極右勢力の議席独占
昨年(2011年)12月に行われた衆議院総選挙の直前に私は、朝日新聞大阪府版に掲載されていた、ある奇妙なアンケート結果を見たのである。それは、大阪府選挙区の全候補者に対して行われたもので、もちろん他に「原発廃止」や「消費税増税」や「TPP参加」に対する賛否を問う項目もあったのではあるが、私の目に飛び込んできたのは、ロシア、中国、韓国、北朝鮮に対する「親しみ」を問う項目なのであった。そしてそこには、「ある」「どちらともいえない」「ない」という回答が用意されており、候補者ごとにその結果が○△×という記号で示されていたのである。実をいえば私は、「親しみ」という言葉に拒絶反応を示してしまい、熟読することもせず、また切り抜きもしなかったので、その詳細についての記憶は極めて曖昧なままなのである。つまり、もしかしたら対象に北朝鮮はなかったかもしれず(「親しみがない」のは当然のこととされているから)、代わりに「米国」があったかもしれないといったありさまなのであるが、しかしこのことは、私が思わず目を背けてしまった理由には何ら影響しないと思うのである。私は次のように思ったのであった。
(1)国会議員候補に「他国への親しみ」の度合いなど聞いて何の意味があるのだろうか。私たちが知りたいはずのものは、世界平和についての理念や思想であり、「親しみ」の「ある・なし」などによって外交方針が左右されることがあったとしたら、それはむしろ危険なことではないだろうか。
(2)またこれは、そもそも簡単に答えることができる類いの質問なのだろうか。たとえば「ロシアに親しみを持っていますか」と問われたとき、どう答えたらいいのか、私には見当もつかないのである。幸いに私自身は、サハリン(樺太)に10日ほど旅行したことがある。だから精一杯の回答として、その時のエピソードや印象などについて何かしら喋ることはできるだろう。けれどもそれを○△×などに集約できるとは到底思えないのである。では、行ったこともない場合はどうするのであろうか。ドストエフスキーやトルストイを思い浮かべるのであろうか。あるいは日露戦争のことを想起すべきなのであろうか。あるいは「北方領土」のことをまずは第一に念頭におくべきであるのだろうか。
(3)私が思うに、「そんなくだらない、また、簡単には答えることのできない、かつ、危険な質問はしないで下さい」というのが、最も正しい回答なのであるが、そのような回答は質問者によって「回答拒否」と分類されるかもしれず、有権者に悪印象を与える危険性が生じるのである。またたとえ穏当に措置されたとしても、「どちらともいえない」に分類されるのがおちであろう。しかし「質問への意見」と「どちらともいえない」は、次元が違うのである。しかもさらに悪いことには、「どちらともいえない」という回答自体が、「思慮深さ」の現れではなく、「優柔不断」と受け取られかねないと思われるのであった。
私はこのアンケートの「超絶的くだらなさ」の理由を考えようとし、徒労感に襲われるのであったが、とにかく少しは説明しないと先に進めないと考え、上記のようにそのとき感じたことを書いてみたのである。しかしこの先が難しいのであった。
(1)たとえばここでいう「ロシア」とは、先に思わず「他国への親しみ」と要約してしまったように、いったいに「国」のことなのであろうか。あるいは「ロシア人」のことなのであろうか。
(2)またそれが「国」である場合、それは政治体制を指しているのであろうか、あるいは歴史や文化のことを主に指しているのだろうか。
(3)また「親しみ」の対象が「ロシア人」つまり「人間」である場合、それは他人である場合もあり、知人・友人である場合もあるであろう。
しかし、たとえば「エカテリーナ2世が好き」「ニジンスキーが好き」「エリツィンが好き」だから「ロシアが好き」となった場合、これは歴史や文化や政治に関わることであるから、「人間」ではなく、「国に親しみを持つ」の一部を構成することになるはずである。そもそも「人間」とは、個人でもあり集団でもあるのであった。とすると「親しみ」を持つ対象を(1)のように「国」と「人間」に別けて考えたのが無理だったということに、つまり振り出しに戻ってしまうのである。
また「親しみ」を持つ相手がいて、それが知人・友人である場合にしても、たとえばその立場を反転させて、つまりロシア人であるAさんが「日本に親しみを持っている」場合で、その理由は「日本人の友人Bがいるから」であった場合を考えてみるに、その友人Bが、安倍・石原・橋下等の極右政治家支持者であった場合と、それら極右政治家に対して憎しみを持つ人物であった場合では、Aさんが「親しみを持つ」理由も大きく違ってくるのではないだろうか(つまり○という記号は何も教えてくれないのである)。
私は最近、『菜の花の沖』(司馬遼太郎)という本を読み、江戸時代の商人・高田屋嘉兵衛とロシア海軍軍人・リコルドとの、1812年から一年間にわたる交流と、二人の間に育まれた友情を信じるようになった者である。またリコルド自身が書いたという「(日本には)あらゆる意味で人間という崇高な名で呼ぶに適はしい人々(がいる)」という文章を、素直な気持ちで読みもしたのである。しかし、リコルドと高田屋嘉兵衛が、リコルドの軍友・ゴローニンを解放するために苦闘しなければならなかった相手は、江戸幕府という「国」だったのである。リコルドははたして、「日本に親しみがある」に○などという記号をつけたであろうか。たとえつけたにしても、言いしれぬ不足感にさいなまれるのではないだろうか。
それに私は思うのであった。私はいま「日本人」とか「ロシア人」とか書いてきたが、その意味をあまり深くは考えずに使っているのである。一般的にはそれは、それぞれの国籍保持者のことを意味してはいるだろう。しかし国籍は人々をグループ化する唯一の方法ではなく、「アラブ人」や「クルド人」という言い方もなされるのであった。だからたとえば私がサハリンで会話を交わした人々を「ロシア人」と呼ぶとしても、それが大雑把すぎることは確かなのである。
旅行から帰って読んだ、稲継靖之という人の大学卒業論文『サハリン朝鮮人棄民問題について』によれば、サハリンには多くの朝鮮人たちが、以下のような歴史を経て在住しているのであった。ここでいう「朝鮮人」とは、1910年の日本国による韓国併合によって「日本人」にさせられた人々おびその子孫という意味であろう。
(1)1938年4月 日本国「国家総動員法」制定。
(2)1939年7月 「朝鮮人労務者」の移入開始。
(3)1944年9月 「国民徴用令」の朝鮮への適用開始。
(4)大蔵省の資料によれば、1939年から1943年6月までの、南サハ
リンへの朝鮮人動員人数は、1万6,113人(その約3分の2が炭鉱
労働)。
(5)日本降伏時の南サハリンの人口は40万人強。その内、朝鮮人は
2万5,300人から4万3,000人(戦後に北朝鮮から来た労務者がい
るため、正確な数は不明)。
(6)1946年12月の「米ソ協定」により、「日本人捕虜」と「一般日
本人」の引き揚げが始まるが(1949年7月終了)、この「日本人」
から朝鮮人は除外される(「朝鮮人の日本国籍喪失」が規定される
のは「サンフランシスコ平和(講和)条約」発効時の1952年であ
るにもかかわらず)。
〈加藤注:ただし1947年5月の「外国人登録令」は、「朝鮮人
は、当分の間これを外国人とみなす」などとしている〉
(7)2000年、韓国に永住帰国者用アパートが完成し、900人が入居
