Web評論誌「コーラ」45号/<心霊現象の解釈学>第22回:バーチャンリアリティ

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Web評論誌「コーラ」
43号(2021/04/15)

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君は嘗て幽霊を見たことがあるか?「いや、僕は見ないが、僕のおばあさんが見た。」 そらどうだね、僕もやはりその通りだよ。僕自身はまだ一度も見たことはないが、僕の祖母さんは始終ふだんにそれに出会っている、そして僕等は、僕等の祖母さんの正直に対する信頼から、幽霊の存在を信じている。(スティルネル著・草間平作訳『唯一者とその所有 上巻』岩波文庫、48頁。引用にあたり仮名遣いはあらためた。)
 幽霊・亡霊・死霊(生霊)とは亡くなった人(そこにいるはずのない人)の幻であるというのが私の定義である。しかし、幻とはどういうものなのか。日常の知覚とはどう違うのか。
 亡くなった人の姿が見える(幻視)、と、亡くなった人の声が聞こえる(幻聴)、とでは、いずれも私の定義からは幽霊になるはずなのだが、両者の間にはやや違いがあるようだ。拙速を省みずに言えば、幻視の方が重んじられて幻聴は軽んじられる傾向があるように思う。霊感があると自称する人のことを「視える人」などという場合があるように、幽霊と言えば見たかどうかが話題になる。これは私たちの社会が視覚優位で組み立てられていることと関係があるのだろう。このことは重大な問題を含んでいるかもしれないが、今回は便宜上、視覚における幻を題材にする。
 さて、幽霊の姿のイメージ、見え方といえば、絵画などでは丸山応挙の幽霊図などに代表されるように、薄ぼんやりとした半透明の姿で描かれることがある。手元にある『全生庵蔵・三遊亭円朝コレクション 幽霊画集』(全生庵、2000)をながめても、そのほとんどが下半身の透けて消えかかった、おぼろげな姿として描かれる。海外の例については詳しくないのだが、アメリカ映画の『キャスパー』のゴーストや『ハリー・ポッター』シリーズに登場する嘆きのマートルはやはり半透明のイメージで描かれていた。
 しかしながら、実際に見たという人の話を聞くと、こうした絵画や映画で描かれるような半透明のイメージだったということはほとんどない。突然現れたり消えたりしなければ、その姿は生きている人の姿と変らないものとして語られる場合が多い。
 それでは、経験に直接与えられたものとしての幽霊、立ち現われとしての幽霊とはどのようなものか。これは実際に見た人の話を聞いてみる他ないが、欲を言えば、その人が幽霊を見ている場面を観察する第三者の報告もあることが望ましい。そうでなければ、錯覚(別の物の見まちがい)と幻覚の区別がつかないからである。幸い、この条件に好適な事例を間近で観察することができたのでここに報告する。今回登場してもらうのは今91歳、年が明ければ満92歳になる私の母である。以下、老母91と呼称する。
 
