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Web評論誌「コーラ」
47号(2022/08/15)

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(★引用は斎藤純一「政治的責任の二つの位相−−集合的責任と普遍的責任」、
『「戦争責任と「われわれ』ナカニシヤ出版)からです。)

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序.
 
 加害責任(刑法上の罪)のない戦後世代が、戦争責任/戦後責任を、何故/如何に引き受けるか(その応答可能性/不可能性)という論点で考るために、「不正義の感覚」を基底においてヤスパースやアーレントの議論を援用した、斎藤純一「政治的責任の二つの位相−集合的責任と普遍的責任」論の現在的意義を検討したい。
 斎藤の論点の特徴は責任主体の<受動性>と<能動性>だが、ポスト・コロニアルの視線から「国民国家」批判、戦後の知識人による能動的責任論として丸山真男−加藤典洋の立場が批判されているので、参考文献として鶴見俊輔と竹内好(間接的に丸山真男)の戦争責任論も適宜参照する。
 参考文献の内、荒井信一『戦争責任論』は第一次世界戦争後にはじめて「戦争責任」という概念が現れ、今日までのその変遷の通史である。仲正昌樹『日本とドイツ 二つの戦後思想』の第一章は、手っ取り早く「戦争責任」の概略を知りたい人には便利で、ヤスパースにおける「罪と責任」の区別が簡便に説明されている。また参考文献としての、高橋哲哉の発言は加藤典洋との異同/類似がポイントとなる。
 
1.オブスキュリティの時間
 
1-1.「不正義感覚」と「アテンションの配分=配置」
 「正義の感覚」は、すでに確立され、現に妥当している規範の方向づけれた感覚。
 cf;能動的主体との関連(3-6)
 「不正義の感覚」は、当事者が甘受し堪えてしかるべき「不幸」や「不運」と見なされてきた事項を「不正義」と受けとめ直す感覚――不運と不正義との間に引かれてきた境界線を疑問に付す感覚。
 cf;法=正義の境界、弱い責任/強い責任(北田暁大『責任と正義』勁草書房)
 
1-2.「アテンションの配分=配置」の不在
 受け手の側に能動的なATTENTION(注目・傾聴)が不在の場合には、語り手は「応答される可能性」(responsibility)が実質的に失われる。→「ATTENTIONの配分=配置」の不在が「暗闇」の領域を生む出す。(cf;5-3)
 
1-3.小論の関心(p79〜)
 「アテンションのエコノミー」を問い質す声を受けとめながら、とりわけ戦後世代が負うべき政治的責任を、「集合的責任」(colletive responsibility)および普遍的責任(universal responsibility)という二つの位相において再考することにある。
 
2.集合的責任としての政治的責任
 
2-1.「政治上の罪」には「政治的責任」が対応する。
 戦後世代には「加害責任=個人の罪」がないということは、「集合的責任=政治的責任」を刑法的に罪が帰責される「刑事的責任」から区別するための条件の一つに他ならない。(ヤスパース)
 
2-2.集合的責任の二つの条件(アーレント)p80から
 A:代理責任としての集合責任
 B:自発的行動によって解消しえないある集団(集合体)に成員として帰属していること。
 
2-3戦後世代がその「自発的行動によって解消しえない」のは、どのような位置なのか。
 日本国は大日本帝国の法的継承者、戦争被害者にとっては日本国以外にはその責任を帰すことのできる法的主体は存在しない。
 cf;この戦争被害者は「侵略戦争や植民地支配の暴力を被った」人々、そこには日本人も含まれるが、加藤典洋の哀悼の順序は「ニセの問題」なのか? 加藤の「内から外へ」の発想が批判対象になる理由←歴史主体論争
 
2-4.日本国の戦争責任を問う権利は万人に開かれている
 あらゆる国家の責任を批判的に問う政治的行為は、<政治的共同体>ではなく、成員の資格に依存しない<政治的公共性>の地平で行われる。日本国を問責する権利は「国民」のみならず、あらゆる「非−国民」にも開かれている。
 
2-5.集合的責任が問われる条件
 国家の法的責任ではなく国民の集合的(政治的)責任が問われるのは、被害者個々人に対する公的な謝罪・補償を拒否しているという条件下においてである。→しかし国民は国家に責任をとらせる努力を怠っている=責任感の欠損への批判。
 cf;「日本という共同体」が(「罪責感」の共同体ではなく)「責任感」の共同体として打ち立てられなければならないという意見(西谷修の発言)が出てくる。→加藤典洋と高橋哲哉との異同/類似、高橋の「抵抗のナショナリズム」の肯定。
 
