Web評論誌「コーラ」51/化学物質過敏症・香害パネル展/堺−京都−東京 巡回記 過敏症・香害を正しく知る委員会

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Web評論誌「コーラ」
51号(2023/12/15)

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化学物質過敏症・香害パネル展/堺−京都−東京 巡回記
 
「過敏症・香害を正しく知る委員会」
(ひとりと一匹のステッカー大作戦)
 
●化学物質過敏症から香害被害に〜パネル展による啓発活動へ
 前回のコーラへの寄稿「化学物質過敏症・香害に対する社会的認知の合意形成に資する活動の端緒として」から約半年が過ぎた。

不安虫
 いまから21年前に家のリフォームにより発症した化学物質過敏症から、あらたに香害被害に見舞われたことをきっかけに、昨秋より啓発活動をはじめた妻は「ファンチュウ(FAN-CYU=不安虫)」という相棒を得、私や子どもたちも半ば巻き込まれるように運動の渦に身を委ねることとなったのだが……。
 当初、活動はSNSをおもな舞台とし、妻が想作(創作に非ず)した虫のキャラクターが、さながら香害界隈を縦横無尽に駆け回るといった趣きのあるものであった。政治の世界であれば即アウトであろうステッカーのばらまき(実際にはDMで希望する人への無償配布)が功を奏したのか、もちろんごく限定的なものではあるが、それは徐々に小さな渦をまきおこしていった。
 あとから聞くと、妻にとっては予定の行動であったようなのだが、活動はすぐにつぎのステップとしてパネル展の開催にその歩を進めた。
 
 
 
●困難が予想された会場探しだったが……(「堺市総合福祉会館」2023年5月1日〜5月31日)
 公共機関での展示場所の提供はまず望めないだろうという展望のもとはじめた活動で、まさかの堺市総合福祉会館でのしかも一カ月にわたるパネル展示があっさりと決まってしまった。
 これは妻が飛び込みで入った社協を口説き落としたものだったが、昨秋からはじめたステッカー活動や地域のボランティアフェスティバルでのパネル掲示の実績のみで押し切って帰ってきた。しかるべき活動母体も持たぬまま、個人格どころか構成人数を尋ねられたとき「一人と一匹です」と衒いなく宣う妻に、女性担当者がどのような反応を示したかは想像に難くない。そのうち体よく断られると思いきや、なんどかのやり取りはあったものの、以外にあっさりパネル展示の約束を取り付けて帰ってきたものだから正直びっくりした。
 ここからパネル作成にはじまり、ポスター制作やSNSを通じての宣伝活動、打合せその他、息つく間もない忙しい日々が始まった。
 
