア」に引き継がれていった。そしてこれらのうち「エッセンティア」の概念は「レアリタス」(『現象学の根本問題』によると、可能性を意味するライプニッツの「ポッシビリタス」やプラトンのイデアの概念と同じ意味)と等価であり、また「エクシステンティア」の概念は「アクトゥアリタス」(アリステレスの「エネルゲイア」のラテン語訳)と等価なものとされてきた。
 ここから導きだされるのは、先ほどのものとは真逆の「アクチュアリティ=エクシステンティア」「リアリティ=エッセンティア」という系譜で、かの可能的もしくは現実的な百ターレルはここでは「エッセンティア」の系譜に属することになる。この「矛盾」を解消するためにはリルケの詩的直観とハイデガーの哲学史的考察を受け入れて、「マーヒーヤ=ヴィルクリッヒカイト=アクチュアリティ=エクシステンティア」「フウィーヤ=レアリテート=リアリティ=エッセンティア」の二系譜を確立すればよい。カントの議論は後段の「エッセンティア」の系譜に属することで決着する。
 しかしそうなると今度は「マーヒーヤ=エクシステンティア」「フウィーヤ=エッセンティア」の等式に違和感を覚える。「普遍的本質、マーヒーヤ」が「事実存在、エクシステンティア」と同一視され、「個体的本質、フウィーヤ」が「本質存在、エッセンティア」に等値される。そこのところがどうしても腑に落ちない。語の表情(アスペクト)にそぐわない、というか語感として気持ちが悪いのである。
 ここまで「病状」がすすんでしまうと、そもそも井筒俊彦がマーヒーヤを「本質」すなわち抽象的概念ではない「濃密な存在度をもったリアリティー」に関連づけ、フウィーヤを「存在」すなわち「この花」をただの「花」ではなく「この花」たらしめる「異次元のリアリティー」になぞらえたこと自体に「病因」があったのではないかと疑わざるを得なくなる。
 もちろん井筒俊彦の議論を「マーヒーヤ=エッセンティア」「フウィーヤ=エクシステンティア」の主張として理解した私自身の読み方が間違いだった可能性はある。しかしそれでもやはり、いくら読み返してみてもそうした「誤読」は必然的だった(私にはそのようにしか読めない)と言わざるを得ないのである。(ひとつ「証拠」を挙げると、井筒自身が「本論全体を通じて、私は「本質」という語を、少くとも原則的には、一貫して西洋中世哲学の術語 quidditas(=essentia)に対応するものとして使う。」と書き、この「quidditas(あるいは essentia)、そして歴史的にその先輩にあたる」マーヒーヤが「字義的にはともに「(それは)何であるか、ということ」を意味し、その点でアリストテレスの「本質」概念に遡ることは明らかである」と書いている。それとも私の困惑は訳語がもたらす語感のミスマッチにすぎないもので、たとえば「エクシステンティア=外に出て立つこと」といった語源にまでさかのぼり考えていけば解消することなのだろうか。)
 
■普遍性と単独性、一般性と個別性
 
 ひとつの「解決策」はマーヒーヤとフウィーヤ、「本質」と「存在」の関係を一義的なものと考えるのをやめることだ。マーヒーヤは「本質」であり「存在」でもある。エッセンティアと等値されることもあればエクシステンティアと等値されるのが適切な場合もある。そんなふうに(先に引いた文章中の「原則的には」という言葉を最大限に活用して、あるいは井筒俊彦自身が二つの本質、二つのリアリティに言及していることにならって)考えればいいのではないかということだ。
 
