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Web評論誌「コーラ」
17号(2012/08/15)

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■修辞から境地へ─第二のメタフィジィク
 
 これより、定家十体をめぐる『初期歌謡論』の議論を駆け足で、いわば「クイック・フォックストロット」のリズムでもって見ていきます。が、その前に、議論の前提となる事柄をひとつ、確認しておきます。
 前々章で引いた文章のなかで、吉本隆明氏は、壬生忠岑の和歌体十種と定家十体との「二世紀半ほどのあいだに、歌をつくることは、表現を媒介にしてある心の境地を、いいかえればメタフィジィクを獲得することだというところに踏みこんでいったのだ」と書いていました。
《忠岑の「和歌体十種」では基準となったのは「古歌体」であった。「古歌体」とは、忠岑の同時代からみて理想の歌が詠まれたとかんがえられている時代、あるいはその時代の歌をさしていた。具体的には『万葉』の晩期から『古今』の初期にわたる歌を「古歌体」としてえらび、これは他のすべての歌体にわたる模範とみなされた。おなじ意味で「定家十体」の基準となったのは「有心体」であった。「有心体」とはけっして修辞的な歌体の問題ではない。〈こころ〉─〈在る〉という現世にたいする仏教的なメタフィジィクのある境位をさしている。そして「有心体」が、ほかのすべての歌体にも及ぶものだとしたとき「定家十体」は、その美的な基準を修辞から境地へと移しかえたのである。
(略)このあいだに、歌人たちは修辞的な労苦を超えて、歌をつくることは〈こころ〉のある境涯を獲取してゆくことだ、というところまで走っていたのだ。「定家十体」は、歌体を類別することは〈こころ〉の境地を類別することだ、という認識にたっていた。この意味では忠岑の「和歌体十種」がしめした歌体を類別するさいのカテゴリーの混乱は内在的にただされた。「定家十体」のそれぞれの歌体は、修辞的なものではなくあくまでも歌の境位のある色合いが、表現のうえににじみでたものを意味している。「定家十体」の世界は現世の〈あわれ〉、〈はかなさ〉、〈くるしさ〉をよく知り、そのひだのすみずみまで掬みとる心を〈有心〉とし、来世の欣求すべきゆえんに超出した心を〈無心〉として、それがすべての歌の境位を包括する詩的宇宙としてある。そしてそれぞれの歌体は、比喩によってうかがうことができるそれぞれの色合いで、〈有心〉と〈無心〉に包括された世界のある境位に位置づけられる。そういう詩的な構図であった。》
 ここでいわれる、和歌体十種における「カテゴリーの混乱」とは、「忠岑の基準からみて古歌とおもわれる歌体」(古歌体)、「主題・モチーフによる分類」(神妙体)、「手法・形式による分類」(直体、比興体、両方体)、「内容からする分類」(余情体、写思体、高情体、器量体、華艶体)に属するそれぞれの歌体が、(あたかも、シナのとある百科事典に収録された動物分類のように)ひとしくおなじレベルで並置されていること、さらに、たとえば「余情体」といっても、一首の全体から感ぜられる余情と、一首中の特定の表現(「花に心が残る」など)によるもののふたつの意味がこめられているといったように、それぞれの分類の内部でも混乱がみられることをいいます。「こういう混乱は忠岑ほどではないが定家十体についてもいえる。かれらはわたしたちが現在みているのとはちがったように、歌をみていたのではないかという疑いを禁じえないところがある。」
 それでは、定家十体にもみられる「混乱」とは何か。その最たるものは、「有心」という概念の多義性にあるでしょう。(それはあたかも、自分自身を要素として含む無限集合のごとき様相を呈しています。)定家の「毎月抄」に、「さても此有心體は、餘の九體にわたりて侍るべし。」、また、「今此十體の中に、有心體とてつらねいだし侍るは、餘體の歌の心あるにては候はず。一向有心の體をのみさきとしてよめるばかりをえらび出して侍るなり。」とあるのをふまえて、吉本氏は次のように書いています。
《定家の「有心体」は両義的なものというべきだ。ひとつは〈すべての歌には要めとなる心がこめられていなければならない〉という意味での有心体であり、もうひとつは〈もっぱらひたむきに心をもとめてえられた歌〉という意味での有心体である。いうまでもなく前者は定家の和歌史的な意識によって濾過された概念であり、後者は同時代の〈新古今〉的な立場からでてきた概念にあてられる。(略)
(略)その[後者の、同時代的な立場からみた有心体の]モチーフは深いあわれ、その彼岸にある現世無常の感性であるといえる。もし一口にいうとすれば、俊成の「歌の本たい」に底流しているものを法華経の天台教学的なメタフィジィクとすれば、定家の「有心様」の背後には、法華経の浄土教理的なメタフィジィクが横たわっている。それは知識人たちをとらえた仏教的な理念の時代的な変化といってもよかった。時代の動揺のさ中で、天台教学の解体と新興仏教の理念の萌しは、ひろく衆生の動乱と饑饉の体験からくる無常感を背景にして時代思想となりつつあった。定家が「有心様」の背後にみたものは、そうみたいとおもったかどうかはべつとして、必然的に聖道門から浄土門へというメタフィジィクに色どられていた。》
 それでは、前者の、「すべての歌には要めとなる心がこめられていなければならない」という、「定家の和歌史的な意識によって濾過された概念」であるところの「心」とはどのようなものだったのか。
《和歌における〈心〉の概念は「有心」というところまできて、変化していることがわかる。初期の短歌謡で上句に歌枕(客観描写)をおき、下句に〈心〉をおくという定型では、〈心〉の概念はたしかに主観であるとともに作者の〈叙心〉のありどころを意味していた。しかしこの定型が漢詩の影響で崩れさったとき、〈心〉は〈心〉を叙する描写という意味になった。ところで「有心」の概念では、〈歌心〉のあるところという意味から、さらに〈心〉は内部に念ずるメタフィジカルな〈心〉となり、歌のなかには、その〈表象〉だけがあらわれるという意味にまで転化された。そして〈心〉にひたすら念じて詠ずることが「有心」となるかどうかはまったくわからなかった。失敗すれば、わざとらしい概念の歌になってしまう。ただ〈心〉は、すでに内面に移されてしまっている。だから定家の「有心」は、すべての歌には心がなければならないという〈心〉であり、同時に、ひたすら念じるメタフィジカルな〈心〉でもあるものになっていった。この歌心のメタフィジィクを、新興の浄土教の理念が、感性的にたすけた。(略)無常の感性によって現世をながめうる〈こころ〉が「有心」にほかならなかった。》
 ここで、有心の概念が、「〈歌心〉のあるところという意味から、さらに〈心〉は内部に念ずるメタフィジカルな〈心〉となり、歌のなかには、その〈表象〉だけがあらわれるという意味にまで転化された」と書かれているのを読んで、私は、かつて引いた尼ヶ崎彬氏の文章に出てくる「詠みつつある心」を想起しました。
《「有心体」にいう「心」の所有者は、現実に生活を送っている(生活世界の)歌人その人ではなく、ただ詠作時に、いわば虚像として生ずる「作者」(詩的主観)にすぎない。そして「作者の心」とは、和歌の産出過程においてのみ生じている、虚構の、しかし動的な生命をもって「深くなや」むことのできる「心」である。我々はこのような「心」をとりあえず〈詠みつつある心〉と呼び、「詞」の意味として表現された「歌の心」を〈詠まれた心〉と呼んで区別することにしよう。即ち、「有心体」とは、能動的運動としての〈詠みつつある心〉をもって、所産的内容としての〈詠まれた心〉を産出するような和歌の様式である。》(『花鳥の使』)
 吉本氏の「内部に念ずるメタフィジカルな〈心〉」と尼ヶ崎氏の「詠みつつある心」とのあいだには、(同様に、詠まれた歌のうちに〈表象〉としてあらわれる〈心〉と「詠まれた心」とのあいだには)、微妙なニュアンスの違いが感じられます。が、このことについて考えるためにも、まずは、(吉本氏による)定家十体の全貌を概観しておくことにします。
 