●化学物質過敏症・香害の構造と問題点
 日々、この病気についての情報収集に余念のない妻とくらべ私のほうはというと、実際のパネル作成にあたっては苦戦を強いられた。パネル展開催にさいし、化学物質過敏症から勉強し直していく過程で、あらたに加わった香害問題が複雑に絡み合う構造を前にして、うまくまとめる自信がしだいに萎えていった。
 化学物質過敏症は、おもにその症状の多岐に亘るという性質から原因が絞りにくく、医学的なアプローチがきわめて困難な病気といえる。そして柔軟剤の登場、わけてもそれがマイクロカプセルという「徐放技術」により、ところかまわず汚染を拡大させる香害問題に発展するのと軌を一にして、患者をとりまく状況もきわめて過酷なものとなった。
 そもそも、化学物質の暴露をその主要因として発症するこの病気は、文字通りあらゆる化学物質の影響を受けて罹患する可能性が云々されている。合成化学物質が地球上に登場してから約百年といわれている。爾来、さまざまな分野で活用されてきた化学物質が、人類におよぼした影響は計り知れない。とくにこの数十年、農薬や食品添加物その他、その種類の多さに比例するように化学物質過敏症をはじめとした様ざまな疾病をもたらすことになった。
 そういった意味で我々が享受してきた環境こそが、この病気の主原因であるという言いかたが妥当かもしれない。とくに、マイクロカプセルの登場により、二つの大きな問題が持ち上がったといえる。
 ひとつは、香料成分などただでさえ身体に害のある成分をマイクロカプセルに包含する徐放技術を取り入れたせいで、それらが水中に流れ出、空気中に蔓延するという事態を惹き起こした。このため、化学物質過敏症・香害問題自体が地球上すべてに敷衍した。もはや取り扱われるレベルが地球規模になったということだ。
 そしていまひとつの大きな問題は、生活者としての患者が置かれている社会的立場の脆弱性の問題である。それは、汚染の元凶である洗濯用洗剤、柔軟剤、除菌・消臭・抗菌剤などそのいずれもがどの家庭でも使われる「日用品」であることからもたらされる。
 とくに合成洗剤、柔軟剤は日常生活のルーティンワークである「洗濯」にかかわるため、ほぼすべての家庭が使用しているという点があげられる。しかも、これらの商品のテレビ、新聞その他あらゆる広告媒体への露出も手伝い、遍く日本中を覆いつくしたため、過敏症・香害患者の逃げ場がほとんどといっていいくらいなくなっているという点に注目したい。
 こういった日用品の使用はとなり近所、自治体等の地域コミュニティーでの社会の分断といった問題をも惹き起こす。もちろんこのような法規制の網のかかっていない商品を購入し、使う消費者にはすくなくとも法律上の瑕疵はなく、たとえそれが個々人の心情に訴えたところで共感をよばないどころか、反感あるいは憎悪の念を以て対応されることのほうがむしろ多いと感じられる。
 畢竟、香害被害者は孤立せざるを得ない。被害者が給与所得者であれば職場を、学生であれば学校を早晩追われることとなるのである。そうならないまでも、それぞれの場所での過酷なその立ち位置は容易に想像できるというものだ。
 なんとかこういった考察に辿り着き、化学物質過敏症の発生の機序、その症状から患者の日常、他国の対応との比較なども織り交ぜ、パネルを作成していった。
 
●大量のパネルの作成〜パネル展の全容が見えてきた
 こうして過敏症・香害のメインパートに費やしたパネルは50枚超。説明的な文章の多いものは、妻と話し合った内容を私がパソコンで作成した。妻のほうは日々、書籍やネット、SNSなどで勉強した知識やトピックスをもとに、様ざまなキャラクターを登場させ、ファンチュウのコメントも織り交ぜる手法で、ポップに仕上げた手書き原稿を作成した。
 元々、絵心のなかった妻がとつぜん執った絵筆(ボールペンや色鉛筆)で書いた手書きの原稿は、写真画像としてSNSにアップされ、スキャニングされPDFに変換し、あらたなパネルとして日々増産されていった。それに平行して私のパートも追加作成を繰り返し、会期中にもかかわらずどんどんパネルが増えていった。これはパネル展が全国展開の緒についたいまも現在進行形で続いている。彼女は毎日毎日、眩しいと言ってはサングラスをかけ、クサイといってはマスクをつけたままの格好でテーブルに向かい、まっさらなコピー用紙にペンを走らせている。
 その人を喰ったようなキャラクターの数かずは、過敏症患者、香害被害の仲間、一般のフォロワーの別にかかわらず評判を呼んだ。たとえば洗剤成分が眼の粘膜を刺激することを題材にした「ピントがあわないひとみさん」は、
ゲゲゲの鬼太郎の目玉おやじよろしく眼球が頭になっている「ひとみさん」が、その目玉を充血させて、バレエの衣装で踊っているというものである。この手書き原稿はパネル展での反応も上々。登場キャラクターの個性と関西弁で批判を煙に巻き「カワイイ」と言わしめる。斜に構えて他人との独特の距離感の測りかたが沁み込んでいる京都人である私には到底できない芸当を彼女は生まれながらに身につけているようだ。
 そういった本編ともいうべきパネル群を物量作戦で展示するという作戦のほか、これも妻の発案で、全国に散らばる患者たちの生の声を届けてもらおうと急遽、私書箱を開設しSNSで手紙の募集をおこなった。これは効果絶大で、会期のはじまる時点で約50通もの生手紙が届けられることとなった。
 展示会場で、ファンチュウをあしらった大きなタペストリーの両脇に配した模造紙に各90枚ずつ貼りつけた2種の啓蒙ステッカーを会場で自由にとってもらって、空いたスペースにメッセージを書いてもらう参加型のパネル展にしたこと(これも妻のプラン)と合わせて、臨場感あるパネル展示の完成とあいなった。
 
