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Web評論誌「コーラ」
39号(2019/12/15)

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 前々回(第15回)の終わりに、ベルクソンによる幽霊の理論、死者の幻の意義と発生についての説明を検討し、それは「幽霊は想像力の産物と言っているのに等しい」と書いてしまったが、これについては撤回する。
 G・バシュラールも「イメージの概念が大きな外延をえているベルクソンの著作『物質と記憶』のなかでは、生産的想像力にわずか一度言及されているにすぎない」(『空間の詩学』ちくま学芸文庫、p34)と言うように、ベルクソン哲学は想像力に大きな役割を与えてはいない。ちなみに、引用した文で「イメージ」と訳されているのは、原書ではimageだが、ベルクソンが『物質と記憶』でこの語に与えた意味は独特で、現代の日本語には適当な訳語が見あたらず「イマージュ」とカタカナ書きされるのが通例である。
 もっとも、バシュラールだけでなく、サルトルもこのイマージュを想像力論の文脈で受けとめて批判しているくらいだから、フランス人にもわかりづらいものらしい。ベルクソンは、人間の感覚がとらえる物質の諸性質が物質そのものと本質的に異なるものではない、つまり、カント流の現象と物自体の関係ではなく、部分と全体の関係にあるということを言おうとしてimageという語を用いている。
 もう一つ、言い訳を付け加えると、私がこんな誤読をしたのは、私の心霊学の関心のあり方に原因がある。
 
■「是も我心の為す所か。抑人魂の来る者か」(松浦静山)
 私ならずとも、幽霊を見たことのある人ならこんな風に考えるのではないだろうか? 今井秀和『異世界と転生の江戸』(白澤社)で紹介されているケースを孫引きする。
「幽霊などゝ云ふも、全く虚言ならず。予が侍妾の、年二十なるが、初夏の頃より病に染て臥たりしに、月を踰(こえ)て危篤に及ぬ。その母憂て、下宿(やどさがり)を請ければ、その請に任せ、臥たるまゝに帰家せしめしが、尋(つい)で空しくなりぬ。予も不便に懐(おもひ)ければ、有しことども側の者に毎(つね)に云出したりしが、両三日を経て、寝所に寐んとせし頃、其常々出入する所より幻の如くその姿来り、弓箭を立置く前に至り消うせぬ。」
 これは平戸藩藩主だった松浦静山の随筆『甲子夜話』にある話である。文中「予」とあるのは、藩主の座を息子に継がせて、国許ではなく江戸は本所(東京都墨田区)の下屋敷で悠々自適の隠居暮らしの日々をおくる静山自身である。つまりこの文は、前回見た根岸鎮衛『耳袋』のような風聞の聞書きではなく、静山自身の体験を書きつけたものなのである。
 幽霊となって静山の前に現われたのは、数え歳で二十歳というから現代風に言えば19才の妾であった。ちなみに氏家幹人『殿様と鼠小僧―松浦静山『甲子夜話』の世界』(講談社学術文庫)によれば、静山の隠居していた本所(東京都墨田区)の平戸藩下屋敷には、最低でも七人の妾が住んでいたようである。最低でも、というのは、この七人という人数は、静山の隠居後に彼の子を産んだ母たちの数だからだ。もちろん、静山の子を産んでいない側女もいただろうから、10人くらいは妾として仕えていたのだろう。そのうちの一人、19才の某女が、初夏というから旧暦の四月より病に臥せり、翌五月(旧暦)に危篤に陥った。母の要請で実家に帰らせたが、養生の甲斐もなく死んでしまった。静山はこれを哀借して、彼女の在りし日のことなどを他の側女たちに話したりしていたが、それから二三日たって、就寝しようとした静山の前に彼女は現われた。「其常々出入する所より幻の如くその姿来り、弓箭を立置く前に至り消うせぬ」。まさしく死者の幻である。静山は「是も我心の為す所か。抑(そもそも)人魂の来る者か」とこの項を結んでいる。
