声
人は誰もが現実社会で起こる出来事とは無縁に生きられない。津波、地震、原発と、春3月の未曾有の東日本大震災においても、誰もが圧倒的な現実の凄さに打ちのめされながら、声を、言の葉を求め、発語へと突き動かされた。圧倒的な力を発したのは、繰り返し繰りかえし流れた金子みすゞの童謡詩《こだまでしょうか、いいえ、誰でも》や、宮沢章二《心は誰にも見えないけれど/心遣いは見える》などのAC公共広告。また、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」、和合亮一のツイッターでの《放射能が降っています。静かな夜です》「詩の礫」。
なにげなく過ごしてきた日常がとつぜん断ち切られ、非日常へと呑まれていくことは、1995年の阪神淡路大震災で体験したのだが、津波の映像を見て怖くて泣いた、身体が震えた。三陸海岸の地図が、目に見えない放射能が夢のなかまで追いかけてきた。
神山睦美『小林秀雄の昭和』(2010・10/思潮社)を短夜に読みおえ、途中で放り出したままの小林秀雄『本居宣長』上下(1992・5/新潮文庫)を開く。
《よろずの事にふれて、おのずから心が感(ウゴ)くという、習い覚えた知識や分別には歯が立たぬ、基本的な人間経験があるという事が、先ず宣長には固く信じられている。心というものの有りようは、人々が「わが心」と気楽に考えている心より深いのであり、それが、事にふれて感(ウゴ)く、事に直接に、親密に感(ウゴ)く、その充実した、生きた情(ココロ)の働きに、不具も欠陥もある筈がない。それはそのまま分裂を知らず、観点を設けぬ、全的な認識力である筈だ。》
感(ウゴ)くこと、生きた情(ココロ)が働くことは、人が事に遭遇してときに発する「ああ、はれ」の素朴な感情の声・表出なのであろう。梅雨の晴れ間の蒼穹を仰ぎ見る。小鳥が鳴く朝を迎えられることに感謝した。
黒い靴
小川洋子『薬指の標本』(2004・11/新潮文庫)は何度読んでも美しくて怖い。指が、足が、消えていく怖い物語なのに、消えたがっている私の身体感覚、詩的な言語が、物語を偏愛しているのだ。
標本室で働く主人公は、標本技術師からよく働いてきれたお礼にと素敵な靴をプレゼントされた。シンプルなデザインの黒い革靴で、つま先は優雅にカーブして、甲には小さめの黒いリボンがつき、ヒールは5センチくらいで細く硬い。ふくらはぎを握りながら古い靴を脱がせる男の指先と底に落ちる古い靴。小鳥の死骸に見える古い靴に、主人公の足が滑りこむことは、もうないのだ。つま先を靴の奥まで一気に滑りこませながら新しい靴をはかせる男の仕草。主人公の足が読者である私の足とチェンジする瞬間の緊張とめくるめく快感。
新しい靴を履かせる儀式を司る標本技師からは、「これからは、毎日その靴をはいてほしい」、「電車に乗る時も、仕事中も、休憩時間も、僕が見ている時も見てない時も、とにかくずっとだ。いいね」と言われた。彼と愛し合うとき裸になっても黒靴だけは残され、足首のところで彼女は身体が二つに分離してしまう感覚にとらわれた。
あるとき靴磨きのおじいさんから「今すぐこの靴を脱がなきゃ、ずっとこれから逃げられない。絶対にこの靴は、お嬢さんの足を自由にしないっていうことだ」と、靴の足への浸食と、恋人からの浸食の危険を忠告された。靴を脱いで足を自由にし、靴だけを標本にと提案されたが、「自由になりたくないんです。この靴をはいたまま、標本室で、彼に封じ込められていたいんです」と彼女は拒否。赤いトウシューズを脱ぐときは死ぬときと、アンデルセンの童話に材をとった映画『赤い靴』があった。小川洋子の黒い靴は、足との境目を消し、足を完全に呑みこみ、標本にしてしまう。死より怖い!黒い靴。
(個人誌「Poetry Edging」19より転載)
★プロフィール★
寺田 操(てらだ・そう)詩人。編集として『幻想・怪奇・ミステリーの館』(「エピュイ23」白地社)。詩集として『みずごよみ』(白地社)、『モアイ』 (風琳堂)、評論として『恋愛の解剖学』(風琳堂)、『金子みすゞと尾崎翠──一九二○・三○年代の詩人だち』(白地社)、『都市文学と少女たち―尾崎翠・ 金子みすゞ・林芙美子を歩く』(白地社)、童話として『介助犬シンシアの物語』(大和書房 /ハングル版はソウル・パラダイス福祉財団より )、共著として『酒食つれづれ』(白地社)、『小野十三郎を読む』 (思潮社)。2011年5月に『尾崎翠と野溝七生子』を出版。
Web評論誌「コーラ」15号(2011.12.15)
「新・玩物草紙」声/黒い靴(寺田 操)
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