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Web評論誌「コーラ」
37号(2019/04/15)

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 幽霊は心霊学の特権的な対象である。幽霊の定義には歴史的な変遷、文化的な差異があり、それについては、例えばJ=C・シュミット『中世の幽霊』(みすず書房)や最近では小山聡子・松本健太郎編『幽霊の歴史文化学』(思文閣)などの研究があるが、私は、幽霊とは「死んだ人の幻」であると定義する。比喩として人以外の幽霊もありえるが、私の考えでは、その原型はやはり人のかたちをした幻である。
 
■単なる経験の対象としての幽霊
 幽霊についてあらためて考えてみる。日本語でいう「幽霊」は、死霊とも亡霊ともいう。死霊も亡霊も死んだ人の霊という意味である。
 霊魂というものは、人の生命活動や意識活動の実体であると考えられている。しかし、幽霊を言葉通りに死者の霊魂だとして厳密に考えようとすると、心身問題や他我問題のような不都合が起きる。そこで、この幽霊というものを、観念的に生命活動や意識活動の実体である霊魂だとはせずに、経験にあたえられるままに人の姿のことだとしておく。
 経験の対象としての幽霊とは、死んだ人の幻である。こう言ったからといって幽霊に出会うという体験のリアリティを否定したことにはならない。幻とは見たり聞こえたりしているのに触れることができない、あるいは、たった今まで触れることさえできたのに気がつけば跡形もなく消えてしまう、そういう現象をいうのである。
 想像してみてほしい、もし幽霊が幻でないとしたら、どうなるだろう。
 目の前に幽霊がいる。それは人の形をしたものだ。幽霊は決まって白い服を着ているものと思いこんでいる人も多いが、それは埋葬されるときに死体に着せられる経帷子の連想から作られたイメージであって、実際に幽霊と出会ったという人の体験談によれば、生前の普段着で現れることが多い。したがって、幽霊は見た目は生きている人とどこも変わりはない。その幽霊が幻ではないとしたらどうなるか。幻でない場合、それはただの人である。
 会話もすれば、握手も、抱きしめることもできる。殴られれば痛がる。体温があり、体重計に乗れば重さが、血液検査をすれば尿酸値や血糖値が計測される。突然現れた幽霊を見て驚けば血圧も挙がる。煙のように消え去るわけでもなく、一定期間ある場所にとどまって、そこから立ち去るときも壁や電信柱を避けて行く。おまけにその姿はあなたにだけわかるというのでもなく、あなたの周囲の人も(おそらく誰であっても)その人物の存在を認知している。ついでに写真にも写るし、声も録音できる。世間では、幽霊は肉眼では見えないのに写真には写ると考えている人の方が多いようだ(いわゆる心霊写真)。しかし幽霊がもし幻ではないとしたら、つまりどこからどう見ても生きている人間そっくりで、かつ写真にも写るとなれば、やはりそれは生きている人間だということになりはしないか。
 こうした場合、その人物が実は幽霊であると主張したとしても誰も信じてくれないだろう。それでもなおその人物が確かに幽霊だとするならば、ただ一つ生きている人間と違うのは、その人物が死亡しているはずだということだけだろう。しかし、どこからどう見ても生きている人間と変わりがないならば、そもそもその人物が死亡していたという情報が間違っていたのではないか、と疑ってみるのが常識である。
 このように、幽霊は幻でなければならないし、その人の姿が幻であることの、もっとも確実な場合とは、その人がすでに死んでいる場合である。
 幽霊イコール死霊とすると起こる不都合とは、死んでいない人の幽霊もいるからだ。生霊という。しかし、「死んでいない人の幽霊」と聞いてすぐさま生霊という言葉を思い浮かべるのは幽霊通であって、普通の人なら言葉の矛盾にあきれることだろう。日本語の日常的な用法では、死んでいない幽霊というのは、すなわち生きている人のことである。それにもかかわらず生霊がやはり幽霊の一種とみなされるのは、生きている人ならその姿形にはそれに対応する物質的実体、手触りとか体温とか重さとかが伴っているはずなのに、それがないからである。
