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本稿を書こうと思った契機は、「新貧乏物語」の捏造である。「子どもの貧困」をめぐる昨今の事象を振り返りながら、まとまりのない文章で恐縮ではあるが、考えたことを書き記したい。
捏造があった「新貧乏物語」は『中日新聞』による2016年の連載記事である。『中日新聞』の検証記事(1)によれば、以下のような捏造があった。
五月十七日付の名古屋本社版朝刊の連載一回目「10歳 パンを売り歩く」は、母親がパンの移動販売で生計を立てる家庭の話。写真は、仕事を手伝う少年の後ろ姿だったが、実際の販売現場ではない場所での撮影を、取材班の男性記者(29)がカメラマンに指示していた。少年が「『パンを買ってください』とお願いしながら、知らない人が住むマンションを訪ね歩く」のキャプション(説明)付きで掲載された。
撮影当日、少年がパンを訪問販売する場面の撮影は無理だと判明。少年に関係者宅の前に立ってもらい、記者自らが中から玄関ドアを開けたシーンをカメラマンに撮らせた。
また、五月十九日付朝刊の連載三回目「病父 絵の具800円重く」でも記者は、「貧しくて大変な状態だというエピソードが足りないと思い、想像して話をつくった」。
報道は正確でなければならないが、本稿で考察したいことはそういうことではない。
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2016年には、NHKがニュースで取り上げた「子どもの貧困」に対し、インターネット上で「貧困」ではないという反応があった。これは、すでに指摘されているように「絶対的貧困」と「相対的貧困」の違いが認識されていないことが一因である(2)。
言葉は難しいもので、「子どもの貧困」よりも「子どもの相対的貧困」の方が正確であるが、前者の方が訴求力は強い。それ故に「子どもの貧困」が語られるが、「絶対的貧困」と「相対的貧困」が混同されることになってしまう。「絶対的貧困」を社会保障によって解消することに異論は少ないだろうが、「相対的貧困」はどの程度までを社会保障の対象とするかは合意を得にくい。だから、前述の記者のように「子どもの貧困」を訴えるには「貧しくて大変な状態だというエピソードが足りない」ということになってしまう。
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今一生が紹介している「助けたいハラスメント」(3)という造語は、興味深いものであり、重要である。「助けたいハラスメント」は、「「僕が助けてあげる」と弱者に擦り寄り、求めてない支援を始めるNPOのありようを示す言葉」とのことである。
すべてのNPOが「助けたいハラスメント」ばかりしているわけでは決してないが、今が指摘するように、「一部の団体にはその活動における支援する側・支援される側の間のギャップを埋めないまま、ひとりよがりな活動を誇らしくメディアに伝えているところもある」。前述の捏造記事もまた「助けたいハラスメント」であると言えるだろう。検証記事によれば、捏造が発覚した後の記者の言動は以下の通りである。
写真の問題発覚直後にキャップから関係者に謝罪するよう指示された男性記者は、関係者に会う約束をとる電話で「いい記事をありがとう。写真は問題にしていない」旨を先方から伝えられたと報告した。実際には電話をかけていなかった。「約束したプライバシーが守られていない」と家族や支援者から抗議を受けた際も取材班に伝えず、対応が遅れる一因となった。
キャップは六月、読者からの支援品を持って少年の母親と面会し、謝罪。八月下旬には、連載三回目の少女の家族に支援品を送ろうとしたところ、「うその記事に対して贈られた物は受け取れない。説明した内容が貧困を強調するエピソードに改ざんされている」と抗議を受け、初めて原稿の捏造が分かった。
記者には功名心だけでなく、「助けたい」という気持ちもあったのだろうが、「助けたい」という気持ちがあれば、その方法が問われないわけではない。「絶対的貧困」ではない少女の家族が、読者からの支援品を受け取らなかった点も重要であると思われる。
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新聞は「タイガーマスク運動」など、美談が好きである。しかし、児童養護施設関係者からは「ランドセル、学用品、衣類、寝具はいりません。税金から新品を買います。本人の希望をもとに選びます。中古品は申し訳ありませんが規定で廃棄します」という反応があった(4)。これも現在の「貧困」とタイガーマスク時代の「貧困」が混同されていることが一因であろうし、現在は女子であれば赤いランドセルというわけではないことも理解されているかどうか怪しい(5)。ランドセルを使用しない小学校もあるだろう。