■老母91のプロフィール
 老母91は四年前の7月に夫(私の父)と死別して以来、都内の団地の一室で一人暮らし。夫の葬儀の一週間後に自宅で転倒して近所の大学病院に救急搬送され、精密検査でパーキンソン病が見つかったためリハビリも含めて三か月入院し、退院後も一人暮らしを続けてきた。
 以来、週に四回、長男(私)が訪問するほか、日常の買い物や洗濯、食事の用意などはヘルパーさんに助けてもらいながら、リハビリのために近所の高齢者包括支援施設(いわゆる老人ホーム)のデイサービスに出かけるなどして、しばらくの間は気ままな老後を過ごしていた。だが、今年の春ごろから深夜に長男宅に電話をかけてきたり日にちや曜日がわからなくなったりするようになった。すぐさま認知症が疑われ、病院で検査してもらったが、脳は歳相応に衰えているけれども顕著な問題は見つからず、主治医からは「お歳のわりにお元気ですね」と言われて帰された。
 それからも、今思えば笑い話のような珍騒動は時折ありながらも、なんとか小康状態を保ってきたが今年の6月に突如として昏睡した。
6月8日のことである。近所の高齢者包括支援施設のデイサービスに出かけた老母91が眠り込んだまま目を覚まさないと施設から私の携帯電話に連絡が入った。血圧は正常で命に別状のある様子ではないらしい。しかし、いびきをかいて眠り込んだままいくら声をかけても目が覚めない、また瞳孔に光を当てても反応がないのだという。妻ともども、仕事を放り出して急行する。
 大学病院に救急搬送されて精密検査。しかし、脳にも内蔵にもこれといった問題は見つからず、診察してくれた医師から「お歳のわりにお元気ですね」と言われて帰宅することになった。意識を取り戻した老母91は息子夫婦が付き添っているのがうれしかったのか上機嫌で「美味しいものを食べて帰ろう」と言って、近所のファミレスでちゃんぽんを食べて帰宅し、すやすやと寝入った。
 この日は、瞳孔に反応がないと言われて肝を冷やしたが、またもや「お歳のわりにお元気ですね」って言われちゃったよ、と笑い話のタネになるだけですんだ。しかし、この日を境に老母91が幻覚を見る頻度が高くなっていく。
 以下にお目にかけるのは、たわむれにバーチャンリアリティと名づけて書きとめておいた老母91の幻覚についてのほぼリアルタイムの記録に若干の補足を加筆したものである。
 
■お父さんはそこにいる
6月11日
今朝の老母91は自力で起きて電話をかけてきた。早起きだねと言うと、「お父さんが9時15分に病院に行くから起こしてくれと言ってたのにお父さんがいないの、どこ行っちゃったのかしら」とのこと。昼食後も、お父さんが出かけて帰らないと言っている。4年前に死んじゃったとは今日は言わないでおく。
 
6月12日
父の墓参りに行く相談をした直後、「お父さんがいない」という母、夕食の支度が出来たというと「お父さんを起こしてくる」という。父は亡くなった、それはわかっているが、今も母と暮らしていながら姿を見せない「お父さん」がいるらしい。「三人で一緒にご飯を食べたじゃないの」と言う。
 
6月14日
(訪問看護師さんのメモより)「夫が朝帰って来ない、息子と夫といたんだけど」と繰り返し話していた。
 
6月17日
新型コロナの予防注射の日。市民センターで予防注射と話していたのに「いなげや(スーパーマーケット)で盆踊り」に誤変換されている。「頭がはっきりしない、頭の隅に盆踊りのことが消えない」。
 
6月18日
(ヘルパーさんのメモより)トイレからベッドに戻る途中、「主人がいない、いるはずなのに」。幻覚を見ているようです。
 
6月20日
車椅子に乗せて美容室に。途中で「私は急に歳をとるかもしれない」と言う。帰宅後、遅い昼食をとりながら祖母(本人の母)の食事の心配を始める。ずっと前に亡くなったでしょ、と言っても、都内の団地の一室が秋田県の実家とつながっているようで、「隣の部屋で寝ているから」と言う。
 
6月26日
「仏壇の前に雀が飛んでいる」としきりに言う。視線はしっかり仏壇の方(本人から見て左前方)を見すえており、確かに見えている様子。仏壇の前に手をかざして、ホラいないでしょ?というと「アレほんとだ、どこに行ったのかしら」と首をかしげる。
 
6月27日
今日のバーチャンリアリティ、「どうしてなのか、不思議なの。どうしてお父さんがいるように思うのだろう。」
お母さん、それは僕の方が不思議だよ。お父さんは四年前亡くなったでしょう、お葬式もした、お墓参りもしたよ。
「それはわかっているけど、だって、そこにいるんだもの」。
 
