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Web評論誌「コーラ」
38号(2019/08/15)

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(7月某日)なかなか寝付けず、やっと眠りについてうとうとしていたら、深夜、老母からの電話にたたき起こされる。玄関のドアをドンドンとたたく音がしたので起きて行ってみたが誰もいないのだという。お父さんが帰ってきたと言うのを、団地なので誰かが部屋を間違えたのでしょとなだめて電話を切り、時計を見ると午前2時半、既に日付はかわって亡き父の命日であった。あの日、病院から知らせが来たのは午前4時前だったが、おそらくこの時間にはすでに息をひきとっていたのだろう。
 ところで、こんな話がある。
 中山氏の奥方が子どもを連れて里帰りしたと聞いて、中山氏はさぞや淋しくしているだろうと知人が訪ね、座敷で酒を酌み交わしていたとき、押し入れから「びゐどろ」を吹く音がした。驚いて戸を開けてみると、昼間、屋敷に出入りの商人からもらった「びゐどろ」が紙にくるんでおいてあった。これを子どもはことのほか気に入って、(ぽっぺんぽっぺんと)吹き鳴らして遊んでいたものだ。音などするはずもないのにと元のとおりにしまっておいたら、しばらくしてまた音がした。不思議なこともあるものだと思っていたところ、中山氏の奥方の実家から急な使いがきて、たった今子どもが急死したと知らせてきた。(『耳袋』巻之五より。『耳嚢(中)』岩波文庫。引用者による現代語訳)
 老母の住む団地は音が響きやすい。どこか他の階でドンドンと壁を叩いた音が響いてくるということはありうる。ビードロは、ガラス細工のおもちゃで息を吹き込んだり吸ったりするとポッペンと音が出るようにしたもの、気圧や気温によって自然に鳴ることもあるだろう。
 さて、今回は、本来ならば前回の「幽霊の理論」を承けて、ベルクソニスムにおける幽霊の理論を描き出さなければならないところだが、最近ベルクソン再評価の機運があるらしく、主著の新訳や、ベルクソンが遺言で出版を禁じたはずの書簡集や講義録の刊行があいつぎ、一応はそれらに目を通さないと不勉強のそしりを免れない状況である。
 そこで、季節柄でもあるし、江戸時代の幽霊譚をご紹介しながら、「幽霊とは死んだ人の幻だ」という私なりの幽霊の定義を再検討して黒猫編集長の督促から逃れることをお許し願いたい。
 こんな話もある。
怨念無しと極難き事
 湯島聖堂で学んだ儒者で、今は高松松平家(讃岐高松藩の江戸屋敷)に勤めている、苗字は忘れたが佐助という男の話だ。若い頃に深川あたりへ講義に行った帰り道、日も暮れて黄昏時、帰ろうにもまだ家まで遠いと、永代寺の門前町の茶屋(売春宿)に泊って、遊女を呼んで遊んだ。夜更けになって寝ていると階下からしきりに念仏の声が聞こえる。(あれえなんだろうと思って耳をすましていると)階段を上がる音が聞こえてくる。(ぎしり、ぎしり…)足音は近付き、佐助の寝ていた座敷の障子越しに、誰かが廊下を歩いていく影が見える。(怖いなあ、怖いなあと思いながらも、ついつい)障子の隙間からのぞいてみると、長い髪をふりみだした女が両手を血だらけにして通り過ぎていった。気絶するほど恐ろしく、布団をかぶって震えていたが、やがて物音が静まったので、一緒に寝ていた遊女を起こし、「今ね、こんなことがあったんだよ」と話したら、女は「それはね…」と語り出した。
「この茶屋の主人はむかし夜鷹(街娼)の親方で、大勢の女を使っていたんだけど、そのうちの一人が病弱で、一日勤めると十日寝込んでしまうものだから、親方は怒ってたびたび折檻を加えていたの。女将さんは少しは慈悲の心があったみたいで、親方がせっかんするたびに、この娘は病気なんだからもうお止しよ、となだめていた。ある時、親方がいつも以上に怒って、その娘を殴ったり蹴ったりしていたところへ、いつものように女将さんが止めに入ると、親方はますます激昂して、脇差を抜いて自分の妻に斬りつけようとした、その時、いつもかばってもらっていたその娘が二人の間に立ちはだかって、振り下ろされた刃を素手で受けとめたの。手の指は残らず切り落とされて、その後、その傷がもとでその娘は死んでしまった。それからというもの、今もその娘の亡霊が夜毎に出て、ご覧になった通り。こんなわけだから、お客さんも日ごとに減るありさまでございます。」
