便宜上、「書評」という形にしておくけれど、専門的見地から評価するということではない。大野光明『沖縄闘争の時代1960/70――分断を乗り越える思想と実践』(人文書院、2014年)を読んで、大阪に暮らす一住民として考えたことを記しておきたい。
関西における米軍基地問題への取り組みを特集した『PACE』8号(著者が中心になって編集されている)によって著者が、「大阪沖縄連帯の会」の研究、京都で米軍基地問題について考える「スワロウカフェ」という活動を行っていることを知り大変興味を持っていたところ、『沖縄闘争の時代1960/70』(以下では「本書」と表記し、引用は頁数のみを示す)が出版され早速読んでみた。
本書では、まず沖縄闘争の歴史的背景が示され(1章)、次章以降、以下の事例が論じられる。嘉手納基地前抗議行動、渡航制限撤廃闘争(2章)、大阪沖縄連帯の会(3章)、竹中労(4章)、米兵の反戦運動、沖縄ヤングべ平連(5章)、沖縄青年委員会、沖縄青年同盟(6章)。
初めて知ることも多く大変興味深い。特に興味深いのは、泉州繊維産業で働く中卒者のためにつくられた隔週定時制高校で、地元大阪のことながらまったく知らなかった。沖縄や九州など西日本出身者を中心とする中卒の若者が泉州繊維産業で働きながら、隔週定時制高校に通った。昼間に働き夜間に授業がある週と、勤務がメインの週が交互にくるカリキュラムであったが、残業で授業に出られないこともあり、中退者は少なくなかった(3章参照)。
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1969年の「2・4ゼネスト」に関して、タイへのB52移駐を理由としたゼネスト中止を沖縄青年委員会が「民族主義的エゴイズム」であると批判したという指摘(6章参照)は、非常に重要であると思う。来阪したチャモロ・ネーション(グアム先住民族団体)の方が、普天間基地のグアム移転に反対していたことを思い出した。
拙著『辺野古の海をまもる人たち――大阪の米軍基地反対行動』(東方出版、2009年)では、日本(ヤマト)と沖縄の歴史的関係の重要性を強調して論じたが、米軍基地問題は日本、沖縄だけではなく、米国をはじめ、とりわけ「沖縄闘争の時代」においてはベトナムとの関係が重要であることは著者が論じているとおりである。
著者は、つぎのように述べている(21頁)。
ともすると、社会運動のナショナリズム批判や自己中心主義批判は、紋切り型となる。本書は、マイノリティをめぐる批判を受け止めつつも、沖縄闘争における共闘や対立の実相を精緻に読み解くことを大切にしたい。沖縄・日本・海外の運動が連帯を求め、時に対立しあう、そのような関係性の複雑な実相を、内在的に読み解いていく必要があるだろう。
かつて、カルチュラル・スタディーズの研究会で尊敬する研究者に、私が「沖縄の基地問題についての修士論文を書いています」と言うと、いろんなひとが沖縄に関わって傷ついているからね……といったことを言われたように記憶している。ポジショナリティ(立場性)批判を念頭に言われていたと思う。
本書における著者の意図は、おそらくこのことにつながるものだろうし、副題である「分断を乗り越える思想と実践」もそうなのだろう。
「沖縄闘争は、沖縄問題を〈沖縄の人々が抱えている、あの島=沖縄で起きている問題〉として切り縮める力学に抵抗し、暴力や忘却とともに維持されている境界線を問い、越えようと試みていた。そして、出会いと交流のなかで、人々は当事者性を獲得し、分断されていた者たちの新たな共同性をつくりだそうとしていたのである」(286−287頁)とも述べられている。
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本書を読み最も驚いたことは、米軍基地問題を訴える沖縄に応えない日本を『無意識の植民地主義』(野村浩也、御茶の水書房、2005年)、『シランフーナー(知らんふり)の暴力』(知念ウシ、未来社、2013年)と批判する議論にまったく触れていないことである。参考文献にも挙げられていない。
1960、70年代について述べた書籍であるから、それ以降の議論に触れないのかとも思われたが、近年の著作にも触れている。
著者は、「本土/沖縄の二分法」に対する田仲康博の危惧(「方法としての沖縄」岩渕功一ほか編『沖縄に立ちすくむ』せりか書房、2004年)を引用している。一部をここに示す。