■追いつめられた純粋詩の世界
 
 定家十体をとりあげた『初期歌謡論』Y「続歌体論」の末尾で、吉本氏は次のように総括しています。
《「定家十体」のうち、すくなくとも「見様」、「面白様」、「濃様」、「有一節様」、「拉鬼様」という歌体が設定されていることは、和歌形式が崩壊の危機にさらされた〈新古今〉時代の詩の危機にたいする、何らかの意味での救抜(Erlosung)にほかならない、とわたしにはおもえる。そしてこの危機を、さしせまった表現の問題としてもたらしているのは、今様の歌曲俗謡の世界が、和歌的な声調に圧倒的な力で滲透してきたことだというべきだ。『新古今集』の歌はとぼけた心酔者がいうほどけんらんたる和歌の世界などではない。いわゆる大衆曲謡に滲透され俗化し崩壊寸前においこまれていた危機の詩集である。そして「定家十体」はすくなくともその半分の歌体を、俗謡に滲透された歌体の類別にあてている。そして別の半分の歌体が、いわば追いつめられた純粋詩の世界に充てられたのだ。》
 以下、定家十体に分類されたそれぞれの歌体を、順次みていくことにします。例歌をひとつ挙げ、吉本氏の文章をひとつ抜き書きします。まず、「追いつめられた純粋詩の世界」に属する五つの歌体から。(なによりも、言葉では表現できない、いいかえれば詩人の手によってしか綴れない文章、王朝和歌の美的ニュアンスの襞にわけいる吉本隆明の批評文が素晴らしい。)
 