(「1945年以前生まれ」「2人1組での帰国、入居」の条件があ
る)。
「朝鮮人か」と声をかけてきたアイスクリーム売りの中年女性、着替え用のブルゾンを買った屋台の親子、屋外レストランで働いていたウェイトレス、英語が得意だった本屋の中学生、公園で鳩に餌をやりながら、「アイゴー」「アイゴー」と何度も言いあっていた老婦人たち。彼ら彼女らの中には、動員され「棄民」された朝鮮人労務者の家族や子孫がいたはずなのである。
私は、2010年7月から8月にかけて旅行した北海道とサハリンについて「旅行記」を書こうと思い立ったものの、あきらめていたのであった。そもそも私はただの観光旅行者であり、ガイドブックにすでに書いてあることを切り貼りし、ちょっとした発見や感想を付け加えることしかできない。そんなものに価値があるとは思えないのであった。その上、記録はおろか日記も書かない怠惰がたたって、発見や感想を付け加えるにしても記憶に頼るしかなく、またその記憶もすでに曖昧なものになっているのであった。それがいま、こうしてなんとか書き始めているのは先の新聞記事がきっかけであり、むしろ勇気を与えてくれたのである。
私はこんな「てきとー」なアンケートがあっていいのだろうか、と思った。そして、同じ時期に近所の食堂で拾い読みした産経新聞の選挙関連論説のことが思い浮かんだ。そこでは、こう主張されていたのである。つまり、今回の衆議院選挙の争点は、原発でも消費税でもTPPでもなく、尖閣問題であるというのである。もちろん、極右候補への投票を呼びかけているのであろう。朝日新聞はそのような主張はしていなかった。しかしこのアンケートの「てきとー」さは、何というか、国民のなかにある「好戦的気分」におもねるかのようであり、護憲・平和勢力には不利に働いていると直感されたのであった。そして実際に、「国防軍」「現憲法無効」「憲法改正」「統治機構を変える」「独裁」などを叫ぶ勢力が圧勝したのである。私は、「てきとー」かつ「反戦的気分」の旅行記なら書けるような気がした。いわば「親しみがある」に全部二重丸をつけ、理由は単に「行ったことがあるから(北朝鮮はないけれど)」という乱暴な振る舞いをしたいのである。
稚内から書いた友人への手紙
森進一(吉田拓郎)に「何もない」と歌われて、地元の人が腹を立てたと聞いた襟裳岬には立派な施設が建っていて、先入観を打ち砕かれたのだけれど、もっと迂闊だったのは、日本一の旅行のプロ(現役)がすでにこの地を訪れていたことであって、ここも自分の縄張りだとでもいうかのように、自作の短歌を貼り付けているのであった。あまりにばかばかしいもので思わず顔を背けてしまい、記録をとらなかったのが悔やまれる。
というのはいま稚内にいて、観光バスで訪れた高台の公園で、旅行のプロ中のプロ(先代)が「九人の乙女」に対して詠んだという歌碑を見たからなのであった(「九人の乙女」たちはソ連による樺太侵攻時に、通信業務を全うした後に自決したという)。いわく「樺太に命をすてしたをやめの心を思えばむねせまりくる」であり、さらにその碑の隣には直径50センチほどの茶色い球体が設置されており、なんとこれはこの作者の涙を表しているというのだ。
Yさん、あれだねえ。観光バスというのは臣民教育機関の一つだよね。たとえばもう一つ、根室の東、納沙布岬は「北方領土返還運動」の最先端でもあるのだけれど、「1789年」のことだとガイドされた「クナシリ・メナシの戦い」で、アイヌたちが処刑された海岸を通って向かった先は金毘羅神社。そしてこれは(根室の町を発展させた)高田屋嘉兵衛によって「文化3年」に建立されたと説明されるのだ。
「それは西暦でいうと何年ですか」と質問したのだが、すぐには答えてもらえなかった。答えは「1806年」。こうして歴史はぶつ切りにされる(それとこれ、その当時のアイヌは「まだ日本人ではない」から、西暦なのだろう)。
先の茶色いボールの話をうら若いガイドさんから聞いたとき、思わず変な声が出てしまったから、他の観光客から不審の目で見られたかもしれん。「一人旅のさびしさ」の思い出の一つにしときます。
さっきまで「稚内みなと南極祭り」のただ中にいた。稚内になぜ南極か。探検隊の犬つながりということだったが、内容は忘れた。会津の白虎隊踊りも見た。北方警備に会津藩が動員されていたとのこと。約20チーム1000人参加の「てっぺん踊り」コンテストは見応えがあったし、畠山みどりという70歳を過ぎているはずの歌手が、その1000人のために『南極踊り』という自身の歌を、たぶん8回連続で歌ったのには、感動した。そして……、先のコンテストの結果発表が最後にあって、優勝チームは、航空自衛隊であった。
私が襟裳岬の「風の館」で見た、旅行のプロ(現役)の歌は、次のようなものだったのである。
「吹きすさぶ海風に耐えし黒松を永年(ながとし)かけて人ら育てぬ」(明仁2006年)
そして宮内庁の解説によれば、「両陛下には、襟裳岬の緑化事業について、平成5年の朝日森林文化賞受賞者とのお話しを契機に、ご関心を寄せてこられたが、この9月、北海道行幸啓の機会にこの地をご訪問になり、緑化事業従事者からその労苦をお聞きになっておられる」とのことである。
私が調べたところによれば、この緑化事業というのは1953年から取り組まれてきたもので、その当時すでに襟裳岬は砂漠化していたのだという。明治維新以降の入植者による森林伐採がその原因であり、強風が土砂を吹き荒らし、海産物を全滅させていたのである。
そしてまた私は、宮内庁解説文にある「行幸啓(ぎょうこうけい)」という聞き慣れない言葉についても、あらためて調べてみたのであった。私は、これは「プロのする旅行」のことだと単純に解釈していたのであったが、広辞苑によれば、正しくは「行幸啓」=「行幸と行啓」であり、「行幸」=「天皇が外出すること」、「行啓」=「太皇太后・皇太后・皇后・皇太子・皇太子妃などが外出すること」だそうであり、「行幸啓」というのは「プロの家族旅行」のことである。
歌人・穂村弘の『短歌の友人』によれば、歌人は、他ジャンルの人の短歌の「読み」には、ある感覚の欠如を感じるものなのだという。そしてその感覚とは、「歌というものは基本的にひとつのものがかたちを変えているだけ」という感覚であり、その「ひとつのもの」とは、「われ」の「生のかけがえのなさ」であるのだという。私は『短歌の友人』を楽しく読んだし、とくにこの部分は、よくぞ教えてくれたと思い、強く印象に残っているのであった。その上で、先の歌はどうであろうか。
またある畏友は、『この歌は、「吹き荒れる海風に耐える黒松を、長年かけて人々は育てたんだなあ〜」ということを歌っている』のだと教示してくれたのであったが、さすがである。私も「そういうこと」を歌っているとしか思えないのではあったし、この「ばかばかしさ」は、穂村弘が言うところの「ひとは「事実」を詠うことに関しては無責任でいられる」という事態に対応してもいるのであろう。しかし乱暴な私は、最初の感想である「あまりにばかばかしい」に、「腹が立つ」を付け加えなければならないのである。
そもそも、「植樹祭」だとか「海のなんたら」だとかいって、天皇が各地に旅行し、天皇と自然保護を結びつけるイメージ操作が「永年かけて」行われているが(天皇の国=自然の国に原発はいらない、という反原発派がいるのである)、たとえば植樹祭というのは、周りの樹木を切りまくって広場や道路を作り、その上で天皇が1本の苗木を植えるという茶番なのである。
