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Web評論誌「コーラ」
32号(2017/08/15)

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 仕事帰りにスーパーで買い物をしていた私の携帯に老母から電話。何事だろうと思って出ると、「お父さんが帰って来て、自分の寝るところを探しているから、お前にすぐに伝えようと思って」という。
 老父は昨年冬に認知症で入院してから、入院中に肺炎を起こして何度も危篤におちいり、今も病院のベッドで寝たきりである。
「それは夢を見たんじゃないの。お父さんのことを心配しているからだね」と言い聞かせるが、実はこの日の朝、母から「玄関でお父さんの声がする」と電話があったものだから、ついに老母もか、と不安を覚えていた。
 しかし、考えてみると、こうした話は今にはじまったことではない。もう一年ほど前になるだろうか。父の認知症が疑われはじめたころ、実家に立ち寄ると、父が「ふすまの向こうに婆さん(父の母・故人)がいる。白い手を出しておいでおいでをする」という。そういう話をしていたら母が、「夢を見ていたのか、寝ていると誰かが私の布団のまわりをぐるぐる歩いている。誰だろうと思ってみると、父(母の父・故人)が歩いている。お父さんが何人も何人も……」というのであっけにとられた。
 私の両親には以前からこういう話題を口にする傾向があった。とくに母には、夢を一種のお告げのようにとらえる傾向がもともとあって、これまであまり気にも留めていなかったが、後期高齢者になってからますますそういう話が増えたような気がする。
 両親ともに、もう六十年近く東京で暮らしているわけだが、昔気質な人たちで、世間話にもどこか民話のような響きがあって、閑なときに聞くぶんにはよいものである。
 閑話休題。夏の暑さに寝苦しい夜が続く。私の家族の与太話よりも、まずは怪談の名手による作品をお読みいただこう。
 
■岡本綺堂「父の怪談」より
 お目にかけるのは岡本綺堂の短編「父の怪談」の一部。これは幕臣であった父親から聞いた奇談・怪談を綺堂が書き留めたもので、文学的修飾はあるだろうが、ほぼ実話と思われる。
(前略)
 その翌々年の文久三年の七月、夜の四つ頃(午後十時)にわたしの父が高輪の海端を通つた。父は品川から芝の方面へ向かつて来たのである。月のない暗い夜であつた。田町の方から一つの小さい盆燈籠が宙に迷ふやうに近づいて来た。最初は別になんとも思はなかつたのであるが、いよいよ近づいて双方が摺れ違つたときに、父は思わずぎよつとした。
 ひとりの女が草履をはいて、稚い児を背負つてゐる。盆燈籠はその児の手に持つてゐるのである。それは別に仔細はない。唯不思議なのは、その女の顔であつた。彼女は眼も鼻もない、俗に云ふのつぺらぼうであつたので、父は刀の柄に手をかけた。しかし、又考へた。広い世間には何かの病気か又は大火傷のやうなことで、眼も鼻もわからないやうな不思議な顔になつたものが無いとは限らない。迂闊なことをしては飛んだ間違ひになると、少しく躊躇してゐるうちに、女は見返りもしないで行き過ぎた。暗いなかに草履の音ばかりがぴたぴたと遠くきこえて、盆燈籠の火が小さく揺れて行つた。
 父はそのままにして帰つた。
