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Web評論誌「コーラ」
06号(2008/12/15)

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 海外では、数万人から場合によっては数十万人が参加する政治的なデモや大衆行動、そして暴動が結構あります。しかし日本では、1000人が集まるデモさえ、そんなに多くはありません。
 まず私は、「なぜ日本の(左派の)社会運動は、こんなにも弱いのだろうか」という問題意識から、この文章を書いています。言い換えると、なぜ日本の社会運動は社会的な信用を獲得できていないのか、ということです。
 もちろんそれには様々な理由があるでしょうが、私がここで考えたいのは、「社会運動と権力」の問題です。それは、社会運動内部における多様性や、運動内部の多数派/少数派の関係のあり方の問題であり、社会運動がその外部に対して持っている影響力に対して責任を引き受ける必要性のことです。こういった問題を考えて取り組んでこなかったことが、日本の社会運動の社会的信用の低さにつながっていると私は思うからです。
 
 
■性的指向の取り扱われ方は確かに変わったが……
 
 私が初めて社会運動内部の権力の問題について直接考え始めたのは、学生運動の中で性的指向の権利の問題について取り組んだときでした。
 「How do you think about gay rights?」
 今から10数年前のことです。フィリピンの様々な運動現場を見て回る「スタディーツアー」に私は参加しました。スモーキーマウンテンでごみ拾いをして暮らす人達や、ピナトゥボ火山の噴火の被災者、マニラのスラムや、農村などを尋ね、そこでの社会運動を組織している人達と交流する企画でした。そして私は、どこにでも行くたびに、「ゲイの権利についてどう思うか?」(注1)と冒頭の質問を繰り返しました。
 その当時日本では、まだアカー裁判の頃であり、性的指向の問題は社会運動の中ではほとんど取り上げられることはありませんでした。性的指向のこと──というより性のこと全般──は個人的な話だと見なされ、人権や社会的差別という観点からの関心は向けられず、そもそも重要な事項だとは社会運動内部に於いても考えられていませんでした。しつこく話題にしようとすると「それは、ここですべき話ではない」などと言われます。それでも諦めずに言い続けると「関係のないことで運動の妨害をするな」とさえ言われかねませんでした。自身が、社会運動の内部での少数派であることを思い知らされる日常を、私は日本で送っていました。
 ところがフィリピンでは、驚いたことに、全ての場所で私の質問は取り上げられ、しかもちゃんとした返答がありました。「私たちは、その問題を重要な問題だと考えている」「定期的にその問題について話し合っている」「私たちの仲間にもいる」……。中には、明らかに不本意にそうに「その問題についてはこの前話し合って、いろいろと言われた。まぁ大事なことだと思うよ」と言うおじさんもいましたが、不本意であってもそのように答えざるを得ない社会的な力関係がそこに創られていることを私は知ることができました。例えば「スラムまで来ておいて、またゲイの話か」というような反応は皆無で、むしろ逆に「大切な質問」として、フィリピン側には歓迎されている状態でした。
 フィリピンでの状況が実際にどうであったかについては私は分かりません。しかし私が驚き、そして嬉しかったのは、少なくともまず多くの人が「ゲイの権利」に関心を持ち、自分で主体的に考えて取り組もうとしていたことでした。この問題は「興味がある人が考えればいい問題」ではなく、「場にいる全員が取り組むべき問題」になっていたし、組織的な取り組みが行われていたのでした。当時の日本ではまず体験することが出来ない扱いをフィリピンで受けることが出来たことは、私にとって大きな励みになりました。性に関わる問題が無視されている日本の状況の中に身を置いていた私は、欧米からの情報やこういったフィリピンでの体験などを糧にしながら自分を支え、「日本の今の状況とは異なる状況は、実現可能なんだ」と信じて、表現と活動を続けてきた経験があります。
 さて今、確かに日本の社会状況は大きく変わりました。今は日本政府が「性的指向を理由とする差別をなくそう」と公式に訴える(注2)時代です。今年の反G8キャンプでは「(男女の)どちらでもない人」の存在にも公式に言及したところ(注3)もありました。確かに状況はよくなっています。
 でも、本当によくなっている? 単に口で言っているだけなのでは? 社会運動のあり方は、ちゃんと以前とは変わったのでしょうか。
 
