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Web評論誌「コーラ」
20号(2013/08/15)

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■深層意識的言語哲学、二十世紀の神学
 
 司馬遼太郎との対談で井筒俊彦が語った、古今、新古今の思想的構造の意味論的研究の話題への伏線、その一。
 
 若松英輔著『井筒俊彦──叡知の哲学』のなかで、もっともすぐれた着想であり業績である(と私には思われる)、白川静の文字学と井筒俊彦の「深層意識的言語哲学」との比較論をとりあげたいと思います。
 まず、二十世紀の言語学について書かれた若松氏の文章を二つ、その言外の拡がりや味わいを含めて丸ごと抜き書きします。
《二十世紀、フロイト、ユング、アードラーが輩出し、宗教と神秘思想あるいは古代哲学に封印されていた人間の深層意識を学問的に解明するという思潮が生まれる。それは、心理学[サイコロジー]が文字通りの意味で「魂[サイキ]」の学として、新生するという創造的飛躍を経験した一時期だった。以後のあらゆる学問は、意識が多層的実在であることを無視することはできなくなる。それと並んで二十世紀もっとも飛躍した学問の一つが言語学だった。》
 
《二十世紀、ことにその前半、言語学は単に言語機能を究明する学問だったのではなく、むしろ、形を変えた「神学」だったとヤーコブソンは考えている。言語学が神学的役割を担うとは、文化、歴史、精神性の差異を超えた次元を、その学問が現出せしめることを意味する。「メタ言語」はその試みの一つだった。》
 メタ言語の実現は井筒俊彦の悲願でもあったが、「ただ、井筒が望む「メタ言語」は、既存の言語を「メタ」的に扱うのではなく、文字通り言語を meta する(超える)実在でなくてはならなかった」。若松氏はそのように書き、つづいて、エネルゲイア(純粋現勢態)としての「純粋詩」や、マラルメの「絶対言語」の話題をとりあげ、さらに、1956年刊行の英文著作『Language and Magic』で井筒俊彦が論究した、magico-religious な言葉の力の実質(「それは意味を生むだけでなく、実態を決定する「存在」の秘儀である」)へと話をつないでいきます。白川静の名が登場するのは、そうした議論の流れがいきつく先です。
 