●かつてない人出に湧いた一カ月間
 こうして始まった「(化学物質)過敏症・香害・SDGs──その現状と未来を見据えた参加型パネル展示──」は、これまでにない人出であったと社協関係者に言わしめるほどじつに多くの来場者を集めることとなった。
 妻は体調のこともあり、毎日の訪館は無理であったが、偶に出向いてみるとかならず長時間パネルを見て回る人を見つけることができた。喰いつかんばかりにパネルを睨め回している人もいた。ある人は、午前中に2時間、昼食をはさんで午後からも同じくらいの時間をかけて見るという。聞くとこんな人が何人もいて、最長5時間という滞在時間を誇った人もいたようだ。そうしてこんな人たちに、邪魔をしないよう頃合いを見計らって声を掛けると、十中八九過敏症患者だったりした。
 こうして妻は、同じ境遇の同志と邂逅を果たすことになる。ふたりは一時病いのことを忘れ、長時間における情報交換、ためこんでいた胸の内を明かすのであった。彼女たちの長い会話を感慨深く見守っていると、妻もふくめ、あらためてこの病気であらゆる場所がNGになった人はその瞬間から「人と会うことや集うことを禁じられた人」となってしまったワケで、つくづくこの病気の理不尽さを思い返すのであった。
 来場者はいくつかに分かれているようで、患者や患者の知り合いもしくは家族、一般来館者、会館従事者、政治家、マスコミ関係者などである。
 そのそれぞれがそれぞれの思いを抱いて展示を観覧する。そのうちの一人は、日用品の大手メーカーの工場がある地方で暮らしているが、近所の住人がその工場に勤務していて、ひどい肌あれなどの症状を訴えていたと言っていた。ほかにも来場した多くの人からは、自身が電車やエレベーターでのニオイを不快に思ったり、体調不良を訴える家族や知人の話が出てきた。潜在的な過敏症患者や香害被害者やその予備軍がいることを、肉声で聞くことができた。政治家の来場に立ち会えた時には、香害問題に強い興味を持つ政治家、議員らがすこしずつではあるが増えてきたことを実感した。じっさいに、議員の何名かについては、さっそく議会での質問に結びつけてくれた例も。またこのパネル展は、新聞記事、テレビでも紹介されている。
 