1.幽玄(ゆうげん)様
 
  露はらふねざめは秋の昔にて見はてぬ夢にのこるおもかげ(俊成女)
《「そこはかとなく」、「定めなき」、「見はてぬ夢」、「ほのか」、「たまゆらの」、「はかなく」、「さびし」、「わすれ」などの言葉が象徴する不定感や現実感のない心象は、時間の過去にむかう感性と外光のかがやきを避けた世界のものだ。覚醒と眠りのさかいがさだかでない入眠時の意識を表象している。現実の物象の世界がおぼろ気にしか識知されない度合に応じて、眠りの世界も夢みているのか覚めているのか、眠っているのかはっきりとわからない。こういう心象に「幽玄様」の詩的な世界がもとめられた。かれらにこういう心象を迫った背後には、戦乱、飢え、愛欲の諍いと希望のない現世の風景があった。ただ瞼を閉じさえすれば厭離され、瞼を閉じたまま急げば苦楽ふたつともない来世に移ってゆけるという浄土門の思想的なイメージがあった。これが上、下層のあいだに共通の背景になっていたことが「幽玄様」の歌と二句の仏教歌謡[『梁塵秘抄』の俗謡、たとえば「佛は常にいませども、現ならぬぞあはれなる、/人の音せぬ曉に、ほのかに夢に見え給ふ」]との対比から推量される。それにもかかわらず和歌に「幽玄様」の独自さがみつけられるとすれば、象徴の仕方にあった。極端にいえば「美女打見れば、一本葛ともなりなばやとぞ思ふ、本より末まで縒らればや、斬るとも刻むとも、離れ難きはわが宿世」(『梁塵秘抄』巻二)のようなあらわなエロティシズムの表現は、すでに〈新古今〉時代には可能になっていた。だが和歌の〈艶〉はこういうあらわな表現をとらなかった。一枚の薄い紗をへだてた世界、溶暗を背景にして〈ほのか〉に動くもの、そういう彼岸の境位を修辞そのものによって実現した。つまり「心幽玄」とともに「詞幽玄」がもとめられたのだ。そうだとすれば「幽玄様」とは、このあらわな具象の底辺からの、昇華の極端をさしているようにみえる。触知してはならない距離で〈ほのかに〉忘れえぬもの、暗がりのなかの〈ほの白き〉もの、輪郭のおぼろな姿「哀傷」と「恋」と「離別」のあいだにある「雑」がそのまま余情であるもののうち、リズムがクイック・フォックストロットである歌体をめざした。》
2.長高(ちょうこう)様
 
  風になびく富士のけぶりの空に消えて行方もしらぬ我思ひかな(西行)
《…歌の〈長い〉〈高い〉といった概念は何ら分析的ではなく、感性の表象としてつかわれている。〈長い〉とか〈高い〉とかいう概念は〈丈〉という概念を基にして、はじめてたてられるものだ。これは漠然とした勘では〈歌柄[うたがら]〉ということに該当している。歌柄がおおきいとか、歌柄が高いとかいうことを指しているようにみえる。「定家十体」が「長高様」というとき、ディテールの描写や心の動きを精密に表現してはいないが、一首の声調の描く曲線がおおきくゆったりとしていて完結感と残像をはっきりとあたえるもののようにおもわれる。ほんの二、三の太い線だけで充足感をあたえる歌をさしている。その意味では忠岑の「高情体」とよく似ているともいえる。スロー・フォックストロットの歌である。「長」と「高」の概念は、対象にたいする〈こころ〉の境位を空間的に措定したときの〈ひろさ〉〈おおきさ〉を最大限に拡大した概念にあたっている。》
3.有心(うしん)様
 
  世にふるは苦しきものをまきのやにやすくもすぐるはつ時雨かな(二條院讃岐)
《定家の「有心」は〈心〉の動きを現世の無常の相でうけとめるときにあらわれる客観的象徴の境位ともいえる。(略)
 現世を歩みすぎてゆく困難さ、無常さをいうことから歌をおこし、すばやく来て、すみやかに去ってゆく時雨が対比される。〈この世に生きつづけてゆくのはかくも苦しさの連続なのに、わが槙の板屋をたたいてゆく初時雨はすみやかにこともなげに過ぎてゆく〉といった苦の境涯を〈こころ〉は主観の描写から客観の描写にかけてわたってゆく。「有心様」の典型的な秀歌で〈こころ〉はいつも露わな姿で象徴のなかを歩いている。》
4,事可然(ことしかるべき)様
 
  すみわびて身をかくすべき山里にあまりくまなき夜半の月かな(俊成)
《この歌体[いかにもそれらしい風姿をもった歌体]は「定家十体」によってまったく現在的な歌体のひとつとして設けられた。強いていえば俊成の〈理〉にあたっているともいえる。いかにも自然に詠みくだされていても『万葉集』の古い短歌謡がもっている自然さとは、まったくサイクルがちがっている。はじめの自然さを自然発生的な〈自然〉とすれば「事可然様」の自然さは、和歌の成熟期にいわば反省的な〈自然〉として、必然的にあらわれた歌体だった。〈こころ〉の境位としてみれば〈自然〉の理法に心的にも生理的にも逆わないで、つかずはなれず則してゆく位相を意味している。例歌のどれをとってみてもほんとうの叙景歌とはおもわれないが、修辞的な位相はあたかも現にその場面にのぞんで、その光景を眼のまえにしながら詠んでいるようにとられている。俊成の歌では「あまりくまなき夜半の月かな」……という下句が、その場に臨んだものの位相で表現されている。(略)虚構でありながら臨場性があるというのはたぶん「事可然様」の本質だった。なぜなら現にここに在るという臨場感こそは〈自然〉のはからいに歌心がよりそっている証左であるし、臨場感が虚構であることは〈自然〉が、あるがままの〈自然〉というよりも反省的にとらえられた〈自然〉を意味しているからだ。》
5.麗(うるわし)様
 
  うづらなくまのゝ入江の濱かぜに尾花浪よる秋の夕暮(源俊頼)
《「麗様」の正体をききわけるのはむつかしい。〈麗〉はイメージの繊細さであり、凄さ、直截さ、確かさのようなものは、技術的な成熟からきているようにもみえる。(略)
「麗」は[漢詩では]対句的な表現の美しさをさしているようにみえる。和歌では、上句と下句の対比の美しさを保っている古体にちかいものの意味にうけとれる。(略)これらから汲みとれる「麗様」という歌体は、和歌の古形である上・下句の対比と呼応をたもちながら、うるわしく詠みなされたものということになる。》
■俗謡に滲透された歌体、和歌崩壊の象徴
 
