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Web評論誌「コーラ」
12号(2010/12/15)

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 心とは何か? を探求するマンガ『オムレット』の中で、心に関する様々なテーマについて対話をしてきた二人、古本屋主人の伊丹堂と大学生の獏迦瀬くん。今回は特別篇として「倫理」について語ってもらいましょう。



獏迦瀬:倫理って何なんでしょうか。

伊丹堂:なんじゃ藪から棒に。

獏迦瀬:っていうか、ひるます氏のホームページではこのところ、ずっと「倫理」についての話題が大半を占めてたじゃないですか。でも書評やら時事問題にからんでアチコチ話がとんでるので、ここらで一つまとめてみてはどうかと思ったワケです。

伊丹堂:ふぅん。そう言うならキミがまとめてみたまえよ。ワシは聞いてて横槍を入れさせてもらうから(笑)。

獏迦瀬:なんですか、それ……。まぁともかく時間もないんで始めますが、なんと言っても「倫理」ということが一般的にもクローズアップされてきたのは、例の神戸の少年殺傷事件をきっかけにしてジャーナリズムで「なぜ人を殺してはいけないのか」なんて問いが語られてからのように思います。社会的な善悪の基準みたいなものが揺らいできた……ってことでしょうか。

伊丹堂:ふふ、そんなものがそう簡単に揺らぐハズもないんじゃが、基本的に「悪」という見なしができにくい、どこにでもいそうな少年がそのような犯罪を為したということによって、そういう問いを語ることがリアリティを持ちうる状況が出来たってことではある。

獏迦瀬:……そういうことでもなければ「哲学的な問い」がリアリティを持ち得ないってのも皮肉なものですが。

伊丹堂:しかしそれが「哲学的な問い」と言えるホドのものなのかいな。この問題についてはすでに何度も触れてるんでここでは深入りしないが(註1)、基本的に押さえておかなくてはならないのは、この問いそのものは実は「倫理」とはなんの関係もないってことじゃな。

獏迦瀬:その場合の「倫理」ってのは、すでに特殊に定義された用法ですよね。

伊丹堂:つまり共同体規範としての善悪とは関係なく、より「良い」状態に向けて、自己の責任において為される行為ってホドの意味じゃな。ようするに「実存」の問題と言ってもいい。

獏迦瀬:それは柄谷行人の『倫理21』(註2)における「倫理」と「道徳」の使い分けにほぼ相当するということでしたね。

伊丹堂:完全に一致するわけではないが……ともかく、共同体のルールに従う行為、主体的な判断を介すまでもなく、あらかじめ善悪が確定されているような局面を「道徳」と呼び、そうではなく、主体的な関わりとして為される判断や行為の局面を「倫理」と呼ぶ、……と。

獏迦瀬:とすると、道徳というか共通の価値基準と合致するようなコトを為してもそれは倫理とは言えないんでしょうか。

伊丹堂:もちろん社会全体としてもっている価値の共通感覚をヨリドコロにすることなしに、「決断」をしては突拍子もないことになってしまう。しかし倫理的行為というのは、そういったヨリドコロを単になぞっている(反復している)だけではない。具体的な場面ではある面から見れば価値基準に則って善と言えても、別な面からみれば善とは言えないというようなことはおうおうにしてある。例えば見知らぬ人が線路に落ちたのを助けようとして巻き添えになったという場合、それは人を助ける行為としては善と言えるかもしれないが、家族やまわりの人を不幸にしたという意味では悪かもしれない、ということじゃな。

獏迦瀬:一概に確定しえない状況だからこそ、決断によって決定するしかない……それがウラハラに責任を引き受けるってことでもあるわけですね。その決定は誰かがしてくれるワケでもなく、自分がするしかない、そういう意味で実存の問題なんだと……。

伊丹堂:つまり倫理的行為ってのは、創造であり発見なんじゃな。だから誰も思いもよらなかった倫理的行為というのがありうるが、誰も思いもしなかった「道徳」ってのはない(笑)。

獏迦瀬:たしかに……。

伊丹堂:もうひとつカンジンなのは、個々の場面において、人はそういう意味での倫理的行為をしてもいいし、しなくてもいいってことじゃ。倫理的行為をしない自由というものがあるわけじゃな。というかそういう自由とウラハラのものをこそ倫理と呼ぶ、これも定義じゃな。