●様ざまな人の生の想いが行き交うスクランブル地帯
 ところでこのパネル展示のブースは、7階建のビルの1階入り口を入ってすぐの正面に位置する。左手にエレベーターと階段があり、右手には社会福祉協議会が入っている。正面の展示スペースの右わきを通り抜けると廊下に出て、トイレと会館の事務室がある。
 展示スペースは奥の壁を底としたコの字になっていて、来館者はパネル展を見る見ないにかかわらず、展示スペースの手前から放射線状に各目的地に散らばって行くことになる。いわばパネル展を結節点としたスクランブル地帯と言え、ここに行かない日も、色んな想いを持った人が行き交うさまを思い浮かべたりもしていた。
 ここにふたつの挿話がある。さきほど挙げた患者や政治家、マスコミ関係者ではない人たちの話である。
 ここの清掃に入っている年配の男性が、最終日に妻のところにやって来て「勉強になったわあ。ありがとう」と言ったそうだ。それまでは、清掃がはじまるたびに清掃用の薬剤の臭いで具合が悪くなったと言っていた妻がその日ばかりは嬉しそうに話していたのが印象的だった。
 また、展示スペースの向かって左、コの字の側面を背にする場所に会館の案内ブースがあり、受付の女性が座っている。この女性とは、展示が始まってすぐに打ち解け、行くたびに色いろな話をしていたのだが、会期が進むにつれパネルでずいぶんと知識を得たようで、ときにはブースの来場者にレクチャーしてくれていたようである。
 それからは行くと「きょうはどこどこの誰が来てた」「誰かが長いこと見てはった」と報告してくれるようになり、終いにはさながら我々の秘書よろしく、来場者にことづかった荷物の中継役もかってでてくれたりもしてくれた。
 このいかにも人好きのする受付嬢については、我々にさいごまで好意的に接してくれた。
 妻は、会期最終日には非番だと聞いていた彼女の机に、ファンチュウの口調で「ありがちゅ」と書いたメモを置いて帰った。するとその女性から私宛にショートメッセージが。メールを開けた瞬間、胸を伝ってくるある感情が自分のなかから湧き上がってきた。はたしてそこには、再会を期すことばとともに「負けなさんな」のひと言。妻に伝えると、掃除機をかけながらわんわんと声をあげて泣いた。
 以上が、前回告知した堺会場でのパネル展示の顛末である。
 