6月29日
主治医による診察。バーチャンリアリティに名前がついた。Lewy小体型認知症。まだ大丈夫だと思うが、今のうちにいろいろ準備しておくように、とのこと。
※ 主治医の話によると、Lewy小体型認知症とはパーキンソン病が進行すると現れるもので、はっきりとした幻覚が見えるものらしい。雀が飛ぶ前に虫が見えなかったか?と医師から尋ねられる。そう言えば、虫がいると言っていたことが何度かあったけれども初夏の季節だったので、外から虫が入ってきたのだろうとあまり気に留めていなかった。それでもあまり繰り返すので殺虫剤を買ってきたり、虫よけを窓際に吊るしたりした。あれは幻覚だったのか。また、急激に眠りこむこと、亡くなった家族の姿が見えることも特徴的な症状だそうだ。「どうしたらいいでしょう?」と尋ねると「介護するご家族としては、実害のない限りあまり気にしないことです。本人にははっきり見えているので否定しても仕方がない」とのこと。父の幻については「仲のよいご夫婦だったのでしょうね(笑い)」と。それを聞いた老母91は満足そうに微笑んだ。
 
■幻の「坊や」登場
7月7日
老母91から電話「お父さんが病院に入院しているって、お見舞いに行きましょう」。
(ヘルパーさんのメモより)「ご主人がどこへ行ったかと探していらっしゃいます。入院していると思われている様子」。
 
7月7日
(ヘルパーさんのメモより)ヘルパーさんを自分の妹と間違える。また「今そこから誰かが顔を出しているともおっしゃいました。見えている様子」。
 
7月11日
今日のバーチャンリアリティ、「私もお墓参りに行ってお父さんに出てきてもらう」。明後日は父の命日だが、母はもう歩けなくなったので私一人で行く予定。
 
7月17日
ケアマネージャーから電話、要するに看護師さんとヘルパーさんから老母91の在宅介護はもう限界だと引導を渡された。パーキンソンと認知症がこの1ヶ月で急激に悪化した。先月の診察ではまだ大丈夫とのことだったが医師の予想を上回っている。さあ困った。
 
7月20日
今日のバーチャンリアリティ、台所で食事中、左背後を指して「お父さんがいる、お父さんにも何か食べるものをあげてちょうだい」。冷蔵庫の方を見つめながら「あれあそこに鶴が飛んでいる」。最初のころは小さな羽虫が飛んでいると言っていたのが、雀になり、ついに鶴になったのか。
 
7月22日
今日のバーチャンリアリティ、「お父さんにきりたんぽ鍋を食べさせたい」、親父死んでるし、いま真夏だし。
 
7月23日
私のことを叔父(母の弟・故人)の名前で呼んでいる。叔父の他にも、早世した母の妹弟たちが部屋の中にいるらしい。
 
7月29日
今日のバーチャンリアリティ、「パンダの食べる笹を持っていかなければいけないから裏山から笹を12本とってきておくれ」。いつからパンダの飼育員になったんだ?
 
8月5日
(ヘルパーさんのメモより)「このところベッドの右の方ばかり向いています。ベッドの右側の柵につかまっています」。
 
8月7日
「お父さんに弁当を作る」と言って起き上がろうとする。このころはもう立ち上がれなくなっていたので制止する。
 
8月8日
ベッドの右側を見て「あれ、坊やがいる。」え?「そこにつかまってこっちを見てる。」ベッドの右側はすぐに押入れの戸で人が立ち入るのは難しい上、そばにいた私には何も見えない。「坊や、また来てね」「また来てね」と手をふる。今日のバーチャンリアリティ。
* 以来この「坊や」はしばしば現れ、その姿が見えないと老母91はベッドから手を伸ばして押入れの戸を開けて「坊や」を探すようになったが、私の手帖にその記録は少ない。それというのも、私がこの「坊や」のことを、子どもに恵まれなかった息子夫婦への嫌みのように感じて無視または否定したからである。
 
8月16日
寝入り端に面白い夢を見ていたところ老母91からの電話で起こされた。「お父さんからお米をといでおいてくれっていわれた」、真夜中にそんなこと言う人はいません。お盆だから?
 