それにしても、とりわけかんに障るのは「人ら」という単語ではないだろうか。「われ」の「かけがえのなさ」どころか、人民はひとつの集合として扱われているのである。「他ジャンル」の人にわかりやすく書き換えるなら「人ら」=「汝ら国民」となるであろう。しかし私は思うのである。「人ら」は、宮内庁解説文中に連ねられている「には」「お話し」「ご関心を寄せてこられ」「ご訪問」「お聞きになっておられる」なる「ご丁寧語」と、「事業従事者」なる法律用語的・機械用語的単語との差別的対比には、思わずぎょっとさせられてよいはずなのである。「事業従事者の皆さん」くらい書いたらどうだ?と思うのは、私だけなのであろうか。
そして私はまた、次のことを指摘しなければならないのである。つまりこの「人ら」は、ある音とぴったりであり、いわばシュルレアリスム的、あるいはサブリミナル効果的テクニックが駆使されているかのようであることを、である。あるいはこれは、ブッシュ(息子)元USA大統領が、「インターナショナル」と言おうとして「インターコンチネンタル」と言い違えるたびに、その深層心理に深く根付いた「大陸間弾道ミサイル」を露呈してしまうのと同じ様相を呈しているのであろうか。もうお分かりいただけたであろう。私には、「人ら」は「ヒトラー」に聞こえるのである。あるいはブッシュ氏と同じ様相を呈しているのは、私の方であろうか。あるいはあれもこれも「他ジャンル」からの読み違いであり、この歌からは、雄大かつ峻厳、遙かなる永遠である大自然と、儚く有限な生命を懸命に生きる人間との対比を通じて表現される「生のかけがえのなさ」を感じとらなければならないのであろうか。
稚内公園内にある「昭和天皇行幸啓記念碑(開道百年記念式典1968年)」に刻まれていた、プロ中のプロ(先代)の「胸せまりくる」に至っては、「開いた口が塞がらない」というべきであろう。この人物は、敗戦が決定的となっている1945年7月時点に至っても、「伊勢と熱田の神器を自分の手元に置き、運命を共にする」などと言い、長野県松代(まつしろ)に建設中の地下大本営への移住を決心するのであったが、戦後1947年に同県を「巡幸」した際には、こう言い放っているのである。「この辺に戦時中無駄な穴を掘ったところがあるというが、どのへんか?」であり、しかも同行していた侍従長の「陛下は松代大本営のことを終戦後になってから初めてお知りになった」という「嘘付き」である。私は先にややアクロバットな解釈、つまり「人ら」を「ヒトラー」と読んだのであるが、次のことを申し添えておきたいのである。大本営の移転先に長野県が選ばれた理由のひとつは、「信州は神州に通じる」であったのである。
またこの人物は1946年、マッカーサーと会談した際に、聞き捨てならない暴言を吐いているのであった。いわく「(日本復興の)希望に水を掛けるものはストライキであります。……日本人の教養未だに低く且つ宗教心が足らない現在、米国に行われるストライキを見て、それを行えば民主主義国家になれるかと思うような者も少なからず(いる)」である。「開いた口が塞がらない」という比喩表現の適用適切例もここに極まっており、「ブラックジョーク」を遙かに凌駕し、これに匹敵する直喩は、天文学由来の「ブラックホールのような」ぐらいであるだろう。自分自身が絶対神であったあの「国家神道」という宗教はどこへいったのだ? 「樺太のたをやめ」はあの宗教の信者・犠牲者ではなかったか。この人物が絶対神であるところの「国体」を守るために、戦争は継続されて多大の死者を出したのではなかったか。
私も短歌を作ったので、披露したいと思うのである。
「ムダ穴をホラせしヒトら生き延びて信仰ナキト人らヲ嗤フ」なのである。もちろん私は、「ホラ」に「掘る」と「嘘」の両義性を与えているのである。また「生き延びて(ここだけカタカナなし)」は、戦前・戦後の切断時点「8月15日」を象徴しているつもりなのであるが、これには注釈が必要であろう。「ポツダム宣言」受諾は8月14日、「降伏文書」調印は9月2日であり、「8月15日」は対外的には何の意味もないのである。この日はもちろん、天皇がラジオ放送をもって臣民に対し「このまま赤子が死に絶えると、皇祖皇宗にお詫びが出来ない」から戦争をやめると告げ、「これからも自分の言う通りにせよ(なんじ臣民それよく朕か意を体せよ)」と宣言した日であるが、もちろんこれは生放送ではなく、レコードの再生をもって行われたのであり、その録音は前日14日である。また8月16日以降の新聞には、玉音放送を拝聴して泣き崩れ、あるいは土下座して謝罪する「人ら」の写真が何枚も掲載されたのであるが、これらは「ヤラセ」や「創作」だったことが判明しているのである。すでにお分かりいただけたであろう。私が「生き延びて」のあとに再び文語とカタカナを用いているのは、「生き延び」たのが人物だけでなく、「国体」でもあることを示唆しているのである。
私は、「現役」も「先代」も人民を馬鹿にしていると思う者であるが、「先代」については疑問の余地がないであろう。したがって「現役」についてもう一つ、状況証拠を提示しておきたいのである。
「六十年(むそとせ)を国人(くにびと)のため尽されし君の祝ひに我ら集へり」(2006年タイ国国王陛下即位六十年記念式典)
〈平成18年6月、両陛下はタイ国国王陛下御即位60年記念式典に、各国の国王および王室の方々などとご一緒にお招かれになり、バンコクの式典にご参列になった。(宮内庁)〉
さてこれはどうであろう。私は現タイ国王が「国人のために尽力してきたか」どうかを知らない。タイについて知っていることといえば、以下ぐらいなものである。
(1)1782年、チャックリー将軍という人が、前国王を処刑し、「ラ
ーマ1世」として即位したこと(現国王はその子孫のラーマ9世で
ある)。
(2)13世紀に仏教が国教化され、国王は僧侶の頂点を兼ねているこ
と。
(3)200以上あるという戒律のうち、重要な「4戒」があり、その中
の「妄戒」は「悟りを得たと嘘をつくこと」であり、この戒律がタ
イ仏教界の「閉集合」性を構成しているようで興味深いこと。
(4)タイといえば、日本軍が1942年から1943年にかけて建設した全
長415キロに及ぶ「泰緬鉄道」(タイ〜ビルマ(現ミャンマー))
であり、連合軍捕虜6万人以上(内1万2千人が死亡)、アジア人
労務者7万人〜20万人(内3万3千人〜9万人が死亡)が動員され
たこと。
(5)毎日夕方6時には国歌が放送され、立ち止まって歌うことが求め
られていること(実際に口ずさんでいる人も、わりと多くいる)。
(6)赤色の服を着た人たち(タクシン派)と黄色い服を着た人たち
(国王派)の内乱ともいえる衝突が、近年、テレビ報道されていた
こと。
思いついたことをランダムに書き連ねてしまったが、ここではこのような事実や感想は必要がないのかもしれない。この作品にはたった一つの意図が働いており、それは非論理的な連想へと読者を導くものだからなのである。そして作者はそれが成功すると思っているのである。すなわち、この短歌が意図する非論理的展開とは、「タイの国王は国民思い」+「私は天皇」→「私も国民思い」である。
(1)当然のことであるが、仮に「タイの国王が国民思い」であったと
しても、それは「私が国民思い」であることを意味しない。
(2)「すべての国王は国民思い」が真で、「私は国王」が真のとき
は、「私は国民思い」は真であるが、この前提命題の成立はかなり
困難である。
(3)しかし、他国の国王を褒め称えた上で「君よばわり」(現代感覚