 その後、幾ほどもなく右茶屋の前を通りしに、跡絶えて今は右家名も見えずとなり。(『耳袋』巻之一より)
 この話は、江戸時代の旗本・根岸鎮衛(1737-1815)の随筆集『耳袋』巻之一からとった。底本は『耳嚢(上)』岩波文庫。原文の趣旨が変わらない範囲で意訳した(以下、『耳袋』からの引例は同様)。『耳袋』は、その題名が現代の怪談集(『新耳袋』など)のタイトルに転用されることからもうかがえるように、江戸時代に語られた珍談奇談、特に怪異譚が多く収録されていることで知られる。
 『耳袋』に書き留められた幽霊談は数多あるが、そのなかでもこの話はいかにも怪談風の作為が感じられて、思わず稲川淳二氏風のあいの手を書きこんでしまったくらいだが、今は大名家に仕官している儒者が若い頃の思い出話として『耳袋』の筆者・根岸鎮衛に聞かせたことはおそらく事実であろう。
根岸鎮衛
 『耳袋』には珍談奇談怪談が多いが、そこから推してその著者を江戸時代のオカルティスト、あるいは軽信家のようにとらえるのは誤りである。根岸鎮衛は天明から文化にかけて、佐渡奉行、勘定奉行、南町奉行といった幕府の要職を歴任した。特に南町奉行は寛政十年(1798)から死去する文化十二年(1815)まで在職したというから、熟達の行政官であったことがうかがえる。ちなみに、根岸鎮衛が幕臣としてのキャリアを歩みはじめた宝暦八年(1758)は、のちに老中として辣腕をふるう重商主義者・田沼意次が頭角をあらわした時期で、根岸が勘定奉行に任じられた天明七年(1787)は、失脚した田沼にかわり老中になった潔癖な財政再建論者・松平定信がのちに寛政の改革と呼ばれる倹約と綱紀粛正を始めた年である。田沼意次と松平定信という、まったく違う個性の強い二人の上司のもとで出世し重用され続けたことを考えあわせると、バランス感覚の優れたリアリストという人物像の方が根岸鎮衛にふさわしいだろう。その有能な官僚が珍談奇談怪談を書き遺したのはなぜか。本人による序言を信ずるなら、面白いと思ったからであった。
「此冊子は営中勤仕のいとま、古老の物語或は茅屋を訪来し人の雑談、暫く耳にとゞまりて面白きと思ひし事、亦は子孫の心えにも成らんとおもふ事どもを、かたはらなる反故のうらに書きとゞめて一嚢に入置しに、塵つもる山とはなりにけり。」(『耳嚢(上)』岩波文庫)
 根岸は旗本とはいえ名門の家柄ではなく自らの才覚で叩きあげた苦労人である。それだけに「茅屋を訪来し人」の職業階層もさまざまで、提供される話題も市井の噂話、今で言う都市伝説のたぐいが多い。
「市中の鄙言など誠に戯れごとなれど、是を洩らさで書綴りぬ。数多き中にはいつはりの言葉もありぬべけれど、かゝる人の偽は知らず、唯聞し事を有のまゝにしるせり。」(『耳嚢(上)』)
 真偽は問わず、ただ聞いたままに書き留めたと言っている。次もそんな話である。
幽霊なしとも無極事
 天明二年の夏の初め(徳川幕府の統治を揺るがす遠因となった天明の大飢饉の始まる前年)のことである。
 浅草新し橋の町人の娘が、武家か町家かはともかくそれなりの家の男に見染められて、妾となって子どもを産んだ。さて、かの女は産後の肥立ちが悪く病床につき、生まれた子は近所の町人夫婦のもとに里子に出された。