 次に、五つの「俗謡に滲透された歌体」。「これらの歌体は〈新古今〉時代の和歌の特長を示しながら、崩壊の兆候をもまた象徴するものだった。」
 
6.見(みる)様
 
  村雨の露もまだひぬ槇のはに霧たちのぼる秋の夕暮(寂蓮法師)
《けだし「定家十体」の美的な基準では、古体の単純だが〈凄〉や〈強〉の心ばえをもった歌をよしとする気分と、今様の前衛的な破調や、純粋の叙景歌を尊重する気分とが微妙にゆれている。これが「見様」という歌体のユニークな類別と、そのあいまいさを規定している。これらの例歌からわかるように、写実された〈景物〉〈こと〉〈こゝろ〉を仮構してはいるが、〈槇の葉に霧がたちのぼる〉…といったような、単純な強い象徴の〈景物〉しか描かれていない。そして類型的な、ある意味ではおあつらえ向きすぎるパターンが支配している。こういう〈景物〉の典型化は〈新古今的なもの〉によってはじめて可能となった。この歌体は〈新古今的なもの〉の美的な基準からいえば、ある意味ではいちばん遠いものだった。どこにも〈有心〉や〈幽玄〉の可能性はなかった。だが〈新古今的なもの〉のなかに、この歌体がはじめて登録されているのにはそれだけの理由がなければならぬ。それはこういう位相で〈景物〉のイメージをつくりあげることは、叙景歌の系列からはまったく新しい出来ごとだからだ。そこでは叙景と叙心とが、表現主体にとって等しい距離感にあって景物が詠まれている。》
 
7.面白(おもしろ)様
 
  聞くやいかにうはの空なる風だにもまつに音するならひありとは(宮内卿)
《これら「面白様」の引例歌は俗謡調と堺を接している。「そよや木枯」、「うはの空」、「雁の音づれてゆく」などは、表現の仕方が今様、神歌、催馬楽、など曲調にのせた俗謡の存在なしにはかんがえられないほど、和歌と相互に滲透しあった有様を物語っている。また「世の中ぞかし」[俊成歌「いかにせむしづがそのふのおくの竹かきこもるとも世の中ぞかし」]、「ぬれぬ宿かす」[藤原長能「あられふるかたのゝみののかり衣ぬれぬ宿かす人しなければ」]などは、その突然の転調の仕方が、和歌的というよりも俗謡的である、あるいは歌曲の転調の仕方を、大胆に和歌のなかにとり入れたといってもよい。ほとんど和歌とくびすを接して俗謡調があらわれているところに「面白様」は成立っている。》
8.濃(こまやかなる)様
 
  よそへつゝ見れどつゆだになぐさまずいかがはすべきなでしこの花(恵子女王)
《いま「濃様」という意味を[忠岑の]「華麗体」や「余情体」に系統づけずに「見様」や「面白様」と一衣帯水にかんがえれば、〈有心〉や〈幽玄〉を心として保ちながら、風姿を歌謡の意識と声調に、いいかえれば今様にとても近づけたものとして、「濃様」を位置づけることができよう。「濃様」のなかに、和歌史的な概念をも包括した中世歌学の美的な規準の煮つめられた〈心〉をみるとともに、和歌形式が崩壊して、付けあいに限りなく近づいてゆく姿勢をもみるべきだとおもえる。こういう矛盾は「濃様」ではいちばん極端にあらわれている。》
 
9.有一節(ひとふしある)様
 
  我たのむななの社の夕だすきかけても六のみちにかへすな(慈円)
《これら曲謡[『梁塵秘抄』の、たとえば「ちはやぶる賀茂の社の木綿手繦[ゆふたすき]、一日も君を掛けぬ日ぞ無き]と和歌とが交錯する姿は、和歌がたどっていった道すじをよく象徴している。〈古今時代〉を過ぎないうちに、和歌と今様の俗謡との混融の傾向がはじまった。それは和歌的な声調が、しだいに崩れて今様化するところに象徴されている。また「定家十体」に、よく美学としての特徴らしいものがあるとすれば、この和歌表現史上の必然的な傾向ともいうべき俗謡との相互影響や混合の問題を、どう処理するかというところにおかれた。「面白」体とおなじように、「有一節」体は、いわば俗謡の〈くせ〉が和歌に滲透したところに、不可避的に設定された歌体であった。同時に、それは堂上歌の解体をおさえる防波堤のひとつともみることができる。》
10.拉鬼(らっき)様
 