 若松氏は、白川静の『漢字』から、「次に文字があった。文字は神とともにあり、文字は神であった」という一節を引き、これを、井筒訳によるヨハネ福音書冒頭の一節、「太始にコトバがあった。コトバは神のもとにあった。というより、コトバは神であったのだ。ありとあらゆるものがこれによって成り、およそ成り出でたもののうち、ただひとつもこれによらず成り出でたものはなかった」とひきあわせます。
(この訳文は、井筒俊彦が七十歳の年、高野山でおこなった講演「言語哲学としての真言」のなかに出てくる。そこで、井筒俊彦は、「存在はコトバである」という、井筒哲学を一言で収斂させる命題を提示するとともに、中学生の頃、偶然「ヨハネ伝」の最初の一文に遭遇したとき、「驚きとも感激ともつかぬ、実に異様な気分に圧倒され」、そして、「意味不明のままに、しかも何となく底知れぬ深みを湛えた神秘的な言表として、この一文が、その後も永く消し難い余韻を私の心の奥に残した」と語っている。若松氏によると、この体験は、青年期におけるギリシア哲学との出会いとともに、井筒俊彦にとっての「啓示的出来事」であり、その「実存的経験」の核心をなすものであった。)
 白川静は文字、井筒俊彦は言語と、それぞれが論じる実体は違うが、それは表層意識に映じた差異にすぎない。若松氏はそのように述べ、井筒自身が『意識と本質』)のなかで、「本論で私が「言語アラヤ識」という名の下に問題にしてきた深層意識領域内での意味「種子」の本源的なイマージュ喚起作用を中心にする言語観」をそのまま理論的に展開すれば、それは「大規模な言語哲学」を、つまり「我々が常識的に考える言語哲学、すなわち表層意識において理性が作り上げる言語哲学とは全然異質の、深層意識的言語哲学」を生む可能性があると書き、その典型的なケースとして「空海の阿字真言、イスラームの文字神秘主義、同じくカッバーラー文字神秘主義など」を挙げていることを示します。
《井筒と白川の間に見るべきは言語観の一致だけではない。むしろ、両者の「神」経験の実相である。「文字は神であった」以上、それを論じる学問が、神秘学、すなわち高次の神学になることは白川には当然の帰結だった。井筒俊彦にとってもまた同じである。言語学──「コトバ」の学──に井筒俊彦が発見していたのも、現代の「神」学に他ならない。》
 余談として。かつて京都で「文字講話」の第一回を聴講した。 壇上に立った「字聖」(当時八十九歳)は、 一時間半に及ぶ講演の間、張りのある力強い声で淀みなく、最後には熱く、漢字以前の「図象」への思いとその学問的情熱を語り続けた。そこには確かに古代世界が出現し、文字が生まれ出る臨界点のエネルギーがわきたっていた。私はメモも取れず、ただその言葉に圧倒された。
 あらためて白川静の原典にあたる作業をはじめてしまうと当分帰還できなくなりそうなので、ここでは現代の「字聖」の著書から、「深層意識的言語哲学」あるいは文字をめぐる神秘学に関連すると思われる論述を引くことにする。
 石川九楊著『日本の文字──「無声の思考」の封印を解く』に、一音多字、清音表記を特徴とする「女手」(ひらがな)とともに生まれた古今和歌のレトリック(掛詞、縁語、見立、歌枕、等々)は、音による韻律ではなく文字=書字による韻律、すなわち、「文字に触発された意味の上での韻、字韻」の当然の帰結だ、と書かれている。
 たとえば、「梅の香を袖にうつしてとめたらば春は過ぐとも形見ならまし」の古今和歌を、寸松庵色紙は「むめのかをそてに/うつしてとめたら/はるはすくと/もかたみならま/し」と、五行にちらして書く。従来の解釈では、第二行末と第三行冒頭のあいだの「は」は脱字とされてきたが、石川氏は、「うつしてとめたら‘は’」と「‘は’るはすくとも」というふうに、第三行冒頭の「は」は二重に読まれるべきであって、そこに「掛字[かけじ]」という「字韻」が駆使されているとみる。
 そして、この掛字は、(「さ」の最終筆と「ら」の第一筆を二重に書く、あるいは「ち」の最終回転部分と「と」の書き始めの第一筆とが二重化する、などの)「掛筆[かけひつ]」の表現技法に根ざしているとする。「ひらがなの歌」である和歌の最も代表的なレトリックとされてきた枕詞は掛字に支えられ、その掛字は掛筆に支えられている。
《漢字で書かれている万葉集の歌は和歌とは呼ばない。宛字という意味で「仮字[かな]」とはよぶものの、万葉仮名は漢字にほかならないから女手=ひらがなのような「かな」歌ではなく、漢字歌である。これに対し、「古今和歌集」の歌は女手で書かれた、真正の和歌である。女手は語を単位とする分かち書き化へと踏み出した文字であるから、なめらかに書かれる。なめらかに書くこと──書字自体の優位化、優先は、複雑で微少な差異をならし、平準化を進める。母音の五母音への簡素化と、現在で言う清音、濁音の一体化つまり清音表記も進んでいった。
 また、清らか、なめらかに書くところから、掛筆が生れ、掛筆は掛字を、そしてそれは掛詞を生むことにもなった。声による韻律よりも、書字(掛筆)に発する掛詞が清音表記によってさらに増幅され、表現の可能性が広がり、和歌の表現が洗練されていった。意味の韻、文字の韻、書くことから生れる韻律によって成り立つ和歌が、女手の誕生とともに生れたのである。ここに東アジアの漢字の「詩」とは異なる「和歌」が誕生した。
 これらの掛詞や縁語を和歌のレトリックの技巧と考え、従来の国文学者のなかには、それをおもしろがる人たちと技巧的でありすぎると批判する学者が存在した。和歌の技巧性に対する見解は相違しているが、両者は共通に、西洋の音韻律を存在基盤とする詩をモデルとしてこれらを和歌の技巧と捉えている。だが、これらは、和歌のレトリックではなく、意味の韻律、字の韻律を基盤に成り立っている和歌という詩の構造から生じた表現なのではないだろうか。》
 