 目の前に確かに姿が見え、声も聞こえる人物を生霊だとみなすのは、その人物が決してここにいるはずがないことがわかっているからだ。あるいは、そのときは気づかなくても、あとになってその人物のアリバイを確かめたところ、そのときその場所にいたはずのなかったことがわかれば、その人物を生霊だとみなすこともできる。
 しかし、昨今は科学の進歩のお陰で、目の前に確かに姿が見え、声も聞こえる人物が、今まさにその姿を見ている「ここ」からはるか遠くのテレビ局のスタジオにいることも多くなった。テレビ画像を生霊といっても本質的な不都合はないと私には思われるのだが、生霊という言葉の伝統的なニュアンスに敬意を表して科学的な説明ができるケースは除くことにしよう。したがって蜃気楼のような自然現象による場合も除外する。
 さて、ここまで述べてきた事柄のうちに「幽霊(の出現)」という怪異の本質が見出せる。幽霊の出現とは、そのときその場所にいるはずのない人の姿が見える(声が聞こえる)現象のことである。そこにいるはずのない人は生きている場合もあればすでに死んでいる場合もある。なかでも死霊が怪異の中心になるのは、死者とは本質的にこの世にいるはずのない人だからである。この違いは決定的であるから、本稿では以下、幽霊とはおもに死霊のこととして話を進める。
 
■幽霊の理論―『啓蒙の弁証法』より
 以上、これまでこの連載で書いてきたこととの重複を避けずに、幽霊についての現段階での私の意見を率直に述べた。これは幽霊を見たという人の話を聞き、心霊スポットと呼ばれる場所に足を運んだ経験から考えだした定義であるけれども、形而上的な独断、よくいっても推断、悪く言えば妄想だろう。それは承知の上で、他に考えようがなかったという意味で、幽霊とは死んだ人の幻だと定義する。
 幽霊の有りようは死んだ人の幻だとして、はたしてこの幻はどのような意味を持つのだろうか。言葉をかえて言えば、私たちはなぜ幽霊を必要とするのだろうか。それともなんら意味のない白昼夢のようなものなのだろうか。この幻の出現する意図は死者の側にあり、生ける私たちには忖度しかできない、という可能性もあることを忘れずに、けれども今はそれは棚上げにして、とりあえず私たちにとって死者の幻を見るという体験が何を意味するのか、先哲のいうところに学ぼうと思う。
 ベンヤミンとも因縁のあった、アドルノとホルクハイマーの共著『啓蒙の弁証法』(岩波文庫)の「手記と草案」に「幽霊の理論」と題された小文が収録されている。ホルクハイマーらは、幽霊を信じるのは故人への疚しさからだというフロイト説は平板にすぎるとして「死者への憎悪は、罪責感に劣らず嫉妬の情」によるのだという。
「後に遺された者は、自分が見捨てられたと思い、自分の苦しみを、それを引きおこした死者のせいにする。死がまだ直接に生存の継続と思われていた人類史の段階では、死んだから見捨てるというのは、当然裏切ることに他ならなかった。啓蒙された人の間でも、こういう古い信仰は、通例まったく消え去ったわけではない。死を絶対的な無と考えることは意識にはなじまない。絶対的な無などは考えられない。しかも人生の重圧がふたたびのしかかってくると、遺された者たちには、ともすれば死者の境遇の方がずっとましなもののように思えてくる。身内の死後に遺族たちが、彼らの生をあらためて組み直すやり方、つまり熱心に葬式を営んだり、あるいは逆に調子よく合理化して忘れようとするのは、昇華されることなく心霊術という形で広く蔓延している亡霊信仰の、現代的対応形態にほかならない。絶滅を前にしての完全に意識化された恐怖だけが、死者への正しい関係を設定する。そこでは死者と生者は一つになる。なぜならそこではわれわれもまた死者たちと同じ情勢の犠牲者であり、同じ挫折した希望の犠牲者だからである。」(『啓蒙の弁証法』岩波文庫、446〜447頁)
 私はしばらく前から、このホルクハイマーらの「幽霊の理論」をどう理解すべきかについて考えあぐねていた。冒頭はフロイト説への批判から始まるが、この文章をフロイト批判として読んでも手ごたえを感じない。短い文章だし、特に難解というわけでもないが、何だかとらえどころがないのだ。ところが、今回、幽霊についての私たちの経験を考えるうえで、先行説はないかとベルクソン『道徳と宗教の二源泉』を読み返していたら、ホルクハイマーらの「幽霊の理論」が念頭に置いているのはこれではないかと思われる記述を見つけた。
 
■仮構作用