■「あたしホントに死んでるのかしら?」
8月19日
今日のバーチャンリアリティ、夕食後「早く火葬にして」ええっ?まだ生きてるんだよ?ご飯も食べてるし。「そうは言っても早く火葬にしてもらわないと生きた心地がしない」、わからん、母よ、あなたの言っていることが息子にはわからん。
 
8月20日
(ヘルパーさんのメモより)「「お父さんの食事、台所のテーブルに用意してある」と言われていました。」
 
8月22日
今日のバーチャンリアリティ。「私のお骨はいつ納骨するの?」、はあ?これからお昼だよ!「だって火葬したらお骨になるんでしょう」、お昼ごはん要らないの?お骨はご飯食べないでしょ。「お昼は食べる」わからん。「あたしホントに死んでるのかしら?」わからん。
午後は安楽椅子で昼寝、(私には見えない)「坊や」が遊びに来ているらしい。
 
8月25日
自宅で昏睡。ヘルパーさんからの連絡で実家に急行。訪問看護師さんも駆けつけて、やはり瞳孔反応がないので救急搬送。今回も精密検査の結果問題はなし。「お歳の割にお元気ですね」という医師の決まり文句をまた聞くことになる。
 
8月26日
老母91今日は安定、午後から元気にバーチャンリアリティ「火葬の手続きはすんだのかい?私は死んでいるのだろう?」と言いながらちらし寿司とフルーツサンドを食べて「長生きしたいねえ」。
 
8月28日
今日のバーチャンリアリティ。「納骨だったのに親戚が少なくて淋しかった。」親父の納骨にはみなさん来てくれたよ。「違うの、私の納骨」、ええっ、どんな夢見てるの?
 
9月1日
訪問看護師さん「今日はご気分はいかがですか?」、老母91「今日は私の納骨の日」。心配されちゃったじゃないか、やめてくれよ。生きてる人が自分の納骨なんて言わないでしょ、「私も変だなとは思うのだけれども」、変だよ!
 
9月3日
(ヘルパーさんのメモより)「「目の前の箱があいている」とおっしゃっていました」。
 
9月8日
(訪問看護師さんのメモより)「最近、自分が亡くなっている感覚があるようで「納骨に行く」「何で火葬されたのにこうやっているのか」など気分が落ち込み気味です」。
 
9月9日
今日のバーチャンリアリティ「保険会社に(自分の)死亡届を出さなきゃいけない」。メロンを食べながら。死んだ人はメロンを食べないよ、要らないの?「メロンは食べる」。
 
9月13日
訪問看護師さんから聞いたバーチャンリアリティ。爪を切ってもらって、「ああ、きれいになってよかった、これであの世に行ける」。看護師さんはすかさず「まだ早いです」と言ってくださったそう。この調子じゃヘルパーさんにも言ってるな(後日尋ねてみたら、しょっちゅう言っていたらしい)。
 
■六畳間は人でいっぱい
9月22日
今日のバーチャンリアリティ、墓参りに行って帰りにカニの缶詰を買ってきたらしい。我が家の墓のある雑司ヶ谷霊園の帰りに池袋のデパートで買い物した思い出があったのだろうか。
 
10月3日
老母91故郷の家にいるつもりになって、畑を見に行くと言って起き上がろうとする。無理なんだけれど。
ここは東京だ、と説教する。危ないので放っておくわけにはいかない。
部屋にある一つ一つのものを指差すとそれが何かはわかっているが、ここがどこかに結びつかない。知覚と認識が食い違っている。
説明してもわからない、本人の実感と一致しないから困惑するだけ。きっかけは自分の母親の話を始めたときからだった。記憶優位モードに入り、親戚たちと実家に遊びに来ている気分になった。
介護用ベッドと室内用車イスを置いた六畳間に、6人くらいの人(亡くなった親族)がいることになっている(私から見て父、父方の祖母、父方の伯母、母方の祖母、母の姉、弟、妹)。
団地の一室なのに外へ出れば山菜の採れる沢が流れており、そこまで歩いていこうとするものだから困った。
肩と背中が異様に重い。老母の部屋に6人くらいの人がいたというのは、ほんとうにそうだったのではないかという気がしてきた。憑かれた?
 
