■ミーティング・プレイスとしての深部構造、あるいは哥の生理学
前章で、佐々木中著『野戦と永遠』から、その一節を孫引きした中井久夫氏の「「創造と癒し序説」──創作の生理学に向けて」(『アリアドネからの糸』所収)に、「文体の獲得」なしに創作行為はなりたたないと書かれています。
《なぜなら、まず、文体の獲得なしに、作家は、それぞれの文化の偉大な伝統に繋がりえない。「文体」において、伝統とオリジナリティ、創造と熟練、明確な知的常識と意識の閾下の暗いざわめき、努力と快楽、独創と知的公衆の理解可能性とが初めて相会うのである。これらの対概念は相反するものである。しかし、その双方なくしては、たとえば伝統性と独創性、創造と熟練なくしては、読者はそもそも作品を読まないであろう。そして、「文体」とはこれらの「出会いの場」(ミーティング・プレイス)である。》
中井氏はつづけて、二十世紀後半の文学の衰微は、「文体」概念を「テクスト」概念に置換したことにある(「それによって構造主義は既成テクスト…の精密な分析にすぐれる一方、第一級の文学を生産するのに失敗した。」)とし、また、無意識は言語のように、あるいは言語として組織されているというとき、ラカンが言語をもっぱら「象徴界」に属するものとして理解していたことを惜しみ、さらに、文体獲得の後にはじめて、言語は作家のなかで四六時性をもつことになるのだと論じ、そうして、あらためて「文体」とは何かと問います。
《「文体」とは何であるか。古くからそれは「言語の肉体」であるといわれてきた。「言語の肉体」とは何であるか。それは、言語のコノテーションとデノテーションとの重層だけではない。歴史的重層性だけでもない。均整とその破れ、調和とその超出(ハーバート・リード卿が「ゲシュタルト・フリー」といったもの)だけでもない。言語の喚起するイメージであり、音の聴覚的快感だけではない。文字面の美であり、音の喚起する色彩であり、発声筋の、口腔粘膜の感覚であり、その他、その他である。
その獲得のためには、人は多くの人と語り、無数の著作を読まなければならない。語り読むだけではなくて、それが文字通り「受肉」するに任せなければならない。そのためには、暗誦もあり、文体模倣もある。プルーストのようにパスティーシュから出発した作家もある。》
ここに書かれているのと同じ趣旨のことが、(精確には、ミーティング・プレイスという語彙を用い、言語の肉体的部分や共感覚的、運動感覚的な部分、受肉としての暗誦、等々に言及した文章が)、「訳詩の生理学」という『アリアドネからの糸』に収められた別の論考にでてきます。
《私のいわんとするところを一言にしていえば、二つの言語、特に二つの詩──原詩とその訳詩──の言葉は、言語の深部構造において出会うということである。ここにしか、二つの言語、特に詩の訳のための二つの言語のミーティング・プレイス(出会いの場所)はない。もっぱら表層構造において出会いの場を作ろうとするから、[詩の]翻訳は不可能かどうかという不毛な議論が生れてしまうのである。
私のいう「深部構造」とはチョムスキーの概念とはちょっと違っている。文法の深部構造だけが問題ではない。音調、抑揚、音の質、さらには音と音との相互作用たとえば語呂合わせ、韻、頭韻、音のひびきあいなどという言語の肉体的部分、意味の外周的部分(伴示)や歴史、その意味的連想、音と意味との交響、それらと関連して唇と口腔粘膜の微妙な触覚や、口輪筋から舌筋を経て舌下筋、咽頭筋、声帯に至る発生[発声の誤植か]筋群の運動感覚(palatability とは palate 口蓋の絶妙な感覚を与えるものであって私はこの言葉を詩のオイシサを指すのに使っている)、音や文字の色感覚を初めとする共感覚がある。さらに非常に重要なものとして、喚起されるリズムとイメジャリーとその尽きせぬ相互作用がある。》
チョムスキーの概念とは異なる「深部構造」が二言語の「ミーティング・プレイス」であることの証拠として、中井氏は、外国人相手に外国語で行った面接が、その回想において、「抑揚の自然な、会話体の、さらに精神医学的面接に使われる問答体の日本語」に変換されることを挙げます。
《外国人との重要な出会いも私の中で自然な日本語になっている。
ということは、それは劇に近づいているということでもある。肉体にまで達する「深部構造」をゆさぶることによって劇ははじめて劇なのではないか。私が冒頭に述べた[中井氏は「訳詩の生理学」の冒頭で、ヴァレリーがいうように詩が舞踏であるとすれば、訳詩はデュエットの舞踏であって、原詩よりも劇詩に近づく傾向があると論じている。]、訳詩というものは劇化の過程を通過するという示唆はこの経験にももとづいている。
面接においてはなるほどメモをとりはするが、メモは再生の手がかりのようなもので、会話は何よりもまず一挙に私の記憶に刻印される。暗誦されるといってもよい。