 ここでひとつ、補助線を引く。柄谷行人が『トランスクリティーク──カントとマルクス』で導入した「普遍性─単独性」(異なるシステム=共同体間の交換=コミュニケーションにかかわる社会的で無媒介・直接的な回路)と「一般性─個別性」(同一の規則をもったシステム=共同体間の交換=コミュニケーションにかかわる被媒介的な回路)という二組の概念を借用して、「ヴァーチュアル/アクチュアル」の次元を「普遍性/単独性」の組み合わせで把握し、「イマジナリー/リアル」の次元を「一般性/個別性」の組み合わせで考えてみる(つまり「アクチュアリティ=エクシステンティア」の軸を共同体の「外に出て立つ」こととしてとらえる)。そうするとさきほどの違和感はかなり緩和されるように思う。
 たとえば、井筒俊彦の次の文章。前章でも抜き書きしたものだが、先にのべた「誤読」の必然性についての決定的な「証拠」が潜んでいると思うので再度引く。
《いかなるものも個体としてでなければ存在しえない。逆に言えば、すべて存在するものは個体である、というのはスコラ哲学の大原則の一つ。それ自体としては「存在」に関わりのない一般者である「花」が、存在することによって個別化されて「この花」、つまり今ここに現存する個体としての花になる、と言ってしまえば事は簡単なようだし、また事実、普通はその程度の考えで済ましても日常生活にはなんの支障もないが、それではどうしても満足できない人たちがいる。「この花」を真に‘この’花として体験する場合、「この花」にはただの「花」とは根源的に違う何かが現成しているという存在感覚が働くからだ。「この花」をただの「花」ではなくて、「‘この’花」たらしめる、異次元のリアリティーがあって、それは一般者、すなわち普遍的「本質」とは違った、もう一つ別の「本質」でなくてはならないという考えが、この根源的存在感覚から生じてくる。》(『意識と本質』)
 『意識と本質』の前後の文脈からは「この花」の「この」がフウィーヤ(リルケのいう「レアリテート」)に、そして一般者としての「ただの花」がマーヒーヤ(同じく「ヴィルクリッヒカイト」)に対応していることは間違いない。少なくともそのようにしか私には読めない。ところがこの文章はこの箇所で、少なくとも私に読みとれるかぎりでいえば、「即物的直視」の詩人リルケの側に、そして井筒俊彦がいうところの「存在」の側に肩入れした立場で書かれている。だから「本質」を抽象的一般的な概念的虚構物であるかのようにあつかっている。少なくともここでいわれる二つの「本質」のうちの最初のもの、「一般者、すなわち普遍的「本質」」と表現されているものについてはそうだ。
 ここに先ほどの柄谷行人の二組の概念を導入してみる。そうすると「一般者、すなわち普遍的「本質」」という表現のなかで「一般=普遍」の等式によって規定される「本質」、それはすなわちマーヒーヤにほかならないのだが、この意味での「本質」それ自体のうちにも実は(「一般性」と「普遍性」という)二つの異なる相が重ね描かれていることがわかる。すなわち「一般性/個別性」の「抽象的概念」の相と「普遍性/単独性」の「濃密な存在度をもったリアリティー」の相。
 井筒俊彦の文章をもうひとつ、再度引用する。
《個々の存在者のそれぞれを、他にかけがえのない、独自の、自足的な個体として見ようとする態度。そして、そういうユニークな個物を真にユニークな個物としての独自性において保持するリアリティーを、個物の存在論的機構それ自体の内部に認めて、それをそのものの「本質」とする。この意味での「本質」がすなわちフウィーヤにほかならないのだが、もしこういう立場を徹底的に推し進めるとすれば、もう一方の「本質」すなわち普遍的「本質」(マーヒーヤ)は、当然、理性の抽象的作用によってつくり出された概念的一般者の位置に貶されて、その実在性を奪われざるをえない。
 しかし、このような個体主義に真正面から反対して、マーヒーヤの実在性を信じて疑わぬ思想家が、東洋にも西洋にも古来少なからず存在した。マーヒーヤ、普遍的「本質」は実在する、とこの人たちは強く主張する。勿論、抽象的概念としてではなく、濃密な存在度をもったリアリティーとして、である。》(『意識と本質』)
 結論を言ってしまえば、「一般性/個別性」の相のもとで見られたマーヒーヤは「イマジナリー/リアル」の次元に「堕落」した形態のものであって、それはもはや「ヴァーチュアル/アクチュアル」の次元に帰属する本然の姿のマーヒーヤ、すなわち「普遍性/単独性」の相のもとで見られたマーヒーヤではない。したがって、本然の姿のマーヒーヤが「アクチュアリティ=エクシステンティア」の系譜に属するのに対して、堕落した形態のマーヒーヤが帰属するのは「リアリティ=エッセンティア」の系譜である。だから、井筒俊彦が「抽象的概念としてではなく、濃密な存在度をもったリアリティー」と書いていたのはやはり「アクチュアリティ」のことだったのだ。
 
(これに関連して、ハイデガーはたしか次のような趣旨のことを指摘していた。いわく、「ヴァーチュアル/アクチュアル」の軸の古層にしつらえられた「デュナミス/エネルゲイア」の概念には(「現われ出る」「おのずから発現する」を意味する「フュエスタイ」という動詞から派生した)「フュシス」をめぐるソクラテス以前の存在観が色濃く反映されていた。そして「イマジナリー/リアル」の軸はすでに「現われ出た」ものの「何であるか」を生成の外から、そして後から(制作されたものとして、フュシス=生きた自然ではなくイデア=永遠不死のものとして)眺める視線にもとづいている。
 いまひとつ関連する議論を引く。木村敏は「リアリティとアクチュアリティ 離人症再論」で、離人症において失われるのは私的・主観的・一人称的なアクチュアリティであって公共的・客観的・三人称的な実在に関するリアリティではないとし、(アクチュアリティと対をなす)ヴァーチュアリティと(リアリティと対をなす)ポッシビリティとの違いを囲碁にたとえている。いわく、生身の棋士によって打たれる石はそれぞれに潜在的な働きあるいは勢いをもっている。「本来囲碁というゲームは、単なる碁石の計算可能な配列による勝負ではなく、この「勢い」の布置による勝負である」。しかしゲームが終了すると(ゲームの途中であっても、第三者が客観的に盤面を眺めたとき)碁盤の上には静止した多数の石の「リアル」な配列しか見えてこない。「そこではかつてのヴァーチュアリティが、こうも打てたであろう、という可能性に姿を変えている」。)
 
