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Web評論誌「コーラ」
13号(2011/04/15)

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1 二〇一一年三月十四日
 今朝、3月14日付けの毎日新聞コラム「余録」は次のように書き出されていた。
「町に足を踏み入れると、たちまち大地が揺れるのを感じた。港の海水は泡立って高く盛り上がり、停泊中の船を砕くのだった。炎と灰の渦が町の通りや広場を覆い尽くし、家々は崩れ落ちた」▲これは啓蒙(けいもう)思想家のボルテールが物語で描いた18世紀のリスボン大地震だ。津波と火災で都市を壊滅させたこの震災は当時の思想家たちに衝撃を与えた。神を信じる人の命も信じぬ人の命もみな根こそぎ奪い去った震災は哲学者のカントをも地震研究に取り組ませた▲建物の倒壊後に2回の大津波が襲ったリスボンは、その後5日間燃え続けたという。いったい神はどこにいるのか。当時の賢哲と同じく、不遜を承知でつい問いたくなる凄惨(せいさん)な光景が今の私たちの前にも広がっている。(以下略)
 これを読んで、柄谷行人『トランス・クリティーク』(岩波現代文庫)に、やはりリスボン大地震とカントを結びつけた文章があったのを思い出した。
ジャーナリズムの要請で書かれたこの奇妙なエッセイの背景には、一七五五年一一月一一日のリスボンの大地震がある。ヨーロッパですべての聖人たちを祭るこの日、まさに信者が教会で礼拝していたときに起こったため、この地震は神の恩寵に対する疑いを巻き起こした。それは大衆的なレベルにとどまらず、全ヨーロッパの知的世界を文字どおり震撼させた。地震は、いわばライプニッツにおいてたんに連続的な段階にあった感性と悟性の間に決定的な「地割れ」を生み出したのである。カントの「批判」はこのような「危機」と切り離すことができない。(柄谷、p69-p70)
 ところで、毎日新聞「余録」の筆者が触れているカントの地震研究と柄谷が挙げている「この奇妙なエッセイ」とは別のものである。柄谷が主題にしているのは「カントの地震論」として知られる三編の論文のことではなく、『視霊者の夢』のことである。
 私は本誌「コーラ」に寄稿させてほしいと懇願し、カント『視霊者の夢』を面白おかしく紹介する軽いエッセイを執筆する約束をしていた。編集長から申し渡された〆切は3月15日だった。締切日も間近になった3月11日の午後、抜き書きを眺めながらどうやってオチをつけようかと首をひねっていたちょうどその時、小さな揺れが大きな横揺れに。ここから後のことは天下周知のことだろうから省略する。都心の仕事場にいた私はまんまと帰宅難民となり、深夜ほうほうの体で帰り着いた自宅は家具がひっくり返っている有様。翌12日の朝、テレビをつけると岩手・宮城をはじめとする各被災地の惨状と福島の原発事故のニュースが次々に流れ、息を呑んでいるうちに一日が虚しく過ぎた。13日は八十過ぎの老親から米が手に入らないとSOSの電話が入り、スーパーやコンビニを見て回るがどこも売り切れ。あちこち走り回っているうちに日が暮れた。
 かくして、約束の原稿をまとめられぬまま明日が〆切という日を迎えてしまったわけだが、困ったことに当初の予定通り面白おかしいエッセイを書く気力がどうしてもわかずに困っている。しかし、地震に驚いて書けませんでした、では、如何に編集長が温厚でも納得してくれないだろう。そこで、当初のプランとは異なり面白くもおかしくもないが、せめてものアリバイ工作として、以下に冗長なまま書き出しておく。
 1766年、カントは、当時話題になっていたスウェーデンの神秘家、スウェーデンボリ(1688〜1772、スウェーデンボルグとも表記される)の著作や伝え聞く言動を検討し、『形而上学の夢によって解明された視霊者の夢』(以下『視霊者の夢』)を発表した。
 カントが取り上げた「視霊者」、スウェーデンボリは、自然科学を学び、スウェーデン王国鉱山局の幹部として勤めるかたわら、自然科学について、また、自然(宇宙)についての思弁哲学的論文などを発表していたが、神秘体験を経て神学研究に転向、カントが読んだ『天界の秘義』をはじめ、多くの神秘主義的著作を刊行した。それらの中で彼は、肉体から離脱してもなお人格と(霊感によってのみ感知される)実体を持った霊と、そうした霊たちが住まう霊界の実在を説き、霊界の有様や霊界と現実世界の関係について述べている。
 これまでのアカデミズムにおけるカント研究では、この著作は、いわゆる「独断のまどろみ」から抜け出しつつあったカントが、後に彼の哲学の代名詞となる批判哲学へ向かう途中のステップボードとして評価されてきた。同書の中に後の批判哲学に結実する着想があることはすでに幾人もの論者の指摘していることである。代表的なものとしてL.ゴルドマン『カントにおける人間・共同体・世界』(三島・伊藤訳、木鐸社)、浜田義文『若きカントの思想形成』(勁草書房)、坂部恵『理性の不安』(勁草書房)などを挙げることができる。
