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参考文献
梶山雄一・上山春平『空の論理<中観>(仏教の思想3)』(角川ソフィア文庫)
梶山雄一「中観哲学と因縁論」(『梶山雄一著作集5』春秋社
櫻部健・上山春平『存在の分析<〈アビダルマ〉』(角川ソフィア文庫)
中村元『原始仏典』(ちくま学芸文庫)
立川武蔵『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』(講談社学術文庫)
宮元啓一『ブッダが考えたこと──仏教のはじまりを読む』(角川ソフィア文庫)
宮元啓一『インド哲学七つの難問』(講談社選書メチエ)
■読解の目安
中村元『龍樹』所収、龍樹の主著と言われる「中論」の読解、特に縁起と空観を中心に行うが、原書の理解は難解であるので、中村元の解説をメインに補足的に梶山雄の解説に沿って読解を行う。
中村によれば「空観とは、あらゆる事物(一切諸法)が空であり、それぞれのものが固定的な実体を有しない、と観ずる思想である。」、端的にいえば、空観とはこの定義で足りるであろう。なぜならば、「<空>の哲学は定まった教義なるものをもっていない」(中村、p.129)からである。(→「空見」という原理の実体化を避けるために教義化しないのかも?)
だが、よくよく考えると、この「事物」とは「諸法」のことであり、その「法=もの」の意義をよく理解しておかなくてはならない。また、仏教で言う「一切」とは自然界全体を含まず、人間的事象に関わる経験的事実に限定して捉えるのが相場のようであるが、その辺りの捉え方も、大乗仏教と説一切有部(有部)とでは異なった捉え方をするので要注意である(法空/法有)。
また、龍樹の主要論戦相手である、有部の<法>や<法有>の概念との対比で、<空>や<縁起>を捉える必要がある。
なお、「実体」という概念を仏教は、「体(自体)、性(本質)、法、物(実体の本性)、事(実体)、有」(中村,p.92)などの言葉を使うが、同じ意義である。
1.「中論」の梗概
龍樹は、有部などが諸法に固有の性質(自性)を認めたうえで縁起や因果を説明することを批判した。龍樹は、諸法は空すなわち無自性であるから縁起し、また縁起するから自性をもたず空であるとした。則ち空とは縁起のことでもある。
なお「空」とは「無」のことではない。「有─無」という対立を超越した概念が「空=非有非無」であり、「空」の反対理念が「不空=実有=自性は不空なり」となる。
龍樹は、『般若経』に影響を受けつつ、『中論』等で、説一切有部などの法有(五位七十五法)説に批判を加える形で、有為(現象、被造物)も無為(非被造物、常住実体)もひっくるめた、徹底した相依性(そうえしょう、相互依存性)としての縁起、いわゆる相依性縁起を説き、中観派、及び大乗仏教全般に多大な影響を与えた。
中村元によれば、中論の主張する縁起は、有部の縁起論とは著しく相違するが、後世中国の華厳宗の法界縁起の思想には非常に類似しているという。法界縁起の説においては、有為法・無為法を通じて一切法が縁起していると説かれるが、この思想の先駆は中論に見いだされるという。(中村『龍樹』 の要約)
「一言でいえば、『般若経』の神秘家が見いだした最高の真実の上に立って、区別の哲学を批判する書物である。」(梶山、p67) cf;区別の哲学=アビダルマ系
「自己の理論を主張するよりも、他学派の理論を批判することに専心したから、定言論証式を多用しない。そのかわりに仮言的推理・ディレンマ・四句否定が彼の武器となる。」(梶山、p133)
「中論」の「第18章(アートマンの考察)は「自我の問題の考察から始まっているが、空の問題・ものの本性の問題・真実の定義・縁起の問題・真理の永遠性などに議論は展開していて、中観哲学の基本的立場をよく反映している。」(梶山、p68) cf;無執着の境地=「空・無相・無願」『般若経』)
中観哲学の性格
「批判した学派の教義を忠実に再現したものともいえない。個々の教義、それを要素として構成される体系の原理となっている思惟方法に批判は向けられている。→ 諸哲学体系の原理批判。ナーガールジュナの著作において重要なのはとりあげられた主題であるよりも、それを批判する論理にある。
その批判の論理は、少数のタイプに還元できる」(梶山、p.91〜92)★図参照
■キーワード
縁起、法、法空/法有、有、実有/仮有、自体性=自性=本性=本質、概念/実在、無我/アート マン、執着/無執着
■龍樹のプロフィール
龍樹(梵: N?g?rjuna)は、2世紀に生まれたインド仏教の僧である。龍樹とは、サンスクリットのナーガールジュナの漢訳名で、日本では漢訳名を用いることが多い。中観派の祖であり、日本では、八宗の祖師と称されることがある。
真言宗では、「付法の八祖」の第三祖とされ、龍猛(りゅうみょう)とも呼ばれる。しかし、龍樹が密教を説いたかどうかや、第五祖金剛智との時代の隔たりから、龍樹と龍猛の同一性を疑問視する意見もある。浄土真宗では、七高僧の第一祖とされ龍樹菩薩、龍樹大士と尊称される。大乗の菩薩として伝記では描かれる。(Wikiより)
