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Web評論誌「コーラ」
14号(2011/08/15)

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■ララング、神に恋する女性の言葉
「それはイメージであり、音であり、嗅覚であり、眺めである。さまざまな制度や教義の布置である。聖痕であり、傷であり、腫れであり、熱であり、ささくれであり、涙であり、病である。異言であり、呻きであり、祈りであり、叫びであり、歌である。詩であり、本であり、註解である。」佐々木中著『夜戦と永遠』第一部「ジャック・ラカン、大他者の享楽の非神学」の第二五節「書く享楽──果敢なる破綻、ララング」にでてくる文章です。
 ここにいたる論述を通じて、佐々木氏は、ラカンがいう「女性の享楽=大他者の享楽」を、(「ミシェル・ド・セルトーおよび彼に私淑する神秘主義研究者鶴岡賀雄氏に依拠」しつつ)、十字架の聖ヨハネやアヴィラの聖テレジア、等々の西欧一六、一七世紀の大神秘家たちの体験に、とりわけ神と恋する婚姻神秘主義の体験におきかえています。もとより、それらの体験(「現実界との遭遇」)は言葉では語れません。女性=大他者の享楽は象徴界の外、想像界と現実界が重なる場所にあるものなのであって、そこは、「イメージには辛うじてなるが言語にするのは不可能な場所」だからです。
 ところが、(鶴岡氏によると)、神秘家とは「書く者」のことであり、書かない神秘家など存在しません。「女性の享楽は、神と恋をし、神に抱かれ、それをめぐって書く享楽である。恋文を書く享楽、神の恋文に遭遇する享楽。神に抱かれ、神の文字が聖痕として自らの身体に書き込まれる享楽、そしてまたそれについて書く享楽。」「しかし、それはどんな言葉なのか。「見えるが見えない、語れるが語れない」「パラドックス」を孕む出来事だが、対象aとは何の関係もない出来事を語る言葉とは。」冒頭に引いた、「それはイメージであり」以下の文章は、この問いのあとにつづくものでした。
 このような「神に恋する女性の言葉」のことを、ラカンは「ララング」(象徴界に属さない「言語(ラング)」)と名づけました。佐々木氏は、さらに、(中井久夫氏の「創造と癒し序説──創作の生理学に向けて」(『アリアドネからの糸』)からの一節、文体とは「言語の喚起するイメージであり、…文字面の美であり、音の喚起する色彩であり、発声筋の、口腔粘膜の感覚であり、その他、その他である」を引きつつ)、象徴界のシニフィアンのような純粋な形式ではない言語(ララング)をめぐって、次のように書いています。
《言語は形式ではない。口ずさまれる詩の言葉の色彩であり、文体の奇妙な軋みであり、一文のなかに置かれた言葉の匂いが発する齟齬であり、声のトーンであり、訛りであり、口籠もりであり、吃音であり、間であり、発すると同時に採られる挙措であり、言葉が放たれると同時に吊り上げられる片眉であり見開かれる瞳であり、その奇妙にテンポを失ったリズムであり、言い損ないであり、駄洒落であり、吐息であり、話の接ぎ穂であり、その言葉の色であり、口腔の感覚であり、八重歯に当たる舌先であり、声ならぬ音であり、軋みであり、歯ぎしりであり、あえかな口臭であり、涎の微かな匂いであり、唇の端につい浮かんだ泡であり、痙攣的に歪められる唇であり、その唇にひく糸をすすり込む音であり、筆先に込められた力であり、その力の圧迫で白くなった指先であり、拭いがたい筆跡の癖であり、繰り返される幾つかの文句であり、使ってみたいと思いながらもどうも自分の文章に上手く嵌め込めない語彙の歪みであり、新しいインクの匂いと爪のあいだに入り込んだその染みであり、万年筆の書き味によって揺れる文章の流れであり、モニタに映し出されるフォントの好悪であり、あるいは愛用のキーボードの上で踊る変則的な指遣いであり、そのカタカタと調子外れのリズムを刻む音ですらある。だから、言語とは文体である。語り−口である。書き−方である。言語は言語ではない。(略)言語は言語ではないものに滲み、言語は自らの身体に溶け出した言語の外を含む。言語は、滲んで溶ける水溶性の染みでできた、斑の身体を持つのだ。》
 書く者、すなわち神秘家たちが、神の恋人であり、神と褥を共にする恋人であることの意味は、第二六節「「性的関係は、存在する」──概念・妊娠・闘争」で明らかにされます。「神の女となり、神に抱かれ、御言葉である神の子を産むこと。つまり「世界」を産むこと。これが「女性の享楽=大他者の享楽」の極点である。」
