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Web評論誌「コーラ」
42号(2020/12/15)

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『この城内には入らずの間といふのがある。そこには淀殿が坐つてゐるさうだ。』
『わたしもそんな話を聴きましたが、ほんたうでござりませうか。』と、勇作は首をかしげてゐました。
『ほんたうださうだ。なんでも淀殿がむかしの通りの姿で坐つてゐる。それを見た者は屹と命を取られると云ふことだ。』
『そんなことがござりませうか。』と、勇作はまだ疑ふやうな顔をしてゐました。
『そんなことが無いとも云へないな。』
『さうでござりませうか。』
『どうもありさうに思はれる。』
(岡本綺堂「鎧櫃の血」、『三浦老人昔話』中公文庫2012所収より)
 前回、J・P・サルトル『存在と無』から幽霊屋敷の理論を抜き書きした。サルトルはpossedeというフランス語に「所有されている」のほかに「とり憑かれている」という意味もあることを活かして、幽霊屋敷とは、かつてその家宅を所有していた死者についての記憶が物象化したものだとした。
 一方で、これはあくまでも近世怪談の場合だが、日本の伝承では幽霊が家屋・土地に憑依するケースは(皿屋敷伝説の「お菊を幽霊とするか妖怪とするか」問題は残るものの)、少なくとも文献上は少ない。もっとも、少ないだけで、無いというわけではない。これも以前紹介した『新選百物語』中の一話「思ひもよらぬ塵塚の義士」で「狐屋敷」と呼ばれた廃屋に住み着いていたのは狐ではなく亡霊だったし、高田衛編著『大坂怪談集』(和泉書院)に収録されている「袴幽霊の話」でも化物屋敷の化物の正体は亡霊だった(この二つの話には何かの近縁関係があるかもしれない)。しかし、土地・家屋に憑くものは神霊・精霊・妖怪だと伝えられる場合がほとんどである。
 
■『狂歌百物語』の化物屋敷
 すべてのケースをご紹介するとあまりに長くなりすぎるので、方便として嘉永六年(1853)の『狂歌百物語』(古典文庫)を見てみよう。全八編のこの狂歌集には、見越入道から始まり90を超える化物・怪異が取り上げられている。この90数種が、江戸時代の人々にとって狂歌のお題として出されても無理のない範囲の、ポピュラーな化物・怪異であったろう。これら化物・怪異のそれぞれについて十首以上の狂歌が選ばれている。そのうちに「幽霊屋敷」と題された項目はない。幽霊が取り上げられていないわけではない。累、牡丹灯籠、四谷於岩、逆幽霊、離魂病、生霊が項目としてたてられている(人魂、皿屋敷、船幽霊もあるが私はそれらを幽霊としてはカウントしない)。ただ、皿屋敷はあっても「幽霊屋敷」はない。そのかわりに第八編に「化物屋敷」がある。そのうちからいくつかをご紹介する(詠み人は省略)。
 魚鳥をとめにし札も見えなから 通用門の生くさき風
 こハかつて逃る大工に敷居まて 外へかけ出す化物やしき
 住居さへならていつ迄あき風の 人おとろかす化物やしき
 何ゆゑに人やはてけんあれやしき あやしき声のはりつけ天井
 こゝも又いかなるえんのくされ木や 夜ことに光る化ものやしき
 破れ屋根雨のたる木も朽ちはてゝ あるゝもこハき化物やしき
 蛇の目傘茶台も化てをとり出す 家の畳や八つ八通り
 お茶煙草ほんほり迄も働らけは 人ハいらすの化物やしき
 ほね斗り見る化やしき襖さへ やれて引手のあなおそろしき
 三つ足のしかミ火鉢も掛てある やくわんもをとる化物やしき
 以上が、選者によって巻頭の絵入りページに収められた十首である。このほかに、
 戸障子に迄も買人ハ目をつける 売居に出た化物やしき
 寵愛のお道具なるか化やしき お手もついたりお目もついたり