「タイガーマスク運動」は、「助けたいハラスメント」とまでは言えず、社会的養護に対する関心を高めた点はあるが、やはり「助けたい」側の枠組みでなされているという点は共通しているとも言える。子ども支援の現場では、子どもとのより丁寧な関わりのために職員の増員が最も必要とされていると思われるが、職員の増員は人件費の増加につながり、直接的効果が明瞭ではないから、子どもが喜びそうな一時的な行事や物品の寄付が好まれることになってしまう。注意しなければならないのは、喜んでもらえそうなものを「助けたい」側が提供したとしても現場から離れている以上、実際のニーズとずれてしまうことがあるということである。
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「こども食堂」も重要な実践であるとはいえ、問い直されなければならないものの一つである。「こども食堂」の名づけ親が「こども食堂は、こどもの食堂ではない」と指摘していることを湯浅誠は紹介している(6)。名づけ親である近藤博子(「気まぐれ八百屋だんだん」店主)の定義は、「こどもが一人でも安心して来られる無料または低額の食堂」である。湯浅が説明するように、「「こども」に貧困家庭という限定はついていない。「こどもだけ」とも言っていない。……子どものための、子ども専用食堂ではない」。この点については改めて後述する。
また、湯浅は「こども食堂」の概念の整理を試みて、「共生食堂」と「ケア付食堂」というサブカテゴリーを提示している(7)。「共生食堂」と「ケア付食堂」は、一方のメリットがもう一方のデメリットであると湯浅は説明しているが、筆者は双方のデメリットを併せ持ってしまう恐れもあるのではないかと懸念する。つまり湯浅の説明を反転させて述べるならば、地域の理解は得られず、出入りする特定の人たちにスティグマが付与され、迂闊に子どもを傷つける大人によるトラブルが生じる恐れである。
経験豊かなNPOの知人たちも「こども食堂」に関わっており、筆者もその重要性を理解しているつもりだが、急速に広がっているため、湯浅が危惧するように「こども食堂」が誤解される可能性もある。
「コミュニティ」は問題解決の特効薬のようにも語られることがあるが、「コミュニティ」そのものが不正と矛盾を抱え持つフィールドでもある。ボランティア経験における階層差を指摘する研究もある(8)。誰がどのような場で、どのような子どもに、どのように関わるか――慎重に検討されなければならない問題である。
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2016年は、長谷川豊が人工透析を受けている人たちを誹謗中傷し、植松聖が障害者施設入居者を殺害した年であった(9)。憲法において社会権が認められていても、無尽蔵に予算があるわけではないので、実際には行政府の裁量に委ねられる。基本的人権であっても、税を主な原資として分配がなされる以上、納税者と受給者のあいだに連帯がなければ、正当性の維持は難しい。そういう意味では、「常識」に欠ける人たちを指弾するだけでは不十分である。The Pew Global Attitudes Projectの国際調査によれば、「自力で生活できない人を政府が助けてあげる必要はない」と考える人が多くの国では10パーセント以下のなか、日本は38%で一位だそうである(10)。社会権という「常識」を共有し続ける術が探られなければならない。これは「子どもの貧困」についても同様である。
昨今、気がかりであるのは、人材育成としての教育投資が語られることが増えたことである。幼児教育への投資は、長期的に有効であり、社会的格差の是正に役立つと論じられる一方、現場からは「学校化」が進み、子どもと向き合う余裕を失いつつあるという声もある。「子どもの貧困」に対しては、学習支援が推奨されている。教育投資によって恩恵を被る人びとがいる前提で、あえて検討すべき点を二つ述べたい。
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一つは、予算支出の対象が選別されることである。財政赤字が膨らむなかで「金のかかる人たち」は排除されかねない一方、人口減少の時代において希少な子どもは重要な投資対象となる。
昨今の「一億総活躍」の源流には政府の「人間力戦略研究会」があると考えられる。人間力戦略研究会は、2002年に経済財政諮問会議が答申した「経済財政運営と構造改革に関する基本方針2002」が「人間力、技術力、経営力、産業発掘、地域力、グローバル化といった6つの重点課題に着目し、日本の強みを伸ばし、弱みを克服するための戦略を構築する」(11)としていることを受け、市川伸一(東京大学教育学部教授・教育心理学)を座長として同年に設置された。委員には大学教員のほか、リクルートワークス研究所長、トヨタ自動車グローバル人事部統括室長などの企業関係者が参加しており、「我が国経済を活性化し、かつ個々人の豊かな社会生活を実現するためには、人間力の強化が不可欠である」(12)と主張している。人間力戦略研究会報告書を読むと、その背景には脱大量生産、より厳しくなる国際的競争、日本の人口減少を前提とした人的資本への着目があることが伺える。つまり、国際的競争を勝ち抜いていくためには、希少な人的資本を最大限に活用しなければならないという認識である。