「是も我心の為す所か。抑人魂の来る者か」とはもちろん、この死者の幻は、私(静山)の心が(想像力で)つくりだしたものなのか、それとも人の魂が(向こうから)やってきたのか、と自問する言葉である。私の関心もこの自問に近い。死者の幻は、生者の心が産み出すものなのか、それとも、生者の恣意によらずに現われるものなのか? これが私の関心である。そのため、幽霊とは、ややもすればペシミズムに陥る知性を欺くために仮構作用がつくりだした幻影だとするベルクソン説について、それだと我心の為す所とするのと同じことだなあと感じ、つい、想像力と言ってしまったのだった。
 しかし、ベルクソンの仮構作用は、必ずしも生者の恣意によるとは限らない。むしろ、生命の自己防衛本能のようなものとして考えられているわけだから、これに想像力という語をあてたのは間違いだった。故に、撤回する。
 閑話休題。ベルクソンの幽霊の理論(仮構作用論)が「幽霊は想像力の産物と言っているのに等しい」のではないとしたら、いったいそれは何なのか。心霊学にとってどのような意義を持つのか。
 もう一つ、宿題があった。前々回の終わりに私は、ホルクハイマー/アドルノの『啓蒙の弁証法』から「絶滅を前にしての完全に意識化された恐怖だけが、死者への正しい関係を設定する。そこでは死者と生者は一つになる。なぜならそこではわれわれもまた死者たちと同じ情勢の犠牲者であり、同じ挫折した希望の犠牲者だからである。」(岩波文庫、447頁)という文を引き、幽霊の理論はこの不穏な領域に分け入っていかなければならない、と書いた。はたしてホルクハイマーらの「幽霊の理論」とベルクソン『道徳と宗教の二源泉』の仮構作用論を結びつけることは、単なる思い付きの域を超えることができるのか、と自問したのである。問うたはいいけれども、それは在野の好事家にすぎない私の手にあまる難題であるから、これを正面から論じることはまともな哲学史家におまかせして、ここでは偶然目にした文章から思いついたこじつけを書き留めておく。
 
■人間であるがゆえの恥辱(プリーモ・レーヴィ)
 偶然目にした文章とは、G・ドゥルーズのインタビュー集『記号と事件』(河出文庫)所収の「管理と生成変化」である。そこでドゥルーズは、インタビュアーであるA・ネグリの問いに応え「仮構作用というベルクソンの概念をとりあげて、これに政治的な意味をもたせなければならないのです」と語っている。ドゥルーズは現代におけるベルクソン復興の立役者の一人だが、その著『ベルクソンの哲学』(邦訳・法政大学出版局)ではベルクソンの四大主著のうち、『意識の直接与件論』(『時間と自由』)、『物質と記憶』、『創造的進化』が主に論じられており、仮構作用の出てくる『道徳と宗教の二源泉』にはほとんど言及がない。ドゥルーズは『二源泉』には関心がないのかと思っていたものだから驚いた。
 しかし、仮構作用に政治的な意味を持たせるとだけではなんだかよくわからない(もっとも私にはドゥルーズはほとんどよくわからない)。そこで、この発言が登場した文脈を確認しながら読み返してみると、ホルクハイマーらの「幽霊の理論」とベルクソン『二源泉』の仮構作用論の双方になにやら響き合うものがあるように感じられる。以下、斜め読み式にドゥルーズの発言をたどりなおしてみる。
 ネグリによるインタビューは、政治の問題についてのドゥルーズの関心の原点について問うことから始まり、次いで、1968年のパリ五月革命の評価を話題にし、三番目にガタリとの共著『千のプラトー』への賛同を表明しながら、そこに「ややもすれば悲痛な声が聞こえてくるように思われてならないのです」と、とまどったような質問を投げかける。この問いに対してドゥルーズは、それは「ナチスの強制収容所は私たちの心に「人間であるがゆえの恥辱」を植えつけたと述べるプリーモ・レーヴィの文章に、深い感銘を覚えた」からだと応えた。