 ここまでくると、「この花」をただの「花」ではなく「この花」たらしめるのもまた実は、文字通り「異次元のリアリティー」であるところの「アクチュアリティ」のはたらきだったのではないかと思えてくる。「何もないのではなく、何かがある」という「存在感覚」の根源には「ヴァーチュアル/アクチュアル」(「デュナミス/エネルゲイア」)の軸が、より精確に言えばその深層(潜勢態)における「力」の領域がしつらえられていて(「デュナミス」のラテン語訳「ヴィルトゥス」には「力」を意味する語[virtu,vis]が含まれている)、マーヒーヤにせよフウィーヤにせよ、エクシステンティアにせよエッセンティアにせよ、およそあらゆる存在概念はすべてその(「無」もしくは「空」とでも言うべき場所における)「力」の噴出による存在の風に吹かれて顕在化(現勢化)し、そしてそこから様々に分岐していったのだ、「この世界はそのような構造をしている」などと言ってみたくなる。
 それと同時に、マーヒーヤと同様、フウィーヤにも本然の姿と堕落した形態があり得るのではないかと思えてくる。たとえばリルケが言う「レアリテート」には、堕落した形態のマーヒーヤが存在表層において折り重なる「イマジナリー/リアル」の軸の、その深層に住まいする「異次元のリアリティー」(すなわち「この花」を「この」花たらしめる本然の姿のフウィーヤ、いいかえると普遍的本質とは違う「もう一つ別の本質」)の実在に対する詩人の直観が潜んでいたのではないか。(貫之現象学に対する定家論理学の逆襲の起点として?)
 
     ※
 以上で本論は終わり、以下、補遺と余録として、まず本然の姿のマーヒーヤ(アクチュアリティ)と堕落した形態のマーヒーヤ(リアリティ)の話題に関連して永井均の(最近の)議論を引き、さらに本然の姿のマーヒーヤの、より精確に言えは「ヴァーチュアル/アクチュアル」の軸の深層における「力」の領域の話題に関連して斎藤慶典の議論を引き、最後にリルケを起点とするもうひとつの存在論の世界を遠望する辻邦生の議論を引く。
 