実際、私は詩を訳する時、それをまず暗誦しようと試みる。暗誦できない詩、暗誦していると不快感が起こる詩、あるいは何かどこかで“つかえ”を感じる詩には、私の深部構造をミーティング・プレイスとして提供できない。原詩と、やがて生まれるであろう訳詩のための、私の言語、正確には「プレ言語」とでもいうべきものであろうが、そういうものとは出会えないということである。そういう詩は訳せない。深部構造とは何かとか、しちむつかしいことを言ったが、そのテストはあっけないほど簡単である。私にとっては暗誦に耐えるかどうかである。》
伝統と独創、意識と無意識、その他、その他の相反する対概念が出会うミーティング・プレイス。すなわち、言語の肉体としての、そして二つの言語が出会う「私の深部構造=私の言語=プレ言語」としての文体。それは、どこかしら、(第14章でとりあげた)坂部恵氏の「あわい」(betweenness-encounter)に通じる場所を思わせ、そして、(第13章で言及した)ベルクソンの「運動的図式」を連想させるところがあります。
また、中井氏がいう「暗誦」や「劇化」といった語彙は、「歌はただよみあげもし、詠じもしたるに、何となく艶にもあはれにも聞ゆる事のあるなるべし。もとより詠歌といひて、声につきて善くも悪しくも聞ゆるものなり。」云々の藤原俊成(古来風躰抄)の言葉を想起させ、さらに、和歌を「演技」(本当の気持ちを探し求める営みとしての、そして、本当の気持ちを自分のものとして引き受けようとする努力としての演技)という観点から分析し、枕詞・序詞・掛詞・縁語・本歌取り等々の和歌のレトリックを、演技に満たされた空間すなわち「儀礼的空間」を呼び起こす働きにおいてとらえた、渡部泰明氏(『和歌とは何か』)の議論を思わせ、最後に、「現象学によって対象性を明示するというのは演出家の仕事のようなものです。演出家は脚本を具体的な出来事へ移します。ある出来事が最終的に舞台の上に出現し、眼に見えるようにするためには、さまざまな仕掛けを舞台に載せなければいけないのです。」というレヴィナスの文章(『暴力と聖性』、内田樹著『レヴィナスと愛の現象学』からの孫引き)を連想させます。
個人的な連想の列記はこのあたりで自粛することにして、ここでは、中井氏の二つの論考に刺激をうけて、いわば「哥の生理学」のようなものを構想し、「書かれたもの」としての和歌における肉体的部分、すなわちミーティング・プレイス=深部構造たる歌体を考察するとき、「詠まれるもの」としての和歌における「朗誦」に相当するものがもしあるとすれば、「深読み」こそがその当のものにほかならないのではないか、と指摘するにとどめておきます。
■深読みの愉悦、丸谷才一の場合
和歌の愉しみは、深読みに極まる。ここ数年、断続的かつ断片的に、古今集から新古今集まで、歌人でいえば、貫之から俊成を経て定家にいたる、王朝和歌の世界の一端を覗き見ているうちに、(そして、貫之が詠んだ「影見れば波の底なるひさかたの空漕ぎわたるわれぞわびしき」や「千代経たる松にはあれど古の声の寒さはかはらざりけり」などの実例を素材に、深読みというよりはむしろ、読みたいことをそこに読みこんでいく素人技の読解作業を重ねていくうち)、しだいにそのような思いが濃くなってきました。
私が王朝和歌に強く惹かれるきっかけとなった、丸谷才一著『新々百人一首』には、名人藝の域にたっした語り口とアクロバティックな超絶技巧とでもって解き明かされた、深読みの真髄、その模範ともいうべき評釈がふんだんにちりばめられています。もちろんそれは、豊かな学殖と創作体験、そしてなによりも明確な方法意識に裏打ちされたものなのであって、「深読み」などという、どこか浮薄な響きをもつ語彙で丸谷氏の業績を形容すべきではないのかもしれません。(明確な方法意識ということに関して、一言すれば、『新々百人一首』の文庫下巻に収録された対談で、著者は、かの定家との立場の違いについて、「定家は文学に凝り固まっている人だけど、僕はそうではない」、「僕は、ケンブリッジ学派の文化人類学的な芸術研究と折口学派の民俗学的な文学研究の影響を受けていて、文学を呪術から展開してきたものとして捉えていますから」と発言している。)
いまここで、若干の例をあげるならば、俊成歌「七夕のとわたる舟の梶の葉にいく秋かきつ露のたまづさ」を取りあげては、七夕祭りをめぐる民俗学的薀蓄を傾け(通夜(ウエイク)におけるアイルランドの習俗にまで話題が及ぶ)、折口信夫の「水の女」その他の論考や柳田国男の考察にも触れ、その上で、一首を形づくる二層の華麗な縁語関係(第一の層は、「七夕」「門(と)」「渡る」「舟」「梶(櫓・櫂)」等々の天の川の系列、第二の層は、「梶の葉」(梶の樹の皮は紙の原料)」「書く」「露」「たまづさ(手紙)」とつづく恋文の系列)と、二種の音声的反復を抽出する。「俊成の一首は、「梶」「いく秋」「書き」とk音をくりかえしながらも、「七夕」「と渡る」「つ」「露」「たまづさ」とt音のおびただしい反覆を基調としてゐる。この哀れ深いt音の連続は水のしたたる音であつた。宇宙の水である銀河の星屑[天の川の系列──引用者註]は、神話と伝承と祭祀によつて、人間の水としての泪[恋文の系列に結びつく]に結びついてゐる。」