《彼女たちがどうして書くことに固執したのかも、ここで明らかになる。神秘家はマリアを反復しようとするのだ。産み出されるもの、それは恋文である。愛の文字であり、愛の証である。そう、キリストは受肉した「御言葉(Verbe)」である。そして「概念(concept)」はそもそも「受胎されたもの、孕まれたもの(conceptus)」という意味であり、「マリアの妊娠」は conceptio Mariae である。ゆえに、キリストはマリアの概念化(conceptio)によって産み出された概念(conceptus)である。そしてそれは、その概念の身体は、新しい世界である。この「概念=妊娠」の問題系は、無下にして良いものではない。たとえば、ジル・ドゥルーズが、「書くこと」と「女に−なること」の連関を強調しながら「書く理由のなかで最良のもの、それは男であるということの恥ずかしさではないだろうか」と反問し、哲学とは概念の創造であると定義した上に、私もいろいろな哲学者と交わることによって、奇妙な子どもを次々と作り出してきたのだ、と語っていたことは、要するにこのことなのだ。また。フリードリヒ・ニーチェが一生涯の著作のさまざまな箇所で書くことを「妊娠」や「懐妊の深い沈黙」と結びつけたのも偶然ではない。》
 しかし、「彼女たち」の企ては潰え、流産した。「別の恋、新しい恋、新しい革命。だが、事は破れた。分裂病者テレジア、分裂病者ヨハネ。時代は大きく旋回し、彼女たちは病理学的な対象となっていくだろう。」こうして、『夜戦と永遠』ラカンの部の議論は、「精神分析の臨界点、精神分析の歴史性」を露にしていくことになるのですが、私の関心がそこにあるわけではありません。
 それでは、佐々木氏の文章を引くことによって、私が関心を寄せていたことは何かというと、それは、ラカンの「ララング」(言語の外の言語)とパースの「記号」との関係です。「それはイメージであり、音であり、嗅覚であり…」、「口ずさまれる詩の言葉の色彩であり、文体の奇妙な軋みであり…」、等々と規定される「ララング」。身体をもつ言語、生々しい物質性(質料性)をまとった言語、そして、質料世界に効果を産み落とす言語。そのような言語ならざる言語が、「パースの巨大な記号分類」(前田英樹)のうちにどのように位置づけられるのかということです。
 
■パースの記号分類(その1)
 以下、米盛裕二著『パースの記号学』に準拠し、そして、前田英樹著『言葉と在るものの声』からの抜き書きを交えながら、パースによる、第一次性、第二次性、第三次性の三つの現象学的カテゴリー原理にしたがった「記号過程」(セミオシス)の分類、(それはやがて「パース十体」へとつながっていくのですが)、その作業のあらましを概観することにします。
 
1.三つの現象学的カテゴリー
 第一次性とは「そのものが、積極的にそしていかなるものとも関係なく、そのものであるようなものの在り方」であり、「質的可能性」(qualitative possibilities)あるいは単に「性質」(qiality)とも呼ばれる。
 第二次性とは「そのものが、第二のものと関連し、しかし第三のものは考慮せず、そのものであるようなものの在り方」、「個体的事実」(individual fact)の在り方である。
 第三次性とは、第一のものと第二のものを結合し、真正の三項関係を形成する第三のものの在り方、一般的法則的なものの在り方、あるいは思想、解釈内容、習慣などの存在様式を言う。
 記号過程は、「記号もしくは表意体[representamen]」(第一のもの)とその「対象」(第二のもの)、および両者を関係づける「解釈内容」(第三のもの)から成る真正の三項関係的過程である。
《「第一次性」から「第二性次性」への移行に必要なものは、やはり生き物の身体であろう。身体こそは、潜在的なもの(第一次性)の現働化の原理であり、刺激と反応、受動と能動、作用と反作用の関係をこの世界に生じさせる。(略)
(略)「第三次性」が持つ三項関係に入れば、「第二次性」の二項関係はその性質を根底から変える。そのことは、「第一次性」としての「情態の性質」が、「第二次性」の二項関係のなかで根底からその性質を変えることと同じである。言い換えれば、「第一次性」は、「第二次性」の働きに対して潜在的なものだが、その「第二次性」の全体が、「第三次性」に固有の働きに対しては、徹底して潜在的なもの、あるいは沈黙したものであらざるを得ない。もっとも、パースはこのことを必ずしも明確には語っていないのだが。》
 