「レーヴィによると、まことしやかに語られていることは間違いで、私たち全員にナチズムの責任があるのではなく、私たちがナチスによって汚された。強制収容所を生き延びた人たちですら、たとえそれが生き残りをかけた窮余の一策だったとはいえ、やはり数々の妥協を余儀なくされた。ナチスになるような人間がいたという恥辱、それをさまたげる可能性も力ももちあわせていなかったという恥辱、そして妥協に屈したという恥辱。こうした恥辱が集まったものを、プリーモ・レーヴィは「グレーゾーン」と呼ぶわけです。」(『記号と事件』p345)
 ドゥルーズが感銘を受けたレーヴィの文章とは、『溺れるものと救われるもの』(竹山博英訳、朝日選書)の一節である。恥辱については邦訳の「3恥辱」、グレーゾーンについては「2灰色の領域」がそれにあたる。ちなみに邦訳と、ドゥルーズが読んだ仏訳とでは微妙に表現が違うようだが、本稿では無視して話を先に進める。
 ドゥルーズの語り口には『啓蒙の弁証法』の共著者アドルノを揶揄しているようなところもあるが、少なくとも同じ問題、ナチスによるユダヤ人絶滅政策を念頭に置いていることは間違いない。しかし、「人間であるがゆえの恥辱」は「まったくとるにたりない状況で、強く実感させられることもあります」とドゥルーズは続ける。
「あまりにも凡俗な考え方に接したり、テレビのバラエティー番組を見たり、あるいは大臣の演説や、「楽天家」のおしゃべりを聞いたりするとき、私たちのすぐ目の前に恥辱があるのです。」(『記号と事件』p346)
 フランスのテレビ番組や大臣の演説がどんなものかは知らないが、日本の場合は確かにあてはまる。テレビをつければバラエティショーと化した報道番組で、権力への阿諛追従に満ちたニュースが放映されているのは確かに恥辱である(このような状況をさまたげるすべもなく妥協に屈しているという恥辱)。さらにドゥルーズは、資本主義は「富と貧困を生産するだけの恐るべきからくり」であり、国家は市場にとって投資の拠点、証券取引所にすぎないと糾弾し、「あらゆる民主主義国家は、人類の貧困を生産する作業に加担して、骨の髄まで腐っている」と口を極める。そして、「以前はプロレタリアが自覚をもちさえすればよかった。しかしいまの私たちには、そんなプロレタリア像は無縁なものとなってしまいました」と嘆く。
 絶望の表明といってもよいほどのドゥルーズの激しい言葉を受けて、ネグリは「どうすればマイノリティへの生成変化は力能をもつのか、どうすれば抵抗は現実の叛乱たりえるのか」、「虐げられた人々の抵抗はその効力を発揮し、許しがたい所業は一掃されるようにするための方法はあるのでしょうか」と問いを重ねる。この問いに対する答えのなかで仮構作用論がもちださる。
「もっとも偉大な芸術家は(民衆主義(ポピュリスト)の芸術家とはちがって)人民に呼びかけ、「人民が欠けている」という認識に達する。(中略)芸術家は人民に呼びかけるしかない。芸術家はその企てのもっとも深いところで人民を必要としているのです。芸術家には人民をつくりだす義務もなければ、また人民をつくりだす手段もない。芸術とはすなわち抵抗のことです。死に抵抗し、束縛にも、汚名にも、恥辱にも抵抗するのです。ところが人民は芸術に専念することができない。では、人民はどのようにして生まれ、人民の創生がおこなわれるときの耐えがたい苦痛はどれほどのものなのか。人民が生れるときは、当然ながら人民独自の手段が用いられるわけですが、それでも人民の創生がどことなく芸術に似てくることもあれば(中略)、芸術が、それまで芸術に欠けていたものに似てくることもあるのです。」(『記号と事件』p348-p349)