では)しているのだから、作者も「偉い人」に違いないと、なんと
なく思えてくる。
(4)そしてまた私には、ここで作者は「君が代」解釈論争に決着をつ
けているのだと思えてくるのである。
「君が代」の歌詞の意味、つまるところ「君」が何を指すかについては、1999年の「国旗国歌法」制定時にも、政府答弁に混乱があり、最終的には「象徴天皇」を指すということに落ち着いたと記憶するが、「君」=「友人」であるのか「君」=「君主」であるのかについては、論争があったのである。つまりここで作者は、「君」=「友人」=「国王(君主)」という見解を示していると言えるであろう。したがって「君が代」は「友人の時代が永遠に続くように願う歌」であると解釈してもいいのだが、その「友人」は「国王」だということなのである。アジアの君主、ひいては世界の君主を目指していないだけ、「生のかけがえのなさ」が感じとられるというべきであろうか。
私は、1ヶ月ほどの北海道旅行によって、上記二つないし三つの短歌を学んだのであったが、ロシアとの関係を思うとき、また別の単語が思い出されるのであった。それは、これも記憶が曖昧で申し訳ないのであるが、稚内の北方記念館には掲示されており、納沙布岬の北方館にも掲示されていたはずの、日露関係年表に記載されていた「譲り受ける」という動詞なのである。これは、外務省発行『2009年版われらの北方領土』の中においても、「ポーツマス条約によって、樺太の北緯50度より南の部分をロシアから譲り受けました」とあるのだから、国家的に統一された動詞使用であると言えるであろう。つまり我が国は、日露戦争後は「南樺太を譲り受けた」のであるが、太平洋戦争後には「北方領土」を「占領され」、今も「不法に占拠され続けている」のである。私は、何か釣り合いのとれない表現だなと思い、私なりの年表を作ってみたのであった。
1855年 日露通好条約=択捉(エトロフ)島とウルップ島の間に国
境線を引く(サハリンには国境設けず)。
1869年 明治政府、蝦夷地を「北海道」と命名。戸籍作成=アイヌ
を「旧土人」と分類。
1875年 千島樺太交換条約=千島列島を日本領とし、サハリンをロ
シア領とする。
日本国、樺太アイヌの約3分の1(841人)を対雁(つい
しかり・札幌近郊)へ強制移住させるが(残り3分の2は
残留を選択)、約半数が天然痘などで死亡。
ロシア、北千島の少なくとも84人の先住民族をカムチャ
ッカに強制移住させる。
その後、1884年、日本国は、北千島アイヌ(ロシア化し、
正教徒だった)を色丹島へ強制移住。
1877年 地券発行条令=アイヌ占有地を「無主地」として国有地に。
その後、この中から「御料地」=皇室財産が作られる(全
道の2割強の面積)。
1904年2月、日露戦争始まる。日本軍、漢城(現ソウル)を制圧。
1905年1月、日本政府「竹島」の編入を閣議決定。
【6月1日、日本、米国に講和斡旋を依頼。
6月9日、米国、講和交渉開始を勧告。
6月10日、日本、受諾。
6月12日、ロシア、受諾。
6月15日、日本、樺太作戦決定。
6月17日、日本、出動命令を出す。
7月7日、日本軍、南サハリンに侵攻。
7月24日、日本軍、北サハリン上陸。
7月31日、ロシア降伏。
8月10日、ポーツマス講和会議始まる。日本の南サハリン割譲
要求に対し、ロシアは「1875年条約」を理由に抵抗。
小村寿太郎全権は「戦争の結果だ」と主張。
9月5日、ポーツマス条約調印=南樺太の日本編入。】
11月 日本、韓国を保護国化。
1918年〜22年 日本、シベリアに出兵。投入した兵員は7万2千人
(ソ連・ロシアでは「シベリア戦争」と呼ぶ)。沿海州、アム
ール州、ザバイカル州(バイカル湖西岸のイルクーツク含
む)を占領。その後パルチザンの反撃によって苦戦。
1920年 日本、ザバイカルから撤退し、北サハリンを占領(1925年ま
で)。
1925年 サハリンにおける1905年の領土を再確定=日本、北サハリ
ンの石油・石炭の利権を得る。
1905年、米国の「講和交渉開始勧告」をロシアが受諾した後に、日本軍がサハリンに侵攻していることに、目を引かれはしないであろうか。その結果獲得した領土を、日本語では「譲り受けた」と表現するのである。しかもそのサハリン侵攻における状況は、『シベリア出兵』(原暉之)によれば、次のようであったという。「北部も含む全島で日本軍が徹底的に略奪をほしいままにしたこと、日本兵から家族と財産を守ろうとしたために殺された住民がいたこと、大部分の移住囚と農民が無一文になって対岸デカストリ地区に放逐されたことは疑うことのない事実である」。
なお、ここで「移住囚」とあるのは、サハリンが1881年以降、ロシアの流刑地であったからであり、1897年の記録によれば、当時の人口は、囚人2万3,251人、ロシア人入植者1万1,997人、先住民族4,151人とのことである。
1945年2月 ヤルタ(秘密)協定(米英ソ)=参戦の見返りとして、
ソ連に南樺太を返還し、千島列島を引き渡す。
8月8日 ソ連、中立条約を破棄し宣戦布告。
8月11日 ソ連軍、南樺太に侵攻。
8月14日 日本、ポツダム宣言の受諾を決定、通告。
「日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに我々の決
定する諸小島に限られなければならない」(ポツダム宣言)
8月16日 大本営、【「自衛戦闘を除く即時停戦」】を発令するが、
各地で戦闘続く。
8月17日 米国、ソ連の千島列島占領に同意。
8月18日 占守(シュムシュ)島の戦闘(8月21日、日本軍降伏)。
【第5方面軍(司令部・札幌、作戦地域は北海道・樺太・
千島)、「戦闘停止・自衛戦闘に移行」の命令を出
す。】
8月20日、真岡郵便電信局事件(「九人のたをやめ」が自決)。
8月25日、ソ連軍、南樺太占領。
8月28日〜9月1日 択捉・国後・色丹島を占領。
9月2日、降伏文書調印。
連合国最高司令官「一般命令第1号」(満州、北緯38度
線以北の朝鮮、南樺太・千島諸島に在る日本国先任指揮官
ならびに一切の陸上、海上、航空及補助部隊はソヴィエト
極東軍最高司令官に降伏すべき)
9月4日 ソ連軍、歯舞群島を占領。
1950年6月 朝鮮戦争始まる。
1951年 サンフランシスコ平和条約締結(ソ連、中国は調印せず)。
=南樺太・千島列島を放棄。沖縄は米国の施政権下に。
日本政府は国会で「国後・択捉は(放棄した)千島に含ま
れる」と説明。
1955年 日ソ国交回復交渉開始。ソ連、「色丹・歯舞2島返還」に
よる平和条約締結決を提案。日本政府受諾を検討。
ダレス米国国務長官「それなら沖縄を返還しない」と恫喝。
日本政府、「国後・択捉は千島に【含まれない】」に変化。
1956年 日ソ共同宣言(国交回復)。「平和条約締結後の歯舞群島・
色丹島返還」を明記。
1957年 米国、【含まれない】に態度を変える。
1960年 日米安保条約締結。ソ連、態度を硬化。「米駐留軍の撤退」
を2島返還の条件に加える。
1961年 日本「4島一括返還」を「平和条約」締結の条件に。
1964年 外務次官通達=「南千島」の呼称を使うのをやめて「北方
領土」という呼称を使うこと。
1965年 「北方領土返還運動」根室市で始まる。