《潜在的な流動である「第一次性」は、相反作用を持つ二項関係としての「第二次性」に現働化する。このような現働化は、この世界が生命的な本質によって貫かれていない限り、起こるものではない。「第一次性」は現実的な「第二次性」の出現によってこそ、それとの関係においてこそ、潜在的なものとなりうる。このことは、〈それ自体において存在できるもの〉という「第一次性」の定義と矛盾するかのように感じられる。が、「第一次性」の存在は、現働化してくる「第二次性」との性質の差異がなければ規定することができない。同じように、「第二次性」は、そこから現働化する「第三次性」との性質の差異を通して、その次元に固有の潜在性を持つと言える。たとえば、声を聞くこと、いかなる意味も解釈も交えることなく、声を聞き、生の反応を引き起こすこと、この状態は、現働化した「第三次性」から見れば、紛れもなく一種の潜在性を示していて、もはや記号によっては正確に捉えられない。
 したがって、「第二次性」がその性質を完備するのは、「第三次性」の現働化を通してである。》
 
《生が現働化し、生き物の経験が展開される時には、現象の「三つのカテゴリー」が、その連関が、必ず同時に成立してくる。パースの考えではそうなるだろう。そこには、二つの現働化があり、したがって潜在性の二つの段階があると言える。(略)
(略)たとえば、私が風に吹かれることは、現象の「第二次性」に属している。私の皮膚を吹き抜けていくこの風とこの身体とは、偶然に出会う二つのものであり、何と取替えることもできない二つの現存物である。ところが、私がこの風をこれから来る雷雨の記号とする時には、風と私の解釈と雷雨とは、記号過程を成す三つの項目になる。こうして私の経験は、現象の「第三次性」に入り込む。だが、そこに入り込むためには、私の身体は、ほかでもない〈この風〉に吹かれなくてはならなかった。〈この風〉は、私の皮膚が沈黙のうちに知覚する現象の「第二次性」のなかにだけある。
 皮膚が知覚しなければ、〈この風〉という、私の身体に現働化した唯一の対象はない。そうした個物だけが、現象の「第三次性」のなかに入り込み、記号の表意作用を持つことができる。純粋な性質としての風だけではだめなのだ。風は身体の抵抗となり、個物化され、〈この風〉にならなくては、記号へと昇格することはできない。「第三次性」は、「第二次性」を経由しなくては「情態の性質」である「第一次性」を取り込むことはできない。言い換えれば、生き物の解釈に満ちたこの世界には、根源的な三重性があり、記号はすでにそのなかに〈生の二重性〉を含んでいる。
 この場合、〈生の二重性〉とは、身体における「第一次性」と「第二次性」のことを言う。私の身体は、一方では「状態の性質」として、この世界のなかを、開かれたままで、とどまることなく流れている。が、他方でそれは、知覚し、行動し、その行動の小さな中心として閉じられている。(略)
 記号が何事かを意味するに至るのは、常に二重であり続ける私の身体が、現象の「第三次性」に入り込んで世界の三重性を確立する時である。身体は生きて在り(第一次性)、行動し(第二次性)、さらに解釈、推論する(第三次性)。世界に三重性を、現象の「三つのカテゴリー」をもたらすものは、身体だろうか。そうとも言える。が、そうした身体を生み出すものはこの世界のほかにはないのだから、三重性は世界そのものの側にあるとも言える。したがって、物、身体、心、記号は、その全カテゴリーが、始めから世界の運動全体のなかにそれぞれの位置を持ち、精密に作用し合っていることになる。パースのこの俯瞰図は、実に驚くべきものである。》
 (潜在的な第一性としての「思ひ」が、「この風」という、私の身体に現働化した第二次性としての「物」に付託され、第三次性としての言語作品のなかに入りこむ。そこでは、私が歌を詠んでいるのか、世界が私の身体を通じて歌を詠んでいるのか定かではない…。なにやら仮名序冒頭の貫之の歌論を想起させられますが、それはともかく)、ここで、ラカンの「現実界」(ル・レエル)がパースの「第一次性」に、「想像界」(リマジネール)が「第二次性」に、そして「象徴界」(ル・サンボリック)が「第三次性」にそれぞれ対応しているなどと、軽々しく口にすることはしません。
 しかし、それでも、佐々木氏が言及していたラカンの「ララング」(象徴界のシニフィアンのような純粋な形式ではない言語、いいかえれば、現実界と想像界が重なるところ、すなわち「言語の外」に棲息する言語ならざる言語)とは、「そのもの[現実界]が、第二のもの[想像界]と関連し、しかし第三のもの[象徴界]は考慮せず、そのものであるようなものの在り方」としての「第二次性」のなかにある記号(言語ならざる言語)であり、前田氏が挙げた例でいえば、「この風」のクオリアを含むもののことだったのではないか、とだけは述べておきたいと思います。
 そしていま一つ、「世界の三重性」をめぐる前田氏の議論にでてきた「二つの潜在性」「二つの現働化」に注目しておきたいと思います。それらは、宇宙を構成する二つの世界につながっていきます。すなわち、潜在的なものと現働化したものからなる質料世界(これにかかわるのが「生の二重性」)と、この質料世界をいわば第二の潜在的なもの(沈黙の世界)として、そこから生まれる(現働化する)第二の非質料的な記号の世界。そして、これら二つの世界が接触する界面(「生きものの表皮」、もしくは「地/海/空」の貫之三体における「海面」)に「この風」のクオリアが立ちあがる。