 ベルクソンが、生きている人の幻を見る体験について肯定的に評価したことは以前にも述べた。ただし、ベルクソンの挙げた例は、日本語の伝統的な用法における生霊のイメージからややずれていて、正夢とかテレパシーとでも言った方がよいケースだった。それでは、死んだ人の幻についてはどこかで言及していなかったか、と探してみたら、あった。
 ベルクソンは『道徳と宗教の二源泉』の第二章「静的宗教」で、仮構機能のはたらきの一例として、肉体の死後も生き続ける霊魂の表象(つまり幽霊)を取り上げた。
 ベルクソンにおける幽霊の理論は、仮構機能によって宗教が発生することを説く文脈で語られているので、まず仮構機能について見ておく。仮構機能は、日常的な語感では想像力と言い換えられそうに思う。ただしベルクソン自身は想像力という語を使わない。それは想像力という語が、現在の知覚でも、過去の記憶の表象でもない知覚像という消極的な意味しかないからだという。それに対して、仮構機能は、知性によって引き起こされる危機を回避するために発動される一種の防衛反応という積極的な定義があるとする。これはベルクソンがそう言うのであって、一般的な語感ではないかもしれない。例えばサルトルは想像力という語に積極的な意味を与えようとしたように思われる(『想像力』『想像力の問題』)。しかし、ここではベルクソンにしたがって話を進める。
 ちなみに、仮構機能の原語はfunction fabulatriceである。Functionの訳語は「機能」で定着しているが、問題は fabulatriceをどう訳すかだ。同じ文脈でベルクソンはfabulation(仮構作用)という語も用いている。このfabulatriceもfabulationも、fable(寓話・作り話)から派生した語なので、岩波文庫の高山訳では原語の語感を活かして、想話機能と訳している。ほかに創話機能という訳語もある。いずれも原語の語感を活かした訳だが、必ずしも原典の文脈に沿った訳語だとは言えない。想話とか創話と書くとその字面から物語を作りだすような印象が生じるが、function fabulatriceが作りだすのはニセの知覚・幻であるとされている。そもそも想像力imaginationという語を避けるためにもちだされた表現であって、その活動範囲が広がると神話やひいては文学の創作にも結び付けられていくが、原初的な場面で行なわれるのは知覚像の作成である。そこで白水社旧全集版の中村雄二郎をはじめ、中公クラシックスの森口美都男、講談社学術文庫の市川浩、の各訳者は「仮構機能」と訳したのだろう。私もとりあえず仮構機能・仮構作用と表記する。
 仮構機能のはたらきの例として、ベルクソンは心霊学が収集した事例の一つを挙げる。この連載で以前にもご紹介したが再掲する。
「ある婦人があるホテルの上の方の階にいた。彼女は下に降りたいと思って、階段の踊り場に赴いた。エレベーターの箱を閉めるための柵がちょうど開いていた。この柵は、エレベーターがその階にとまった場合にしか開かないはずであったから、彼女は当然エレベーターがそこに来ているものと信じ、それに乗ろうと突進した。突然彼女はうしろにつきとばされるのを感じた。つまりエレベーターを運転する係の男が現われきて、彼女を踊り場に押しもどしていたのである。その瞬間、彼女は放心から立ちかえった。そこには男もエレベーターも来ていなかったことを確認して、彼女は茫然とした。装置が故障していたので、エレベーターは下の方にとまっていたのに、柵は彼女のいた階で開くようなことがありえたのであった。彼女はなにもないところへ突進しようとしていたのであった。つまり、奇跡的な幻覚が彼女の生命を救ったのであった。」(中村雄二郎訳『道徳と宗教の二源泉』白水社)
 ちなみに、この事例について、ベルクソンは素朴な実体験とみなしているが、あるいは当時の、エレベーターをめぐる都市伝説に影響された寓話である可能性もないではない。ただ、そう断定するほどの証拠をまだ得られていないので、ここではベルクソンにしたがい、実体験を素朴に描写したものとしてあつかう。ベルクソンは次のように解釈している。