「受諾後」の行動は、日本もソ連も似たり寄ったりではないだろうか、と私は思ったのであった。一方は「講和交渉開始勧告」の受諾であり、他方は「降伏」の受諾であるのだから、同等の重みのある「受諾」ではないにしても、である。繰り返しになるが、日露戦争時における日本国は「講和交渉開始勧告」を相手が「受諾」した後に、侵攻作戦を立て、樺太を占領しているのである。また、片や「講和条約締結」(話し合い)によって割譲が決定されたことをもって「譲り受けた」と表現し、片やいまだ「平和条約」が締結されていない(話し合いが終わっていない)ことをもって「いまだ不法占拠されている」と表現しているものと思われるのであるが、平和条約の締結は、少なくとも双方共に目指してはいるのである。
それにしても、1945年8月16日の大本営「自衛戦闘を除く即時停戦」命令や、8月18日に出された第5方面軍の「戦闘停止・自衛戦闘に移行」命令とは、実際に何をせよという命令であるのだろうか。日本軍軍人は、捕虜になることを禁じられていたのだから、現実に戦闘を停止する効力を持ちえなかったのではないか、と思われるのである。
1974年に制作され、陸上自衛隊の戦車が出演しているとか、またソ連の圧力により上映が見送られたとも言われる、真岡郵便局事件を描いた映画『氷雪の門』においても、丹波哲郎演じる現地軍参謀長は、全く同じ疑問にかられて、「これはいったいどういう意味だ!」と叫ぶのであったが、この命令が意味するところは、「外交上は戦闘を停止することにするが、とにかくソ連の南下を阻止するために、自分の判断で戦闘せよ」ということであったのだろう。
私は、日露関係年表を作りながら、とくに気になった部分を【 】で囲ったのであったが、その最後の1つ【含まれない】が、「北方領土問題」を知る上で重要と思われるのであった。この点に関する一文を『われらの北方領土』から抜き出せば、「過去の両国間で締結された重要な条約に照らして、北方領土がサンフランシスコ平和条約で日本が放棄した千島列島に含まれないのは明白」ということになるのである。つまり言い換えれば、「千島列島」とは「ウルップ島以北の島々」のことであり、またその「定義」は、「過去の重要な条約」、つまり「1855年日露通好条約」と「1875年千島樺太交換条約」に書かれているということなのである。繰り返して整理すれば、次のようになるであろう。
(1)1855年に、択捉島とウルップ島の間に国境を引いた。
(2)1875年に、樺太全島と「千島列島」を交換した。
(3)「千島列島=クリル諸島」とは、「ウルップ島からシュムシュ(先占)島までの島々」のことである。
しかし、この「定義」の背景には、『北方領土問題を考える』(和田春樹)及び『北方領土問題』(同上)が解き明かしているように、様々な事情がありすぎるのであった。
(1)まず第一に、ロシア側は、国後島と択捉島を「クリル諸島」に「含まれる」と一貫して定義しているのである(国境問題とは別に)。
(@)『われらの北方領土』自身がその【資料1】において、『ニコライ1世のプチャーチン提督宛訓令(1853年)』(国境線確定交渉にあたっての指令)を掲載しているが、そこには、「クリル諸島のうち、ロシアに属する最南端はウルップ島であり、……」とあり、「クリル諸島のうち」という明確な表現がなされている。
(A)また【同資料2】にある『通好条約』の文言は、「エトロプ全島は日本に属し、ウルップ全島夫より北の方クリル諸島は露西亜に属す」であり、「定義」が正しいように見える。
しかし、この条約には、ロシア文、オランダ文、日本文、漢文があり、ロシア文(ロシア作成)→オランダ文(日本に提示)→漢文と日本文(日本側作成)という段階を踏んで作成されたらしく、条約正文はオランダ文と漢文であるという。
そしてその漢文は、「蔚布全島及其北方久利留諸島属露西亜」で日本文と同義、しかしロシア文はというと、「イトロフ全島は日本に属し、またウルップ全島とその他の北の方のクリル諸島はロシアに属する」であり、オランダ文もこれと同義だそうである。
和田春樹氏によれば、これら異同は、条約文作成過程において「他」という文字が欠落したために生じたとのことであり、ここでも条約文は、【資料1】と同じように「クリル諸島のうちのウルップとその他の北方にある島々をロシア領にする」と読むのが自然と思われるのである(「他」という言葉が曖昧さを解決するとは思えないものの)。それとも外務省は、この1853年から55年までの2年の間に、ロシアが「クリル諸島」の定義を変更したと言うのだろうか。
(B)さらに【同資料3】は『樺太千島交換条約』を掲載しており、「定義」部分には次のように書かれている。
「「クリル」群島即ち第1「シュムシュ」島………第18島「ウルップ」
島共計18島の……」。
これはまさに「定義そのもの」である。しかし問題は、この条約の正文はフランス文のみであり、ここに掲載されているのは、「参考文」にすぎないということなのである(「『武揚謹訳』とある和訳文を参考の為併掲せり」日本外交文書第8巻注釈)。
ではそのフランス文はというと、これは、1946年に外務省自身が英訳しており、「参考文」の「即ち」に当たる部分を、「……the said group of Kuriles shall belong to the Empire of Japan. This group comprises the eighteen ialands named below :(1)Shumushu……」と書いているのである。交換されるのが「Kuriles」全部であるならば、「the said(ロシア皇帝所有を指す)group」などと書くはずはなく、「クリル群島のそのグループ」が、榎本武揚(公使としてロシアと交渉)によって「クリル群島(の全部)」へと「意訳」されたというべきであろう。これは、樺太と「北千島」を交換したのではなく、樺太と「全千島」を交換したのだと宣伝するための、国内向けの文章なのである。
(2)また日本国自身が「南部千島」「南千島」という用語を用い、少なくとも国後島と択捉島については(ときには色丹島も)、「南千島」つまり「千島列島」の一部と捉えてきたのであった。
(@)1884年、それまでは「根室国」に含めていた色丹島を「千島国」に編入。
(A)『千島概況』(北海道庁1934年)は「南部千島に属するもの国後島、択捉島、色丹島の3島……」と書いている。
(B)1946年11月、講和に向けて米国に提出した資料には、「(1875年の条約で)日本はサハリン島での権利を完全に放棄し、代わりにクリル諸島の北部 the northern portion of the Kuriles を受け取った」と明確に書いている(外務省はこの資料を現在に至るまで公開していないという)。
(C)1951年のサンフランシスコ平和条約批准国会における条約局長国会答弁は、「条約にある千島列島の範囲については、北千島と南千島の両者を含むと考えております」である。
(D)同1951年講和会議で、吉田茂代表(首相)は「日本開国当時、千島南部の2島、択捉、国後が日本領であることについては、帝政ロシアもなんらの異議を挟まなかったのであります。ただウルップ以北の北千島諸島と樺太南部は……」と述べている。
また、『われらの北方領土』は、サンフランシスコ平和条約には「千島列島」の定義がなされていないと、それ自体は正しい解説をしているが、吉田代表を含め調印諸国が「国後島、択捉島、……占守島」を「千島列島」と認識していたことは間違いなさそうである。
(E)1952年7月、衆議院は平和条約発効に伴い、残る領土問題の解決を政府に要望する決議を採択したが、沖縄、小笠原諸島とともにあげられたのは「歯舞」と「色丹」のみである。
