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Web評論誌「コーラ」
09号(2009/12/15)

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■対象O、ル・レエル、純粋言語
 
 宇波彰氏は、『記号的理性批判──批判的知性の構築に向けて』の第T部「理論的な領域」に収められた七つの論考群で、パースとラカンとベンヤミンの思考を関連づけています。精確に述べると、パースの三つのカテゴリー論のうちの「第一次性」、すなわち「あらゆる綜合と差異化よりも以前にある」もの、いいかえれば言語化できない何かと、ベンヤミンの「純粋言語」、すなわちいかなる表現も表象も担わない言語、したがってわれわれに届かない言語と、ラカンの三領域論のなかの「ル・レエル」、すなわちシンボル化(言語・記号によって表象されること)を拒否するもの、もしくは「特殊な意味での「物」の領域」という三つの概念を、いわば「星座的」(ベンヤミン)ないし「機械状」(ガタリ)に連結して論じているのです。
 以下、宇波氏の議論を、主として、(ベンヤミン、ラカンとの関係を軸にパースの思想を主題的に論じた)「弱者の言説」から抜きだし、適宜、(「ラカンのシニフィアンに光あれ!」「アブダクションの閃光」「廣松渉の言語哲学」といった)他の論考での議論を補ったうえで、編集し要約してみます。
 
1.パースの「対象O」
 パースの思考では、記号論(認識論)は存在論と不可分になっている。
 そのパースの記号論の基本的な概念のひとつに「セミオシス」(semiosis 記号連鎖)がある。対象O(object)を記号S(sign)が示すとき、その記号Sを解釈項I(interpretant)によって解釈するというプロセスである。この解釈項Iは、実際には記号Sとは別の記号S'である。そしてこの記号S'はまた別の記号S''で解釈されるから、そのプロセスは無限に続く。そのとき、もとの対象Oは変化しない。
 ここで留意しておくべきことは、記号Sは対象Oに対してシニフィアンであるが、その次に来る記号S'にとってはシニフィエになるということである。無限に継起するシニフィアンS、S'、S''…は対象Oとつながりがあるように見える。しかし、それらは対象Oとは別のものである。そこには「ずれ」がある。対象O、すなわち最初に存在する解釈の対象であるシニフィエ(としての事物[the thing,Ding])は、セミオシスのプロセスのなかでは、遅れていて、取り残されている。
 廣松渉は『もの・こと・ことば』で、実在と言語の関係について、対象的世界は概念によって、つまり言語化されることによってのみ存在するというヘーゲル(『精神現象学』)の議論を「援用」して、「所知」から端的に純化された原基的な「所与」なるものは存在しないと書いている。すなわち、対象そのものである所与(実体=「がある」)とその認識である所知(関係=「である」)との間には、「「所与」が単なるそれ以上の或るもの──凱切にいえば、単なるそれ以外の、単なるそれとは別の或るもの──として覚知されるという二肢的な構制」がはたらき、したがって、「所与を所知として覚知する」(所与を何かとして措定したとたんに、それは所知としての述定的把握になってしまう)という構造がどこまでもつきまとうと書いている。
 これはパースのセミオシスと同じ考え方である。そして、このプロセスを認める限り、所与は認識不可能なものとして現れてくる。ここには、ラカンのル・レエルとも似た考えがある。また、所与は、それ自体では意味・意義を示すことができないので、ベンヤミンのいうアレゴリカー(アレゴリーを用いる者)が、その対象そのものとは別の「或るもの」によってこれを示すことになる。
 
2.ベンヤミンの「純粋言語」
 ベンヤミンはつねに「事実的なものが理論である」というゲーテの教えに忠実であった(ボルツ)。
 そのベンヤミンは「翻訳者の課題」で次のように書いている。「いかなる詩も読者に、いかなる美術作品も見物人に、いかなる交響曲も聴衆に向けられたものではないのだ。」ここでベンヤミンは、テクストが受け取るひとのために存在するのではなく、それ自体で価値を持つといっている。このようなベンヤミンの思想と深い関係があるのは、彼の純粋言語(reiner Sprache)の概念である。純粋言語は、「もはや何ものをも意味せず表現しない」(「翻訳者の課題」)。それは意味を持たず、表現もしていない言語であるから、もとより伝達の手段ではなく、したがってそれを「解釈」することは最初から不可能である。
 純粋言語という考え方には、ヴォーリンガー(『抽象と感情移入』)の影響がある。ヴォーリンガーは、感情移入、つまりミメーシスを原理とする芸術を否定した。ミメーシスに代わる原理が「抽象」である。それはいかなる「表象」とも断絶した、リーグルのいう「芸術意欲」に基づく芸術の原理であった。
 ベンヤミンは『ドイツ悲哀劇の根源』で、ヤコブ・ベーメの「永遠のことば、神の響き、神の声」ということばを引用している。「神の声」は表現や伝達を目標としていない純粋言語であり、人間の堕落以前、バベル以前の「アダム語」である。芸術家はときにこのような「言語以前の言語」を用いた作品を作る。たとえば、ジジェク(『幻想の感染』)はシューマンの「フモレスケ」について、「声にならない〈内なる声〉にとどまる、声による旋律線」云々と書き、ラカン解釈のキーワードのひとつである「到達不可能なものとしてのル・レエル」(the impossible-real)という概念を使って説明している。
 地上の人間は「神の声」をなんとか聞こうとする。そのときに考えられる手段が、アレゴリーである。「アレゴリカーの手のなかで、事物はそれ自体ではない他のなにかになり、それによってアレゴリカーは、この事物ではないなにかについて語ることになる。」(『ドイツ悲哀劇の根源』)ここでベンヤミンが「事物」(Ding)といっているのは、パースの対象O(としてのテクスト)であり、「なにかほかのもの」といっているのは記号S、S'、S''…である。
 