また、俊成の弟子・式子(のりこ)内親王の「わが恋は知る人もなしせく床の泪[なみだ]もらすなつげの小枕[をまくら]」をめぐる文章では、枕が、古代人にとって単なる寝具ではなく呪術的なものであったことを、ユダヤと日本の事例、さらには、古代人にとって枕とは神霊、霊、生魂[いきたま]の宿るところであったとする折口信夫の省察や、クラは座、マ(真)は美称のための接頭語とする語源説でもって論証し、「枕をあしらふ王朝和歌を鑑賞するに当つては、この民俗学的な知識を常に何ほどか心にとめておかなければならない。そのことを忘れ、単なる恋歌として解釈したのでは、歌の重層的な味はひが失はれ、底の浅いものになるだろう。」と解き、夜の寝床で忍ぶ恋に泣く泪を堰きとめる「つげの小枕」の「つげ」を「黄楊」と「告げ」にかけるのは王朝和歌の常套で、それはたぶん、源氏物語・若菜上の「さしつぎにみるものにもが万世[よろづよ]をつげの小櫛[をぐし]も神さぶるまで」の影響か、すくなくとも俊成が「あかつきとつげの枕をそばだてて聞くもかなしき鐘の音かな」と詠んだのはこれによるものだから、この俊成の影響を受けて式子内親王は一首を詠んだのだろうと想像する。
圧巻は、正徹の「沖津かぜ西吹く浪ぞ音かはる海の都も秋や立つらん」の多層的な作品世界を解析したくだりでしょう。著者はまず、第二句「西吹く浪ぞ」を二つに分けて「沖津かぜ西吹く/浪ぞ音かはる」と読み、その前段の「西風」が五行説にもとづく「秋風」であること、また、後段の「浪の音かはる」は第五句「秋や立つらん」と関連し、この句の背後に立秋を詠んだ王朝和歌の長い歴史がひそんでいること(「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」の秀歌が、夏から秋への変化を風の微妙な違いのうちに見出す日本人の態度を様式的に決定し、ついには、正徹歌に直接影響を与えた俊成の「潮路より秋やたつらん明方は声かはるなり須磨の浦波」や「須磨の関あきの初風こえてけり敷津の波の音も変れる」に詠われているように、浪の音の変り方に心を留めることになる)、ついで、第四句にいう「海の都とはすなはち龍宮のことといふのは日本文学の久しきにわたる約束事」であることを明らかにしていきます。
以上の段取りを踏んだうえで、丸谷氏は、正徹の歌を三つの層に腑分けします。第一の層は、『平家物語』。壇の浦で二位の尼が「浪のしたにも都のさぶらふぞ」と安徳天皇に言い聞かせて入水する「先帝身投」や、建礼門院が播磨国明石浦で見た夢に「昔の内裏にははるかにまさりたる所」があらわれ、そこに先帝(安徳)をはじめ一門の公卿殿上人が居並んでいるのを見て、「是はいづくぞ」と問うと、二位の尼らしき人が「龍宮城」と答える灌頂巻「六道之沙汰」のくだりを紹介し、丸谷氏は、正徹の一首を平家供養の歌に見立てます。「しかし平家供養は浅く覆ふ地表の層にすぎない。」
第二の層は、龍宮伝説。ここで一節、この説話をめぐる薀蓄が披露され、第三の『源氏物語』の層へと転じていく。(先に引いた俊成の秋歌二首が、須磨に流された光源氏を面影にしていたことを承けて)、正徹は、須磨の巻の末尾で源氏が見た海神に招かれる夢について、明石の入道を龍神に、その娘(のちの明石の上)を豊玉姫に、明石の地を龍宮に見立てる解釈の上に立って「沖津かぜ」の歌を詠んだのは確かで、そうであるならば、都へ戻った源氏が明石の上に送る「嘆きつつあかしの浦に朝霧の立つやと人を思ひやるかな」の相聞歌が、万葉集の「沖つ風いたく吹きせばわぎもこが歎きの霧に飽かましものを」を引歌にしていることから、正徹の歌は単なる秋歌ではなく、その内実は恋歌だったのであり、また、建礼門院が龍宮の夢を見たのが明石であったのは、平家物語の作者たちが『源氏』に縛られていたからで、正徹は、そういう文学的伝統のただなかにあって、「光源氏の物語と平家滅亡の物語の双方に出て来る明石=龍宮のイメージ」を用いたのだと論じ、最後に、正徹にとって、源氏物語と平家物語とは分かちがたく、そのいずれもが王朝貴族の生活という幻を夢みるための手がかりであったこと、そしてそう考えれば、「海の都」とは、歌道が廃れた後、虚構の都を言葉だけで作りあげ、そのなかで生きなければならない男の夢みた「文学的な書割り」にほかならず、こうなれば、海の都の背後にはもう地名としての明石などなくてもよく、ただ歌枕としての明石があればそれでよかったのだ(「人が「吉野山はいづれの国ぞ」と尋ね侍らば、「只花にはよしの山、もみぢには立田を読むことと思ひ付きて、読み侍る計りにて、伊勢の国やらん、日向の国やらんしらず」とこたへ侍るべき也。」)と説く。