2.予備知識として
2-1)初期仏教の「空」から大乗仏教の<空>の思想へと至る道筋
『般若経』に出てくる、自己犠牲の精神と包容力にみちた英雄としての菩薩の物語は、出家教団の利己的なおごりを批判、それは無執着ということを在家仏教者の倫理的・宗教的な態度として、大乗仏教の旗印として掲げている。→ 無執着の基礎つけとして空の思想を展開 ← もとより『般若経』の空の思想は無執着という倫理・宗教とはっきり分化してはいない。 → しかし、ものごとにとらわれない、という菩薩の心構えが、→ ものは本体をもたない、空である、という認識まで昇華されるところに哲学がある。(梶山、p.39〜40)★資料1:菩薩とは、★資料2:大乗仏教の成立
2-2)初期の般若経典における瞑想(ことばへの不信)
空の瞑想(空)・しるしのない瞑想(無相)・望むところのない瞑想(無願)
この三種の瞑想は、すべてのものを対象として、それらが本体のない空であること、いかなるものによってもしるしづけることのできないこと、願わるべきものではないことを瞑想する。
また、瞑想は神秘家たちにとってただ一つの真実の方法 → その瞑想によって、その名前、そのかたちは消え、思惟すべきもの、表現すべきもの、知覚すべきものはすべて消え、最後に残った最高真実、それは生じもせず、滅しもせず、来たらず去らず、作られたものでもなく変化もしない、いかなる形でも現象せず、時間的にも空間的にも無限・無辺である。それはすべての限定を離れ、静寂であり、孤独であり、清浄である。(梶山、p.40〜41)
→ 最高の真実としては、ものが空であり、いかなるものによってもしるしづけられない、ということは、『般若経』の神秘家たちが人間のことばを信用していなかった。cf;『中論』帰敬序との類似
3.『中論』における、認識・思惟・言葉の関係(分別に関して)
「思惟はことばの虚構にもとづいて起こる」(戯論=言葉の虚構、言語的多元性)
「人間の思惟は、実在とは無関係な虚構にすぎないことばにもとづいている。」
「判断というものは少なくとも二個の名辞を必要とする。判断は、したがって、複数の概概念の存在を予想する。判断は言語の多元性にもとづき、思惟は、ことばの虚構よりおこる、とナーガールジュナが考えたのはきわめて当然のことである。」
「人間の認識は直観から知覚・判断・推理という過程で展開する。純粋な直観において主観と対象の分岐もなければ、主辞と賓辞との分岐もない。直観の世界は全一な刺激である。」(梶山、p74)
→「瞑想」「着観」→「静寂」=「本体のないこと=言葉を実体化したにすぎな本体をもたない」:思惟・言葉の対象にならないから「静寂」「清浄」=最高の真実。
「ナーガールジュナはことばを本質としたわれわれの認識過程を倒錯だといっているのである。われわれがなずべきことは、思惟・判断から直観の世界へ逆行することだ、と教えているのである。」(梶山、p76)
cf;カントの認識論「<物自体としての対象>についての認識を持つことはできず、<感性的直観の対象となるもの>、つまり、<現象>についてのみ、私たちは認識することができる。」(『純粋理性批判』)
4.龍樹による実体の定義
実体(suabhãavaとか本質(prakrti)とは、自立的・恒常不変・単一なもの。
他方、事実の世界にあるものはすべて他に依って生起し、つねに変易する無常なもの、そして複合的な存在。そのような他に依る存在、縁起したものは実体性・本質を欠いた空なるものである。(梶山、p109) *以下「中論」より引用。
15章1「<それ自体>(自性)が縁と因とによって生ずることは可能ではないだろう。因縁より生じた<それ自体>は<つくり出されたもの>(所作のもの)なのであろう」
15章2「またどうして<それ自体>がそもそも<作り出されたもの>となるであろうか。何となれば、<それ自体>は<作り出されたものではないもの>(無所作のもの)であって、また他のものに依存しないものだからである」
15章8「もしも本性上、あるものが有であるならば、そのものは無ではありえなであろう。何となれば、本性の変化することはけっして成立しえないからである」
7章30「まず、有であるものの消滅することは起こりえない。何となれば、(あるものが)有であってしかも無であることは、一つのものにおいては起こりえないからである」
cf;有部の「有為法」:「原因・条件によって生滅する事物、「無為法」:生成変化を越えた常住絶対的なもの」(中村、p.96〜97の五位七十五法)
5.有部における「法」の概念(中村、p83〜94)
5-1)「法」とは
「仏教哲学とは法の哲学である。」(中村、p83)
法とは語源的には、dharmaという名詞、→「たもつ」という意味、→「きまり」「軌範」「理法」 原義(インド一般に通じる用例)★資料3:ダルマ
なぜ、その「理法」が「もの/物柄」に変化したか? → 「法有」主張の道筋?