《質料は生きものの身体を生み、身体は質料に属さない記号を生む。それは身体の持つ表皮が、すでに質料には属さない何ものかであることに因る。たとえば私たちの皮膚は、肉と外気の中間にあり、二つの質料に区分の線を入れる。あるいは、それらを〈区分する〉という出来事そのものが、皮膚を形成するのだと言える。その意味で、皮膚そのものは単なる質料ではない何かとして発生し続ける。質料は、みずから流れ、滞り、差異を生み出すが、〈区分〉はしない。区分することは、記号の第一の機能、あるいは効果であるが、生きものの表皮はそうした機能を持つ。
 したがって、表皮は記号ではないが、記号に類する機能を持っている。いや、質料世界と記号機能とを結び付け、連続させる唯一のものは、生きものの表皮である。》
■パースの記号分類(その2)
2.記号過程の三側面と記号の九様式
 パースはさらに、三つの現象学的カテゴリー概念にしたがって記号過程を三つの側面に区分する。
 記号過程の第一次性的側面、すなわち記号それ自体の在り方。記号過程の第二次性的側面、すなわち記号とその対象との関係における記号の在り方。記号過程の第三次性的側面、すなわち記号とその解釈内容との関係における記号の在り方。
 これらの側面もまたそれぞれパースの三分法的カテゴリー原理にしたがって、第一次性的な在り方、第二次性的な在り方、第三次性的な在り方の三つの様式をもつ。
 こうしてパースは三組の三分法、あわせて九種類の記号の様式を分類している。
 第一の三分法。記号それ自体の第一次性的な存在様式=「性質記号」(qualisign)、第二次性的な存在様式=「個物記号」(sinsign)、第三次性的な存在様式=「法則記号」(legisign)。
 第二の三分法。記号とその対象との(表意様式における)第一次性的関係=「類似記号」(icon)、第二次性的関係=「指標記号」(index)、第三次性的関係=「象徴記号」(symbol)。
 第三の三分法。記号とその解釈内容との(言明様式における)第一次性的関係=「名辞」(rheme)、第二次性的関係=「命題」(dicisign)、第三次性的関係=「論証」(argument)。
《性質記号とは、たとえば、話される声それ自体が潜在的に持つ〈質〉の永久の流れのようなものだ。それは、例示することのできない前個体的な質の現存そのものと言える。個物記号とは、たとえば、記号として発せられる私の声であり、この声は発せられる度にことごとく異なっているだろう。〈物〉として個体化した記号の在り方は、みなこの種類に入る。法則記号とは、たとえば、記号として発せられる私の声が、言語的に獲得する同一性の絆であり、その一般性であり、法則化した〈関係性〉である。
(略)類似記号とは、たとえば、肖像写真が捜索中の一人物の記号となるような場合を言い、指標記号とは、黒雲がやがて来る雷雨の記号となるような場合を言い、象徴記号とは、たとえば、〈禁煙〉の文字が特定の命令の記号となるような場合を言う。(略)
(略)名辞は、ある物を〈A〉だと名指しし、命題は、〈AはBである〉と断言し、論証は、たとえば〈AがBであるのは真である〉と言明するわけである。》
 
《…パースの記号分類のなかで、私たちにとって最も重要なのは、「性質記号、個物記号、法則記号」の三分法だろう。これは、記号を「それ自体として」捉えた場合の、言い換えれば〈純粋に存在論的〉な観点での、三分法を示す。(略)
 「性質記号」と「個物記号」とが、潜在的なものと現働化されたものとの関係にあるとすれば、「法則記号」はそれら二種類の記号に対して、非質料的な〈取り決め〉の性格を持つと言える。質料的な潜在性とその現働化に対して、質料を持たない第三次的な〈取り決め〉の世界がある。〈取り決め〉と言っても、実際に何かの約束がどこかで為されるわけでもない。紙を飛行機の形に造り出す折り目、製図に描かれる線、さまざまな文字、声を何かの言葉に対して響かせる聴覚上の特異点、これらのものの非質料性は、みなパースの言う現象の「第三次性」に属し、「法則記号」を作る。(略)
 質料世界の生成は、それ自身のなかに非質料的な「法則記号」(その最終の形は、人間が使う言語だが)の生成を含んでいる。それは、この世界が生の行動を含む限り、また生の有用な行動を本質とする限り、始めから予定されていることである。これが、パースの考え方であったように思われる。》
《ソシュールにあって、パースにない発想は、すぐにわかる。それは「法則記号」における「ラング」と「パロール」の区別である。あるいは、「法則記号」における潜在的状態と現働化との区別だと言ってもよい。(略)