■私の出発点
 
 本稿における私の出発点はここにあります。つまり、性的指向の問題は、つい10数年前までは、社会運動の中においても、その場にいる人のほとんどにとって、そもそも関心が無く、話し合う必要性を感じず、優先順位が低く、個人的なことで、場で取り扱うこと自体が時間の無駄だと思われていた、という事実です。
 この私の経験を逆の方向に言い換えるとこうなります。
 実はとても重要な問題であるにもかかわらず、私を含め、場にいる多くの人にとって、そもそも関心が無く、話し合う必要性を感じず、優先順位が低く、個人的なことで、場で取り扱うこと自体が時間の無駄だと思われているために、適切に取り扱われていない場合がある。
 私は、私たちは、私たちの社会運動は、こういう教訓をちゃんと認識し、そのあり方をちゃんと変えたのでしょうか。
 確かに、以前のように私の発言は無視されることはなくなり、性的指向の問題は公的にも取り上げられるようになりつつはあります。しかしそれは、「みんながそれを重要なことだと思っているから」なのではないですか? 場の多数派の意向に反する言動や、場の多くの人にとって関心が持てない発言は、ちゃんと適切に取り扱われているでしょうか。あなたは、あなたにとって聞く必要性を感じない意見を言う人の話をちゃんと聞いていますか。私は、自分にとっては無駄としか思えない事についてちゃんと話し合おうとしているでしょうか。
 私にとって大切なのは、性的少数派の権利が増し地位が向上することそれ自体ではありません。そうではなく、皆から無視され疎ましがられ、場においてないがしろにされている人や意見が尊重される状況を創ること、つまり「その場における少数派の権利が尊重される運動文化を創ること」なのです。
 
■「悪意のない、いつもの普通の言動」の持つ権力
 
 今では明らかなことでしょうが、「彼氏はいる?」「カノジョできたの?」という、本当に何気ない、個々人のいつもの一言の積み重ねが、同性関係嫌悪な(ホモフォビアな)社会を創り出しています。
 昔、性的指向の問題に関心を持てなかった人達は、特に悪気があった訳ではないことがほとんどです。意図して差別しようとか、意地悪をしようとかした訳ではなく、ただ「いつものように、普通に振る舞っただけ」でした。ということはつまり「普段どおりのいつもの日常」が、実は異性愛者の都合で動いていた、異性愛者が優遇された異性愛中心の社会だった、という事です。
 敢えて意図したりしなくても普通に行動しただけで出来てしまうその行動が、社会的な権力を体現しています。自分では無自覚にいつもの通り行動すると、それが不適切な社会的な力関係を実践し、再生産しています。何とも恐ろしい話ですが、しかしこれが事実です。
 個々人間の関係の中では、「自分には一切悪意が無くても、他者に対して不適切な言動をすることがある」ということを自覚しておくだけで、ずいぶんと話がスムーズになるかもしれません。
 
■「普通に生活できる」ということは特権
 
 私がこういう認識を大事にするようになったのは、自身の「少数派としての経験」からだけではありません。
 学生時代に関わったある運動の内部で、運動内部の女性差別事件が女性活動家たちによって厳しく告発されたことがありました。当時は、運動に関わっていた女子も男子も交えてとても真摯な話し合いが繰り返されたのですが、その話し合いの中で以下のようなことを言う人がいました。
 「女性差別を無くそうと話し合いを行っている『この話し合いの場』こそ、まさに激しく女性差別が実践されている場である」
 この時に問題化された出来事の当事者では私はなかったのですが、しかし私にとって、この話し合いは「女性差別」を社会問題として考えた、初めての経験でした。男性として生きてきた「鈍感なマジョリティー」であった当時の私は、はじめはただ「目の前にいる人が怒っている」という事実しか理解できませんでした。しかしその後の話し合いや読書などを通じて「社会の中で女性として扱われるということがどういう事なのか」を学びました。当時の自分は、実は一度も「女性が置かれている状況」に関心を持ったことが無く、ちゃんと知ろうとしたこともないにも関わらず「知っているつもり」になっていました。そのために、怒っている人を見てもそれを「その人の個人の問題」としか見られず、社会的な差別のカラクリの問題や、まさに相手と自分との今ここでの人間関係が差別的社会関係を背景にしていることに気が付いていませんでした。そして、一連のやりとりを通じて、私は自分のあまりの無知さに気が付くことができたのです。
 ――という事こそが私の個人的な都合だったのです。まさにそういう形で私が学習し、私が成長することのために女子たちが自分の時間とエネルギーを使うことを強いられてきたこの「私たちの関係」こそ、まさに差別的社会関係を背景にした女性差別の実践だった、ということに気が付いたのです。言い直すと「女性差別という問題を自分自身が知って成長するために、女性活動家を搾取した」ということです。
 もちろん話し合いへの参加は任意で、皆自分の意志で来てはいました。しかしそもそもそういう話し合いの場を創るための労力を割き、女性が置かれている状況をいちいち丁寧に男子たちに説明するコストを引き受ける人がいて、初めて私(たち)は「そこに問題があること」に気が付くことができたのです。確かに誰にも悪意はなく、むしろ逆にそれぞれが誠実に向きあおうとしていたのは事実です。しかしこれは、そもそも、フェアな関係ではない。
 この時の話し合いを通じて、女性差別がどのように機能しているかを私は学びました。しかしそれだけではなく、社会的な力関係が、個人間の人間関係のあり方にどういう風に影響を与えているのか、そのカラクリも知ってしまいました。自分に何の悪意もなく、自分自身として最大の誠意を持って精一杯の事をしていたとしても、「鈍感なマジョリティー」の側にいる人は、社会的な力関係を背景にして他者を搾取し、得をしている。昔は「無知は罪だ」という言い方もされていたようですが、この事に気が付いてしまうと、世界の見え方が少し変わりました。
 いちいち異議申し立てをしたり、いちいち丁寧に「分かってもらう」ための説明をしないでも済む人、つまり「フツウに生きることが出来る人」というのは、要するにその場のマジョリティー側・多数派であるということです。「フツウに生きることが出来る人」というのは、まずそれだけで「何かに気が付いていない可能性がある人」なのです。
 
