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Web評論誌「コーラ」
34号(2018/04/15)

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 前回、中村雄二郎と小松和彦の往復書簡『死』(岩波書店)から、中村のアニミズム理解、その形而上学的表現である逆光の存在論を取り上げた。これは、私にとっての心霊現象、私に立ち現われてくる幽霊をいかに語るかというこのエッセイの課題からは脱線のように見えるかもしれないが、そうでもない。
 中村の逆光の存在論をいささか独断的に敷衍するならば、死は生者にとって絶対他者の領域、絶対の異界である。亡霊とは、この絶対の異界からこの世に立ち現われるエージェント、相対的他者である。私たち生ける者は、このエージェントとの交渉を通して、絶対他者の領域を予感する。しかし、亡霊は相対的他者としてしか現れないため、その交渉はいつも不完全である。この不完全さにはいくつかのヴァリエーションがあって、それに応じて死者をめぐる物語の類型が生じる。それらは必ずしも怪異体験談とは限らない。
 
アニミズム的回心の体験
 私たち生ける者は、私たちの側の視点からしか亡霊と出会うことはできない。だから、相対的他者である亡霊との交渉は、私たち生ける者同士の交渉とどこか似通ってくる。この点で、亡霊との交渉は、私たちの世界における他者の死の経験と地平を同じくする。ところで、すべての生ける者は必然的に死にゆく者である。自らもまた死にゆく者であることを自覚したときに、亡霊や、同じことだが、他者の死の経験によって触発される回心と似たような経験をすることがある。
 中村の発言で興味深いのは次の点である。
日本人のアニミズム感覚を、ただ種としての生命の持続にとどめるのではなく、絶対者の前に一人で立つ「我―汝関係」にまで深めることができないものか、と思っているのです。(中村・小松『死』岩波書店、p141)
 前回述べたことを繰り返すと、アニミスティックな感覚が、死を媒介とした虚無の自覚から、自然、万物、宇宙、世界、ありとあるすべての事物の光に照らされている自己への気づきを可能にする。これが、逆光の存在論の延長線上に考えうる回心である。もっとも、これは中村が言うように「日本人の」という形容をかぶせる必要はない。おそらく世界各地のさまざま文化圏で似たようなことが言われるだろう。それはともかく、自然やさまざまな事物の光に照らされた自己への気づきとはどのようなものだろうか。
 社会学者の見田宗介は真木悠介名義で発表した『気流の鳴る音 - 交響するコミューン』(ちくま学芸文庫)に収めた「色即是空と空即是色」と題するエッセイで、アニミズム的回心の場面とでもいうべき情景を描いている。
 第二次世界大戦後東南アジアの現地で処刑されたB・C級戦犯の手記などを読むと、ふしぎにたがいに符合する一つの回心のパターンをみることができる。現地の収容所からつれ出されて裁判をうける建物にゆき、そこで死刑の判決をうけてまた収容所にもどる。そのもどり道で、光る小川や木の花や茂みのうちに、かつて知ることのなかった鮮烈な美を発見する。彼らはそこに来るときもこの道をとおってきたし、すでに幾週かをこの島で戦ってきたはずなのに、彼らの目はかつてこのような、小川にも木の花にも茂みにも出会うことがなかった。これらの風景や瞬間は、今はじめて突然のように彼らをおそい、彼らを幻惑し魅了する。
 これまでの生の年月を十重二十重に呪縛してきた、天皇制国家の価値体系や、戦略戦術的な身構えや、帝国軍人としての役割意識等のいっさいを剥奪され解体された精神のまえに、はじめて裸形の自然がその姿を現わす。(真木前掲書、p209〜p210)
 真木はこれと近似する体験として「たとえば鉄道自殺の未遂者が、空の美しさというものを衝撃的に発見する」という例も挙げている。
 あとの方の事例の類話としては、心中するつもりで幼い子を背負って死に場所を探していた母親が、背負った子から「母ちゃん、きれいな夕日だね」と声をかけられて顔をあげると、夕焼け空の美しさにハッと心を打たれて死ぬのをやめたというような話を私もどこかで(たぶん僧侶の法話集のようなもので)読んだことがある。私の読んだ話は伝聞であり、世間話の一種であって、細部まで文字通りの事実であるかどうかはわからないが、その核心部分は体験されうるものとして多くの人々を納得させてきたからこそ、語り継がれてきたのだろうと思う。
