箪 笥
《箪笥が生きていると/言ったのは誰だったかしら》と青山雨子詩集『暇な喫茶店』(書肆山田・二〇一〇・三)より「箪笥」を開いていて、箪笥にしまったまま袖を通していない着物を風にさらした昨秋の温かい陽のことを思いだした。足を手術してからは着物を着て出かける気にはならない。といって処分するのもリフォームするのも抵抗がある。お茶や仕舞をしていた亡母のたくさんの着物だって、結局は妹の子どもが数点形見分けにもらっただけでほとんどを処分してしまったのだと思えば、箪笥の肥やしにしていてもしかたがないこと。詩の続きは、祖母の形見分けのする箪笥の中から《出てきたのは蝉だったわね/桜の葉影の地模様から盆、盆が近いって》だった。木を倒して家や家具にして暮らす人間の棲み家で、最期を迎えた樟脳まみれの蝉の一生。
長野まゆみの長篇『箪笥のなか』(講談社・二〇〇五)から出てきたのは、ショウコウアゲハの蝶、タマシイを吸い寄せる琥珀、真珠かもしれない白い珠、真綿で包んだ繭玉、グラス一杯を飲み干す箪笥。これは何とシュールな箪笥でしょう。箪笥の怪異に引き込まれて、我が抽斗からも何かが出てこないかと期待したのだが、金紗のにほひ袋が深い溜息をつきながら顔をのぞかせただけ。和紙の結び目をほどき開いてみると、ぷ〜んと樟脳の匂いが鼻につく。母、叔母、義母、などから贈られた着物や半襟や組紐、足袋など。赤い地模様に大きな蝶が羽根を広げた帯は、還暦過ぎたわたしには不似合いだ。どこへでも飛んでいきなさいと囁いたが、羽根を閉じて冬眠モードに入った。風通しをして虫喰いがないか点検した後、着物たちを再び箪笥の中へ納めたが、数年に一度しか虫干しをしない、ずぼらな箪笥の所有者だ。あきれるわね、箪笥の奥から漣のような笑い声が聴こえた。
植物奇譚
南東に面したベランダの窓際は日当たりがよいので、いくつもの鉢を置き、冬場に枯れてしまう時計草などを切ってガラスのコップのなかで根をはらせている。春に鉢植えの土のなかに戻すのだ。「幸福の木」もそのなかの一本なのだが、昨年秋に友人の家で十四年目に花が咲いたと写真が送られてきてから、にわかに気になりはじめた。彼女の家のリビングでお喋りするとき、かならず傍らで二人の話に耳を傾けていてくれたあの木だと思うと、よけいに我が家の「幸福の木」の小ささが目につく。植物を育てるのは苦手だ。枯らしてしまうことも多いし、蔓がぐんぐん触手を伸ばす時計草など、深夜に寝込みを襲い、身体にからみつくのではないかと怖くなることもある。ベランダの鉢植えの時計草が、物干しにからみつき、ほどくのに難儀したこともあるのだから。
せっかくだからと「幸福の木」の声に耳を傾けて、木にまつわる筒井康隆「佇むひと」(阿刀田高=編『日本幻想小説傑作集T』白水Uブックス・一九八八第二刷)を本棚から取り出してみた。小説家が散歩する公園や通りには、犬や猫や人などが植物化して地面に植わっているという怖い話だ。作家は郵便配達人の人柱に「あんたは、何をしたんだい」ときいてみると、「給料が安いと言っただけだよ。それを上役に聞かれてちまったんだ」と言った。何か社会的な規範をはずす発言や行為をした生きものたちが植物に変えられてしまうらしい。しかも、完全に植物化するまでには時間がかかるから通行人と言葉を交わすことができるのだ。「腹がへったり、寒くなったりしないかね」と問うと、最初は腹を立てたり悲しんだり、腹をすかせたりしたが、「あまり食わない方が、植物化が早く進む」のだと言う彼は、すでに光のない眼になっていた。小説家が植物化していく人の状態を気にしたのは、妻が人柱にされていたからだった。
妻は三日前、駅近くの静かな通りの金物屋の横に植えられていた。婦人会の集まりで物価が高いとこぼし、政府批判をして密告されたのだ。妻に会いたい、けれど誰が見ているかわからない、密告でもされたら大変だ。それでも危険を冒して妻に何度も会いに行く。妻は足首から先を地面に埋めたまま白い顔をして、無表情で立っている。通りかかった男たちが妻を指さして下品な冗談を言い合って笑うのも黙ってみていなければならない。夫が来ると妻は、白い頬にぽっと血の色を浮かべ「また来てくれたの。でも、来ちゃいけないのに」と言い、「来ずにはいられなかった」とつかの間の逢瀬。金物屋の主婦は見て見ぬふりで店の奥へひっこむ。逮捕されたときに着ていたスーツは汚れて皺だらけだが、着替えを持ってきてやることは叶わない。完璧に妻が植物化したら申請して、家の庭に植え替えると慰めるしかない夫。本物の緑の木がだんだん少なくなり、元ヒト科の木がじわりじわりと増えつづける世界のグロテスクな怖さがある。なのに、作品からは、物悲しさや抒情が溢れだしてきて、不思議な気持ちで読んだ作品だった。書くことは、何か世界の禁忌に触れることではないかと思うと、ヒト科の植物は物言いたげにリアルに迫ってくるのだった。
もう一篇、伊予和気郡に伝わる陰暦一月十六日に一日だけ咲く「十六桜」奥田裕子訳『小泉八雲 怪談奇談集』(河出文庫・一九八八年)から。「うそのよな/十六桜/咲きにけり」の詩句が冒頭に置かれたモノ語りだ。ある侍の家の庭に百年以上の古木の桜があった。毎年の開花は三月末〜四月初めで、侍は桜を愛でる歌を短冊に記し、花の枝に結ぶ風流を何よりも楽しみに年を重ねてきた。子どもに先立たれ一人になってからは桜だけがこの世の未練。ある夏、桜が枯れて死んでしまった。近所の人が若木の桜を植えて慰めたが哀しみは癒されない。あるとき、桜の花の身代わりになろうと思いついた老侍は切腹をした。木に命を譲ったのだ。人の魂が桜の木に乗り移ったその日が、厳冬の一月十六日だった。
(個人誌「Poetry Edging」15より転載)
★プロフィール★
寺田 操(てらだ・そう)詩人。編集として『幻想・怪奇・ミステリーの館』(「エピュイ23」白地社)。詩集として『みずごよみ』(白地社)、『モアイ』 (風琳堂)、評論として『恋愛の解剖学』(風琳堂)、『金子みすゞと尾崎翠──一九二○・三○年代の詩人だち』(白地社)、『都市文学と少女たち―尾崎翠・ 金子みすゞ・林芙美子を歩く』(白地社)、童話として『介助犬シンシアの物語』(大和書房 /ハングル版はソウル・パラダイス福祉財団より )、共著として『酒食つれづれ』(白地社)、『小野十三郎を読む』 (思潮社)。来春「尾崎翠と野溝七生子 21世紀を先取りした女性たち」(仮題)を出版予定。
Web評論誌「コーラ」11号(2010.08.15)
「新・玩物草紙」箪 笥/植物奇譚(寺田 操)
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