 ある日の夕方、里親夫婦が子どもを寝かしつけていると、門口に立って会釈する者がいる。見ると、子どもの母親であった。里親夫婦は「よくいらっしゃいました」と出迎え、子を抱き上げて見せると、女は「あらあら、よく肥って育っていること」と抱きとってはしばらく子をあやし、「それにしてもこんなに可愛く育った子を残して別れるのも残念なこと」と言った。そこで里親夫婦はハッと気づき、この子の生母は重い病でふせっていると聞いていたが? と不審に思ったが、日も暮れて人の姿も定かには見きわめられない時間帯で、灯をともしているうちに女は子を返し挨拶をして立ち去った。その翌日、女の親元から、彼女が昨夕病死したとの報せがきた。母子の情捨て難く心の残りしも恩愛の哀れなること、と同町の田原医師が語った。(『耳袋』巻之二より。『耳嚢(上)』岩波文庫)
 さて、初夏の夕暮れに、若い母親の幽霊が里子に出した我が子と別れを惜しむ話は「幽霊なしとも無極事」と題されている。「無極」とは「極め難き」の当て字のようだ。「幽霊が存在しないと決めてかかるわけにもいかない」というほどの意味だろう。幽霊の実在を積極的に肯定しているわけではない。むしろ、幽霊は存在しないという一般論があるのを前提として、ただそうとばかりも言えない場合もあるだろうというニュアンスである。最初に挙げた巻之一の「怨念無しと極難き事」も同じような題の付け方である。他にも『耳袋』にはこれと同じパターンのタイトルが収められている。
 こんな話である。
幽霊なきとも難申事
 私(根岸)のもとへよく訪ねてくる栗原(講釈師・人相見)は、小日向(東京都文京区)に住み、その界隈の旗本の屋敷に出入りしているが、とりわけ懇意にしている家に五歳の子どもがいた。実に可愛らしい子どもで、栗原もとても可愛がり、その家を訪ねるときはその子への土産を持っていった。しばらく訪問が途絶えていたが、その旗本屋敷より「今晩は是非にも来てくれ」と言ってきたので、玄関を上がり勝手の方に通じる廊下を歩いてゆくと、かの子どもがいつものように出てきて、栗原の袖を引いて勝手の方に連れてゆく。勝手の方ではなにやらしめやかに屏風を立てているので、「病人でもいるのかな」と入って行くと、屋敷の主人が出てきて「かねてより可愛がっていただいたせがれ、五歳になりましたが、疱瘡にてあい果てました」と語るので、驚いたばかりでなく身の毛のよだつ思いがしました、とは栗原から直に聞いた話である。(『耳袋』巻之五より。『耳嚢(中)』岩波文庫)
 根岸はこれも幽霊は無いとは言えないケースとして記録した。タイトルも「怨念無しと極難き事」(巻之一)、「幽霊なしとも無極事」(巻之二)に対して「幽霊なきとも難申事」と表記が少しずつ違うが、ほとんど同じ意味である。一般論としては幽霊はいないと言われているからそうなのだろう、だから幽霊の実在を積極的に肯定するわけではないが、こうした話を聞くといないと断言はできない、というニュアンスである。
 根岸が意識している一般論とは、幕臣の共通教養であった朱子学である。万物の変化を気の集合離散で説明する朱子学の形而上学では、人間の死後、肉体とともに精神を形成していた気も拡散してしまうはずなので、死者の姿が見える現象を説明するのは難しい。議論が無駄に複雑になってしまう。
 そこで根岸としては、幽霊はいるはずもない理屈だが、こうした話を聞くとそうとも決め難いと題したのだろう。
 
ガス状の気体
 幽霊を死んだ人の幻であるとする私の主張は、幽霊の存在を否定するものではなく、ただその特徴を指摘するものである。
 しかし、読者のなかには、幽霊が幻のように感じられるのは、霊が実体的存在ではないからではなく、非常に微細な「気」で成り立っているからではないのか、という考えをお持ちの方もおられよう。すなわち、生きているときは身体と同一化している「気」が、死、または深い瞑想などによって身体から「幽体」として離脱し、「気」に対する感覚の鋭い人の前に表れたのが幽霊なのだ、という主張である。
 ここで「気」とは何かという形而上学的な議論をする気は毛頭ない。「気」と「魂」と「魄」と「精神」と「心」と「意識」と「アストラル体」と…などなどを矛盾なく区別して定義しようという試みは、一見、緻密な論理であるように見えて、その実、無益な言葉遊びである。悪しきスコラ談義とはこういうことをいうのだ。