3.ラカンの「ル・レエル」
 パースの第一次性(firstness)は、先だって存在しているものであり、記述不可能な何かである。それはラカンのル・レエルと似ている。なぜなら、これまで「現実界」と訳されてきたル・レエルは、「シンボル化に絶対に抵抗するもの」(セミネールT)もしくは「不可能なもの」(セミネールXT)と規定されているからである。
 ラカンの三領域論のうち「リマジネール」は、しばしば「想像界」と訳されているが、「イマジネール」は実際には「イマージュ」(image)の形容詞であり、したがって、リマジネールは「像(イマージュ)が作る世界」と解釈すべきである。たとえば、ラカンにおいて、自我は「イマージュ的」である。有名な鏡像段階理論も、まさにイマージュの領域のことであり、幼児の自我形成が「鏡に映った像」として存在することを説くものである。また、「像(イマージュ)的なパロール」(parole imaginaire)は、分節言語以前の、まだ記号化されていない原初的な言語のことであり、ベンヤミンにいわせれば、「純粋言語」ということになろう。
 ル・サンボリックは「言語・記号が作る世界」であり、言語・記号・法・慣習・伝統・文化などが一体となって作る領域である。ゆえに、これまで「象徴界」と訳されてきたル・サンボリックこそ、むしろ「現実界」である。ジジェクが指摘するように、「シンボル化の可能なものだけが存在することができる」のである。
 このル・サンボリックの領域に入ることを拒否するものが、像(イマージュ)にも記号・言語にもならないものとしての、すなわち「シンボル(言語)にすることが不可能であり、スクラップであり、ル・サンボリックの屑であるもの」(ジジェク)としてのル・レエルである。ル・レエルの領域にあるものは存在しない。「女」や「性的関係」は、言語化・シンボル化が不可能なル・レエルである。ラカンはそれを「物」(das Ding)と呼んだ(セミネールXII)。ル・レエルの語源はラテン語の res (物)である。この「物」は言語化されることに抵抗する。言説性に先だつル・レエル、もしくは「残りものとしてのル・レエル」(ジジェク)は、妄想の領域、狂気の世界でもある。
 ジョン・P・マラーは、ラカンがセミネールでしばしばパースに言及したことに触れ、ラカンがその三領域論の源泉をパースの三分法に見出した可能性があると指摘している。そのマラーは、ル・レエルについて次のように書いている。「現実は、イメージ、論理的なカテゴリー、ラベルからなるシステムであり、差異化していて、通常は予測可能な経験の連続性に従う。これに対して、ル・レエルは現実の彼方にあって、経験のなかで、想像不可能で、名前がなく、差異化されていない他性(otherness)である。」
 
■パースの現象学、あるいはパース三体
 
 先にすすむまえに、パースの三つのカテゴリーについて確認しておきます。
 米盛祐二氏は『パースの記号学』で、パースの思考を「記号主義」と呼び、その主張を、「「存在」(being)とはわれわれの認識と思考の対象であり、われわれの認識と思考の対象はすべて記号であり、ゆえに存在と記号は形而上学的に同じものである」と要約しています。このパースの記号主義によると、われわれの心に現われる感情、感覚、認識、思考などの総合的全体、すなわちパースが「現象」(phaneron)と呼ぶいっさいの意識現象は、記号的現象にほかなりません。
 米盛氏によると、パースの「科学的哲学」の体系は「現象学/規範学/形而上学」の三部門に大別され、規範学は現象学に、形而上学は規範学にそれぞれ依拠します。さらに、「規範学」は「美学/倫理学/論理学」の下位部門をもち、このうち「論理学」が広義の記号論に、「論理学」の三つの下位部門のうちの第一のものである「思弁的文法学」が狭義の記号論(記号に関する一般理論)を扱う部門に該当します。このように、記号論に先行し、それを基礎づけるものとされる現象学は、「日常いつでも誰の心にも現われるいっさいの現実を直接観察し記述し、その現象の分析をとおして、最も広い意味における「存在」(being)の基本的な存在様式(modes of being)または普遍的カテゴリーを探究する最も抽象的で一般的な存在の科学」です。
 この、存在一般の(同時に、思惟の)基本様式としての三つのカテゴリーとは、およそ次のようなものです。以下、米盛氏の解説から(私の「琴線」に触れた箇所を)任意に切り貼りして、整理しておきます。
 
◎第一次性
・質的可能性または潜在性としての世界の原初的な在り方。
・記述することのできない未分化なものの在り方。ジェイムズの「純粋経験」(pure experience)におけるものの在り方、ホワイトヘッドの「純粋潜在性」としての「永遠的対象」(eternal object)、あるいはサンタヤナの「本質」(essence)のカテゴリーに近い。
・情態の性質(qualities of feeling)。ただしそれは現実の感覚に依存する性質ではなく、いわば感覚的現実的性質の背後にある純粋に潜在的可能的な性質。その意味ではロックの「第二性質」よりもカントの「物自体」の概念に近い。
・感覚的経験によっても理性的認識によってもとらえることのできないものの在り方。ただ適当な抽象化によってその所在を示すことができるだけで、それを具体的に記述し説明することはできない。
 