■「見る」の世界、実存的経験
 
 いまひとつ、白川静をめぐる議論を引きます。
 「和歌における「見る」働きに、実存的ともいえる特別な意思を込めて論じたのが、白川静だった。」若松氏はそのように書き、白川静の『初期万葉論』から、「自然との交渉の最も直接的な方法は、それを対象として「見る」ことであった。前期万葉の歌に多くみられる「見る」は、まさにそのような意味をもつ行為である。」を引用したうえで、井筒俊彦の和歌への関心とひきあわせて、次のように語っています。
《「『見る』ことの呪歌的性格は『見れども飽かぬ』という表現によっていっそう強められる」とも白川は書いている。「見る」という行為は、世界と「霊的」に交わる原初的な営みだというのである。
 井筒、白川の二人が和歌、すなわち日本の詩の源泉に発見したのは、芸術的表現の極ではなく、「日本的霊性」の顕現だった。白川静によれば、「霊」の文字は雨乞いをする巫女を象[かたど]ったといわれる。また、神霊の降下を意味し、次第に神霊そのものを表し、のちには神霊にまつわることすべてを含有するようになったという。「霊」とは、死者の霊魂をいう「心霊」とは全く関係がない。ここでいう「霊」は絶対的実在の異名、超越者の働きを意味する。
 文字に白川が何を読み込んだかを論じるのが漢字学だろうが、私の関心はむしろ、彼がなぜ、そう読むことができたのかという点にある。井筒の場合も同じである。彼がどう読んだかを論じることも重要だが、彼がなぜ、ある対象に出会い、それを「読む」ことができたのかということが本論の命題なのである。(略)
 白川は文字を「見る」ことから始めた。文字の前に佇み、何ごとかが動き出すまで、離れない。次に彼が行ったのは、ひたすらそれを書き写すことである。すると文字は自らを語り始めると白川は考えた。井筒もまた、同じ姿勢で、テクストに対峙したのではなかったか。(略)学問とは知識の獲得ではなく、叡知の顕現を準備することであるという態度において井筒俊彦と白川静は高次の一致を現出している。》
 白川静の「見る」が、井筒俊彦にとっての「読む」に相当する。「読む」こと、すなわちテクストの「思想的構造の意味論的研究」。肝心なことは、「彼がどう読んだか」ではなくて、「彼がなぜ、ある対象に出会い、それを「読む」ことができたのか」、あるいは、「その対象がなぜ、彼にたいして自らを語り始めたのか」である。若松氏がそのように言うとき、実はそこに、ひとつのループが生じています。(このループは、解釈学的循環ならぬ超越論的循環、もしくは形而上学的、神学的循環とでも言うべきものだと思う。あるいは、存在論的差異の関係にある両項にまたがる存在論的循環とでも。)
 ある古典的テクスト、たとえば古今和歌集や新古今和歌集を「読む」とき、そのテクストの意味を読解する方法を習得するためには、それに先立って、まずそのテクストに出会っていなければならない。テクストの「意味」によってあらかじめ「つかまれて」いなければ、そもそもテクストを「読む」ことなどできない。(純粋詩としての和歌を「読む」ためには、その当の歌を自作詠として「詠む」=「書く」のでなければならなかったように。)
 これは、実は、井筒俊彦の終生変わらぬ学問的「信条」につながっている事柄でもありました。若松氏は、このことを次のように表現しています。「井筒俊彦が根本問題を論じるときはいつも、実存的経験が先行する。むしろ、それだけを真に論究すべき問題としたところに、彼の特性がある。プラトンを論じ、「イデア論は必ずイデア体験によって先立たれなければならない」(『神秘哲学』)という言葉は、そのまま彼自身の信条を表現していると見てよい。」
 