■アクチュアリティかリアリティか、永井均の場合
 
 可能的な百ターレルと現実的な百ターレルの話題は『純粋理性批判』の「神の現存在についての存在論的証明の不可能性について」と題された節のなかで、「存在はレアールな述語ではない」という高名な命題とともに登場する。(このカントが使った「レアール」という語の意味をめぐって、ハイデガーは『現象学の根本問題』で、カントの時代の「レアール」にはリルケがその語にこめた「実在的」の意味はなかったこと、レアールとは「もろもろの可能的事象一般の総体、つまり可能的な諸物のもろもろの事象内容、すなわち本質」を意味する語であるとした。)
《何か‘があるという存在’は、明らかに、事象内容を示す[レアールな]述語ではまったくない。言いかえれば、それは、物の概念に付け加わりうるようななんらかの或るものについての概念ではない。それは、たんに物の積極的定立、あるいは或る種の諸規定自体そのものの積極的定立にほかならない。論理的使用においてはそれはもっぱら判断の連語[コプラ]である。‘神は全能である’という命題は二つの概念を含み、これら二つの概念は、神と全能というそれぞれの客観をもっている。神は全能であるというときの、‘である’という小語句は、それらに付け加えられたもう一つの述語ではなく、むしろ、述語を主語に‘連関づける’ものでしかない。ところで、私が主語(神)をあらゆるその述語(そのうちには全能という述語も属する)と結びつけて、‘神がある’、あるいは神というものがあると言うなら、私は神という概念にいかなる新しい述語をも付加するのではなく、主語自体そのものをあらゆるその述語とともに定立し、しかも私の‘概念’に連関づけられた‘対象’を定立するにすぎない。概念と対象、これら両者は精確に同一のものを含んでいなければならない。だから、たんに可能性を表現するにすぎない概念には、私がその概念の対象を端的に与えられたものとして(その対象があるという表現によって)思考したからといって、何か概念内容上でさらにそれ以上のものが付け加わるなどということはまったくありえないのである。かくして、現実的なものはたんに可能的なものが含んでいる以上のものを何ひとつとして含んでいないということになる。現実の百ターレルは、可能的な百ターレル以上のものをいささかも含んではいない。なぜなら、可能的な百ターレルは概念を意味し、現実の百ターレルは対象とその積極的定立自体そのものを意味するから、もしも現実的な百ターレルという対象が可能的な百ターレルという概念以上のものを含んでいた場合には、私の概念は全対象を表現せず、それゆえまた対象に適合した概念でもないことになるにちがいないからである。そうはいっても、私の財産状態においては、現実の百ターレルのほうがそのたんなる概念(言いかえれば、その可能性)よりもいっそう多くのものをもっている。なぜなら、対象は現実性の場合にはたんに私の概念のうちに分析的に含まれているにすぎないものではなく、私の概念(これは私の状態の一つの規定にほかならない)に綜合的に付加されるからであるが、しかしだからといって私の概念の外部にあるこの存在によってあの思考上の百ターレル自身がいささかも増大することはないのである。》(原佑訳『純粋理性批判 中』、‘’は原文傍点)
 永井均は、頭の中で考えているだけの「可能的な百ターレル」と現実に存在する「現実的な百ターレル」とのあいだの差異は、自己と他己(「私の私」と「他の私」)のあいだの差異と同種のものと扱うべきであると論じている(『哲学の密かな闘い』第2章「自己という概念に含まれている矛盾」)。いわく、私が二つに分裂するという思考実験において、分裂後になぜか私である人となぜか私でない人のあいだには、レアール(事象内容的)な差異はない。もし差異があったなら、同じ一つのものが二つに分裂して「同じ」ものが二つ存在していると言えなくなってしまうから。
《ところで、この「頭の中で考えていたのとちょうど‘同じ’ものが存在する」という関係は志向的関係といわれるものの特徴であり、この観点から見ると、自己と他己、私と他の私の関係は、言語のもたらす志向的関係を基盤にしている、といってもよい。すなわち、自己から見て他己とは、つねに充実を欠いた単なる志向であるという側面を持つことになる。
 ところで、「現実に存在する」という述語もまた、そういう述語となってしまえばすでに「レアール(事象内容的)な」述語である。ここで、レアールな水準に落ちないアクトゥエルなものを確保するには、述語を超えた水準が要求されることになる。カントの場合ならそれは感性である。しかし、感性的であることも「感性的」という述語に落とされるため、この問題は最終的には言語で語ることができない。つまり、アクトゥエルな事象はレアールな事象に変換されなければそもそも「問題」としてさえ提示できず、アクトゥアリテートとレアリテートのあいだの差異はレアリテート内部の差異に吸収されざるをえない運命にあるわけである。自己と他己における「己」の前の「自」の示す差異性、「私の私」と「他の私」において「私の私」の方にだけ登場する「の」の前の「私」の特異性もまた、アクトゥアリテートとレアリテートの差異を示すはずのものであるにかかわらず、レアールな事象にどこまでも変換されていくのである。》(『哲学の密かな闘い』)
 かくして「他己」とはつねに「語られうる自己(レアリテートに回収されたアクトゥアリテート)」なのである。そして独在性の〈私〉もまた一般化する。〈私〉はそれが「何であるか」が語られてしまえば事象内容的にはそれとまったく同じものが他にも存在しうることになり、他者もまた事象内容的には〈私〉でありうることになって《私》が成立する。
《パラドクシカルに見えた事態の正体はアクトゥアリテートとレアリテートの差異とその差異が累進することにあった。累進するとは、下方に向かっては、レアリテートの‘内部に’次々と新たなアクトゥアリテートが現れることであり、上方に向かってはアクトゥアリテート‘を内属させる’レアリテートが次々と生じることである。その結果、まちがいなく「存在する」はずの究極的なアクトゥアリテートが、そのようなものとしては存在できないものとなる(すべてがレアリテートの内部に回収される)のである。(これは同じ存在論的証明でも「神」の場合とは逆の問題である。神の場合にはレアリテートからアクトゥアリテートへの超越ができなかったのに対して、この場合には、現にアクトゥエルに存在しているものがレアリテートの水準にどこまでも引き下げられ続けるのだから)。いや、回収され、かつ回収されない、というべきであろう。そこに矛盾(あるいはパラドクス)が生じるわけである。》(『哲学の密かな闘い』)
 いまひとつ、議論を引く。
 ウィトゲンシュタインの『青色本』にチェスのキングの駒に紙の冠をかぶせる男の話がでてくる。「私はチェスがしたいのだが、ある人が白のキングに紙の冠をかぶせる。それによってその駒の使い方に何か変化が生じるわけではないのだが、彼は私にこう言う。その冠は自分にとって規則によっては表現できないある意味をそのゲームにおいて持っているのだ、と。私はこう言う。「それがその駒の使い方を変えないかぎり、それは私が意味と呼ぶものを持ってはいない。」」(永井均訳)
 永井均は『ウィトゲンシュタインの誤診──『青色本』を掘り崩す』で、最初に大森荘蔵訳でこのチェスの駒にかぶせられた冠の比喩の個所を読んだとき、「身体が震えるほど興奮した」と書いている。ウィトゲンシュタインがここでチェスに喩えているのは言語で、かつ独我論の語りえなさを示している(批判している)のだが、私(永井)はそうは受け取らなかった。チェスは世界の比喩で冠は私の存在そのものの比喩と受け取り、かつこの比喩を新しい独我論の表現の仕方として受け取った。「冠はレアリテートにおいて表現されないアクトゥアリテートにおける差異をレアリテートの内部で表現しようとしたもの、ということになる」。
《別の比喩を使えば、映画の中に登場している一人の登場人物がじつはその映画の画面そのものでもある、という構造である。彼はストーリー上はたんに登場人物の一人にすぎず、映画の中には彼と直接関係しないたくさんの登場人物とプロットが存在しているにもかかわらず、彼らはみな画面の中でふつうに死んでいけるのに対して、彼が死ぬ場合だけ──映画のストーリー展開とは無関係に──画面そのものが消滅してしまう。当然、その消滅を映画のストーリーにおいて表現する方法はない。ストーリーはストーリーで別の意味で継続していくからである。それはもはやアクトゥアリテートを欠いたレアリテートの内部だけの継続なのだが、そのこともまたレアリテートの内部で表現される方法はない。(別の意味では何の問題もなく表現されてしまう)。この世界はそのような構造をしている。》(『ウィトゲンシュタインの誤診』)
(王朝和歌を夢として読む。目を開けたまま集団で見る夢(映画)として、暗に独我論的な貫之現象学の世界を読み解く。それは「アクトゥアリテートを欠いたレアリテートの内部」における差異の表現として、あるいは「レアリテートからアクトゥアリテートへの超越」をめざす見果てぬ夢の表現として和歌を読む=詠むということなのだろうか。)
 