 場の多数派の意向に反する言動や、場の多くの人にとって関心が持てない発言、その場で迷惑がられる発言、それから、現在の私自身にとっては無価値で無駄だと思われる意見が、ちゃんとその場で適切に取り扱われているかどうか──ということに私がこだわるのは、こういった文脈があるからでもあります。
 
 繰り返しになりますが、個人間の、私的な関係の中の問題で言うなら、社会的な力関係が個人間にも反映・実践されている事を自覚し、自身が無知である可能性を認識し、何でもちゃんと話し合うようにすることが、「みんな」の場や運動を創るためには何より大切でしょう。組織や運動もまずは1人1人の人間がすることですので、こういう自覚や認識は大切なことだと思います。
 
■組織や社会運動のレベルでの問題
 
 さて、では次に個人間の関係の問題から離れて、組織や運動の問題、場やコミュニティーの問題を考えてみましょう。このレベルの場というのは、「友達同士の私的な関係」とは異なるルールで創られる公的な運動・場・組織ということです。
 組織や社会運動は、特定の目的を持って創られます。また、一定の期限までに一定の仕事をしなくてはいけない、という側面があります。時間は有限なので「するべき全てのこと」をすることは出来ないし、結局は議題に優先順位を付けなくてはいけません。
 また、社会のあり方を変えようとする組織や社会運動というのは公的な性格を持ったものですので、そもそも一緒に何かをしたいと思わない人や嫌いな人・会いたくない人がメンバーとして居る場所でもあります。何かをしようとすると、そういう人達ともコミュニケーションして、「場としての」合意や結論を創らないといけません。
 また更に、大きな目的は同じでも、意見ややり方が違う場合も多々あります。そもそもの目的をどう設定するかを巡っての方向性が違っていることさえあります。
 だからこそ、その場に於いても、力比べや権力争いが熾烈なものになります。
 意見が違っている時、嫌いな人がいる時、そういう時にどういうことが起きるのか。ここでは、どこでもいつでも起きやすい失敗や間違いの例を、クィア業界の事例で見てみます。もしかするとセクマイの社会運動は、他の社会運動と違って綺麗な印象があるかもしれませんが、そんなことはありません。不当な暴力や権力の乱用は、どこにでもあるものです。
 
