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Web評論誌「コーラ」
48号(2022/12/15)

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(★引用は浅野裕一『墨子』講談社学術文庫・他からです。)

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■読解の目安
 「兼愛篇」「非攻篇」を中心に、孔子の「仁」に対する墨子の「義」との相違や兼愛とキリスト教の相違を通してみると、墨子・墨家思想の中核は「天意」の実現、あるいは「天下の理を興し、天下の害を除く」(「兼愛」中篇)という統治論/術(論は事例的・反復的でかんで含めるように文意は明解、孔子のようなレトリカルな韜晦さがない)に収斂するように思われます。この統治術は、フーコー的な意味での「生-政治」を含意しているのかもしれません。
 
 「兼(愛)に当りて行わざるべからず。此れ聖王の道にして、万民の大利なればなり。」(「兼愛」下篇)。
 
 「天意」や「聖王」を如何に(何に置き換えて)理解するかによっては、「尚賢・尚同」の捉え方が独裁思想から解放思想まで読み幅は大きく振れますが、それは読む側の立ち位置が問われているのかもしれません。
 なお、浅野版は「上篇」が中心ですが、「中・下篇」との異同という問題もあり、通説は「上篇」の成立が時代的に古く、墨子思想の原形を伝えていると言われています。
 では、「中・下篇」が「上篇」の注釈あるいは展開という関係にあるとすれば、墨子思想の原形と儒家との論争によって鍛えられた墨家思想との関係も捉える必要がありますが、今回はとてもそこまでは到達はできそうもありません。
 「公輸篇」で描かれる墨子はチャーミングで「狂風的」な情熱家であり有能な戦術家ですが、魯迅の『故事新編』の題材にもなっています。
 
1.標準的な「墨子・墨家」の説明
 
■「岩波 哲学・思想事典」より
名は墨てき、生没不詳、魯の下級武士出身、前5世紀後半、救世の精神に燃えて魯に学団を創設。学団員は、<墨者>と称し、学派は後に<墨家>と呼ばれた。墨家は儒家と並ぶ巨大勢力を誇り、春秋末から戦国末まで、約200年間にわたって活動を継続。(←出身階級については諸説あり)
 
■「墨家」Wikiより
全体として儒家に対抗する主張が多い。また実用主義的であり、秩序の安定や労働・節約を通じて人民の救済と国家経済の強化をめざす方向が強い。また全体的な論の展開方法として比喩や反復を多用しており、一般民衆に理解されやすい主張展開が行なわれている。この点、他の学派と異なった特色を有する。特に兼愛、非攻の思想は諸子百家においてとりわけ稀有な思想である。(←主張の対象は主に権力者=士大夫だったのではないか?)
★「士大夫」資料参照
 
■時代背景(春秋・戦国時代)★資料参照
諸子百家の登場(孔子・墨子は二大勢力)
春秋時代に多くあった国々は次第に統合されて、戦国時代には7つの大国(戦国七雄)がせめぎ合う時代となっていった。諸侯やその家臣が争っていくなかで、富国強兵をはかるためのさまざまな政策が必要とされた。それに答えるべく下克上の風潮の中で、下級の士や庶民の中にも知識を身につけて諸侯に政策を提案するような遊説家が登場した。 諸侯はそれらの人士を食客としてもてなし、その意見を取り入れた。さらに諸侯の中には斉の威王のように今日の大学のようなものを整備して、学者たちに学問の場を提供するものもあった(稷下の学士→荀子など輩出)。
 
2.墨子の中心思想:「十論」
この十論によって、墨子は富国強兵と安定的統治の実現を目指した。
 → ほとんどは墨子集団の伝統と自律の原理から出ている。(白川,p194)
 
2-1「十論」の形成成立過程
 1)墨子の時代にすべて成立していた(浅野,p266)。
 2)相当長期間にわたってしだいに形成された。
 兼愛・非攻の系統を弱者支持の理論、尚同・天志の系統を大帝国を目指す天子専制理論と捉えた上で、墨子のころの兼愛・非攻の系統が衰えるにつれて、戦国期に尚同・天志の系統が興ってきたとする。(渡辺卓『古代中国思想の研究』,1973年)
 