 こうした回心の体験には日本人的という形容どころか、もはやアニミズム的という形容も不要だろうが、あえてアニミズム的回心の体験と呼んでおく。とはいえ、『気流の鳴る音』では真木も、石牟礼道子『苦海浄土』を引きながらアニミスティックな表現を含む文章を書いているし、あるところでは、次のような石牟礼の言葉を共感を込めて引いている。
独占資本のあくなき搾取のひとつの形態といえば、こと足りてしまうかも知れぬが、私の故郷にいまだに立ち迷っている死霊や生霊の言葉を階級の原語と心得ている私は、私のアニミズムとプレアニミズムを調合して、近代への呪術師とならなければならぬ。(真木前掲書、p52より孫引き)
 そもそも『気流の鳴る音』は、アメリカ先住民の呪術師に弟子入りした若い人類学者の記録とされるカルロス・カスタネダの「ドン・ファン」シリーズについての、真木による解読がその大半を占めている一冊で、花田清輝風に言えば、前近代によって近代を超克する試みを主題としているのだから、石牟礼のアニミズムに共感的なのは当然なのだった。
 つまり、私がここでアニミズム的という言葉を使うのは、真木の文脈に即しても不当とは言えないはずなのだが、もちろんその真の理由は中村のアニミズムに結び付けたいがためである。
 中村は小松とのやりとりのなかで、怨霊の登場する「日本のアニミズム」を「裏のアニミズム」と名づけていた。これに対して小松が「アニミズムとは、自然にせよ、道具にせよ、人間にせよ、「裏のアニミズム」としてしか存在しえないのではないかとさえ思います」(中村・小松前掲書、p168)と軌道修正していたことは前回見たとおりである。民俗学者なら、祖霊と怨霊のあいだ、精霊と妖怪とのあいだには程度の差しかないと考えるだろうから当然のことである。それでも中村は「裏のアニミズム」というキーワードを手放さずに次のように言う。
私の理解するところでは「日本のアニミズム」自体は、本居宣長の「あかき、きよき、なおき心」ではありませんが、平明で大らかなものだと思うのです。それがなにかの迫害や弾圧などにあって屈折し、鬱屈したところに「呪詛」や「怨念」が生じ、また、より具体的には「妖怪」になるのだと思うのです。だから、私が「裏のアニミズム」と言うのは、とくにその屈折し、鬱屈したアニミズムのことを指しているのです。(中村・小松前掲書、p175)
 中村はこの後では、平田篤胤を持ち出して、「「裏のアミニズム」の体現者」と評価するのだが、この通りであれば、平田篤胤ではなく石牟礼道子こそ「裏のアミニズム」の体現者であろう。水俣病の被害者の言うに言われぬ苦しみを「近代への呪術師」として代弁したのが石牟礼だからである。いや、それどころか、真木の描く石牟礼は、逆光の存在論の体現者でもある。引用ばかりで恐縮だが、印象的な場面なので真木の文章を引く。
人づてに聞いた話だけれども、石牟礼道子さんの目がほとんどみえなくなったころ、水俣の告発する会のある集会が終わったあとで、若い人たちがワイ歌など歌っていると、石牟礼さんが一人細い声で、童謡かなにかを歌っている。いつともなく他の人たちが歌うのをやめて、その声に聞きいっていると、石牟礼さんがふと、一人ずつ、私の方に顔を向けて、いっしょに歌ってくださいと言って、それから順番に一人ずつ、デュエットで歌っていったという。(真木前掲書、p210)
 この場面を読んで浅はかな私などは、石牟礼のパフォーマンスに、さすが近代への呪術師よと感嘆しただけだったのだが、真木は次のように解釈した。
伝聞の話のうえに、さらに根拠のない想像を加えてしまうことになるので、これは全く私の独断として読んでほしいのだけれど、そのとき私には石牟礼さんが、死ということを感覚しておられるように思われて仕方がなかった。自分がもうすぐ死ぬということではなくて、私たちすべて、やがて死すべき者として、ここに今出会っているということのふしぎさ、いとおしさである。(真木前掲書、p210-p211)
 真木の解釈は、たとえそれが伝聞、想像であるとしても、やはり妥当するように思う。私がそう判断するのは、これもやはり伝聞と想像なのだけれども、私の生業の師匠ともいうべき先輩に、生前の石牟礼と親交のあった人がいて、その先輩から聞かされた石牟礼の人となりの印象と合致するからである。私のあやふやな印象論の当否はおくとしても、そのエッセイで真木が描き出した石牟礼の「アニミズム」には、もはや裏も表もなく、「すなわちわれわれの生が刹那であるゆえにこそ、また人類の全歴史が刹那であるゆえにこそ、今、ここにある一つ一つの行為や関係の身におびる鮮烈ないとおしさへの感覚」(真木前掲書、p212)そのものである。中村が渇仰したコスモロジー、シンボリズム、パフォーマンスを一身に具えたアニミスティックな世界観は、なにも観光地化した南の島・バリ島まで行かずとも、水俣の反公害運動のなかに生きていたのである。
 