■分かりやすい/下手な権力の行使(排除)の事例:T-junction
 
 意見が違う人や嫌いな人は、場から排除したい。なんとかして「あいつ」だけは参加できないようにして場を創ることはできないか―何かの場を自分で創った経験のある人は、一度は思ったことがあるのではないでしょうか。自分が権力を持った時、まず恣意的な入会審査をして、自分とは意見が合わない人や嫌いな人を排除しようとします。排除に至らない場合でも、会に「入れてあげる/排除する」を巡る権力が行使されます。(「あいつ」がいるなら私は行かない、と言って圧力をかけるのも、同じ事をしています。)
 分かりやすい例を挙げると、FtMトランスジェンダーとその友人達の場として創られている「T-junction」(注4)という集まりが大阪で開かれています。この会は「FtM当事者と、当事者と一緒に来るその友人など」に参加の資格があるとHPに明記されています。しかしT-junctionの主催者である田中玲さんは、その条件を満たして参加を申し込んだAさんの参加を拒否しました。また、万が一何らかの正当な(やむを得ない)理由があってのことであれば、その理由はAさんに対して田中さんから明らかにされるべきですが、Aさんが直接田中さんにその理由を聞こうとしても、田中さんはそもそも返答する事自体を拒否しています。
 自分が誰かを排除できる権力を持った時に、それを恣意的に使ってしまっている残念な例です。これは公開可能な事例なのでここで紹介できますが、場やイベントの主催者による恣意的な権力の乱用によって、一部の人が場から排除されるという話は、セクマイのコミュニティー内でも結構あるはずです。
 その場の暗黙のルールを破り、その場のボスに楯突く「うるさいことを言う少数派」は幾度となく様々な場から排除されて来ました。まさにそういう排除に対してこそ「少数派の運動」は抗議をしてきたはずなのですが、自分が主催者などの権力を持った側になった時には自分がされてきたことと同じ事をする人がいることは、本当に残念なことです。
 しかし本来「公的な場」というのは「みんなの場」な訳で、誰かを理由もなく排除することはできません。まずはこういった事(場の主催者による権力の乱用)を許さない、ということが、「みんな」の場を創るためには必要不可欠です。言い換えると、その場を支え創っている主催者こそが、その場において最も権力を乱用する危険性のある立場の人だ、だからこそ、ある場に参加するときは「主催者による権力の乱用」が起きないように、一般参加者1人1人が主催者を監視することが必要だ、ということです。
 
■巧妙な権力行使の事例:パレード
 
 T-junctionの田中さんの例は「あまりに下手な」排除の事例ですが、もっと上手いやり方で、意見が合わない人や嫌いな人を排除しようとする場合もあります。例としては2000年に計画されたが実現しなかった「大阪レズビアン&ゲイ・パレード」(注5)や、元大阪府会議員の尾辻かな子さん(注6)が先導して2006年に開催された第1回目の「関西レインボーパレード」(注7)があります。いずれも、一番はじめの立ち上げの段階で、意見の合う数人で一番大事なことを決めてしまいました。パレードの名称・日時・場所・役員・目的などです。そういった一番大事なことを一部の人で話し合って決めてしまってから、「これは決まったことです」と言って、この「決まったこと」に賛成する人だけに実行委員会への参加資格を与えようとしたり、「既に決まっていること」を実施するためのお手伝いを募集、とかやります。要するに、「俺は正しい」「俺に付いてこい」「意見が違う人とは話し合わない・来なければいい」と言っている訳です。表に出る言い方としては「誰でも、お手伝いに参加して下さい」「みんなで一緒にパレードを創りましょう」という言い方になるので、まるで開かれた公平な運営がされているかのような錯覚を与えることができます。そこが上手いところです。しかし実は、「そもそもどんなパレードをするのか」ということについて、公平な開かれた形での議論は拒否され、呼びかけ人の意見だけが特権的に扱われ、呼びかけ人の意見がコミュニティーに押しつけられています。
 「東京レズビアン&ゲイ・パレード」が同じように砂川秀樹さんの意見に賛同する人のみを集める形で開始されたのも、これと同じ間違いを犯していましたし、だからこそ権威主義的なパレードの運営形態は、今にまで尾を引いてしまっていると思います。
 さて、2000年に呼びかけられた「大阪レズビアン&ゲイ・パレード」は、関西のコミュニティーから厳しい批判を浴び、皆で話し合った結果以下のようなことを確認することになりました。
 
=====
「パレード準備会」開催にあたっての事実関係確認のための覚書
 
1)少数者の意見に積極的に耳を傾け、異なった意見をもつ他者と向き合い、ていねいな話し合いに基づいたパレードを作る。
2)準備の段階も含めて、パレードに参加する意志のある人は誰も排除しない。
3)特定のコミュニティー・セクシュアリティー・グループの都合が常に優先されるような場にはしない。
4)できるだけ広い範囲の個人や団体に呼びかけるよう積極的な努力をする。
5)開かれた会議以外の場所で一部の人だけで重要なことを決定しない。
6)個人のプライバシーを尊重し、傷つけないよう最大の努力をする。
=====
 