「私が危惧するのは、ある者を〈当事者―非当事者〉の軸にそって名ざす行為がかえってお互いの距離を生み出し、自らを関係性の外部に置くことにつながらないか、ということだ」(102頁)。
このように著者は「本土/沖縄の二分法」に否定的であると考えられるが、「本土/沖縄の二分法」を論じるならば、日本(ヤマト)に対する代表的批判者である野村たちについても触れるべきではないだろうか。周知の事実であるから触れる必要はないという判断かもしれないが、やはり触れない場合も、その理由を明記するべきではないだろうか。
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私自身、以前から「分断を乗り越える思想と実践」の必要性を感じていたこともあって、本書で紹介されている事例に惹かれる面もある一方、疑問が残る記述もあった。
2章では、沖縄側の運動との連携を欠いたベ平連メンバーたちが、嘉手納基地前抗議行動(1968年)により逮捕され、沖縄側から批判されたことを論じ、著者はつぎのように述べている(99頁)。
この取り組みは、沖縄問題をめぐる沖縄と本土というやっかいな二分法の構造を照らし出している。二分法の構造において、沖縄の人々を当事者へ、本土の人々を支援者へと倫理的に振り分けながら、本土から沖縄への直接的な介入は相対的に否定され、その一方で、「自分とは何か」という自己反省的な自己構築の作業がせりあがっていく。〈当事者=沖縄〉という善意による前提が、逆説的に、人々の豊かな取り組みの可能性を切り縮めてしまう力学を確認できるだろう。
著者の問題提起は理解できないこともないが、本当にこの評価で良いのだろうか。私が辺野古の基地建設反対運動に関わる人たちの話を聞き印象に残ったのは、「本土」からやってきた「活動家」の善意の暴力性である。基地をめぐって地域社会が複雑に引き裂かれるなかで、民家の前で拡声器を使って基地反対を訴える者もいたという。
私は、沖縄と日本(ヤマト)の立場の違いをふまえて関わることが重要ではないかと考えている(詳しくは『辺野古の海をまもる人たち』収録の論考「『自分の問題』として辺野古に関わること」で論じたので参照してほしい)。
新川明のつぎの言葉は、沖縄と日本の関わりを考える際に重要な示唆を与えてくれる。「『本土と沖縄の連帯』という言葉が、既成左翼、新左翼を問わず、いまほど氾濫している時もありませんが、私はその言葉(連帯)をそのように、相互の独自性を頑固に守りつつ、なお基底の方で相互の信頼関係を失わない“強固と柔軟”によって成り立つ概念として考えるのです」(新川明『反国家の兇区』現代評論社、1971年、42頁)。
沖縄と日本のあいだには境界がある。このことを認めたうえで、適切な関わりを模索することが重要ではないだろうか(念のために付記するが、沖縄の反対運動に対する日本からの関わりを不当な介入として全面的に否定するということではない。地元住民の意向を尊重する観点から辺野古の外の社会運動をネガティブに評価する社会学者の議論も見られるが、社会運動が政府の基地政策に対する反作用であることが十分に認識されていない)。
4章では、竹中労による島唄翻訳が「改造」「迷訳」であるとの指摘について、「本章で検討しているのは、竹中の唄の解釈が正しいか誤っているか、という位相ではなく、もはや竹中の手を離れて、唄が人々の情念を引き出し、『正しさ』によらない政治性を生み出していくプロセスである」(184頁)というのも分かりにくい。「唄は紹介され、歌われたときから、企画者や唄い手から離れ、人々によって受容され、何らかの変化を呼び起こす」(175頁)ものであったとしても、そうであるからこそ翻訳は慎重になされるべきではないのか。
1章で運動歌「沖縄を返せ」が紹介されているが、なぜこの歌詞のナショナリズムや「沖縄に返せ」と歌い替えられたことには触れないのだろうか(周知のことだからなのだろうか)。
独立論から島唄論そして汎アジア窮民革命論へという竹中の変遷は、「政治を豊かに拡張していくこと」(181頁)と評価できるのだろうか、それとも時勢と読者の関心の移り変わりに対応したものなのか、あるいはその両方なのだろうか。もちろん、「政治を豊かに拡張していくこと」と読み込むこと自体が一つの「政治」であり、意義のあることではある。
6章では、東京タワージャックを行った富村順一の裁判支援に際して、特別弁護人として瀬長亀次郎を要請したいという富村の希望を海邦派が認めなかったことが紹介されている(279頁)。富村の当事者性はどのように考えられているのか、海邦派はなぜ富村を指導する立場にあると考えられるのだろうか。