 思い切って単純化して言えば、テレビドラマや映画、マンガなどで死体から半透明のガス状の気体が立ちのぼり、それが形をなして幽霊となる場面が描かれることがある。あのガス状の気体が「気」である。
 「気」はもともと江戸時代の官学であった朱子学の基本概念であり、広く自然現象一般についての説明原理だった。したがって安直なイメージ化はできないはずなのだが、やはり拡散すれば目に見えない希薄な気体で、凝集すればなにかの形をとると考えられていた。
 
天地の間に生ずる物はみな気よりおこれり
 江戸時代の在野の学者、山岡元隣の『古今百物語評判』には幽霊を「気」によって説明する次のような問答がある。
又問ふていはく、「然らば凡そ人間のこんはくは此形死し候へば、とかく消えうせ候ふ物と仰せらるゝぞならば、或は戦場の跡などに人のなきさけぶ声のきこへ候ふ事など、たゞしき書物にもみえ、又左伝にも、彭生と申す者の幽霊きたりて、死したる後に怨をむくひし事など、書きのせし由承りおよび候ふ。是れは儒書にて候ふが、其説おぼつかなく候ふ」といへば、
先生いへらく、「生死有無の論は出類の見識ある人ならではかたりも聞かせがたく侍る。すべて世の中の事に、常と変と御座候ふが、人死してたましゐのちりうするといふは常なり。万古かくのごとし。其気の残りて彭生がごとくなるは変なり。万分の一なり。変とは常にあらずしてたまゝゝあるをいふ。たとへば人の気おとろえ形つかれて病死する人は、火のおのづからきえて、其灰にもあたゝかなる気のなきがごとし。或はうらみ死ににしぬるか、又は剣戟のうへにて死ぬる者は、其気も形もおとろえざるに俄にしするなれば、いまだもゆる火に水をかけてきやせる時は、其あたゝかなる気しばしはのこるが如し。されば其人のがうきやうなる次第によりて、其気ののこる事も浅深厚薄あるべし。」
又問ふていはく、「其気の残る事は承りつ。其気ののこりて形の生する事はいかんぞや」。
云く「天地の間に生ずる物はみな気よりおこれり。気のとゞこほるによつて形を生ず。たとへば煙のすゝになるがごとし。煙にてみたる時は、かたちもなく手にもとられずといへども、其つもりてすゝになりたる時は、手にとらるゝなり。是れ気は質の始めなる所なり。されば其気のとゞこほりて、或は形をなし、又は声を生ずる物を幽霊といふなれと。猶此ゆうれいも程ふるに及びて、其とゞこほりたる気の散ずるに随ひて消うするなり。(「うぶめの事付幽霊の事」より。太刀川清校訂『続百物語怪談集成』国書刊行会所収)
 幽霊とはなにかについての問答である。本来は人の魂は死ねば「気」が散失してそれまでだが、ごくごくまれには「気」が残ることもあるといっている。
 この問答の前半で「気」は、「人の気おとろえ形つかれて病死する」、「剣戟のうへにて死ぬる者は、其気も形もおとろえざるに俄にしする」のように生気という意味で語られているが、後半では煙に喩えて、「気」がとどこおって形を生じ、散じるに随って消え失せると言われているように、明らかにガス状の気体のイメージで捉えられている。
 
離脱する「幽体」
 幽体離脱説はヨーロッパの心霊学経由の「幽体」(アストラル体)という概念を用いているが、その内実は山岡元隣の「気のとゞこほりて、或は形をなし、又は声を生ずる物を幽霊といふ」という幽霊理解と大きな違いはない。幽体離脱説は、江戸時代と同じレベルだから駄目だと言いたいわけではない。むしろその逆である。
 元隣は市井の啓蒙家であり、その「気」の理論が現代人から見れば神秘的に感じられようとも、本人はいたって合理的な態度で説いている。もちろん、現代の科学的知識を基準にした合理性と質は違う。
 元隣の合理主義は例外を認める合理主義なのである。引用した文中にも「人死してたましゐのちりうするといふは常なり。万古かくのごとし。其気の残りて彭生がごとくなるは変なり。万分の一なり。」とあるように一般論(「常」)を説きながらも例外(「変」)を認める立場に立っている。