などというユーモラスなものもある。最後に挙げたものなど、「寵愛のお道具(妾の隠語)とかけてなんと解く」「ハイ、寵愛のお道具とかけて化物屋敷と解く」「その心は?」「お手もついたりお目もついたり」(化物屋敷の家具に目や手が出ることをかけている)とやったら大喜利で座布団がもらえそうだ。しかし、狂歌師のレトリックを子細に検討することは私の能力をはるかに超えたことなので余計な口はつぐむとして、ここでは化物屋敷という怪異の特徴として家具や道具類、門、敷居、天井などが妖怪化した器物の怪が主であることは見てとれるだろう。
 なお、器物の怪と言えば、すぐに付喪神を連想される方もおられるだろうが、あんな面倒くさいものを論じる用意はないので御免被らせていただく。ともあれ、化物屋敷と幽霊の住む家宅とを近世後期の江戸の庶民はくっきり分けていた。
 ところが、近代に入るや狐狸妖怪は迷信と思われるようになったためなのか、家宅における怪異の原因(主体)は死霊だとみなされるようになっていく。
 
■松原タニシ『事故物件怪談 怖い間取り』はほんとうに怖い
 最近、映画化もされて話題になった松原タニシ『事故物件怪談 怖い間取り』(二見書房、2018)という本がある。同書はアパートやマンションの部屋の入居者が体験したとされる、いわゆる実話系怪談を集めたものだが、著者の松原タニシ氏本人やその友人・知人の体験談も多く含まれる。これを現代の化物屋敷譚の好例として少し見てみよう。
 読むのではなく見るというのは、なにぶん怖い話ばかりなので精読したくないからというのが本音である。タテマエとしては、私もかつて心霊スポットの実地調査をした者として、自分の行ったことのない場所については積極的に論じたくない。実際、土地勘がないととんだ見当違いをすることがあるのだ。松原タニシ氏が『怖い間取り』で挙げている事故物件のほとんどは関西にあり、私は東京以外の土地に住んだことがないので、『怖い間取り』の事例を詳しく検討する能力がない、ということにしておこう。
 そこで、『怖い間取り』に収録された怪異譚のうち、松原氏自身の体験談として語られているものだけを、すべて実話であるという前提で浅く読んでみる。
 松原氏自身による体験談は、第一章「僕と事故物件」にまとめられている。
第一話 水の音(部屋に招かれた友人が聞いた)。正体不明の男の姿。オーブ(写真に映る浮遊物、ただし私はこれを怪異とはみなさない)。自動車事故。
第二話 第一話の部屋についての因縁話が主である。
第三話 畳の下の血のり、排水溝に詰まった髪の毛等。閉めたはずの襖があいている、トイレに入っていたらドアノブをガチャガチャされる、郵便物がなくなる等。留守電の怪音。
第四話 特に何もない。
第五話 部屋に泊めた後輩が頭痛。
第六話 強烈な倦怠感と眠気。向かいの一軒家の防犯センサーの音。耳鳴り(部屋を訪れた霊感タレントの発言)。上のフロアの柵にしがみつく女の姿(部屋を取材に来たテレビスタッフの一人にだけに見えた)。
第七話 その部屋で寝ると疲労感・倦怠感がたまる。死神のような影がネットの映像に映った。
第八話 著者の所有する人形の怪。
 まだあるが、これくらいでよいだろう。『怖い間取り』には、著者の友人・知人から聞いたという話も多く掲載されているが、ここでは松原氏自身が入居して体験した話に限った。ホラー映画のような派手の場面はない。むしろ、日常生活でなんとなく不安に感じるような出来事に焦点を当てて淡々とつづられている。それなのに『怖い間取り』が怖いのは、なによりも松原氏の絶妙な語り口によって語られる、それぞれの部屋の因縁話――事故物件であるからそこは犯罪や自殺の現場であった――である。そのために、松原氏の住んだ部屋で起きた不審な出来事は、死霊の仕業ではないかとの不安と怖れを読者に暗示することに成功している。
 『怖い間取り』は怖い。実際、私はこの本を読んでいる最中、誰かに肩を掴まれているような感覚を覚えて何度も背後をふりかえったほどだ。しかし、上にあげたように松原氏自身が体験した事柄に絞ると、たしかに不審な出来事は多いが、一件の例外を除き、それは怪異として詮索するより、検査や修理、生活習慣の改善、通院・診療、防犯上の注意等こそ有効なものがほとんどである。