 とりわけ坂部恵『理性の不安』は名著の誉れ高く、『視霊者の夢』の思想的含意を余すところなく描き出しており、私としても讃嘆するばかりで、坂部が論じている範囲のことについては、坂部以上のことはもちろん、以下のことですら述べることはできないだろうと思わざるをえない。したがって、くだらない心霊話につきあう気もヒマもない読者は、今すぐ私の駄文を読むのをやめて、坂部の名著をひもとくことをお奨めする。
 それでは、坂部『理性の不安』の論じている以下すら述べられない私に何が言えるというのか。それは坂部が論じていない事柄、すなわち『視霊者の夢』の非哲学的側面、有り体に言ってしまえば、「心霊学」的側面についてしかない(「心霊学」とカッコで括るのにはわけがあるが説明していると長くなるので省略する)。とはいえ、『視霊者の夢』は哲学者による心霊現象への取組みの記録としても貴重であり、批判哲学の萠芽という点に読みの視点を限定する必要はない。それどころか、心霊現象の解明という観点から同書を読むことは、むしろ、カント自身の同書執筆の動機にかなったことでさえある。
 もっとも私は、カントのこの著作に対するときたま見られる誤解、カントはスウェーデンボリを認めた云々という誤解に与するつもりはない。それはカントがはっきりと否定している。このスウェーデンボリについてカントは『人間学』で次のように断じている。
感官に現前している現実的な世界の諸現象を、(スヴェーデンボルクの言うごとく)背後に隠されている可想的世界の象徴に過ぎぬと称するのがすなわち狂信である。(『人間学』岩波文庫、122頁)
 しかし、『視霊者の夢』を執筆するまでは、カントはまだ態度を決めかねていた。すなわち、「理由もなく何も信じないというのも、また、一般の風評の言うところについては、吟味もせずに一切を信じるのも、同じように愚かな先入見である」(『視霊者の夢』の引用は理想社版『カント全集 三』より、以下同じ)。
『視霊者の夢』は、「独断的であるところの」と題された第一部と、「歴史的なる」と題された第二部よりなり、哲学の専門研究者が『純粋理性批判』の前段階として注目する第一部は形而上学批判にあてられており、私が注目するスウェーデンボリの視霊現象についての批判は第二部にある。
 『視霊者の夢』におけるカントのスウェーデンボリ評を、1763年8月10日付のクノープロッホ嬢宛てのカントの書簡と読み比べてみると、トーンがずいぶんと違うことに気がつく。この書簡でカントは、後で『視霊者の夢』では「分別のある人なら辛抱して耳を傾けるのをためらうようなお伽噺」として冷笑的に扱っているスウェーデンボリの霊能力の逸話と同じ事例を挙げて、「これはいちばん強力な証拠だと私には思われますし、じっさいどんな疑いを思いついたとしても、これにつけいる余地はありません」、「この出来事の信憑性についてどのような反論を申し立てることができるでしょうか」と手放しで承認したうえに、「私は、この奇妙な人物に自ら質問できたらと願わずにはいられません」、「私は、スウェーデンボリがロンドンで出版しようとしている本を待ちこがれています」と好奇心をむき出しにしていた(書簡の引用は岩波版『カント全集 書簡T』より、以下同じ)。
 ところが、『視霊者の夢』出版後、同時代の哲学者メンデルスゾーンに宛てた書簡では、がらりと態度が変わっている。そこでは、このような通俗的な書物を書いたからといって軽蔑しないでほしいと弁明しているのである。
 これはどうしたことだろう。邪推をすれば、一般人であるクノープロッホ嬢に対しては、その好奇心を満足させてやるべく自ら信じているわけでもないスウェーデンボリの逸話を面白おかしく語ってやり、一目置いている同業者であるメンデルスゾーンに対しては、大人の事情を察してほしいと言いわけにこれつとめた、という可能性がある。しかし、相手によって言うことを変えるような二枚舌をカントが使ったと考えるのは、道徳率の普遍的たるべきことを主張したこの哲学者に対する敬意と理解を欠いていると誹られることになるだろうし、私としてもそうは思いたくない。
 そこで残る可能性は、クノープロッホ嬢宛ての書簡は『視霊者の夢』を執筆する以前のものであり、メンデルスゾーン宛ての書簡は執筆後のものであることから、カントは『視霊者の夢』を執筆するなかで、スウェーデンボリの視霊現象を狂信のなせるわざと確信するだけの何かを掴んだのだろうということである。
 カントはどの時点でスウェーデンボリを見切ったのか。坂部はスウェーデンボリの著作『天界の秘儀』をカントが読んだ時点だとしている。「カントはこの著作を興味をもって読んでみたが、大方失望する。すこし強くいってしまえば、すこし頭のおかしくなった人が書いた書物としか自分には思えない。」(『坂部恵集1』岩波書店、p345)、と身も蓋もない(引用文中の「自分」はカントのこと)。