●鴨川の東、東山の西側(「京都市下京いきいき市民活動センター」2023年9月11日〜10月5日)
 堺でのパネル展示以降、各地での展示を希望する声が寄せられたが、次に大規模開催となったのは京都市。下京区は京都駅の東、鴨川と東山のあいだに位置する崇仁地区に「下京いきいき市民活動センター」はある。
 ここは、今年の10月にそれまで京都市西京区の沓掛にあった京都市立芸術大学が移転してきた先にあたり、同じく移転してきた京都市立美術工芸高校とともにセンターを取り囲むような立地となっている。日本の同和教育の先駆ともなった崇仁小学校跡地をその一部として建てられた芸大には、被差別部落の住民により設立された日本唯一の銀行である「柳原銀行」の記念資料館がその入り口付近にいまもひっそりと建っている。
 私の実家があったのが、ここから少し北西に行った街中である。小学生のころは、私の家からほど近い高瀬川沿いの遊郭や暴力団事務所がある五条楽園を入口とした南側には行くなと親や周りの大人からは言われていた。京都は東山、北山、西山と三方を山に囲まれている。家から歩いて行ける鴨川にかかる五条や四条の大橋から北山のほうを望むと、四季折々に澄み渡った景色が目に入る。また同じ五条や七条の大橋から南を見やると山はないが、今の鴨川とくらべ汚かった鴨川では1970年代くらいまで行われていた友禅流しが目に入った。小学校のころに見た祇園の往来とともに四条大橋から目に入る北山を望む景色と、友禅流しとともに七条大橋から南に広がる風景をいまでも思い出すのだが、子ども心に鴨川の五条大橋あたりを境に、南と北、身体の向きを変えるだけでちがって見える京都の裏と表を強く意識していたように思う。長じてからもたびたびこのあたりにも足を運び、柳原銀行記念資料館にも訪れ、ここに全国水平社宣言の宣言文が銀行に保存されていることも知った。
 そんな奇縁ある地に建つセンターでパネル展を開催できることに懐かしさを覚え、初日に設営のためセンターを訪れた。打合せで2度ばかり来たが、そんなに新しくはないけれど1階2階とも窓が広く開放感がある建物である。妻が荷ほどきをしていると、常連らしい近所の老人がやってきて、迷惑そうな表情をうかべると小さく「じゃまやな。すわれへん。」と嫌味を言われたので妻が「おっちゃん、ごめんやで。すぐ片づけるから。」と応対すると、座ってペットボトルのお茶を口にはこぶ。すこし慣れたか、妻の問いかけにすこしだけ応えて最後は「じゃましてごめんやで」と出ていった。かと思えば2階では「忘れ物新聞」を発行している芸大出身者が「あつめやさん」の屋台で、近所のこどもたちと一緒に屋台になにやら(あつめたものの?)絵を、談笑しながら描いている。
 設営をひととおり終えると、何人かちらほらと来館者が訪れはじめる。ほどなく明るい感じの堂々とした体躯の女性が入ってきた。どちらから声を掛けたのか、はたまた妻が話しかけたのか、ひとときその女性との会話を楽しむこととなった。自己紹介されたのは崇仁発信実行委員会の事務局代表とのこと。そういえばさっき館内で偶たま手にした「崇仁──ひと・まち・れきし──」という冊子を発行しているのだそう。そこでこの地域のこと、私の住んでいた学区との関り、崇仁小学校、柳原銀行のことなどあらためて話を聞かせてもらった。そうこうしているうちにここのセンター長も降りてきて、その女性と親しく話を始めた。この女性もセンター長も、いつも出入りの人とフランクに会話を楽しんでいる姿をなんどか目にした。
 明治以降、発展する都市の裏側で取り残されながら、自助努力で長らえてきた地域のコミュニティが、こんなところに残っている、そう感じさせるにじゅうぶんな会期初日のできごとであった。
 また別の日には、下校後の小学生たちが三々五々集まってきた。みんな1階のソファでしばらくぶらぶらしてから、みな2階に上がっていった。「あつめやさん」に行くのだろう。その日は朝から曇り空で、館内も薄暗かった。入口にあるスイッチのまえで、どこを点ければ、と悩んでいると、その時入ってきた小柄でぽっちゃりした男の子が……。すこし大人しい印象があったので、なにも言わずにスイッチを探していると、すれ違いざまに「ここです」と言ってフロアの電気を点けてくれた。その子は徒歩の速度を変えずにそのまま階段を上がって行った。
 ここではたと思い当たった。最初に懐かしさを感じたのはこのことだったかと。生まれ育った地域には、その町ならではの手触りがありぬくもりがある。匂いがある。今回のパネル展でも取り上げたひとつに「匂いを感じるメカニズム」がある。匂いを感じる嗅覚受容体が匂いをキャッチするのだが、そのうちの海馬は人の記憶の部分をつかさどっていて、たとえばひさしぶりに行った実家のニオイで子どものころの記憶が蘇ったりするといったようなことである。今回もある匂いが、私のそういった情動を刺激したのかもしれないなどと、来館者と話に興じる妻の横で独りごちていた。
 
●「生きてるみたいに生きたい」
 さて今回も、堺のときと同じく会期中はたくさんの来場者がここを訪れた。ステッカーもたくさんなくなり、その分たくさんのメッセージを託された気がした。ここでも今回のパネル展の紹介記事が新聞紙面を飾り、何人かの議員が来場後、議会で一般質問の場に立った。これで香害ストップのためのひとつの布石を打てたようで、その結果に安堵しているところである。
 元々我々過敏症患者・香害被害者の本懐は香害を止めさせることである。そのためパネル展を通じてマスコミや政治家を動かして規制をかけること。そう思えば多くの政治家やマスコミが来場し、記事化、放送、議会で取り上げられることはもちろん大きな前進である。しかし、あらためて長期にわたるパネル展をつうじて最も私の心を動かされたのは、来場した人たち、わけても被害の当事者たちの生きている証しや彼ら彼女らの胸で脈打つ鼓動といったものであった。
 ステッカーを取ったあとにできる模造紙の小さなスペースに、メッセージを書いてもらうようにしているが、そこには様ざまな思いが詰まっている。その中でも我々夫婦がともにいちばん印象に残っているのが「生きてるみたいに生きたい」というメッセージである。
 大抵、いま生きている人は「生きている」ことを自明のこととして暮らしている。しかしこのメッセージの主は、まちがいなくいま生きていて心臓も止まっていない自分を「死んでる」ものと規定している。香害のせいで、みんなのように息を深く吸うこともできない、外も歩けない、学校や仕事にも行けない。ふつうに息を吸えないのなら死んでるも同然だ、と。過敏症患者や香害被害者には、こういった諦念とともに日々を過ごしている人が多いと思われる。そして私は、過去数世紀にわたってこの地に住まう人たちが連綿と受け継いでいる心性に沁み込んでいる悲しみとたくましさを思う。この地域が自分たちの暮らしを、仕事を、知恵を、文化を、精神を綿々と紡いでいることをあらためて今回の訪問で、そこに集う人たちや、その匂い、醸し出す空気とともに知ることができた。そう思うと私たちは、過敏症や香害被害者のやり場のない怒りや悲しみを受け止め、その思いを昇華させるためのわずかばかりの勇気を与えられるそんなパネル展でありたいと思えたパネル展でもあった。
 