2-2「十論」の要点
「尚賢」
能力本位の人材登用を唱える。→ 実は、「能力ではなく意志であり、(……)実質的には国家の方針に従順な良民と言うに留まる。」(浅野,p23)
賢者の大量生産:尚賢論が「王侯・大人、政を国家に為す者」にのみ説得対象をしぼり、一国家の内部にだけ思考範囲を限定した上で、議論を展開。(浅野,p20)
国内のみでの身分を越えた登用 → 人材こそ繁栄の鍵 ← 当時においては革新的だったが、封建制と矛盾しない範囲か?(「尚同」とセット) ★資料参照「封建制」
 
「尚同」
尚(上)に同ぜよ。(信賞必罰→規律性)
各段階の統治者に従って社会秩序を維持せよ。(自然状態における各人の一義を天意によって統一 → 周の封建体制を踏襲、cf;西洋の封建制とは異なる。
「一元的天子専制理論ではない」(浅野) 「封建制」と「群県制」(秦)の違い。
「天─天子─三公─諸侯・国君─郷長─里長─民(「上篇」)の中間機構が介在する体制(浅野,p43) ex,三公=太師、太傅、太保
 
「兼愛」
自己と他者を等しく愛し他者を犠牲にして自己の利益を追求するな。(上篇)→「自己/自他統治」の観点?→「別愛」の否定、「交利」の効用(「統治」の技術)。
cf;孔子の「仁」、キリスト教の「隣人愛」
「墨氏は兼愛す。是れ父を無みするなり。父を無みし君を無みするは、是れ禽獣なり」(『孟子』勝文公下篇)の墨子批判は一面的な批判。
 
「非攻」
侵略戦争の否定 → 、人一人を殺せば死刑なのに、なぜ大量殺人をした戦争が「義戦」だと言われるのか? 侵略戦争が「不義」であることが認識されていない。非攻を実践するために防禦部隊を編成し、大国が小国を侵略すると、自ら製作した守城兵器を用いて小国の防禦に(ほぼ無償で)従事した。← 「公輸篇」の墨子の奉仕的精神はどこから生じるのか?
 
「節用」
物資の節約を求める。(献身的労働)← 富の生産がないと儒家から批判される。
 
「節葬」
葬礼を簡略にして富の浪費を防げ。← 儒家は礼を重んじる(三年間喪に服す)。
 
「天志」
上天(天帝)の意志に従って兼愛・非攻を実践せよ。← 封建制を理想とする。
「天意に順ふものは兼ねて相愛し、こもごも相利して、必ず賞を受く。昔三代の聖王、禹湯文武は、これ天意に順つて賞をえたるものなり」(「天志篇」上)。
cf;「墨子の考える天(人格神)とは、善には福を、悪には禍を、正確に与えるものである(=律法)。その点、天の降ろす禍福に対して懐疑的な儒家とは対照的である。」(本田,p206)
cf;中国で「天」の観念が成立したのは周代に入ってからと言われている。それに先立つ殷代には「天」という字は「大」という字と同じ意味でしかなく天がもつ抽象的あるいは超越的な意味は含まれていなかった。(溝口,p9)
 
「明鬼」
鬼神の賞罰を信じて犯罪をやめよ。(墨子自身は方便として鬼神を利用していたという、浅野説もあり)← 上天(天帝)→鬼神→天子→諸侯→人民 (儒家は無神論的)
 
「非楽」
音楽への耽溺を戒めて勤労を説く。← 儒家は楽を重んじる。「人と歌いて善ければ、必ずこれを反(くりかえ)しめて後にこれに和す」(述而篇)「民と皆に楽しむ」
 
「非命」
宿命を否定して努力を勧める。(「天志」の存在を主張、天志に沿うように努力)←儒家の「(宿)命」は「素朴な必然論」に過ぎない。(郭沫若)
 
『墨子』71篇には、他に儒家に対する非難、墨子の言行録、防禦戦術と防禦兵器の製作法、論理学などの諸篇がある。
<墨弁>と呼ばれる論理学は、他学派との論争や兵器製作の過程で生み出されたもので、弁証論や物理学・光学に関する知識を含む。
 
3.墨家の組織
 墨子の学団は孔子の学団に比べ、かなり組織化されていた。
3-1 三班制
 「布教班」:諸国を遊説して墨子の思想を広める。
 「購書班」:典籍・教本の整備や門人の教育を担当する。
 「勤労班」:食料生産や雑役、守城兵器の製作や防禦戦闘に携わる。
 「その他」:学団から派遣されて諸国に仕官し、墨家思想の普及や布教班の世話、学団       への献金に尽力する門人など。
 