■アクチュアリティかヴァーチュアリティか、斎藤慶典の場合
 
 永井均が語っている「アクトゥアリテート」は、木村敏が「自分であるとはどのようなことか」(『関係としての自己』)で、クオリアとは「個人と世界の界面現象」であり「個人と世界とのあいだにそのつど新たに成立するアクチュアリティ」である、また離人症患者において失われる「自己の実感」とは「世界がクオリアをおびて立ち現れている、いいかえれば私と世界のあいだにアクチュアリティが成立しているという行為的事実」にほかならないと書いている、その「アクチュアリティ」のとらえかたに通じている。
 ここで私はふたたび混乱におちいる。というのも、私はクオリアを(ノエマ=事物事象=もの[res]にかかわる)リアリティの次元における「ありあり」感の問題として考えていたからだ。この「困惑」を解消する手がかりは、木村敏がクオリア=アクチュアリティを「私と世界のあいだ」に成立する界面現象であるとしている点にある。つまり、私的・主観的・一人称的なアクチュアリティが公共的・客観的・三人称的な実在に関するリアリティに先だち、そのアクチュアリティよりも先に「私」と「世界」(とおそらくは「他己」も)が立ちあがっている、そこを起点に考えてみてはどうかということだ。
 このことに思いをめぐらせるうえで斎藤慶典が『フッサール 起源への哲学』の第四章3「私──アクチュアリティかヴァーチャリティか」で展開している議論が参考になると思うので、以下(私見をまじえず)その概要を記す。
 