5-2)法の体系の基礎づけ
原始仏教は自然認識の問題を考慮外においている。
c;宮元によれば、ブッダは、本質論的(形而上学的)にではなく、実存的な地平での因果関係を追究。→ 経験論者:唯名論/実在論の論争に比べれば、ことばや概念は実在の対象をもつとする常識の域を出ない素朴な実在論者。← この見解は興味深い)
法とは一切の存在の軌範となって、存在のその特殊性において、成立せしめるところの「かた」であり、法そのものは超時間的に妥当する。← この解釈は「理法」「軌範」という語源的な解釈とも一致する。→ 法は自然的存在の「かた」であるから自然的事物と同一視することはできない。(中村,p85)
その法の体系として、五蘊(五種類の法の領域である個体を構成する集まり)、六入(認識および行動の成立する領域としての六つの場)など、また縁起説(とくに十二支因縁が優勢)が考えられていた。(cf;五蘊十二処十八界の図)
5-3)縁起を軽視した有部
原始仏教の末期から縁起説は通俗的解釈がもちこまれる。→ 生あるもの(有情)の生死流転する状態にあてはめて解釈されるようになった。
すなわち縁起説によって法の統一関係が問題とされ出してからまもなく。縁起説は法の統一を離れて物の通俗的解釈に支配されるようになった。→ 有部の時代になると、縁起説は全く教学の中心から付加的なものになった。
5-4)なぜ有部は法有を主張したか
有部は縁起によって法の体系の基礎付けする立場を捨てる。→ 法を「有り」とみなすことに基礎づけた。初期仏説から「有・無」の極端説は排除されていた。→ なのに、何故「有」を主張したのか。
ブッダは「すべてつくられたものは無常である」(諸行無常)を説いた。→ 一切の存在は刹那刹那に生成変遷するものであり、何ら生滅変化しない、常住な実体は存在しない。
ところで、諸行無常を主張するために何らかの無常ならざるものを必要とする。← でなければ「無常」であるという主張が成立しない。 → 無常なる存在を無常ならしめる、より高次の原理があるはずではないか。しかし、何故にとくに法の「有ること」を主張したのか。
5-5)「有り」の論理的構成
「あり」という概念:@「である」「なり」=esentia形式論理学、 A「がある」=existentia存在論/有論(Ontologie) → 自然的認識ではなく哲学的認識(=法有の立場)
5-6)法有の成立する理論的根拠
個々の存在は変化消滅するが、それの「ありかた」「あること一般」は変化しないものではないか。→法としての「ありかた」はより高次の領域において有るはずである。(この点において、有部は観念的)→ 法は「それ自身の本質(自性)を持つ」ものとしてより高次の領域において有るから、超時間的に妥当する。→ かくして、法は有る=法は実在する、とされた。
「……であるありかた」としての法が、有部によって、「……であるありかた、が有る」と有部によって書き換えられた。(中村,p90) (@本質として「ある」、A実在として「ある」という関係)
★資料4:存在論の三項図式
5-7)法と本性
大乗仏教はでは「それ自身の本質」をたもつことを欠いているから法ではないと主張。
この「それ自身の本質」を有部は「もの」とみなした。 → 有部は「もの」の実在を主張したといわれるが、その「もの」とは「それ自身の本質」の意味であるから、経験的事物と混同することはできない。「もの」が自然的存在として実在する意味ではないだろう。
「それ自身の本質」=自性=本性:法のesentiaをexistentiaとして見た場合、「本性」とは「……である」ことが実在とされた。
5-8)「本性」「本質」が「もの」とされることから、「法」も「もの」とされた。
法=「もの」とは経験的な事物ではなく、自然的存在を可能ならしめている「ありかた」としての「もの」であることに注意。(中村,p94)
存在(もの)をあらしめる「ありかた」を「もの」とみて、すなわち「もの」の本質を実体とみなした。 → 概念の実在を認める。
「法有」の「有」とは「経験界において有る」という意味ではない。
5-9)命題も実在
有部は概念のみならず判断内容すなわち命題がそれ自身実在することを主張。→ 命題、句も実有とされ、五位七十五法の心不相応行法の中に入れられた。→ 最近代の記号論理学では、同一の記号表現が概念あるいは命題に解されることも可能。端的にありかたとしての「法」として捉える考えた方は充分に意味を持つ。
6.実有の意義(p.95〜)