3-2 鉅子(巨子):学団(軍事集団)全体の統率者
 1)墨子……初代
 2)禽滑釐(きんかつり、きんこつり)……二代目
 3)孟勝……三代目
 4)田襄子……四代目
 
3-3 墨家の分裂
戦国時代後期に2派に分裂、さらに戦国末には、<相里そうり氏の墨><相夫そうふ氏の墨><ケ陵氏の墨>の3派に分裂。
 
3-4 墨家の消滅
1)紀元前221年の秦の統一を経て(封建制→郡県制)、紀元前202年に漢が成立した時には、墨家は消滅していた。
2)その原因:「群県制による統一を推進した秦の方針と相容れず、厳しく弾圧された結果ではないか」「挟書の律」→「焚書坑儒」(p278,浅野)
3)「墨子は義の根拠を天志に求める神授説をとったが、そこには歴史的社会的一般者としてのノモスに対する反動があった。(……)墨者は、その強固な閉鎖性のゆえに、ノモス的世界に生き残ることができずして滅びるのである。墨家の最後の集団であった秦墨は、秦の統一が成就するとともに滅んだ。」(白川,p199〜200)
 
3-5 清末期に、なぜ墨子思想は復活・再評価(発見)されたのか?
考証学派によって再発見。清末の西欧の衝撃以来、西欧の科学や論理学に見合う中国固有のものとして再認識され、研究が進められるに至った。
また、新生中国では「批林批孔」時代(1973〜1974)に工人出身とされた墨子が好まれた。
 
4「兼愛篇」の読解
4-1 通説:ブリタニカ国際大百科事典の「兼愛説」
中国,戦国時代の思想家,墨子の根本主張の一つ。人間は血縁,身分などの差別なしに平等に愛し合わなければならないということ。儒家が礼秩序と身分とに即応する差別的な愛の仁を主張するのに対し,これは平等の博愛であり,身分階制が厳重な時代には衝撃的な主張であった。またその学派の非攻,節用,尚賢,尚同などの主張の根底になっており,その根拠を天の意志,鬼神などの超越的 (全体的) 権威においた。
 
4-2 兼愛篇(「人類の知的遺産〈6〉墨子」本田済・篇,1978年より)
1)孔子の仁との比較
 孔子の仁:「人を愛すること」(『論語』子路篇)
 韓退之(唐代の詩人・儒学者):「博く民に施して能く衆を済う」ことを、仁のさらに奥にある聖の境地とよぶ(雍也篇)。こういう点で孔子の道も兼愛ではないか。
 但し、孔子は人を愛するにしても、おのずから順序があると考えたらしい。「孝悌なる者はそれ仁の本たるか」(学而篇)、「弟子よ、入りては孝、出でては悌。謹みて信あれ。汎く衆を愛して仁(=仁者)に親しめ」(学而篇)
 万人が抱く家族への愛情を基調にして、他人に愛をひろげてゆこう、というのが孔子の理想。→「四海の内は皆兄弟なり」(顔淵篇)
     ↑
 孔子の家族愛を中心とするという点が「兼愛下篇」では「別愛」(差別愛)として排撃される。
     ↑
 家族愛の拡大が人類愛に達するには家族愛の否定を通じての愛の弁証法が必要(森三樹三郎,p278要約)。  
 
2)その身を愛するごとく人を愛せよ(「兼愛」上篇)
「聖人は天下を治めるをもって事となす者なり。乱のよりて起こるところを察せざるべからず。当(こころ)みに乱のなにより起こるかを察するに、相に愛せざるより起こる。」
乱の原因:相に愛せざるより起こる。
→ その対策:「天下兼ねて相い愛し、人を愛することをその身の愛するごとく」すれば「不孝不忠はあることな」く、「天下は治まる」。「自利の抑制」→「交相利」(中編)
 
    「自己」→(愛する)→「自己」
             | 兼ねる=橋を架ける(浅野,p56)
    「自己」→(愛する)→「他人」
  (兼ねることが出来るのは、自己と他人が並列的に同定できる場合=交換可能性か?)★黄金律(資料参照)
「他人」とは「他我=同類・同胞=自己中心性」として期待値(価値観等)が共有されている場合であって「他者」とは違う。「他者」とは自己中心性にとっての「外部」=「無限の隔たり」=「他者の他者性」)である。
 → 「墨子の兼愛」は自己中心性を解体しているのか?
 
