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Web評論誌「コーラ」
35号(2018/08/15)

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無言歌

 2018年1、2月の寒さは格別であった。窓ガラスはパリパリに凍結し、連日の雪で外出を控えて閉じこもる日も少なくなかった。陽が高くなってから散歩にでかけた公園では、鳩もカラスも猫も姿を見せない日が続いた。吹雪で視界がみえなくなった書斎で、昨年12月初頭に病で急逝された築山登美夫『無言歌 詩と批評』(2015・11・25/論創社)を開く。もう詩と批評を読ませていただくことがないのだと思うと、寒さがいっそう身にしみた。
《きみは行くんだね/かなしみに沈んだ鏡の眼をいつぱいに瞠り/視えない瓦礫に蔽はれた街から/ひるがへるまつ青な海に背をむけて//阿武隈川、八月の阿武隈川/摧けた硝子の光/流れる鬣/無音の藻に消えて行く影//そこにゐるはずの 愛するひとがゐないから/あつたはずの街がないから/きみは行くんだね/おとづれた災厄の 摧けた光を//きみの心は避けようともせず/生き残るのはつらいこと/生き残つてその場を去るのはつらいこと/堰を切つて溢れる言葉を そのつど//泪のやうにふりはらつて/きみは行くんだね/私はきみを見送つてゐる/ひそかに 波の底の街から//私にもし音楽があれば/私にもし楽器があるならば/阿武隈川、阿武隈川/摧けた、八月の、阿武隈川》(「無言歌 二〇一一年夏」)……《きみは行くんだね》と、見送る詩友たちに「無言歌」を残して静かに雪のなかに消えたひと。
 あとがきで「詩と批評を併せて収めた本をつくるのは念願 でした」と記されていたのは、文学のとば口で、詩と批評が「ひとつ」のものとして認識していた同世代人の、思考のかたちではなかったかと思った。けれど、なぜなのかと、意識にのぼることもなく、問うことさえしないで、本を刊行するときになれば、詩と批評は、あっけなく、別離を余儀なくされてしまっていた。本書を手にして、築山登美夫さんの詩と批評への想いの深さを知った。
 
 
撮影:寺田 操(C)
 

山本陽子の眼、草間彌生の目

 『生の根源をめぐる4つの個展 ―篠原道生展・山本陽子展・岡崎清一郎展・春山清展』(足利市立美術館2017・8・4)を開きながら、本棚から黒地に赤の『山本陽子遺稿詩集』(編集=坂井信夫・中村文昭・七月堂/1986・5・20)をとりだしてみた。山本陽子について何本かのエッセイや書評を書いたことがあったのだが、遺稿を前にすると、いつも戸惑いが生じていた。生きている死者(詩人)から、解読を拒まれているような視線を感じるのだ。
《もの、の こわれる、次第から、しる/あまりの誠実へいってはいけない、/暗赤と、暗緑と、暗紫のいりまじって/流れだす、暗い、あんこうから、流れでて/墨溥の 蛇行しながら、いくかのような/オノリコ河/あの、あかるいかおみせる、/躬躬 流赴は、どこへ 流れいるのだろう》
 1984年8月29日に41歳で亡くなった山本陽子の、一千行近い未発表の遺稿の部分を引用してみた。抜き書きでは詩の魅力は伝わらないのだが…。遺稿集の中扉には「スケッチブック」より、青をバックに自画像らしき顔の絵。青、黄色、黄緑で彩色された顔に茶色で無数の皺が描かれ、黒い目のなかには青い瞳。視るものを、画布のなかから視ているような、少し怖い「顔」の絵だ。ゴッホが自画像(1889)を描いた顔もまた黄色と黄緑で彩色され、背景は青だった。偶然だが、ゴッホの自画像(絵葉書)と、山本陽子のクレヨン画(絵葉書)が同じ袋に入って机の中からでてきた。山本陽子の葉書には、耳と鼻の間に、3つの青い眼とひとつの赤い目が描かれていた。詩行のような「あかるいかお」が見たいと願った。
 山本陽子展の図録を開くと、眼は「神の孔は深淵の穴」という山本の詩のタイトルそのもののように思えた。青、赤、黄、黒、黄緑……クレヨンで鮮やかな色彩が塗られた顔は眼を増殖させながら孤独な戦いを展開している。輪郭をなくし、ズームアップされた無数の眼には戦慄を覚えた。こころのなかを見透かされているような眼・目・眼・目・めめめめめめめめめめめめめめめめめめめ。自分自身と対峙し続けた極北に描かれた? 自画像ともいえる60枚のクレヨン画。それ以外は残さなかった潔さ。描かれた眼は芽であり、言葉の種子であり、狭いキャンバスから飛びだして、神の孔に吸い込まれ、やがて、宇宙にはじけていく姿を想像してしまった。真っ白に戻った世界。そこには誰もいない。消えていくこと、存在そのものを消すこと、いや眼がかすかに点描で残っているような…。
 あらゆる芸術的表現は、創作者の「こころ」のうちが「思考の紋章」として作品に顕れてくるものだし、どのように時代が透けてみえるか――について探ってしまいがちだが、深読みは避けたいと思う。できるだけ作品を見たときの最初の一撃を、印象を、大切にしたい。その人が抱えている背後には、けして土足で踏み入ってはいけない。ミステリーゾーンはそのままにしておきたいものだ。
 少し前の展覧会になるが『草間彌生 永遠の永遠の永遠』(大阪国際美術館/2012・1・7〜4・8)に触れておきたい。巨大なカボチャのオブジェや、赤い水玉模様の巨大なチューリップの部屋が、女性たちの人気をさらった展覧会だった。チューリップ部屋では撮影が可能だったので、カラフルで巨大なオブジェの世界に迷いこんだ女性(まれに男性も)の何とも言えない至福に満ちた表情を見た(わたしもだが)。永遠の少女の耀きを表出した壁一面の鮮やかな色彩の爆発にも目を瞠らされたのだが、怖いと感じたのは、2004〜2007年のモノクロームな「愛はとこしえ」シリーズだった。女たちの「顔」と「目」で世界が、宇宙が構築されていたからだ。目はどこにでも出没する。「1000の目」に吸い込まれそうになった。

撮影:寺田 操(C)

(個人誌「Poetry Edging」39―2018年03月01日発行―より転載)

★プロフィール★
寺田 操(てらだ・そう)詩人。編集として『幻想・怪奇・ミステリーの館』(「エピュイ23」白地社)。詩集として『みずごよみ』(白地社)、『モアイ』(風琳堂)、評論として『恋愛の解剖学』(風琳堂)、『金子みすゞと尾崎翠──一九二○・三○年代の詩人だち』(白地社)、『都市文学と少女たち―尾崎翠・金子みすゞ・林芙美子を歩く』(白地社)、童話として『介助犬シンシアの物語』(大和書房/ハングル版はソウル・パラダイス福祉財団より)、『尾崎翠と野溝七生子』(白地社)、共著として『酒食つれづれ』(白地社)、『小野十三郎を読む』(思潮社)、『尾崎翠を読む 講演編 2』(今井出版)、2018年8月に共著『宮崎駿が描いた少女たち』(新典社)を刊行。

Web評論誌「コーラ」35号(2018.08.15)
「新・玩物草紙」無言歌/山本陽子の眼、草間彌生の目(寺田 操)
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