以上(1)と(2)から分かることは、日本政府が1955年の「日ソ国交回復交渉」を境に「定義」を変更したということであり、1855年条約の「日本文」や1875年条約の「参考文」を「新定義」の根拠にしているということなのであった(実際にソ連からそう反論されてきている)。
また時代は下って1992年、外務省はロシア語パンフレット『日本の北方領土』をロシア国民向けに配布するが、そこでは次のように書いているのだという。「われわれはロシアの市民がスターリンのこの行為(4島の併合)に公平な判断をくだすと期待します」「全体主義体制のもとで、……多くの市民にはこれらの島がソ連領土であるとの誤った意見が生まれました」と。
そして、国後島と択捉島が「クリル諸島に含まれない」ことを示すために、1855年条約について、ロシア文そのものやオランダ文からの翻訳を使うのではなく、わざわざ「日本文」をロシア語に訳し直したものを「条約文」として掲載しているとのことなのである。
私は、こんな「ごまかし」ばかりしているようでは話し合いは進まないのではないかと思い、しかしまた、日本政府自身もこの「定義」が説得的ではないことは、十分に自覚しているとも推察するのであった。というのも日本政府は、「千島列島の定義を脇に置いたとしても」という意味合いをもたせるかのように、つまり、これら2条約が「平和的に締結された」ことを理由に、「4島は日本の固有の領土」だと主張しているからなのである。
しかしながら、これに対するソ連・ロシアの反論は次のようなものなのであった。「1904年のロシア攻撃、ポーツマス条約によるロシア領土奪取により、日本は1855年、1875年の両条約に言及する権利を失った」。日露戦争が、日本の侵略であったのか、ロシアの侵略であったのか、あるいは日露による朝鮮の奪い合いであったのか、といった判断をいったん脇に置いて、ここで主張されていることを一般化すれば、「弱肉強食の時代に、戦争に負けてから、平和な時代の条約を持ち出すのはおかしい」ということであろう。
そして私は思うのであった。日本の有権者はこう思っているのではないだろうかと。ソ連あるいはロシアという国は、なんと野蛮な国なのであろう、だから「親しみ」が持てないのだと。しかし先の反論を、ソ連・ロシアの好戦的性格だけに帰するとしたら、それは公平さに欠ける態度であるように思われるのである。というのもここで主張されていることは、1905年のポーツマス条約交渉において、「平和的に締結された」1875年条約を理由に、ロシアが南樺太の割譲を拒もうとしたのに対して、日本国の持ち出した論理、「戦争の結果だから仕方ないではないか」と同じなのである。
そして私はまた、次のように思ったのであった。日本国外務省は少しも「明白」でないことを「明白」であると書き、また「譲り受けた」「不法占拠」という対比の際立つ表現を用いることで、国民の敵愾心を醸成し、結果「親しみ」がもてず、結果、話し合いが進まず、そしてその結果「不法占拠」が続く、という堂々巡りを引き起こしているのではないだろうかと。そして実はあるひとつのことに、この堂々巡りは起因しているのではないだろうかと。
先のロシア語パンフレット配布に対する、あるロシア新聞読者の投稿には、次のように書かれていたという。「日本人が天皇のことを我々よりよく知っているように、我々は日本人よりもスターリンの罪をよく知っている」と。日本人は、実は「天皇のこと」を、よくは知らないのである。
ユジノサハリンスクとホルムスク
5月から10月にかけて週に2便出ている稚内=コルサコフ(サハリン南端の港町)連絡フェリーは、地方紙『日刊宗谷』によれば、1年あたり1億円の赤字が出ているらしく、その存続が危ぶまれているということであったが、その日の船内は、満席には程遠いにしても、閑散としているわけではなかった。中学校の社会科教員とおぼしき十数名の集団が、2等船室の一角を占めていた。交流行事が開催されるらしかった。
私は前日のアルコールが残っていて、5時間半の船旅をほとんど横になるか、眠って過ごした。昼食に配布された幕の内弁当はなんとか食べた。稚内で飲んでいたのはペチカというロシア料理の店で、サハリンから来ていた中学生のバレーボールチームの送別会が行われていた。その店で「社長」と呼ばれている人が主催者で(実際に貿易会社の社長らしかった)、日頃から稚内・サハリン間の交流に大きな役割を果たしているようだった。「社長」はフェリーの見送りにも来ていて、私にも声をかけてくれた。
コルサコフの入国審査場には窓口が2つしかなく、長い行列が続いていた。入国できたときには、夕方の6時を過ぎていたように思う。私がその後しなければならなかったのは、最寄りのバス停留所を探すことだった。その停留所からユジノサハリンスク行きのバスが出ていればそれに乗り、それがなければ、バスターミナルまでいったん行って乗り継ぐのである。州都・ユジノサハリンスクまで1時間かかるとのことだった。
「みんなゾロゾロ歩いていきますから、バス停はすぐわかりますよ」と、旅行社の担当者は言っていたが、入国審査を終えた人々はターミナルの出入り口あたりにたむろしているだけで、一向に歩き始めようとしない。迎えの車を待つらしかった。ロシアは観光旅行にもビザが必要で、ビザ取得のためには宿泊先の証明が必要だった。私は、ホテルと夜行列車の予約、ビザの取得をロシア専門の旅行社に依頼し、ついでにいろいろと質問してきたのだった。
それらしい方向へと歩いて行くと広場に出て、バス停にたどりつくことができた。しかし時刻表らしきものは見当たらず、目当てのバスが来るのか来ないのか分からない。そこにあった雑貨店の中を覗き込んでみると、女主人と目が合った。「すみません。ユジノサハリンスクに行きたい」と言ってみた。主人は「ちょっと待ってろ」というような素振りを見せて奥へと姿を消し、戻って来ると、「バスターミナルへ行け」という意味のことを言ってくれた。時刻表は店内にはあるようだった。「ターミナル」は ロシア語で「ヴァグザール」という。私は、地面を指さし、続いて「ヴァグザール?」と語尾を上げながら水平方向に指をさした。「ダー」という声が返ってきて、ここで待てばいいことがわかった。私はいま、「ヴァグザール」という単語を覚えていたかのように書いているが、実は『旅の指さし会話帳』を持ち出してきて、思い出しながら書いているのである。
路線バスはすぐにやってきて、今度は女性車掌に「ヴァグザールに行きたい」と言って、運賃を払った。私は、小銭を持っていることの幸運を思った。旅行会社の若手社員は、昨年の夏に行って来たばかりだと言い、フェリーの中でも両替できると思うし、港に両替所もあると請け負ったが、実際には、フェリーでのそれは廃止されていて、港にも両替所はなく、入管前の広場に銀行はあったが、長い行列のあとでは営業時間を過ぎてしまうのである。私は日本で両替を幾らかはしていたし、しかも偶然に小銭まで手に入れていたのだった。
しばらくすると女性車掌が近寄ってきて、もうすぐ降りるべきであることを教えてくれた。「スリェード……」という音が聞き取れたような気がした。これもいま調べると「スリェードゥユシィー」で「次」という意味である。
アフタヴァグザールは、バスターミナルというにはとても小さなもので、教えてもらっていなければ通り過ごしたかもしれなかった。やがて路線バスよりはやや大きめの、やはりかなり年代物のバスがやってきた。その正面にЮЖНО САХАЛИНСКという文字が掲げられているのを確認し、十人ほどの乗客たちと乗り込んだ。