★「兼愛を展開するにあたり、(……)墨家は、その単位内では利害が完全に一致していて、他の同類ないし反対概念をしての単位の間には、利害が対立している関係を七種類設定し、天下をこれら諸単位の重複せる集合体と見なすのである。(……)この互いに利害を異にする諸単位の間で、各々自己の属する単位と、それに対応する他の単位との間に差別を設けず(兼)、他者を自利追求のための手段・犠牲としない(愛)、というのが兼愛論の理論的構造である。」「むき出しの個人を議論の対象にしていない→墨子の個人は機能主義的」(浅野,p57〜59)
  cf;黄金律=「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」
  cf;ルソー「自己保存の原理と憐れみの原理(pitie)」(『人間不平等起源論』)
 
3)人倫関係を分別する儒家、分別しない墨子
人倫の乱れを治めるための方法を説く段になると、墨家は一足とびに「兼ねて相い愛す」ることで要約。この点が儒家の考え方とは異質。
孔子は、父子兄弟はともかく、君臣関係までを「相い愛する」という表現に同意したか?
孔子以来、儒家は倫理についての心理分析を怠らなかった。→ 孟子は、父子に親、君臣には義、夫婦には別、長幼には序、朋友には信があるべきだという(勝分公上)
        ↑
墨家集団の鉅子、孟勝が自殺したとき、弟子183人が殉死 → 骨肉の羈絆を棄てている(強固な結社性、ある種の宗教性?)。
 
4)キリスト教との対比
兼愛の根拠として、「父母や君は必ずしも仁者ではないからこれに法(のつと)ってはならぬ。天に法れ」(法儀篇)→「天意」を基準とする=「人を愛し人を利する者は、天必ずこれに福し、人を悪み人を賊(そこな)う者は、天必ずこれに禍す」(法儀篇)
但し、「兼愛篇」自体には、兼愛の義務を天意に基づく明文はない。←兼愛を「絶対的な義務として」も説いていないのでは? 厚生の最大化としての功利=統治術として説いている。
 
 キリスト教:
  「地にある者を父と呼ぶな、汝らの父は一人、すなわち天にいます者なり」(新約「マタイ伝」23-9)
  「己の如く汝の隣りを愛すべし」(新約「マタイ伝」19-9)
  「汝らの仇を愛し=復讐するな」(新約「マタイ伝」5-44)
  cf;「敵=他者に自己を差し出す」→「自己を委ねる」→「他者の餌食」(レヴィナス)→「他者の歓待」(デリダ)
 
 墨子:「非攻」において反撃する(攻める=侵略を誹るのであって、防禦は否定しない)。
 
5)神意的功利説
綱僚梁川(明治の宗教学者)によれば、「墨子の兼愛説は政治的には王道論・仁政論、倫理的には博愛論・人道論ともみられるが、古の王道論は利用厚生(「書経」洪範の語)、つまり天下の理を興し害を除くことを唯一の目的とする点で功利的である。そして法儀論にみられるように、兼愛が天命・神意に基づくところから、墨子の倫理説は一種の神意的功利説である。神意的功利説とは、「神の意志が人類の幸福をめざしており、人はすべてこれに同調して努力すべきである。人をしてかく努めしめるものは、神の賞罰である。」
(『東西倫理思想史』大正10年、春秋社)。
ex;功利説とは、行為の善悪の基準が、その行為が幸福(または快楽)をもたらすか、不幸(または苦痛)をもたらすかにある、というもので、窮極的には、それが社会一般の幸福を目標とする。
 
cf;孔子の「仁」と墨子の「兼愛」の位相
  孔子は、その仁の態度/プロセスが主題(動機主義
  墨子の兼愛は、その結果の利(効用)にある(帰結主義)→「義は以て人を利すべし」(耕柱篇)「義は利なり」(「経」上篇)
  ★「利」の概念を如何に捉えるか?
  白川,p192参照「利はもとは宣を意味し、妥当性をいう。」
  
6)『墨子』の全篇には、天下の理を興し、天下の害を除く(「兼愛」中篇)意図が一貫している(本田,p24)
 「交利=利益しあう」(「兼愛」中篇以降に出てくる語)
 「孝は親を利することなり」「義は利なり」(「経」上篇)
 