(イデア論に先立ち体験されるものを〈イデア〉と表記してみる。一般に、ある根本問題に先行する実存的経験、たとえば「私」とは何かという問いに先だって経験されるものを〈私〉と表記してみる。しかし、それらは言語以前の経験だから、本来、〈イデア〉や〈私〉などと表記することはできない。言語記号をもって表記することができるのは、「イデア」や「私」などの根本問題をめぐる議論を通じて言語的に精錬され、表現される概念であって、それを《イデア》や《私》と表記してみる。
 私たちは、いや、この私は、《私》をめぐる議論に接することで、もっと具体的に言えば、永井均氏の独在性の〈私〉(比類ない私、そもそも他人が存在しえない私)をめぐる論述を単独性の《私》(他人ではありえないほかならぬこの私)、あるいは超越論的主観性としての《私》をめぐる議論として読み、理解することを通じて、かの〈私〉をめぐる実在的経験の実質、手触り、感触、あるいは存在感覚のようなものが、ほかならぬこの私自身の実存的経験として、いま・ここで、現に、はじめて(しかも、いま・ここに先立つ体験として反復的に)たちあがるのを経験した。
 その永井氏が『西田幾多郎』で、西田現象学の二つの根本問題(私の関心にひきよせれば、それらは貫之現象学における根本問題にほかならない)を提示していた。すなわち、@「言語に云い現すことのできない赤の体験」のような、言葉で語りえぬものがいかにして言葉で語れるようになるのか(〈赤〉はいかにして《赤》となるか、あるいは、「ひとのこころ」を種として「よろづ=クオリアの宇宙」が「ことのは=詞」へと生長していくプロセスとはどのようなものか)、A直接に結合していない私と他人が、言語や文字といった表現を通じて、また音や形といった物理現象を手段として、なぜ相理解できるのか(《赤》がいかにして〈赤〉となるか、あるいは、そもそもなぜ「詞」が他のペルソナに伝わるのか)。
 また永井氏は同書で、西田哲学における現象学(〈赤〉や〈私〉の現象学)と論理学(《赤》や《私》の論理学)を区別し、次のように述べていた。論理学に対する現象学の優位性が、「体験は言葉と独立にそれだけで意味を持ちうる。言葉の意味もまたそういう体験にすぎないのだ」とする西田的確信犯の特質であり、一方、「言葉は体験と独立にそれだけで意味を持ちうる。「体験」もまたそういう言葉にすぎないのだ」とするウィトゲンシュタイン的確信犯が、現象学に対する論理学の優位性という特質をもって、西田的確信犯と相対峙している。
 以上のことがらが、井筒俊彦の言語哲学的意味論をめぐる書物を読みすすめながら、私の脳髄に浮かんでは消えていった。「イデア論は必ずイデア体験によって先立たれなければならない」と述べることで、井筒俊彦は西田=貫之現象学の側に与している。(井筒俊彦の主著『意識と本質』のうちに、私がかつて見てとることができたのは《私》の論理学ならぬ《私》の分類学のごときものであって、そこに〈私〉の現象学を読みとることはできなかった。しかし今回あらためて通読して気づいたのは、『意識と本質』のうちに〈私〉の現象学が含まれているかどうかが問題となるよりもさきに、実は『意識と本質』そのものが〈私〉であるという事態がなりたっていたのではないかということだった。)
 私は、純粋詩としての和歌のメカニスムとは、クオリアの言語表現(〈赤〉⇒《赤》)と、他のペルソナへのその伝達(《赤》⇒〈赤〉)という、貫之現象学の二つの根本問題を同時に解くプロセスの異名であり、かつ、純粋詩としての和歌に詠まれる内容とは、実は、当の純粋詩としての和歌のメカニスムそのものである、といった事態がなりたっているのではないかと考えている。そして、古今、新古今の意味論的研究のメカニスムこそが、実は、当の和歌の意味を産出しているといった事態がなりたっているのではないか、より端的に言えば、井筒意味論こそが和歌のメカニスムなのではないか、と考えはじめているのだが、これは先走った議論だ。)
 
■「見ゆ」の世界、共感覚的言語
 
 古今、新古今の思想的構造の意味論的研究の話題への伏線、その二。
 
 谷川健一との対談『柳田國男と折口信夫』で、池田彌三郎が、「僕は彼[井筒俊彦]に共同で「万葉集なら万葉集の歌に色を塗ってみないか」と言われているんです。たとえば「あかねさす」なんてところには茜色を塗って」云々、と語っています。若松氏は、前掲書でこのことにふれ、「和歌に色を塗る目的は、古代人の色彩感覚や鮮やかな文化風土を知るため」ではなく、井筒俊彦は、和歌に「色を塗布することで、色ならぬものを、白川静のいう「ことばの意味する実体そのもの」を浮かび上がらせたかったのではなかったか」と書いています。
 そして、ランボー(「Aは黒、Eは白」)やマラルメ(「青い孤独」「青い香り」)、芭蕉やリストの共感覚(的表現)に言及し、「共感覚的言語があるのは、比喩表現の発達に由来するのではなく、事象の実在が、そもそも共感覚的なのではないか」と、比喩表現と共感覚との先後関係をめぐるウォーフの説を紹介したうえで、次のように論じます。
《奇異な現象に真実は少なく、常識的な出来事に神秘が顕現するというのは、ほとんど公理に近い。むしろ、論究すべき主題は、私たちが日々、意識することなく、共感覚的に生きているという現実、「コトバ」が複数の感覚を包含しつつ現れ、認識され、表現されているという事実にある。
 不可視とされる事象に遭遇したとき、私たちはそれを目視できなくても、「見た」かのように感じることがある。たいていの人に同様の経験があるのではないだろうか。見るという素朴な営みにおいても、人間は何かを目視する以上の営みを日々、行っている。》
 ここで若松氏がとりあげるのが、「いち早く日本古典文学における共感覚に注目」した佐竹昭広の、「『見ゆ』の世界」という論考です。以下に、佐竹論文の概要を、共感覚もしくは共感覚的心性・表現・隠喩に関する前段の議論と、後段の万葉集における「見ゆ」の用法をめぐる議論とに分けて記します。
 