  思ひ出でよたがかねことの末ならむきのふの雲の跡の山風(藤原家隆)
《「拉鬼」体とは、言葉をそばだて耳に強くさわるように詠じられたものとみなすべきであろうか。(略)
(略)そして「ふとみほそみもなく、なびらかに聞きにくからぬやうによみながすがきはめて重事」とする定家の歌詞論からすれば、「拉鬼」ということは歌の姿のうえか心のうえで「なびらか」ならぬものをさしていた。しかし「面白様」や「有一節様」とちがうところは、定家が「拉鬼様」を本来的には、今様の俗謡や曲謡とまったく逆の方向にかんがえていたことであった。だがうまい例歌を挙げることはできなかった。こういう想像をしたほうがよいような気がする。(略)
(略)きのう雲がとどまっていた山の上に、きょうは雲の去ったあとの山風が、ひるがえるように吹いている。それは雲への約束であるのか、そんな約束を女とかわしたような思い出があるような気がする。これは心が焦げるような想いである。(略)定家は、想像力を働かせすぎたのかもしれないが、これらの歌を内心の「拉鬼」としたことはたしかである。》
 なお、吉本氏は、定家の「さてもうし今年も春をむかへつゝながめながめむはての霞よ」その他の歌を引き、「これらを定家が内心の「拉鬼」としたかどうかわからない」としながら、次のようにしめくくっています。「もし「拉鬼」体ということを〈思いきって心をつかみだしてみせる歌体〉という意味にうけとめれば、この種の歌は定家にとって遠い夢であったといいえよう。」
 
■言葉が紡ぎ出されるとき
 
 有心と無心(さらに、第三の心として「執心」を導入してもいいかもしれない)に包括された世界に位置づけられる十の歌の境地、すなわち定家十体が、「追いつめられた純粋詩」と「俗謡に滲透された歌体」とに分割され、二重化されること。このことの意義を見極めるために、ここで一本の補助線を引きます。
 
 吉本氏は、(後に、『言語にとって美とはなにか』という作品のうちに、それをめぐる思索の成果が結実するところの)「文学の理論の問題」についてさまざまな思いをめぐらせているとき、三浦つとむ著『日本語はどういう言語か』につきあたり、この、きわめて高度で画期的な内容をもち、文学作品を解析するのにこの上なく優れた武器を提供してくれる著書を、「うまく、文学の理論につかえるのは、たぶん、わたしだけだろうということも、すぐに直観された」と、三浦本の文庫版解説に書いています。
 吉本氏が、「三浦言語学」から仕入れた武器もしくは示唆・啓示・知識は二つあります。ひとつは、「文学作品の言葉を、〈表現〉という次元に位置づけなければならないことを、徹底的に思い知らされた」こと。いまひとつは、日本語のいわゆる「てにをは」について、三浦つとむが「話し手の持っている主観的な感情や意志そのものを客体として扱うことなく直接に表現した語」と規定したこと。(ここで述べられている二つの事柄は、私が、この後、(この後、とは、いますすめている「ラカン三体とパース十体」をめぐる作業、あるいは、詠まれた歌の世界の在り様に関する、広義の貫之現象学をめぐる考察に一応のけりをつけた後に、という意味です)、立ち入った作業・考察を試みたいと予定している、詞による表現の相においてとらえられた歌の在り様に関する、狭義の貫之現象学の最重要の論点となるはずのものです。)
 後段の、時枝誠記の仕事を受けた「てにをは」的な言葉に関する議論はここでは割愛し、前段の、「表現」をめぐる吉本氏の文章を以下にまるごと抜き書きして、(これまで、そのほんの一端を概観したにすぎない)『初期歌謡論』での吉本氏の和歌の読解が、いったいどのような理論的背景をもつものであったかを確認しておきたいと思います。
《言葉が、紡ぎ出されてゆくためには、こちら側に、認識の動きがなければならぬ。読み手が、たどるのは、あちら側に〈表現〉された言葉だが、作品を紡ぎ出したこちら側にとって、言葉は、〈表現〉された認識の動きの結果である。そうだとすれば、読み手は、作品の言葉をたどりながら、同時に、作者の認識の動きを追っているのだ。また、言葉が紡ぎ出されたとき、紡ぎ出した作者は、いわば、言葉によって、逆にじぶんの位置をはっきりと限定される。こう云うと、いかにも簡単なようだが、どんな言語学の著書も、対象と認識と表現との関係を、これだけ明快に、指摘してはくれなかったのである。三浦つとむのこの基本的な指摘は、すぐに有効なことがわかった。
 わたしは、ある種の古典詩歌の作品が、単純な叙景や、叙情にもかかわらず、感銘をあたえるのはなぜか、ということにひっかかっていた。つまり、意味をたどってみれば、ほとんど〈ここに美しい花が咲いています〉というような、単純なことしか云われていないのに、どうして感銘を与えるのか、ということが疑問でならなかった。これにたいする近世以後の理解は、声調論ばかりである。また、近世以前の理解の仕方は、〈優に〉とか〈艶に〉とかいう感想批評の批評語しかもっていない。洗練された定型の、構成的な枠組が、詩歌の作品の価値を、枠組自体として、助けているだろうことは、わたしにもわかっていた。けれど、それだけでは、とうてい納得できなかったのである。表現された言葉は、むこう側にあるが、認識の動きは、その都度、こちら側にあるという三浦つとむの示唆は、わたしには啓示であった。これで、じっさいに作品にあたってみようと思った。近世以後も、近世以前も、詩歌の作品の感銘のすべてが、声調や意味からやってくるだけでないことは、直観的には、よくわかっているのに、その解釈は、語義の解釈と、声調(リズムと歌柄[たけ])とに限られて、それなりに精緻にはなっている。だが、すこしも感銘の総体には到達しないで、注釈がつみかさねられているだけである。これは、俊成の「古来風体抄」や、宣長の「美濃の家苞」で、典型的に象徴させることができる。わたしは、詩歌の作品の言葉を、極端にいえば、一字、一字たどり、それごとに、背後にある作者の認識の動きを、推量してみることにした。そして意外にも、わずか三十一文字といった表現が、めまぐるしいほどの、認識の〈転換〉からできあがっていることに気づいた。うかつといえばうかつだが、かつて誰もそれを詩歌の本質として、指摘したものはいなかったのである。作者が、意識せずにつかっているめまぐるしい認識の〈転換〉が、詩歌の美を保証している。わたしは、これを緒口に、〈場面〉、〈選択〉、〈転換〉、〈喩〉の順序を確定し、この四つが、現在までのところ、言葉で表現された作品の美を、成り立たせているだろうという、理論の根幹を、形成することができた。対象─認識─表現という三浦言語学の基本的な骨組みは、ある文学作品を、創造するものの側からたどり、あたうかぎり創造の理論に近づきうる可能性を示唆していた。わたしはその道をたどった。》
 
