前回(連載第八回、本誌26号)、「怪談の解釈学の目指すものは、体験を語る物語の類型が語られた体験に与える影響を、民話学などを参考にしながら中和し、「よくある話」「よく似た物語」から体験の異様さを救出することにある」と大見得を切った。大見得を切るところまではよかったが、そこからが難所である。私自身、それではどうしたら体験の異様さを取り出せるのか、正直言って考えあぐねている。ここからは手探りで考えることになるので、多少の論理の飛躍はこれまで以上にご容赦願いたい。
よく聞くよく似た話――タクシー幽霊
体験談とは体験者の視点で再構成された物語であるということ自体は、これまでもよく知られていた。そこで、体験者の語る物語を通して出来事に迫ろうとする試みは、多くの場合、物語から体験者(語り手)の関与の度合いをできるだけ薄めることで出来事の客観的な描写に近づけるだろうという見通しのもとに行われてきた。つまり、物語のなかの体験者(語り手)の意志や感情に影響されやすい部分を排除し、また、第三者の視点に立っても物語の全体像に変化がないかどうかをチェックするというやり方だ。
しかし、注意すべきなのは、出来事を再構成する体験者の主観性ではなく、物語の方なのではないか。
例として、「消える乗客」あるいは「タクシー幽霊」とも総称される乗り物に乗る幽霊との遭遇談を考えてみよう。
昭和三十七、八年の話。自動車で青山方面から霞町に来る時、墓石の立ち並ぶ青山墓地の中の道路を走る。夜分は人影の全くない暗い淋しい道である。或る時、運転手が仲間の経験談だと言ってこんな話をした。道の途中の墓地に入る横道を指し、此の辺りに白っぽい着物を着た若い女の人が立っていて手をあげ車に乗ると「霞町まで」と云った。運転手が真っ直ぐの道を走り三叉路まで出たので「霞町はどの辺りですか」と言うと返事がない。振りむくとさっきの女の人はいなかった。驚いて車を止め調べると、その座席はびっしょりと水で濡れていたと言う。あの女の人は幽霊だったのであろうか。運転手はガタガタ震え会社に飛んで帰って来た。その後幾度かこの道で別の運転手たちから同じような幽霊の話を聞いた。(松谷みよ子『現代民話考V』立風書房)
これとよく似た話は日本全国にある。海外にもあることが知られている。もちろん話の細部や消えた乗客の行き先などの固有名詞はそれぞれ違うが、よく似た話の数は多い。旧著『東京怪談ディテクション』(希林館1998、現在絶版)でもふれたが、松谷みよ子『現代民話考V偽汽車・船・自動車の笑いと怪談』(立風書房)とブルンヴァン『消えたヒッチハイカー』(新宿書房)とを合わせ読めば、その類話の多さ、分布の広さに、驚きを通り越して呆れかえる人もいるだろう。
各地で実話として語られている「消える乗客」から、体験者の主観性に影響されたと思われる部分を除去したとしても、乗客が突然消えた、という点には変化はない。それどころか、そうした報告が数多くある以上、ある特定の個人の幻想であることはあり得ないということも考えられる。それはそれでよいと思われるかも知れないが、客観性を重視する立場は科学主義と結びついているので、幽霊の存在を認めることを前提にはできない。そこで、走行中の車内から乗客が消える(と運転手に感じられる)という現象がまれに起こるらしい、ということにしかならない。これで何かが説明されたといえるだろうか。
「消える乗客」は地理的に広く分布しているだけではない。次に挙げる話は江戸時代初期にはすでに成立していたと思われる皿屋敷伝説のバリエーションの一つである。
「熊本主理が下女、きくが亡魂の事」(『諸国百物語』より)
(前半のあらすじ 熊本主理という「きわめて人使ひあしき無道心者」が些細な落ち度を咎めて下女きくに惨たらしい拷問をくわえ、きくは「此の恨みは主理一代ならず、七代までは恨み申すべし」と誓って死ぬ。その後、三代にわたり主理の家の主はきくに取り殺された。)