 あとで聞くと、父とほとんど同じ時刻に、札の辻のそばで怪しい女に出逢つたといふ者があつた。それは蕎麦屋の出前持で、かれは近所の得意先へ註文のそばを持つて行つた帰り路で一人の女に逢つた。女は草履をはいて子供を背負つてゐた。子供は小さい盆燈籠を持つてゐた。すれ違ひながら不図見ると、女は眼も鼻もないのつぺらぼうであつた。かれはびつくりして逃げるやうに帰つたが、自分の店の暖簾をくぐると俄かに気をうしなつて倒れた。介抱されて息をふき返したが、かれは自分の臆病ばかりでない、その女は確にのつぺらぼうであつたと主張してゐた。すべてが父の見たものと同一であつたのから考えると、それは父の僻眼でなく、不思議な人相を有つた女が田町から高輪辺を往来してゐたのは事実であるらしかつた。
『唯それだけならば、まだ不思議とは云へないかも知れないが、そのあとに斯ういふ話がある。』と、父は云つた。
 その翌朝、品川の海岸に女の死体が浮き上つた。女は二つばかりの女の児を背負つてゐた。女の児は手に盆燈籠を持つてゐた。燈籠の紙は波に洗ひ去られて、殆ど骨ばかりになつてゐた。それだけを聞くと、すぐにかののつぺらぼうの女を連想するのであるが、その死体の女は人並に眼も鼻も口も揃つてゐた。なんでも芝口辺の鍛冶屋の女房であるとか云ふことであつた。
 そば屋の出前持や、わたしの父や、それらの人々の眼に映つたのつぺらぼうの女と、その水死の女とは、同一人か別人か、背負つてゐた子供が同じやうに盆燈籠をさげてゐたと云ふのはよく似てゐる。勿論、七月のことであるから、盆燈籠を持つてゐる子供はめづらしくないかも知れない。しかしその場所といひ、背中の子供といひ盆燈籠といひ、なんだか同一人ではないかと疑はれる点が多い。所謂「死相」といふやうなものがあつて、今や死ににゆく女の顔に何かの不思議があらはれてゐたのかとも思はれるが、それも確には判らない。
(以下略・繰返し記号はひらいた)
 以上は岡本綺堂『近代異妖編』(中公文庫、2013)からの抜き書きだが、同書には附録として「雨夜の怪談」と題した短編が収められていて、これにもほぼ同じ話が掲載されている。「雨夜の怪談」も父親や自らの見聞した短い怪談を七つまとめたもので、その二つ目が上に引用した話の原型のようである。短い話だからそのまま書き抜く。
 安政の末年、一人の若武士が品川から高輪の海端を通る。夜は四つ過ぎ、他に人通りは無い。芝の田町の方から人魂のやうな火が宙を迷うて来る。それが漸次に近くと、女の背に負はれた三歳ばかりの子供が、竹の柄を付けた白張のぶら提灯を持つてゐるのだ。唯是だけの事ならば別に子細無し、こゝに不思議なるは其の女の顔で、眼も鼻も無い所謂のツぺらぼう。武士も驚いて、思はず刀に手を掛けたが、待て暫し、広い世の中には病気又は怪我の為に不思議な顔を有つ女が無いとも限らぬ、迂闊に手を下すのも短慮だと、少時づツと見てゐる中に、女は消ゆるが如くに行き過ぎて遠く残るは提灯の影ばかり。是果して人か怪か竟に分らぬ。其の武士と云ふのは私の父である。
 忠盛は油坊主を捕へた。私も引捕へて詮議すれば可かったものを……と、老後の悔み話。
 読み比べれば一目瞭然。「父の怪談」の一話は、「雨夜の怪談」の(二)に、尾ひれと後日談をつけたものだ。「父の怪談」の「あとで聞くと、」以下の後半部分は父親の直に語ったものではなく、息子綺堂の加筆であろう。実際は「雨夜の怪談」のように『平家物語』の逸話を引き合いに出して締めくくったのだろう。
 
■元幕臣岡本敬之助
 仮定と独断ばかりで国文学者から叱られるだろうが、とりあえず「雨夜の怪談」の(二)とそれに一致する「父の怪談」の部分を、岡本綺堂の父の体験談と私は推定する。もちろん、すべてがフィクションである可能性もあるのだが、ここではとりあえずそう断定しておく。
 語り手である綺堂の父については、横山泰子氏の『綺堂は語る、半七が走る』(教育出版)に簡単な紹介があるので以下に書き抜いておく。