「実有」とは「有」(sat)という類(genus)の中のある一つの種(species)であり、「有」より外延は狭いが内容は豊か。この「有」という疑念は、範疇の範疇というべきもので、定義することができない性質のもの。故に「実有」の意味は「実」(dravya)の分析から得られる。「有」の他の種のもつ内容の否定、他の「有」との種差が実有の内容である。
実有:「ありかた」としての「受」「想」のごとき有為法のみ
@実有とは、時間的空間的規定を受けている自然物的存在を可能ならしめる「かた」としての法に 関してのみいわれうる。
A法は自然的存在の「ありかた」である故に、他に、依存せず、独立している。
実有が否定する有
仮有/施設有:男、女、瓶、車乗、軍、林、舎、自然的存在物
相待有:長、短、これ、かれ、相関関係において存する「有」→ 中観派に影響
相待有=因性有>和合有、時分有
名有:亀の毛、兎の角のような矛盾を内包し、自然的存在の領域に存在しないもの。
和合有:五蘊のような連続した個人存在のような和合。
7.有部における「一切」の意義
7-1)五蘊十二処十八界である。有為法と無為法を含むが、五蘊は有為法のみ含む。
7-2)過去・現在・未来の三世。仏教は時間という独立の実体を認めないから「三世に属するもの」であろう。法の変化は、生起(生)、持続(住)、異(変化)、消滅(滅)の四有為法によて、起こる。
8.有部の弱点
「あるかた」が有る、という立場ならば徹底的に実有なる法の範囲を拡大せねばならないはずだが、仏教である以上それが許されない。→ 拡大すれば、ますます経験論的な実在論の立場に立つヴァィシェーシカ説に接近するから。ここに有部の弱点があり、経部は極力この矛盾を指摘する。「中論」の破邪法もまさしく法有のこの立場の弱点を突いている。
三世実有法体恒有=三世において実有なる法体(法そのもの)が恒にある。
三世の区別は「位の不同」によるとする説が正統説(正義)、すなわち作用の異なるに従って三世の区別が立てられる、という説。
9.西洋哲学との相違
プラトン哲学との類似が指摘されているから、realismとよぶにしても実在論と訳すよりも実念論(唯名論nominalismに対する)と訳したほうがよいかもしれない。
しかし、概念のみならず命題の自体有(Ansich-sein)も認めているから「概念の実念論」という語がぴったりと適合しない。★資料5:実在とは
10.空の論理
10-1)運動論の否定の論理
『中論』2章のテーマ:〈去る主体〉の「去」と〈去るはたらき〉の「去」を有部のように概念を実体化すると、二つの去の対立が生じることを指摘。プラサンガ論法(帰謬法)
10-2)「三時門破」の論法
去者と去法とを対立せしめて、これを論破(一時)、去の発(はたらき)始めることを論破(二時)、住(とどまること)を論破(三時)。
10-3)「第二章」の哲学的意義
「去りつつあるものが去る」という命題は、形式論理学的にみれば何ら誤謬を含んでいない。なぜなら、これは解明判断/分析判断であり、主語「去りつつあるもの」という概念の中に述語の「去る」がという概念が含まれている。主語を分析すれば述語を導き出せる。ところが、龍樹は分析的判断ではなく、拡張的判断/総合判断をした。★資料6:総合判断
その理由は、法有の立場はそれぞれの去という<あり方>をそのまま実在とみなすから、
「去りつつあるもの」という「あり方」と「去る」という「あり方」は全く別のものとされ、「去りつつあるものが去る」といえばそれは拡張判断であり、二つの去るはたらきを含むこととなる。
そうだとすると、この二つの去るはたらきを綜合する根拠はいずれに求むべきか。「あり方そのもの」(法のみ)であり、他のいかなる内容も拒否している二つの実体がいかにして結合しうるのであろうか。これが龍樹の論点。
10-4)『中論』の論理──プラサンガ
そもそも基本的な態度として、<空>の哲学は定まった教義なるものをもっていない。中観派は決して自らの主張をしない。主張が存在しない、まさにその故に、理論的欠陥が存在しない。(p.129) → 『中論』の論理は推論ではなくプラサンガ(帰謬法)。 → 自分たちの立場が論駁されることはありえない、という確信 → 大乗仏教が(禅も含めて)神秘的瞑想を実践しえたのは、そのような思想的根拠があった。
10-5)『中論』における論法の基本形式
三時門破:(10-2を参照)
一異門破:相関関係にある二つの概念は一に非ず異に非ずと主張。
五求門破:一異門破から論理的に導き出せる。@同一のものであることA別異のものであることB甲が乙を有することC甲が乙のよりどころであることD乙が甲の上に依っているものであることを否定(五つの見方による論破)