3.政治的文化の継承
 
3-1.戦後世代は先行世代から「何か」を継承している。
 
3-2.本質主義的な立場
 血=「生理的遺産」(家永三郎)や「日本語」などの民族に固有な文化、エトノスに固有な何らかの「本質」を仮想することで国民統合/国家公民の覚醒を核にする立場にいきつく。
 
3-3.政治文化の継承という立場
 精神的条件(ヤスパース)、生活形式(ハーバーマス)の継承による集合的責任論(p83〜p84)
 エトノスの文化の確証ではなく、デモスの文化への反省が、いまだ果たされざる歴史的責任として提起されている。
 しかし、「アテンションの配分=配置」という視点からすれば、私たち自ら自身を点検し、その難点を剔出し、克服していくという能動的な自己反省は、内向きのATTENTIONをもつ国民的主体のモノローグの構造を免れているだろうか。→「アテンションのエコノミー」
 
3-4.丸山真男批判
 丸山らによる反省は「南京アトロシティを可能とするような政治文化への歴史的責任」に背馳するような仕方で行われたのではないか。
 丸山の関心は、「国民」を能動的な責任主体へと形成する方向に傾斜することで、「国民」の定義から排除された人々への、とりわけ「在日」および旧植民地の人々への注意が寄せられなかった。
 cf;鶴見俊輔・竹内好・丸山真男の戦争責任論の検討
 cf;ポスト・コロニアル派の丸山「国民主義」批判への疑義として、菅孝行の『9.11以後 丸山真男をどう読むのか』(河合ブックレット33)を参照。
 
 
3-5.加藤典洋批判
 国民たる「われわれ」が「歴史を引き受ける主体」へと自らを陶冶する回路を前もって経なければ、アジアの被害者に対して一個の人格としてまともに向き合えないという主張は、国民的主体の先行的確立に方向づける点において、丸山らと同型の問題を反復している。
 
3-6.他者への応答の範囲という問題
 国民と他者の関係において、自らを問いかけられ、呼びかけられる受動的な位置に置くことは、歴史的責任を省みるうえで不可欠の事柄とは考えられていない。他者への応答の範囲をあらかじめ限定したところで形成される責任主体は、応答責任を担うことができるのか。
 cf;正義感覚と不正義感覚の対比(1-1、1-2)
 cf;加藤典洋の「内から外へ向かう責任」、『レイテ戦記』を経てアジア被害者に到達する大岡昇平の眼差し(『敗戦後論』講談社)。加藤の『戦後的思考』(講談社)は『敗戦後論』批判への応答になっているので重要。この書については鶴見俊輔の「カメラを引いて」(「群像」2000.4月号掲載)という批評がある。
 
4.「日本人」としての名指し
 
4-1.徐京植による上野千鶴子批判(p87〜p88)
 他者による名指しが私を拒否することが、他者が私に加える暴力以上の暴力を他者に遂行的に行使することにならざるをえない関係性が、私を「日本人」と名指す他者との間には現に存在している。徐が強調するのはそのことである。
 
4-2.名指しの拒否は、その他者との対話の関係性を結ぶことの拒絶を意味し、翻ってそうした拒絶は、私が「日本人」として集合的に括らざるをえないような既存の関係を再び強化する効果を生じる。
 
4-3.「他者が私をまなざすその位置において自らを語る必要がある」(岡真里)
 
4-4.戦後世代が集合的責任を負うべき理由
 私たちが、数多くの不正義を刻んだ歴史的関係を先行する世代から継承し、私たち自身もそのような関係性をすでに生きてしまっているという事実にある。
 
4-5.<現在形>の生の歴史的位相を消し去ることはできない。
 「どのような自発的行動によっても解消しえない」(アーレント)のは、国家への帰属(citizenship)そのものではなく、被害者との間にあるこうした歴史的関係にほかならない。私たちを「日本人」と呼ぶとき他者が名指しているのは、私たちの生のこうした歴史的位相であり、いかに自らを「非-国民」として定義しようとも、そうした生の歴史的位相を消し去ることはできない。
 cf;仲正昌樹の「遺産相続」の比喩は適切か?(『日本とドイツ 二つの戦後思想』光文社新書、遺産相続においては「遺産放棄の可能性」も含まれる。
 