獏迦瀬:倫理とは「あえて〜しなくていいにもかかわらず〜する」というカタチを取る、ということですね。これは以前ひるます氏が脳死・臓器移植法改正問題について議論したときに(註3)、脳死における臓器提供は本人の「倫理的決断」においてのみ許されるのだから、本人の意思なしで強制的に提供を決定してしまう改正案(いわゆる町野案)には同意出来ないという時の根拠にもなってました。

伊丹堂:倫理性の担保とか言っておったの。この問題についても触れてる時間はないが、ひとつだけ言っておくと、臓器提供が善意に基づく倫理的行為だというと、すぐにあたかも臓器提供が他人を救済する行為だから(いわば規範として)善だと主張しているかに取られてしまうが、これは今言った意味で「関係がない」。

獏迦瀬:そこでもう一歩話をすすめると、ここまでのところで「倫理」というのは、共同体規範とは「関係ない」としても、ようするに何らかの意味で「善」を志向する行為とは言えますよね。その「善」とはそもそも何なのか? ということです。そしてさらに、人はなぜそのような「善」をなしうるか、ということが問題になると思います。

伊丹堂:それはある意味でそれ以上、遡れない問いじゃな。人はともかく、人間同士の関係の中で、なんらかの「良い」状況をめがけて行為してしまう、としか言えない(註4)。

獏迦瀬:関係の中で……ですか。たとえば柄谷さんはカントを引きつつ「他者を目的として」ということを揚げていますが、ようするに他人の救済とか援助といった「目的」をもった行為が「善」だということではないのですか。

伊丹堂:そりゃ臓器提供が善だという論理と同じで単純な規範化じゃよ。「他者性」の問題はもうちと繊細に詰めておく必要がある。

獏迦瀬:というと?

伊丹堂:ようするに「他者」というのは「目的」としてとってつけたように出てくるのではなくて、ワシらの行為に構造的に関わってくるもんだってことよ。つまり基本的に、どのような行為であっても、人が行為を為すときにはそれは必ずなんらかの意味で他者を配慮したものになっている。他者との共通理解が可能な形式で、我々はコトの連鎖(論理)を作り出す、というカタチでしか行為しえない、ということじゃ。

獏迦瀬:コトの創造ですね(註5)。

伊丹堂:必ずしも明確なコトバになっていなくても、行為そのものが「論理」的な成り立ちをし、他者を配慮しているってことじゃな。それによって、ヨリ普遍的(まっとうなもの)にしようとめがけてコトは創造されるのだから、その意味で、アラユル行為(コトの創造)は倫理的である、ということが言える。

獏迦瀬:「倫理」そのものではないんですよね(笑)。

伊丹堂:ようするに「我々にとって」の視点から見れば、倫理的な形式を持っている。当の本人にとって「倫理」かどうかは別としてな。ところで当の本人が他者を配慮するといっても、別に常にアラユル他者のことをすべて配慮するなんてことがあるはずもなく、さしあたって自分がワカル範囲、すでに共有が成り立っている範囲内で適当に配慮してなされるわけじゃな。

獏迦瀬:ひとりよがりってことですね。

伊丹堂:そう。しかし逆に言えば、アラユル他者を配慮するなんてことはそもそも不可能じゃろ。

獏迦瀬:それが出来たら「神」ですね。

伊丹堂:しかし不可能とは言っても、我々はなぜか知らんが、「すでに共有が成り立っている範囲」を超えた他者を配慮して行為しようと「も」する。ようするにそういうとりあえずの共有では、ほんとうに良い・ほんとうに正しいことではないかもしれない……。ヨリ普遍的なコトとは何かを考えるわけじゃ。

獏迦瀬:そうしなくてもいいにもかかわらず……ですね。それが当人にとっての「倫理」ということになるわけですか。ただ、どうしたってそれは絶対的な普遍に到達することはできないわけですよね。

伊丹堂:それは原理的にしょうがないわな。しかしいずれにしても単なるひとりよがりではない。また家族や身内・知り合いといった自分に関わりがある限りでの関係性のみを配慮しているだけではない。