 これが近代科学では許されない。近代的合理主義が目指しているのは普遍性である。ある法則に例外が生じたらその法則はある条件の下での法則だったということになり、例外をも説明しきれる新たな理論が要請される(例えばニュートン力学で説明のつかない現象をアインシュタインの相対性理論が説明したように)。もちろん、現実にすべてを説明しきれる包括的理論があるというわけではない。しかし、それを目標にして努力するのが近代合理主義の宿命なのだ。
 ところが元隣は例外を認める。これは元隣の合理主義が普遍性を目指していないことを意味する。普遍性を目指さない江戸時代的合理性は、普遍性を目指す近代科学的合理性と対立することはない。もちろん近代科学の立場からは元隣の態度は否定されるだろうが、元隣の側から見れば、近代科学も現象を理解するためのいくつかのツールの一つとみなすだろう。例えば蘭学を思い浮かべてみてほしい。平賀源内は近代合理主義を理解していなくともエレキテル(発電機)を作ることができた。
 心霊主義の唱える幽体離脱説が無理なのは、それが近代科学とは異なる原理であるのに、それをもって科学と対決し、自らの主張を科学によって正当化させようとするからである。どうしてもそうしたいのなら幽体と称するガス状の気体を缶詰にして見せなければならない。しかし仮にそれができたとして、缶詰になった途端にそのガス状の気体は形而上学的説明原理としての効力を失う。ただの物質になってしまうのだ。
 
陰摩羅鬼
 次に挙げる話は、草創期江戸幕府において文教官僚のトップであった朱子学者、林羅山が中国の怪談を編纂した『怪談全書』にある話である。
 
「陰摩羅鬼(おんもらき)」
宋ノ世ニ鄭州ノ崔嗣復ト云フ人アリ。郭城ノ外ノ寺ニ入リテ、法堂ノ上ニ休息シテ眠ル。俄ニ物ノ声アリテ、崔ヲ叱ス。崔驚イテ起キテ見レバ、鶴ノ形ニテ色黒ク、目ノ光ルコト燈火ノ如クニシテ、羽ヲフルヒテ鳴声タカクアラシ。崔恐レテ、廊下ヘノイテ伺ヘバ忽チ見エズ。明朝コノ事ヲ寺僧ニカタル。僧答ヘテ「コ々ニ左様ノバケ物ナシ。但シ十日以前、死人ヲ送リ来ルコトアリ。カリニ収メ置キタリ。若シソレニテモアランヤ」ト云フ。崔都ニ至ツテ開寶寺ノ沙門ニ告ゲケレバ「蔵経ノ中ニ、初メテ新ナル屍ノ気変ジテ如斯。コレヲ陰摩羅鬼ト号ク」ト云ヘリ。清尊録ニアリ(林羅山『怪談全書』より)
 死体から生じる「気」が変じて、幽霊ではなく鶴のような化け物になったというのである。これは中国の書物『清尊録』にあるという話だが、いわば幕府お墨付きの怪談集に掲載されていることでもあり、また『太平百物語』に京都で起こったこととして作り替えられていることからもうかがえるように、日本でもよく知られていた。
 なお、この話では「気」が変じて成ったのは鶴のような化け物であり幽霊ではないが、水辺で見かける首の長い鳥(日本では鷺)は幽霊の正体とみなされたり、幽霊がさらに変じて成ったものとみなされたりしている例が文献にある。『耳袋』にも、幽霊だと思って打ち殺してみたら鳥だったので煮て食べたという豪快な小咄がある(巻之七「幽霊を煮て喰ひし事、『耳嚢(中)』岩波文庫)。なぜ鳥が幽霊と同一視されたのかは、それ自体興味深いことだが、ここでは指摘しておくにとどめる。
 ここでの問題は、陰摩羅鬼が死体から発する気が変じてなった妖怪だとされていることである。死体から生じた気が形になるのであれば、その死体であるところの誰かの幽霊になるのが自然なことではないだろうか。どうして幽霊になり損ねたのだろう。
 実はこの中国の怪談を紹介した林羅山が学び、江戸幕府の官学とした朱子学は、中国、朝鮮を含んだ漢字文化圏で圧倒的な影響力をもつ学問の主流だったのだが、その朱子学では、幽霊は存在できない。次に引くのは朱子の言葉である。
集まって生じ、散じて死ぬるものは、気にほかなりません。知覚をもった精神魂魄といわれるものは、すべて気のしわざです。ゆえに、集まれば存在し、散ずれば存在しません。(『世界の名著19 朱子 王陽明』中央公論社)