《だが、歌枕といふものをここまで極端につきつめて、実際の地理とまつたく切りはなしてしまふことは、やはり歌枕を無効なものにする。かうして歌道の重要な仕掛けは具体的な根拠を奪はれ、ひいては和歌そのものが立つべき基盤を失ふのである。いや、さうではなかつた。話はむしろ逆で、王朝和歌が滅んだからこそ、その様式の小道具である歌枕が意味をなさなくなつたのだ。正徹の文学的課題は、さういふ文学史的状況をまともに生きて、和歌の終焉をどれだけ完璧なものにするかといふことであつた。彼はそのことに見事に成功したから、正徹の和歌はさながら死顔のやうに艶つぽいのである。
一首は、和歌が亡んだゆゑ実は都でなくなつた都に秋が立つ日に、今となつては真の都である虚構の都の秋を思ひやるといふ屈折した構造になつてゐる。当然その嘆きの声は「沖津かぜ/西吹く/浪ぞ/音かはる」と嗚咽のやうにきれぎれに響いてから、下の句の淀みない、しかし奇妙に哀切な調べに変る。これもまた『新古今集』の切れの多い詠みぶりを極限にまで追ひつめた姿であつた。
応仁の乱がはじまるのは正徹の死後八年のことである。》
まことに絶品、逸品、畢竟の域に達した「深読み」の極致、典型とすべき論述です。しかし、話が一気に王朝和歌の終焉にまで及んでしまいました。
■歌のアスペクトを記述すること、あるいは哥の現象学
和歌は、いかようにでも解釈することができる。もちろんそこに、おのずからなる作法、嗜み、慎みが要ることはいうまでもありませんが、この王朝和歌の一筋縄ではいかない多義性、重層性のよってきたるところが、その文脈依存性や虚構性、また、三十一文字、五七五七七の文字数や定型による制約といった、表現の場と機会、技法や内容や形式における特質にあることは、みやすい道理だろうと思います。
これをもうすこし普遍的な意味合いをこめていいかえると、そもそも「詩的なもの」が発生時にはらんでいた呪術性もしくは儀礼性と、それらが言語的社交的洗練の果てに身にまとうこととなった象徴性もしくは遊戯性のゆえに、和歌を詠み、また読むことそのものが、花鳥風月や性愛のあり方をふくめた自然と、これに対峙する心と言語の世界とが織りなす多義的で重層的な関係性のただなかに身を投じていくことにほかならず、したがって、歌における物と心と詞の位置づけをめぐる「歌の風体」あるいは「歌の思想」のありように応じて、一首の和歌はいかようにでも「深読み」することができるのだ、ということなのでしょう。
深読みを可能にする歌の多層性に関連して、ここに、内田樹著『レヴィナスと愛の現象学』第二章「非−観想的現象学」の議論を挿みます。
内田氏はそこで、「見ること」(観想=テオリア)を意識の根源的な態度とするフッサールの「光」の現象学、その「光学的偏向」に対するレヴィナスの批判を祖述しつつ、レヴィナス自身の非観想的な現象学を「意味」の現象学として、「神」や「愛」や「テクスト」の現象学として描きだしています。
《「神」はすぐれて意識が包摂しえぬものである。それが「何である」かを私たちは十全的かつ明証的に語ることはできない。にもかかわらず、「神」は意味を持っている。(略)
何かが意味を持つ限り、その意味の現れ方の具体的様相の考究は現象学として成立するはずである。(略)
…「神との出会い」は一つの劇的事況である。それは日常的な経験的現実の場では起こらない。それは「舞台」の上でしか起こらない。だからといって、懐疑論者のように「神との出会いなど、ボール紙の舞台装置の前での、できあいの台詞の中にしかない」と退けるのも間違っている。なぜなら、「舞台」を見ている観客のうちでは、「『神』という語が、現になにごとかを意味している」からである。ある語が「舞台上」で生き生きとした意味を持った以上、その意味はどのような仕方で与えられたのかを「演出家」[=現象学者]が吟味しようとするのは当然のことだ。
その試みの成否は措くとして、レヴィナスは「神の現象学」がありうるし、あるべきだと考えていた。「未知のものである絶対的なもの」を既知に還元することのない、「別の思想」、「同化吸収でも統合でもない思惟」がありうると考えていた。
このとき、フッサールは「絶対的に非現実的」であり、「ほとんど対象の不在にひとしい」何ものかを「めざす」能作を「見る」および「つかむ」という動詞に託した。レヴィナスは「意味はあるが、見ることも、つかむこともできぬもの」をなお「めざす」ことのうちに現象学の面目は存すると考えた。この動詞の選択における、わずかな差異が、やがて両者を決定的に隔てることになる。》