 これは幽霊案件かもしれないと私が思う例外的エピソードを先に挙げておこう。第六話にあたる「事故物件四件目」の最後のエピソードである。松原氏の住む部屋をテレビ番組が取材に来たときのこと、取材チームが連れてきた霊感タレントは「耳鳴りが酷い」「どうしても入れない」と泣きだして帰ってしまい、ロケは中止になった。
番組スタッフが撤収作業をする中、スタッフの女の子がその場に立ち尽くしたまま動こうとしない。
「何してんだよ、お前!」
 先輩スタッフが声をかけるが、彼女は僕の部屋の上のフロアの柵を指差して言った。
「柵に女の人がしがみついて、あっちへ行け、あっちへ行け、と言ってます。」
 彼女にだけは、女性の姿が見えたようだった。(松原前掲書、47頁)
 この女性の姿は他の人には見えなかった以上、人のかたちをした幻である。死霊か生霊かは女性の身元がわからないとなんとも言えない。架空の人物であった場合は、女性スタッフの仮構作用による幻視であったと言えるだろう。いずれにせよ、これは人の姿の幻であり、私の定義からは幽霊である。なお、第七話の死神の姿は、もしそれが本当に電子機器に記録されているのであれば、あくまで死神のように見える何かの影でしかないので、私はそれを怪異とはみなさない。
 しかし、このケース以外は、起きた事柄だけを見れば、そのほとんどは死霊が原因だと思わなければたいしたことではない。前回ご紹介したオスカー・ワイルド『カンタヴィルの幽霊』に登場するアメリカ人公使一家なら、さっそく「ピンカートンの優等染み抜き」や「タマニー旭日潤滑油」を取り出し、怪しい人影には枕を投げつけて追いかけまわすことだろう。そして私には、仮にそれらに超自然的な原因があったとしても、とても死霊のせいだとは思えないのである。
 それでは、幽霊以外の超自然的原因とは何か? 妖怪である。
 松原氏自身が体験した怪異のうち、明らかな幽霊案件をのぞくと、音の怪と急な体調不良が目立つ。その他には不審人物、家具の怪、物品の紛失、表情を変える人形と、いずれも江戸時代の狂歌師ならまず間違いなく狐狸妖怪の仕業として一首詠んでくれそうなものばかりだ。お題は、枕返、逆柱、家鳴り、といったところだろうか。『狂歌百物語』からいくつか挙げておこう。
死し如くよく寝るゆゑか目覚れハ 南枕も北とこそなれ
聞きてさへ頭痛にやミの夜の床 又も枕をかへされにけり
家なりするさかさ柱に逃出す 己れか足も空さまにして
壁に耳ありてきけとる逆しまに 立し柱に家なりする音
売家のあるしを問へハ音ありて われ目か口をあく逆柱
床の間に活し立木もたふれたり 家鳴りに山のうこく掛もの
なに故にたゝりにけりな壁に耳 人にきかれてうき名たちけり
 つまり、『怖い間取り』で描かれる事故物件の怪異は、化物屋敷のヴァリエーションなのである。
 しかし、もちろんこの私の独断に対して例外はある。それもたいそう有名な建築物で、しかもそこに住みついているとされる亡霊もこれまた有名な人物なので、例外として扱うにはあまりに強大すぎて、私の弱い心は折れそうなくらいだ。大阪城の淀殿である。
 
■大阪城の「明けずの間」――松浦静山『甲子夜話』より
 松浦静山『甲子夜話』巻二十二に次のような話が記録されている。
大阪の御城内、御城代の居所の中に、明けずの間とて有りとなり。此処大なる廊下の側にあり。こゝは五月落城のときより閉したるまゝにて、今に一度もひらきたることなしと云。因て代々のことなれば、若し戸に損じあれば版を以てこれを補ひ、開かざることとなし置けり。此は落城のとき宮中婦女の生害せし所となり。かゝる故か、後尚その幽魂のこりて、こゝに入る者あれば必ず変〓(かばねへん+央)を為すことあり。(引用は『甲子夜話2』東洋文庫314、平凡社、64頁より。以下同じ)