 「私」は世界が現象することの媒体である。世界が現象するというとき、それは他のどこにおいてでもなく〈いま・ここで・現に〉この「私」自身のもとででしかないのである。そうだとすれば、そのとき「私」のもとで現象した世界は「私」と切っても切れない性格を共有しているはずだが、その「のっぴきならない」性格のことをどのように名づけるのが適当か。
 まず「リアリティ」という語について吟味してみよう。リアリティとは「現象するもの」が夢でも幻でも錯覚でもなく、もはや打ち消しがたいほどに確固として、「ありありと」現前しているさまを表現している。この「ありあり」感を私たちは「リアリティ」と呼ぶ。
 だがこの言い方にはふたつの問題がある。第一に、「リアリティ」は「現象を見てとるもの」である「私」のそれ自身は現象しない半面(現象構成機能、いわば行為遂行的側面)に手が届いていない。第二に、夢や幻や錯覚、離人症のケースのように、「現象するもの」は必ずしもつねに「ありありと」しているとはかぎらない。したがって「リアリティ」という概念は、私のもとで現象している世界の「のっぴきならなさ」を捉えるのに十分なものではない。
 それでは(ノエシス=行為=はたらき[actus]にかかわる)「アクチュアリティ」はどうか。木村敏によると「アクチュアリティ」とは現象を見てとる「私」の現象構成機能の作動のことであり、それが「生き生きと」はたらくことによって現象する当の世界の「ありありと」した存立が成立する(「アクチュアリティ」の作動不全によって、世界はいつも通り現前しているにもかかわらずそれらに「ありあり」感がまったく感じられなくなってしまうのが離人症)。したがって「リアリティ」概念の不十分さの第一の点は克服されている。
 では第二の点はどうか。離人症が重篤化して人格の解体にまで進行したとしても、世界がもはやいかなる意味でも現象していないというわけではない。慣れない外国語で生活する場合を考えればわかるように、「アクチュアリティ」が「生き生きと」十全に作動するか否かは、現象するものを規定しているそのつどの特定の規則(言語の場合は「文法」)に「私」の身体がどれだけ順応・習熟しているかによって定まる。そして現象に立ち会うものの自己同一性が要求されるとすれば、それもある特定の社会組織の在り方(例:個人責任を重視する近代資本主義社会)と密接な関係をもっているはずである。
《そうであるとすると、何ものかが現象するにあたって、当の現象を構成する規則の体系の存在が不可欠であることと、どんな規則の下であれ何ものかを現象へともたらすある能力(本書はそれを想像力と考えている)の問題とは、次元が異なることになろう。何が「生き生きと」、あるいは「ありありと」現象するかは、当の現象を構成する規則の体系(への順応・習熟)と相関する事柄であり、「アクチュアリティ」概念はこの次元で有効に機能する概念なのである。これに対して、現象がそれを見てとる者のもとで現象へといたるとき、すでにそこで成り立ってしまっているかもしれないある「質」の問題は、かりにそのような「質」があるとしても、少なくともそれは「ありありと」でも「生き生きと」でもないのである。》(『フッサール 起源への哲学』)
 最後にアクチュアリティと対になる「ヴァ―チャリティ」が取りあげられる。この概念は、いまだ何も顕在化はしていないが顕在化へ向かう潜勢力(ポテンシャル)を内に孕んだ「潜在」性を意味し、アリストテレス形而上学での「潜在態、デュナミス」やアナクシマンドロスの「無限定なもの、ト・アペイロン」にまで遡る。
《アナクシマンドロスは次のように考えたのである。万物はそれがそのようなもの【として】限定ないし規定されてはじめて存在する。水は水【として】、大気は大気【として】限定されてはじめて、水【であり】、大気【である】のだ。だがそうだとすれば、そのように限定される何ものかがなければならない。それこそが万物の根源[アルケー]であり、それはあらゆる限定に先立っているがゆえに「無限定なもの」と呼ばれるしかなく、厳密に言えばそれは存在ですらない。存在は、何としての限定を受けてはじめて存在だからである。
 本書がここで問題にしているのも、何ものかが何ものかとして「現象するもの」となるとき、そこに居合わせて「現象を見てとっている者」のもとで何が生じているのかであるのだから、それは、いまだ現象=存在せざるものがそれを見てとる者(媒体)のもとでどのようにして現象=存在へといたるのかを問うていると言ってもよい。これを右のアナクシマンドロスの考え方に乗せて表現すれば、「無限定なもの」から「限定」への移行がどのようにして生じているのか、「潜在態」から「顕在態」への移行において何が発生しているのかを、この移行がそこではじめて生じているはずの媒体である「私」に問い尋ねているのである。現象の媒体としての「私」は、「現象するもの」と「いまだ現象せざるもの」の接点に立つ「現象を見てとる者」だからである。「現象する【もの】」の「リアリティ」(「ありありと」)と「現象を構成する【はたらき】」の「アクチュアリティ」(「生き生きと」)の最終的な根拠は、そうした「顕在」化への動向ないし趨勢を内に孕みつつそれ自体はいまだいかなる意味でも顕在化していない(現象へと現われ出ていない)「潜在態」ないし「無限定なもの」に遡らざるをえない。それをここで「ヴァーチャリティ」と呼んだのである(したがって、昨今世上で取り沙汰されている「仮想現実」という意味でのそれではない)。》(『フッサール 起源への哲学』、【 】は原文ゴシック)
 「ヴァーチャリティ」はいかなる「質(クオリティ)」でもない。「【それ】を指し示すのに「ありありと」であれ「生き生きと」であれ、何らかの「感じ」をもってすることはできない」。なぜなら「「感じ」とは、すでに何らかの規定がなされたところでしか発生しないからである」。
 「ヴァ―チャリティ」はまったくの「無」でもない。というのも端的な「無」であれば、それにいくら規定を加えたところで、それがたちどころに「存在」へと転化することはないだろうから。それは「無」というよりはある種の「充実」なのである。世界に「実質」を与える「充満する空」。この「充満する空」と「現象するもの」=「存在」との接点にあって、前者から後者への〈いま・ここで・現に〉生じている移行を見届けているものが、この「私」なのである。
 究極の問い。「私」が消滅しても世界は現象するのか。「世界がそこにおいて、そしてそこにおいてのみ「潜在態」から「顕在態」へ、「見えないもの」から「見えるもの」へと移行する[=「実質」を受け取る]「場所」である「私」の〈いま・ここで・現に〉」が消滅しても世界は現象するのか。
《世界は〈現に・いま・ここで〉のみ現象する。「私」もまた、この〈いま・ここで・現に〉のもとでのみ成立する。この意味で、「私」と〈現に・いま・ここで〉は切り離しえない。にもかかわらず、このふたつは同じものではない。そもそも〈現に・いま・ここで〉は、「何」として限定したり、「それ」として指示することもできないのであった。本書がこれまで何度も「それ」と表記してきた「それ」は、実は指示の機能を果たしていないのである。文字通りこの表現は、「空」を切っているのである。したがって、【それ】について「同じ」とか「他の・別の」といった議論は(少なくともこの時点では)、成り立たないのである。そのようなものが「私」から失われたとき、そのもとで成り立っていた「私」はもはや存立の余地がなくなるが、それは、もはや【「私」のもとでは】世界は現象しないということのみを意味する。ではそのとき、〈いま・ここで・現に〉の方はどうなったのか。答えは明らかであろう。「私」は、この問いに関して何かを言うことができないのである。》(『フッサール 起源への哲学』)
 