 こう論じたうえでドゥルーズは「ユートピアというのは適切な概念ではありません。むしろ人民と芸術の双方に共通した「仮構作用」があるのだと考えるべきでしょう。「仮構作用というベルクソンの概念をとりあげて、これに政治的な意味をもたせなければならないのです。」(『記号と事件』p349)と語ったのである。
 このインタビューが行なわれたのは1990年、翌1991年にドゥルーズはフェリックス・ガタリとの共著『哲学とは何か』を刊行する。上に見たインタビューで出された論点はこの著作でさらに詳しく述べられている(ただしドゥルーズの言うことは詳しく説明されても私にはよくわからないのだが…)。
 
■「創造すること、それは抵抗することである」(ドゥルーズ)
 本稿では『哲学とは何か』(邦訳・河出文庫)を事実上のドゥルーズの単著とみなす。少なくとも私が関心をもって読んだ箇所はドゥルーズが単独で執筆したのに違いないと思う。それは、先に見たネグリによるインタビュー「管理と生成変化」でドゥルーズが語ったことがそのまま出てくるからである。『哲学とは何か』を見る前に、「管理と生成変化」の話の流れを再確認しておく。まずプリーモ・レーヴィを引き合いに出して「人間であるがゆえの恥辱」が語られ、その恥辱は過去のことではなく、私たちの現在の状況においても痛感されることが述べられる。この恥辱に対していかなる抵抗が可能か。それは芸術とのアナロジーで語られる人民の創生であり、そこで仮構作用論が言及される。
 以下、この「管理と生成変化」の流れを念頭に置き『哲学とは何か』を斜め読みしてみる。
 プリーモ・レーヴィの「人間であるがゆえの恥辱」に言及されるのは、「4哲学地理」の後半だ。「市場が資本主義において唯一のもの」だから「普遍的民主主義国家というものは存在しない」(p182)。世界市場は、その発展の前提でもある格差を再生産することによってグローバル化をさらに拡大する。国民国家は民主主義的であれ、独裁的であれ、全体主義的であれ、資本主義をコントロールすることはできず、むしろグローバル化する資本主義のエージェントとしてふるまう。だから、あらゆる民主主義者は偽善者である。
「わたしたちは、不健康でそのうえ犠牲者にしか関わらないかもしれない罪責感のなかで、アウシュヴィッツ以後はもはや思考できないとか、わたしたち全員がナチズムに責任があるとか、そのように信じる理由はたしかに存在しない。プリーモ・レーヴィはこう言っている―わたしたちは、犠牲者を加害者と取り違えるようにさせられはしないだろう。」(p183-p182)
 資本主義の発展が格差を前提とし、その発展によってさらなる格差を生む。このモデルは「超越に送り返されることはなく」、つまり出口はない以上、絶望的に思える。だから、前掲引用文に、『啓蒙の弁証法』の共著者であるアドルノの有名な言葉「アウシュヴィッツの後で詩作することは野蛮である」(『プリズメン』)への当てこすりがあるからといって、ドゥルーズが反アドルノ的であるとは言い難い。
 レーヴィによれば「ナチズムと強制収容所がわたしたちの心に吹き込むものは」、「人間であることの恥辱」であり、「なぜなら、生き残った者たちでさえ、妥協せざるをえなかったからであり、嫌疑を受ける行動をせざるをえなかったからである」(p184)ことをあらためて確認して、しかしそれは全体主義国家でなくても起りえるとドゥルーズは言う。人権は、市場においては所有権とセットであり、法体系は「人権と矛盾するだけでなくそれ以上に人権を停止させてしまう」。人権を掲げる民主主義諸国家は強大な警察と軍隊を保有しており、それは貧者の弾圧に使用される。
「民主主義国家のうえでおのれを再領土化する哲学も、人間も、権利によって救われはしないのだ。資本主義に人権があるからといって、わたしたちは、その資本主義を賛美するようにはならないだろう。」(p185)