 大阪城域内の城代屋敷(現・西の丸庭園)に、「明けずの間」がある。そこは大廊下の側である。ここは豊臣家が滅亡した大坂夏の陣で落城した時から閉じ切ったままにしてあり、今まで一度も開けたことがないという。それでも長い年月のうちに戸板が劣化したりすることもあるので、その時は上から板をあてがって補修し、戸を開けないようにしている。ここは落城のとき城中に残った女性たち(淀殿とその側近たち)の自害したところだという。そのためだろうか、後々までもその幽魂が残って、この部屋に入る者には異変が起きるという。
又其前なる廊下に臥す者ありても、亦怪異のことに遇ふとなり。観世新九郎の弟宗三郎、かの家伎のことに因て、稲葉丹州御城代たりしとき従ひ往たり。或日丹州の宴席に侍て披酒し、覚へず彼廊下に酔臥せり。明日丹州問曰く。昨夜怪ことなきやと。宗三郎、不覚のよしを答ふ。丹州曰。さらばよし。ここは若臥す者あればかくかくの変あり。汝元来此ことを不知。因て冥霊も免す所あらんと云はれければ、宗三郎聞て始て怖れ、戦慄居る所をしらずと。
 また、この部屋の前の廊下で寝る者も、やはり怪異に遇うという。小鼓方の観世新九郎(能楽観世流の鼓方・代々襲名)の弟・宗三郎は、家の芸である鼓をもって稲葉丹後守(稲葉正ェ1749-1806か? 1802〜1804まで大阪城代)に仕えていたので、稲葉が大阪城代に任ぜられたときも、付き従って大阪に行った。ある日、稲葉の宴席に呼ばれてつい酒を飲みすぎ、思わず例の廊下で寝てしまった。翌日、稲葉が尋ねた。「昨夜、怪しきことはなかったか」。宗三郎は、気づきませんでしたと答えた。稲葉は「それならばよし。ここはもし寝る者があればかくかくしかじかの異変がある。お前はもとよりこのことを知らなかったので、亡霊も許してくれたのだろう」と話した。宗三郎はこれを聞いて初めて怖くなり、震えがとまらなかったそうだ。
又宗三郎物語しは、天気快晴せしとき、かの室の戸の透間より窺ひ観れば、其おくに蚊帳と覚しきもの、半ははづし、半は鈎にかゝりたるものほのかに見ゆ。又半挿の如きもの、其余の器物どもの取ちらしたる体に見ゆ。然れども数年久しく陰閉の所ゆゑ、たゞ其状を察するのみと。何かにも身毛だてる話なり。
 これも宗三郎の話によると、天気快晴の日に、例の部屋の戸のすき間からのぞいてみると、その奥に蚊帳らしきものが半分ははずれた状態で釣られているのがかすかにみえた。また盥のようなもの、そのほかの道具類が散らかっているように見えた。けれども、長年閉ざされていた場所だから、ただそのありさまを察するのみだと。いかにも身の毛のよだつような話である。
又聞く。御城代某候、其威権を以てこゝを開きしこと有しに、忽狂を発しられて止たりと。誰にてか有けん。
 また、風聞によれば、御城代を務めた某氏がその権限を以てこの部屋を開けたことがあったが、たちまち物狂いのような発作を起こしたので中止したとのこと。いったい誰のことだったのだろう。
 
 このあと『甲子夜話』では、この話を聞いた儒学者・林述斎が「今の大阪城は徳川の御代になって全面的に建て直したものなのだから豊臣時代のままの部屋なんてあるわけがないだろう」と笑い飛ばすのに対して、松浦静山は「いやしかし、世の中には思いもよらぬこともある」と結論を保留しているのだが、それは本稿では扱わない。
 
>■空家の現象学
 私は大阪城に行ったことがない。大阪は商用で何度も訪ねたが、いまだに梅田地下街で迷子になるほど土地勘がない。なんばの地下街も苦手である。東京に帰ってくると、大手町や新宿の地下街のなんと整然としたことよと安堵するほどである。JR東京駅の丸の内口から出てまっすぐ歩けばほどなく旧江戸城のお堀が見えてくるのに、JR大阪駅を出ても大阪城がどこにあるのか方角の見当もつかないことの理不尽さよと嘆いたりもする。いつだったか、天満橋のあたりから大阪城をたまたま見ることができて、その感動をご当地のコンビニの店員さんに話してあきれられたことがあるほど、大阪城とは縁がない。
 こんな私が大阪城の怪について語るなど噴飯ものというべきなのだが、ありそうなことを一つ二つ書き留めておく。