10月21日
今日のバーチャンリアリティ。老母のベッドは右側が押入れに接しているのだが、その狭い隙間を誰かが通り抜けていくらしい。話しているとふと右を見て「子供が走って行った、パタパタと足音が聞こえる、ホラそこ、ああ行っちゃった」という。頻度高い。
 
10月24日
今日のバーチャンリアリティ、押入れに子どもが住んでいるらしい、三つか四つくらいの歳の坊やで、時々引戸を開けてパタパタ母のベッドの脇を走り回っているそうだ。「ホラあの子」と指さすが私には見えない。
 
■『怪談に学ぶ脳神経内科』に学ぶ
 以上、約五ヵ月間の老母91の幻覚を思わせる発言をご紹介した。「私は死んでいる」など妄想と幻覚の区別の難しいケースもあるが、妄想であっても亡くなった親戚の姿などを見たことがきっかけになっているようなのでここに含めた。10月から事例が減っているのは二つの理由がある。私もヘルパーさんたちも老母91の言動に慣れてしまっていちいち記録しなくなったことが一つ。もう一つは、この夏に猛威をふるったコロナ禍が秋になってすこしおさまり、高齢者包括支援施設でのデイサービスやショートステイ(短期入所)が再開され、これが本人にとってよい気分転換になっているらしい。少なくとも「私は死んでいる」は言わなくなった。これは、老母91といつも一緒にいる人たちのことを「みんなもう亡くなっているよ」とバカ息子が繰り返し言ったことと関係しているかもしれない(強く言い過ぎたかと少し反省)。
 もっとも「お父さん」はあいかわらずどこかに出かけたり、急に帰ってきてご飯を作れと言ったりしているらしいし、亡くなった親戚もしょっちゅう見舞いに来るし、押し入れの「坊や」も健在である。
 今年出版されて話題になった駒ヶ嶺朋子『怪談に学ぶ脳神経内科』(中外医学社)によれば、パーキンソン病とLewy小体型認知症を合わせてLewy小体病と呼ぶのだそうだ。同書の第2章「おばあちゃんだけに見える少女」を参照してLewy小体病の幻覚の特徴についてメモしておく。
 駒ヶ嶺の挙げるLewy小体病の特徴「睡眠障害、便秘などの自律神経障害、嗅覚障害、幻覚」などは老母91の言動によくあてはまる。なかでもそこに存在しないはずの人の姿を見るというのは、Lewy小体病の幻覚の典型的なケースであるらしい。特に押し入れから出てくる坊やの幻については、駒ヶ嶺も類似のケースを座敷わらしを例に挙げて考察している。「なんとなくザシキワラシに似ているなあというのは医療従事者の中でよく語られてきた」(駒ヶ嶺)のだそうだ。本書を読む前から老母の幻覚「坊や」については座敷わらしそっくりだなと思っていたので腑に落ちた。
 この幻覚の特徴は「恐怖心を伴わず、幻聴や妄想を伴わず、幻視、それも丸やギザギザなどの要素性幻視ではなく具体的な物や人物などが見える複雑性幻視」(駒ヶ嶺)であり、はっきりくっきり、日常の知覚と同じように見える。だから、親父にしても亡くなった親戚たちにしても「坊や」にしても、そこにいないとバカ息子が何度言っても老母91は「おかしいねえ、たった今までそこにいたのだけれど」と首をかしげるわけだ。
 座敷わらしは、それを見た本人にとって怖いものではないらしい。「幻覚というと、怖いもの、不快なものがイメージされることが多いが、Lewy小体病での幻覚の多くが恐怖感などの感情を伴わない感覚体験である。」(駒ヶ嶺)。うちの老母91も「坊や」と呼んで可愛がっている。最近はヘルパーさんや看護師さんに憑いて来る「お嬢ちゃん」も増員。実家は賑やかでいい。