 それでは、カントをがっかりさせて、その評価を一八〇度反転させてしまったスウェーデンボリの著作の特徴とは何だったのか。批判哲学の系譜に立つカッシーラーに簡潔な指摘があるのでそれを引く。
十八世紀になってもなお、スウェーデンボルグがArcana coelestia(『天界の神秘』)で、普遍的対応というこのカテゴリーにしたがって、英知界の「体系」を打ち立てようと試みている。ここでは、いっさいの空間的限界がついに否認される。――それというのも、人間が世界に写しとられるように、一般に、最小のものが最大のものに、もっとも隔たったものがもっとも身近なものに写しとられうるのであり、したがって本質を同じくしているからである。こうして、人体の特定の部分を世界の特定の部分になぞらえる独特の「呪術的解剖学」が成立することになり、大地の構造が同じ基本的見方にしたがって記述され規定される神話的地理学と宇宙誌とが成立することになる。(カッシーラー『シンボル形式の哲学』(二)、岩波文庫、p186。なお引用文中の『天界の神秘』は『天界の秘儀』のこと。)
こうした神話的世界観の古典的典型として、カッシーラーは占星術を挙げている。
占星術では、世界中のすべての出来事、すべての改造や新たな発生は、実はただの仮象にすぎない。このような出来事に表現されているもの、その出来事の背後にあるもの、それはあらかじめ定められた運命であり、個々の時間契機を貫いてあくまで自己同一性を貫こうとする同形的な存在のさだめなのである。(カッシーラー、p181-182)
このカッシーラーによる占星術的世界像の特徴描写が、先に引いたカント『人間学』における狂信の定義、「感官に現前している現実的な世界の諸現象を、(スヴェーデンボルクの言うごとく)背後に隠されている可想的世界の象徴に過ぎぬと称する」こと、を継承し共鳴していることは容易にみてとれるだろう。
 
2 二〇一一年三月十五日
 この記事もまとめ切れぬまま、また虚しく一日が過ぎ、ついに締切日当日になってしまった。今朝、新聞に目を通すと、「東京都の石原慎太郎知事(78)は14日、東日本巨大地震に関連し、「津波をうまく利用して『我欲』を洗い落とす必要がある」「これはやっぱり天罰」などと述べた。」(讀賣新聞)と報じられていた(15日に撤回)。これもまた「感官に現前している現実的な世界の諸現象」を「背後に隠されている可想的世界の象徴」とみなす発想の典型である。「津波をうまく利用して『我欲』を洗い落とす」というところなど、この発言者が自然災害を煉獄のイメージでとらえていることを如実に示している。
 こうした神話的連想をカントは拒否した。再び柄谷『トランス・クリティーク』から、先に引いた箇所の続きを引く。
たとえばヴォルテールは数年後に『カンディード』を書いてライプニッツ的予定調和の観念を嘲笑し、ルソーも、地震が人間が自然を忘れたことへの裁きであると書いた。しかし、カントは、一七五六年にリスボンの地震についての三つの研究報告を書き、地震について一切の宗教的意味はないこと、それがまったく自然的原因によることを強調し、さらに地震発生についての仮説と耐震対策を説いた。経験論的な立場に立つ者さえ、この出来事に何らかの意味を見出したのに対して、カントがまったくそれを拒否したのに注意すべきである。(柄谷、p70)
 しかし、カントは単なる科学主義者でも、単なる経験論者でもない。だからこそスウェーデンボリに強い関心を示したのである。いったいカントはスウェーデンボリに何を期待していたのか。
 ゴルドマンは『カントにおける人間・共同体・世界』で次のように指摘している。
カントにとって、人間における道徳的なものが、人間的魂を自己の下に帰属させているかの自然的かつ完全なる霊の共同体の単なる結果にすぎぬものであるということは、充分に可能であると見なされる。(ゴルドマン、p104)
 意外にも、これは先にみたカッシーラーによる占星術的世界観の特徴「世界中のすべての出来事、すべての改造や新たな発生は、実はただの仮象にすぎない」や、カント自身による狂信の定義「感官に現前している現実的な世界の諸現象を、(略)背後に隠されている可想的世界の象徴に過ぎぬと称する」と、あまりに似た世界像である。
 さて、もし経験の対象である現実の人間の姿と霊界(霊の共同体)との関係がカントのいうようなものであるならば「その時には、感性界における共同態および道徳的なものの不充分さは説明しうるものとなるだろうし、他方、死後においてわれわれの魂は自然的かつ不可解消的な霊的共同体の中でその現存在を保持し続け、そして完全な道徳性を実現するだろう」(ゴルドマン、p105)という、ある種の希望、形而上学者の希望が可能になる。
そしてカントがわれわれに示していることは、もしこの希望が真実だとすれば、その場合には例外的に次のような人間、すなわちこの霊界と何らかのつながりをもち、霊界への洞察力を示しうるような人間が存在しうるだろう、ということである。このような人間は、他の普通の人々からは、夢想家や空想家と見られもしよう。だが、彼らこそまさしく、形而上学的希望の最も価値ある確証なのである。それだからこそカントはあれほど立ち入ってスェーデンボリと関わりをもったのであった。(ゴルドマン、p105)
