Web評論誌「コーラ」58号/新・玩物草紙:

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Web評論誌「コーラ」
58号(2026/04/15)

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詩と死の、プリズン ブレイク

 北川透詩集『プリズン ブレイク 脱獄』(写真・毛利一枝/書肆侃侃房/2025・6・11)は写真と詩のコラボレーション。文学批評誌「敍説V―20」(2022・9/花書院)の詩「ダリアと殺虫剤 〈我牢獄〉について」を目にしたとき、挑発的な美しさに感嘆したことを思い出した。新詩集は〈我牢獄〉が、(わが〈脱獄〉について)と変更されていたのだが、一番胸に突き刺さったのは、やはり「ダリアと殺虫剤(わが〈脱獄〉)」だった。
 「笑っているのか/泣いているのか/狂っているのか/覚めているのか/怒っているのか/来し方行く末を見つめて/わたしが何者であったのか/何者かであろうとしたのか」……自宅軟禁状態のコロナ禍、わが身の来し方行く末への問いかけをせずにはおれなかった。紗のベールにすっぽりと包まれ息をひそめていた囚われの日々。
 「いったい わたしを この閉じられた硬い透明空間に拉致し/幽閉したのは誰だろう/そやつはどのような目的 理由 権利 資格において/わたしを この牢獄に閉じ込めたのか/そこに招かざる客 おそらくわたしを殺めようとする敵/ダリアが すっと音もたてずに入って来た」……「ダリア」と「殺虫剤」はきわめて日常的な組み合わせだが、美しさと毒を道ずれとすれば、ガーデニングはたちまち意識下の狂気を引き出し怪異に変わる。北村透谷「宿魂鏡」(明治二六)を思い起こした。意中のひとの幻影を映し出す幻鏡の男の狂奔は、詩人とダリアと殺虫剤に姿を変えて、追いつ追われつ、憎悪と嫉妬に苛まれて格闘している姿にすり替わる。
 私という存在の「檻」から「わたし」を脱出させることはできないものだろうか。詩的言語の「檻」から「詩」を逸脱させることはできないかというジレンマ。詩人・北川透は、北川透というプリズンから脱獄できるだろうか、詩の終章は触れずにおこう。読んでのお楽しみに。
 
車窓から
撮影:寺田 操(C)
 

ブロツキー、水の迷宮

 「この町を訪れると目は涙に似て、自らを律するようになる。唯一のちがいは、涙のように体から離れて流れ落ちたりせずに、目は、体そのものまですっかり支配するということだ。この町に滞在し出して三日か四日すると、体はもうなにか目を運ぶためだけに存在するもののように思えてくる。」
 久しぶりにヨシフ・ブロツキー『ヴェネツィア――水の迷宮の夢』金関寿夫・訳/1996・1・第1刷―3第4刷/集英社)を開いた。ブロツキー(一九四〇〜一九九六)は、一九八六年のノーベル文学賞を受賞したロシア出身のユダヤ系詩人・劇作家。徒食者として逮捕され、裁判にかけられ強制労働、国外追放、亡命したアメリカで市民権を得た。亡命後の一九七二年から毎年(一七回も)のように訪れていたヴェネツィアを舞台に、短い章立ての作品を生み出した。原題は「WATERMARK」で、本邦・出版(1996・1・22)の数日後にニューヨークの自宅で心臓病にて死去。
 「はるかに遠い昔のこと、一ドルは八七〇リラで、ぼくは三十二歳だった。そのころ地球は、二十億人ぶんだけ今よりは身軽だった。」
 十二月の寒い晩。たどりついた駅舎のがらんとしたバーのカウンターの前で、この都市で知っているたったひとりの女性を待っていた。息を?むほどの超美女(サイト)登場、冬の運河への道行き?
 魚の姿をしたヴェネツィアの地図が扉の前に置かれ、アフォリズムのような言語を道連れに、生と死がけじめなく漂う遠い場所へと、物語は運ばれていく。ロシア語(母語)と第二言語(英語)と旅先のヴェネツィアを三角で結んだ地点に降り立つブロツキー。俯瞰するヴェネツィアはどのように彼の目に映っていくのか。運河は、町を住民を人の暮しを水面に浮かびあがらせ、また沈める。芝居の書割のような水上都市は旅人の心や魂を慰謝してくれるが、視界の奥にはぽっかりと異界への扉がある。町が「人に挑戦」し、町の美しさに「同化」させようとする魔が潜んでいる。歴史を遡りながら神話、神曲、災厄文学、映画、ちりばめられた警句や隠喩。影絵のように運河に映し出された水の迷宮巡り体験は、旅人たちの「個人的特徴」を消して「シルエット」だけにする怖さも描き出された。
 倉田比羽子の詩「犬と猿のウロボロス」と、エッセイ…「一私人」ブロツキイの物語以前―抵抗、救済、自由―(「物語詩の森へ」vol・2」詩の練習/2025・7・20)に誘われた。ノーベル文学賞受賞の講演『私人』は未読だが、倉田のエッセイと詩作品を合わせ鏡として受容した。「輪郭」や「秩序」を溶かしてしまう「水」の無意識のなかに漕ぎ出された『ヴェネツィア』から、「犬と猿のウロボロス」の清水谷公園へと、舞台を反転させてもおかしくはない。
 《生き直した闖入者の周りで犬と猿の自由な滑稽な、闊達な笑い声がまとわりついてはなれなかった。いったいこの犬と猿はなにに身をよじってののしり合っているのか。》……足を留めて何事かと魅入る闖入者たちは、いつしか観察される側となっていた?
 《おおっ、ハチドリか(ハチドリどもよ、うるさいな!)、足元はもつれ、アッハ!(アリたちよ、じゃまするなよ!)。この道行は逆さま姿となって歴史のフィクションを引き裂く中空世界をあらわにした。日の出と日没が交互にやってきても未来の源の時間はがらんどうだった。それが間隙から間隙を生きのびるわたしたちの生それ自体だった。ここで時代の現実に抗えば国家の規範によって拘禁される猿を生きることになるのだ。》
 文学の構図から逸脱すれば、文明と野蛮の世界に誘導されたカリカチュアとなる。番犬と猿集団のエキサイティングな戦い。吼える声は、リズムは、《ことばの祖型を》を、人語を話すヒト科に伝えただろうか。
 
トンネルの中から
撮影:寺田 操(C)
 
(個人誌「Poetry Edging」No.62ー2025年11月01日発行―より転載)

★プロフィール★
寺田 操(てらだ・そう)詩人。編集として『幻想・怪奇・ミステリーの館』(「エピュイ23」白地社)。詩集として『みずごよみ』(白地社)、『モアイ』(風琳堂)、評論として『恋愛の解剖学』(風琳堂)、『金子みすゞと尾崎翠──一九二○・三○年代の詩人だち』(白地社)、『都市文学と少女たち―尾崎翠・金子みすゞ・林芙美子を歩く』(白地社)、童話として『介助犬シンシアの物語』(大和書房/ハングル版はソウル・パラダイス福祉財団より)、『尾崎翠と野溝七生子』(白地社)、共著として『酒食つれづれ』(白地社)、『小野十三郎を読む』(思潮社)、『尾崎翠を読む 講演編 2』(今井出版)、共著『宮崎駿が描いた少女たち』(新典社)を刊行。

Web評論誌「コーラ」58号(2026.04.15)
「新・玩物草紙」詩と死の、プリズン ブレイク/ブロツキー、水の迷宮(寺田 操)
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