岡本綺堂の父・敬之助(純)は、明治維新前は武士であった。祖父である武田芳忠は奥州二本松藩士であり、三男の敬之助は早くから江戸に出、事情は定かではないが江戸徳川御家人の岡本家を継いだ。慶応四年、戊辰戦争の折には佐幕派として宇都宮、白河口で新政府軍と戦うが、怪我をし、隠れて傷の養生をしていた。横浜居留地に隠れ、生きながらえた彼は、英国商人の紹介で明治以後は英国公使館にジャパニーズライターとして勤めることとなった。戊辰戦争で命を落とすことなく、英国公使館での職を得た純は、岡本経一氏によれば「新時代を乗り切って幸運の境遇に甘んじたと、今のわれわれには思えるけれども、実は維新敗残の憂憤は消えることがなかったとみえる」(『私のあとがき帖』)。(横山、前掲書、32頁)
 さて、元幕臣、岡本敬之助が、息子・綺堂に語ったとされる二つの怪談を読み比べて最初に目につくのは、時期の違いである。明治四十二年(1909)発表の「雨夜の怪談」では安政の末年(1859)となっているが、大正十三年(1924)発表の「父の怪談」では文久三年(1863)とされている。しかし、この違いについては、あとになって記憶違いを正したのかもしれず、ここでは大きな問題ではないので、幕末とだけ考えておけばよい。むしろ問題は、「父の怪談」の「あとで聞くと、」以下の後半部分である。
 後半は尾ひれと後日談である。尾ひれの部分から見ていくと、のっぺらぼうの女と父がすれ違ったその夜、蕎麦屋の出前持がそっくりの人相風体の女とすれ違ったという。この尾ひれは、のっぺらぼうの女との遭遇が、父ひとりの思いこみや錯覚ではないことをいうためのものである。後日談は、翌朝、顔こそのっぺらぼうではないものの、身なり格好のよく似た女と子どもの水死体が見つかったというもので、一種の合理化である。もっとも現代の基準からは「所謂「死相」といふやうなものがあつて、今や死ににゆく女の顔に何かの不思議があらはれてゐたのかとも思はれる」という因果話を合理的な説明とみなす人もいないだろうが、それでも語り手の意図としては一種の説明である。
 この「父の怪談」の尾ひれと後日談は、いずれも父・敬之助が語ったかのように書かれているが、私にはそうは思われない。むしろ「雨夜の怪談」の「忠盛は油坊主を捕へた。私も引捕へて詮議すれば可かったものを……」と残念がっていたという方が、よほど本当らしく思われてならない。
 忠盛が油坊主を云々とは、『平家物語』巻六にある平忠盛の逸話である。雨の夜、平忠盛は白河院から妖怪退治を命じられた。警戒していると怪しい人影があらわれたが、忠盛はその様子を観察して、いきなり切りつけずに素手で生け捕りにしたところ、その正体は燈明に油をたしに来た僧侶であった。白河院は忠盛の沈着冷静さを誉めて、自らの愛人の祇園女御を下げわたし、やがて生まれたのが後の平清盛であった、という話である。
 雨の夜、怪しい人影に出くわして、いきなり切りつけなかった冷静さまでは忠盛と同じだったのに、捕えて正体を明らかにしなかったのが悔やまれる、忠盛になりそこねたと父は冗談を言ったのである。これと比べると、「父の怪談」の尾ひれと後日談はいずれも言い訳めいたところがあって、幕臣岡本敬之助の言葉とは思われない。
 「父の怪談」の説明を客観化・合理化というと大げさだが、三遊亭円朝の怪談噺『累ヶ淵後日の怪談』が神経病にひっかけて『真景累ヶ淵』と改題された時代の流れの中で、明治四十二年(1909)発表の「雨夜の怪談」には見られなかった説明が、大正十三年(1924)発表の「父の怪談」には尾ひれと後日談として持ち込まれたのではないか。この説明が言い訳めいている。やはり、異様な体験をひとくさり語ったあとに、忠盛になりそこねた、それこそ迂闊なことであった、と笑う方がほんとうらしく思われる。
 
■夢の現象学
