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Web評論誌「コーラ」
32号(2017/08/15)

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吉増剛造はムツカシイ?!?

 吉増剛造はムツカシイ……と敬遠されていると小耳にはさんで、何かゴツンと頭を叩かれた気がした。若い日には、これは何だと驚愕した詩と詩人たちとの出会にこそ興奮したものだが。
 吉増剛造『黄金詩篇』(思潮社/1970・6・1)赤瀬川原平の装幀に度肝を抜かれた。水紋のなかから黄色い指がヌット突き出し、その指の爪の先にも水紋があり、なでしこのような花首がいくつも散っていた美しくて不気味な絵だ。扉を開けば吉増剛造の青いペン書きの詩篇。完成された作品ではなく、書き込みや削除などの痕跡が生々しいが、これもお気に入りだった。
《ぞっとするほど美しい言葉がつかめなきゃ/世界は終末だ/………と自我が叫ぶ/いま十二月の武蔵野は宇宙的酩酊ににて/ぼくは/ひとり立ちつくして/一日の終末の壮大な感情》(「声 曲線(カーブ)してしまった声」)
 黒い簡易箱入りの『頭脳の塔』(青地社/1971・1・30)を探すが行方不明だ。詩集コーナーにあるはずなのに見当たらない。どこへ隠れてしまったというのだろう。ハルキ文庫の『吉増剛造詩集』では《ぼくは詩を書く/第一行目を書く/彫刻刀が、朝狂って、立ちあがる/それがぼくの正義だ!》『黄金詩篇』の冒頭の詩「朝狂って」が「1 頭脳の塔」に入っていて、これは変だと、稲川方人・解説を読むと、「朝狂って」は第二詩集『黄金詩篇』から採られていると書かれていて、間違いではなかったのだが。なればどうして「頭脳の塔」に?「本書が必ずしも編年体によってはいないことを明らかにするためであるが、なにより書き出しの二行が明快だからである」「真新しい詩集として読まれなければならない」と語られていた。しかし、初版時に読んだ記憶がいきなり上書きされて消えるような奇妙な感覚。《朝霧たちこめ/狭霧たつ》と詩集は翌朝「お呼びでしたか」と出頭してきた。
 
 

エンド・ゲーム

 ほんの少し自分をグレードアップしたかっただけだった。私のことを知ってもらいたかった。注目されたい、と思わない人なんているかしら。SNS、インスタグラムに得意な料理や文化度の高い生活ぶりを投稿して、フォロワー何千、何万なんて話題にのぼり、メディアでとりあげられてTV生出演なんて、夢を抱くのは罪かしら。等身大の私にデコレートかけただけ。仮装の私を演じてみるのは楽しかったわ。私のなかの見知らぬ他者の発見。誰もが内なる他者を抱えているものよ。ここではない場所、私ではない「わたし」の発見。フツーの主婦の演技力と自己演出で、こんなに注目されるなんて…。少しばかり虚飾を交えて発信しただけのブログやフェイスブック。親しい友人だけにと制限をかけていなければ、アップしたとたんに世界中の誰もが閲覧可能になる。
 就活戦線まっただなかの若者たちの、戦いぶりを描いた朝井リョウ『何者』(新潮文庫/2015・7・1)では、《メールアドレスでSNSのアカウント検索する》なんて会話があった。ツイッターのアカウント検索ができるなんて怖いな。秘密の裏アカウントだから、友人たちには気づかれないと人間観察していたら、当の本人からのぞき見されているなんて、なおさら怖い。周囲には思わぬ災難に巻き込まれた友人たちがいる。ブログもフェイスブックもツイッターも、まるで縁のない化石状態の私には、計り知れない世界になっているようだ。
 彼女は(彼は)、あり得たかもしれない人生を、別の「何者」をイメージしていたかもしれない。けれどアップした私的な願いや情報は、不特定多数の人びとに「シェア」されのぞき見される。それでも「私がここにいます」と、発信したくなる?リアルと虚構のあいだに漂流することは、よほど魔力があるらしい。戻り道を見失わないようにね。そうでないと、エンド・ゲームになりますよ。
 恩田陸『常野物語 エンド・ゲーム』(集英社/2006・1・10)が本棚からのぞいている。読みなさいねという合図がきた。柳田国男『遠野物語 山の人生』(岩波文庫/1976・4・16)を想起させた「常野物語」シリーズ『光の帝国』『蒲公英草紙』に続く一冊だ。前二作は、『遠野物語』以後の世界を百年位のタイムラグで体感しているドキドキワクワク感に加えてなにか懐かしさがあった。膨大な情報=記憶を収納する力、未来を知る能力を備えた異能の持ち主たちが、その特殊な能力ゆえに漂泊を宿命づけられ、離合集散を繰り返しながら、常に野であること、群れずに、ひっそりとこの世の片隅で暮らしている。ひとたび異能が察知されると、受難を引き寄せてしまうからだ。こうしたある意味での都市伝説の織物=テクストが、「遠野」から「常野」に呼び名が変わっても、模倣・反復・再生されて、人と人の、人と世界の物語空間はたえず更新されていく。伝承、民譚が、長い長い時間をくぐり抜け、たえず未知に向かいながら、小説世界などで変奏されていくように。
 『エンド・ゲーム』には懐かしさより不気味なものを感じた。ここに登場する異能者は《洗って、叩いて、乾かす。そして白くする》「洗濯屋」と呼ばれる。真っ白にしてもらい別の人生をやり直す。「裏返され」れば、別人になる。家族のこともすっかり忘れてしまい。新しい人格と記憶が獲得される。進んで「洗濯屋」に身を預ける人もあるだろうが、「洗濯屋」に激しく抵抗すれば廃人になることもある。《まあ、生きているとも言えるし、死んでいるとも言えるね。この世の中、あらゆる境界が溶け始めているから、どっちでもいいよ》のセリフにいま生きている現実世界が二重写しになって迫ってきた。
 十年ほど前にこの小説を読んだときは、CG映像を見ているようなシュールさで軽い興奮を覚えたが、いま読めばとてもリアルで不気味だ。自分自身を「洗濯」して、新しい自分の物語を生きたいとする願望がある限り、この寓話は更新されつづける。無数の私に拡散して怖くなったと訴えるあなたは、私の似姿?


(個人誌「Poetry Edging」36―2017年03月01日発行―より転載)

★プロフィール★
寺田 操(てらだ・そう)詩人。編集として『幻想・怪奇・ミステリーの館』(「エピュイ23」白地社)。詩集として『みずごよみ』(白地社)、『モアイ』(風琳堂)、評論として『恋愛の解剖学』(風琳堂)、『金子みすゞと尾崎翠──一九二○・三○年代の詩人だち』(白地社)、『都市文学と少女たち―尾崎翠・金子みすゞ・林芙美子を歩く』(白地社)、童話として『介助犬シンシアの物語』(大和書房/ハングル版はソウル・パラダイス福祉財団より)、『尾崎翠と野溝七生子』(白地社)、共著として『酒食つれづれ』(白地社)、『小野十三郎を読む』(思潮社)、2016年3月に『尾崎翠を読む 講演編 2』(今井出版)。

Web評論誌「コーラ」31号(2017.04.15)
「新・玩物草紙」夢の話/車中のひとは(寺田 操)
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