 『甲子夜話』で、観世宗三郎の咄を聞書きしている松浦静山が、これは怖いと書き留めているのは、天気のよい日に、外から射し込む光を頼りに、問題の部屋の戸のすき間からなかをのぞいた話である。ご老候は何に身の毛をよだたせたのか。
 宗三郎は物好きにも禁断の部屋のなかを戸のすき間からのぞいた。視野は限られていただろう。釣ってある蚊帳は半分はずれて室内を斜めに区切っている。床には化粧道具のようなものが転がっている。見えたのはそれだけである。にもかかわらずご老候は「何かにも身毛だてる話なり」と感想を記した。
 ここで参考になりそうなのは、多木浩二『生きられた家――経験と象徴』(岩波現代文庫)における、人の住まなくなった家の印象についての、いわば現象学的な記述である。多木は「人が立ち去ったばかりの家にはいると」、「住み手が無意識に費やしてきたエネルギー」、「架構としての家を経験の次元に吸収する」「この活動ののこしたエネルギーが頬をうつ」という。
空洞化した部屋の壁や床や天井には無数の痕跡が見出される。壁や柱の上の落書き、原因がそれとわかるようなしみ、わからぬ汚れ、残していったカレンダー、はがされたピンナップのそこだけが妙に白い痕などが、謎めいたことばを語りはじめる。空虚なはずの家がことばで充満し、叫び声を押し殺しているように見える。天井や壁のしみを見ていると顔になり、雲になり、想像力のなかでさまざまに姿をかえていく知覚体験はだれでも持っているが、痕跡を見るときにもこのような知覚の類推は働いている。しかし、実際には知覚以上のことが起こる。痕跡を眼にしたとき、われわれはすばやくこれを読みはじめているのである。これらの痕跡に隣接し、先行する一連の行為、それらの行為の経過した時間などを想像し、そこに結びつけ、結局痕跡を人間の意識的、無意識的な存在がくりひろげられている時間と空間に構成しかえている。(多木前掲書、144-145頁)
 宗三郎が見たものは、半ば垂れ下がった蚊帳や床に転がる道具などごくわずかなものだったが、静山はそこにその部屋の先住者の生活の痕跡を読み取った。なぜ蚊帳が半ばはずれ、化粧道具は床に転がったまま放置されているのか、「これらの痕跡に隣接し、先行する一連の行為、それらの行為の経過した時間などを想像し」たのだろう。静山は名前を挙げていないが、やはり淀殿の最期に思いをはせたに違いない。
 以上は、大阪城の「明けずの間」が幽霊案件であった場合に可能な解釈の一つだが、林述斎が指摘するようにやや無理がある。
 
■おさかべ姫伝説
 もう一つ考えられるのは、大阪城の「明けずの間」伝説は、姫路城のおさかべ姫伝説の連想から生まれたのではないかという仮説である。この場合、大阪城の城代屋敷は、やはり化物屋敷だったということになる。
 姫路城の真の城主として君臨したと伝えられ、泉鏡花の戯曲『天守物語』富姫のモデルともなったおさかべ姫についてはこの連載で何度かふれたはずなので詳細は省略する。大阪城の「明けずの間」伝説を書き留めた松浦静山もこの伝説を知っており、江戸城中で当時の姫路城主をつかまえて真偽をただしたことがあるほどよく知られた話だった。狂歌にもなっている。
 小さかへのひめもすよるハ夜もすから としふる城の守り神なり
 おさかべ姫は現在も姫路城下の神社に祀られているが、その由来ははっきりしない。もとは土地の守り神だったのだろうと考えられている。姫路城は、室町時代では赤松氏の一族、小寺氏(のちに黒田氏)の拠点であり、播州皿屋敷伝説は小寺時代の姫路を舞台にしている。ちなみに播州皿屋敷伝説にも刑部神社が登場するが、これは後世の付会である。横山泰子氏によれば、姫路城でおさかべ姫の伝説が語られるようになったのは、羽柴秀吉が池田輝政に命じて改築してからのようだ。