 ここに書いてあるようなことをその通りにすれば、かなり「みんな」にとって平等な、いい感じの場になるように私は思います。いかがですか?
 しかし残念なことに2006年には、尾辻かな子さんはこの2000年の教訓を無視し、また同じ事をしようとしました。つまり、自分の意見を「たくさん有り得る意見の中の一つ」としてコミュニティーに提案して、関心のある皆で話し合っていこうとするのではなく、一部の人だけで大事なことを決めて、それを「決まったこと」として押しつけようとしました。
 もちろんこの時も各方面に働きかけ、当初はクローズドだった実行委員会を公開させることには成功しました。ただ力及ばず、公平な実行委員会の運営には1年目はすることができませんでした。
(しかしこの時は、「政治家である尾辻さんによる独裁」を危惧する声も強かったこともあり、それを払拭するために「パレードは、歩く『あなたのもの』」という言い方を公式に掲げさせることができました。つまりパレードの「主権者」は一般参加者1人1人であり、実行委員会は一般参加者のために下働きをする係、という原則を掲げさせたのです。そのおかげもあって、2回目からは、トップダウンのない、誰でも対等なかたちで参加できる開かれた形で実行委員会が開催されるようになりました。)
 このように、本当はいい目的のために社会運動をしているはずなのに、実際の運営は強権的だったりトップダウンだったり誰かを排除したりする。尾辻さんの場合は大阪府会議員であった自身の政策として「大事なことはみんなで決める」「生活に影響を与えるような意思決定の場に、当事者が直接参加できるシステムを整えるのは民主主義社会の基本です」とまで書いておきながら、関西のセクマイ・コミュニティーみんなに関係のあるパレードについて、まさに当事者であるコミュニティーの「みんな」で直接話し合うことを徹底して拒否しました。
 
■「私が自分のやりたいことをやっているだけ」
 
 セクマイの運動はまだ形成途上だということもあり、運動や組織や場所というものが成立するのには、特定の個人による献身的な努力に依存する部分が大きかった、ということがあります。実際いろんなグループは、数人が知り合うところから始まっていることがほとんどなので、その人たちが「自分たちで自分たちのやりたいことを始めた」という側面が大きいです。そうするとそのグループは、当然、言いだした人達の場ということになります。
 しかし実際に活動が始まると、そういった組織は社会的な影響力を獲得していきます。セクマイ系のグループの場合は、まだ運動の規模が小さく、社会に対する社会的な影響力もあまり大きくないことが多いので、そういうグループが社会運動をすることの弊害はあまり目立たいと思われがちです。しかし実は話が逆で、狭いコミュニティーだからこそ、運動が小さいからこそ、規模の小さなグループであってもそのグループのあり方はコミュニティーを代表していると思われがちだし、また実際にコミュニティー内部でも人々の生活に影響力を持ってしまいます。更にパレードのような比較的規模の大きいものは、例えばその名称が「レズビアン&ゲイ・パレード」であるか否かということに典型的ですが、コミュニティー内部の力関係を反映していると共に、逆にコミュニティーがどうあるべきであるのかという方向性を提示してもいることになります。
 グループや運動の内容についての批判をしたときに、「私が自分のやりたいことをやっているだけ」という返答が返ってくることがあります。しかしこれは、自分のしていることが他者の人生に対して影響を与えていることに、あまりに無自覚です。もし本当に、個人が自分の趣味だけでやっている運動であるのなら、そのような運動や組織が社会に対してことさら大きな影響力を持っていてはいけません。もし、個人が個人的に行っている運動が社会に大きな影響を与えているのなら、まさにそういう状態をこそ「一部の人による独裁」と呼ぶのです。逆に言うと、社会的に影響のあることをしている人は、自身が他者に与えている影響に対して責任を引き受けなくてはいけません。その影響を受ける人達は、影響を与えている人に対して意見を述べ、釈明を求め、話し合いをする権利があります。
 
■ラテンアメリカの社会運動の歴史
 
 単なる自己満足のために運動をするのではなく、もし本当に社会から差別を無くそうとか、社会全体を変えようと思うのであれば、社会運動が社会的な影響力を持たないといけません。では、社会的な影響力を持つ組織や運動とは、どういうものであるべきなのでしょうか。
 ここで、ラテンアメリカの社会運動の歴史を見ることで、「運動のあり方」について考えてみることにします。(注8)
 
 社会運動を組織するといっても、様々な方法があります。
 ラテンアメリカでは、キューバ革命(1959)型を第一世代、ニカラグア革命(1979)型を第二世代、そしてサパティスタ民族解放軍の武装蜂起(1994)を第三世代の運動のあり方として分析する方法があります。(注9)
 