 つまり、カントの構想とスウェーデンボリの夢想には類似点が認められる。もちろんこれはゴルドマン一人の特殊な解釈ではなく、他のカント研究者もおおむね認めている事柄である。ここからゴルドマンは『視霊者の夢』、それも、スウェーデンボリに帰せられるべき霊界の観念にドイツ観念論の主要な諸概念の萌芽が見られると論じるのだが、そこに深入りするのは脱線がすぎるのでやめておこう。
 ともあれ、カントはスウェーデンボリの夢想に自らの世界観と似たものがあることを察知したからこそ、「形而上学的希望の最も価値ある確証」が得られるのではないか、スウェーデンボリが「霊界と何らかのつながりをもち、霊界への洞察力を示しうるような」例外的な人間ではないかと期待したのだった、というのがゴルドマンの見立てである。
 しかし、ゴルドマンの解釈はいささかロマン主義的にすぎるように思われる。カントには、地震論に見られるように神話的発想をきっぱりと拒否する側面もある。このカントの二つの側面に注目して、『視霊者の夢』には「スウェーデンボリへの執着と反発」という相反する二つの契機があり、「形而上学的説明と生理学的説明という視霊者に対する肯定と否定という正反対の見方に帰着する二つの説明理論を、最終的にどちらに決定するということなく並列して提出」したところに「後年の「二律背反」の発想の原型」を見てとり、批判哲学の構築へと向かうカントの内面のドラマを描き出したのが、坂部恵『理性の不安』の名著たるゆえんであった。その詳細については、くどいようだが坂部の著作を読んでいただきたい。
 
3 二〇一一年三月十六日
 とうとう〆切をブッちぎってしまった。新聞にはデマに注意せよという記事が出ている。「黒い雨」が降る、とか、うがい薬が放射能予防になるというデマが例に挙げられている。また、震災被災地への救援募金を装った詐偽も横行しているそうだ。インターネット上でも差別意識から生じた流言飛語が飛び交っている様子。もっとも、「富士山噴火の懸念」を報じている新聞もあるのだから、新聞記事だって頭から信用してかかるわけにはいかない。もちろん、富士山は火山だから噴火する可能性はいつでもあるわけだが、何もこのタイミングで無駄に不安を煽らなくてもよさそうなものを、と呆れかえった。
 さて、前置きが長くなりすぎたが、私の関心は『視霊者の夢』の「心霊学」的側面についてである。カントは『視霊者の夢』において、スウェーデンボリの心霊能力の証拠と思われる事例を三つ取り上げている。それは世に喧伝されているうちで「たいていの人においてなおいくらかの信用を得ているようなもの」だという。以下、順次検討していく。
 
【第一例】
一七六一年の終わり頃スウェーデンボリ氏は一人の公爵夫人のもとに呼び寄せられた。彼女はそのすぐれた悟性と洞察とが、そのような場合に欺かれることを不可能ならしめるようなお方である。そのことへの機会を与えたのは、この人物の申し立てる幻に関する一般の風聞であった。あの世からの現実的報告を聞くというより、彼の構想で楽しむことを狙った二三の質問の後で、公妃は彼を帰した、他方公妃は前もって彼に彼の霊との交わりに関係する一つの内密な委託をしておいたのである。二三日後スウェーデンボリ氏は返答をもって現われたが、それは公妃自身の告白によれば、彼女を極度に驚嘆させたような種類のものであった、というのは彼女はそれが真であることを認めたが、その返答がしかも存命中のいかなる人間によっても彼に授けられることのできぬものだったからである。この話は当時い合わせたかの地の宮廷つき公使のコペンハーゲン駐在の別の外国公使への報告から引用されたが、それがそのことに関する特別な問い合わせで知り得たこととも精密に一致している。
 
【第二例】
以下の物語は、その証明がきわめて覚束ない一般の風説以外の保証を有していない。スウェーデン宮廷つきオランダ公使の未亡人であるマルトヴィーユ夫人がある金細工師の家族から、制作した一組の銀食器に対する未払金の支払を催促された。彼女の亡くなった夫の規則正しい経済を知悉していたその貴婦人は、この債務が彼の在世中に片づけられているに違いないと確信していた、しかし彼女は彼の遺した書類の中にその証明を全然見いださなかった。その婦人はことに占い、夢判断その他あらゆる種類の物語を信ずる傾きがある。そこで彼女は、スウェーデンボリ氏が死者の魂と交際していると人びとが彼について言っていることが本当だったら、上述の請求についてどういう事情にあるか、あの世から彼女の亡くなった夫の報告を彼女に与えてくれるようにとの依頼をもって、彼女の切望を同氏に打ち明けた。スウェーデンボリ氏はそうしたことをやってくれると約束して、二三日後同婦人に彼女の家で、彼が求められた情報を手に入れたこと、彼が通報し、彼女の考えでは完全に取り片づけられていたはずの一つの戸棚の中に、なお一つの隠れた抽き出しがあって、その中に必要な領収書がはいっている、と報告した。即座に彼の叙述に従って探して見ると、秘密のオランダ語の交換文書とともに領収書が見つかり、それによって、なされたすべての請求は無効にされた。
 