7)「兼愛交利」の実行は如何にすれば可能か?(兼愛の難しさに対する回答)
 神の賞罰という高次の原動力(天志篇・明鬼篇・法儀篇)
 地上の君主の賞罰による奨励(「兼愛」中篇)
 人を愛し利すれば、人もまた必ずこちらを愛し利してくれるという楽観=Win-Winの 関係(「兼愛」中篇)
 
8)兼愛は聖王の道・万民の大利
 「兼に当りて行わざるべからず。此れ聖王の道にして、万民の大利なればなり。」(「兼愛」下篇)
 
5「非攻篇」の要点
1)侵略は「不義」であり犯罪である。
2)「人一人を殺せば死刑なのに、なぜ大量殺人をした戦争が「義戦」だと言われるのか?」(論理的自己撞着)
3)損得からいって、戦争は得にならない。莫大な戦費の割に得るものが少ない。
4)戦争が天・鬼・人のいずれにも利益しない。宗教的な観点からの非難(天帝と歴代聖王=夏・殷・周三代、への反逆行為)。天の生んだ民を殺し、天の祭りに供える牛や羊を殺し、神を祭る宗廟を焼くことが神々の怒りを買う。
5)攻戦は天帝の意志に背く行為であるとして、非攻論の論拠に天志を据えている。(浅野,p80)
6) 墨子の真意は、侵略戦争による惨害の除去と封建体制の維持による、恒久的な世界平和の確立(浅野,p80)
7) 例外:禹王の征戦は攻に非ず天命による誅
  湯王による桀王(夏)誅滅の次第(天子とは天命を受けて治世をする機関であり、不徳であれば、その天命は他の有徳者に移行する(革命=天命を革める)という信仰があった。(天譴論)
  武王もまた天命によって紂(殷)を誅した。
  これらの三者には、攻めたのではなく罪人として誅したのである。
 
6.墨子論の紹介
■郭沫若(『十批判書』(資料参照『十批判書=『中國古代の思想家達 上』岩波書店)
1)孔子が奴隷解放的思想であり、墨子のほうが反動的との評価。
2)墨子の「兼愛」は「偏愛」である。→ 所有権の相互的尊重(p108〜109)
3)「人の國を攻めることは実に最大の私有権侵犯に外ならない。これこそ兼愛説と非攻説との中心であり、私有財産権の尊重および私有財産権の保護防衛である。」(p170)
 
■白川静が『孔子伝』(中公文庫)
1)儒家は愛情を、親近なものから次第に拡大してゆくべきものとしたが、それは方法の問題にすぎないといえよう。(p181)
2)兼愛という主張を、孔子のいう仁に対置する考えかたも、仁についての十分な理解に立つものとはいえない。仁は孔子においては「一日己に克ち禮に復らば、天下仁に帰す」(「願淵)という、人間存在の根拠に関する絶対の自覚をいう語であった。(p181)
3)『孟子』(尽心下)に、墨者は「頂を摩らして踵に放るも、天下を利すればこれを為す」としるされており、かれらの活動には、一種の宗教的な情熱を感じさせるものがある。墨者のもつ驚くべき行動力は、その強固な結社性と、信仰的な団体に近いこの奉仕的な精神にあったようである。(p187)
4)孔子が狂簡の徒を愛したように、墨者もまた狂や狂疾の語を好んだようである。墨者は、その義とするところを貫くために、「狂を受くとも何ぞ傷まん」(耕柱)ともいい、周公のごときも古の狂者であった(同)と述べている。当時において反体制的な立場に立つこの両者には、変革者的な情熱において通じるところがあったのであろう。
5)墨者は「墨者の義」のために献身し、また「墨者の義」のゆえに滅んだ。墨者の義とは何か。何がそれほどの献身を要求し、また何ゆえにその義は自己投棄的な滅亡を招くのか。→ ギルド的社会主義の古代形態の集団(p191〜192)→ 郭沫若への反論
6)資料参照(p192〜199)
 
★参考文献
『人類の知的遺産〈6〉墨子』 (本田斉・篇、1978年)
『墨子』 (森三樹三カ・ちくま学芸文庫)
『孔子伝・第4章』(白川静・中公文庫)
『十批判書』(郭沫若・岩波書店)
『<中国思想>再発見』(溝口雄三・左右社))
『故事新編』(魯迅・岩波文庫)
『墨攻』(酒見賢一・新潮文庫)
 