 伝聞や虚実のあいまいなかたちで流通する怪談(かつての「怪奇実話」や最近の「実話系怪談」など)を題材として排除すると、心霊学的探究の範囲は極端に狭まってしまう。そこで例に挙げた綺堂「父の怪談」のような、小説ではあってもそのモチーフに実体験があるらしいと想定できるものは取り上げることにしている。
 先に結論めいたことだけ言っておくと、心霊体験・怪異体験に限らず、およそ体験というものは、語られ、聞かれ、書き留められた時点で作品化される。これはノンフィクション、ルポルタージュ、ドキュメンタリーなどと呼ばれるジャンルを思い描けば当然のことだろう。いかに事実や経験に忠実であったとしても、それらは作家の視点から再構成された事実であり経験である。これは裏を返せば、一般にフィクションだと受け取られている小説についても、そこから可能的体験(事実ではなくても体験しうる事柄)を取り出すことができるはずだ。
 岡本綺堂「父の怪談」のケースでは、「雨夜の怪談」と重複する部分を、綺堂の父・岡本敬之助が息子に語ったものとみなすことができる。時代は幕末、場所は高輪の海沿いの道で、夏の夜十時ごろのことだった。現代の港区高輪はビルが立ち並ぶ都会で、夜の十時といっても街灯や店舗の照明で街は明るく人も大勢歩いているが、江戸時代の高輪は町はずれの静かな村で、夜は真っ暗である。その日は月明かりもない暗い夜だったという。その暗い道の向こうにちらちらと白い明かりが見える。だんだん近づいていくと女の姿である。女がこちらに向かって歩いてくる。女は小さな子どもを背負っていて、明かりはその子の持つ提灯であった。すれ違いざまに女の顔をうかがうと眼も鼻も口もないのっぺらぼうに見えた(既婚女性であれば眉は剃り落としている)。
 真っ暗な道、ゆらゆらと揺れる提灯の明かり、すれ違いざまに見たのっぺらぼうの顔、これが幕臣・岡本敬之助が息子綺堂に語った怪談の体験の部分である。錯覚かもしれないし、敬之助自身が思ったように、病気か大火傷のためかもしれない。そう考えれば不思議なことは何もないのだけれども、とっさに刀の柄に手をかけるほど異様な体験であった。
 もちろん、小説から体験に至ろうとする試みは、よほどのお人好しでないと無理がある。作品に描かれた内容が虚構でないと断言できないからだ。綺堂「父の怪談」にしても、綺堂の父・岡本敬之助が、息子を面白がらせようとした語った作り話の可能性もあるし、そもそも、この話を父親から聞いたという設定自体が綺堂の創作であるかもしれない。疑い出せばきりがなくなり、結局、自分がじかに見聞したことだけが信じられるということになる。
 よく似たことを、現象学的方法で夢の経験を考察しようとしている渡辺恒夫氏が指摘している(渡辺恒夫『夢の現象学・入門』講談社選書メチエ)。亡き人が夢枕に立つ夢などは心霊現象の一種とされたり、怪談の表現として悪夢のような描写が用いられたりするなど、夢と怪異体験とは近い関係にあるので、夢の研究は参考になる。また、渡辺氏の採用する フッサールの現象学は、実証科学ではあつかいづらい出来事を厳密に考察しうるという点で、心霊現象の探究にとってもたいへんに魅力的な方法論だ。実際、サルトル『存在と無』やメルロ=ポンティ『知覚の現象学』における幻覚の分析は私もしばしば参照する。余談だが、サルトルが『存在と無』第四部で展開している所有論をヒントに幽霊屋敷論を書いてみたいというのが私の秘かな夢である。
 渡辺氏は、夏目漱石『夢十夜』の現象学的分析(「夢の原テクストを復元すること」)を試みているが、夢の原テクスト復元分析のために「与えられたテクスト以外の伝記的な知識が必要になる」ことを挙げて、それは「フッサールの意味での現象学をすでに逸脱している」と指摘する。つまり、作品中の夢の描写をどれだけ精緻に分析しても、文学史研究で新資料が発見されれば(例えば漱石の創作メモが出てくれば)、あっさり覆されてしまいかねない。