怖くない亡霊が怖い理由
 真木が挙げていた例、B・C級戦犯や鉄道自殺未遂者の心境や、水俣の反公害闘争のなかでの石牟礼道子は、中村の定義からすると裏のアニミズムに近いはずなのだが、そう断定してしまうことにためらいをおぼえる。そこには回心や救済や悟りのようなものがあり、あくまで中村の言葉に即するなら「有限なこの世の生への、永遠の死を媒介にした、絶対他者からの照射、あるいは宇宙の超越的で根源的な存在からのエネルギーの充当」(中村『術語集U』岩波新書、p84)があるように思われるからだ。だから、真木の挙げている例は、中村の言葉にこだわるならば「裏のアニミズム」というより「逆光の存在論」と言いたくなってしまうのだ。なにかが違うのである。
 中村は怨霊や妖怪を思考するキーワードとして「裏のアニミズム」を言い出した。本来のアニミズムは明るい大らかなものだったが、「なにかの迫害や弾圧などにあって屈折し、鬱屈したところに「呪詛」や「怨念」が生じ、また、より具体的には「妖怪」になるのだと思うのです。だから、私が「裏のアニミズム」と言うのは、とくにその屈折し、鬱屈したアニミズムのこと」だという。ここに欠けているのは、恐怖である。『死』は、題名通り死をテーマとした往復書簡であるのに、中村は死というもののもたらす恐怖についてほとんど何も語ってはいない。おそらく中村が自らのモデルとしていただろう昭和戦前期の思想家・三木清の『人生論ノート』は「近頃私は死というものをそんなに恐ろしく思わなくなった。年齢のせいであろう」と書き出されている。たしかにそういうこともあるかもしれないが、それにしても、死にまつわる恐怖を抜きにしては、少なくとも怨霊について考えることはできまい。
 怨霊は恐れられてこそなんぼのものであって、怨霊の威力の核心はその出現が人々に与える恐怖にこそある。雷を落としたり(菅原道真)、首だけで飛んでいったり(平将門)というのは、怨霊にとってみれば余興に過ぎない。怨霊が怖がられなくなったら、オスカー・ワイルドが『カンタヴィルの幽霊』で描いているように、さびしい老人のようなものになってしまう。
 もう「裏のアニミズム」という言葉にこだわるのはやめにするとしても、やはり、死にまつわる恐怖、とくに私の関心からは、死者の霊、すなわち亡霊の出現と恐怖の関係について考えておきたい。
 死または死のシンボル、今風に言えば死の表象に遭遇したとき、それを媒介として真の自己に目覚めるというのが逆光の存在論の図式であり、その具体例として真木のエッセイから三つを挙げて紹介した。その回心の体験は宗教的な救済や悟りに近いものであった。しかし、死または死の表象に直面したときに誰でもがそのような回心を体験するわけではない。むしろ、たいていの場合は、恐怖し、忌避しようとする。亡霊との遭遇談が怪談として語られることが多いのはそのためである。
 しかし、亡霊はみな怖いものと決まっているかというと、そんなことはない。怨霊は怖い。この世の生者を怨んで出てくるのだから、生きているこちらにとっては怖い。けれども、亡霊はみなこの世を怨んで出てくるわけではない。生前親しかった人の亡霊と出会ったとき、怖かったという話はあまり聞かない。例えば、上田秋成『雨月物語』の「浅茅が宿」の宮木(の亡霊)は、戦乱で生き別れになった夫に会いたい一心であらわれる。夫は懐かしく語りあい、添い寝した妻が死者であったことを知っても怖がらない。ただ「こゝにはじめて妻の死たるを覚りて、大に叫びて倒れ伏す」のである。愛妻家たるものかくありたいものである。
 一方で、相手が死者だと知って逃げ腰になるケースもある。
上野の夜の八ツの鐘がボーンと忍ヶ岡の池に響き、向ヶ岡の清水の流れる音がそよ/\と聞え、山に当る秋風の音ばかりで、陰々寂寞世間がしんとすると、いつもに変らず根津の清水の下から駒下駄の音高くカランコロン/\と…