復帰によって米兵による人権侵害を抑制する期待が復帰運動にはあっただろうし、実際にある程度は達成されただろう。瀬長を要請する富村を指導するという点に、海邦派の一種の限界があったのではないかとも思われる。
1971年の「沖縄国会」で爆竹を鳴らし逮捕された沖縄青年同盟のメンバーは、裁判においてウチナーグチ(沖縄語)を使用した。なぜ彼らは日本語で主張することで日本の裁判官との「分断を乗り越える」試みをしなかったのか。ウチナーグチで分断を明示する必要があったのだろうか。
「沖縄青年同盟の国会行動を支持する会」の発起人に無着成恭が名を連ねていることなど、学ぶことも多かった。
感想を書き連ねたが、理解不足の点もあるだろうから、その点はご容赦いただきたい。
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本書の帯には、「沖縄/日本/アメリカという分断を乗り越えようとした豊穣な思想性を、膨大な資料から丹念に拾い上げる。……沖縄問題を、あの島の問題ではなく、私たちが生きるいまこの場所の問題へと転換する、新鋭による歴史社会学の熱き労作」と記されている。
私も同感であるが、昨今の状況は違う考えを去来させもする。
2013年1月27日、普天間基地へのオスプレイ(垂直離着陸輸送機)配備撤回、普天間基地の県内移設反対を訴えるため、沖縄の全41市町村の首長は東京で集会を開き、デモ行進を行った。彼らを待ち構えていたのは、日の丸を掲げ沖縄の首長たちに罵声を浴びせる日本の市民たちであった。首長たちは安倍首相への面会を求めたが、首相は面会しなかった。
先に述べたように、米軍基地問題を訴える沖縄に応えない日本には、「無意識の植民地主義」があり、「シランフーナー(知らんふり)の暴力」を行使しているという批判がなされてきたが、東京で沖縄の首長たちを待ち構えていたのは、無意識でも、知らんふりでもない、明確な敵意と憎悪を表明する示威行動であった。
近年は辺野古のテント村や、「辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動」の街頭アピールに対しても露骨な妨害行動が「一般市民」によってなされるようになった。米軍基地の集中は沖縄には悪いけど仕方がない、という認識どころではなく、米軍基地に反対する者は「売国奴」として罵られ、この国での存在を許されなくなってきている。
沖縄出身者に対しても投げ掛けられる「在日は出ていけ!」という言葉に暗澹たる気分になり、彼らは一体どんな世界観を持ち、何を根拠に「在日認定」するのだろうと不思議にも思う。日本国籍者に対しても何の躊躇いもなく「在日認定」している印象があるが(天皇でさえ「在日」と言われている)、彼らにとっての「在日」とは彼らが思うところの「日本人」以外の存在であるから、その国籍やルーツは関係ないのだろうか。反原発や「従軍慰安婦」問題などを訴える活動に対しても妨害行動がなされている。
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沖縄では琉球民族独立総合研究学会が2013年に設立され、改めて独立が模索され始めている。松島泰勝『琉球独立論――琉球民族のマニフェスト』(バジリコ、2014年)も話題になっている。独立の希求は一部に留まっているとはいえ、米軍基地の集中は差別であるとの認識が沖縄で広まっているという報道もあった。
基地撤去のための分断を超えた連帯ではなく、日本と袂を分かつことが最適解として浮上してきている。
2004年8月2日から毎週土曜にJR大阪駅前で街頭アピールを続けてきた「辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動」(以下、「大阪行動」と表記)の活動期間は10年を超え、大きな転機を迎えている。
大阪行動が絶えず確認してきたことは、運動として継続することに意味があるのではなく、1日も早く沖縄の苦難を取り除き運動を終結させなければならないということであった。
社会運動史において、沖縄以外の地で沖縄の米軍基地建設反対運動が毎週10年間継続されてきたことは特筆すべきことであるが、それは大阪行動にとって挫折でもある。これまでの取り組みでは不十分なのではないか、沖縄の米軍基地を誘致しなければならないのではないかという意見も出てくることになった。