 前段。「音を見る」「匂いを見る」体験を共感覚という。子供や未開人においてきわめていちじるしいが、普通人の感覚のなかにも、古い共感覚的心性は今なお残留している。その内部構造は必ずしも一定していないようだが、与えられた一次感覚と随伴する二次感覚との組合せのうち、二次感覚に視覚の生ずる事例(「明るい音」「暗い響き」「黄色い声」)が多いということは決して偶然ではありえない。人間の感覚器官における視覚の優位性がここに強く発現していると考えられるからである。われわれの知覚には、いつも視覚機能が協同している。「もと視覚を表わした「にほふ」という言葉が、「橘のにほへる香かも」のような用法を経て、やがて嗅覚を表わす語へと転じていった意味変化も、二次感覚に視覚が生じた例として説明しうる。」
《広く人間の感覚を踏まえた隠喩全般を通じて、もっとも頻繁に現れるものは視覚型の隠喩である。感覚を踏まえた隠喩は共感覚的隠喩の拡大用法であると見られる。隠喩一般の起源が共感覚的心性にあることを論じたのはウェルナアであるが、非空間的なものを空間的なもので表現しようとすることが隠喩の本質であるとすれば、本来、二元的構造を持つ共感覚こそ隠喩発生の母胎となりうるものであった。共感覚的表現のなかに認められた一傾向と、感覚的隠喩における視覚型の優勢は、ともに対象の視覚化という性質では変わるところがない。われわれの感覚は、常に視覚が優越し、われわれの言語表現は、この視覚の上に立った描写、ないしは、視覚に援けられた描写を自然にとっている。事物をありありと描き出すため、渾沌未形の状態にあるものを具体的に限定して表わすためには、目に見える物質界の明確さが、常に最大の拠り所となるのだ。》(『萬葉集抜書』)
 後段。萬葉集をひもといて直ちに気づくことは、「見ゆ」という言葉の使用がきわだって多いという事実である。ただ「見ゆ」の使用例が多いというばかりではなく、その用法においてきわめて特徴的なかたちをとっている。それは、「天離[あまざか]る鄙の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ」のように、終止形「見ゆ」で文を結ぶ用法である。
 古今集に入ると、この用法ははやくも姿を消す。新千載集に「たづ渡る見ゆ」という萬葉詞を用いた例があるが、そこでは「渡る」は動詞の連体形として意識されていた。これに対して、古代の「見ゆ」は上の文を完全に終結させた後で終止形としての「渡る」を承けているのである。外形は同じ「たづ渡る見ゆ」でも、古代と平安以後とでは文法的に大きな相違があった。「われわれは、終止形「見ゆ」で文を結ぶという、古代和歌における特徴的な用法を手がかりに、「見ゆ」という語の背後にあった古代の意味の世界を探ることができる」。
 「見ゆ」は「聞ゆ」「思ほゆ」とともに、「見」「聞き」「思ふ」主体の判断に関する語であるがゆえに、その意味は動作的でなく状態的である。「見ゆ」は「見る」の受身であり「見える」意をあらわすが、それが意味するのは「見えて来る」作用ではなく「見える」という状態なのである。
《フランス語の Voila' が「そこを見よ」の意から「そこにある」意へと転じてきたように、存在ということは本質的に見ることを前提にする。(略)ギリシャ人は真の実在をイデアと名づけたが、イデアは、まず第一に、見られる物、直観の対象としての「かたち」であった。古代語「見ゆ」の背後にも、存在を視覚によって把捉した古代的思考がなお強力に働いていたと認められる。
  印南野は行き過ぎぬらし天伝ふ日笠の浦に波立てり見ゆ (巻七、一一七八)
  朝霧にしののに濡れて呼子鳥三船の山ゆ鳴き渡る見ゆ  (巻十、一八三一)
 作者の意識の底には、一つの状態を詠ずるに当っても、敢えて「見ゆ」と述べざるを得ない強い欲求があった。動作の進行を「見ゆ」で表現しなければおさまらない潜在的な何かがあった。「強い欲求」「潜在的な何か」が、存在を見えるすがたにおいて描写的に把捉しようとする古代の心性であることは、もはや繰りかえすまでもない。
 後世の目から見れば、歌としてはわざわざ「見ゆ」を用いる必要のない場合にも、好んで「見ゆ」を使う。これは語の選択に関する問題である。語の選択の問題は、ピエール・ギローが、「文体とは、話し手あるいは書き主の本性と意図によってきまってくる表現手段の選択から生じた、陳述の様相である」(略)と定義した意味において、文体の問題に属する。古今集以後、急激におとずれた「見ゆ」の衰退は、換言すれば、「見ゆ」を用いる文体が崩壊したということである。存在を視覚によって把握する古代的思考の後退こそ、その決定的要因であった。かつて「見ゆ」の文体を支えていた古代的意味の基盤が失われたとき、その文体は必然的に崩壊せざるを得なくなった。古代和歌における「見ゆ」の頻用には、意味の問題と文体の問題とが深くかかわり合っていたのである。》(『萬葉集抜書』)
 若松氏は、いま抜き書きした文章から、そのハイライトともいうべき箇所(古代語「見ゆ」の背後に強力に働く、存在を視覚によってイデア=「かたち」として把捉する古代的思考に言及したところ)を引用し、「「見ゆ」とは、肉眼を通じた機能的営みであるだけでなく、感覚統合的な営為だったことに佐竹は注意を促す。」と述べ、話題を井筒俊彦に転じます。いわく、「佐竹が万葉における「見ゆ」の世界を論じたように、井筒は新古今における「眺め」を通路に現象界の彼方を論じたことがある。」
 佳境に入ってきました。
 