 そして「人や物が死んでからの知覚を認めて、それを実際の道理」だとすることは「とんでもない誤り」だとしている。つまり、死後の霊魂の存続という、一般に幽霊の存在条件と思われている事柄は、朱子学ではあり得ないことになる。近代的な合理主義とは異なるが、一種の合理主義的傾向をもった思想である。
 一方で朱子は儒学者として祖先祭祀など伝統的な倫理習俗を称揚していたからここに矛盾が生じる。死後の霊魂が散じて存在しないならば祖先祭祀など無駄ではないか、と弟子に突っ込まれた朱子は、気がすべて散ってしまうわけではないから、と苦しい説明をした揚げ句、「このことは説明しにくい。人が自分で理解しさえすればよいのだ」と確答を避けている。朱子学の元締めがこうなのだから、現象としての幽霊を認めたうえで「気」の概念で怪異を解釈しようとした山岡元隣の説明が苦しかったのも当然かも知れない。
 さて、「気」という言葉は生々流転する自然の事象を、凝集と拡散という動的なイメージで大づかみに把握しようとする概念装置である。大森荘蔵はこうした朱子の自然観の特徴を「徹底的に略画的」とし、「細部にこだわらないようにせねばならない」(大森『知の構築とその呪縛』ちくま学芸文庫)としている。細部にこだわらなければ「気」はよく自然界の動きを描写できる。すべての現象を「気」という言葉で解釈できる万能の理論である。
 ところが死後の霊魂の有様については「気」では説明できない。いっそのことそんなものはないと言い切ってしまえばスッキリするのだが、朱子はそうしなかった。これは明らかに矛盾である。この矛盾を嘲笑うように出現したのが陰摩羅鬼である。
 陰摩羅鬼が通常の幽霊のように生前の姿をとらず鶴の化け物として登場したのも興味深い。朱子は仏教僧の説く輪廻転生を否定して「散じつくした気は、すっかり変化してもとの形はなくなります」という。死体の気が鶴の化け物としてあらわれたのは、朱子の言葉を真に受けるとこういうことになるのだ、という皮肉なのかも知れない。
 
なぜ無いとは言えないのか
 さて、『耳袋』から取り出した話に戻り、私なりに内容を検討してみよう。「怨念無しと極難き事」(巻之一)は、いかにも怪談らしく語られたもので、ただちに実体験の記録とは認めがたい。仮に実体験だとしても、佐助の見た異様な女の姿と、「さればとよ、此家の主は其昔…」と遊女の語り出した因縁話とのあいだに関係があるかどうかはわからない。例えば、怖い夢にうなされて目を覚ましたものの寝ぼけて夢を現実だと思っている客を遊女がからかった可能性も捨てきれない。しかし、根岸は、無いとは言えないとした。
 わが子との最後の別れを惜しむ若い母親の幽霊、「幽霊なしとも無極事」(巻之二)は、実体験の記録だとすれば、目撃者が二人いるので貴重な記録である。集団幻覚という便利な言葉を使わずに考えると、やはり、そこに、つまり赤子を引き取って育てている夫婦の家の門口に、幻ではない誰かがいたのだろうと考えるのが順当だ。その誰かを、夫婦は赤子の母親だと認識した。時刻は夕暮れ「最早火も灯す時分」、「人影も定か成らざる故、火など灯しければ」女は挨拶をして去っていった。
 江戸の夕暮れは暗い。夫婦は女の顔をはっきりと見ていないのではないか。そもそも、夫婦は養子の生母の顔を知っていたのだろうか。訪ねてきた女が言った言葉として記憶されているのは「扨々よく肥り成人いたしたり」と「扨々可愛らしく成たる者を捨て別れんも残念や」だけである。彼女は名乗ってもいないし、赤子を「我が子」とも言っていないのである。子どもを寝かしつけようとしていたところに、たまたま門口に通りかかった若い女と目が合い、会釈をした。女は世間話のつもりで、子どもがかわいいとあやし、お世辞のつもりで、こんなかわいい子と別れるのは残念と芝居がかった冗談を言って立ち去った。夫婦はそれを生母が訪ねてきたと思い込んだという可能性はないだろうか。そして、翌日、生母が昨夕死去したとの知らせが来たので、嗚呼あれは最後の別れに来たのだったかと、本人たちも話を聞いた医師も考え、「母子の情難捨心の残りしも恩愛の哀れ成る事」と感じ入ったということもないとは言えない。