 グローバルな市場のもとで思索することは野蛮であるとでも言わんばかりの口ぶりである。もちろんドゥルーズは野蛮とは言わず恥辱と言う。
「そこで、人間であることの恥辱についてだが、わたしたちはそれを、プリーモ・レーヴィによって描写された極限状況において感じるばかりでなく、いくつかのくだらぬ状況においてもまた感じるのである――たとえば、もろもろの民主主義に付きまとっている生存の低劣さと低俗さに直面して、そうした生存様式と〈市場の-ための-思考〉との普及に直面して、わたしたちの時代のもろもろの価値、理想、そしてオピニオンに直面してである。私たちに提供された生活の諸可能性の恥ずべき点は、内部から現れるのだ。わたしたちは、自分が自分の時代の外部にいるとは感じていないのであって、外部にいるどころか反対に、わたしたちは、自分の時代と恥ずべき妥協をし続けているのである。」(p185-p186)
 こうした、「恥ずべき下劣さから逃れるためには、動物をやる」ことよりほかに手段はない、とドゥルーズは言うのだが、動物への生成変化とはどういうことなのか、私にはとっさに化け猫くらいしか思い浮かばないのだが、『記号と事件』では、ネグリの問いに応えて、芸術と哲学をアナロジカルにとらえて、人民を創造することだと言っていた。『哲学とは何か』でもそれが語られる。
「わたしたちはコミュニケーションを欠いてはいないのであって、反対にコミュニケーションをもちすぎている。だが、わたしたちには創造が欠けている。わたしたちには現在に対する抵抗が欠けているのである。概念創造は、それ自身において、未来の形式に助けを求める。概念創造は、ひとつの新たな大地と、まだ存在しない民衆を呼び求めるのだ。」(p186)
 引用文で「民衆」とあるのは、『記号と事件』の邦訳では「人民」と訳されていた。こうした民衆は民主主義のなかには見いだされない。「民主主義はみなマジョリティーであり、他方、或る生成は、本性上、つねにマジョリティーから差し引かれているものである」(p187)。
 ドゥルーズは次いでハイデガーのナチス加担問題に触れ、「ハイデガーは、再領土化のもろもろの道のなかで迷った」、「この厳格な教授は、おそらく、みかけよりもさらに発狂していたのであろう。彼は民衆(国民)、大地、血を間違えたのである」(p188)とバッサリ斬り捨てる。
「なぜなら、芸術あるいは哲学が呼び求めるような人種は、純粋だと主張される人種ではなく、或る虐げられた、雑種の、劣った、アナーキーな、ノマド的な、どうしようもなくマイナーな人種だからである」(p188)。
 幽霊も、多くの場合、虐げられた、生と死の交雑した、敗北した、宗教的秩序に反した、あの世とこの世の境界をさまよう、どうしようもなくマイナーな存在である。ちなみに幽霊が宗教的秩序に反するというのは、仏教でも、キリスト教でも、幽霊は原理上存在しないからだ。人が死ぬと、仏教ではたちまち六道輪廻して別の生を生きるか、悟っていれば死に切るか、念仏していれば極楽浄土に行くかであり、キリスト教では地獄に堕ちるか、煉獄で焼かれるか、神のみもとに召されるかであって、この世をうろうろしているヒマなどないはずなのだ。だから仏典にも聖書にも、幽霊は登場しない(仏典の神々や聖書の悪霊は幽霊とは別のカテゴリーに属する)。したがって、幽霊は、メジャー宗教の秩序に反する存在(非存在)である。
 もちろん、ドゥルーズは幽霊のことなど想定していないだろう。来たるべき民衆(人民)とは、具体的にはグローバルな市場に虐げられた人々のことであり、ネグリ/ハートが『〈帝国〉』でマルチチュードと名づけた人々のことなのだろう。しかし、いま、マルチチュードはどこにいるのか?