4-6.他者から断罪される位置に自らをおきつづけなければならないということを要請するわけではない。
 私たちは「日本人」としての他者の名指しを退けるべきではない。しかし、このことは「日本人」の一員として、他者から断罪される位置に自らをおきつづけなければならないということを要請するわけではない。
 
4-7.加害者集団のアイデンティティをもって被害者集団に向き合うためではない。
 A:第一に、他者による「日本人」としての名指しを受けとめることと、私たちが自らを「われわれ日本人」として積極的に定義し直すこととの間、「日本人として問責される」ことと「日本人として責任をとる」こととの間には、決定的な違いがある。「日本人」としての自己定義は、集合的表象をあらためて打ち立てる方向性をもつが、「日本人」としての名指しを受け入れるべきなのは、そのように問いかける他者との間で再−交渉のプロセスを開始するためであって、加害者集団のアイデンティティをもって被害者集団に向き合うためではない。私たちに求められているのは、集合的表象の応酬に陥らないような、あるいはそれに抗することのできる公共圏を具体的に創出することであって、他者による集合的な定義づけに抽象的な自己表象=「われわれ」をもって応じることではない。重要なのは、集合的な主体をアイデンティファイすることではなく、自−他の間にある問題をアイデンティファイすることである。
 B:第二に、私たちと彼/彼女たちとの間の歴史的関係は圧倒的に非対称的であるけれども、その非対称性は相互性を拒むわけではない。一方が問う(告発する)側でありつづけ、他方が応える(謝罪する)側でありつづけるわけではない。一つのモードに固定したコミュニケーションは、やがて関係そのものの破綻を導くだろう。(……)共通の歴史的出来事を違った仕方で経験しているという非対称性は、他者の立場にたつということが根本的に不可能であるという自覚を求めるけれども、そうした歴史的経験の違いは、双方の間に私のものでもない公共の認識や記憶を形成していくことを妨げるものではない。むしろ、それぞれの国民が自らの過去を排他的に所有するのではなく、国民の境界を横断する記憶や歴史認識を共有していくためには、同じ出来事をまったく違った仕方で経験してきた他者との語りの交換こそが不可欠である。私たちと他者の記憶が脱−領域化されるかどうかは、そうした相互的なモードのコミュニケーションがどれだけ深まるかにかかっているように思える。」(p90〜p91)
 
5.普遍的責任としての政治的責任
 
5-1.集合的責任は限定的責任である。
 アーレントの普遍的責任
 「人類という理念は……」(p92)cf;ヤスパースの「形而上の罪」
 「いかなる人びとをも排除しない」人類の理念だけが、誰かがその苦痛に対する注目を失い、「見棄てられた境遇」のなかで心身に危害を加えられたり、存在そのものを消し去られないようにするための「唯一の保障」になると、明言する(アーレント)。
 
5-2.世界への配慮、政治的考慮
 世界において重要なのは、不正が存在することである。不正を被ることも不正を為すことも等しく悪である。不正を被るのが誰であるかは問題ではない。(アーレント)
 
5-3.「アテンションの配分=配置」の不在が問題
 普遍的責任は「われわれの関知するところではない」という「暗闇」の領域をつくらないようにする配慮、私たちのアテンションをある閉域のなかに境さないという意味で「普遍的」なのである。
 
5-4.人間であることに抱かれる恥の思い
 「日本や韓国の若者たちに、日本が過去に行ったことを知って欲しい」という金学順の言葉は、明らかに集合的責任の次元を超えた呼びかけをしている。
 cf;金学順は「日本人/日本国」にとっての他者ではあるがサバルタンではない。だがその背後には多くの「語り得ない」サバルタンがいるだろう……しかし「他者の声」という形而上学化=神学化という問題はないのか? あるいは語ること=代理表象することの可能性/不可能性。
 
5-5.過去の暴力と亡霊と闘うプロセス
 「哀悼や謝罪は、私たちが、私たち自身が生きている現在にまで生き延びている過去の暴力と亡霊と闘うプロセスの一部なのである」(テッサ・モーリス・鈴木)
 私たちは――私たちの生を形づくりながらも、私たち自身には記憶されていない――そうした不正義を生きてしまっている。過去の不正義を知らないことやある特定の仕方でしか知らないということが、私たちの生、現在の「生活形式」をつくりあげ、私たちと他者の関係を歪んだ仕方で規定している。
 