10-6)不断不常
仏教徒にとって「不断不常」は絶対の真理だが、「三世実有体恒有」を説く有部の弁解。
龍樹によれば、実有なる法を認めようとすれば、それが存続すれば「常住」という理論的欠陥に堕し、減すれば「断滅」という理論的欠陥に陥るから、法有の立場においては不常不断ということは不可能。反対にダルマが実体の無いもの(無自性)であるからこそ、不常不断といいうる。(p.142)
10-7)実念論的思惟の排斥
法を実有とみなす思想を攻撃。概念を否定したのではなく、概念を超越的に実在と解する傾向を排斥。概念に形而上学的実在を付与すること(=法有)を否定。
10-8)中観派と経部
西洋の学者は共に唯名派と呼んでいるが、概念を超越的に実在とみなす傾向に反対。
10-9)『中論』の目的
もろもろの事象がお互いに相互依存または相互限定において成立(相因待)していることを明らかにすること。★ここでの<もの>は、インド諸哲学の形而上学的原理や実体、有部の<五位七十五法>の体系のうちのもろもろのダルマも含めて、何でもよい。
11.縁起
11-1)『中論』の中心思想としての縁起
<中道>か<二諦>か
★二諦説:しかし、空である現象を人間がどう認識し理解して考えるかについては、直接的に知覚 するということだけではなく、概念や言語を使用することが考えられる。龍樹は、人間が空である 外界を認識する際に使う「言葉」に関しても、仮設したものであるとする。
この説を、既成概念を離れた真実の世界と、言語や概念によって認識された仮定の世界を、それぞれ第一義諦 と世俗諦という二つの真理に分ける。言葉では表現できない、この世のありのままの姿は第一義諦であり、概念でとらえられた世界や、言葉で表現された釈迦の教えなどは世俗諦であるとする、「二諦説」と呼ばれる。(Wikiより)
11-2)縁起を説く帰敬序
11-3)閑却されていた『中論』の縁起説
@『中論』は縁起を中心問題としている。
A『中論』は従来からの小乗で説く縁起(十二因縁)に対し独自の縁起を説き、しかも対抗意識をもって主張している。
11-4)アビルダマの縁起説
生あるもの(衆生)が三界を輪廻する過程を時間的に十二因縁の各支にひとつあてはめて解釈する。三世両重の因果によって説明する胎生学的解釈。(図:十二因縁、p169参照)時間的継起的説明が体勢。
刹那縁起:一刹那に十二支すべてを具するという説明。論理的/存在論的立場からの解釈で、『中論』の縁起と一脈通じるところがあり注目に値する。異端、「一念(一瞬)にも亦縁起の義有り」
分位縁起:有部の中心的捉え方、分位とは「変化発展の段階」のことをいう。縁起はもっぱら有情(生あるもの)に関して説かれる。
要約:<縁起>を、実有なる独立の法が縁の助けを借りて生起すると解された。
11-5)『中論』における縁起の意義
@1章・20章では、「縁によって」の因果関係の縁起を否定。
A『中論』の縁起は「相依性」(相互依存性)の意味。ex;8章-12の「行為と行為主体の関係」「甲によって乙があり、乙によって甲がある」→ 法と法の論理的相関関係 → 諸法は相互に依存することによって成立 ← しかし、これは法有の立場においては絶対に許されない説明。
11-6)『中論』の論理の特異性
「Aが成立しないから、Bが成立しえない」という論法が多いが、論理形式としては前件否定の誤謬を犯している。
なぜなら、上記の命題は「Aが成立するならば、Bが成立する」{A→B,A⊂B}の否定命題として考えられるが、それならば正しくは「Bが成立しなければ、Aが成立しない」(対偶) {¬B→¬A、¬(B⊃A)}である。
★但し、相依説に立てば、「Aが成立しないから、Bが成立しえない」は暗々裏に[Bが成立するから、Aが成立する」命題を前提にもっていると考えると間違いではない。(p.192)
★四句否定:第一の命題をpとすれば、(有(p)、無(非p)、有(p)かつ無(非p)、非有(非p)かつ非無(非非p)となり、この4つ目「非有非無」、これをテトラレンマといいい、「有かつ無」がジレンマ。ところで、梶山雄一によれば、この四句を形式論理の中で理解することは困難であるが、ある論議領域において成立している命題を、それとは異なった、より高次な議論領域から否定してゆく過程として、四句否定は弁証法的な性格を保っていると考えなくてはならない。(梶山、p135)
因みに、サンジャヤの不可知論:「なまず論法」というのがあって、この構成がが四句論法に似ている。ブッダの「無記十論」(形而上学について議論しない)に影響を与えたらしい。