【第三例】
三番目の物語は、それが本当かどうかの完全な証明が極めて容易に与えられるに相違ないような種類のものである。私の受けた報告が正しければ、それは一七五九年の終わり頃、スウェーデンボリ氏がイギリスからやって来て、ある午後ゴーテンブルクに上陸したときであった。彼は同日の夕方その地のある商人のもとでのある集会に招かれて、しばらく滞在した後、驚愕のあらゆる仕草をして、ちょうど今ストックホルムのズューデルマルムで恐ろしい大火災が荒れ狂っていると一同に知らせた。数時間たった後、その間彼はときどき見えなくなったが、彼は一同に、火災が阻止されたこと、また同様に、火事がどれほどひどかったかを知らせた。まさに同じ夕方にはすでにこの不思議な報告が広まり、そして翌朝には全市に広まっていた、ところが二日後になってはじめてそれについての報知がストックホルムからゴーテンブルクに到着したが、人々の言うところでは、それはスウェーデンボリの幻と完全に一致していた。
 
 以上がカントの挙げたスウェーデンボリの霊能力の事例である。便宜上、間に【第一例】、【第二例】、【第三例】という小見出しをはさんだほかは省略もせずにそのまま引用してある。
 これらの不思議なエピソードに、カントはどのような分析を行なったのか。三批判書のくどいほど精緻な議論や、『人間学』で示されたモラリスト的洞察を知っている読者としては、カント先生が見事な推理をはたらかせて解決してくれるのではないかと期待してもおかしくはない。ところがカントはこれらの興味深いエピソードについて「分別のある人なら辛抱して耳を傾けるのをためらうようなお伽噺」と実にそっけない。それどころか、具体的には何も言及していないに等しいのである。
 しかし、『視霊者の夢』執筆以前の段階では、クノープロッホ嬢宛て書簡に見られるように、カントはここに引いた三つの事例と同じ逸話を挙げて、これこそ疑う余地のない証拠だと熱烈に説いていたのだった。仮にスウェーデンボリの著作が「理性の一滴も含まない」荒唐無稽な夢想だったとしても、理性的能力と霊能力は別のものだろうから、著作が残念な内容だったからといってスウェーデンボリの逸話を検討しない理由にはならないはずである。実際、『視霊者の夢』の序文でカントは、スウェーデンボリの「真理性を探索するほど純真であったことを、ある種の卑下をもって告白」している。つまり、カントはスウェーデンボリの「真理性を探索」したのだ。
 しかし、『天界の秘儀』を大いなる期待をもって読み始めたカントは、やがて「残念」という感想を抱いた。カント自身「私の哲学的空想に異常なほど似てもいる証言が、絶望的にぶざまかつばかばかしいように見え」たと言っている。そこに自分の形而上学の構想のオカルト的にデフォルメされた戯画を見いだして頭を抱えたのだろう。それが『視霊者の夢』第一部の「自己批評的」(坂部)トーンの背景である。「残念」なのはスウェーデンボリだけでなく自分自身についてもそうだった。スウェーデンボリ熱にあてられていた頭は、冷水を浴びせられたように一気に冷めた。冷静な目で霊界の「証拠」を眺めてみれば、そこには真理性のかけらもなかった、というのがカントの結論だったろうと思われる。
 それでは、私も頭を冷やして、三つの事例をもう一度眺めてみることにしよう。
 【第一例】と【第二例】は、死者しか知らないはずの秘密の察知である。
 まず、【第一例】の場合、このケースだけはクノープロッホ嬢宛書簡に具体的な記述がない。どうやらクノープロッホ嬢の側からこの話が持ち出され、本当かどうか調べてくれるようにカントが依頼された様子である。ただし、同書簡には情報の入手経路について次のように詳しく書かれている。
私はこの報告を、私の友人であり以前私の聴講者でもあったデンマーク士官を通じて手にしました。彼は、コペンハーゲンにいるオーストリア公使ディートリヒシュタインの宴席で、ある手紙を他の客といっしょに自分の目で読みました。その手紙とは、ディートリヒシュタイン氏がストックホルム駐在のメクレンブルク公使であるフォン・リュッツォウ男爵からそのときにもらった手紙です。その手紙でフォン・リュッツォウが彼に報告しているところによれば、恵み深きお嬢様であられるあなたがフォン・スウェーデンボリ氏についておそらくすでにご存じのこの奇妙な物語は、スウェーデン王妃のもとでオランダ公使と同席したおりに、自分の耳でそれを聞いたというのです。このような報告は、驚いたことに信頼に足るものでありました。それというのも、公使たるものが別の公使に対して、名高いその集まりに同席することを望んでいたにもかかわらず自分が駐在している宮廷の王妃についてなにか虚偽のことを伝える報告を公用で書き送るなどということが、生じるとは考えにくいからです。