 講釈師の栗原は根岸にとって楽しい情報提供者であったようで、『耳袋』のなかに記されている奇談の話者としてたびたび登場する。その栗原の「幽霊なきとも難申事」(巻之五)は、「直に右栗原かたりぬ」とあるから、栗原の実体験である。栗原は講釈師だが、講釈師だからといっていつも見てきたような嘘を言うとは限らないし、そもそもこの短い話には講釈師流の作為が感じられない。可愛がっていた幼児(5才)が死んだとは知らず、その屋敷を訪れた栗原が勝手知ったる気安さでいつものように玄関をあがって奥へ通ずる廊下を歩いていたら、いつものようにその家の幼児が出て来て袖を引いた。栗原がその屋敷を訪ねると彼になついていた幼児が出迎えるのは、あるいは習慣になっていたことかもしれない。久しぶりの訪問に、無意識のうちにその記憶がよみがえり、実際にはその子はいないのに、あたかもいつものように出迎えられたと思い込んだという可能性も否定はできない。
 このように、『耳袋』でよく似た題名を持つ三つの幽霊譚は、それぞれ別の解釈もできる話なのだが、根岸はいずれも、無いとは言えない話というカテゴリーに含めたのである。そもそも根岸は話の内容について真偽は問うていない。「数多き中にはいつはりの言葉もありぬべけれど、かゝる人の偽は知らず、唯聞し事を有のまゝにしるせり」。だから、否定はできないというのも、内容が事実かどうかを基準にしてはいないだろう。根岸が否定はできないとした理由は、道徳感情にあるように思う。病弱ゆえに虐待された遊女の幽霊の話は、非道な雇い主を懲らしめる勧善懲悪の話であり、ましてや、いつも自分をかばってくれた女将を身を挺して救った挙句の死であったとなれば同情を呼ぶのは当然である。赤ん坊をあやした女を死んだ実母だと認定した話は、「母子の情難捨心の残りしも恩愛の哀れ成る事」と感想が記されているように、親子の情の篤さを語る話である。知人の子どもに袖を引かれたのは、幼い子になつかれていたことを示している。これもまた恩愛の物語である。
 もし根岸がこうした基準で判断していたとしたら、それは朱子が祖先祭祀を中心にした儒教倫理の維持のために「気はすべて散ってしまうわけではない」とした態度に通じるものがある。
 
判断停止の基準
 しかし、根岸にはそれだけではない何か別の判断の、または/むしろ、判断停止の基準があるようにも思う。私の悪い癖で怪談ばかり拾い読みしてしまう『耳袋』だが、収録された話をただ順番通りに読んでいくと、各話のあいだにある程度の関連性があるのに気づく。いちばん目につくのは薬や民間療法の話で、二つ三つ続くことがしばしばだ。他にも和歌の話に狂歌の話が続くとか、話の内容は違うけれども語り手または登場人物が重なっているとか、なんらかの関連のある話が続けて収められている場合が多い。もっとも例外も同じくらい多いので、一貫した編集方針があったわけではなく、連想による傾向というほどのものだろう。
 講釈師栗原の語る「幽霊なきとも難申事」(巻之五)は、『耳袋』ではその直前に「幽霊奉公の事」という文が置いている。弘法大師空海の開いた高野山は女人禁制の霊場だが、後世になると、宗祖の戒めを破る悪僧もいるらしいとして次のように語られる。
「寛政八年の頃、営士花村某の許に抱し女、至て色青く関東の者ならざれば、傍輩の女子など出生を尋しに、「高野山にて幽霊奉公といへるを勤めし」由。幽霊に成て凡俗を欺き、悪僧の渡世となしけるとや。虚談にもあるべけれど、又有まじき事共おもはれず、爰に記しぬ。」