11-7)有為法と無為法にわたって相依
両者は無自性であり、相依相関の関係において成立。
11-8)華厳宗の法界縁起との類似
法界縁起:有為法・無為法を通じて一切法が縁起している、と説く。
11-9)ジャイナ教との関係
一切法の表現が原始仏教聖典のうちには見当たらないのに、ジャイナ教のうちには見当たる。「一のものを知る人は一切を知る。一切のものを知る人は一のものを知る」など。
11-10)従来の縁起との関係(p.197)
26章の十二因縁の取りあげ方の問題
26章は「声聞法(小乗仏教)を説いて第一義の道に入ること」(青目)を説くのであるが、ナーガールジュナは全くこれを排斥したのではなく、衆生の生死流転の状態を示す説明として容認。→ 世諦縁起
「第一義諦」(最高の真理):1章から25章までの縁起
11-11)『中論』の十二因縁の拡張解釈(p.203)
『中論』においては十二因縁のうちの前の項が次の項を基礎づける関係から、一切のものの関係は決して各自独存独立ではなくで相依相資である、と拡張解釈された。一切の事物は相互に限定し合うに無限の相関関係をなして成立、何ら他のものとは無関係な独立固定の実体を求めることはできないという主張の下に、相依性の意味の縁起を説いた。
11-12)生起の意味を含まない縁起
「自生」「他生」「共生」「無因性」という生起のあらゆる型を否定することによって縁起を成立せしめようとした。(1章のテーマ)→ 「不生不滅」
11-13)否定の論理の代表としての<八不〉
八不は『中論』の宗旨 八不=不滅・不生・不断・不常・不一義・不異義・不来・不出
11-14)『中論』の帰敬序と『般若経』
『大般若経』においては、四縁の一つ一つの空、不可得なることを述べた後で、菩薩は縁起を如実に知るべきであるといって、八不を説いている。→ この部分と『中論』との密接な関係を認めざるをえない。
11-15)無我と諸法実相
18章における無我の説明は、諸法実相(事実の真相)を明らかにするためになされている。
18-章3「<わがもの>という観念を離れ、自我意識を離れたものは存在しない。<わがもの>という観念を離れ、自我意識を離れたものなるものを見る者は、(実は)見ないのである」
→我欲を離れた境地というものが別にあると思う人は、実は真相を見ていない。
<わがもの>という観念を離れたことという独立な原理または実体を考えるならば、実は実物の真相を見ないことになる、という意味。(チャンドラキールティ)
ここでの「我」とは「自体」(本体・本性)の意味であるから、「無我=無自性」→「空」
11-16)無我とは縁起
22章3「他のものであることに依存して生ずるものは、無我であるということが成り立つ」
11-17)縁起による四法印の基礎づけ
「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」「一切皆苦」
中観派は無常を空の意味に解している。チャンドラキールティによれば、自性を有するものは縁起しない。縁起したのでないものは無常ではない。なぜなら、存在しない<虚空の華>は無常ではないから。→ 無常なるものは必ず縁起している。 「一切皆苦」も縁起によって基礎づけられている。
12.空の考察
12-1)虚無論者と攻撃された中観派(24章のテーマ)
24章7で反論「汝らは空における効用(動機)・空(そのもの)および空の意義を知らない。故に汝はこのように論争するのである」
12-2)縁起を意味する空
24章18「どんな縁起でも、それをわれわれは空と説く」
12-3)縁起を意味する無自性
有を否定して無を主張したのではなく、実有を否定して無自性を説いた=無自性論者
「縁起」「空」を説くとともに「無自性」をも説いた。
15章1「<それ自体>(自性)が縁と因とによって生ずることは可能ではないだろう。因縁より生じた< それ自体>は<つくり出されたもの>(所作のもの)なのであろう」
もろもろの事物(諸法)は無自性であるが故に、現象界の変化も成立しうる」(パンジガー)
12-4)あらゆる事象を建設し成立させる空観
24章14「空が適合するものに対しては、あらゆるものが適合する。空が適合しないものに対しては、あらゆるものが適合しない」=「一切皆空」、一切が不空.、実有であるならば一切は成立しない。
12-5)縁起・無自性・空の三概念
論理的基礎づけの順序:縁起 → 無自性 → 空
歴史的発展の順序:空(およびその同義語)→ 無自性 → 縁起(p.246〜247)