●いまある日常を大切にする
 妻にしても、会場で出会った当事者たちも、またこのメッセージの主にしても、おそらくその日常は手かせ足かせで制限だらけの毎日であろう。おそらくあたらしい柔軟剤が発売されるたびに暗澹たる気持ちになっているにちがいない。しかし、妻は毎日「クサい」「しんどい」を繰り返しつつ、きょうも食卓のテーブルでペンを走らせている。私と小さな喧嘩をくりかえし、その絵をからかいながら笑いあう。季節の野菜や魚や米を、旬を感じながら料理しおいしくいただく。自然に触れ、季節を感じ、倹しいながら日々を愛おしみ過ごす。いかな障害があろうと人は笑う。けんかして、そして食べ、寝る。
 会場に来れなかった当事者たちは、今日もSNSでつぶやいている。そこには、行けなかったけれども、逐一私の妻によって報告される臨場感あふれる会場の雰囲気にたいする感謝の声、あらたなパネル展を希望する声。そこにはふだんないないづくしの生活で心身ともに疲弊し、不平不満をスマホでつぶやいている姿ではない、べつの面相を思い浮かべることができる。
 最初は社会運動として企図されたパネル展の全国巡回であったが、これを開催したさいのある種の高揚感を味わう、たとえば祭りのようなものとしてのパネル展をリレーしたいと思うようになってきた。そんなことを2回目の大規模パネル展で考えた。
 付記)京都開催で多くの案内の手紙を、府市議会をはじめとして手弁当で送ってくれたかたには、会期中の会場の画像とコメントも送ってもらった。そのご苦労にたいし感謝したい。
 