「この婦人は事実に基づいて正しく推理していた。なぜなら、柵は事実開かれていたのだし、したがってエレベーターはその階に来ていなければならなかった。なかが空っぽなことが知覚されていたら、まちがいを免れていたであろうが、正しい推理にひきつづく行為がすでに始まっていたので、この知覚も遅すぎたのであろう。そこで、推理する人格の下にある夢遊病的な、本能的人格が出現したのであった。この人格が危険をみとめた。ただちに行動せねばならぬ。瞬間的に、この人格は彼女の身体をうしろに投げとばし、と同時に、幻覚的な虚構の人格を現出させたのである。そして、こうした知覚こそが、外見的には正当でないこの運動をなによりも生じさせ、説明するものであった。」(中村雄二郎訳、前掲書)
 つまり、この婦人が半ば自動化・習慣化した知性にしたがっていたら生命の危険にさらされようとしていた。生命は自らを守るために瞬時に知性を欺くことのできる幻覚を生じさせ、危険を回避した。これが仮構機能の働きのモデルケースだ。つまり、知性のゆきすぎにより生命が危機におちいらぬよう、知性を欺く機能が仮構機能である。文学をはじめとする芸術の創作はこの仮構機能の転用・応用であるとベルクソンは考えている。
 
■ベルクソンにおける幽霊の理論―『道徳と宗教の二源泉』より
 「動物たちは、自分が、やがて死なねばならぬことを、知らない」、「だが、人間は自分がやがて死ぬことを知っている」、まるでハイデガーのような口ぶりだが、ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』(以下『二源泉』と略記)からの引用である(引用はすべて白水社版旧全集の中村雄二郎訳による)。動物は生きることに縛りつけられているが、人間は知性による反省によって、自らの生と死を対象化できる。「帰納し一般化する能力」が、結果的に生きる意欲を失わせるとベルクソンはいう。先に結論から言っておけば、「知性による、死の不可避性の表象に対する、自然の防御的反作用」として仮構機能がはたらき、死んだ人の幻を生じさせたのである。
 それではいったい、知性による死の不可避性の表象にいかなる不都合があるのだろうか。
「人間は、自分の周囲に生存するものすべてがついには死ぬことを確認し、自分自身もやがて死ぬだろうと確信する。自然は、人間に知性を与えることによって、人間を否応なしにこうした確信に導かざるをえなかった。が、このような確信は、自然の動きに反することになる。もし生命の飛躍が他のすべての動物を死の表象から遠ざけるものとすれば、死の思考は人間において、生命の運動を鈍らせるはずである。」
 死が避けられないものとすれば、遅かれ早かれどうせ死んでしまうのであれば生きていたってしょうがないやという、いささか若気の至りのような捨て鉢な気分になるということだろう。私にもおぼえがある。もっとも、個人差はあろうが、中年を過ぎると、遅かれ早かれどうせ死ぬのだからあわてることもあるまいと、ふてぶてしい態度になるのはどうしたことだろうか。ベルクソンはもう少し高尚で「ずっとあとには、死の思考は、人類を人類以上のものに高め、行動のための力を人類にもっと多く与える哲学に、はめこまれることもありえよう」という。メメント・モリは中村雄二郎のいう逆光の存在論に通じる態度である。とはいえ「最初には、死の思考は意気を消沈させる」ことは事実だろう。そこで、「自然は、死は不可避的であるという観念に、死後の生命の連続についてのイマージュを対抗させる」。このイマージュが死者の幻、すなわち幽霊であり、それは知性によるペシミズムを回避するために、知性を欺く幻影である。幽霊は、人間が死後もなんらかのかたちで生きていると知性に思わせることで、死の不可避性に由来するペシミズムを遠ざける。
 いかにして死者の幻が生じたかを記述するために、ベルクソンは原始社会に、ホルクハイマーらの言っていた「死がまだ直接に生存の継続と思われていた人類史の段階」にさかのぼる。ベルクソンの哲学は、直観主義だの、非合理主義だのと評されてきたが、本人が実証的形而上学と呼んでいたように、どの著作を見ても同時代の諸科学の成果を積極的に吸収している。この連載ではテーマの性質上、心霊学のことばかり取り上げたが、『二源泉』でもデュルケム、モース、レヴィ=ブリュールらの(初期)人類学の成果が参照されている。しかし、ベルクソンが「原始人」の思考をたどりなおすのは、必ずしも人類学のデータにもとづいたものとは言えない。ベルクソンは「原始宗教のさまざまな構成要素を、内観的方法によって、魂の奥底に探究している」、つまりある種の内省による洞察によって「魂の原始的表象」にたどり着く。それはホルクハイマーらが、死者に先立たれ後に残された者は自分が見捨てられたと思うと言っていたことを連想させる。