★資 料
■「諸子百家」とは(Wikiより)
春秋時代に多くあった国々は次第に統合されて、戦国時代には7つの大国(戦国七雄)がせめぎ合う時代となっていった。諸侯やその家臣が争っていくなかで、富国強兵をはかるためのさまざまな政策が必要とされた。それに答えるべく下克上の風潮の中で、下級の士や庶民の中にも知識を身につけて諸侯に政策を提案するような遊説家が登場した。 諸侯はそれらの人士を食客としてもてなし、その意見を取り入れた。さらに諸侯の中には斉の威王のように今日の大学のようなものを整備して、学者たちに学問の場を提供するものもあった(稷下の学士)。
その思想は様々であり、政治思想や理想論もあれば、実用的な技術論もあり、それらが渾然としているものも多い。墨家はその典型であり、博愛主義や非戦を唱えると同時に、その理想の実践のための防御戦のプロフェッショナル集団でもあった。儒家も政治思想とされるものの、同時に冠婚葬祭の儀礼の専門家であった。兵家は純粋な戦略・戦術論を唱える学問と考えられがちであるが、実際には無意味な戦争の否定や富国強兵を説くなどの政治思想も含んでいた。
百家争鳴の中で、秦に採用されて中国統一の実現を支援した法家、漢以降の王朝に採用された儒家、民衆にひろまって黄老思想となっていった道家が後世の中国思想に強い影響を与えていった。また、兵家の代表である孫子は、戦術・政治の要諦を短い書物にまとめ、それは後の中国の多くの指導者のみならず、世界中の指導者に愛読された。一方で墨家は、儒教の階級主義を批判して平等主義を唱え、一時は儒家と並ぶ影響力を持ったが、その後衰退している。
 
■士大夫
一般に、旧中国社会で上流階級をさす語。古代には天子、諸侯、大夫、士、庶民の5階級があったと伝えるが、天子、諸侯は大小の君主で特別なものであるから除外すると、大夫と士が支配階級であり、被支配階級の庶民と対立した。統一国家、漢の下で士と庶民の別がなくなったが、新たに官吏と人民との別が生じ、官吏の地位が世襲的となり、士族と称せられ、六朝(りくちょう)を中心とする貴族政治の時代が出現した。宋(そう)代以後になると世襲貴族が没落し、かわって科挙による官僚階級が形成され、士大夫、読書人などと称せられた。彼らの間では学問とともに高雅な趣味が尊ばれ、たとえば彼らが余技として描く絵画は士大夫画(文人画)とよばれ、職業画家の絵よりも高く評価された。この形勢は清(しん)末まで続いた。[宮崎市定](小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
■封建制
1)Wikiより
中国王朝でおこなわれた封建制は、天子(君主)が諸侯に領域支配を認める制度を指す。「分封建国」(ぶんぽうけんこく、天下の領地を分け与え、国を建てさせること)から封建と呼ばれる。封建された諸侯は君主の臣下とされる。後世に封建制の規範的時代とされた周代は都市国家の時代であり、周王は都市支配者(諸侯)を封建制に取り込み、一定の領地と結びついた爵位を授与し、引き換えに貢納や軍事奉仕などを要求した。 
 