■現象界の彼方、始原的境域から吹く存在の風
 
 司馬遼太郎との対談で井筒俊彦が、「私は、元来は新古今が好きで、古今、新古今の思想的構造の意味論的研究を専門にやろうと思ったことさえあるくらいです」と語ったことをめぐって、若松氏は次のように書いていました。前章で引用した文章ですが、重ねて引きます。
《「思想的構造」あるいは「哲学的」と彼が断るように、井筒俊彦がいう意味論は、言語学の領域に限定されない。言語学は通常、事物を軸に、それを呼ぶ言葉、そして言葉の意味へと論を進める。しかし、井筒俊彦の意味論は遡源的に進む。すなわち、「コトバ」→意味→言葉→事象へと展開する。「コトバ」は意味へと自己を分節し、意味は言語を招き寄せ、エネルゲイアとしての言語はエルゴンとしての事象を喚起する。井筒にとっての言語哲学とは、言葉に「意味」を探るというよりも、「意味」に「存在」へと回帰する道を見つける営みである。私たちは万葉の歌を前に、意味の知的理解の以前に心動かされる。それは表層意識とは別な「意識」が、始原的境域から吹く「存在」の風を看取しているのである。
 和歌の意味論的研究が著作にまとめられなかったのは残念だが、『意識と本質』には、その一端を思わせる論述がある。佐竹も指摘するように万葉の時代でイデア的観照を示した「見ゆ」という言葉は、古今集の時代になると姿を消してしまう。それは単なる言葉の流行といった問題ではない。世界認識の土台を揺るがすような変貌、井筒の言葉を借りれば「存在」への接近と対峙において大きな革命がおこったことが暗示されている。》
 井筒俊彦による和歌の意味論的研究の一端とは、若松氏が「新古今における「眺め」を通路に現象界の彼方を論じたことがある」と紹介していた論述のことです。このことが述べられた『意識と本質』の一節をとりあげる前に、ここでふれておきたいことは、万葉集歌の「見ゆ」から古今歌、新古今歌における「眺め」へという、和歌に用いられた語彙の変遷のうちに暗示される、「世界認識の土台を揺るがすような変貌」、あるいは、「「存在」への接近と対峙」における「大きな革命」とは、いったいどのようなものであったかということです。
 若松氏の議論をふまえて、というより、白川静と佐竹昭広の仕事をめぐって若松氏がくりだした概念や語彙を素材にしつつ、(ついでに言えば、「二十世紀もっとも飛躍した」二つの学問の話題との関連をも念頭におきながら)、「見ゆ」から「眺め」への転換、とりわけ「見ゆ」の衰退、消失のうちに暗示された認識論的変貌や存在論的革命の特質を、図式的に整理するならば、次のようになるでしょうか。
 ひとつは、絶対的実在もしくは超越者としての世界との霊的な(あるいは、「生き生きと」した)交わりの希薄化であり、いまひとつは、渾沌未形の状態にあるイデア的実在を「かたち」や「すがた」において「ありありと」描写的に把捉する心性の後退である。これとおなじことを、コトバとの関係性においていいかえると、ひとつは、神としてのコトバとの交わりの経験の希薄化であり、いまひとつは、感覚統合的なコトバの働き、すなわち、複数の感覚を包含しつつ現れ、認識され、表現される共感覚言語(たとえば、古代においては「ものを聴くことは目に見えない世界を視覚化することでもあった」(高橋元洋『日本人の感情』)と指摘される、そのような意味合いをもった「こゑ」や「聲」や「響き」)の後退である。
 私は、(かなり強引なこじつけであることは重々自覚しつつも)、この両者の関係を、西欧スコラ哲学における存在論の基礎概念である「本質」(本質存在、エッセンティア)と「存在」(事実存在、エクシステンティア)の関係とのアナロジーで考えることができるのではないかと思うのです。
 以下、次章へ。
 