 この書簡からは『視霊者の夢』では「公爵夫人」とだけあって名は伏せられていた人物がスウェーデン王妃のことであり、「かの地の宮廷つき公使」とはストックホルム駐在のメクレンブルク公使であるフォン・リュッツォウ男爵であったことが知れる。またフォン・リュッツォウが「自分の耳でそれを聞いた」と書いていることも注目される。もし彼がその場に立ち会ったのであれば、たいていの場合「自分の目でそれを見た」と表現するのではないだろうか。つまりこれはスウェーデン王妃とオランダ公使との会話を、同席したフォン・リュッツォウが側聞した話なのであって、王妃にまでさかのぼって確認をとらない限り、最初から伝聞なのであった。
 カントはこの話を、外交官同士がその駐在国の王妃について虚偽の報告をするはずがないだろうという理由から信用しているかのように見える。仮に、伝聞とはいえ、情報は正確に伝えられたのだとしよう。それでも、王妃とスウェーデンボリとのあいだでどのようなやり取りがあったのかは伏せられたままである以上、第三者にはその真偽を確認できない。スウェーデンボリの回答を、それは死者しか知るはずのないものだと王妃が認定するかどうかは、ひとえに王妃の感じ方一つにかかっている。つまり、スウェーデンボリは、死者にしか知られていないはずの事柄だと王妃がそう思うものであれば何を言ってもよかったのだ。あるいは、それが王妃にとって公にはしたくないような事柄であればなおのこと、それは誰も知らないはずの秘密だ、という意味の誇張表現だったとも考えられる。
 以上のことから、この事例は疑いをいれる余地のない証拠とまでは言えない。
 次の【第二例】の場合はどうか。『視霊者の夢』では「きわめて覚束ない一般の風説以外の保証を有していない」とされているうえ、マルトヴィーユ夫人は「ことに占い、夢判断その他あらゆる種類の物語を信ずる傾きがある」と信憑性に疑いがあることが暗示されているから、カント自身、この事例をさほど重視していないことは明らかだ。
 おそらくスウェーデンボリは「引き出しの奥をもう一度よく探してご覧なさい。故人があなたのおっしゃるようなお人柄であれば、必ず領収書があるでしょうから」と言ったのではないだろうか。そして、案の定、領収書は見つかり、夫人は自らの信じたいように信じた、というのがことの真相だったように私は思う。「隠れた抽き出し」云々は、風説につきものの尾鰭の部分だろう。
 なお、【第二例】については、すぐに気がついた方も多いだろうが、トリックを用いれば同様の事柄を容易に再現できる。本職の奇術師なら造作もないことだろう。ただ、私はトリック説を採ることにいささか躊躇をおぼえる。トリックだったとした場合、その仕掛け人がスウェーデンボリだとは考えにくいからである。スウェーデンボリは神秘家としてすでに著名であり、今さら「奇跡」を小出しにして世間の評判を集める必要はなかったはずだ。何よりも、彼は鉱山技師としての業績により裕福であったから、職業霊媒のように、占いやお告げ、失せ物探しなどの営業をする必要がない。また伝記や、当時カントが人に頼んで調べさせたスウェーデンボリの評判(「分別があり、愛想がよく、腹蔵のない人物」)からも、仕掛けを見破られれば名声を失いかねない悪戯をあえてするような人物とは思えない。そうすると、夫人かその場に居合わせた誰かが金細工師と示しあわせて一芝居打ったことになるが、今度は、なぜそんな手の込んだことをしなければならなかったのか、その動機の詮索をしなければならなくなる。これはもはや物語作者の想像力にゆだねるべき範疇である。
 さて、いよいよ【第三例】である。テレビも電話もインターネットもない時代のことだ。遠隔地で起きている事件をどうやってリアルタイムで感知したのか。カントが当初、つけいる余地のない強力な証拠だと驚いたのも当然だ。しかし、『視霊者の夢』では「私の受けた報告が正しければ」と留保をつけている。カントはこの事例のニュースソースを確認したのではなかったか。クノープロッホ嬢宛書簡を見てみよう。
このことを私に書き送ってきた友人は、これらすべてのことを、ストックホルムで調査しただけでなく、約二ヶ月前に自らゴーテンブルクに足を運んで調査してくれました。彼は、ゴーテンブルクで、いくつかの名家の人々とたいへん深い知り合いになりました。そして、なにしろ一七五六年からほんの少ししかたっておらず、その町には目撃者の大多数がまだ住んでいるものですから、町じゅうの人々から、あの出来事について余すところなく教えてもらうこともできました。彼は、同時に、フォン・スウェーデンボリ氏が他の霊との交わりをどのようにおこなったと証言しているのか、そしてまた、この世を離れた霊の状態についてどのような考え方を示したか、ちょっとした報告を私にくれました。
 一見すると、調査は充分になされたように見える。当初はカントもそう思ったのに違いない。しかし、この時点でもまったく信じ切っていたわけでもなさそうだ。というのも、次のような断りをつけ加えているからだ。