「めざす」こと、すなわち志向性の対象は、そのつどの「ノエマ的様相」に即してしか与えられません。フッサールは、「対象のそのつどの特殊な現れ方」もしくはある対象について「意味的に把握されたもの」を、「対象そのもの」と区別するために「ノエマ」と呼び、一方、「ノエマ」を志向する意識のあり方、「意味的に把握しつつある能作」を「ノエシス」と呼びました。現認(知覚)、想起、懐疑、等々のノエシスのあり方に応じて、そのつどノエマの見え方、アスペクト(相)は変わっていきます。
対象は、その全部のアスペクトが一気に一望俯瞰されるような仕方では与えられません。けれども、今、ここで、私(たち)に「十全的な仕方で与えられている相以外の相もまた間接的に現前している、という仕方で、私たちはその「全きノエマ」に直観的に触れている」のであって、この直観は「明証」として成就するとフッサールはいいます。
《ふつう私たちは「対象」と「事物」とを簡単に固定してしまう。「めざされているもの」、それは「事物」である、と。だからこそ、「明証」における十全的・一望俯瞰的な対象把持、「光のうちでくまなく対象を認識する」、という言い方にさしたる抵抗を感じることがないのである。
けれども、レヴィナスはそのような発想につよい違和感を覚える。それは、おそらくレヴィナスが、フッサールがほとんど想像したことのないものを「対象」として想定しているからである。それは「愛される人」と「書物」である。「愛される人」も「書物」も観想的な接近にはなじまない非・観想的志向対象である。
「愛する」という行為は、まぎれもなくある「意味」を持っている。けれども、これは一方に自存的に「愛する感情」があり、他方に自存的に「愛される対象」があり、それが十全相応的に対応したので成就した、という類のものではない。「愛される対象」は「愛する感情」という志向的情動のうちにのみ存立するものであり、そこ以外のどこにも存在しない。(略)
同じように、「書物」もまた一個の対象であるが、それが潜在的に蔵する意味を十全的・一望俯瞰的なパースペクティヴのもとで認識するということはほとんど想像を絶している。》
《フッサールは対象が単に想起的に思念されているだけの「空虚な志向」と、対象がありありと知覚される「充実した志向」を区別している。対象の認識は「空虚な志向」が直観的志向によってしだいに「充実」され、ついには対象が「それ自身与えられる」ような仕方で十全明証において把持される状態に至る一続きのプロセスとして了解されている。しかし、いま見たように、「空虚な志向」と「充実した志向」というような差別化は「愛される」対象や「読む」対象については適用がむずかしい。
私たちはひとを愛するときに、「想起的に」愛したり、「十全的・明証的に」愛したりはしないからだ。愛という情動はたしかに濃淡の差はあるけれども、それは対象をより明証的に表象しているかどうかという画像の鮮明度とは何の関係もない。同じように、一冊の書物が「それ自身与えられるような仕方で」十全明証的にその意味のすべてを開示するということは起こり得ない。(略)
「他者」や「書物」は観想的志向対象ではない。にもかかわらず私はそれを「めざす」ことができる。「めざす」ことができる限り、そのような営為は必ずや「現象学」として記述しうるはずである。「愛の現象学」、「テクストの現象学」がありうるはずである。それこそレヴィナスが弟子として、フッサール現象学に書き加えようと試みたものなのである。》
貫之現象学をその一部として組み込む、哥の現象学というものもありうるはずである。それは、「そのつどのユニークな接近法に応じて、そのつどユニークなアスペクトを開示する「全きノエマ」」としての歌の心や姿を志向するもの(レヴィナスが現象学の「新しさ」として強調した二点を援用すれば、集団的に練成される知であり、他者への回路を確保しようとするもの)である。王朝和歌を深読みするということは、そうした歌のアスペクトをめぐるノエマ的様相を記述することにほかならない。
そんなことがいえるのではないかと、私は考えています。そしてまた、(以前、第5章で、その思いつきの一端を述べた、純粋経験を記述する四つの私的言語の話題に関連づけて)、「今、ここ、私、感情」のそれぞれに対応する「意味、知覚、神、愛」の四つの現象学を総動員することで、「全きノエマ」としての歌のすべての相貌が記述されうるのではないかとも。
■深読みの愉悦、藤原俊成の場合
ところで、先に、カギ括弧つきで引いた「歌の風体」や「歌の思想」という語は、吉本隆明著『初期歌謡論』第Y章「続歌体論」の冒頭に出てくる言葉で(ちなみに、「詩的なもの」も同書から)、吉本氏はそこで、忠岑の和歌体十種と定家十体のあいだ、すなわち古今集と新古今集とのほぼ二世紀半の歳月のあいだに、「歌の風体」についてどういう変貌があったのか、「歌の思想」についてなにが起こったのかを問うています。