◎第二次性
・現実性。われわれ自身で生み出すことができる想像の世界ではなく、われわれの勝手にならない強制的で現実的な生の事実の世界。
・純粋に個体的なものの在り方。ドゥンス・スコトゥスの言葉で言えば、「ここでいま」(hic et nunc)起る出来事であり、不意に襲う一回限りの経験。
・個体化の原理。ただし、スコトゥスが普遍(共通本性)と個物を単に形式的区別と考えていた(個体化とは、普遍が個物に縮約される自然の操作である)のに対して、パースにとっては、普遍の在り方と個物の在り方は全く別の存在様式である(普遍の存在様式は第三次性のカテゴリーに属する)。
・現存物(existence)。現存するものは他者を押しのけて自らの存在を顕示し固守する対抗的傾向をもつ。そのような反作用、対抗性、相反性には理性は全く存在せず、ただ野蛮な力(盲目的力動性)があるだけである。
 
◎第三次性
・媒介(mediation)あるいは中間性(betweenness)の存在様式。表意作用の同義語。パースいわく、「発端は第一であり、末端は第二であり、中間は第三である」。
・普遍的一般的法則的なものの在り方。一般性は個々の事実の単なる集積ではなく、「すべての数多性(multitude)を越える一つの全体を形成している」。
・すべての部分が部分を含み、いかなる分割点も容れないような、そういう連続的なものの在り方。
・一般性と法則性からなる習慣。すなわち、一般的状況の下で、一般的な仕方で行われる行動の一般的様式であり、未来の状況と結果に関わる一般的な行動性向。あるいはカオスから秩序へ、偶然から法則へ、具体特殊から一般普遍へ、可能性から実在へ、不連続から連続へと進化する宇宙の習慣形成の過程。
 第一次性が単なる性質、潜在性、可能態としてのものの在り方であり、第二次性が現実的個体的事実の在り方であるのに対して、第三次性は普遍的一般的法則的なものの在り方を言う。「実在」の存在様式がすなわち「第三次性」と呼ばれるものである。しかし、厳密に言うと、パースは現象学と形而上学を区別していて、「第三次性」は現象学的概念であり、「実在」は形而上学的概念である。
 
 これらの「現象学的カテゴリー原理」は、パースの記号論においてセミオシスの三つの要因に、すなわち、第一のものとしての「記号ないし表意体」、第二のものとしての「対象」、第三のものとしての「解釈項」に、それぞれ相当します。パースいわく、「記号あるいは表意体[representamen]とは、ある人にとって、ある観点もしくはある能力において何かの代わりをする[stand for]ものである。記号はだれかに話しかける、つまりその人の心の中に、等値な記号、あるいはさらに発展した記号を作り出す。もとの記号が作り出すその記号のことを私は、始めの記号の解釈項と呼ぶことにする。記号はあるものつまり対象の代わりをする。」(内田種臣編訳『パース著作集2 記号学』)
 米盛氏によると、これらの要因は「三位一体的」であり、どの要因を欠いてもセミオシスは成立しません。そして、それらの要因(「記号=父」「対象=子」「解釈項=精霊」とでも規定できるでしょうか)は、すべて記号にほかなりません。「とりわけ記号の対象について言うと、その対象は記号から独立に存在するある対象であるが、しかしその対象が記号の対象である限り、それはそれ自体記号の性格を有するものでなければならない。(略)そしてパースによると、われわれは記号が表意するその対象しか知らない。われわれはつまり存在するものについて、それらが記号の対象となる限りのこと、あるいはそれらが記号のうちにその姿を現わす限りのことしか知らないのである。ゆえに、存在と記号(およびその解釈思想)は同義であり、存在はすなわち記号であり思想である。」
 
(宇波氏の「対象O(としてのテクスト)」の概念は、パース記号論における「記号ないし表意体/対象/解釈項」の三つ組のなかの一項でありつつ、しかしそこにとどまることなく、パース現象学の世界へとつながる通路を宿している。しかもその場合、第一次性だけではなく、おそらくは三つのカテゴリーの総体に根ざしたものと想定されている。かつ、同時に、パース形而上学(存在論)における「実在」の概念にも、とりわけ、「存在の初期の段階には、現在のこの瞬間における現実の生と同じくらい実在的なものとして、感覚質の宇宙が存在したのだ」(伊藤邦武編訳『連続性の哲学』)といわれる、その宇宙論における第一のものと深いつながりをもっているものと思われる。)
 