「芸術家あるいは哲学者は、たしかに、ひとつの民衆を創造することはできないのであって、芸術家あるいは哲学者にできることは、全力でひとつの民衆を呼び求めることだけであり、ひとつの民衆は、いくつかのおぞましい受苦のなかでしか創造されえないのである。〔来たるべき〕ひとつの民衆は、それ以上には芸術あるいは哲学に関わることができないのだ。しかし、もろもろの哲学書と芸術作品はやはり、或る民衆の到来を予感させる受苦の、想像を絶した、それらの総量を含んでいる。哲学書と芸術作品には、抵抗するという共通点がある――死に対して、隷属に対して、耐えがたいものに対して、恥辱に対して、現在に対して抵抗するという共通点があるのだ。」(p189〜p190)
 このようにドゥルーズは、芸術と哲学が来たるべき民衆を呼び求めることを言う。それはいかにしてなされるのか。ネグリの問いを繰り返そう。「虐げられた人々の抵抗はその効力を発揮し、許しがたい所業は一掃されるようにするための方法はあるのでしょうか」。
 
■被知覚態は幽霊か?
 ドゥルーズは『哲学とは何か』の第7章「被知覚態、変様態、そして概念」で、芸術と哲学について語る。そして、ベルクソンの仮構作用説への言及があるのもこの章である。
 結論から言えば、ドゥルーズは「芸術作品は、諸感覚のブロック、すなわち被知覚態と変様態の合成態である」(p275)としたうえで、この被知覚態(ペルセプト)という概念に関連してベルクソンの仮構作用説に言及し、被知覚態とは仮構作用による幻視なのだとしている。と言ってしまえば簡単だが、そもそもこの「被知覚態」というのがなんのことだかよくわからない。Perceptはふつう知覚対象とか訳すのだと思うが、ドゥルーズのことだから概念conceptに引っかけて採用した言い回しかも知れない。ドゥルーズは別のインタビュー「哲学について」で次のように言っている。
「被知覚態とは知覚のことではない。それを経験した者が死んだ後も生き残るさまざまな感覚と、感覚相互のつながりを束ねたまとまりが被知覚態なのです。情動とは情緒のことではない。それに身をゆだねた者をはみ出す生成変化が情動なのです(この場合、人間は人間ならざるものになる)。」(『記号と事件』p275-p276. 引用文中の「情動」は『哲学とは何か』では「変様態」と訳されている。)
 私から見ると「それを経験した者が死んだ後も生き残るさまざまな感覚」と言われれば、ははあ、これは幽霊のことだな、「それに身をゆだねた者をはみ出す生成変化」(この場合、人間は人間ならざるものになる)というと、ほほう、これは妖怪変化のことだな、などと思ってしまう(人は鬼になったり、天狗になったりする)。生成変化とは妖怪変化のことだったのか。これはとんでもない誤解だろうが、あえて誤解したまま読んでみる。被知覚態とは、死者の幻としての幽霊を含むものなのか?
 『哲学とは何か』に戻ると、まずドゥルーズは「芸術はそれ自体において保存される」することを力説する。人物画は、描かれたモデルともそれを描いた画家とも独立に存在するように。「芸術作品は、或る感覚存在であり、他の何ものでもない。すなわち、芸術作品は即自的に存在するということだ。」(p275)
 しかし、もちろん芸術作品はマテリアル(素材)によってつくられているので、マテリアルを離れて芸術作品がイデーとして存立しているわけではないが、マテリアルがあるかぎり「(カンバス、絵の具、あるいは石が灰燼に帰すことがないかぎり)、それ自体において保存されるものは被知覚態もしくは変様態なのである。」(p279-p280)
「マテリアルの諸手段によって芸術が目ざしているのは、対象知覚からそして知覚主体の諸状態から、被知覚態を引き離すことであり、或る〔体験された〕状態から別の状態への移行としての変様=感情から、変様態を引き離すことである。諸感覚のブロックを、純然たる感覚作用を抽出すること、そのために必要になるのは、作者ごとに異なり、しかも作品の一部をなす方法である。」(p281)