私は米軍基地の誘致について、1)「本土移設」する場合も結局は過疎地域に押しつけられることになるのではないか、2)日米軍事再編に棹差す結果になるのではないか、3)軍備縮小につながらない、といった理由から賛同できないが、10年間真剣に取り組んできた人に「では、どうするのか?」と問われるとき、応える言葉を持ち合わせていない。
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話を『沖縄闘争の時代1960/70』に戻そう。
沖縄闘争の時代において、分断を乗り越えようとする思想と実践は、著者が描くように魅力的なものであった。
著者は、ベトナム反戦運動にともに取り組んだ沖縄ヤングベ平連のメンバーと黒人兵の間には、「『痛み』のヴァイブレーション」があったと言う。
「基地・軍隊に抗する身振りとしてのダンス。コザの町の片隅で密かに繰り広げられたダンスと踊る人々が確かに感じ合ったヴァイブレーションは、未発の政治を模索し続ける者たちの、決して終らぬ営みであったのではないだろうか」(230頁)。
「未発の政治」。それを社会運動から描き出すことは一種の文学だ。私たちは、竹中労が愛した島唄や、沖縄青年同盟のウチナーグチに、「未発の政治」を聞き取ることができるだろう。
これまでに多くの歴史研究が「未発の政治」を発見してきた。では、「未発の政治」は、いつ発現するのか。研究と運動は同一ではないとはいえ、沖縄の運命を左右する知事選を来月に控え、「未発の政治」を発見する研究には何ができるのか。混迷する運動現場の参考となる方向性を示唆することはできるのか。不発の政治に終わることはないのか。
著者は、「沖縄闘争は、今を生きる私たち一人一人に創意工夫に満ちた営みを創造しようと呼びかけているはずだ」(290頁)と言う。著者は研究者であるだけでなく、運動参加者の一人でもある。
より深い断絶を前にして、私たちにはどんな創意工夫ができるのだろう。
研究―運動、夢想すること―行動することは、どのようにつながるのだろう。
著者の考えをもっと聞いてみたい。
(2014年10月記)
2014年11月16日の沖縄県知事選挙は、辺野古の米軍基地建設に反対する翁長雄志・前那覇市長が当選した。当選翌日の朝日新聞朝刊1面には「本土の『差別』に怒り」「沖縄に押しつけ、沖縄を切り捨て、沖縄を忘れる。私たちの政府、そして本土が、敗れたのである」と書かれている。これまでに何度も語られてきたことであるような気もするけれど、全国紙の1面にこのような言葉が載ることに意味があるだろう。
最後に、NHKによる当選直後の翁長新知事へのインタビューを書き起こしておく。
NHK記者
「翁長さん、今おっしゃったように名護市辺野古への移設を明確に反対してらっしゃいます。一方で普天間基地の危険性をどう早期に除去するのかという課題もあると思うんですが、これについてはどのように取り組んでいかれるおつもりでしょうか?」
翁長新知事
「沖縄の基地は、戦後1回も自分たちから『どうぞ造ってください』と言った基地はないんですね。全部、米軍の『銃剣とブルドーザー』で造られて今日に至っているんです。
それで普天間基地の除去をするときに、『沖縄側で案を出せ』などと言うのはですね、私はやっぱり政府あるいは本土の皆さん方がですね、沖縄に対する思いが足りないのではないか。普天間が世界一危険であると言うならば、日本国民全体で日本の安全保障を考え、負担をしていただきたい。
海を埋め立てて基地ができますと、また50年、100年、沖縄に基地が置かれることになります。沖縄を代表する政治家は、沖縄の子どもたちが安心・安全で、そしてふるさと沖縄に誇りを持てるようにすることが仕事だと思っておりますので、普天間基地は県外・国外に持っていってもらいたい。」
(2014年11月追記)
★プロフィール★
田中佑弥(たなか・ゆうや)1982年生まれ、大阪市在住。編著書に『辺野古の海をまもる人たち――大阪の米軍基地反対行動』(東方出版、2009年)がある。関西大学生活協同組合が発行する『書評』に2つの論考を掲載。「米軍基地を誘致するか、それとも撤去するか――『普天間移設』についての私の問題設定」(133号)、「当事者性のポリティクス――原発・米軍基地問題に関連しての覚書」(136号)。
Web評論誌「コーラ」24号(2014.12.15)
<書評>「未発の政治」は、いつ発現するのか――『沖縄闘争の時代1960/70』を読んで考えたこと(田中佑弥)
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