 キューバ革命型、つまり共産党型・一党独裁型は、簡単にいうと、正しい考え方を持った「私たちの運動」が社会の権力を握り、良い社会を創る、といった感じです。運動のやり方としては、中央集権的、トップダウン型の運動ですし、プロの活動家が物事を決めて、人々がそれに従う形になります。トップが決めてメンバーが従う、というやり方は、資本主義下の企業の運営方法に似ているとも言えるかもしれません。
 闘いにおける効率を追求し、一致団結して闘うことを重視するこのやり方は、しかし、運動内部の意見や利害関係の不一致/多様性を隠蔽しやすく、また、革命後に、自由な表現が抑圧され、恐怖政治になりやすいです。実際に、国外追放、除名、粛正、のようなことが起こりました。
 ひびの流に勝手にまとめると、このやり方は、「運動をしている私たち」が「自分たち」にとって都合の良い社会を創ろうとするやり方です。自分たちとは異なる利害を持つ人が社会の中にいることや、「自分のやりたいこと」自体に問題がある可能性には、あまり自覚的ではないと思います。まして、「自分たち」が更なるマイノリティーを抑圧する可能性については、あまり想定されていない印象があります。
 いわゆる左派の運動が日本社会で信用を失ったのには、こういうタイプの社会運動のあり方に愛想を尽かされたという面があると思います。つまり、「表で良いことを言っていても、実際には運動の内部では少数派が尊重されていない」つまり「革命後は、それと同じ事が社会の中で起きる」ということが、ばれてしまっています。
 2000年の「大阪レズビアン&ゲイ・パレード」や、尾辻さんの運動のやり方が、これに近いでしょう。そしてだからこそ、それらはコミュニティーから厳しい批判を浴びました。
 
 次の世代のニカラグア革命型ですが、これはキューバ型の1党独裁型の運動の問題点を改める試みでした。
●「私たちの運動」が社会的権力を取る、という点では、キューバ型と同じです。
●しかし、「私たち」の内部の利害関係や置かれている状況は同じではないという事実に立脚し、社会の様々なセクター(労働者・農民・学生・知識人……)の人達が共同で(協力して)運動を創ろうとします。
●また、キューバ型に比べて、運動内部の多様性や運動内部の意見の違いを尊重しようとします。
 しかしこの理想的に見えるニカラグア革命も、実はニカラグアの先住民に対しては間違った政策をとりました。これはどういう事かというと、「セクターとして社会的に利害を顕在化できる」ということは、その時点で既に一定の社会的な認知を獲得している=一定の権力を持っているということを意味するのですが、そういった社会的認知が無く、社会の多数派には無視され、実際にもっと抑圧され権利が奪われていた先住民は、ニカラグア革命によってすら更に抑圧された、ということなのです。
 自身は少数派のつもりで闘ってきた、しかし自身が先住民に対して多数派側の位置にいることに、ニカラグア革命政権は鈍感だった。冒頭で触れた「マジョリティーの鈍感さ」の話と同じですね。
 
 そして第三世代がサパティスタ民族解放軍です。これは、最も社会的に無視されてきた先住民が主体となる運動です。先住民が主体となりますが、「先住民の利益を獲得する事」を運動の目的にするのではありません。確かに、先住民が社会の構成員として尊厳と敬意をもって取り扱われることは求めますが、それだけではなく、メヒコ(メキシコ)の社会が、社会の様々な人達を同様に尊厳と敬意をもって取り扱うこと、民主主義・自由・正義の社会を創るための運動です。
 ポイントとしては、サパティスタ民族解放軍は、そもそも初めから権力の奪取を目的としません。武装は、政府や社会を自分たちが支配するためではなく、これまで無視されていた声を社会に聞き届けさせるための手段です。またサパティスタ民族解放軍の意見をメヒコの社会に押しつけず、「私たちはこう思う。あなた方はどう思うのか。話し合って決めよう」と、自分たちとは意見が違う人達に敢えて呼びかけようとします。社会全体のことについては、社会のみんなに決定権がある、と言っています。「運動をしている私たち」「運動を呼びかけている私たち」には、特別な決定権はない、と自分から言っているんです。そしてまた「私たちの意見はこうだ、あなた方も意見を出して欲しい」「皆で話し合って決めよう」というやり方は、サパティスタの発言の機会を創るだけでなく、サパティスタ以外の人達、サパティスタ以外の社会的少数派に対しても、発言の機会を創り出します。サパティスタが、「自分たちが権力をとることを目指さない」というのは、こういう形でも現れます。
 組織の内部に於いては、「従いながら指導する」という原則があります。指導部や司令官には決定権がないということ、何かを決める権利は「一般の民衆」にあるということ、指導部は民衆の指示に従うという組織方針であること、などは、私にはとても共感できることです。パレードの話で言うと、「パレードは、歩く『あなたのもの』」という言い方と符合しますし、残念ながら口先だけだったようですが、尾辻さんの政策だった「大事なことはみんなで決める」「生活に影響を与えるような意思決定の場に、当事者が直接参加できるシステムを整えるのは民主主義社会の基本です」が、このサパティスタ型に相当します。また、2000年の覚書の趣旨も、このサパティスタ型に近いと言えないでしょうか。
 なんにしても、時間がかかる、というのがこのやり方の弊害ですが、それは民主主義のコストとして、仕方がないと私は思っています。
【「みんな」にとって公平な社会を創る】ということを本当に実現したいのであれば、こういったサパティスタの試みを参考にすることは、とても意味があると思います。
 