私は、この奇妙な人物(スウェーデンボリのこと・引用者)に自ら質問できたらと願わずにはいられません。と申しますのも、私の友人は、このような出来事の解明にもっとも助けとなる事柄を聞き出す方法にそれほど精通していないからです。
「このような出来事」とは何を指しているのか、文脈からすると直接には「霊との交わり」についてのようだが、この事件全体のことでもあるだろう。この火事の一件が驚異的であるのは、その報告が事実であった場合だけであり、そうでなければ「お伽噺」である。そして報告者の調査ぶりをもう一度よく読み返すなら、何があったか、ではなく、何があったと語られているか、有り体に言えば、彼はスウェーデンボリについての町の人々の評判を聞き込んできたのにすぎないことがわかる。
 カントはこの第三の事例について、「それが本当かどうかの完全な証明が極めて容易に与えられるに相違ないような種類のもの」だとするばかりで、是非を断じていない。しかし、カントがどのように考えたかは、第二部第一章の終わりで示唆されている。
ある種の背理的な事物が、単に一般にそれについて話されるというだけの理由で、分別のある人々に受け入れられるということは、いつでもそうだったしまた恐らく将来もそうあり続けるだろうからである。交感、占い棒、予感、妊婦の構想力の霊能、月相の動植物への影響等々は上の背理的事物に属する。
 ここで言う「分別のある人々」にはもちろんカント自身も含まれており、彼は自らの純真を自嘲している。そして、「そのすぐれた悟性と洞察とが、そのような場合に欺かれることを不可能ならしめるようなお方」や「公使たるもの」、「名家の人々」など、地位と教養のある人々として挙げられていたすべての人々も含まれるだろうことは間違いない。これまでカントは、関係者たちが知的であることを、あたかも情報の信憑性が高い理由であるかのように扱ってきたが、どんでん返しが用意されていたというわけだ。さらにカントはだめ押しをする。
のみならず、先日一般地方民が、普通学者たちが軽信性のゆえに彼らに投げかけるのを常とする冷笑の返報を、立派に学者たちにしたのではなかったであろうか? なぜなら、多くの風説によって、子供や女たちがとうとう怜悧な男どもの大部分をして、ありふれた狼をはいえなだと思うに至らしめたからである、もっとも今ではフランスの森の中をアフリカの猛獣が走り廻ることはない、ということを分別のある人なら誰でも容易に洞察するけれども、われわれが初めは真理と欺瞞を差別なしに掻き集めるのは、その好奇心と結びついた人間悟性の弱さの然らしめるところである。だが次第に諸概念が純化され、僅かな部分が残り、残りのものは掃き寄せられた塵芥として投げ捨てられる。
 カントが例に挙げたのは「ジェヴォーダンの獣」として知られる事件のことである。当時、フランスのジェヴォーダン地方で正体不明の「獣」に人々が襲われる事件が頻発していた。カントがクノープロッホ嬢宛書簡を書いた一七六三年の翌年、一七六四年に最初の被害者を出して以来、この「獣」に襲われて命を落とした人は一説にはおよそ百人前後にのぼるとされる。ちょうどカントがスウェーデンボリ問題に取り組んでいるあいだ、隣国のフランスではこの「ジェヴォーダンの獣」の話題でもちきりだった。
 フランス国王が賞金を懸け、幾度も山狩りが行なわれたのにもかかわらず被害がなかなかやまなかったため、「獣」の正体について憶測が憶測を呼び、流言飛語が飛び交った。人々は「獣」を何か恐ろしい怪物のように想像し、人間の手によってアフリカからつれてこられたハイエナだという説がまことしやかに語られたほか、さまざまな奇怪な風説が流布された。しかし、討伐隊によって大型の狼が仕留められてから噂は収束にむかう。
 この「ジェヴォーダンの獣」事件はカントに示唆を与えただろう。不安と動揺、あるいは熱狂や過度の好奇心の渦中にあっては、「分別のある人」であっても風説に惑わされる。カント自身がそうだったのだ。しかし、頭を冷やして検討し直せば、報告された事例はすべて伝聞によるものであり、それらはいわば「スウェーデンボリ伝説」とでも言うべき事柄であった。仮に見かけ上は事実と一致していたとしても、「それはちょうど詩人が譫言を言っているのに、ときどき結果と一致するときには、人びとがそう信じ、あるいは少なくとも彼ら自身そう言うように、彼らが時折予言すると思われる」ようなものだ。哲学的含蓄に富んだ議論を期待した読者は肩すかしをくらったような気分になるかもしれないが、これが、スウェーデンボリの心霊現象と伝えられたものについて、カントのくだした事実上の結論であった。私自身は、ことによると伝説の発端には、立ち会った人々に奇異な感じを抱かせるような何かがあったかもしれない、とも思う。しかし、それも世に広まっていく過程で、それを語る人々の期待と好奇心によって何倍にも誇張されていったのだろう。ジェヴォーダンの人々がありふれた狼をハイエナに類した怪物と思い込んだように。
 
4 二〇一一年三月十七日