 「性質記号」は、質料世界の潜在的次元に在る。過去一般の「本質」を示す「味」や「匂い」のように。「個物記号」は、質料の潜在的な流れから現働化し、個体化した次元に在る。これは在るものと言うよりは、働いているものだが。「法則記号」は、どうだろう。これは、潜在的な流動でも、現働化した個体でもない。が、これ自身の一種の潜在性を持っている。「法則記号」である幾何学上の線は、坂の斜面を表わして「類似記号」にもなり、三角形の内角の和が百八十度であることを証明して「論証記号」にもなる。つまり、第一次性のなかにある幾何学上の線は、第二次性や第三次性に引き上げられることによって現働化する。ソシュールの用語を借りて、パロール化すると言ってもよい。(略)
 言い換えれば、「法則記号」は、その弛緩の極で、それ自体として存在し、収縮して「対象」や「解釈内容」との関係に入る。ソシュールの言い方では、潜在的なラングの領域から、現働化されたパロールの領域に入る。「法則記号」が収縮するとは、それが「対象」や「解釈内容」に向かい、簡単に言えば〈意味〉を持つことである。収縮しない「法則記号」はない、しかしまた、弛緩の極に降りていかない「法則記号」もない。弛緩するほど、この記号は意味から遠ざかり、純粋に言語的な同一性に、単位に戻る。
 ジャック・ラカンが、「無意識の構造」と同一視されるような「ラング」を、記号体系ではなく「シニフィアンの連鎖」としたがるのは、このためである。「シニフィアンの連鎖」とは、弛緩して「対象」や「解釈内容」と無縁になった「法則記号」の群れを言う。が、この弛緩は、収縮のためにこそある。ここでも、最も深い弛緩から起こる収縮は、最も大きな働きを持つと言える。それこそは、言語の習慣化された意味作用から解き放たれ、新しい〈意味〉を創造する最大の働きを持った収縮だと言える。このような〈意味〉は、根底的に新しいが故に、いつまでも明確には捉えきれず、シニフィアンの反復を要求する。つまり、何度も唱えられることを必要とするのである。》
 「収縮」というベルクソン由来の概念は、「現働化」と同様のはたらきと見てさしつかえないでしょう。(前田氏は、「最も潜在的な宇宙の身体」である大日如来が、人の上に化身し人の言葉によって語るというときの、その「化身」とは現働化のことだと書いています。)ここには二つの収縮=現働化が描かれていました。
 第一のものは、質料世界における潜在的な「性質記号」から現実的な「個物記号」への収縮です。(前田氏が、「「性質記号」は、質料世界の潜在的次元に在る。過去一般の「本質」を示す「味」や「匂い」のように。」と書いていることの意義は、後でとりあげます。)
 第二のものは、記号世界における潜在的な「法則記号」(第一次性)から「意味」をもつ記号(対象=第二次性や解釈内容=第三次性との関係に入った法則記号)への収縮です。前田氏は、これを、「ラング」から「パロール」への現働化におきかえて論じているのでした。「生の二重性」に対応する「言語の二重性」が指摘されているわけです。
《言語学の対象は、ラングとパロールによって二重化するだけではない。ラングはシニフィアン(弛緩)とシニフィエ(収縮)の二傾向によって二重化し、パロールもまた〈音声〉と〈意味〉との二傾向によって二重化する。〈音声〉はその物質性によって、弛緩の傾向となる。〈意味〉はその生命性によって収縮の傾向となる。ラングをパロールに入り込ませるものが、シニフィエの収縮であるとすれば、パロールを質料世界の運動に介入させるものは、〈意味〉の収縮であろう。切迫した危険を報せる言葉を聞く時、私たちは、しばしばそれを報せる声の存在を忘れる。特に何を伝えるわけでもない呪いじみた言葉を聞く時は、声の微細な抑揚や音色が、私たちの感覚を満たす。
 ラングの二重性は、そのまま現働化してパロールの二重性になる。しかし、この言い方は、ソシュールにとっては単純過ぎるものだろう。ラングがパロールになるのではない。ランガージュという潜在的な言語能力(空海の言う「声」)が、ラングという法則記号を通ってパロールに現働化する。その際に、ラングのなかでパロールへと収縮するものはシニフィエである。ラングの潜在性へと弛緩するものは、シニフィアンである。同じように、現働化したパロールにもまた弛緩と収縮の二傾向がある。発せられる〈音声〉は、それだけを取れば弛緩した物質でしかない。が、その物質は収縮する〈意味〉と根底的な二重性をなし、それと完全に離れることはない。》
■パースの記号分類(その3)
3.記号の十のクラス、あるいはパース十体
 パースは三分法的カテゴリー原理にしたがって三組の三分法、あわせて九種類の記号の様式を分類し、さらにそれら九種類の記号を二つの規則にしたがい組合わせることによって、記号の十のクラスまたは結合型を導き出す。