★元来、空観は仏教の根本思想、たんに大乗においてのみこれを説くのではない。
12-6)『中論』の歴史的・思想的位置
初期仏教以来、空は説かれてきたが、空に対して「疑見を生じ」る人が現れ「種々の過ちを生じる」に至ったので、そこで龍樹が「何の因縁の故に空であるか」を説明するために、『中論』によって闡明した。
したがって、歴史的には『般若経』の各層を通じてみられるような空観を基礎づける運動の終わりであるとともに、思想的には『般若経』理解のための始めである。→『中論』は空観の入門書。
12-7)空見の排斥
「空亦復空くうやくぶくう」は『中論』の中心思想の一つ。この思想は『般若経』の十八空/二十空の中の一つ、「空空」はこれを意味している。
13章7「もしも何か或る不空なるものが存在するならば、空という或るものが存在するだろう。しかるに不空なるものは何も存在しない、どうして空なるものが存在するのであろうか」
13章8「一切の執着を脱せんがために勝者(仏)により空が説かれた。しかるに人がもし空見をいだくならば、その人々を『何ともしようのない人』とよんだのである」
12-7二種の空見
@空は一切の見を滅することであるにもかかわらず、その空を有と解すること
A空見を無の意味に解する。「無に執着すること」と説かれる。
空を無または断滅の意味に解釈。空見とは、本来、非有非無の意味であるべき空を誤解して、それを有の意味と解するか、また無の意味に解するか、いずれかであり、普通「空見」または「空に執着すること」と言われている。
12-8)誤解されやすい「空」
空を特殊なもの、あるいは原理とみなしやすいのが凡夫の立場。
13.ニルヴァーナ
13-1)有部のニルヴァーナ論
ニルヴァーナの実体を認めていた(無為法にある「択滅無」ダルマによって可能となる)p.96参照
13-2)龍樹の攻撃
有は必ず老死という特質を有し、かつ有為であり、これに反して老死という特質を有せず、かつ無為である有は考えられない(25章4)。(p.287)
しかし、有部が有と考えたとしても、その「有」は一つの「ありかた」で有り、「有るもの」(das Seiende)の意味で有り、トゥ・オンの考え方に近いであろう。
これに反して龍樹は(ここでの)「有」を「現実的存在」(Existenz)の意味に解して有部を攻撃。
13-3)経部のニルヴァーナ論とその反駁
経部は「無なることのみ」というが、相依説の立場から有が否定されるのであれば無も否定されるから、無はありえない。
13-4)現代人には飛躍にみえる議論
25章10「師(ブッダ)は生存と非存在とを捨てることを説いた。それ故に、『ニルヴァーナは有に非ず、無に非ず』というのが正しい。」
有(bhava)────生存(bhava)
無(abhava)────非存在(断滅)(vibhava)
同じ語源に由来し、対応関係にあるから『ニルヴァーナは有に非ず、無に非ず』は、当時のインド人には奇異に響かなかったかもしれない。
13-5)ニルヴァーナとは
『中論』では、ニルヴァーナを「亦有亦無やくうやくむ」となす説と「非有非無」となす説とも論破しているが、これはニルヴァーナが四句分別(@有とA無とB有かつ無C有でもなく無でもないこと)を絶してることを明らかにするために形を整えて述べたのかもしれない。
ニルヴァーナは一切の戯論(形而上学的論議)を離れ、一切の分別を離れ、さらにあらゆる対立を超越している。→ ニルヴァーナを説明するためには否定的言辞をもってするよりほかにしかたがない。
25章3「捨てられることなく、(あらたに)得ることもなく、不断、不常、不滅、不生である。── これがニルヴァーナであると説かれる」
帰敬序、縁起とニルヴァーナとに関してほとんど同様のことが述べられている。
13-6)輪廻とニルヴァーナは同じもの(p.294)
25章9「もしも[五蘊を]取って、あるいは[因縁に]縁って生死往来する状態が、縁らず取らざるときは、これがニルヴァーナであると説かれる」
と説くから、相互に相依って起こっている諸事情が生滅変遷するのを凡夫の立場からみた場合に、生死往来するまたは輪廻と名づけるのであり、その本来のすがたの方をみればニルヴァーナである。人が迷っている状態が生死輪廻であり、それを超越した立場に立つときがニルヴァーナである。
25章20「ニルヴァーナの窮極なるものはすなわち輪廻の窮極である。両者のあいだに最も微細なるいかなる区別も存在しない」 ← 大乗仏教一般の実践思想の根拠