獏迦瀬:家族や身内だけのことを考えるなら「倫理」ではないですよね。むしろエゴイズムの変形でしょう。

伊丹堂:あと「世間」とかな。原理的に言って「自分がすでに分かっている他者」を配慮して行為するのであれば、オートマチックな行為であって、そこに自分の判断や責任は必要ない。ここで問題になっている他者への配慮というのは、常にそれを否定する他者を想定する、という否定の運動のことなんじゃな。当人にとっての「倫理」というのはそれを「自覚」し続けることのウチにしかない。

獏迦瀬:それが永続的な他者への配慮ということですね。

伊丹堂:ただ配慮し続けるというと、なにか問題を常に先送りしているかのように聞こえるが(笑)、ようするに否定し続けるというのは信念の開放性を担保しておくということであって、すでに言ったように「倫理」というのは、その都度責任を引き受ける決断としてなされるほかない。

獏迦瀬:それが実存たるところでしょうが、そこでもう一つ問題なのは、そう言うとやはり「責任はとる」としても、なにか言いっぱなし・やりっぱなしという感は拭えません。つまり「自己決定権論者」はそういうことを言うわけです。

伊丹堂:自己決定権論者はそもそも「配慮」しとらんじゃろ(笑)。配慮しつつ行為するということが何を意味しているかと言えば、実は(よくよくスジミチをたどってみれば)その行為の「まっとうさ」が、自分だけでなく「他の誰にとっても」妥当するはずだ、ということを訴えかけている、ということなんじゃ。

獏迦瀬:共有を訴えているというか……。

伊丹堂:共有と言っても、もちろん誰もがそういう倫理的行為をすべきだ、というのではないよ。人は非―倫理的に生きる自由があるんじゃから。しかし理解可能だと言うところにむけて倫理的行為は創造されている。もちろん相手に迎合するのではなく、普遍的に・誰にとっても、そのコトのまっとうさが成り立つだろうということを、訴えかけるわけじゃ。むしろその相手の分かり方をも否定する他者をめがけて説得がなされるのが、否定の先の先を配慮するということじゃな。具体的に知り合いなり身内に分かってもらいたいというのではないってのは、言わずもがなじゃ。

獏迦瀬:キミだけには分かってほしかった、というのは泣き言ですか(笑)。

伊丹堂:矜持がないんじゃ。それはともかく、このような意味での「倫理」は、いわゆる倫理的―道徳的行為にのみ関わるんではなくて、科学や芸術・技術や起業など、アラユル人間の探求的な創造全般に関わることなんじゃな。

獏迦瀬:アラユル行為は倫理的である……という観点からもそうなるでしょうね。

伊丹堂:柄谷も『倫理21』の中で、カントの物自体を独自に解釈して、打ち立てられた科学理論(仮説)に対して、常にその否定として現れる他者のことなんだと言っているが、まさに卓見ではあるわな。ま、科学的な知識といえども、倫理的なコトの創造であるということは、マイケル・ポランニー=栗本慎一郎の暗黙知理論において、科学が個人的関与による創出であるということですでに明確にされていたことではあるがな(註6)。

獏迦瀬:ところでさっき出しておいたもう一つの問い、人はなぜそのような「善」を為しうるかという問題です。こういう文化についての倫理的な態度というのは、ある意味で自分の名誉欲とか功名心というのもかなりあると思うんですが、いわゆる倫理的―道徳的な行為(たとえば無償の他者救済というような行為)というのがなぜに為しうるかは、謎として残るんじゃないですか。

伊丹堂:そりゃまた俗流心理学的見方じゃな(笑)。いくら功名心があったって、さっぱり「発見」も「創造」もできない学者や文化人はいくらでもおるぞ。

獏迦瀬:それは……たしかに因果関係にはないと思いますが。

伊丹堂:なぜに「善」をなしうるか? と言えば、さっきも言ったように、我々がなぜか「良い」状況をめがけてしまうから、としか言えない。これは科学や創造の分野であれ、いわゆる倫理的な行為であれ、原理的には同じことじゃな。ただ言えるのは、そこでそのような創造=倫理が為されうるのは、そのような「否定の運動」を引き起こしてやまぬホドの「リアリティ」がその人に到来したからだ、ということじゃな。リアリティとは、つまりアイデアであったり使命感、責任感だったりするわけじゃが……。