 花村家で新たに雇った女中は「高野山で幽霊奉公をしていた」という。つまり青白い容貌を活かして幽霊の扮装をして人々の前にあらわれ、強欲坊主の霊感商法の助手を勤めていたということだろう。根岸はウソだろうが、ありえないことではないので書き留めたとしている。実際、欧米の近代心霊術にも数多の例があるから、ありえないことではない。この「幽霊奉公の事」に続けて「幽霊なきとも難申事」を読むと、トリックによって出現させた幽霊(幽霊奉公)に対比して、死者の幻の目撃談としてシンプルでありそうな話「幽霊なきとも難申事」が語られる構成になる。ただし、ありそうな話はあくまでもありそうな話であって、講釈師の語る話にも何らかのトリックが仕掛けられているかもしれない(講釈師を出迎えた子どもが幽霊奉公をしていた可能性も捨てきれない)。「虚談にもあるべけれど、又有まじき事共おもはれず」というのが、無いとは言えない(「なきとも難申」)という題のニュアンスであろう。
 母と子の恩愛の物語「幽霊なしとも無極事」(巻之二)は、その次に「執心残りし事」が続く。「是も右最寄の事也」と書き出されているから、舞台は浅草新し橋界隈である。おそらく情報提供者も同じ田原医師であろう。その日稼ぎの小商いで貧しく暮らしている男がいた。ずいぶん律儀者で、コツコツ稼いで金十両余りを貯めていた。(中略)その後、病気になって男が死んだ後、子どもも親類もないので、町内の世話役たちが集まって簡単に寺に葬り、遺産をあらためたところ、金十両余りが残っていたので、これを世話役たちで分配した。
「其の日より兎角に右老人元店の前に立居たり。亦は其辺にて彷彿と見えし沙汰頻りなれば、大屋・店請も大に恐れ、右金子を以厚く弔ひ、法事なども十分にいたしけると也。」
 爪に火をともすような倹約をして貯めた虎の子に執着して、死後もその姿を現わしたという話である。「幽霊なしとも無極事」では「母子の情難捨心の残りしも恩愛の哀れ成る事」と評価された恩愛も、死んでもなお残る金銭への執着と同列に置かれている。道徳感情による評価と言うよりも、気は死ねば拡散してしまうはずだが、ごくまれには強い執着心が求心力となって生前の姿を再現することもないではないという考え方で、『百物語評判』の「其人のがうきやうなる次第によりて、其気ののこる事も浅深厚薄あるべし。」という説明と通ずるものがある。そういうこともないではないとされていたと根岸自身も思ったから、この二つの話を並べたのだろう。
 そして、「怨念無しと極難き事」(巻之一)の直前には「微物奇術ある事」と題した短文が置かれている。日下部丹波守(旗本・長崎奉行等歴任)の話として、日下部家の庭の池に、「秋の頃蜻蛉多く集りて飛廻りしに、池中の鮒数十右蜻蛉を見入たるや、くるくると水中を右蜻蛉について廻りしに、後は蜻蛉も同じく廻りけるが、おのれと水中に落入りしを、数多の鮒集りて喰いし」という、微物(小さな生き物)、この場合はフナにも巧妙な技術があるものだという話である。
 当初はフナが、くるくると飛び回るトンボにつられて泳ぎ回っていたのだが、やがてはトンボの方がフナにつられて目を回して落ちたということなのだろうが、はたしてトンボがフナを引きまわしていたのか、フナがトンボを引きまわしていたのか、にわかには決められない。この話に続いて書きとめられたのが「怨念無しと極難き事」であることを念頭に置いて考え直してみると、同衾している遊女をおどかすつもりで怖い話をしてみたものの、遊女の方が一枚うわてで、男の夢または思いつきの上を行く因縁話を語って見せた、しかもこの茶屋は客足が悪いので近々廃業することも織り込みずみで。ということも考えられなくはない。騙したつもりが騙されて、世間とはそういうものであろうよ、と老獪な奉行の声が聞こえてくるような気がする。


★プロフィール★ 広坂朋信(ひろさか・とものぶ)1963年、東京生れ。編集者・ライター。著書に『実録四谷怪談 現代語訳『四ッ谷雑談集』』、『怪談の解釈学』、共著に最新作『猫の怪 (江戸怪談を読む)』など。ブログ「恐妻家の献立表」
 

Web評論誌「コーラ」38号(2019.08.15)
<心霊現象の解釈学>第16回:幽霊の理論──江戸編(広坂朋信)
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