「元来、姫路城が築かれた姫山には、「刑部明神」「富姫明神」などの社があったが、豊臣秀吉は山上の刑部明神を町はずれに移し、山全域に城を造った。関ケ原の合戦後、姫路城を改修したのが池田輝政で、五層の大天守閣が竣工したのは慶長十三(一六〇八)年のことである。天守がほぼ完成した頃、いろいろな怪異があり、「輝政は呪われており、命が惜しければ城の艮に八天堂を建立せよ」などと警告する怪文書「天狗の書状」が発見された。慶長十六(一六一一)年に輝政が病気になると、刑部大神の祟りという風聞が流れたため、池田家では城内に社殿を建立し刑部大神を遷座した。城内の神社は「長壁神社」として、城主に信仰され続けた。」(横山泰子『江戸歌舞伎の怪談と化け物』講談社選書メチエ、2008年、186頁)
 横山氏はおさかべ姫伝説の発生について「姫路城築城以前から信仰されていた姫山の神は、城下町建設にともなって城の神とされ、城主の行いいかんで祟りを起こした。その恐ろしい要素が「妖怪オサカベ」として、怪異小説などで強調されるようになったものと思われる」としている。『諸国百物語』では、おさかべ姫は、「われはこの城の主也。我をおろそかにして、尊とまずんば、ただ今引き裂き殺さん」と新城主に言い放つ。強力な霊威をふるう先住者としての女神である。
 ここで思い起こされるのは、サルトルの幽霊屋敷の定義である。前回引用した箇所を再度引く。
幽霊は、家や家具が《所有されて-いる》etre-possedeということの、具体的な物質化より以外の何ものでもない。或る家がつきまとわれていると言うことは、金や労苦を以てしても、最初の占有者によるこの家の所有という絶対的形而上学的な事実を、消し去ることができないであろうと言うことである。(J・P・サルトル著、松浪信三郎訳『サルトル全集第二十巻 存在と無 第三分冊』人文書院、昭和52年、p345。引用にあたりフランス語のアクサン記号は省略。)
 引用文中、「つきまとわれている」とあるのは、もちろん「とり憑かれている」という意味である。
 サルトルが語っているのは家や家具についてだが、土地についても似たようなことが言えるのではないか。姫路城の場合、豊臣秀吉の権勢も、最初の占有者によるこの土地の所有という絶対的形而上学的な事実を消し去ることができなかった。それがおさかべ姫伝説の始まりだとしたら、その図式はそのまま大阪城にもあてはまり、徳川家康の権勢も、最後の占有者、すなわち淀殿によるこの土地の所有という絶対的形而上学的な事実を消し去ることができなかった。それが大阪城城代屋敷の「明けずの間」伝説を生んだのではないか。
 このように考えれば何となくつじつまが合うような気もするが、土地家屋を神霊なり幽霊なりが所有するということは、はたして可能なのだろうか?
 『死霊解脱物語聞書』には、継子のお菊にとり憑いた累が、お菊の相続した田畑を売ろうとすると、村役人に「あんたは死んだのだから土地はもうお菊のもの、あんたが勝手に売り払うことはできない」と拒否されて、累が悔しがる場面がある。これは生きている人間社会の論理が優先された場合である。そうでなければ、人の住む土地のすべては過去の所有者の名義に書き換えなければならなくなる。過去の所有者といってもどこまでさかのぼればよいのだか、気の遠くなるような話だ。だから、サルトルの言う消し去ることのできない絶対的形而上学的な事実というのも、暗黙の条件があると考えねばならないだろう。
 消し去ることのできない所有のしるしとはなにか。そもそも所有するとはどういうことなのか。化物屋敷ひとつとってもなかなかわからないことばかりである。
 

★プロフィール★ 広坂朋信(ひろさか・とものぶ)1963年、東京生れ。編集者・ライター。著書に『実録四谷怪談 現代語訳『四ッ谷雑談集』』、『怪談の解釈学』、共著に最新作『猫の怪 (江戸怪談を読む)』など。ブログ「恐妻家の献立表」
 

Web評論誌「コーラ」42号(2020.12.15)
<心霊現象の解釈学>第20回:入ってはいけない部屋(広坂朋信)
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