 第一の規則。記号の組合わせは、記号過程の第一の三分法(性質、個物、法則)、第二の三分法(類似、指標、象徴)、および第三の三分法(名辞、命題、論証)のそれぞれから一つの記号を選ぶことによってなされる。
 第二の規則。その際、高次のカテゴリーは低次のカテゴリーを含むが、その逆の関係はあり得ない。
 すなわち、記号過程の第一の三分法における法則記号は第三次性(象徴記号、論証記号)、第二次性(指標記号、命題記号)、第一次性(類似記号、名辞記号)を含み、個物記号は第二次性(指標記号、命題記号)、第一次性(類似記号、名辞記号)を含むが、性質記号は第一次性(類似記号、名辞記号)しか含まない。記号過程の第二の三分法におけ各記号についても同様である。
 以上の作業の結果、三重化された記号の十種類の結合型(パース十体)が得られる。(「T」を除く各項に掲げた例示は、いずれも前田前掲書による。)
 
T 性質+類似+名辞[1+1+1]=「性質記号」
U 個物+類似+名辞[2+1+1]=「類似的個物記号」
  例:一枚の肖像写真、犬を喜ばせるマドレーヌの匂い
V 個物+指標+名辞[2+2+1]=「名辞的指標的個物記号」
  例:恐怖を表わす叫び声
W 個物+指標+命題[2+2+2]=「命題的個物記号」
  例:風見鶏、今夜の雨を報せる黒雲
X 法則+類似+名辞[3+1+1]=「類似的法則記号」
  例:家の設計図、坂の斜面を表象する幾何学上の線
Y 法則+指標+名辞[3+2+1]=「名辞的指標的法則記号」
  例:「これ」「あれ」などの指示代名詞
Z 法則+指標+命題[3+2+2]=「命題的指標的法則記号」
  例:聞こえてくる誰かの言葉(『パース著作集2』に掲げられた例では「町の呼び売りの声」)
[ 法則+象徴+名辞[3+3+1]=「名辞的象徴記号」
  例:「花」のような一般観念を表わす「名詞」、単語
\ 法則+象徴+命題[3+3+2]=「命題的象徴記号」
  例:文
] 法則+象徴+論証[3+3+3]=「論証記号」
  例:ある一般法則を規定する一連の論証、幾何学上の証明に用いられた幾何学上の線、小説の言葉
 
 前田氏は、記号の分類をめぐるパースの「驚くべき」思考を、空海の真言密教(「「密教」とは、まず潜在的なものをこそ真に在る実体、すなわち「実相」だとする教えである。」)に接続させています。
 すなわち、空海が「質料世界における言語の在り場所と働きとについて実に大胆な説を述べている」『声字実相義』をとりあげ、「声」「字」「実相」の概念を、如来三つの潜在性(身密・語密・意密の三密)に、そしてソシュールとパースに関連づけ、「身=実相=ものの在るがままの姿」「語=声=ランガージュ(記号活動の力)」「意=字=パースが言う記号」と規定したうえで、仏界から地獄にいたる「十界」(「同じただひとつの世界にある潜在性の十の水準」)を「パース十体」に関連づけているのです(「「字」は「十界」に対応して十種の別を持つ」云々)。
 このあたりの議論は途方もなく刺激的で、「定家十体」を考察する際の導きの糸に満ちているのではないかと思われますが、ここでは、十の記号結合型のクラスのうち、パースが具体の例を与えていない「名辞的類似的性質記号」、端的に「性質記号」をめぐる前田氏の考察を引用します。
《…パースは「性質記号」の例を示していない。示すことができない。なぜなら、限定され、個体化される以前の純粋な「情態の性質」は、まだ潜在的なものでしかなく、実際には個々の記号として作用することのできないものだからである。そうでありながら、「名辞的、類似的、性質記号」という記号クラスを、パースは自分の分類表に書き込む。では、この記号クラスは、単に論理上の帰結、分類表が必要とする架空の席に過ぎないのだろうか。
 おそらく、そうではあるまい。たとえば、プルーストの『失われた時を求めて』のなかに現われる〈紅茶に浸したマドレーヌの味〉は、まさしくこの記号クラスに分類される。パースの分類体系に入り込まない記号は、この世界には存在していない。》
《紅茶に浸したマドレーヌの「味」と「匂い」は、単に誰かの感覚内容である場合には、すでに限定され、個体化され、現働化されたものであって、「性質記号」にはなり得ない。「性質記号」としての「味」と「匂い」は、私の現在の身体にあると言うよりは、もっとはるかに遠いところからやってきて、私の身体を満たすと言ったほうがいい。それがやってくるところは、レオニー叔母と過ごした日曜の朝であり、コンブレーで形成された過去の全体である。主人公を満たした「味」と「匂い」は、ここにこそその根を持ち、こうした過去それ自体とまったく一致している。
 しかし、それだけではない。「味」と「匂い」が、コンブレーの過去全体と一致するだけでは、身震いのするあの強い喜びは、やってはこないだろう。(略)
