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Web評論誌「コーラ」
44号(2021/08/15)

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ふたつの漱石論

 洗濯物を干しながら耳がキャッチしたコマーシャルは、
《智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。》―夏目漱石『草枕』だ。何度も読み何度も躓く原因はどこにあるのだろう。物語として読まれることを拒んでいる? 文学批評的? しっかり覚えていて口にでるのは、智に働けば…冒頭の文である。『吾輩は猫である』から数多くの漱石本を読んできたが、趣を異としていたのが「『草枕』だった。
 日本語の変容期、新しい時代のジャンルと文体の再編成期として、漱石を批評の対象としたのは、北川扶生子『漱石の文法』(水声社/2012・4)だ。読者が同時に書き手でもある「文」の流行を背景に、書くことの基本から漱石の文を解読していく。音読して耳に快い、畳みかける、対句多用と警句、漢文の恍惚、韻律に富むレトリック。漱石の多様で自在な表現、複数のジャンルの「並置」を、北川は「パノラマ」ととらえていた。画工の視点で進行する『草枕』で、出会った女性那美が「筋を読まなきゃ何をよむんです」と問えば、「…筋なんてどうでもいいんです。(略)ぱっと開けて、開いた所を、漫然と読んでいるのが面白いんです」と答えた画工の対話は、既存小説への反論だ。
 神山睦美『終わりなき漱石』(幻戯書房/2019・11)は詩人・思想家としての漱石の全体像を読む試みがなされた千ページを超える大書。目に止めたのは「詩人漱石の展開」、小説のうちで最も詩に近いものとしての『坊ちゃん』だ。中学教師としての主人公を、詩人として描いてもおかしくないこと、つまり折口信夫で言うなら、さまよい歩く「まれびと」としての坊ちゃん。『明暗』『道草』『こころ』を動かしている漱石の「詩魂」と四十篇の俳句・漢詩にみる漢詩表現のめざましさ。一行一行の独立性の高さ。《朝寒み夜寒みひとり行く旅ぞ》は、妻と離れて赴任地で暮らす漱石の寂しい日常が掬い取られた。
 
神戸・ショーウィンドウ
撮影:寺田 操(C)
 
 

夜の橋を渡るひと

 糸井茂莉詩集『ノート/夜、波のように』(書肆山田/2020・9)はノートだから目次はない。アフォリズムのように書かれたエクリは、タイトルがついているわけでも、日付や番号もない。1Pに30字で1行から長くても14行の構成。アトランダムに開いた個所から詩的時間にするりと入り込める。続く補遺(いつかある日に作るための献立)は文句なしに楽しめる。「メモ1 ながすぎた午睡のあとの夏の夕に」では、「西瓜の薄切りにゼストを散らして(騙されたと思って是非)」と断り書きのあるレシピの奥からは、料理するひとの手の動きがズームアップして、入れ子構造の小説の一場面のようだった。食卓の緻密な静物画が立ち上がってきた。
 糸井さんのアフォリズムは、そこには描かれていないが、ひとつひとつに見えざる銅版画が描かれているようで、小さな画廊に迷い込んだような不思議な感覚に包まれた。最初の一枚は、なんとも鮮やかに登場した。
 《くさはらの(草)。水うみの(みず)。あかるい夜、だから光ってい/る。くさを掻き分けさがす、逃げた夢の尾びれ。ときにひとの手/(と声)を借りて。くさを書き分け、なくした草稿のひとひら。彼/方で白くひかっている。(あれが、そう)。》
 とある美術館の庭園が透けて見えた。草むらにかくれていたウサギの彫刻が動き出した。なくした草稿を無心に食べている姿だ。ひとの気配を感じて、ためらいがちにこちらを見た。その庭園は好きな場所で気になる展覧会があると、帰り際のお楽しみの場所だ。敷地内にはいくつもの野外彫刻が点在しているのだが、ウサギをみつけたのは一度だけだ。「くさを掻き分け」と「くさを書き分け」とのあいだに「ひとの手」と「声」が入る。ウサギはヒト科が変身した姿だったのだろうか。作品から逸脱してウサギを、なくした草稿の行方を追っていく。
 ふいにおびただしいメモ(ノート)をシュレッダーにかけて廃棄したときの指先の感覚が感傷的に蘇ってはきたが、30年も前のノートの消失をもったいないとはおもわなかった。具体的な何かは記述されず、心象風景にもならない感情の渦だけが活字として刻みつけられていたから、むしろさっぱりした。未練は無用だとも思えた。しかしこのアフォリズムに触れてから、処分した私のノートにも「逃げた夢の尾びれ」があり、シュレッダーの刃から逃れた声もあったはずなのではと思いかえすと、焼却から逃れた声が部屋のどこかに隠れ住んでいるかもしれないと背筋が寒くなった。
 気になったのは、身体への記述だ。
 《日の終りにわたしの体臭がもどって、湿った腋下あたりからこみあ/げてくる。知らないわたしにふと出会い、臓器の一部を剥き出しに/して西日にさらしてみたいくらいだ。朝という遠い昔にはおっ/たこの世から借りた衣裳を、やっとのこと、脱ぎおわる。釦が一個/はずれて木の実の軽さで落ちて、からから、けして見つからない低/い場所のほうへ身を屈める羽目になる。》
 誰も見てはいないのに、日の終りに戻ってくる体臭を強く意識した。「この世から借りた」マスクもある。スッピンになった私は誰?なのか。「体臭」や表情をなくした「顔」の変化をつきつけられて、狼狽した。日常のちょっとした出来事や仕草が詩的時間に誘い込む。
 《寝覚め間際に繰り広げられる美しい夢はどれも、ベッドから身を起/こし足元のスリッパを履いた途端、陳腐な物語に変わる。》…体験と重ねてテキストを読んではいけない、作品そのものと向き合わねばとおもうのだが、いまは、こうした読み方、つぶやきしかできない。もちろん、情景描写が鮮明な場面も少なくない。いくつもの隠喩や徴が織り込まれた銅版画として受け止めた。《夜の橋をわたる人がいて、橋は暗い水と夜をつないで人を通す。人/がわたると橋は宙に浮いて、水に沈む夜を支えて再びそこに在る。》は、運河、廃駅、夜の森、蓮池、半島、鳥、飛行機雲を呼びこんでいく。
 
大阪梅田・窓内からの観覧車
撮影:寺田 操(C)
 
(個人誌「Poetry Edging」48―2021年03月01日発行―より転載)

★プロフィール★
寺田 操(てらだ・そう)詩人。編集として『幻想・怪奇・ミステリーの館』(「エピュイ23」白地社)。詩集として『みずごよみ』(白地社)、『モアイ』(風琳堂)、評論として『恋愛の解剖学』(風琳堂)、『金子みすゞと尾崎翠──一九二○・三○年代の詩人だち』(白地社)、『都市文学と少女たち―尾崎翠・金子みすゞ・林芙美子を歩く』(白地社)、童話として『介助犬シンシアの物語』(大和書房/ハングル版はソウル・パラダイス福祉財団より)、『尾崎翠と野溝七生子』(白地社)、共著として『酒食つれづれ』(白地社)、『小野十三郎を読む』(思潮社)、『尾崎翠を読む 講演編 2』(今井出版)、2018年8月に共著『宮崎駿が描いた少女たち』(新典社)を刊行。

Web評論誌「コーラ」43号(2021.04.15)
「新・玩物草紙」ふたつの漱石論/夜の橋を渡るひと(寺田 操)
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