 このような「体験された知覚の外に出る」作業、すなわち芸術作品の制作=被知覚態もしくは変様態を体験された知覚(感情)の外に存在させること、それがベルクソンの言葉を使えば仮構なのだとドゥルーズは言う。
「想起を増幅してみても、幻想をもちだしても、創造的仮構は、そんなものとまったく関係がない。事実、芸術家は、小説家をも含めて、体験の知覚的状態や感情的移行をはみだしている。芸術家は見者であり、生成者である。彼はひとつの陰影であるがゆえに、彼が語るものごとは、どうして彼の身に起こったことや彼が想像するものであろうか。」(p287)
 芸術家の創造は、その体験(記憶)や想像力から生みだされるものではない。ここでドゥルーズは、「是も我心の為す所か。抑人魂の来る者か」という松浦静山の問いにひとつの回答を与えている。もし静山の見たものが被知覚態であれば、すなわち仮構作用による幻視であれば、それが人の魂かどうかはともかく、少なくとも我心の為す所、記憶や想像力によるものではない。それは見る人の体験の範囲を超え出たものである。
 しかし、当事者の心を超え出るものとは、隠居大名の幻よりも、プリーモ・レーヴィのような絶滅収容所の生存者の体験の方がより近いだろう。それはまさに体験されたものであり、記憶されたものでありながら、人間の精神のキャパシティを越えており、それゆえに当事者が回想することも、第三者が想像することもできない(少なくともはなはだ困難な)ものである。
「彼は、生に、何かあまりにも大きいもの、またあまりにも耐え難いものを、そして、生を脅かすものとその生との密着を見てとってしまい、したがって、彼が知覚する自然の片隅、あるいは都市の街区とそこにいる人物たちは、それらを通してあの生の、あの瞬間の被知覚態を合成するひとつの視(ヴィジオン)に達しており、もはやそれ自身以外の対象も主体ももたない、(中略)この視(ヴィジオン)が、体験された知覚を炸裂させるのである。(中略)生が囚われの生であるまさにそのときに生を解放すること、もしくは或る不確定の戦闘のなかでそれを試みること、これがつねに問題なのである。」(p287-p288)
 これは、それ自体は生の道具であるはずの知性による死の表象が生命の運動を鈍らせるとき、「知性による、死の不可避性の表象に対する、自然の防御的反作用」として仮構機能がはたらき、死んだ人の幻を生じさせるのだという、ベルクソン『二源泉』における死者の幻の説明を彷彿とさせる。その意味では、被知覚態には幽霊、死者の幻も含まれると言ってよさそうだ。
 また、「あまりにも耐え難いもの」、「生を脅かすものとその生との密着」という言葉からは、プリーモ・レーヴィの「人間であるがゆえの恥辱」が連想される。レーヴィは戦後、どうしてわれわれは収容所で抵抗できなかったのか(少数ながら抵抗者はいたのに)、抵抗すべきではなかったのかとの自問に苦しめられたという。「生が囚われの生であるまさにそのときに生を解放すること」はそれだけ困難なことでもある。もちろん、その恥辱は、骨の髄まで腐りきった政府とメディアのもとで暮らしている私たちにも言えることである。「わたしたちには創造が欠けている。私たちには現在に対する抵抗が欠けているのである」。
 
■巨人的諸次元
 抵抗とは創造のことだとドゥルーズは言う。何が創造されるのか。
「被知覚態は、望遠鏡的または顕微鏡的なものだと言ってよい。あたかも、どのような生きられた〔体験された〕知覚にも手が届かない或る生が、人物と風景を満たしてふくらませるように、被知覚態は、風景と人物に、巨人的な諸次元を与える。」(p288)
 この「巨人的な諸次元」とは何か? 日常生活のなかでふと感ずる小さな違和感を極限まで拡大したときに見える光景。しかし、それはなぜ巨人なのか。
「凡庸の力によって、さらには愚鈍あるいは下劣ささえの力によって、人物は巨大なものへ生成することができ、単純なものにはならないのだ(人物はけっして単純なものではない)。小人や不具者ですら、おおいに有用でありうる。あらゆる仮構は巨人の製造であるということだ。」(p288)