私は、このときのような、中距離バスに乗っている時間が好きかもしれない、と思う。目的地に向かって確かに進んでいるという安心感。自分は何でこんな所にいるんだろうという、なんとはなしの自省。正直、心細いがゆえに、自分という存在は確かにあるんだな〜という感触。そんな感覚が混じり合って、ぼんやりと風景を眺めている。写真を撮るのが趣味の人や、諷詠俳句を作る人なら違うのかもしれないが、見た風景についてはほとんど何も思い出せない。
ユジノサハリンスク駅前に到着した時には、もうすっかり日が暮れていて、それに雨が降り出していた。私は、駅前広場からまっすぐに伸びている大通りを歩き出した。15分か20分ぐらいでホテル・ラーダに着けるはずだった。稚内の「社長」からは「なんでまたラーダなんかに。ホテル・サッポロがよかったのに」と言われたが、ビザの必要条件になっているために、サハリンの宿泊代は観光客にはかなり高額なのである。サッポロとラーダでは1泊あたり5千円もの違いがあり、私は、このホテルと夜行列車の利用による宿泊代の節約を思いついたのだった。それに、ホテル・サッポロは「日ロ合弁会社による改装済み」であり、ラーダの方は「ソ連時代には共産党の直営であった」と書いてあるのを読んだのだった。せっかくの外国旅行、「日本のビシネスホテルとほぼ同じ設備が整っている」よりは、「ソ連時代の面影が残っている」方が面白いはずなのである。私は、ホテル・サッポロがあるらしき方向を右手に見てレーニン通りを渡り(いままたガイドブックを見ながら書いている)、その後チェーホフ通りを横断していき、ロシア正教会があるとおぼしき公園の手前まで行って、大きな交差点を左へと曲がった。20分以上はかかったと思う。街路は薄暗く、自動車は走っていたが、人はほとんど歩いていなかった。
ホテルのロビーにいったん腰を下ろして傘をたたみ、旅行社からもらってきたバウチャーを取り出そうとしていると、フロントから「ミスター・タナカ?」と声をかけられた。私の他に今夜チェックインする日本人がいるようだった。ロビーもフロントもエレベーターも改装されたばかりで、とくにエレベーターは近未来的ともいえるデザインだったが、部屋に入ってその落差に驚いた。「ソ連時代の面影」が残っていた。シャワーのお湯はさすがに使えることを確認して安堵した。
夕食はまだとっていなかった。フェリーを降りる時に、放置されていた弁当の余りをカバンに入れてきたことを、このときになって思い出した。歩いてきた大通りの様子からみて、いまから食事に行くのは大仕事にちがいなく、フェリー会社の「気遣い」をありがたく思った。ベッドに横になると下半身が沈みこんでしまった。マットレスをめくってみると、ベッドの床になるはずの板が何枚もはずれているのだった。私はそれを設置し直したが、枚数が足らず、元どおりにはならなかった。フロントに電話して部屋を替えてもらう余力はもう残っていなかった。
次の日私は、まずは何をおいても、蚊取り線香を買わなければと決心し、フロントまで降りて行ったのである。私のサハリン第一夜は、蚊の集中攻撃にさらされ、闘いの敗北に終わっていた。顔や腕だけならまだしも、一番刺されてはいけない足の裏を刺され、情けなかった。私が目視したそれは足長の大ぶりなものであったが、部屋の天井は高いし、電灯は暗いし、疲れているしで、捕殺することはできなかったのである。そして、タナカさんに出会った。田中さんは、フロント係りの女性2人を相手に何やらやりとりしていたが、会話はスムーズにはすすんでいないようだった。両替のできる銀行の場所を聞いているらしかった。銀行は、私が昨日歩いてきた大通り・コミュニスト大通り沿いにあるということだった。
成田から空路で来た田中さんは、サハリン空港で両替が出来ず「1ルーブル」なし、バスに乗ることも出来ず、悩んだあげく観光案内所からラーダに電話をしてもらい、迎えを頼んだが断られ、結局、その案内所の係員の自家用車で、20ドルを払って送ってもらったのである。
その日は田中さんとホルムスク(真岡)に行くことになった。バスで2時間、前日の雨で道路の所々が小さな川のようになっていた。「九人の乙女」が自決した郵便局を探してみたが、この建物がそうなのだろうか、といったことしかわからなかった。真岡神社跡の石段は、それとわかる。神社の本殿があった所には、別荘のような、あるいは研究所のようなものが建っていた。王子製紙工場跡はやや遠くから見下ろすことができた。戦後ソ連時代になってからも、しばらくは稼働していたという。
夜も2人で夕食を食べ、酒を飲んだ。ガイドブックが紹介しているロシア料理店。日本の商社員の集団もいた。田中さんは30代。あるメーカーの事務職員。海外旅行はここ2、3年来の趣味で、今回はウラジオストクにも行くという。「サンキューすら通じてないような気がするんです」「これほどとは、思えへんかったな〜」「ロシア語ではどう言うんですか」「スパシーバ」。 2人でいると気が大きくなる。だいぶ飲み、そして私は蚊取り線香のことを、すっかり忘れていたのであった。
蚊のことを「Komarコマール(発音としてはカマールか?)」と言うことはよく覚えている。それは「困まーる」として記憶されているのである。次の日私は、食料品店や雑貨店、ピロシキ屋が数多く集まっている新自由市場まで、蚊取り線香を探しに行ったのであった(第二夜も当然に敗北であったし、アルコールのせいか攻撃はさらに執拗であった)。ずいぶん歩き回ったものの、それらしきものを店頭に見つけることができなかった私は、ある日用品店に狙いを定めて立ち止まったのである。そして手帳の新しいページに黒ボールペンでKOMARと書き、その文字の上に赤くバツ印をつけたものを見せたのであった。こうして私は、ロシア製ベープマット(コンセント式)を購入したのである。
「シーツを交換してください」を「オブメニャイテ プロスチニ」と言うことは、そのとき使っていた手帳に書かれていた。蚊の次はシーツであった。糊がきいていないせいかとも思ったが、それはなんというか、しなびていたし、何日も交換されていないように思われた。私はそれをフロントに言うつもりで作文したのだったが、部屋を出かけに出会った掃除係の老婦人に言ってみたのだった。言いたいことはすぐに通じたらしく、老婦人は言い訳のような、繰り言のようなことをたくさんしゃべった。同僚に話しているような素振りがおかしかった。その日、シーツは交換されていたが、あまりかわり映えはしなかった。
ユジノサハリンスク(豊原)最大の見学場所は、郷土博物館である。これは日本統治時代の1937年に建てられた城郭風の元樺太庁博物館で、展示内容もそれなりに充実していたと思う。国境線上に置かれていた標石(菊の紋章が刻まれている)や日本時代の生活用品も展示されていた。そしてこの博物館前の公園では、結婚式後の写真撮影が行われていて、コミュニスト大通りを通るたびに、何組ものカップルを眺めることができる。
チェーホフ通り、チェーホフ記念文学館、チェーホフ記念劇場と、この作家の名を冠する施設が多いのは、作家が、1890年にシベリアを横断してこの地を訪れているからだろう。チェーホフはこのサハリンで、流刑囚からの聞き取り調査をしているが(文学的著作のための資料収集と称して)、『チェーホフ全集12』(ちくま文庫)の解説文によれば、政治犯と接触しないよう厳しく監視されながらも、「読み書きのできる流刑囚」や「気ままな服装をした流刑囚」を含む、7800枚以上もの「対面調査カード」を残しているという。