■対象Oとしての古今集
 
 私は、宇波氏の議論に惹かれながらも、同時に、そこにかすかな違和感や懸念、疑問をいだいています。
 違和感とは、たとえば、パース記号論の肝ともいうべき「記号/対象/解釈項」の三項関係(この三つの要因のなかの第一のものである「記号」のことを、パースは「レプリゼンタメン」(表意体)とも呼んでいました)が、セミオシスのプロセスにおける「対象と記号のずれ」という問題を建てることによって、「対象O」と「記号連鎖S、S'、S''…」との、ひいては「テクスト」と無限につづくその「解釈」との二項関係へと「矮小化」されてしまわないかといったことです。
 また、「対象O」が、(本来、パースの哲学体系では記号論に先立ち、そして記号論を基礎づけるものとされている現象学の領域に属する)「第一次性」のカテゴリーに関連づけられ、そこからさらに「ル・レエル」や「純粋言語」に関連づけて論じられていることについても、(それが宇波氏の議論の肝であり、かつ、私が強く惹かれる点であるだけに)、慎重かつ精緻な吟味をほどこしていかないと、異なる概念をひと括りに単純化し、そこに「語りえぬもの」と「語りうるもの」との二分法を、もしくは、「実在」(純粋言語としての対象O)と「言語」(アレゴリーとしての記号連鎖)との二項関係をめぐる出来合いの立場をもちこむだけのことになってしまわないかという懸念が拭えないのです。
 これら以外にも、議論の細部にわたっていくつかの疑問が浮上します。(対象Oや純粋言語が事物=物(das Ding)として、つまりル・レエルの領域に属するものとして規定されていること、また、イマージュの領域に属する「像的なパロール」が純粋言語になぞらえられていることをどう理解すればよいか、等々。)しかし、これらの違和感、懸念、疑問は、宇波氏に直接問うべきことではなく、宇波氏の議論に触発されて(というか、これを勝手に「使って」)、自分なりの論を仕立てようとしている私自身が解明すべき課題です。では、その「自分なりの論」とは何か。
 
 ……宇波氏が構想しているように、対象Oをル・レエルや純粋言語と関連づけて考えることができるとすれば、そのように解釈された対象Oにかかわるパースのセミオシスには、どこかしら聖書解釈のプロセスを思わせるところがある。聖書に印された記号としての文字(それはおそらくル・レエルの領域からもたらされたものだろう)が指し示しているもの、すなわち「最初に存在する解釈の対象」であり、かつ「セミオシスのプロセスのなかでは、遅れていて、取り残されている」ものは、純粋言語としての「神の声」だったのではないか。また、その言語ならざる言語が使徒や神学者や信者にもたらす様々なアレゴリーとしての解釈項は、ル・レエルとル・サンボリックの中間に、すなわちリマジネールに存在する言語(それはおそらく「命名する言語」のことだろう)だったのではないか。そして、そのような言葉の到来(啓示)こそが、実は、聖書編集の作業を導いたそもそものはじまりだったのではないか。……
 
 宇波氏の論考群を読みすすめながら、私はそんなことを考えていました。この「アイデア」を目下の私の関心事に、つまり広狭二義の貫之現象学における歌体論の問題に引き寄せるならば、それは次のようなものになるでしょうか。
 
 ……対象Oにかかわるパースのセミオシスは、歌を詠み、歌の善し悪しを判定し、歌の心を受容するプロセスを、また、詞華集を編むプロセスを思わせる。たとえば、古今和歌集というテクストに綴られた記号としての仮名文字(「千代経たる松」)が指し示している対象は、純粋言語としての「いにしへの声」であり、その詞ならざる詞が歌の詠み手や評者や受容者にもたらす様々な「思ひ」(純粋経験)としての解釈項は、イマージュそのもの、もしくはイマージュとしての詞(クオリア憑きの歌詞[うたことば])だったのではないか。そして、そのような様々な「思ひ」に「かたち」を与えるものこそが、実は、詞華集の編纂者(アンソロジー・マン)を導いた(空虚な器としての)歌体だったのではないか。……
 
■命名行為としての芸術表現
 
 若干、補足します。
 その一。聖書に印された記号としての文字が、ル・レエルの領域からもたらされたものではないかと註記したことについて。
 第4章でとりあげた「かなと精神分析」(矢口浩子・新宮一成)に、川底から浮上する読めない文字の夢に関して、あの世(川底=ル・レエル)とこの世(水面=ル・サンボリック)の境を漂う「読まれないのに文字であり続けるという逆説的な文字の状況」をめぐる議論があったこと。また、つづけて抜き書きした『文字と見かけの国』(佐々木孝次)に、文字はル・レエルの近くにいるが、読まれることによってル・サンボリックに参入する、しかし、ル・サンボリックの領域に参入しても「つねに意味から無意味に向かう運動を支えている」と書かれていたこと。私が依拠しているのは、これらの議論です。(声もまたル・レエルから到来するものなのではないか。しかし、それはおそらく「声」ではなく、「響」と呼ばれるべきものだろう。)
 
 その二。純粋言語(神の声)がもたらすアレゴリーとしての解釈項を、「命名する言語」と註記したことについて。
 ベンヤミンは「言語一般および人間の言語について」で、「事物の言語/人間の言語/神の語」もしくは「存在の言語/認識の言語(名称言語)/創造の語」の三層構造にもとづく言語論を展開していて、その第八段落に、「人間は名づけるものであって、この点において私たちは、人間のうちから純粋言語が語っていることに気づく。すべての自然は、それが自らを伝達しているかぎり、言語という姿で自らを伝達しているのであって、結局のところ人間において自らを伝達しているのである。」と書いています。
 この「名づける言語」としての純粋言語をめぐって、細見和之氏は『ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」を読む──言葉と語りえぬもの』で、「そもそも表現するということは、自分の生涯や場面、さらには「世界」に、名前を与えることではないか」と書き、ベンヤミンが語る「命名」という行為を、芸術表現の場面に引き寄せて具体的に理解しようとしています。
 