四代めの主理は、松平下総守殿に奉公して、播磨の姫路に居られしが、主理屋敷より、二里ばかり脇にて、かのきく、「馬を借らん」と云ふ。馬子はなに心なく常の人とこころえ、「日暮れなれば、帰りも遠し」とて、貸さざりしかば、「かき増しをとらせん」とて、八拾文の所を、百六拾文の約束して、主理が屋敷に着き、馬より降りて奥にいりぬ。
さて馬子は、「駄賃を給はれ」といへば、下々の者聞きて、「何事を云ふぞ。誰も馬を借りたるものなきが」といへば、「まさしくただ今、女郎衆を乗せ参りたり。是非に駄賃を取らん」と、せり合ひければ、いづこともなく、「いつものきくが乗りて来たるぞ。駄賃百六拾文はらへ」といふ。主理が家老聞きて、銭を払はせけり。それより主理、わづらひ出だし、いろいろきくが恨みどもを口ばしり、七日めに相ひ果てられけると也。四代が間、いろいろと祈祷、祈りをせられけれども、その効験もなく、跡目のある時分には、きく来たりて取り殺しけると也。(高田衛編・校注『江戸怪談集・下』岩波文庫)
タクシーが馬になっているが、物語の基本的な筋立ては同じである。明治時代の話には人力車に乗ったケースもある。
a 乗り物に女が乗ってくる。
b 女は目的地に着くと姿を消す。
c 女はこの世のものではなかった。
これと同じパターンの物語は、どこまでさかのぼれるかはわからないが、歴史的にもかなり古くから語られ続けてきたのではないかと推測される。
お岩という名、お菊という名
さて、同じような話が各地で語り継がれている場合、オリジナルの物語があり、それが語り手や語られる場所に応じて変形されながら伝えられていったと考えるのが一般的である。先に挙げた「熊本主理が下女、きくが亡魂の事」は、消える乗客の近世バージョンであるとともに、皿屋敷の変形バージョンでもあるのだが、その皿屋敷の場合は江戸時代からすでにルーツ探しが始まっており、もっともよく知られている番町(現在の東京都千代田区)の皿屋敷は播州(現在の兵庫県姫路市)の皿屋敷伝説のバリエーションであろうことが言われていた。
しかし、必ずしも、番町か播州かのいずれかを皿屋敷怪談のルーツと定めなくともよいのではないか。
言うまでもなく皿屋敷とは、主に江戸時代の武家屋敷を舞台として語られる伝説で、皿を割った(紛失した)かどで屋敷の主に殺された(井戸に投げ込まれて殺された・殺されてから井戸に捨てられた・責められて井戸に身を投げた)下女の亡霊が、井戸から現れて皿の数を数えるというもの(ヴァリエーションはいくつかある)。秋田・岩手から鹿児島までの日本各地で大同小異の物語がその地で実際にあったこととして伝えられている。伊藤篤『日本の皿屋敷伝説』(海鳥社)には、各地のご当地皿屋敷伝説ゆかりの地として、三十か所以上が挙げられている。
現在、文献で確認できる皿屋敷伝説の古いものは室町時代を背景にしたものである。ここから、オリジナルな伝説が室町時代ごろに誕生して江戸時代初めに各地に伝播したのではないかと考えられてきた。つまり、現在、語り伝えられているもののうち、どれか一つがオリジナルで、ほかはイミテーションだという想定である。
私も旧著『東京怪談ディテクション』(1998、現在絶版)を発表した時点ではそのように考えていたのだが、発行元の厚意に甘えて『江戸怪異異聞録』(絶版)を書かせてもらった時に、オリジナルが変容を繰り返しながら伝播していくというモデルで考えなくてもよいのではないかと思うようになった。きっかけは四谷怪談である。
四谷怪談のヒロインの「お岩」(敬称略)という名は女性名としてはいかつい印象を与えるからだろうか、この名前に特別な意味があるとする説がある。代表的なものが記紀神話に出てくるイワナガヒメにならったものだという説であり、また歌舞伎特有の命名法だという説もある。だが、お岩という名は、江戸時代の女性名としてそれほど珍しいものではなく、意味からすれば強い子に育ってほしいという願いからつけられたものだろう。
お岩が醜かったという伝承について、「お岩」という名前と結びつける人もいる。つまり、お岩とは醜い女に付ける名前であった、というのである。