●多摩モノレールの奇跡(「中央大学多摩キャンパス」2023年9月21日〜10月31日)
 堺や京都での展示やマスコミで取り上げられたことも手伝って、パネル展をわが地域で、という要望が妻のSNSのダイレクトメッセージによく入ってくるようになった。そんななか東京の中央大学の榎本泰子教授から「今、そこにある公害」という、プロジェクト科目(担当:清水善人准教授)の一環で香害のことも取り上げる予定で、授業のコラボ企画でパネル展を多摩キャンパスに持ってきたいという申し出があった。
 公害は過去のものでなく現在進行形の公害であるとして香害を位置づけた視点に、我々のパネル展を組み合わせるというアイデアが斬新だと思った。この連絡が来た時には、大学が正式な授業として香害をピックアップした英断におもわず妻と快哉を叫んだものである。しかも香害研究といえばややもすると医科学的なアプローチが目につくが、今回は、文学、社会学など学問分野の垣根を超えた学際的な取り組みとなっている。
 今回は、公開講座ではなくあくまで学生向けの授業の一環ということで、受講はかなわないものの、授業内容のうちからたとえば東洋大学経済学部の川瀬晃弘教授の講座「publicとは何か」に興味を持った。人間は一日のうちにたくさんの選択をするがそれには、自己完結する「私的な選択(private choice)」と人に利害得失を発生させる「公的な選択(public choice)」がある。洗濯時に香料入りの洗剤や柔軟剤を使う人がいる一方、香料で体調不良を訴える人が増えている「香害」が社会問題として出てきたが、我々もじゅうぶんに周知しているように問題解決には至っていない。では我々個人個人が公的な選択を意識して、自己の自由に制約を掛けていかなければならない。そのばあい(たとえば使った人を)法律で取り締まるのか、市場に働きかけるのか、道徳教育や説得による「規範」に訴えるのか、社会の設計自体を変える「アーキテクチャ」つまり制限をかけるのか。そこで川瀬教授は、パブリックといっても、政府だのみではなく、我々が「より良い社会とは何か」を考えることの重要性を説いている。「できることからコツコツと」というワケだ。(参考:東洋大学入試サイト「動画で見るWeb体験授業」より)
 ともあれ、一も二もなく開催を願い出た。今回ばかりは私たちも週に一度どころか、現地に出向かずに行った人たちの日々の報告や榎本教授からの連絡を待つしかない。先生には、本当になにからなにまでお世話になった。清水先生ともども感謝したい。
 この原稿を書いている時点で、会期も最終盤にさしかかり、そうなるとSNSでも俄然熱がこもってくる。「あと何日、お急ぎください」的なツィートから、「最終日は何時までやってるのか?」から、詳細なレポートまで上げると枚挙にいとまがないくらいである。
 その熱の入りようはじつは開催まえからあり、さながら遠足を心待ちにしている小学生のような風情で、「ゼッタイ行く」的なものからみずからの体調を気にするものまでこちらも様ざま。なかでも驚かされたのが、トイレの場所と芳香剤の有無を気にする声が多かったこと。じっさいに行った香害被害の当事者たちの声で多かったのが、多摩地域の空気の良さである。そして、そんな人たちのトレンドワードが「多摩モノレール」であった。過敏症患者・香害被害の当事者たちはとうぜん乗り物が苦手な人がほとんどである。そしてじっさいに行った人たちの複数から多摩モノレールにメールや電話で連絡がいったようだ。ふつう電鉄会社にはいる問い合わせのほとんどが車内のエアコンの温度だそうで、パネル展がはじまってからこっち、これほどニオイの問い合わせがくるとは一体どういうことなのかと思ってくれたかどうか、多摩モノレールの社員が数名、パネル展に出向いてくれたとの話がはいってきた。そのおかげか、その後多摩モノレールでは「政府(5省庁)の香害の啓発ポスター」が掲示されているようである。
 他会場の例にもれず、ここ中央大学多摩キャンパスのパネル展においても、多数の来場者とメッセージ、議員たちが訪れた。香害についての啓発活動も積極的におこなっている日本消費者連盟からも来場いただいたようだ。
 堺、京都と大規模開催を終え、ここ中央大学での開催も終幕を迎える。ここでもご多分にもれず様ざまなできごと、出会いがあったようだ。我々、そして過敏症患者・香害被害者たちにとっての大きな「目的」もありながらも、さながら祭りのような高揚感を一時主催者も来場者も体感してもらえればとあらためて思う。
 このパネル展示が無事終われば、つぎはおなじ東京都内に場所移しての開催が控えている。また京都で2度目の開催も決まり、大阪での開催実現に向け鋭意準備に余念がない。それ以外にも妻のDMには開催を希望する連絡がつぎつぎと入ってきている。
 このパネル展が本当に全国を隈なく巡回できた暁には、はたしてそこからどんな風景が見えるのだろうか。
 
 
ひとりと一匹のステッカー大作戦」の活動が分かるSNSは以下の通りです。
 

Web評論誌「コーラ」51号(2023.12.15)
寄稿:化学物質過敏症・香害パネル展/堺−京都−東京 巡回記(過敏症・香害を正しく知る委員会)
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