人間と現実の関係はこのようなものであるから、ニルヴァーナという独立な境地が実体としてあると考えてはならない。真に実在すると考えるのは凡夫の迷妄。故に『般若経』においてはニルヴァーナは「夢のごとく」「幻のごとし」と譬えている。それと同時に輪廻というものもまた実在しない。
13-7)諸法実相即ニルヴァーナ
中観派は縁起している諸事物の窮極にニルヴァーナを見出したのであるから、諸事物の成立を可能ならしめている相依性を意味する諸法実相がすなわちニルヴァーナでもあると説かれている。
13-6「無為」という語の原意に復帰
有部によれば有為法と無為法とは全く別な法と考えられていたが、中観派は有為法の成立している根底に無為を見出した。→ 大乗経典「縁起を無為と見る」
初期仏教においては、個人存在を構成する一切の事象が縁起のことわりに従う如実の相を「真如」とよび、さらにこの真如を<無為>とも称したが、けっして無為という実体を想定したのではないと考えられている。中観派はその無為という語の原意に復帰して論じているのであるから、この点からみても空観は初期仏教のある種の思想を受け継いだものであり、ある意味においては正統派である。
さらに、中観派はニルヴァーナは空であるとも説いている。「空即ニルヴァーナ」
13-7)大胆な立言
われわれの現実生活を離れた彼岸に、ニルヴァーナという境地あるいは実体が存在するのではない。相依って起こっている諸事象を、無明に束縛された事実をわれわれ凡夫の立場あから眺めた場合に輪廻と呼ばれる。これに反してその同じ諸事象の縁起している如実相を徹見すれば、それがそのままニルヴァーナといわれる。輪廻とニルヴァーナとは全くわれわれの立場の如何に帰するものであって、それ自体は何ら差別のあるものではない。(……)ニルヴァーナの境地に憧れるということが迷いなのである。(p.297〜298)
13-8)一切は無縛無解
16章-5「もろもろ形成されたものは生滅の性を有するものであって、縛せられず、解脱しない。生あるもの(衆生)もそれと同様に縛せられず、解脱しない」
16章-9「『わたしは執着の無いものとなって、ニルヴァーナに入るであろう。わたしにはニルヴァーナが存するであろう』と、こういう偏見を有する人には。執着という大きな偏見が起こる」
「束縛と解脱とがある」と思うときは束縛であり、「束縛もなく、解脱もない」と思うときに解脱がある」(『中論疏』)
「ニルヴァーナがない」というのは、たんなる形式論理学をもって解釈することのできない境地である。(p.299)
■初学者ゆえの途上の感想(黒猫房主)
釈迦による解脱とは中道=八正道によって輪廻を断ち切ることだったが、その方法は世界に居ながらにして世界を離脱/越えることだった。これを世界に対する「超越論的態度」としての<態度変更>と呼んでみようか。(*橋爪太三郎は解脱について「現象学の超越論的エポケーと少し近い」と書いている。『世界がわかる宗教社会学入門』、ちくま学芸文庫)
いっぽう世界を縁起が織りなす不生不滅の<空>と徹見する(大乗の)菩薩の態度は、涅槃を「いま、ここに」と見据えて、世界を清浄化(救済)することなのかもしれない。<空>は本質がないゆえに「開かれたひろがり」であり、分別がない存在の肯定としての涅槃であるだろう。
1)自性の否定=自己同一性の否定/自己中心性の否定 → 「本質存在」から「関係存在」への開放/解放、相互的存在の肯定(相依性)。
2)「第19章 時の考察」への感想
「時間(現在)」を「いま・ここの私」と同義とするならば、「時間の不存在」ということは「無我」ということにもなる。また、「縁起としての現在」=「空としての私」ということになるだろうか?
木村敏によれば、離人症になると時間・空間感覚がなくなり、私が私である感覚が失われる。(『時間と自己』、中公文庫)
3)カントによれば、時間と空間は、人間の感性にそなわった主観的な形式=「直観」である。内部感官の形式は「時間」、外部感官の形式は「空間」である。(『純粋理性批判』)
(初稿は2019年01月08日に行われた読書会用に作成したレジュメです。)
★プロフィール★黒猫房主(くろねこ・ぼうしゅ)。1950年代生まれ。「Web評論「コーラ」の編集・発行人、「哲学系読誦会(仮)」世話人。これまでにも幾つかの読書会の世話人をしてきた。10代の頃は詩人か作家を志していたらしいが、今は昔のことなり。ブログ: シャ ノワール カフェ別館、Twitter: 黒猫房主
Web評論誌「コーラ」50号(2023.08.15)
黒猫のノオト5:中村元『龍樹』を読む(黒猫房主)
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