2)資料参照(『新講世界史』三省堂)
 周王と諸侯の関係は本家と分家の関係であり、宗族として血縁関係をつうじて団結するということが周の封建制の特徴。
 
3)日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
 ここでは周(しゅう)封建制度とよばれる政治組織について述べる。本来、封建とは土に封じ、国を建てる意味で、郡県制度に対する語である。諸侯の封建はすでに殷(いん)代から行われたといわれるが、周は王朝を建設すると、一族、功臣50余を中原(ちゅうげん)の要地に封建して、800諸侯を軍事的に支配するための結節点とした。新しく諸侯を任命する場合、策命とよばれる儀式が行われ、官、爵と同時に邑土(ゆうど)と人民を与える旨の任命書が授与され、同時に権威のシンボルとして青銅礼器(彝器(いき))や武器、車馬具、衣服、飾り具、旗、官具などが賜与される。諸侯はこれを奉じて支配地に行き、国都の邑(城市)を造営して、周辺の諸邑を服属させた。諸侯はまた一族を中心とする卿大夫(けいたいふ)(貴族)に「氏」を賜り、官職、采邑(さいゆう)を与えて支配組織をつくった。王室、諸侯、卿大夫は血縁的原理に基づく宗法によって組織され結び付けられていたといわれる。したがってその政治も祭祀(さいし)(宗廟(そうびょう)と社稷(しゃしょく))を重んじ、王室の祭祀には諸侯が参加し、貢納の義務を負うほか軍役や土木事業にも従事した。諸侯に服する諸邑(鄙邑(ひゆう))もまた同様の義務を負った。ただし国都に住する庶人は国人とよばれて政治、軍事、祭祀の権を有したが、鄙邑の庶人は野人(やじん)とよばれ、氏族的秩序を保持したまま、王公貴族に対し租税を出し役務に従った。こうした農民集団の性格をアジア的社会の奴隷制とするか、あるいは農奴制と考えるかは立場によって異なるが、国都による鄙邑の支配という形式をとらえて邑制(あるいは邑土)国家、城市国家、都市国家などとよぶ場合がある。戦国時代になると諸侯は独立して郡県制を敷き、側近官僚による支配を行うようになり、封建制度は崩壊した。しかしこの後も前漢、西晋(せいしん)、明(みん)などに封建が行われたこともあるが長くは続かなかった。[宇都木章]
文献:増淵龍夫著『中国古代の社会と国家』(1960・弘文堂)』
 
■黄金律 Golden Rule】
《マタイによる福音書》7章12節,《ルカによる福音書》6章31節に現れるイエスの言葉〈何事でも人々からしてほしいと望むことは,人々にもそのとおりにせよ〉に付された名称。キリスト教倫理の根本原理として尊重されるが,この名称自体は近代以降のものとされている。元来は素朴な応報思想に基づく格言で,紀元前後のユダヤ社会で広く人口に膾炙(かいしや)していたと思われ,古いラビ文献その他にも否定形〈〜してほしくないことは,人々にもするな〉において知られているから,直ちにイエスの真正な言葉であるとは断定しがたい。 (世界大百科事典 第2版の解説)
 
イエス・キリスト
「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(『マタイによる福音書』7章12節,『ルカによる福音書』6章31節)
 
孔子
「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ」(『論語』巻第八衛霊公第十五 二十四)
 
ユダヤ教
「あなたにとって好ましくないことをあなたの隣人に対してするな。」(ダビデの末裔を称したファリサイ派のラビ、ヒルレルの言葉)、「自分が嫌なことは、ほかのだれにもしてはならない」(『トビト記』4章15節)
「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣り人をあなた自身のように愛しなさい」(レビ一九・一八)。
「もしあなたがたの国に、あなたと一緒に在留異国人がいるなら、彼をしいたげてはならない。あなたがたと一緒の在留異国人は、あなたがたにとって、あなたがたの国で生まれたひとりのようにしなければならない。
cf;「汝、かれらをことごとく滅すべし……、彼らをあわれむべからず」(「申命記」第7章)
「(同胞は奴隷にしたり)、過酷に扱ってはならないが、(周辺の国からの者は)永久に奴隷として働かせることもできる」(レビ記25)
 
ヒンドゥー教
「人が他人からしてもらいたくないと思ういかなることも他人にしてはいけない」(『マハーバーラタ』5:15:17)
 
イスラム教
「自分が人から危害を受けたくなければ、誰にも危害を加えないことである。」(ムハンマドの遺言)
 
ジョージ・バーナード・ショーは
「黄金律というのはないというのが黄金律だ」"the golden rule is that there are no golden rules".といい、別の「人にしてもらいたいと思うことは人にしてはならない。人の好みというのは同じではないからである」 "Do not do unto others as you would that they should do unto you. Their tastes may not be the same" (Maxims for Revolutionists; 1903). という言葉を残している。
 
(初稿は2017年11月10日に行われた読書会用に作成したレジュメです。)

★プロフィール★黒猫房主(くろねこ・ぼうしゅ)。1950年代生まれ。「Web評論「コーラ」の編集・発行人、「哲学系読誦会(仮)」世話人。これまでにも幾つかの読書会の世話人をしてきた。10代の頃は詩人か作家を志していたらしいが、今は昔のことなり。ブログ:シャ ノワール カフェ別館、Twitter:黒猫房主

Web評論誌「コーラ」48号(2022.12.15)
黒猫のノオト4:『墨子』を読む(黒猫房主)
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