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倉橋由美子の小説は
「ある日あなたは、もう決心がついたかとたずねた。わたしはあなたがそれまでに何回となくこの話を切りだそうとしていたのを知っていた。(略)そこでわたしも簡潔な態度をしめすべきだとおもい、それはもうできている、と答えた」書き出しに引き込まれたのは倉橋由美子『パルタイ』(文藝春秋/1968・10・6版/1960・8・初版)だ。文学のとば口に立ったばかりの20歳、単行本が500円で買えた時代だ。読書遍歴は乱読気味で、財布にお金があれば迷いなく買っていた。そうした若い日に開いた本の一冊に『パルタイ』があった。政治へのアンガージュマン、「あなた」と対峙しながら「わたし」という存在の在り方を確認していく主人公は読者の似姿。似たような状態に遭遇した人は少なくないと思う。一人称小説に「あなた」を介在させ、わたし自身に距離をとった方法の斬新さに魅了された。
『暗い旅』(河出文庫/2008・9)は、失踪した恋人を追って記憶の彼方へと旅立つ女性の回想記。不在の恋人を求めて東京、鎌倉、京都へと旅する「あなた」は、「わたし」でもある。二人称仕立ての長篇小説だ。「私」を消して「あなた」と言い換える、一人称を二人称や三人称使いにする方法は、現在では稀ではないのだが。
知のアラベスクともいえる倉橋由美子(1935〜2005)の作品は、『わたしのなかのかれへ』『スミヤキストQの冒険』『アマノン国往還記』『聖少女』などに始まり、『反悲劇』『夢の浮橋』、最晩年の作品までアトランダムに読み続けた。古今東西の文学やその手法を多彩に纏いながら言語拘束を解いていく痛快な作家の脳内風景に、ため息をつきながらも、病みつきになった。小説手法の多彩さは書く手本となり、この世の時間を忘れさせてくれる舟旅であった。お気に入りは、新聞書評を書く機会に恵まれた 『酔郷譚』(河出書房新社/2008)。
赤いジャングルジム
撮影:寺田 操(C)
文字禍ではなく、文字渦
「目覚めると、今日もわたしだ」と、印象的な一行の書き出しではじまる円城塔「良い夜をもっている」(『これはペンです』(新潮文庫/2014) は、言葉や文字をめぐる不思議な世界に迷わせてくれる。続いて「自分であるには違いないのに、踵〈かかと〉を接して背中合わせに立つようであり、突き放してしまったようにも思えてくる」とは、日頃感じていることと同じだと思った読者もあるだろう。語り手である主人公は、20年前に亡くなった父の年齢に近づき、父とはなんだったのかと回想しはじめる。父は、見たものすべてを記憶してしまう特殊な能力を持っていた。彼の日常生活・半生とはどのようなものだろう。
「俺は今喋っているか」と真顔で子供に問い、約束の時間になっても「一時間とは何時間か」と柱時計を不思議そうな表情で眺め、腰をあげない、定職など望めない父。母が「お父さんはすごい人なのだ」を繰り返しても、子供にとっては「ひたすらとりとめもない生き物」にちがいない。
超記憶力症候群に分類された父は、心理学の専門書に載り、晩年は、某教授の研究対象の善意の協力者として過ごした。「一目見たものは忘れられない」とは、当事者にとっても想像を絶する怖い脳内環境ではないだろうか。時間の経過は脳内に蓄積された記憶を構築していくが、しだいに現実と乖離していく。脳内に格納された記憶の風景が、目の前にある風景を書き換えるなんてことも起こりうることで「虚実の集合体」だといえる。記憶は、圧縮され、改竄され、置き換えられ、上書きされ、変容する。「父は、自らが編み出した記憶の街で成長し、そこで暮らし」、しだいに「記憶の街が崩壊」するのに気がついた。そこから父は、どうしたのだろう? 父の能力を知ってから、息子は記憶に関する本を収集して図書館を作った。脳内環境のなかに侵入した息子の想像力も尋常ではない。息子が父と同化していくような印象を読み手に与える。
「意識がね、途切れるようになったのです」と教授を途方に暮れさせたかと思えば、意を決するように「わたしは無を、読むことにしましょう」と告げる。研究対象であることへの決別だ。教授の腕を跳ね除けて歩きだし戸口で倒れた父は、二度と立ち上がることはなかった。父の超記憶能力を文字化すれば、どのような表象となるのだろう。文中では文字の意味が多重に分節化され、半月状に立体化された文字アートとして示されている。
象形文字としての「漢字」をめぐる奇想天外なモノガタリといえば、中島敦『文字禍』(「ちくま日本文学」2017) の文字霊があるが、「禍」ではなく一字違いの「渦」が円城塔『文字渦』(新潮社/2018)。漢字の起源から未来へと戯れ遊び惑う12の短編連作集。例えば、虚空に現れる「天書」、緑色の蛍光を持つ「緑字」、文字を戦わせる遊戯の「闘字」、読み手を値踏みする「誤字」……。経典や物語の模写(書き写し)は、転写による誤字、増殖、転生を引き起こす。文字は何時うまれ、どのような移動と変遷を繰り返してきたのであろう。ひらがな、カタカナ、漢字だけが文章を構成しているのではないのだし。バラバラな線が交錯して意味や音を生み出す不思議に誘われる。
詩のフォルムは表意文字以上の視覚的要素を好む。言語のオブジェ化、語句の分解、図と詩の組み合わせ。言語実験のアヴァンギャルドな詩人たち。一文節のなかでフォントを変えれば、グラフィックな文字列になる。文字を形のように並べるカレイドスコープやコンクリート・ポエトリー、超絶短詩などもある。文字は生きものだが、文字コードを思考する「縛り」から逸脱することができない悩みがある。規範言語を使いながらシステムの向うへ行きたいという欲望。発語すれば脳内で生み出した詩語とは違う別物になる苦悩。
透明な球体
撮影:寺田 操(C)
(個人誌「Poetry Edging」57ー2024年03月01日発行―より転載)
★プロフィール★
寺田 操(てらだ・そう)詩人。編集として『幻想・怪奇・ミステリーの館』(「エピュイ23」白地社)。詩集として『みずごよみ』(白地社)、『モアイ』(風琳堂)、評論として『恋愛の解剖学』(風琳堂)、『金子みすゞと尾崎翠──一九二○・三○年代の詩人だち』(白地社)、『都市文学と少女たち―尾崎翠・金子みすゞ・林芙美子を歩く』(白地社)、童話として『介助犬シンシアの物語』(大和書房/ハングル版はソウル・パラダイス福祉財団より)、『尾崎翠と野溝七生子』(白地社)、共著として『酒食つれづれ』(白地社)、『小野十三郎を読む』(思潮社)、『尾崎翠を読む 講演編 2』(今井出版)、2018年8月に共著『宮崎駿が描いた少女たち』(新典社)を刊行。
Web評論誌「コーラ」53号(2024.08.15)
「新・玩物草紙」倉橋由美子の小説は/文字禍ではなく、文字渦(寺田 操)
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