■目を開けていなければ見られない夢
 
 引用文の前段に書かれていることは、「いかにも簡単」どころか、言葉に先立って認識の動きが独立に存在し、言葉はただその結果を記述(表現)するだけだとする、素朴かつ凡庸で古めかしい言語観(表現観)を表明しているもののように読めてしまいます。この点については、加藤典洋氏が、『定本 言語にとって美とはなにかT』の文庫版解説「言葉について」に書いている、次の指摘が参考になると思います。
《たしかに吉本は、言語をコト(表現)という様相で見ようとしたため、言語のモノ(構造)としての問題領域を不問にふした。そのため、たとえばソシュール言語学の達成が従来の「言語名称目録説」(事物の秩序が言語の秩序とは独立に、それに先行して存在し、言葉はその名称にすぎないという言語観)を打破したところにあることに、十分に立ち止まらなかった。その結果、世界の言語学的関心と彼の言語学的達成との関係づけという仕事は放置された。たぶん、ソシュールの言語学を出発地とするデリダの言語観からは、吉本の表出論は、表出作用の中にある主体と言語の切断の契機を等閑にふした音声中心主義的な言語観として、一刀両断のもとに切り捨てられるに違いない。しかし、ソシュールの言語学では逆に、言語のコトとしての方面を不問に付しているため、なぜ共時的な言語の構造(ラング)が時代をふるにつれて人々の言語活動を通じて変化していくかという問いが、解かれない謎として残る。デリダの言語観でも、言語の「意味」は、それがどういう構造をもち、様相を呈しているかは言いえても(たとえばそれはシステムの差異の戯れとして存在する)、それがどこから来るか、それが何なのかは、言い当てられないまま、残るのである。》
 言語を「コト」という様相で見るためには、言語をつかって実地に「表現」してみなければならない。「あちら側」に表現された「モノ」としての言語、たとえば古典和歌の作品をめぐって、いくら語義と声調に関する精緻な注釈をつみかさねてみたところで、(そのような方法では、その作品の意味の構造や様相を言い当てることができないのはもちろん)、その歌によってもたらされる感銘がどこから来るか、それが何なのかを言い当てることはできない。創作するもの、歌を詠むものの「こちら側」の認識の動きを追体験(あるいは、追思考、追感覚、追想起、等々)してみるのでないかぎりは。
 「表現された言葉は、むこう側にあるが、認識の動きは、その都度、こちら側にある」のだとすれば、歌の読み手は、そのとき、いわばあらたな詠み手となって、「むこう側=あちら側」に言葉として表現された(あるいは、言葉のうちに〈表象〉としてあらわれた)「めまぐるしいほどの、認識の〈転換〉」を、「こちら側」に、すなわち、自らの「内部に念ずるメタフィジカルな〈心〉」のうちに、今・ここで、私に対してリアルに生じた一回性のオリジナルな出来事として体験するのでなければ、(究極的には、そこで体験した「コト」を「モノ」として表現する言葉を、そっくりそのまま自らの言葉として紡ぎ出すのでないかぎりは)、その歌があたえる「感銘の総体」に到達しえない。(むしろ、そのような新たな表現主体を、生きたペルソナとして創造することこそ、古典和歌がめざした究極の境地・境位・境涯であった。)
 すこし脚色をほどこしすぎました。
 いまひとつ素材を蒐集します。以上に述べたことがらに関連して、三浦本の第一部第一章第二節「作者の体験と鑑賞者の追体験」の議論を引用します。いわく、作者の体験を能動的に追体験しようと努力するときに、はじめて芸術作品を鑑賞することができる。この追体験は、夢であることを自覚しながら見る夢、目を開けていなければ見られない夢である。ところで、夢を見ているとき、その夢を見ている現実の自分と、夢の世界の中の自分とは異なっている。
《別のいいかたをするなら、夢を見る場合には、現実の自分がそのまま現実の自分として存在しながら、そこから夢の世界の中の自分が観念的に分裂して、現実の自分にはできない観念的な体験をいろいろやってのけるのです。(略)これを学問的には、人間の観念的な自己分裂とよびますが、この自己分裂はどんな「夢」にもついてまわるもので、絵であろうと映画であろうと言語であろうと、あるいはテレビであろうと、表現を鑑賞する場合の追体験はすべて「夢」なのですから、すべて観念的な自己分裂がつきまとうものと考えなければなりません。》
■定家十体の二重構造、あるいは「あちら側」から「こちら側」への心の変容
 