 『失われた時を求めて』において、コンブレーの過去全体は、過去一般の「本質」を凝縮し、「類似」の関係によってその「名辞」となっている。この時、過去の最も深く、最も広大な水準は、ただその水準に自足していることをやめて、コンブレーの過去全体に向けて収縮してくる。後者が前者の「名辞」になり、記号になるとは、このことである。なぜ、コンブレーの過去全体にこのような機能があるのか、主人公はこの問題の探究を強いられることになる。だが、それよりももっと大きな問題は、最も深く広大な過去の水準が、それよりも低い(具体的な)過去の一水準に向けて収縮を始める時、その収縮は、なぜこれほどの強い喜びをもたらすのか、ということである。》
■水中花がひらくとき
「なぜこの記号を経験することが、死さえも関心の外に置いてしまうほどの充分な喜びを与えるのか。」この問いに対する回答を、ここでは、前田氏ではなく、もう一人別の論者の議論から引くことにします。
 古東哲明著『瞬間を生きる哲学──〈今ここ〉に佇む技法』。古東氏は、その第三章「水中花──プルーストの瞬間復元法」で、「生きられていたその当時でさえ、一度もソレとして現在化しなかった「生きられた現在」を、だから「かつて一度も現在であったためしがない過去」(純粋過去)となって、どこかに沈積している「現に生きられた瞬間」を救出する技法。そのまるで僥倖の魔術のような技法」を、すなわち、プルーストの「非意志的想起」をとりあげています。そこでいわれる、ドゥルーズ由来の「純粋過去」とは、たとえば次のようなものです。
《町の存在の地肌の感触というのだろうか。あるいは獏とした雰囲気のようなコンブレの町の正体といったらいいだろうか。プルーストは「そのもののエッサンス」と名づけたソレ。芭蕉なら「もののみえたるひかり」と名づけるだろうソレ。その渦中で現に生きられていたはずなのに、むしろだからこそあまりの間近さゆえに見失い、経験できていなかったコンブレの町のリアリティ。一度も現在化されることなく過ぎ去るばかりの絶対的過去(純粋過去)という認識論的資格において、現に間近に迫るような《近さ》のなかで生きられながら、茫々と消え去るばかりだった〈生きられた瞬間〉。》
 このような「純粋過去」は、前田氏の議論では、「生の二重性」の別ヴァージョンである「現在の二重性」のうちの片割れに、すなわち、「現在は、未来に向かうものと過去に沈んでいくものとの二つに、絶え間なく分岐し、二重化する。」「始めから過去それ自体となるために生じる現在があり、未来の行動に向けて刻々に消えていくもうひとつの現在がある。」と説明される二つの現在のうち、行動に不要な無数の知覚内容が落ち込んでいく「潜在的な過去の領域」に該当します。
 ベルクソンによれば、こうした「潜在的な過去の領域にまるごと沈んでいく〈現在〉、この見慣れない〈現在〉」において知覚されるものを、すでに過去に在った記憶内容と取り違えるところからくるのが「既視体験」です。前田氏は、このことに言及したあとで、「既視体験は、ひとつの錯覚に過ぎないが、この体験にまったく繋がりを持っていない芸術は、考えにくいのではあるまいか。」「芸術の記号には、既視体験を拡大し、定着させ、そこで見られるものを、あるべきその場所に置き直す機能がある。」と書いているのですが、それはともかく、この「潜在的な過去の領域=純粋過去」が、あるささいな出来事を糸口にして、突然、浮上してくるわけです。
《紅茶に浸したマドレーヌを口に含んだ途端、それを誘い水にして、「コンブレは、かつて生きられたためしがない光輝のなかで、まさにそうした純粋過去として再び出現する」。「コンブレがかつて現在であったためしがない〈純粋過去〉という形式で、つまりコンブレの即自という形式で出現する」(ドゥルーズ『差異と反復』一四○頁)。
 こうした想起はだから、目前に展開し明示的に経験された現在が、たんに古くなっただけの過去(相対的過去)を思い出して再−現する(表象する=re-presentation)ことではない。つまり時間経過のなかで「古びた現在」を、単純に呼び起こすことではない。
 そうではなく、現に生きられておりながらソレとして体験されることもなく無と化してしまった現実[レアリテ]に、はじめて自覚的に出会うことである。ぼくたちは非意志的想起という僥倖をつうじて《はじめてリアリティに出会う》。そしてはじめて「生を獲得する」。
 純粋過去の非意志的想起によって、生きられている現実の、いわば「処女的な反復」が可能になる。現在も現実も、直接それとして体験されるものではなく、かならず「反復」するという仕方で、ただどこまでも「処女的反復」というパラドックスのなかで体験されるわけだ。直接的な現実の体験なのに、それがつねに「純粋過去の想起」という過去的形態をとらざるをえないのは、そのためだ。現在は過去からはじめて出会われる。》