《たとえば晩年のセザンヌがサント・ヴィクトワール山を反復的に描き続けるとき、そこにはほかでもないサント・ヴィクトワール山の正しい名称をもとめてなされた執拗な探究、という側面があったのではないか。あるいは、コルク張りにして外部の物音をいっさい遮断した部屋で『失われた時を求めて』を書き継いだプルーストは、ほとんど事物的存在であることを断念して、自らの生涯に名前を与えるという営みに没頭していたと呼べるのではないか。(略)
 いや、セザンヌやプルーストなどという巨匠を持ち出すまでもない。私たちが自分や他人の生涯、日々のひとこまを詩や小説に記そうとするとき、そこにはその生涯や日々のひとこまに名前を与えようとする志向があるのではないか。私たちは自らの生涯や人生のひとこまをかけがえのない名前で呼びたいのだ、長大な小説という姿で、あるいは小さな短詩という姿で。》
 
 しかし、ここでいわれる「名前」(あるいは、より高次の、神の語に近接した「固有名」)としての純粋言語、つまり人間のうちから語られる名称言語(認識する言語)と、「神の声」としての純粋言語、つまり何も意味せず、表現せず、伝達もしない言語(創造する語)とでは、その存在の次元がまるで異なります。にもかかわらず、それらが同じ「純粋言語」の名で呼ばれていることの理路は、先にふれたベンヤミンの言語論における三層構造を踏まえるとよく理解できます。以下、ベンヤミン自身の文章を二つ、いずれも細見訳で引きます。
 
《事物の言語を人間の言語に翻訳するということは、沈黙しているものを音声をもつものへと翻訳することだけではない。それは、名前を欠いたものを名前へと翻訳することである。したがってそれは、ある不完全な言語をいっそう完全な言語へと翻訳することであって、それは何かをつけくわえないわけにはいかない。すなわち、認識である。しかし、この翻訳の客観性が保証されているのは神においてである。というのも、神がそれらの事物を創造したのであり、それぞれの創造ののちに神もまた最後にそれぞれの事物を名づけたように、それらの事物のなかの創造する語は認識する名前の萌芽だからである。とはいえ、この神による命名は創造する語と認識する名前が神において同一であることを表現しているにすぎず、神がはっきりと人間に与えたあの課題、事物に名前を与えるという課題を、先取り的に解決するものでないことは、明らかである。人間は、事物の沈黙した、名前を欠いた言語を受容し、それを音声をもつものという姿で名前へと移すことによって、この課題を果たすのである。もしも人間の名称言語と名前を欠いた事物が神において結びついているのでなければ、そして、それらがあの神の創造する語から解き放たれたのでなければ、この課題は果たしえないだろう。神の創造する語は、事物においては魔術的な共同性にもとづく物質の伝達となったのであり、人間においては至福の精神をそなえた認識と名前の言語となったのである。》(第一八段落)
 
《ある存在の言語とは、その存在の精神的本質が自らを伝達している媒質である。この伝達の連続した流れが自然全体を貫いていて、もっとも低い段階の実在から人間にまで、そして人間から神にまで流れている。人間は、自然および自らの同胞に(固有名という姿で)与える名前によって、自らを神に伝達している。そして、自然にたいして人間は、自然から受け取る伝達にしたがって名前を与える。というのも、自然全体もまた、名前を欠いた沈黙の言語、創造する神の語の残滓によって、浸透されているからである。創造する神の語は、認識する名前としては人間のうちに、裁く判決としては人間のうえに、漂いながら自らを保持してきたのである。自然の言語は、ひとりひとりの歩哨がつぎの歩哨に自分自身の言語でつぎつぎと伝えてゆく、秘密の合言葉に譬えることができる。その際しかし、合言葉の内容となっているのはその歩哨自身の言語なのである。いっそう高次の言語はすべて、いっそう低次の言語の翻訳であって、最後には、この言語運動の統一性である神の語が、究極の明晰さで自らを展開するのである。》(第二六段落)
 
■空虚な器としての歌体
 
 その三。純粋言語(いにしへの声)がもたらす「思ひ」としての解釈項をめぐって、それを「純粋経験」といいかえ、「イマージュそのもの」と規定したことについて。
 ここで私が想起しているのは、『物質と記憶』第七版の序に、「物質とは、私たちにとって、「イマージュ」の総体なのである。そして「イマージュ」というものを、私たちは、観念論者が表象とよぶものよりはまさっているが、実在論者が事物とよぶものよりは劣っている存在──「事物」と「表象」の中間にある存在──と解する。」(田島節夫訳)と書いたベルクソンです。そのベルクソンは、ウィリアム・ジェイムズ宛の手紙(1905年7月20日付け)に、「私はこの種の実在を指し示すのにイマージュという語を用います」と書いていて、そこでいわれる「この種の実在」とは、主観的でも客観的でもない「純粋経験」のことなのです。
 小林秀雄は、江藤淳との対談「『本居宣長』をめぐって」で次のように語っています。いわく、「イマージュ」という言葉を「映像」と現代語に訳しても、どうもしっくりしない。宣長も使っている「かたち」という古い言葉の方が、余程しっくりとする。『古事記伝』になると、訳はもっと正確になる。「性質情状」と書いて、「アルカタチ」とかなを振ってある。物のアルカタチ。これが「イマージュ」の正訳だ。ベルクソンは、「イマージュ」という言葉で、主観的でもなければ、客観的でもない純粋直接な知覚体験を考えていた。更にこの知覚の拡大とか深化とか言っていいものが、現実に行われている事を、芸術家の表現の上に見ていた。宣長が見た神話の世界も、まさしくそういう「かたち」の知覚の、今日の人々には思いも及ばぬほど深化された経験だったのだ。
 