 三遊亭円朝の『怪談牡丹灯籠』の有名なくだりである。この噺はご存知の方も多かろうが、念のため、ここまでのあらすじを述べておく。時代は江戸時代後期、三遊亭円朝の菩提寺全生庵のある谷中界隈がこの噺の舞台である。あちこちの屋敷に顔を出してはご機嫌取りをして歩く太鼓持ちのような医者、山本志丈が、萩原新三郎という親の遺産で悠々自適に暮らす美青年を、旗本のお嬢様お露と引きあわせるところから始まる。  たちまち恋に落ちる美男と美女。けれども世間知らずの二人は互いの家を訪ねあうこともせずに悶々としたまま日々を過ごしていた。そうしていたところ、志丈が、萩原の屋敷に顔を見せて、お露が萩原に恋焦がれた挙句、病にかかって死んだと知らせる。以来、萩原はお露の菩提を弔って念仏三昧の日々を送るが、ある晩、萩原のもとへ女中のお米に連れられてお露があらわれる。死んだはずのお露の登場に萩原は驚くが、お露もまた萩原が死んだと思っていたという。山本志丈が二人のなかを割こうと嘘を言ったのだとして、二人は再会を喜び、互いの心を打ち明けあう。以来、八つの鐘の響く頃合いになると、牡丹の花の飾りのついた灯籠を手にしたお米に連れられたお露が、毎晩萩原の屋敷に通うようになった。
 これに不審を抱いたのが萩原の屋敷に間借りしている伴藏という男、こっそり萩原の部屋をのぞいてみると、萩原の相手は骸骨のように痩せた女、しかも牡丹灯籠を提げた女中は腰から下が透けて見える。これは幽霊だと、翌朝、これも隣人の人相見の白翁堂とともに萩原にご注進。初めは信じなかった萩原も、谷中の寺でお露とお米の墓を見つけて驚き、白翁堂の助言で寺の和尚に死霊除けのお札をもらい、夜になると部屋にこもってびくびくしていた。その晩も「上野の夜の八ツの鐘がボーンと忍ヶ岡の池に響き…」という次第で、先に引いた場面につながる。
 このお露の亡霊は、和尚によれば「何しろ口惜くて祟ゝる幽霊ではなく、只ゞ恋しい/\と思う幽霊」であって怨霊ではない。見た目も、他人の伴藏から見れば「骨と皮ばかりの痩せた女で、髪は島田に結って鬢の毛が顔に下さがり、真青な顔で、裾がなくって腰から上ばかり」だが、萩原の視点からは彼女が死霊だと知ったあとでさえも「いつもの通り牡丹の花の灯籠を下げて米が先へ立ち、後には髪を文金の高髷に結い上げ、秋草色染の振袖に燃えるような緋縮緬の長襦袢、其の綺麗なこと云うばかりもなく」というように、実に美しい姿で現れるのだから恐ろしいということはない。それでも「綺麗なほど猶怖く、これが幽霊かと思えば、萩原は此の世からなる焦熱地獄に落ちたる苦しみです」というのは、死霊と結ばれると命は長くないと、白翁堂や寺の和尚に聞かされたからである。萩原の苦しみとは、お露は恋しいが自分の命は惜しいということである。
 この物語はもちろんフィクションだけれども、亡霊との出会い方にしくじった話として読むこともできる。萩原新三郎はお露の死を受け入れていない。お露はとうに死んでいる。それは山本志丈から知らされているのに、萩原は弔問もしないし、墓参りにも行かない。つまり、恋人の死を自分の目で確かめようとしていない。ただ自室にこもって念仏を称えるのみである。だから亡霊のお露があらわれたときも、山本志丈が嘘をついたということで納得してしまう。その後、伴藏と白翁堂から忠告されて、ようやくお露の家を訪ね、その帰りに寺でお露お米主従の墓を見つけて愕然とする。こういう男だから、和尚から貰った死霊除けの札を戸口に張り付けて自室に立てこもっていながら「止よせばいゝに念仏を唱えながら蚊帳を出て、そっと戸の節穴から」お露の美しい姿を覗き見て「綺麗なほど猶怖く、これが幽霊か」と煩悶したりするのだ。彼はことここに至ってもなお、お露の死をほんとうには受け入れていないのである。
 さて、もはやお察しいただけたろうが、死と正面から向かい合って、それを媒介として生の自覚を深めるという逆光の存在論とはほど遠いところに萩原はいる。そして、この萩原新三郎とは、われわれ怪談マニアにとって他人ではない。われわれもまた死が背後から追いかけてくると思いなして、それから眼をそむけ、逃げ回りながら、ときどきちらりちらりと後ろをふりかえって、怖かっただの怖くなかっただのとおしゃべりに興じている凡俗なのである。
 

★プロフィール★ 広坂朋信(ひろさか・とものぶ)1963年、東京生れ。編集者・ライター。著書に『実録四谷怪談 現代語訳『四ッ谷雑談集』』、『怪談の解釈学』、共著に最新作『猫の怪 (江戸怪談を読む)』など。ブログ「恐妻家の献立表」
 

Web評論誌「コーラ」34号(2018.04.15)
<心霊現象の解釈学>第12回:不完全な交渉(広坂朋信)
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