■「みんな」の運動と空間を作るために
 
 どういう組織を作るか、ということは、まさにどういう社会を創るのか、ということです。自分たちが理想とする社会のあり方は、まず自分たちの運動や組織の中に創られています。実際にどうしたらいいのか――最後に、3つほど提案をしたいと思います。
 
●一般参加者に決定権がある
 組織のあり方について考えていくと、つまりは「組織や社会運動は誰のものか」「組織や運動の主権者は誰か」ということに行き着きます。
 「大阪レズビアン・ゲイ・パレード」では、キューバ型の、つまりトップダウン型のやり方でやろうとして失敗しました。尾辻さんも、当初はトップダウン型でやろうとしましたが、批判を受けて方針を改めざるを得なくなり、「パレードは、歩く『あなたのもの』」と言い出しました。これを口先だけのものにさせず、実際に実行委員会のあり方を民主的で開かれたものに変えたからこそ、第2回以降は良い形でパレードが続いています。
 まず何より大切なことは、その場の一般参加者こそが、その運動や組織の主権者だということを確認することです。執行部(呼びかけ人や指導部、代表者)は、人々の総意に指示され従う(従いながら運営する)のが仕事です。決定権は一般参加者にあり、執行部には決定権はありません。仮にあなたが自分で創った運動であったとしても、その運動が社会的な影響力を持つものであるのなら、その運動はあなたのものではないのです。
 では、実際の組織作りはどうしたらいいのか。様々な方法がありますが、例えば組織や運動の意志決定の場を公開する(日時と場所をあらかじめネットなどで告知し、誰かを排除することができない状況を敢えて創る)という方法があります。ただ現実には、私たちは主権者として行動する事に慣れていないので、形式だけ創っても上手くいきません。そういうときは、「そもそも私たちはどういう組織のあり方を目指すのか」「誰に決定権があることにするのか」というところから参加者の皆で話し合い、実際にそれを皆で決めることで、主権者意識を醸成できる場合もあると思います。
 誰でも参加できる話し合いの場は、激しい意見の応酬になる場合もあります。しかし最も時間とエネルギーを割くべきは、内部における合意形成過程なのです。意見の違う人と話し合って合意を創るためにどれだけコストをかけたかが、民主主義の指標です。意見が違う人を排除するなど、論外。「シャンシャン総会」は最悪だし、異論続出で紛糾する会議をこそ目指すべきなのです。
 
●「みんなにとって公平な場」を創る
 「自分はゲイだから、ゲイのことをする」のように自分の利益を最大化することを運動の中心にするのではなく、「社会的公正さや社会的正義」を実現するための取り組みの一つとして「ゲイの権利」もそれ以外の少数派の権利も同じように位置づけるような発想が必要です。「自分にとって都合のいい」運動や社会を創るのではなく、自分も他人も対等に尊重される「みんなにとって公平な」運動や社会を創ることを目指すべきではないでしょうか。
 数の問題で言うなら、性的少数派はおそらくず〜っと社会的には少数派です。非トランスの異性愛者が社会の中で多数派である状態は、変わらないでしょう。この事実を踏まえて、私たちは、「少数派である」ということが「損をする」ということを意味しない社会、多数派であっても得をすることがない社会、多数派でも少数派でもどちらも対等で尊重される社会を創らないといけません。そうでない限り、結局は社会的な少数派である人達は、抑圧され差別され続けることになるからです。
 組織や運動のあり方としては、まず「異論を述べることの恐怖感」が私たち自身にもあることを認め、皆とは違う意見を言ってもいいということ、多数派や執行部を批判することは場に対する貢献であること、私たちの内部の不一致は私たちの豊かさの表れであることなどを、皆で話し合い、場として公式に確認すると風通しがよくなるかもしれません。また、運動や組織の内部にも多数派/少数派や差別・抑圧が有り得ることを確認することで、場の少数派が意見を言いやすくなることもあります。例えば具体的には、運動や組織の内部にある女性差別に対して、自分たちはどう主体的に取り組むのかを話し合い、運動や組織としての公式な方針を決めていく事も有効でしょう。内部の差別にも反対し「みんなにとって公平な場」を創ることが、その場の全体の目的として 確認され掲げられていることで、少数派も発言しやすくなり、場の雰囲気は大きく変わります。
 