 その四。様々な「思ひ」に「かたち」を与える歌体をめぐって、それを「空虚な器」と形容したことについて。
 ベルクソンは、『物質と記憶』第二章「イマージュの再認について──記憶力と脳」の最終節「記憶の現実化」で、「私たちは、脳髄の特定細胞に局在して細胞が破壊されると絶滅されるような記憶を見いだすことはない。」と書き、「聴覚的知覚」と「聴覚的イマージュ」(=「記憶心像」[image-souvenir])と「観念」(=記憶力[me'moire]の奥底からよび起こされる純粋記憶[souvenir pur])という「三つの項」をめぐる議論を展開しています。
 いわく、聴覚体験、とりわけ「言語的イマージュという特殊なイマージュ」をめぐる「純粋な経験」について、世の人は一般に「知覚⇒記憶心象⇒観念」という進行を想定するが、これは間違っている。「私たちは観念から出発し、運動的図式にはまり込みながら聞こえる音に重なっていく力をもつ聴覚的記憶心像へと、その観念を発展させる。そこには、観念の雲が判明な聴覚的イマージュへと凝縮していき、聴覚的イマージュはなお流動的であるにしても、ついには物質的に知覚される音響と癒着して固まろうとする連続的な進行がある。」
 私は、ベルクソンがいう聴覚体験の「三つの項」を一般化して、これらをパースの記号論と組み合わせると、「生の知覚=記号(レプリゼンタメン)」「観念(純粋記憶)=対象」「記憶心象(言語的イマージュ)=解釈項」という対応がなりたつのではないかと考えています。そして、少なくとも聖書や古今集の解釈・伝達・受容・編集のプロセスについては、第一項の「知覚」からではなく第二項の「純粋記憶」から、それも「純粋記憶⇒記憶イマージュ⇒知覚」という「記憶の現実化」の進行にそくしてこれを考察することが、(したがって、芸術表現や神話の世界を、小林秀雄のように「純粋知覚」の側から見るのではなく、「純粋記憶」の側から、「いにしへ」の側からこれを見ることが)、有効なのではないかと考えているのです。
 さらに、私の「直観」が告げ知らせることを(吟味、論証抜きに)書き連ねておきます。
 詞という姿で「思ひ」を詠みこんだ歌に「かたち」を与えるもの、すなわち「歌体」とは、ベルクソンが、「私たちの意識の内には、初発的筋肉感覚という形で、聴取される言葉[parole]の運動的図式ともいうべきものが進展する」と書き、「私たちが他人の発言[parole]をききながら、わかると思っている場合、何が起こっているかを意識に尋ねよう。私たちは、印象がイマージュを捜しにいくのを、受動的に待ち受けるだろうか。むしろ私たちは、あたかもまずもって自分の知的作業の調子を整えるかのように、対話者や、その語る国語[langue]や、その表現する観念の種類や、またとくにその語句の全般的運動につれて変化する或る種の準備態勢に身を置いているとは感じないであろうか。運動的図式は、彼の抑揚を強調し、その思想の曲折を克明にたどりながら、私たちの思想に道を示す。それは空虚な器であり、その形によって、流れ込む液体の向かっていく形を決定するのだ。」と書いている、その「空虚な器」としての「運動的図式」に相当するもののことなのではないか。
 だから、個別の歌についてその歌体を云々することにはあまり意味がなく、様々な「思ひ」を詠んだ歌の連なりにおいて、とりわけ複数の歌を編みこんだ詞華集(対象O)という姿で、あくまで「純粋記憶⇒記憶イマージュ⇒知覚」のプロセスに即して歌の「かたち」を見ることにこそ、歌体論の意味があるのではないか。
 
■聲と文字、あるいは擬音語と擬態文字
 
 いまひとつ、補足を加えます。
 「運動的図式」をめぐるベルクソンの議論には、第10章で取りあげたラマチャンドランの(視覚と聴覚、異なる運動間の共感覚的対応にもとづく)言語起源説を想起させるところがあります。また、日本の歌論が語ってきた縁語や掛詞は「意識の運動をコントロールする仕掛け」であり、「和歌を味わうとは、言葉の舞踊に引き込まれ、一足ごとに変容するイメージの旅を歩むことである」と書いた尼ヶ崎彬氏(『縁の美学』あとがき)の議論や、和歌は「言葉でする演技」であるとし、枕詞・序詞・掛詞・縁語・本歌取りといった「和歌的レトリックは、声を合せることを詞で装う表現である」と規定した渡部泰明氏(『和歌とは何か』)の議論へと、(さらにいえば、マラルメやヴァレリーの舞踊論へと)、接続していくことができるものだと思います。
 これらの論点については、いずれ、貫之現象学における「フィギュールとしての哥」を本格的に取りあげる際、必要に応じて立ち帰ることとして、ここでは、岡田暁生著『音楽の聴き方──聞く型と趣味を語る言葉』から、興味深い議論をひとつ引いておきます。
 岡田氏は、同書の第二章「音楽を語る言葉を探す」で、リハーサルで指揮者が使う「身体感覚に関する独特の比喩」(たとえば、クライバーの「いきなり握手するのではなく、まず相手の産毛に触れてから肌に到達する感じで」など)に注目し、この「身体の共振を作り出す言葉」を、生田久美子氏の著書から借用した「わざ言語」(craft language)の概念で括っています。(岡田氏の紹介によると、日本舞踊の伝承において師匠たちが好んで使う、「指先を目玉に」とか「天から舞い降りる雪を受けるように」といった、単なる身体部位の一パーツの表面的な「形」の模倣ではなく、動作の根源にある身体全体の構えとしての「型」の感覚を呼び覚ますことを目的とした特殊な比喩を、生田氏は、『「わざ」から知る』のなかで「わざ言語」と呼んでいる。)
 そして、「音楽はいかなる感情も、いかなる情景も、絶対に表現することは出来ない」としたハンスリックの議論を紹介した上で、「だがハンスリックはこれらの記述において、まさに彼が躍起になって否定しようとしていたこと(=音楽は何かを表現する)を、極めて雄弁に肯定しているように思える。つまり運動感覚を通して音楽は、あらゆるものを極めて生々しく喚起するとも言えるのだ。」と書いています。以下、『音楽美論』(渡辺護訳)に記されたハンスリックの二つの文章(岡田氏が「これらの記述」として言及しているもの)を、岡田前掲書から孫引きします。
 