「原始的社会は単に「人々でもって建てられて」いる。すなわち、もしも、こうした社会を構成する個人の存続が信じられなかったなら、この社会の権威はどうなるであろうか。それゆえ、死者たちが現存したままでいることが重要である。」
「知性は、その出発点にあっては、ただ、社会内で、死者たちを生者たちにまじったものとして表象するだけである。」
 葬儀や忘却(前向きに行こう!)も心霊術と同じ亡霊信仰の現代的対応形態にほかならないのだ。それは死者を絶対的な無としてではなく、むしろ現実に生きている者とは異なるしかたで、この世に有る者として扱うということだからだ(ついでだがホルクハイマーらが「絶対的な無などは考えられない」というのも、ベルクソン『創造的進化』における無の否定を連想させる)。啓蒙された人間にとってすら、死者は生きているのである。
 ベルクソンの「原始人」(それはある種のエポケーの産物である)は、死者を無に帰したものとは考えない。死者は、死後も生ける者の共同体のなかに何らかの位置を占めており、死後の肉体をもって生きていると考える。それが私たちにピンとこないのは、「肉体の死後も生き残る魂というわれわれの観念が、今日では、肉体自身の死後も生き残りうる肉体というイマージュ―直接的意識に現われるそうしたイマージュ―を覆いかくしているからにほかならない」。それでは「原始人」の考える死後も生存する肉体とはなにか。「それはただ単に、肉体の、触覚的イマージュから解放された、視覚的イマージュにすぎない」。見えるだけで触れることのできない肉体、すなわち、死者の幻である。
 私自身は、携帯電話のファントム・バイブレーション(幽霊的振動)現象があることからら、触覚もまた幻覚を感じると考えるが、ベルクソンの言いたいことはわかる。その幻には、科学の対象となるような物理的実体がないと言いたいのだ。「今日の科学にとっては、肉体とは本質的に触覚の対象物である」。「先入見をもたぬ精神」、すなわちベルクソンの「原始人」は次のように考える。
「池の上に身をかがめさえすれば、そこに、触れられる肉体から引きはなされた、他人に見られるとおりの自分の肉体をみとめることができた。疑いもなく、かれの触れる肉体は、等しく、かれの見る肉体なのである。つまり、このことから、見られた肉体を構成する肉体の表面の薄皮のようなものは二つに分かれることができ、この二つの分身の一方は触覚的肉体とともに残る、ことが立証される。」
 そして、触覚の対象となる物理的身体は、その死後、朽ち果てていくが、「これに反して目に見える薄皮」「中身も重さもなく、瞬間的に現在のその場所に移った肉体」は、「どこへでものがれることができたし、生きたままでいることもできた。したがって、人間は影や幻の状態で生き残るという思想は、全く自然的なものである」。
 以上が、ベルクソンにおける幽霊の理論、死者の幻の意義と発生についての説明である。ただ、ここでの幽霊=死者の幻は、生がペシミズムにおちいらぬよう、仮構機能が作りだした幻影であった。この説明は、死者がわれわれとともにあると考えることの意義を明らかにしているが、端的に言って、幽霊は想像力の産物と言っているのに等しい。もっとも、ベルクソン自身は、「言うまでもなく、このイマージュが幻覚的であるのは、原始人にあらわれるかたちでだけである。死後の生命の一般的問題については、さきの諸著の中で、考えをのべた」と注を付している。これで終わりではないのである。ホルクハイマーらも「絶滅を前にしての完全に意識化された恐怖だけが、死者への正しい関係を設定する」と言っていた。幽霊の理論は、この不穏な領域に分け入っていかなければならない。


★プロフィール★ 広坂朋信(ひろさか・とものぶ)1963年、東京生れ。編集者・ライター。著書に『実録四谷怪談 現代語訳『四ッ谷雑談集』』、『怪談の解釈学』、共著に最新作『猫の怪 (江戸怪談を読む)』など。ブログ「恐妻家の献立表」
 

Web評論誌「コーラ」37号(2019.04.15)
<心霊現象の解釈学>第15回:幽霊の理論(広坂朋信)
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