《かりに〈いま・ここで・現に〉がなお存立しているのだとすれば、そこで世界は現象している、と言いたくなる。だが、この言い方は成り立たないことに注意しなければならない。「世界が【そこで】現象している」という言い方は、現象の本質を裏切ってしまうからである。現象が現象であるのは、あくまで〈いま・ここで・現に〉でしかないのである。「私」がこのことに関して何かを言うことがもはやできない、と述べたゆえんである。またかりに、〈いま・ここで・現に〉もまたいまや存立していないとすれば、そのときにはもはや何ものも現象しない以上、すべては無に帰したのである。だが、これもすでに触れたように、何ものも現象しないということ、この意味での「無」ということでいったい何を理解したらよいのかを「私」は知らないのだった。何かが理解されているとすれば、そこにはすでに理解された「何ものか」が現象しているのだった。ここでも再び、「私」はそれについて何かを言うことができないのである。》(『フッサール 起源への哲学』)
(斎藤慶典によると、「独我論」と訳されるラテン語 Solipsismus は「我」という意味の語を含んでおらず、この言葉は正確には「(何か分からぬその)それのみ(が存在する)」ということを言っている。「ここで現象学がみずからの基盤にして出発点と見定めた地点は、この言葉の本来の意味でのそれ、すなわち〈いま・ここで・現に〉という「現象」の直接性のみが存在するということ、簡略化して言えば〈いま・ここで・現に〉の独‘在’論なのである。」そして「驚くべきことに」(と斎藤は書いている)『省察』でのデカルトがその懐疑の極点(第二省察)ですでに「何か分からぬ私のそのそれ」と書き留めているのだ。
 いま引いた文中の「独在論」という永井均から借用した表現についての注記。「氏が年来語ってきた〈私〉の「独在論」から私(斎藤)は多くの示唆を得ているのだが、私がフッサール現象学の内に見てとったものと氏が語っている事柄が重なるものなのか否か、いまだに判断がつきかねている。読者諸賢の判断に委ねると言いたいところだが、ひょっとするとこれは事柄の性質上、そもそも同じか否かを判定しうる類のものではない、と言った方がよいのかもしれない。何しろ【それ】は、何かとして規定できない以上、指示することもまたできないからである。指示の効かないもの同士を比べろ、というのは土台無茶な話だからである。」)
 