「お岩」という名は、「岩藤」「岩根御前」など、『古事記』の「石長比売」以来のかたましい女の系譜に名付けられたかぶきの独自な命名法である。『模文画今怪談』にはお岩の名がみえぬが、「いたって悪女なり」とある点に、お岩の名を導き出す素地が窺われる。 (郡司正勝『『東海道四谷怪談 新潮日本古典集成』解説 p421〜p422)
要するに、顔が醜く、性格も意固地で、ちょっと手に負えないキツイ女の名前は「岩」と相場が決まっていたというのだ。郡司はさらに「お岩の名は、かぶきでは夫に裏切られるか、夫を裏切る人物の名であった」として、「岩」という名前は物語の中で伊右衛門の妻が演じるキャラクターから連想してつけられた役名であることを強調している。
また、『日本伝奇伝説大事典』(角川書店)の「お岩」の項(小池章太郎執筆 p165〜166)には、「お岩という名は南北の芝居に始まったとみてよかろう」とした上で次のような記述がある。
なお南北の息子直江屋重兵衛は、南北の作劇の協力者であり、深川櫓下に妓楼を営んでいたが、文政後期刊の岡場所細見『辰巳の花』の「なおゑや」の条に娼妓筆頭として「いわ」の名が記載されているのが注目される。
南北が新作のヒロインの名前を息子の店で抱えている娼妓からとったと想像するのもおもしろいが、娼妓筆頭に「いわ」の名前があったというのは、歌舞伎の世界ではいざ知らず、現実社会ではイワという名は、不細工で性格の悪い女の名前とは限らなかったことを示してもいる。親父の芝居に出てくる化け物のような女がナンバー・ワン・ホステスでは、息子の店はつぶれていたろう。
しかし、郡司説も小池の連想も、いずれも南北の「芝居」を基準にしてなされた推測であり、成立年代は不明であるにせよ、南北の芝居に先立つことは確かな『四ッ谷雑談集』を基準にすれば、お岩は初めからお岩である。
そもそも、岩という名前は女性の名前としてそれほど珍しいものではなかった。私の年長の知人(60代)のお母上の名も「いわ」さんだそうだ。
ちなみに、馬場文耕の『武野俗談』(宝暦七年)には「烏お岩」という女性が出てくる。このお岩は根津川島屋の遊女で、烏の絵のついたものを好んだため烏お岩と呼ばれたという。書道が得意(「烏石と名乗つて筆道に名高きものあり」)で、親孝行な女性だったそうである。
ともあれ、「お岩」という名に特別の意味はない。あるとすれば、江戸時代の四谷に、そういう名の女性が実際に住んでいたということだけである。それでは「皿屋敷」の場合はどうだろうか。
皿屋敷のヒロインの名は、一つに決まっているわけではなく、地域によっては別の呼び名もあるが、もっともポヒュラーなのはやはり「お菊」である。このお菊という名についても、あの世からの言づてを「聞く」から転じたもので、つまり彼女の元型は巫女だとする説もある。しかし、お菊という名前も江戸時代の女性名としてはありふれた名前で、それが巫女的性格を持つ女性の呼び名であるとするにはそれなりの理由がなければならない。
お菊がありふれた名前であるなら、菊と名乗る、あるいはお菊と呼ばれた下女は何人もいただろう。皿は落とせば割れるものである。武家屋敷に井戸は必ずあった。お菊、皿、井戸の取り合わせは、武家屋敷の集中する城下町でならどこでも成立しうる、すくなくともそういう条件が整っていた。そうだとすれば、江戸番町なり播州姫路なりがことさら特別なわけがない。番町と播州が皿屋敷の本家争いをするほど有名になったのは、もっぱら芝居や講談の影響だろう。
このように考えてくると、全国各地の皿屋敷のうち、どこかが本家で、ほかはにせものと決める必要のないことに気がついた。
よく似た物語は同じ物語か
いくつも似たような物語がある場合、それらはすべてもともと同じ物語が複数の人に伝承されていく過程で変形したバリエーションであると結論してよいのだろうか。
よい場合もあればそうでない場合もあるというのが私の主張である。その仮定にもとづいてさまざまな話を比較検討することで生産的な研究が行われるのであれば、それは有益な作業仮説とみなすことができる。
しかし、あまたある怪異体験談にその作業仮説を無批判に当てはめるならば、それは怪異体験談の話者を嘘つき呼ばわりすることになる。それは可能か。私は不可能だと考える。