獏迦瀬:到来……ですか、なんか無理やりさせられてるみたいですが(笑)。

伊丹堂:いや、それが内側からリアルに感じられるからこそ、人は自発的にその行為をなしうるのじゃ。他律的に無理やり「やらされた」と感じる場合は、そこに何のリアルもないわけじゃろ。とりあえず「アタマで」理解してそれをやってみる、とか。

獏迦瀬:では、なぜにリアルが到来するか、というか、どうしたらそれは到来するんでしょう。

伊丹堂:それは経験の積み重ねの中での偶発事というしかないな。文化の積み重ねや歴史の中で新たな創造が行われるというのと同じじゃろ。歴史の中でのさまざまな倫理的な経験の積み重ね、歴史と文化の中で、個々人も倫理的行為がなしうるように(無意識的に)錬成されているんじゃ。ハビトゥス(習慣)とかフーコーの言う倫理的美学的様式化ってやつじゃな(註7)。

獏迦瀬:でも経験や学習からだけでは新たな創造は起こりませんよね。

伊丹堂:ロボットや人工知能ならな。そこで創造が起こるのが人間の不思議ってことよ。逆に言えば、「人を倫理的にすることはできない」、にもかかわらず、「倫理は伝承されうる」ってことじゃな。ようするに文化とは倫理的―創造的行為の「可能性の条件」なんじゃ。それが起ち上がる「地」ってこと。とにもかくにもカンジンなのは、倫理というのが、とってつけたような正義感や義務感によるものではなく、人間の根源的なリアリティに裏打ちされたものだということなんじゃ。

獏迦瀬:なるほどね……。ところで「倫理」ということに関して、ここまで「公共性」だとか「正義」という問題、つまり国家とか社会全体に関わる問題については触れてませんでしたが……。

伊丹堂:それはすでに話に出てきた他者への永続的な配慮ということと、現時点での歴史的文化的状況ということをおさえとけばいいと思うが、すでに長くなりすぎた。それはまたの機会ということにしておこう(註8)。

(註1)ひるますのホームページ(URLはプロフィール参照)での時評参照。この問いの形式を「ヒステリー的な問い」として批判的に分析している。小浜逸郎『なぜ人を殺してはいけないのか』(洋泉社新書y)も参考になる。
(註2)柄谷行人『倫理21』(平凡社、二〇〇〇)
(註3)ひるます「脳死・臓器移植と「倫理」―その可能性と条件―」(「カルチャーレヴュー」別冊02号、二〇〇〇)
(註4)竹田青嗣氏は『プラトン入門』(ちくま新書)等で人間の欲望は真・善・美をめがけるとしている。ここでいう真・善・美は、例えばこの世において、何が良いか・正しいか・美しいかは確定していないが、我々は「良さ・正しさ・美しさ」という観念(あるいは方向性)を共有している、という意味でのイデアとされている。つまり、それがあって初めて何が良いかを問うたり、確認しあったりすることが出来る基底的なヨリドコロであって、その意味でそれ以上その根拠を問うことができないものである。
(註5)ひるます『オムレット』(広英社、一九九九)、第4章。
(註6)栗本慎一郎『意味と生命』(青土社、一九八八)
(註7)内田隆三『ミッシェル・フーコー』(講談社現代新書、一九九〇)
(註8)公共性と政治の問題に限定しては、ひるますのデジタルコミック『民主主義で行う!』(インターネットで無料配布中)の末尾に、この架空対談と同様の形式でのコラム「政治ってなんなんだ〜!?」としてすでに公開している。

(評論紙「La Vue」7号より転載)
なお本論考他、ひるます氏の電子書籍版サイトでも、無料にてダウンロードできます。
また今回をもって、シリーズ〈倫理の現在形〉の第1期を終了いたします。
 

★プロフィール★(ひるます)19XX年生6月 岩手県生まれ。新潟大学人文学部(哲学)卒。セツ・モードセミナー美術科卒。東京都在住。マンガ家、編集者、ライター、アートディレクター、占い師など、いろいろやってます。著書として『オムレット――心のカガクを探検する』(広英社:発行、丸善:発売元)。お気軽にお問い合わせください。ひるますホームページ「臨場哲学」

Web評論誌「コーラ」12号(2010.12.15)
〈倫理の現在形〉第11回:「倫理って何なんだ〜!――倫理の共有は可能か?」ひるます
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