■補遺、和歌の意味論的研究・序説
 
◎和歌の思想的構造の意味論的研究、もしくは和歌の意味論的解釈学とはなにか。
 確認しておかねばならないのは、ここでいう和歌とは「うたわれた歌」のことではなくて「書かれた歌」、パロールとしての和歌ではなくエクリチュールとしての和歌(倭詩)であったということ。エクリチュールとしての和歌、書かれた和歌は(文字に触発された意味上の韻すなわち「字韻」がもたらす)掛詞や縁語その他のレトリックの駆使による多層=多相性、重層=重奏性を特徴とし、ひとつの詞が多重な意味を担い異なる文脈や複数の状況を「いま・ここ」に収斂させる力をもっている。これを読み手の側からいえば、和歌はいかようにでも解釈し深読みをすることができる言語表現物である。創造的解釈、誤読を許すと言ってもいい。
 和歌の意味論的研究は(井筒俊彦が『コーランを読む』で試みたように)創造的解釈とは別の方向で和歌を読むことからはじまる。古典テキストを創造的解釈・誤読とは別の方向で「読む」とは、具体的な発話行為の「濃密な状況性」において言葉を理解し、さらに進んでその底にはたらいている「下意識的意味聯関」にまで掘り下げていって、その発話行為を下から支えている「根源的世界了解、存在感覚、気分的世界像」を探究すること。(これと同様の趣旨のことが『東洋哲学覚書 意識の形而上学──『大乗起信論』の哲学』では「古いテクストを新しく読む」と表現されている。)
 和歌の意味論的研究の方法は次の三つのプロセスに分けて考えることができる。
 
a.エクリチュールとしての和歌の詞をパロールとしての言葉(聲、カミのギフト)が発話される濃密な状況性に引きもどす。
b.その底に働いている下意識的意味連関(どろどろした流動体、半意味、意味の可能体、言語アラヤ識)にまで掘り下げる。
c.そこから和歌に特有な存在感覚(日本的霊性としてのコトバのはたらき、もののあはれを知ること)を浮かび上がらせる。
 
 若松氏の議論を援用すれば、自然的態度もしくは通常の言語学が「事象→言葉(a')→意味(b')→抽象的な概念体系(c')」へと展開するのに対して、和歌の意味論的研究は「存在=コトバ(c)→意味(b)→言葉(a)→事象」へと(あたかも電流と電子の流れが逆転するように)遡源的に進む。
 