だから文芸作品中の夢の原テクスト復元を目標とする夢の現象学がもし成立するとしたらそれは、すでに狭義の現象学ではなく、現象学から派生した現象学的文芸科学の一部門、という位置づけになるだろう。(渡辺、前掲書、183頁)
 方法的な要求を厳密にあてはめると、夢の現象学は結局、自分自身の見た夢にしか説得力を持たなくなる。この点を渡辺は、むしろメリットとして「当事者研究」を提唱し、さらに他人の夢については、「可能的自己」が見た夢として、そのテクストを読む意義を救い上げている。私も、もしそれが事実なら追体験の可能な事柄という意味で「可能的体験」という言葉を使うので、かなり近い考え方をしている。とはいえ、可能的自己とは理解可能な他人のことだから、その理解可能性の範囲を決めるのはこの私である。そうすると、可能的自己としての他者の夢といっても、どうしてもその夢テクストを読む私のパースペクティブによる制約を受けざるを得ない。この点は、現象学は使い勝手がよくない。
 夢を考察する場合と、怪異体験談を考える場合とでは、共通点もあるが、まったく違う点もある。夢の映像は、あくまでも夢見る者の心の内部にあるものと考えられる。夢はプライベートな表象だ。これに対して怪異体験の対象は、自分の外で起きる出来事である。私たちは怪異現象に遭遇する、襲われる。死者の姿を見る場合でも、睡眠中に夢に見た場合は故人の思い出であろうが、覚醒時に見た場合は、うりふたつのそっくりさんか、見間違いか、亡霊である。
 夢に見る、または故人の思い出に浸っているときに思い描く死者の姿には、怖ろしく感じられる場合ですら、どこかノスタルジックな懐かしさが伴う。フロイトの有名な説(「無気味なもの」)がよくあてはまるのはこうしたケースである。しかし、怪異体験の場合には、それには驚愕と、同じことだが強烈な違和感が伴う。だからこそ幕臣・岡本敬之助はとっさに刀の柄に手をかけたのである。斬るか、いや待て、迂闊なことをしてはなるまい、と戦慄のうちで自問自答している一瞬の間に通り過ぎて云った何者かが「父の怪談」の体験の核心のようにも思われる。
 
*私事で恐縮だが、本稿を書いている途中で父が亡くなった。今回、私は、岡本綺堂の短編「父の怪談」を題材にして、作品化された伝聞から体験部分に迫ろうとして挫折するまでを述べようと試みていたのだが、まさか、自分の父親が死ぬことになろうとは思わなかった。これで、深夜、一人でパソコンに向かう私の背後に父の亡霊が出てくれれば、いやせめて夢枕にでも立ってくれれば、なんて息子おもいの親父だろうと感涙にむせぶところだが、認知症で入院中に肺炎をこじらせて半年、六度もの危篤を乗り越えて奇跡的に快方に向かった挙句、風呂に入れてもらってさっぱりして、上機嫌で寝入ったまま大往生した親父はなにもしてくれない。そのかわり、週に一度くらい、明け方になると携帯電話の着信音が聞こえて飛び起きることが続いている。着信履歴を見てもなんの記録もない。この半年、未明の電話で急変を告げられて病院まで急ぐことがたびたびあったが、その記憶がそうさせているのである。

★プロフィール★ 広坂朋信(ひろさか・とものぶ)1963年、東京生れ。編集者・ライター。著書に『実録四谷怪談 現代語訳『四ッ谷雑談集』』、『怪談の解釈学』、共著に最新作『猫の怪 (江戸怪談を読む)』など。ブログ「恐妻家の献立表」
 

Web評論誌「コーラ」32号(2017.08.15)
<心霊現象の解釈学>第10回:父の怪談(広坂朋信)
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