《[音楽は]感情に関して何を表現できるであろうか。ただ感情の動的なもの(dynamisch)だけである。音楽は物的な過程の運動を、早いとか遅いとか強いとか弱いとか、上昇的とか下降的とかのそれぞれのモメントに従い模倣することができる。》
 
《私が雪片の降り来るさまや鳥の羽ばたきや日の出のさまを、音楽的に画くことができるのは類推的な聴覚現象、つまりこれらの諸現象に力学的[ディナーミッシュ]な意味で似たところのある聴覚印象を私がもたらすことによってのみできる。音の高さや強さや早さやリズムを通じて耳に一つの「形[フィグール]」が与えられる。種々異なった種類の感覚の間を互いに接触することのできる類推[アナロギー]によってこの「形[フィグール]」の印象が一定の視覚的な知覚をうるのである。》
 
 これを読んで、私が想起したのは、「言語はいかなる場合でも、伝達可能なものの伝達であるだけにとどまらず、同時に伝達不可能なものの象徴でもある」、また「名前…がたんに伝達する機能のみならず、伝達機能と密接に結びついた象徴的機能をも有していることは、きわめて確かなことである」という、「言語一般および人間の言語について」の第二五段落に記されたベンヤミンの文章、とりわけそこに出てくる「象徴」という言葉をめぐる、細見氏の解読です。これもまた、「フィギュールとしての哥」に取りくむ際、とても重要な論点になると思うので、細見前掲書から、その全文を抜き書きしておきます。
 
《「名前」が「伝達機能と密接に結びついた象徴的機能をも有している」というのは、当然のことと思われるかもしれない。しかし、これがやはりかなり特異な発想であることをふたたび確認しておきたい。ランプを例にとれば、まさしく「ランプ」という名前・呼称に、伝達不可能なものとしてのランプの精神的本質の「象徴」を見て取ろうとする態度だからである。ここで「ランプ」という音ないし文字はランプを指すたんなる記号であってはならない。「ランプ」という音はランプという存在の、いわば擬音語であり、さらには擬態語、擬態文字でなければならないのである。
 この傾向をもっとも顕著に示しているのが、一九三三年に書かれた「類似したものについての試論」であり、その続稿ないし改定稿として成立した「模倣の能力について」である。そこでベンヤミンは、そもそもすべての音声言語を擬音語として理解する方向を示すとともに、文字を「非感性的類似の貯蔵庫」と呼んでいる。擬音語が外的に理解しやすい「感性的類似」にもとづくのにたいして、擬態語は、さきに「のしのし」の例で見たように、そのままでは類似を見て取ることのできない「非感性的類似」にもとづいているのである。そして、文字が「非感性的類似の貯蔵庫」であるということは、すべての文字はそもそも擬態文字であるということだ。
 このあたりもまたベンヤミンのもっとも難解であるとともに捨てがたい魅力をなしているところだが、少なくとも作家や詩人が「ランプ」と書くか、「灯り」と書くかで迷う場合、そこではたんなる「記号」を超えた次元で言葉が問われている、と言うことはできるはずだ。「ランプ」と「灯り」をたんなる記号としてのみ捉えるなら、どちらでもいいことになるからだ。私たちが「語感の違い」などという言い方で通常安易に了解している要素とは何なのか。それは記号論で言われるコノテーションの違いという枠内には収まらない問題だと思える。そこで問われているものこそ、まさしく「ランプ」ないし「灯り」という言葉、さらには文字の、「伝達機能と密接に結びついた象徴的機能」のことではないのか。そのように問いなおすことができるだろう。》
 