それ故に「こども食堂」が子どもだけのものなのかが問われなくてはならない。食生活に困っているのは子どもだけではない。「こども食堂」の名付け親の意図は、子どものためだけの食堂ではない。しかし、「子どもの貧困」に対する認識の広まりとともに、子どものための食堂の開設が相次いでいる。単に子どもはかわいい、大人の貧困は自己責任、面倒という素朴な認識が背景にあるのかもしれないが、それは人間力戦略と共鳴している。子どものための食堂は開設されているが、人工透析を受けている人たち、重度の障害がある人たちのための食堂が開設されたという話は聞いたことがない。
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検討すべきもう一つの点は、子どもが一方的な支援の客体となってしまう恐れである。
貧困家庭の子どもへの学習支援をしたいという学生グループと話す機会があったが、率直に言えば、釈然としない印象を受けた。偏差値の高い大学の学生が、講義で格差の再生産について学び、学習支援をしたいと言う。褒められることはあっても批判すべき点はないように思われ、批判的に言及することも躊躇われる。しかし、違和感はある。
偏差値エリートが、貧困家庭の子どもに勉強を教え、より偏差値の高い学校に導く。「底辺校」に行かざるを得なかった子が「マシ」な高校に行けるかもしれない。貧困の再生産防止につながるのかもしれない。だが、学習支援における教える―教えられる関係性はどのようなものとして生起するのだろうか。「助けたいハラスメント」は生じないのだろうか。学習支援は、貧困の再生産防止のためなのか、それとも子どものためなのか。
偏差値エリートが貧困家庭の子どもたちとの交流から学ぶ点があるのではという考え方もあるだろうが、筆者は慎重に考えるべきであると思う。なぜなら、これまでにもマイノリティはマジョリティのための鏡ではないという批判が痛烈になされてきたからである。昨今は権力関係を軽視して、交流から双方に学ぶことがあるという言説が流布しているが、もっとセンシティブであっても良いはずである。貧困家庭の子どもたちは偏差値エリートとは違う感性を持っているのではないだろうか、彼らの生活世界を自分たちは理解できるだろうか、という省察が見られない点も気になる。子どもたちを狭くて暗い世界から救い出してあげようという物語を聞くことが多い。
驚かされるのは、量的調査により貧困家庭の子どもの進学率が低いことが判明→ならば学習支援が効果的に違いない、という安直な発想が無批判に受け入れられていることである。地域によって異なるだろうが、少子化のいま、選ばなければ公立高校に比較的容易に進学できる地域もある。学業不振が高校中退の一因とされているから学習支援は重要という考え方もあるかもしれないが、本当に学習支援が最も必要とされているかどうかは再検討されるべきである。例えば、英語の基礎文法が分からなくても高校を中退せず、大学に進学するということもある。英語の基礎文法が分からないまま大学に進学することの是非は別として、勉強が苦手でも元気に学校に通っている子どもはどこにでもいるのではないだろうか。不登校・中退と学業不振に相関関係があったとしても、学力が不十分であるから不登校・中退になったのではなく、他の要因によって不登校・中退になり、結果として学業不振になっている可能性も大いにある。
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念のために明記しておくならば、こども食堂や学習支援はなくなるべき実践であると考えているわけではない。適切な形であれば、意義あるものとなる可能性はある。本稿の意図は、マイノリティについての語りが横溢するときに、その倫理を問うこともまた重要なのではないかということである。
前述の新聞記事の捏造は単に記者個人の倫理の問題ではなく、現在の私たちに共通する問題であると考える必要があるだろう。素直な子どもは、パンを売り歩く再現をしてくれるだろうし、食事を提供し、勉強を教えれば笑顔を見せるかもしれない。しかし、彼らが支援をどのように受け止め、後にどのように振り返るかは、また別の問題である。
★プロフィール★
Web評論誌「コーラ」30号(2016.12.15)
寄稿:マイノリティについて語る倫理──「子どもの貧困」を一例として(田中佑弥)
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