◎和歌のメカニスムとは西脇順三郎が「超現実主義詩論」で論じた純粋芸術のメカニスム、つまり「経験意識の世界即ちモア(moi)の世界」を消滅させ、宇宙との合体によって無限の形態をとるにいたった自我すなわち「純粋意識」を起こさせるメカニスムのこと。(純粋意識とは、たとえば現象学的還元によってみいだされる超越論的主観性。あるいは言語が夢見させる意識。詠まれた和歌の世界のなかに登場するペルソナ=詠みつつある心。)
 このメカニスムは、@相異なる経験意識(神や美のプラスの世界と悪やグロテスクのマイナスの世界)の連結、A生きんとする力=美を求める力、という二つの要素から構成され、それ自身が実は純粋芸術の表現対象でもある。
 和歌の意味論的研究のプロセスをこの西脇順三郎の「芸術=機械説」にそくして考えてみる。すると、一つの解釈として次のように言うことができる。和歌の意味論的研究のプロセスとは実は純粋詩としての和歌のメカニスムそのものであり、したがって和歌に詠まれた内容もまたこのメカニスム=プロセス(形式)それ自体である。
 詳説すると、和歌の意味論的研究が「詞→a→b→c」という(どこかしら現象学的還元の手続きを思わせる)プロセスを経て「コトバ(c)→意味(b)→言葉(a)→事象」と定式化される世界の実相を明らかにするのと同じように、和歌のメカニスムは「相異なる経験意識の連結(による経験意識の世界の消滅→純粋意識の起動)→生きんとする力の駆動(による純粋意識の無限化→宇宙との合体)」という(同様に現象学的な還元と構成の手続きを思わせる)プロセスを経て「純粋意識の起動→その無限化→宇宙との合体」と定式化される純粋詩の内容(純粋意識の世界)をもたらす。
 
◎和歌を「読む」こと、和歌を意味論的に研究(解釈)すること、したがって外側から和歌にかかわっていくプロセスが、実は解釈の対象である当の和歌の内容、実質そのものであり、したがって内側から和歌にかかわっていくことと等しい。和歌を「読む」(意味論的に解釈する)ことは和歌を「詠む」(カミのコトバを「翻訳」する)ことであるという事態がなりたっている。
 「読む」は「詠む」である。つまり歌の意味を解釈することがその意味をコトバによって表現することとつながっている。ということは、歌を「読む」とは歌の意味を解釈することを通じてその歌に詠まれた(と解釈されるところの)意味を自らのものとして初めて経験することにほかならない。それが「翻訳」である。
 ところが一般に歌を「詠む」とは、歌の詠出に先立つ経験を言葉によって表現し伝達する営みだと解されている。オリジナルな経験でなくても、あらかじめ公的に認知された経験(そのような状況のもとで人はそのような思ひや感情をいだくであろう、いだくべしと世の多くの人によって、とりわけ歌人たちの共同体において伝統的に認められた経験)というもののリストがあって、そのいずれかを引用して表現することも歌を詠むことの範疇に入れてさしつかえないと考えられている。
 そうだとすると、歌を「読む」ことは歌に詠まれた意味論的意味を「初めて」経験することだと先に書いたのは、いったいどのような事態を言い表そうとしていることになるのか。それは、詠まれた歌(というフィクショナルな構えのもとで書かれた歌、いわば物としての歌)のうちにヴァーチュアルなかたちで登録されている意味=経験=思ひが、歌を読むことを通じてアクチュアルなものとして浮上してきたということなのか。「コトバ」が言葉になるように。そして、可能的な百ターレル(銀貨)が現実の百ターレル(銀貨)に転化するように?
 あるいは、なにごとであれ直に経験するということは、そのときその人に到来した一回かぎり、前代未聞、空前絶後の出来事なのであって、だから、歌を「読む」ことによって歌に詠まれた意味論的意味を経験するとは、そのときその読み手に到来した(いや、そのときのその読み手にかぎらず、およそこの世界に存在し、存在した、存在するであろうすべての経験主体のすべての時間を通じて)「初めて」の経験にほかならないのだ。もしかりに歌の「詠み手」が歌の詠出に先だって経験したオリジナルな意味=思ひがあったのだとしても、それはその歌の「読み手」が初めて経験する意味論的意味と同じものではない。そんな言い方ができるだろうか。
 和歌の意味は和歌のコトバのうちにしかない。和歌に外部は存在しない。和歌が歌っているのは、和歌を解釈し理解し鑑賞する営みを通じてあきらかになるところの「和歌が歌っていること」そのものなのだ。和歌にたいする意味論的研究をおこなう者が和歌のうちにみいだすものとは、実は和歌を意味論的に解釈し理解しているおのれのその心的作業そのものであるということだ。
 精確には、「やまとうた」(パロールとしての「和歌」ではなく、エクリチュールとしての「倭詩」)が語っているのは「思ひ」が声となって歌われる、あるいは「もの」にふれて「あはれ」と動く心(感情)が言葉でもって「表現される」という事態そのものなのだ。《和歌》の意味論は必ず〈和歌〉の体験によって先立たれなければならない。
 

★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。

Web評論誌「コーラ」20号(2013.08.15)
<哥とクオリア>第24章:存在の風に吹かれて──人和歌のメカニスムV(中原紀生)
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