 「コーラ」編集長から厳しい督促の連絡をいただいた。もはや、一刻の猶予もない。思想史のなかから心霊現象に関係する逸話を拾って肩の凝らないコラムに仕立て上げるはずだったのに、すでに非常識なほど冗長になってしまったこのエッセイを強引に締めくくらなければならない。
 霊能力の証拠と巷間喧伝されていた事例を「お伽噺」としりぞけた後、カントはスウェーデンボリの大著「四つ折判八巻」(邦訳では全28巻、静思社刊)からなる『天界の秘儀』の検討に移る。しかし、カントが要約してくれるスウェーデンボリの世界観の特徴は、先にカッシーラーから引いたとおりだし、カントにとっては「私の哲学的空想に異常に似てもいる証言」との対決は重要だったろうが「心霊学」的には大きな問題ではないのでここで繰り返す必要はないだろう。
 ただし、カントが『天界の秘儀』を読むにあたって採ったスタンスは、私の「心霊学」にとって有益な教訓を含んでいそうだから、ここに書き留めておく。
 まず、『天界の秘儀』全体についての印象のうち、次の指摘は重要だ。
「彼の物語とそれらのまとめ方は実際に狂信的な直観から生まれたように思われ、背理的な穿さくをする理性の思弁的な幻影が彼を動かしてそうした物語を虚構し、欺瞞のために使ったのではないかという疑念をほとんど与えない。」
つまり、世間の評判を当て込んだ作為は見られないし、屁理屈を高じさせた挙げ句つじつま合わせのため霊界を幻視したと強弁しているのではない、とカントは判断したのだ。事実ではないかも知れないがウソではない、ここを見極めることが「心霊学」にとって肝要だ。そうでなければ、無数の神話や幻想文学のすべてを対象としなければならなくなる。
 事実ではないかも知れないがウソではないという基準は感覚や経験にしか当てはまらない。事実ではない理屈はあくまでもウソだ。それに対して、錯覚や幻覚は必ずしも嘘ではない、少なくとも故意の嘘ではない。「心霊学」が嘘に居直った強弁以外のものであろうとするなら、「背理的な穿さくをする理性の思弁」の手前にある経験を手がかりにするほかない。
 カントは「感官一般の錯覚は、理性の欺瞞よりもずっと注目すべき現象だ」という。
というのは後者の根拠は十分に知られており、また大部分、心の諸力の選択意志的な志向と、空虚な好奇心をいくらか多く制御することによって防止することができもするが、他方それに反して前者はすべての判断の第一の基礎にかかわり、それが正しくなければ、論理学の諸規則はそれに逆らってほとんど何もなし得ないからである! そこで私はわれらの著者において感官の妄想を知力の妄想から分離して、彼が彼の幻想のもとに立ち止まらずに、背理的な仕方でこじつけたようなことを省略する。(中略)似非経験でさえ大部分理性からの似非根拠よりも一層ためになる。
 後の『純粋理性批判』における超越論的仮象や誤謬推理のアイデアが認められる箇所であるが、そうした哲学史的含意はさておいて、「心霊学」的観点からは、後付けの理屈は捨ててその出発点となった幻想のもとに立ち止まり、それを検討することこそ価値のあることだと指摘されていることに留意すべきである。カントはこの方針のもとに視霊者スウェーデンボリに取り組んだのだった。しかし、その結果は「探究すべきものが何もない場合、通例そうであるように──何も見いださなかった」のであった。
その書の私的幻像と称するものがそれ自身を証明することができないので、それらに関係する動機は、著者がそれらの認証のためには、恐らく、生きている証人によって実証され得るような、上述の種類の例外的出来事に依拠するのであろう、という推測に存し得たに過ぎない。ところがそのようなものはどこにも見いだされない。
こうしてカントはスウェーデンボリに別れを告げたのである。
 よく知られているように、この『視霊者の夢』はヴォルテール『カンディード』から「さあわれわれの幸福のために、庭に出て働こうではないか」という言葉を引いて締めくくられている。いま、報道の中心は原発事故関連に移っている。新聞になどによると、政府は原発から半径20〜30キロの住民に屋内待避を指示したそうだ。被害がひろがらずに問題が解決されることを願うが、われわれが働く庭はどこにあるのか、混沌とした日々がなおしばらく続きそうである。
 
*追記 本稿執筆にあたってはたまたま手元にあった理想社版『カント全集』から引用したが、執筆後、岩波版『カント全集』におさめられた植村恒一郎氏の訳文にふれて、その明晰さに驚いた。本稿を読んでも何のことかわからぬと感じられた多くの方が『カント全集3前批判期論集』(岩波書店)の植村氏の新訳で『視霊者の夢』の面白さにふれられることを期待する。
 
★プロフィール★ 広坂朋信(ひろさか・とものぶ)1963年生まれ。ライター。著書に『東京怪談ディテクション』、『怪談の解釈学』(いずれも希林館)など。ブログ「恐妻家の献立表」
 

Web評論誌「コーラ」13号(2011.04.15)
<心霊現象の解釈学>第1回:心霊現象への非哲学的考察(広坂朋信)
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