●失敗してもやり直せる
 「マジョリティーとしての鈍感さ」は、そもそもそれを自覚することが困難だという意味で、なかなか対応が難しいものがあります。また、自分がたまたま多数派になったときに、「自分がされてきて嫌だったことを人にしてしまう」という経験は、誰にでもあるでしょう。自分自身の好悪の感情から人の話をちゃんと聞くことが出来なかったり、思わず誰かを排除してしまった経験だって、あるかもしれません。誰かの間違った行為を、自分の目の前の利益のために黙認して誰かを見殺しにしたことだって、あるのではないでしょうか。
 自分自身が権力を乱用しかねないことを理解しているからこそ、一定の「民主的な組織やルール」を創ろうとはするのですが、しかし実はどんな組織やルールを作っても、そこにいる人達が悪意を持って動けば、たいてい何でもできてしまいます。
 しかし、人は自分のしたことを覚えています。その時はちゃんと考えられなくても、あとになって「自分の何が間違っていたか」に気が付くことも出来ます。仮に何かの間違いや失敗をしてしまっても、何故そうしてしまったかを含めて自分の間違いを明らかにし、必要であれば謝罪をすることが、人には出来ます(注10)。
 失敗もすれば間違いも犯す、マジョリティーとしての鈍感さも持っている「私たち」1人1人が、協力し合って「みんな」の場を創ろうというのであれば、自分のした間違いを開き直らないこと。そういったコミュニケーションを素直にしていくこともまた、「みんな」の場を創るためには、大切なことだと思います。そういうやりとりが可能な運動を創ってこそこそ、運動が社会的な信用を取り戻すことが出来るし、運動も社会も、そうやって少しずつ良くなっていくのだと思います。
 
 
【注】
(注1)ゲイの権利
 今から考えると、当時のわたしはレズビアン・ゲイ・バイセクシュアル以外の性的少数者のことをよく知らなかったということと、英語の「Gay」は日本語の「ゲイ」とは違って必ずしも「男性同性愛者」という意味ではなく、セクマイ一般を指す意味もある―という2点の理由で、当時のわたしはこの英語の質問をしていたと思われる。
(注2)「性的指向を理由とする差別をなくそう」と公式に訴える「第60回 人権週間」強調事項(法務省)
○「性的指向を理由とする差別をなくそう」
 同性愛者など,性的指向に関して少数派である人々への偏見は根強く,社会生活の様々な場面で人権問題が発生しています。性的指向による差別は不当であるという認識を持ち,偏見や差別をなくすことが必要です。
(注3)今年の反G8キャンプでは「(男女の)どちらでもない人」の存在にも公式に言及したところ
・「国際交流キャンプ札幌」の案内
・フェミニスト+クィア ユニット
(注4)T-junction
(注5)2000年に計画されたが実現しなかった「大阪レズビアン&ゲイ・パレード」
(注6)尾辻かな子さん
(注7)2006年に開催された第1回目の「関西レインボーパレード」
・現在の「関西レインボーパレード」実行委員会の公式サイトhttp://www.kansaiparade.org/
(注8)ラテンアメリカの社会運動以外にも、イタリア共産党がイタリア左翼大衆党に変わった時に内部で行われた議論とか、日本のウーマンリブの運動やフェミニズム運動などからも、わたしは多くを学んだと思っていますが、ここでは触れません。
(注9)メキシコ先住民運動支援委員会(日本)発行「Lacandon No.1」ミゲル・アルバレス・ガンダラさん/メヒコ仲裁全国委員会書記の発言。
(注10)例を挙げます。
トランスジェンダーを含まない「性的少数者雇用差別禁止法案」は撤回せよ
(補足)
★本稿は、クィア学会第一回大会(2008年11月9日 http://queerjp.org/)での発表に大幅に手を加えて書き起こしたものです。
 

★プロフィール★
ひびの まこと。京都市上京区在住。サイト:http://barairo.net/
ひびのが共同代表も務める関西クィア映画祭は、2009年1月23日(金)〜27日(火)の開催(http://kansai-qff.org/

Web評論誌「コーラ」06号(2008.12.15)
〈倫理の現在形〉第6回:「みんな」にとって公平な運動と社会を創るために〜社会運動内部の権力について考えてみる〜(ひびの まこと)
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