 この一節に付された原注8を邦訳書からそのまま引く。
「ベルクソンは『道徳と宗教の二源泉』(中村雄二郎訳、白水社)の第二章で、仮構を、想像力とはたいへん異なる〈幻視能力〉として分析している。この能力の本領は、神々と巨人たち、「準人格的な諸力あるいは実効ある諸現前〔「仮構機能と文学」の節〕」を創造することにある。仮構は、最初は宗教において行使されるが、美術と文学において自由に展開される。」(『哲学とは何か』p384)
 このようにドゥルーズは言うのだが、ベルクソン『二源泉』の該当箇所(「仮構機能と文学」の節)には「巨人」という言葉は出てこない(もちろん阪神も)。何度読んでも、どの訳本を見ても、原書にあたっても出てこないので困り果てた。たしかに、仮構能力は「精霊や神々をつくり出すようにできている」(中村訳)と言われてはいる。この「仮構機能と文学」の前後のパートで、ベルクソンは仮構作用の例として神話の神々や民間信仰の妖精について挙げている。ギリシア神話のオリュンポスの神々以前の古い神々はタイタン(巨神)とされており、ヨーロッパの民間信仰の精霊たちのなかにはトロールなど巨人とされる者もいる(トロールは小人としても描かれる)。ドゥルーズの言う「神々と巨人たち」とは、あるいはそれらのことを指しているのかもしれない。
 しかし、ドゥルーズがここで例として挙げているのは、バルザックや、フロベール『ブヴァールとペキュシェ』、ジョイスの『ユリシーズ』、ベケット『メルシェとカミェ』等の登場人物たちで、いずれの作品にも巨人も神々も出てこなかったような気がする。ほかにトマス・ウルフ、フォークナー、プルーストらが挙げられており、もちろん前後にはカフカ、ロレンス、メルヴィルらドゥルーズ劇団の常連も登場しているが、文字通りの巨人(巨大な身体の人間)が登場する作品に思い当らない。フランス語のGeantには、重要人物、スター、大物という意味もある。だから、ドゥルーズの言う巨人もこうした重要な登場人物という意味なのだろう、と考えるほかなさそうだ。
 ベルクソンは『二源泉』で、人物を創造する能力について述べた際、作中人物が作者に取り憑くことにふれている。
「この能力は小説や劇作家において、異常に強力な生命力をもつ。かれらの中には、自分の作品の主人公に本当につきまとわれているものがいる。かれらは自分の作品の主人公を導いていくというよりは、むしろ作品の主人公に導かれている。かれらは自分の戯曲や小説を完成してしまっても、作中の主人公を追いはらうのに苦労さえしている。」(白水社版旧全集6、中村雄二郎訳)
 中村が「つきまとわれている」と訳した語(obsede)は「取り憑かれている」とも読むことができる。仮構機能によって創りだされた人物とは、作者の代弁者ではなく、作者から独立して、作者に取り憑くようなものである。取り憑くものを創造すること、それは文字通りの創造と言うよりも発見に近いことではないのか。背後に気配を感じて、ふと振り向くと、それがいることを見出す。街の景色の中に、それが紛れ込んでいることにふと気づく。それに気づいた途端、それからは逃れられなくなり、ディテールと存在感は日に日にふくれあがり、ついには巨人的次元に達し、我等の囚われているこの恥辱に満ちた世界から我らの生を解放する何か。来たるべき民衆に呼びかける何か。ドゥルーズのヴィジョンはそういったものなのだろう。『哲学とは何か』と題された黙示録的書物を読みあぐねながらそんなことを思った。
 

★プロフィール★ 広坂朋信(ひろさか・とものぶ)1963年、東京生れ。編集者・ライター。著書に『実録四谷怪談 現代語訳『四ッ谷雑談集』』、『怪談の解釈学』、共著に最新作『猫の怪 (江戸怪談を読む)』など。ブログ「恐妻家の献立表」
 

Web評論誌「コーラ」39号(2019.08.15)
<心霊現象の解釈学>第17回:ドゥルーズは幽霊を見たか(広坂朋信)
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