試みに、企業に勤める営業マンの昼休みの過ごし方について百人程度の会社員からアンケートを採ってみるがよい。そのかなりの部分が固有名詞を伏せればいくつかの似たような話に分類できるに違いない。似たような話は同じ話なのだろうか。似たような昼休みの過ごし方をしている営業マンたちは同じ人物なのだろうか。
もちろん、すべての「タクシー幽霊」怪談が現実に起こったことだと考えているわけではない。それどころか、タクシー業界の内部でこの種の話が現実感をもって語られることの方が少ないのではないかとすら思われる情報も得た。
あるタクシー・ドライバーの話によれば、そうした話はよく聞かされるが仲間の誰某の身の上に現実に起こった話としては聞いたことがないという。また、大手タクシー会社の総務課係長によれば、彼は乗客とのトラブル、とくに料金の不払い問題を処理する仕事を担当しており、現場の運転手からさまざまな情報がもたらされるが、たとえ言い訳にしろ幽霊に料金を踏み倒されたという話は聞いたことがないという。同係長は「相手が幽霊であろうと運賃は請求する」と豪語していた。
だから伝えられるとおりの出来事がすべて現実に起こっているとは考えにくい。しかし、それにもかかわらずほとんど同じといってよいくらいによく似た物語が繰り返し語られる。その理由は、それぞれの物語の語り手(体験者)たちが置かれている状況(タクシーの深夜勤務)がよく似ていたため、個々の体験の内実は違っていても、何かしら不可解な体験をした際に、その不可解さを吸収できる強い力を持った物語の枠組みを無意識のうちに利用したのではないだろうか。
誤解を恐れずにいえば、ある種の物語の枠組みには、多くの人々のそれぞれ異なった体験をほぼ同じ事柄として吸収する力があるのではないか。とはいえ物語がそれを物語る人間を離れて存在するわけではない。だから、物語に体験を吸収する力があるというのはものの喩えでしかない。しかし、そうした喩えがふさわしいと思えるほど似たような物語が体験談として語られている。
タクシー幽霊に限らず、怪異体験談は、それが体験談であるかぎり、それぞれ異なる体験者がそれぞれ異なる出来事を体験したはずだ。それにもかかわらずによく似た物語として語られてしまったのなら、物語るという行為のなかに異なる体験を似かよわせる何かがあると仮定して考える方が自然である。
私は、似たような物語はオリジナルの物語のバリエーションに過ぎないという仮説は、実は一部の民俗学者の経験則による作業仮説ではないかと考えている。もちろん、だから意味がないというのではない。多くの物語を集めてみると、その中に似かよった話が多数見つかるのは事実であり、かつ、人間の文化はそれを営む諸社会集団の移動と交渉によって伝えられることは無理なく想像できるから、オリジナルが伝えられるうちに変形して多くの地域でバリエーションとして残るという仮説にいたるのは自然とすらいえる。
しかし、出来事としては個別の事柄が、同じ構造を持った物語の枠組みで語られることによって、似たような体験談になる。出来事を語る語り方の枠組みを物語の類型と呼ぶとすれば、文化の交流・伝播とともに伝えられたのは、物語の内容ではなく、物語の類型の方だった、ということも作業仮説として有効ではないだろうか。
異なる人による異なる体験であっても同じ物語の類型をもって語られた体験談は似たような話になる。同じ人による同じ体験であっても異なる物語の類型をもって語られれば違う話になる。これは仮説ではなくて事実である。
★プロフィール★
広坂朋信(ひろさか・とものぶ)1963年、東京生れ。編集者・ライター。著書に『実録四谷怪談 現代語訳『四ッ谷雑談集』』、『東京怪談ディテクション』、『怪談の解釈学』など。 ブログ「恐妻家の献立表」
Web評論誌「コーラ」31号(2017.04.15)
<心霊現象の解釈学>第9回:よく似た物語は同じ物語か―─怪談の発生と伝播について(広坂朋信)
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