捨児
小川洋子「イービーのかなわぬ望み」(『夜明けの縁をさ迷う人々』角川文庫/2010・6)は、街で一番古い中華料理店のエレベーターのなかで産み落とされ、母に姿を消された男の捨児の物語だ。出産に遭遇したが縁で捨児を育てることになった洗い場のチュン婆さんは、赤ん坊を背中にくくりつけて皿洗いをし、流し台の陰でミルクを飲ませ、店の一角で捨児と一緒に寝起きした。イービーと名付けられた彼がヨチヨチ歩きするころになるとエレベーターが遊び場となり、一日中そこで過ごすようになった。エレベーターには可愛い男がいると評判になり、中華料理店にはなくてはならないマスコットになった彼だが、育ての親が死ぬとエレベーターに駆けこんでひきこもり、そこが住居であり仕事場であるといった完全なエレべーター・ボーイとなった。時は流れ、中華料理屋の閉店、老朽化した建物の取り壊しがはじまった。エレベーターからウェイトレスに抱きかかえられて救出され、はじめて外界の空気に触れたイービーだが、しだいに輪郭を失くし、余生をすごしたいと願ったエレベーターテスト塔が見えたとき、肉体は消えていた。
高橋秀明『捨児のウロボロス』 (書肆山田/2013・9)は、強烈な意志をもった捨児の出現だ。
《キミが母だったなんて認めない。ぼくは捨児だ。海のじゃない。原野の捨児だ。波に揺られて若い母親に拾われるどころか、茨や土石に擦られた肉体をここまで自分自身でひきずってきた闇雲の力なのだ。ボクは傷だらけの力でありキミを追う犬だ。》
人間と狐の異類婚姻譚と母恋の「葛の葉伝説」から遥か遠い北の原野、ここで何が起きていたのか? 伊藤整「海の捨児」や佐川ちか《私は海へ棄てられた》のウロボロスを喰ちぎって顕われた蛇ではない犬は、《憑くぞボクは。キミの人生の暗黒部へ降りてゆくぞ。》と吠えた。
富士
三保の松原を含む富士山(山梨、静岡両県)がユネスコの世界文化遺産に登録された。若いころには信州の山々には登ったことがあるし、あの山、この山と登りたい山はいくつもあった。なのに「富士」は、遠くから眺める山であり、登山してみたいと思ったことはなかった。
太宰治の『冨嶽百景」(『斜陽 人間失格 桜桃 走れメロス 外七篇』文春文庫/2000・10)の名セリフ《富士には、月見草が似合う》のイメージがあまりにも鮮烈すぎたせい? 富士はただそこにあるだけなのに、伝統的美意識の象徴や思想や政治的なイメージがつきまとって、どうも扱いにくい山である。
列島の基地を横断する輸送機と富士という異質なものを出あわせた小野十三郎詩集『重油富士』(昭和31)。無機質な輸送機、煙突、重油タンクなどと、虫や鳥や繁殖力を持つ植物がさりげなく描写され、花鳥風月的な情緒とは異なる美意識により、新しい抒情の質が創出されていたように思えた。なかでも不意をつかれた詩がある。
《はでなワンピースの女が三人こしかけている。三人とも西班牙女のような巨(でか)い輪のイアリングをつけている。富士、鈴川間の真正面の富士山。窓ぎわにいる横顔のきれいな子が取りだしたのは赤丸のラッキーストライクだ。底をはじいて一本とびだしたやつを真赤な唇にくわえ、向いにいる朋輩にそのはこをまわして、カチッと片手でライターの火をつけた。なんたる無表情。富士なんか眼中にない。一つ空いている席に坐らしてもらった。》(「空席」)
就寝前に寝床で読み継いでいる武田泰淳『富士』(中公文庫/2012・10)がまだ半分しか読めていない。数ページ読むとたいていコトリと寝入ってしまうのと、短時間で読める文庫本を先に読むので、なかなか登上できない。文庫サイズで文字が小さく、638ページで1千枚を超える分量と思えば、たちまちめまいがする。『富士』は、文芸雑誌「海」(69〜71)に連載された。時代は昭和19年、富士山麓の精神病院が舞台で、精神科の実習生の手記のかたちではじまる。冒頭にはリスが出没する自然描写だが、病院という閉鎖空間で繰り広げられる患者と医者の混沌と饒舌、正常と狂気、境界がゆらぐ摩訶不思議な物語だ。この連載時の担当編集者が、のちに作家となった松村友視。武田泰淳の、赤坂の自宅と富士山麓河口湖畔の山荘とを往還することになる。この間のやりとりは、村松友視『百合子さんは何色』(筑摩書房1994)に詳しく、武田百合子『富士日記 上中下』中央公論社・1994)の出来事が小説世界にかたちを変えて挿入されている。
村松友視が、武田泰淳を最初に訪問したとき、富士山麓を舞台に繰り広げられる国枝史郎『神州纐纈城』(河出文庫2007/底本は桃源社・昭和68)を、執筆資料の一冊として持参したはずだというエピーソードには驚いた。物語は武田信玄の家臣土屋正三郎が不思議な夢をみたことからはじまる。夜桜見物のおりに老人から買い求めた紅布に自分の名前が書かれた文字が浮かびあがっていたのだ。夢はまこととなり、紅布を手にした彼は人血で染めた纐纈布の古事を知り、奇面の城主が君臨するという富士山麓の魔界へと迷い込む。
武田泰淳は安岡章太郎からこの奇想天外な伝奇ロマンの存在はきいていたが未読だった。編集者にすすめられて武田泰淳が読んだなら、村松が言う「作品の背景につねに富士山という存在があり、人間の形を崩す宿命の病いやおどろおどろしい物語との対比」を嗅ぎ取っただろう。『吾妻鏡』や『ふじの人穴草紙』などの記録、説話から、富士山にまつわるオカルトめいた側面にスポットをあてたのは、花田清輝「小説平家」(講談社文庫『鳥獣戯話・小説平家』所収・昭和63年10)だ。美の象徴たる「富士」が表の顔であれば、内には人穴、風穴、胎内などの洞窟があり、おどろな魔界がある。だからこそ富士にまつわるさまざまな物語が生れるのだろう。
(個人誌「Poetry Edging」26―2013年11月01日発行―より転載)
★プロフィール★
寺田 操(てらだ・そう)詩人。編集として『幻想・怪奇・ミステリーの館』(「エピュイ23」白地社)。詩集として『みずごよみ』(白地社)、『モアイ』 (風琳堂)、評論として『恋愛の解剖学』(風琳堂)、『金子みすゞと尾崎翠──一九二○・三○年代の詩人だち』(白地社)、『都市文学と少女たち―尾崎翠・ 金子みすゞ・林芙美子を歩く』(白地社)、童話として『介助犬シンシアの物語』(大和書房 /ハングル版はソウル・パラダイス福祉財団より )、共著として『酒食つれづれ』(白地社)、『小野十三郎を読む』 (思潮社)。2011年5月に『尾崎翠と野溝七生子』(白地社)を出版。
Web評論誌「コーラ」22号(2014.04.15)
「新・玩物草紙」捨児/富士(寺田 操)
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