■パース三体、再び
 
 それにしても、「ベンヤミンのアクロバティックなまでにスリリングな思考」の奥深く、「テクストにルーペを押しあてるようにして」分け入っていく細見氏の手腕は実に鮮やかで、かつ、示唆と刺激に富んでいます。その方法は、すでにふれたように、ベンヤミンの言語論を芸術表現の場面において具体的に読み解いていくというものでした。もっと一般的にいえば、「通常の記号論的な発想をむしろ芸術表現に置きなおすとベンヤミンの言語思想が理解しやすい」というアイデアにもとづくものです。
 私はこれから、「ラカン三体」と「パース十体」の名のもと、貫之や定家が詠んだ具体の歌を素材として、古典和歌における歌体論をめぐる「自分なりの論」を模索していくつもりなのですが、それに先立ち、(そして、多くの事柄を言い残したまま、あるいは、星座的=機械状に連結することなく放置したまま、「序」の舞を終える前に)、細見氏のアイデアに倣って、「ラカン三体」とも密接な関係がある「パース三体」を、芸術制作の現場に引き寄せて理解するための手がかりを得ておきたいと思います。
 「パース美学」の可能性については、谷川渥氏が、『美学の逆説』に収められた「記号論としての美学──パースにおけるイコン論の成立と展開」で、パースの三つの記号のうちの「イコン」にそくして探究しています。同書にはまた、イマージュの概念に着目して「ベルクソン美学」をひとつの表現論としてとらえた「直観と表現──ベルクソン美学の構造」も収録されています。いずれも、多くのヒントがちりばめられた魅力的な論考なのですが、しかしここでは、これらとは別の補助線を引きます。それは、淺見圭司著『映ろひと戯れ──定家を読む』のあとがきに記されているものです。
 淺見氏は、定家の「見わたせば花も紅葉もなかりけりうらのとまやの秋のゆふくれ」をめぐって、次のように書いています。いわく、この歌は、「見わたす」主体と「見わたされる」対象(客体)の対立と緊張関係をその根柢にもっている。しかし、「見わたされる」対象は現実の光景ではなく、「花」「紅葉」「浦」「苫屋」「秋」「夕暮」という、「歌語の体系」あるいは「感性的言語の体系」とでもいうべきものから選び取られ、配列された語によってかたちづくられた(現し出された)、独自の感性的性質ないし「イメージ」にほかならず、また、「見わたす」主体は、現実的状況のなかで悩み、苦しみ、不満をもらす現実的存在なのではなく、美的世界でのみ生きることを選択した歌人(美的実存)であるとみなすことも、たしかに可能だろう。
 ここに出てくる二つの項、すなわち、芸術制作にかかわる「対象」と「主体」について、淺沼氏は、制作において対象的契機が主体的契機に優越する場合を「模倣」と、対象的契機と主体的契機が同等の立場で緊張関係を形成する場合を「表現」と、そして主体的契機が対象的契機に優越する場合を「表出」と捉えたうえで、そこに第三の項としての「媒体」(もしくは「質料」、「材料(マティエール)」)を導入し、媒体的契機の(他の二つの契機にたいする)優越をめざす「もうひとつの制作」の可能性(「具体的には、視覚的性質──線、形態、色彩──そのものにたいする反省と、その特性の探究を目的とする絵画的制作、あるいは言語にたいする反省と、そのものとしての言語の実現──たとえば、日常的使用のなかで覆いかくされた言語本来のすがたの開示──をくわだてる詩的制作、など」)を考察し、そのような制作のあり方に「引用」の名を与えます。
 
《定家の歌が、イメージによるイメージとして、ある種の自己言及性を、そしてメタ・イメージ(メタ言語)的な性質をもっており、通念的な「対象─主体」関係がそこでゆらいでいることは明らかであった。定家が、その歌と歌論の双方において、「本歌取」の技法にたいしてもっとも自覚的であったことは、おそらく否定しえない。そして「本歌取」は、既存の「歌語の体系」──歌の総体──から特定の「詞」(語ないし句)を任意に選択し、切り取り、それらの「詞」を任意に配列することによって、あたらしい統一的なコンテクストを形成することにほかならず、その点で「引用」として捉えられるものであった。短絡的に結論を急ぐことは避けなければならないが、通念的な──「対象─主体」関係を根柢においた──制作の枠組内のもろもろの技法のひとつとしての引用ではなく、その枠組を逸脱した、もうひとつの制作そのものとしての「引用」が存在すると考えることには、相応の根拠があるのではないだろうか。対象的契機と主体的契機のいずれかにたいして、あるいはその双方にたいして、媒体(マティエール)の透明化をくわだてる制作(技法)とは別の、対象的契機と主体的契機のいずれをも可能なかぎり媒体的契機の背後に消滅させることをくわだてるもうひとつの制作(技法)としての「引用」。》
 
 私は、淺沼氏がいう「主体/対象/媒体」を、パース記号論の「記号(レプリゼンタメン)/対象/解釈項」に、より根柢的には、パース現象学の「第一次性/第二次性/第三次性」(パース三体)に、(さらには、丸山圭三郎氏が『言葉と無意識』で、「欲動/深層のパトス/表層のロゴス」になぞらえたラカン三体に、ひいては、貫之の「よろづ/人のこころ/ことのは」もしくは「物/心/詞」に)、それぞれ関連づけて考えることで、(狭義の)貫之現象学の世界を読み解いていく手がかりをうることができはしまいかと考えています。
 そして、淺沼氏の三項関係のうちの第三のものである「媒体」を、ベンヤミンの「媒質」(としての言語)の概念に関連づけ、そこに、「神」もしくは「絶対的なもの」の方へ向かう垂直次元の運動を導入すことで、淺沼氏が提示した「表出」「表現」「模倣」「引用」という芸術制作の四つの技法の位置関係を見きわめることができはしまいか、(それはおそらく、「空虚な器」としての歌体がもつ「運動的図式」をあらわすもの、たとえば、「物」「心」「詞」「姿」の四つの項からなる「哥の伝導体」のごときものになっていくのではないか)、さらに、俊成、定家を包摂した(広義の)貫之現象学の世界を解明する手がかりをうることができはしまいかと考えているのです。
(10号に続く)

★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。

Web評論誌「コーラ」09号(2009.12.15)
<哥とクオリア>第13章 ラカン三体とパース十体(序)(中原紀生)
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