5-6.過去の暴力と亡霊は国境を跨いで徘徊している。
 加害者と被害者の境界が国民と国民の境界に一致するとは限らない。
 
5-7.一度きりの精算ではなく、現在へと続く不正義に対する“thinking attention”(アーレント)に結びつくような責任の在り方が求められている。
 cf;サルトルの「世界に対する責任」 cf;カントの「理性の公的使用」(『啓蒙とは何か』)→公共圏
 
6.責任論の位相(★以下の節は黒猫房主の感想)
 
 仲正昌樹『日本とドイツ 二つの戦後思想』(光文社新書)を読むと、その第一章で日本とドイツの「戦争責任」を比較しながら、日本の戦後の戦争責任論が混乱しているのは、ヤスパースが分析した四分類(刑法上の罪、政治上の罪、道徳上の罪、形而上の罪)のような筋道をつけた責任論(『戦争の罪を問う』平凡社ライブラリー)が出なかったからだと書いているが、果たしてそれだけか。やはり、天皇の政治的責任を問い得なかったことが、いちばん大きいのではないか。
 柄谷行人もこの責任の分類を不可欠だと認める。そうでないと、あらゆることが「責任」と同一視されてしまい、けっきょく責任が問われなくなるからだが、責任とはその本質においてすべて「形而上的」だとも言う。それは因果関係を問おうとする態度からは責任は生じてこないからで、責任を引き受ける態度は、他の原因によらない自由意志(自律性・自発性)に基づく「倫理的態度」であるからだとされる。
 しかし形而上的ということに特別高邁な意味はないとも柄谷は言い、ヤスパースがドイツ人に向かって、あえて形而上的罪を自ら感じ引き受けるべきだと説いたことは、実はドイツ人を高邁な民族として救済しようとした欺瞞であると批判している(『倫理21』太田出版)。
 このヤスパースの主張は、戦争責任を「血=生理的遺産」という共同性に求めた家永三郎(『戦争責任』岩波現代文庫)とも心情的には通底しているように思われる。その家永を批判した高橋哲哉が、今度は加藤典洋を批判する論争の過程で、「汚辱の記憶を保持し恥じ入り続ける」という言い方をしたのは、高橋が批判しているはずのナショナルな「共同的な語り口」に陥っていると、加藤によって反批判される(高橋哲哉『戦後責任論』講談社学術文庫、加藤典洋『敗戦後論』講談社)。この「共同的な語り口」の点での保守派・革新派の構造的同一性は、池田浩士によっても指摘された(「終わらぬ夜としての戦後――加藤典洋『敗戦後論』の問題、『レヴィジオン[再審]第1輯』、社会評論社)。
 ここには、直接には加害責任(罪)のない戦後世代が、なぜ「戦争責任/戦後責任」を負うことになるのかという課題の困難さが表出している。宮台真司はブログで、西ドイツの大統領だったヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーの「1945年5月8日〜あれから四十年」と題した記念講演(「戦争を知らぬ世代」も戦争責任を負うべし)に言及しながら、行為(別様の選択可能性)が「罪=過去言及」を生み、関係(選択不能な所与の事実性)が「責任=未来言及」を生む、という論点を展開していた( http://www.miyadai.com/index.php?itemid=277 ★現在はアクセスできない)。
 「選択不能な所与の事実性」とは、アーレントの言う「自発的行動によっても解消しえない」という「集合的責任論」に近いようだが、この選択不能な関係とは「先験的選択」(大澤真幸)であり、宮台によれば「親-子」「国-国民」の関係だとされる。確かに、先験的に親を選んだりどこの国に生まれるかを選ぶことはできないが、事後的にその関係を解消することは原理的には可能。仲正昌樹は先の新書で、戦後世代に戦争責任があるのは親の遺産を相続する際に、負の遺産も一緒に相続しなければならないのと同じ理屈だと書いているが、不適切な比喩だと思う。なぜならば親の相続放棄は簡単にできることだからだ。
 しかし、所与の事実性(先験的選択)とその関係をすでに生きてしまっていることは、相続放棄するように原理的には解消できない。それは言い換えれば、所与の歴史性に如何に応答するか、如何に他者の声に耳を傾けるか、という課題(応答責任)でもあると思う。先の高橋哲哉の「恥じ入り続ける」という言い方の真意も、またその課題の表明だろう
 斎藤純一は次のように言う。「どのような自発的行動によっても解消しえない」のは、国家への帰属(citizenship)そのものではなく、被害者との間にあるこうした歴史的関係にほかならない。私たちを「日本人」と呼ぶとき他者が名指しているのは、私たちの生のこうした歴史的位相であり、いかに自らを「非-国民」として定義しようとも、そうした生の歴史的位相を消し去ることはできない。」
 しかし集合的責任と言えども限定的責任であることから、斎藤純一は国民国家の配慮から排除された人たちへの、さらなる責任として「普遍的責任」(アーレント)を問うている(4-5)。この「集合的責任」を開いていくものとしての「普遍的責任」はヤスパースの「形而上の罪」に対応するものではなく、あくまで政治的責任の位相に留まる故に有効な観点なのである。
 因みに、鶴見俊輔はヤスパースに準じて、法的責任、政治的責任、論理的責任、倫理的責任、宗教的責任に区別した上で、その危険性を踏まえた上で「宗教責任」について以下のように記している。
 「各個人が自分で選んだ大きな世界観のわくに応じて、自分の行為にたいして感じる責任である。B、C級戦犯の一人は、故郷にいる幼い子供に宛て、これからはどうか生きものを殺さないでくれ、とんぼをとってもすぐにはなしてくれと言っている。仏教のような宗教のワクの中で考えられた時、戦争をとおして自分のした一つ一つの行為が、山川草木にたいする責任意識につらなってくる。宗教的な意味での責任感は、愛情のおよぶ範囲とおなじだけのひろがりをもつ。母親は自分がしたこととまったく無関係に、子供が電車にひかれるとしても、やはり、その子供にたいして責任を感じるであろう。人類にたいする愛情をもつ人があれば、その人は世界戦争にまきこまれて一日を生きることにたいして宗教的責任を感じることになる。こうした責任の感じ方が実際にはわれわれの社会的な行動をおしすすめている。だが、この宗教的責任感に、法的責任意識、政治的責任意敦、論理的責任意識、倫理的責任意識を還元してしまうと、戦争に関するあらゆる問題をすべて宗教化して一億総ザソゲしてすましてしまうという、まったく責任とらずに終る方向をめざすこととなる。武井、吉本、私の議論にたいしても、これは一億総ザンゲのむしかえしだという批判もあったが、私たちは、宗教的なとらえかたをすることによって、倫理、論理、政治の問題をかくしてしまおうという目的をもたないという点で、敗戦直後の東久邇総理大臣の戦争責任論とはちがうことを目ざしている。」
 