 さて、以上の素材をもとに、定家十体の二重構造の意義を考えてみます。
 物から心へという第一のメタフィジィクによってもたらされた歌の「心」、ただしそれは言葉(表現)によって媒介されたものでしかないのですが、この「心」が、言葉による表現(修辞)の粋を極めることでしだいに変容していきます。そして、(「あちら側」における)修辞から(「こちら側」における)境地へ、いいかえれば(「モノ」としての)詞から(「コト」としての)姿へという第二のメタフィジィクとともに、「心」は内面化され、歌は、その内面化された「心」の表象をうつすもの(内面における「思ひ」を写す=映す=移すもの)として考えられるようになっていきます。(「姿」とは、「詞姿」という修辞の圏内にある「かたち」であると同時に、目を開けたまま見る夢としての映画のスクリーンに映った「かたち」であり、篝火によって闇夜に浮かびあがる能舞台で演じられる所作としての「かたち」のことでもあります。)
 ここでいう内面化された「心」、すなわち「内部に念ずるメタフィジカルな」見えない「心」が、「追いつめられた純粋詩」の世界に住まいしている当のものにほかなりません。その「心」の素性は言語ですから、かつての「物」(クオリア)との交霊・交歓・交感の契機を失った、純粋に形式的なものへと純化されています。(萩原朔太郎が「純粋詩としての新古今集」で、次のように書いている。「新古今集では、音楽に於ける如く、内容と形式とが、全く一の不離のものになつてるのである。そこでは文学に於ける如き意味での、素材といふものが殆んど無い。すべての素材は取り除かれてゐる。有るものはただ「形式」と「内容」だけである。しかもその内容は、それ自身が既に形式なのであるから、これこそ徹底的フォルマリズムの抒情詩と言ひ得るだらう。」)
 こうした「心」を素材とする純粋詩が「追いつめられた」と形容されるのは、もちろん、「今様の歌曲俗謡の世界が、和歌的な声調に圧倒的な力で滲透してきたこと」にその原因があるわけなのですが、それではなぜそうなったのかというと、純粋な形式性のゆえに、歌の読み手による(安易で簡便な)追体験を拒むようになっていったからではないか。極端にいえば、鑑賞者が自ら作者となって、まさにその当の歌を自作詠として、ユニークなクオリア体験を詠んだオリジナルな歌として「いひいだす」ことでしか、(究極的には、生きたペルソナとなって、篝火の灯に照らされながら歌の心を声として発し、振る舞いとして演じきることでしか)、純粋詩としての和歌を味わい、感銘を受けることはできない。あるいは、吉本氏の言葉をかりて、「創造したものの内面の暗がりを、いわば、表現された作品との統一において、きめ細かく再現する」(『日本語はどういう言語か』文庫解説)ことでしか、純粋詩としての和歌を味わい、感銘を受けることはできない。そんな事態が生じてしまっていたからではないか。私はそんな仮説をたてています。
 純粋詩としての和歌を鑑賞する(目を開いたまま見る夢として追体験する)者は、夢を見ている自分(「モノ」としての夢を「あちら側」に経験している自分)と夢の世界の中の自分(「コト」としての夢を「こちら側」で経験している自分)とに観念的に分裂します。この分裂を、自ら詠歌主体(演ずる身体)となることで解消するか、あるいは批評家となって統一する。それは、凡俗の身にはとてもかなわぬ道です。であるならば、分裂を分裂として徹底的に楽しむにしくはない。かくして、(かなり乱暴な議論ですが)、「俗謡に滲透された歌体」の世界は、「上句と下句のあいだの転換の重さ」を蒙古斑か母斑のようにかすかに残すことで、かろうじて「やまとうた」の範疇にとどまった最後の歌体なのであって、その後、和歌の「かたち」は崩壊し、上句と下句は「付けあい」として、異なる主体によって詠まれることになっていった。
 