 それでは、なぜこの経験が、死さえも関心の外に置いてしまうほどの充分な喜びを与えるのか。それは、リアリティが、「とほうもなく凄いできごと」だからです(古東氏は、このことを「存在驚愕」や「存在神秘」と表現している)。
《ある瞬間、啓示でもうけたかのように、リアルな真の生の再発見が起きる。生や世界のエッセンスのようなものが、ありありとした感覚的イメージとなって来襲する。
 その時、非意図的に回想されているのは、なにか特別な出来事とか物事ではない。些細な、日常のごくありふれた出来事や身近な物事、見慣れ生き慣れ聞き慣れていたはずのことがらが、それまでは包み隠されていたその正体、あるいはエッサンス(精髄・本質)を、瞬時に露光してきて、圧倒する。
 その時、見慣れ、生き慣れ退屈な日常に想われた人生が、あるいはつまらないと思いこまれていたこの世この生が、全体として、じつに輝かしい清冽なワンダーランドのように想われる。人生否定の日常性は解消され、問答無用の人生肯定感情に包まれてしまう。
 だからプルーストの言語作品は、そんな特権的イメージを梃子に、ふだんならつまらない空虚で虚しいと思いこまれていたこの世この生を──つまりニヒリズムの生や世界の想念を──、大肯定する哲学の具現化である。》
 念のために指摘しておくと、プルーストは、「性質記号」(紅茶に浸したマドレーヌの味と匂い)が起点となる非意志的想起の経験(「現に生きられておりながらソレとして体験されることもなく無と化してしまった現実[レアリテ]」の「処女的反復」)を語っていますが、しかし、その経験が語られた「プルーストの言語作品」そのものは、「性質記号」ではないということです。それは、「法則記号」を含む六つの記号(パースの十の記号のクラスに付した符号でいえば、Xから]まで、もしくは、さらに「象徴記号」を含む[から]までの三つの記号)の組み合わせによって編集された「芸術記号」(ドゥルーズ)にほかなりません。
 ここで、いま一度、「純粋過去」をめぐる古東氏の議論を引きます。文学作品を回路としてなされる「純粋過去の非意志的想起」つまりは「現実の蘇生=再創造」、あるいは、芸術(言語作品)における「「生自体の究極的意味=存在神秘」を発見する技法」、そんな作業をプルーストが「水の中でしか開かない日本の小さな水中花」になぞらえたことをふまえて、古東氏は次のように書いているのです。
《一度も現在となったことのない「純粋過去」として、刻一刻の瞬間に暗黙裡に生きられている「純粋な生」は、海馬回路の奥深くに沈澱し、保蔵されてはいく。でもそれらはまるで水中花。そのままでは、くしゃくしゃで、地味な紙の塊。なにがなんだか分からない。だが僥倖のあの「非意図的想起」が実現するとき、水中花を水のなかに入れると花咲くように、鮮やかに華麗な花を咲かせる。》
 これを読んで私が想起したのは、前田氏の次の文章でした。「紙を飛行機の形に造り出す折り目、製図に描かれる線、さまざまな文字、声を何かの言葉に対して響かせる聴覚上の特異点、これらのものの非質料性は、みなパースの言う現象の「第三次性」に属し、「法則記号」を作る。」そしてまた、「言語は言語ではないものに滲み、言語は自らの身体に溶け出した言語の外を含む。言語は、滲んで溶ける水溶性の染みでできた、斑の身体を持つのだ。」と、「ララング」(ラカン)を語る佐々木氏の文章であり、生きものの身体の皮膚(表皮)を吹き抜けていくこの「この風」のことでした。
 ララングと水中花。質料世界における「言語ならざる言語」(TからWまで、もしくはTからZまでの記号に該当するといっていいかもしれない)と、非質料的な言語世界における「シニフィアンの(連鎖ならぬ)くしゃくしゃの塊」もしくは「もののみえたるひかり」もしくは「反復を要求されるシニフィアン」。記号世界を二分する「海=水」(質料世界)と「空」(言語世界)。これら両者の関係を見極めることは、「パース十体」を考察するための有力な手がかりになるのかもしれない。以上のことを記したうえで、やまとうたの世界に、「〈物〉として個体化した記号」(たとえば、「この風」)に付託して詠み出だされる歌の世界に、とりわけ空に咲く花の世界に戻っていくことにします。
 
(15号に続く)
★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。

Web評論誌「コーラ」14号(2011.08.15)
<哥とクオリア>第18章 ララングと水中花──ラカン三体とパース十体(急ノ弐)(中原紀生) 
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