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Web評論誌「コーラ」
42号(2020/12/15)

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古井由吉の仮名往生試文

 新型コロナウィルスがじわじわとしのびよる2020年2月18日、作家・古井由吉氏が82歳で死去された。何度目かの『仮名往生伝試文』河出書房新社/1989・9)を開いた。三月十七日、火曜日、曇、日付を持つ文に目をとめた。年末から作者は風邪をひいていて、小春日和が二日続いて、また寒くなったが、風邪気は抜けている。その後に続くのが「疫病流行」についての次の記述である。
 《疫病流行の前年とは、どんな雰囲気のものなのだろう。どんな生き心地のものなのか。もちろん、疫病はいきなり始まるものではない。余剰の乏しい時代ならば、ほとんどかならず、不作凶作が先行するのだろう。飢饉と疫病はやがて区別もつかなくなる。(略)何年にもわたり、おもむろに始まるのであり、その前年というものはない。人の暦の段取りを待って起るものではない。》(いま暫くは人間に)
 他の本を取り出すと『明けの赤馬』、『聖』などの、手垢のついていない単行本に較べて、文庫本には持ち歩いた汚れの形跡と読みこんだ線引きがある。読んだ時代の記憶を呼び覚まそうと書き出しを目で追ってみたなかで《腹をくだして朝顔の花を眺めた。十歳を越した頃だった。厠の外に咲いていたのではない。》『槿(あさがお)』がズームアップしてきた。夏場の腹くだし、身の内からの熱と毒に怯えた幼い日の怖い体験だ。『仮名往生伝試文』を開いた時、作者の「声」が聞えた、「息」が耳元に吹きこまれたような奇妙な感覚があった。最初の章は「厠の静まり」だ。幼い日と壮年期とがリンクする。往生したと思われた僧のなかには、厠の中から消えた人もいるというではないか。『招魂としての表現』福武文庫/1992・1)には《どこかで、自分がおろそかにされている、と気がつくことがある。終始他人に関するフィクションばかりに熱中して、自分に対するフィクションが荒れてしまっている。》(「私」という虚構)は、『仮名往生伝試文』として結晶したようだった。
 
王子動物園の観覧車
撮影:寺田 操(C)
 
 

別役 実

 2020年3月3日に劇作家の別役実が旅立たれた。82歳。新聞では「不条理劇の第一人者」と呼ばれていた記事があった。確かにカフカやベケットに影響を受けているが、別役実の不条理劇は抽象的な作品ではなかった。どこにでもいる人の何気ない日常風景を掬い上げながら、そこに見え隠れする非日常をさぐりあてた。そこにスポットをあてると、おもいがけないシーンや展開となり、舞台にのせるとアナザーワールド。ときには社会批評になるが、乾いたブラックユーモアに包まれていた。舞台は何本か見たのだが、社会の病理も犯罪も声高に暴き立てるなんてことはしない、暗く重く描くのでもなかった記憶がある。
 別役実には小室等に歌われたフォークソングになった詩がある。文藝別冊『心の詩集』KAWADE夢ムック/2000・8)に収録されていた。
 《雨が空から降れば/想い出は地面にしみこむ/雨がシトシト降れば/想い出はシトシトにじむ//黒いこうもり傘をさして街を歩けば/あの街は雨の中/この街も雨の中/電信柱もポストもふるさとも雨の中/しょうがない雨の日はしょうがない/公園のベンチで一人/お魚をつればお魚もまた雨の中/しょうがない雨の日はしょうがない/しょうがない雨の日はしょうがない》
(「雨が空から降れば」)
 まるで中原中也が「雨の日はしょうがない」とつぶやきながら街を歩いているようだと思った。雨の日に街へ公園へとでかけてみたくなる。トレードマークの帽子を被り、黒いこうもり傘をさして歩いている人をみかけたら、あなたは中也さんですかと声をかけてみようかな。「公園のベンチで一人/お魚をつればお魚もまた雨の中」の抒情に浸ってみたくなる。「しょうがない雨の日はしょうがない」と感傷に溺れてみたくなる日だってある。
 『満ち足りた人生』白水社/一九九七)では、「平均的な一般市民」が一生のうちに「たいていやっていること」、誕生から死までに体験する出来事を俎板にあげながら、人生とは何かに迫る読本だ。退屈な日常とか平凡な人生だったとか嘆く人が少なくないが、退屈どころか日常は不条理に満ちていると思えてくる。また誰の人生もよくよく振り返ってみると、意外と波瀾万丈でとらえようによってはかなり劇的な体験をしているはずである。新聞の三面記事を賑わす男も女も、私の内奥に宿っている困った癖、得体のしれない何かが鎌首をもちあげて「事件」となることだってありうることだ。きわめて日常的な出来事と思いがちなことも、機械があれば逸脱、侵犯の可能性があることに気付かされはずだ。オギャアと生まれてから、入学、卒業、就職、恋愛、免許、結婚、出産、不倫、入院、手術、離婚、破産、断食、戒名、自殺、葬式……数えきれない「たいていやっている」出来事が、危険水域を超えて「事件」に変ることもある。一生に一度くらいは家を捨て家族をすてて別の人生を歩みたいとか、まさか、あのひとが」とか「こんなことも考えていたのかと」思わせてみたい、思いがけない「冒険」や「途方もないこと」をやってしまうのが、予測不可能な人間という生きものの不条理劇である。ひとつひとつの項目に別役実はどのような指南をしていくのか。シニカルなタッチで示しながらユーモアで包む、毒になることがあれば薬になることもある。読んでのお愉しみだ。『満ち足りた人生』が発行された1997年から現在の2020年までに、加えるべき人生の項目は増殖しつづけた。コロナ禍で一変した日常風景、生活様式が加わるなら、別役実はどのような世界として綴ってくれただろうか。
これからも、これまでの生活様式を変える局面が何度も起きるだろう。そのたびに、私たちは呟くだろう、「SF的な世界に迷い込んだ」、「みたことのない風景だ」、「どこへ連れていかれるのだろう」などと。日常は流動する、裏返されては異界に誘いこまれる。現実は虚構化され、虚構はブーラメンのごとく現実に戻される。
 
神戸文学館
撮影:寺田 操(C)
 
(個人誌「Poetry Edging」46―2020年07月01日発行―より転載)

★プロフィール★
寺田 操(てらだ・そう)詩人。編集として『幻想・怪奇・ミステリーの館』(「エピュイ23」白地社)。詩集として『みずごよみ』(白地社)、『モアイ』(風琳堂)、評論として『恋愛の解剖学』(風琳堂)、『金子みすゞと尾崎翠──一九二○・三○年代の詩人だち』(白地社)、『都市文学と少女たち―尾崎翠・金子みすゞ・林芙美子を歩く』(白地社)、童話として『介助犬シンシアの物語』(大和書房/ハングル版はソウル・パラダイス福祉財団より)、『尾崎翠と野溝七生子』(白地社)、共著として『酒食つれづれ』(白地社)、『小野十三郎を読む』(思潮社)、『尾崎翠を読む 講演編 2』(今井出版)、2018年8月に共著『宮崎駿が描いた少女たち』(新典社)を刊行。

Web評論誌「コーラ」42号(2020.12.15)
「新・玩物草紙」古井由吉の仮名往生試文/別役 実(寺田 操)
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