 なお、このような幻視は「健常人でも生活に支障を来たさない低頻度の幻視は1〜2割が経験する」ものだという(駒ヶ嶺)。しかしLewy小体病の幻覚の場合は低頻度ではなく繰り返し経験する。おそらく老母91にとっては毎日のことだろう。
「「Lewy小体病」には、幻視のほかにも様々な幻覚を伴うことが知られており、通過幻覚、実体的意識性、幻聴、幻臭、幻触、前庭性幻覚、などが経験される。また、そうした幻覚の経験頻度も全生涯で数回というわけではなく、繰り返すことが特徴であり、日々経験されている方が多い。Parkinson病に特有の、まじめで正直な性格もあいまって、外来診療という短いコミュニケーションの中でも幻覚に関する事柄は秘密にされず、実直に披露される、ということはつまり、繰り返し幻覚を経験するという病歴は、Lewy小体病疑いの患者さんにおいて、診断的価値がある情報である。」(駒ヶ嶺、前掲書、24頁)
 もう一つ、駒ヶ嶺の指摘をメモしておく。
「幻視や幻聴というと精神障害を想起されることが多いが、全生涯でのそうした体験は健常成人で10-20%が経験ありと回答する現象であり、必ずしも疾患と関連があるわけではない。若年者では比較的普遍的現象で、加齢とともに減っていくともされるが、高齢者では感覚入力の低下や睡眠不足、孤独や死別など精神・社会的ストレスが誘因になるとも考えられている。幻覚には幻聴、幻視のほか、幻臭(タイヤの焦げた臭い、タバコの臭い等)、前庭性幻覚(浮かぶ、飛ぶ、体から抜け出る等)などがあり、軽い幻覚としての幻覚様症状 hallucinatory eventには、実体的意識性(人や動物の気配を感じる)、通過幻覚 passing sensation(何かがさっと横切る感じ)などがある。」(駒ヶ嶺、前掲書、23頁)
 しかし、この「健常成人で10-20%」という数字はあくまで限られた調査(老人会と学生たちの協力による調査)によるものであり「医者は民俗学者のようにフィールドワークに出るわけではないので、病院に相談に来ない事柄についてはついぞ知りえないのである」としている。このあたりの事情を駒ヶ嶺は「視界を横切る一反木綿みたいなものをちょっと見かけちゃったくらいの体験では病院には来院しない」とユーモラスに述べている。
 つまり、病気ではない幻覚が存在し、それは少なくとも健常成人の10-20%以上、一反木綿またはUFOのような、何かが空を飛んでいるのをちらりと見たという程度のものであれば、あるいは健常成人の三割程度が経験していることになるだろう。これは幻覚一般が病気によるものではなく、つまり病気は幻覚の原因ではなく、あくまでもその体験の頻度に関係しているに過ぎないことを示してはいないか。そうであれば幻覚は私たちの日常的な知覚世界の一部ということになり、冒頭で引いたシュティルナーの言葉のように「僕等は、僕等の祖母さんの正直に対する信頼から、幽霊の存在」を信じざるを得なくなる。私としても「Parkinson病に特有の、まじめで正直な性格」の老母91の言葉を、いったんは真に受ける他はなくなるのである。(続く)
 

★プロフィール★ 広坂朋信(ひろさか・とものぶ)1963年、東京生れ。編集者・ライター。著書に『実録四谷怪談 現代語訳『四ッ谷雑談集』』、『怪談の解釈学』、共著に最新作『猫の怪 (江戸怪談を読む)』など。ブログ「恐妻家の献立表」
 

Web評論誌「コーラ」45号(2021.12.15)
<心霊現象の解釈学>第22回:バーチャンリアリティ(広坂朋信)
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