《ひとくちに『古今集』が、古来の短歌謡から美的なものを択びとっていわゆる〈和歌〉をつくりあげたように、『新古今集』は『古今集』によって成立した〈和歌〉の美的な根拠に、形而上学的な色合いを与えようとしたといってよい。〈和歌〉はこの二世紀半ほどのあいだに、歌をつくることは、表現を媒介にしてある心の境地を、いいかえればメタフィジィクを獲得することだというところに踏みこんでいったのだ。じぶんが練りあげる(苦吟する)言葉のいいまわし方を手がかりに、心をどこまでも追いつめてゆき、そこで獲られた心の境涯に、かれらは幽玄とか有心とか名づけた。もともとこうして獲られる心の境涯は、観念の表現のある色合いという意味しかないから、名づけようがないはずだ。そこで、歌人たちは仏教における観法の境涯に名づけられた命名を、歌の表現の境涯に融合させた。逆のいい方もできる。仏教の観法をしだいに見につけていった歌人たちが、その境涯によって歌を現実感の彼岸へとつれていったというように。わたしたちがわかっているのは、もともと美的なカテゴリーによってしか表現されない歌を、心の色合いとしては、仏教の修練の境地によって意味的に組みかえたことだ。この〈和歌〉の必然的な道行きと、歌人たちの自覚の変遷を知るには俊成の「古来風体抄」をみるのがよい。》
短歌謡から和歌への変遷や、古今集から新古今集への、いいかえれば、「晩期万葉あるいは古今初期の和歌を「古歌体」として類別の基準にさだめ」た和歌体十種から、浄土教的な現世無常の感性につながる「有心様」を基準とする定家十体への道行き、そして、文中の「仏教における観法の境涯」が、俊成にとっては、天台教学(『摩訶止観』)にいうところの空・仮・中の三観であったこと、等々の和歌史的な事柄については、後に、あるいは次章であらためてとりあげるとして、ここでは、俊成が「古来風躰抄」で、貫之の「むすぶ手のしづくにゝごる山の井のあかでも人にわかれぬるかな」を、藤原實方の「さ月やみくらはし山のほとゝぎすおぼつかなくもなきわたるかな」とともに「歌の本たい」と評価したことをめぐる、吉本氏の議論を見ておきたいと思います。
まず、貫之歌にたいする俊成の評言、「この歌むすぶ手のとおけるあり、しづくにゝごる山のゐのといひて、あかでもなどいへる、おほかたすべてことばことのつゞき、すがたこゝろかぎりもなきうたなるべし。うたの本たいはたゞこの歌なるべし。」をめぐって。
《わかりやすくいえばはじめに「むすぶ手の」とおいて、つぎに「しづくにゝごる山のゐの」といい「あかでも」などとつづけているのは、すべての「ことば」「こと」(歌っている事柄)のつづけ方が歌の風体からいっても、歌の心からいってもこれ以上の表現の理想形がかんがえられない歌であるということになる。これを現代風に理解しなおしてみる。俊成の評言のよって来たる由縁は、ひとつは上句の序詞にあたる表現が、ことの動作を描きながらすでに心の動きを二重に含んでいる予感をあたえ、それがスムーズに下句の淡い女との出遇いと別れとの名残り惜しさの心の表現につながっているため、上句がたんに心を誘導するための序詞以上の役割をはたしているということになる。これが俊成の「ことばことのつゞき」のかぎりなさ、よろしさ、という評言をおびきだしている。俊成が自覚的にとりいれた和歌史的な見方に則していえば、序詞的な表現がくずれて「こと」と「こゝろ」の細密画のような叙述につながるという歌は、〈古今的なもの〉の晩期に位置づけられるものだった。たぶんそうだ。たんに上句が序詞的な役割をくずれさせるだけなら『万葉』の晩期にはあらわれている。だがその和歌史的な段階では、忠岑の「古歌体」のような、大まかな鳥瞰図のような歌柄の把み方しかできなかったといっていい。また、たんに細密画のようなディテールの叙景や叙心というのなら『拾遺集』以後ならば可能になっていた。そこで「ことば」と「こと」の「つゞき」が、歌の「すがた」と「こゝろ」の両面から「かぎりもなき」ような歌の典型を、和歌史として象徴させれば、晩期の〈古今的なもの〉の段階に想定された。これがこの歌を「歌の本たい」というときの俊成の歴史的な把握であるとおもえる。》
ここでも、下句の叙心を誘導する上句の序詞的表現が万葉晩期にはくずれはじめた、云々の和歌史的記述については、次章にゆだねることにします。
吉本氏はつづけて、「石間のわき水を掬って飲もうとする手のひらのあいだから、こぼれおちる雫で、わき水が濁っておもうように飲めない。そのわき水のところでゆくりなく出遇った女ともっと言葉を交わしたいのにおもうように言葉を尽くせずに、心を残したまま別れてしまったことだ」というほどの意味になる、この「巧みではあるが、事実に限定された心をうたっているだけとおもえる」歌の境位に、なぜ俊成はおおきな評価をあたえたのかと問いをたてます。