■余録、リルケの世界内面空間
 
 リルケの「開かれた世界」もしくは「世界内面空間 Weltinnenraum」という概念が興味深い。(「充満する空」としてのヴァーチュアリティ。存在深層における(本然の姿の)フウィーヤとしての(リルケの)レアリテート。この二つの「本質」、二つのリアリティがかけあわされる空間。)
 辻邦生著『薔薇の沈黙──リルケ論の試み』によると、「世界内面空間」は(天使的な)純粋意欲に対応して存在するものである。それは「存在と非存在を貫く存在形式」である。「生と死、内と外を貫く空間」であり、「過去も未来もない持続」である。また、「純粋意欲=欲求対象を決して所有しない、自己性を克服した純粋活動としての意欲」は、ニーチェの「力への意志」とほとんど同質の「生への意欲」といっていいものであった。
《……この〈内〉は無となり、〈外〉を映すものとしてのみ存在しているので、ここでは〈内〉はそっくり〈外〉として存在しはじめている。…「何処にこの内部に対する/外部があるのだろう?」[「薔薇の内部」]は、このことを言っている。強いて言えば内部に対する外部は、内部にしかない。〈外〉は〈内〉に包まれ、〈内〉は無化し〈外〉と一つになる。〈内〉から〈外〉へという溢出(「あまたの薔薇は/みちあふれ/内部の世界から/外部へとあふれ出ている」)は実は〈内〉から〈外〉へではなく、〈‘外’〉‘から’〈内〉へ溢れ出ているということになる。
 この「〈外〉から」の〈外〉は、無化された〈内〉に映っている〈外〉である。したがってこの〈外〉からの働き(匂い、色、形体付与などの働き)が溢れるとは、〈外〉がある匂い、色調、形体に変貌してゆくことに他ならない。あたかも匂いが薔薇から溢れ、夏らしい世界へと変ってゆくようにである(「そして外部はますますみちて 圏を閉じ/ついに夏ぜんたいが 一つの部屋に/夢のなかの一つの部屋になるのだ」)。
 後期の詩『転向』のなかでリルケが「もはや眼の仕事はなされた/いまや、心の仕事をするがいい」と歌ったのは、見る存在としての〈内〉が無となって〈外〉と一体化した瞬間を直覚したからだろう。見る主観と見られる対象という対立関係は、この新しい場、新しい空間では消える。そこには「心の仕事」──つまり〈見る〉ではなく〈感じる〉が開始される。と同時に、主観・客体の二元論のかわりに、〈感じる〉ことによって一元的に現象する世界が、そこに存在しはじめる。》(『薔薇の沈黙』)
 
《それ[=世界内面空間]を全身で生きるとは、彼[=リルケ]自身が自己性を克服し、内と外の合一化を体験し、生と死のめくるめく合体を通して、突然、自在な永遠的存在に変貌することなのだ。それ‘について’語る人ではなく、それ‘から’すべてを語り出す人になる。もはや〈世界内面空間〉についても〈天使〉についても話す必要はなくなる。彼自身が〈世界内面空間〉から語り、〈天使〉的存在として語るからである。一九二二年一月の詩的奇蹟ともいうべき突然の詩作の嵐は、まさしくこうした存在になり得たリルケが、神話を憑依的に語る巫女さながらに、存在のあらゆる形姿を言語化したプロセスということができるだろう。
 そこには、〈固有の死〉〈愛する女〉を通って〈天使〉の出現に至る登高のひたむきな姿勢から、〈世界内面空間〉の内側から発する多様な声へと変容するリルケが見てとれる。たとえば、人間は〈天使〉に対してただ恐れる存在ではなく、人間の役割をはっきり明示する存在に変る。いまやリルケは「地上にあること」を全肯定する詩人として立つ。》(『薔薇の沈黙』)
 
《それ[=世界内面空間]は薔薇に抱かれた世界であり、世界は薔薇に変貌している。〈見る〉を超えて現われる世界、心の愛でひしと抱かれた世界とは、薔薇の本質である〈歓喜・陶酔〉を充満させた空間にほかならない。晩年のリルケはミュゾットの館でこの成熟を経験し、力に満ちた日々を取り戻した。薔薇は夏の光の下で沈黙し、ただ充実した内面の活動に宇宙的生命を象徴化する。沈黙とは、この宇宙的な理法のすべてに通暁し、生命という至福の業[わざ]をまさしくこの〈薔薇〉という形で言うことなのだ。
 
  ぼくはお前を見つめる、薔薇よ、半開きの書物よ、
  細々と幸福を書き綴った
  多くの頁。ぼくはとても
  読みきれそうにない、魔法の書物よ   (『薔薇』U)
 
〈薔薇空間〉となったリルケは甘美な陶酔の持続となって、時間を超え、生と死を超える。おそらくいまわれわれにとってなすべきことは、〈見る〉ことの果てに出現した〈対象[もの]としての世界〉を、いかにして〈薔薇空間〉へ変容するか、ということだろう。不毛と無感動と貨幣万能の現代世界のなかで、はたして至福に向かってのそんな転回が可能かどうか、われわれがある決意の時に立たされていることは事実だろう。》(『薔薇の沈黙』)
 
(21号に続く)
★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。

Web評論誌「コーラ」20号(2013.08.15)
<哥とクオリア>第26章:存在の風に吹かれて(附論)──人和歌のメカニスムV(中原紀生)
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