 最後に一言、吉本氏の「内部に念ずるメタフィジカルな〈心〉/詠まれた歌のうちに〈表象〉としてあらわれる〈心〉」と、尼ヶ崎氏の「詠みつつある心/詠まれた心」との異同について述べておきます。
 梅原猛氏は、『美と宗教の発見』に収められた「壬生忠岑「和歌体十種」について」で、平安朝的な幽玄の概念をめぐって、「おぼろでかそけく実在の光が示される美学」であり、「存在の深い光を、ヴェールのこちら側から、かすかにのぞみ見る美学」であるとし、一方、中世的な幽玄体の概念については、「日本の美意識の感情的構造」で次のように書いていました。「それは、春や秋の盛りの哀歓ではなく、秋の夕べのわびしさそのものであり、悲しみは絶望にまで深まっている。しかし、同時に、自己と対象との間にあった無は、対象そのものにうつされ、却って主観は、純粋観照の主体として嘆きから解放されるのである。非情の美学がここに生れる。このような美意識は「客観化された悲哀」とよばれるべきものかもしれない。そしてこの美意識が、禅と結びつき、能になり、茶になり、俳句になり、「わび」「さび」「いき」と変ってゆくのであろう。」
 この梅原氏の所説を、定家の「有心」の概念をめぐる吉本氏の記述、たとえば、「この歌心のメタフィジィクを、新興の浄土教の理念が、感性的にたすけた。(略)無常の感性によって現世をながめうる〈こころ〉が「有心」にほかならなかった。」と、あるいはまた、定家十体のうちの「幽玄様」をめぐる記述、たとえば、「現実の物象の世界がおぼろ気にしか識知されない度合に応じて、眠りの世界も夢みているのか覚めているのか、眠っているのかはっきりとわからない。こういう心象に「幽玄様」の詩的な世界がもとめられた。かれらにこういう心象を迫った背後には、戦乱、飢え、愛欲の諍いと希望のない現世の風景があった。」や、「一枚の薄い紗をへだてた世界、溶暗を背景にして〈ほのか〉に動くもの、そういう彼岸の境位を修辞そのものによって実現した。つまり「心幽玄」とともに「詞幽玄」がもとめられたのだ。そうだとすれば「幽玄様」とは、このあらわな具象の底辺からの、昇華の極端をさしているようにみえる。」とひきくらべて吟味してみると、両者の議論に共通しているのが、中世的な幽玄の概念がもつ純粋観照性であり、具象的世界から(彼岸へ)の昇華であるということがよくわかります。
 吉本氏が「メタフィジカルな〈心〉」と名づけたもの、それは、あたかもこの世を外(あの世)から眺める視線、あるいは、銀幕や能舞台を見る視点であるかのようです。これに対して、尼ヶ崎氏がいう「詠みつつある心」は、観照される世界、昇華される世界のただなかにうごめく心、舞台のうえで演じられるなまなましい心であるかのようです。私の感覚にそくしていえば、前者は広義の貫之現象学の世界に属し、後者は狭義の貫之現象学の世界をきりひらく当のものにあたります。
 
■定家十体の三層構造、あるいはパース十体との関係をめぐる挫折した試み
 
 ほんとうはここで、定家十体とパース十体(と、第18章で私がそう名づけておいたパースによる記号分類)との関係について、踏みこんで論じるつもりでした。いいかえれば、有心(と執心)と無心に包括された詩的世界における十の心の境地と、質料的な生の世界と非質料的な記号の世界とにあいわたる十の記号結合型のクラスとの関係をめぐって、(できればそこに、前田英樹氏が『言葉と在るものの声』でパース十体に関連づけて論じた、空海の真言密教における「十界」=「同じただひとつの世界にある潜在性の十の水準」や、井筒俊彦氏が『意識と本質』で真言密教の両界マンダラと同列のもの(「原型」イマージュの構造体)とした、カッバーラーの十個の「セフィーロート」構造体=「神の内的構造」をめぐる議論、等々を織りまぜながら)、独自の理論を展開できればと目論んでいたのでした。
 そして、そのためには、パース十体が、この世界の根源的な三重性をいわば累乗的に適用することによって、記号過程を分類するものであったこと、すなわち、第一次性、第二次性、第三次性という三つの現象学的カテゴリーによる区分と、さらに、これによって区分されたそれぞれの側面の内部における三つの存在様式の区分とをかけあわせて、記号過程を分類するものであったことを踏まえ、これと同様の累乗化された三層構造を定家十体のうちに見いだしておくことが、議論の前提をなす必須の作業となります。が、結果的に、私にはこの作業をまっとうすることができませんでした。
 いくつかのアイデアは、今でもくすぶっています。たとえば、第9章で紹介した、壬生忠岑の和歌体十種をめぐる梅原猛氏の議論。そこに出てきた「S=心緒」と「G=対象的事物」と「M=媒介物・詞」の三項を、「記号過程の第一次性的側面=記号それ自体の在り方」と「記号過程の第二次性的側面=記号とその対象との関係における記号の在り方」と「記号過程の第三次性的側面=記号とその解釈内容との関係における記号の在り方」の三区分にあてはめてみること。これを起点として、和歌体十種との比較論も織りこみながら、定家十体の三層構造を摘出することができるのではないか。あるいは、前章で呈示した「心1/心2/心3」や「物(自然の秩序)/心(観念の秩序)/詞(表現の秩序)」の三層構造を組み合わせることで、パース十体と定家十体の構造的な同型性を発見することができるかもしれない。さらに、そこに(歌論に特有の)「姿」という第四のカテゴリーを導入することで、定家十体がもつ可能性を引き出すことができるかもしれない。
 ここで私が考えているのは、「詞姿」という修辞の世界に属する出来事が、生きた能役者の「姿」のうちに、たとえば、老体・女体・軍体(男体)という世阿弥三体のうちに具現化される(現働化される)といったことです。それは、王朝和歌における歌体論がいきつく究極は、客観化された歌の姿としての身体に、すなわち能役者の所作・振る舞いへとつながっていくのではないかという(かつて、第7章で述べた)仮説につながっていきます。パース十体が、質料世界のうちに非質料的な言語の世界がはぐくまれることをあらわしているのに対して、定家十体は逆に、言語の世界のうちに質料世界が産出されること(クオリア憑きの詞から生きたペルソナとしての心がインキュベートされ、さらには、たとえば「映画的なもの」と名づけるしかない、「特殊な意味での「物」の領域」に属する表現様式が誕生すること)を示唆している。そんなふうに言っていいかもしれません。
 
(18号に続く)

★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。

Web評論誌「コーラ」17号(2012.08.15)
<哥とクオリア>第21章 水なき空のメタフィジィク・下句──ラカン三体とパース十体(急ノ伍)(中原紀生)
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