《しかし俊成は、二世紀ほどへだたったこの歌を、もっと普遍的な相のもとに二重の含みをこめて読みかえたのではなかろうか。かれは「あかでも人にわかれぬるかな」を、〈人と人とはこの世ではいつも心を残しながら別れるものではないか〉というような普遍的な意味までこめて、二重の含みで理解したものとおもえる。そうしたときこの歌の心は『止観』のいわゆる「従空入仮」に叶うものとみえたのではなかったか。貫之の同巧の歌としてよく知られている「袖ひぢてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ」(『古今集』巻一・二)は、〈春の東風が氷をゆるめ解かす〉という漢詩的な着想を和歌によみかえたもので、観念の斬新な試みというほどのものにすぎないが、これにくらべれば「むすぶ手の」は沈着な、しっかりと現実感に根ざした歌であるといえる。ただ俊成はもっとこの歌を深読みしてみせたのだ。》
次に、「さ月やみ」の歌をめぐって、紀友則の「五月雨に物思ひをれば郭公夜ぶかく鳴きていづちゆくらむ」や貫之の「郭公人まつやまになくなれば我うちつけにこひまさりけり」、凡河内躬恒の「郭公我とはなしに卯の花のうき世の中に鳴きわたるらむ」などの類歌と比較させながら。
《これら修辞と着想でできるかぎり近い歌を、おなじ歌集やそれ以前の歌集からあつめてみても、「さ月やみくらはし山のほとゝぎす」にくらべると「もの」と「こと」と「こゝろ」によりすぎて具象性はもつが、闇のしっ黒の空を背にしたほととぎすの姿と「おぼつかなくも」という主観的な句が響きあう定めないイメージがもつ深さにくらべられない。わづかに「郭公我とはなしに卯の花のうき世の中に鳴きわたるらむ」だけが、よく似た境位でうたわれているが「卯の花のうき世の中」という同音にかけての転換はうまくいっていない。かえって歌の全体を揚げ底にしてしまっている。
俊成のように「さ月やみくらはし山のほとゝぎす」は、和歌の歴史的な達成のひとつとみてよかった。》
そして、最後に。
《……俊成が貫之と実方の歌を「歌の本たい」とみなしたとき、歌は作られた時代と受けとられた時代の距りによって、作者が無意識に表現したところでも、普遍的に読みとることができるものだとする自覚があった。歌はいつもある時代の歌であるとともに、べつの時代に読まれる歌でもあり、そのばあいには作者の意識を同時代的な制限も超えてべつの時代の相のもとに読みかえることができる。これは恣意的なものではなく「歌の本たい」がもともとはらんでいたものが、時代を距ったときに露出されたものである。俊成の「古来風体抄」によって、はじめて歌は現在と歴史との交錯する位置に、自覚的におき直されたのである。》
《ある時代の歌は、べつの後の時代からは、その歌の意図したところを超えて読みこまれることがありうる。そうだとすれば深読みされた部分は、もともと歌にはなかった解釈があらたにつけ加えられたのだろうか。あるいは作者が意図したかどうかにかかわらず、歌そのものに内在していた可能性が、ひき出されたことを意味するのだろうか。早急に結論することができないが、後世はいつも古典にたいして現在の場所から振舞っている。また古典は、いつも同時代の場所へ遡行しなければ「本たい」をあかさないという強制力を働かしつづけていることもたしかだ。》
■歌の本体をめぐって
俊成の「歌の本たい」には、法華経の天台教学的なメタフィジックが、とりわけ、『摩訶止観』の「空仮中」の三観もしくは三諦の説が底流している。吉本氏はそのように指摘し、俊成にとっての「空仮中」は、「歌の境地としての三つの段階(あるいは三つの歌体の相異)」を意味するだけではなく、「和歌の歴史的な変遷の三つの段階」、いいかえれば、「『万葉集』の短歌謡が『古今』、『後撰』、『拾遺』というように『千載集』にまでくだってくる歴史を象徴する三つの段階でもあった」、そして、『摩訶止観』に「中道の法は、幽遠深邃なり」云々とある「〈中〉の合点に、歌体の現存性の核心としての〈幽玄〉と歴史的現存性としての『千載集』的なもの、あるいは初期『新古今』的なものの姿をおもい描いたといってもよい」と論じています。
《俊成が『古今集』の貫之の歌と、『拾遺集』の実方の歌を「歌の本たい」としてあげたとき『古今集』、『後撰集』、『拾遺集』とつづく詞華集を、いわば〈千載集〉的なものから眺めているという自覚を意味していた。そこからはじめて『摩訶止観』の〈空〉位から〈仮〉位を包括した〈中〉道の彼方に歌の境位をみさだめようとする俊成の歌の思想があらわれた。これは貫之や実方にあった思想ではなく、俊成にあった思想でありそこから「歌の本たい」がきめられたのである。》