■参考文献
ヤスパース『戦争の罪を問う』(平凡社ライブラリー)
アーレント『責任と判断論』(ちくま書房)
丸山真男の「戦争責任論の盲点」の要約 http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/maruyama.htm
菅孝行の『9.11以後 丸山真男をどう読むのか』(河合ブックレット33)
宮台真司の戦争責任論 http://www.miyadai.com/index.php?itemid=277
荒井信一『戦争責任論』(岩波現代文庫)
高橋哲哉『戦後責任論』(講談社学術文庫)
高橋哲哉の発言(『グローバリゼーションと戦争責任』岩波ブックレット)
加藤典洋『敗戦後論』(講談社)
加藤典洋『戦後的思考』(講談社)
池田浩士「終わらぬ夜としての戦後――加藤典洋『敗戦後論』の問題(『レヴィジオン[再審]第1輯』、社会評論社)
仲正昌樹『日本とドイツ 二つの戦後思想』(光文社新書)
荒井信一『戦争責任論』(岩波現代文庫)
家永三郎『戦争責任』(岩波現代文庫)
鶴見俊輔「戦争責任の問題」(『鶴見俊輔集9 方法としてのアナキズム』p168〜p172、筑摩書房)
鶴見俊輔の「カメラを引いて」(「群像」2000.4月号掲載)
竹内好「戦争責任について」(全文)(『日本とアジア』p230〜237、ちくま文庫)
菅孝行の『9.11以後 丸山真男をどう読むのか』(河合ブックレット33)
ベルサイユ条約における戦争責任条項
 
(初稿は2005年10月16日に行われた読書会用に作成したレジュメ、それに今回大幅に加筆修正したものです。)

★プロフィール★黒猫房主(くろねこ・ぼうしゅ)。1950年代生まれ。「Web評論「コーラ」の編集・発行人、「哲学系読誦会(仮)」世話人。これまでにも幾つかの読書会の世話人をしてきた。10代の頃は詩人か作家を志していたらしいが、今は昔のことなり。ブログ:シャ ノワール カフェ別館、Twitter:黒猫房主

Web評論誌「コーラ」47号(2022.08.15)
黒猫のノオト3:斎藤純一「政治的責任の二つの位相−集合的責任と普遍的責任」を読む(黒猫房主)
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