いま手元にある注釈書(日本古典文学全集『歌論集』所収、有吉保校注・訳)で、「空・仮・中の三諦」に付された注をみてみると、「天台で実相の真理を説明した語。すべての存在に実体はなく(空諦)、空ではあるが縁によって仮りに存在し(仮諦)、空・仮は不二一如で、実相は一面的にみてはならぬ(中諦)と説く天台独自の教法。」とあります。以前(第12章で)使った表記を使えば、「空=無」「仮=現象」「中=真理」となるでしょう。また、強引に「パース三体」にかこつけるならば、「空=第一次性」「仮=第二次性」「中=第三次性」となるでしょうか。
吉本氏は、貫之歌「むすぶ手の」の「あかでも人にわかれぬるかな」を、「たまたま都で知りあっていた女性と石間のわき水のところで出遇って、もっと言葉を交わしたい心をのこしながら別れた」という「事実に限定された」心=意味と、「人と人とはこの世ではいつも心を残しながら別れるものではないか」という普遍的な意味との二重の含みで理解(深読み)したとき、俊成にとって、「この歌の心は『止観』のいわゆる「従空入仮」に叶うものとみえたのではなかったか」と書いていました。
空・仮・中という「和歌の歴史的な変遷の三つの段階」のアイデアのもと、「〈空〉位から〈仮〉位を包括した〈中〉道の彼方に歌の境位をみさだめようとする俊成の歌の思想」からみたとき、貫之の歌は、あたかも、私の身体に現働化する「この風」のような、すなわち、「皮膚が知覚しなければ、〈この風〉という、私の身体に現働化した唯一の対象はない。そうした個物だけが、現象の「第三次性」のなかに入り込み、記号の表意作用を持つことができる。純粋な性質としての風だけではだめなのだ。風は身体の抵抗となり、個物化され、〈この風〉にならなくては、記号へと昇格することはできない。「第三次性」は、「第二次性」を経由しなくては「情態の性質」である「第一次性」を取り込むことはできない。」(前章で引いた前田英樹氏の文章)といわれるときの、その個物化された(事実に限定された、現象としての)第二次性、もしくは水なき空に立ち騒ぐ波のごとき、歌の本然の姿を立ち現わしめていたということなのでしょうか。
このあたりのニュアンスを汲みとるために、関口真大校注『摩訶止観』(岩波文庫)下巻の注から、「従仮入空(じゅげにっくう)」と対比させながら、「従空入仮(じゅぐうにっけ)」にふれた箇所を、抜き書きしておきます。
《空観は、つぶさには従仮入空観といい、森羅万象すなわち依正色心の諸法はことごとく虚仮不実なることを推究して本無真諦の空理に入ることである。仮観とは、つぶさには従空入仮観または従空出仮観という。空観をもって諸法の不実なることを照らして空の理を証するのではあるが、もしこの空にとどまるときは、いわゆる沈空滞着となり、小乗と異ならないことになる。故に菩薩は空を観ずれども空に住ぜず、さらに仮観に入って、ひろく薬病を分別して病に応じて薬を与えるごとくに、衆生教化に努力すべきである。故に従空入仮または従空出仮という。ただし仮に二種あり、従仮入空の仮は、迷事の諸法を指すが故に、これを虚妄の仮といい、従空入仮の仮は、諸法は一相無相なりと達した上で衆生を利益するために縁生差別の諸法を照らすのであるから、これを建立の仮という。中道観は、つぶさには中道第一義観といい、空仮の二辺を離れて法体の融通を照らし、能所の念を絶して不二平等の理にかなうことである。》
俊成の「歌の本たい」論をめぐる吉本氏の議論から、私は、次の二つのことを学びとりました。
ひとつは、一首の和歌には「歌の無意識」(あるいは、歌のミーティング・プレイス=深部構造)ともいうべき、作者の意識を超えた深い漆黒の闇の空(言語空間)がはらまれていて、この潜在的な領域を、現在と歴史が交錯する普遍的な相(層)において露出させ、その可能性をひき出し、現代において読みかえていく(深読みする)ことが可能なのだということ。もうひとつは、そのような潜在的な(全きノエマとしての)「歌の本たい」を顕在化し、現働化させるのが歌体論(精確には、歌の風体、歌のアスペクトをめぐる規範と分類についての自覚的な「歌の思想」)がもたらす効果であり、その歌の風体を構成するのは、「詞」と「物」(事)と「心」と「姿」(イメージ)の四項であること。
次章では、『初期歌謡論』をアリアドネの糸として、和歌史と定家十体の迷宮にわけ入ります。そして、そこからの帰還を無事果たした後、これらの問題にいまいちど立ち返ることにします。
(16号に続く)
★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。
Web評論誌「コーラ」15号(2011.12.15)
<哥とクオリア>第19章 哥の現象学あるいは深読みの愉悦─ラカン三体とパース十体(急ノ参)(中原紀生)
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