「かつての宝物庫ではないか」とされる小屋以外は何も残っていない樺太神社跡にも行ってみた。当時の鳥居前広場は、現在は「栄光広場」と呼ばれていて、戦勝記念碑が建てられている。 それにしても、サハリン観光における際だった特徴は、各地の見所として「神社跡」があげられていることだろう。ガイドブック『ワールドガイド・サハリン』では、60ページほどの中に、6カ所の神社が写真入りで紹介されているのである。これは、観光資源が他に乏しいという以上に、1905年から1945年まで40年間、この地が日本領であったことを想起させる端的な遺跡であるからだろう。
しかしこれらの神社は、移住者の民間信仰によって建てられたものでは、もちろんないのである。これら神社は、たとえば『ワールドガイド・サハリン』が中部の町「ウグレゴルスク(恵須取えすとる)」に掲載している「第3国民学校跡に残る奉安殿」(御真影=天皇の写真と教育勅語を納める建物)などと同じように、国策によって建設されたものなのである。127社もあったとされるサハリンのそれは、まず1910年に官幣大社・樺太神社が作られ、その後1917年に県社・恵須取神社、1921年に県社・豊原神社という具合に、いわば頂点の方から作られており、この点は他の日本領と比較して、大きな特徴を示しているようである。
私は、ガイドブック『ワールドガイド』が、 恵須取神社跡について「哀愁を抱かされる」と書いているのにも、また、ガイドブック『地球の歩き方』が、かつての樺太神社の写真に「在りし日の樺太神社」と添えているのにも、疑問を感じざるをえないのであった。これら写真は、記録として貴重なのであり(素人鑑定ではあるが、樺太神社の鳥居は、角貫丸太2柱型=靖国神社型であり、恵須取神社も同型である)、それは「在りし日を偲ぶ」ためのものではなく、明治政府が発明した国家神道が再来しないようにするための教材でなければならないのである。
「九人の乙女」たちは、奉安殿を通るたびにお辞儀をさせられ、天長節(天皇誕生日)や卒業式などの儀式においては、校長による教育勅語の奉読を、直立不動で頭を垂れ、鼻水をすすることも許されずに聞かされ、「君が代」を歌わされ、そして真岡神社に参拝させられ、絶対神のために命を投げ出すよう育てられたのではなかっただろうか。
「内地」外の日本領土にあった神社は、一般には「海外神社」と呼ばれているそうであるが、最初の海外神社は、1901年に建設された官幣大社・台湾神社である(戦後、蒋介石はこれを貴賓客を迎えるための圓山大飯店=グランドホテルに改築)。
そしてこの神社では、北白川宮能久(きたしらかわのみやよしひさ)という皇族が祭神の1つになっているが、それはこの人物が、日清戦争後の「下関条約」(1895年)によって「割譲された」台湾を武力鎮圧するために師団長として出動(「譲り受けた」のに武力鎮圧しなければならなかったのである)、マラリアに罹患し、死亡したからなのであった。1896年に決議された貴族院の「国費をもって台湾に神社を建築案」の文言を借りれば、この人物の「戦病死」は、「速やかに凶賊を征服し、わが皇室の威望を増進し……わが新版図の領有を強固にし、わが臣民の士気を興起せらる」ということなのである。なお日本国内閣による「尖閣列島」領有の閣議決定は1895年であった。
そしてもちろんこの台湾神社は、「(台湾人の)皇国精神の徹底を図る」ための中心施設としての役割を果たして行くのであった。つまり台湾先住民から見れば、自分たちを征服しに来た軍隊の隊長を神と崇める宗教施設への参拝を、ことあるたびに強要されることになったのである(台湾に作られた神社のほとんどが能久を祭神としているそうである)。
国家神道における神社の序列は、「伊勢大神宮」「神宮」「大社」「宮」「神社」「社」であるらしいが、海外神社の総数は、「台湾神宮」(台湾神社がその後昇格)以下、700社とも1500社とも言われているのである(国家神道を継承した神社本庁は、資料の公開に積極的でないそうである)。
私は思ったのであった。北海道在住のアイヌたちは、1869年に「旧土人」として戸籍に編入されている。ということは、神社参拝させられていたことは間違いないであろう。ではサハリンのアイヌ(樺太アイヌ)はどうだったのだろうか。また他のサハリン先住民、ニブフやウィルタたちはどうだったのであろう。そもそも私は、「日露2国による領有」を経て、1875年からのロシア領、1905年からの日本領、1945年からのソ連領と変化してきた南サハリンにおいて、先住民たちがどのように暮らしてきたのか、よく分かっていなかったのである。私はこの文章を書き始めてから、『辺境から眺める』(テッサ・モーリス・スズキ)という書物があることを知り、この名著から、1905年以降の先住民たちが次のように扱われてきたことを知ったのであった。
(1)1875年時に対雁に移住させられたアイヌの内の生存者は、南樺太
に戻り(ほぼ30年ぶりということになるだろう)、日本の戸籍に
再編入される。
(2)1875年以降もサハリンに残っていたアイヌ(1500人以上だろう
か)及びニブフとウィルタ(合わせて500人以上)は、そのまま放
置される(理論上はロシア国籍のまま)。
(3)1912年以降、樺太アイヌたちは、9つの村(43あった村を合併)
へと強制移住させられ、農業従事を「熱心に説得」される。
学校も3つの「土人学校」に併合されていき、教育規定の第一は「愛
国的住民」の育成である。
(4)1925年、ロシアは「ロシア国籍保持を望む南サハリン居住者は登
録せよ」との法令を出すが、周知はされなかったと思われる(「シ
ベリア出兵」が関係しているのではないだろうか)。
(5)1927年以降、ニブフとウィルタたちは、オタスという1つの村
へ移住させられ、やはり農業従事を「熱心に説得」される。1930
年にオタスに学校がつくられ、「神道にもとづく神話や国史」の教
育に重点がおかれる。
(6)1930年代以降、国境線の通る森林地帯に溝と空き地が作られ、
近隣共同体、親類縁者、ときに家族の成員もが引き離される。
(7)1932年、アイヌはすべて戸籍に編入される(「満州事変」以降の
愛国心高揚に関係しているとのことである)。また、ニブフとウィ
ルタは「土人名簿」に登録される(時期は明記されていなかった
が、おそらくは、この頃ではないだろうか)。
つまり、1945年までの「日本人」についてまとめれば、それは次のようなグループから構成されていたのである。(1)内地臣民、(2)「外地戸籍」をもつ朝鮮・台湾の植民地臣民、(3)「旧土人」(アイヌ)、(4)「土人」(アイヌ以外の先住民。戸籍をもたず、日本の刑法・民法に保護されない)。
そして私はまた、またしても旅行のプロ(先代)に先越されていることを、この書物によって知ったのであった。まだ皇太子であった1925年に、「先代」はサハリンを訪れていたのであり、そこでの彼は「伝統的なアイヌ音楽の演奏」や「ウィルタによるトナカイ飼育場の披露」によって迎えられ、アイスクリームを食べ、ビールやフレップ・ソーダを飲み、トナカイやアザラシの肉も食べたのだという。
ニブフ、ウィルタたちが神社参拝させられていた確証は得られなかったが、アイヌについては、少なくとも1932年以降は、全員が強制されていたと思われるのであった。また、ニブフとウィルタに対する1930年以前の教育についても知りえなかったが、プロが1925年に旅行できるぐらいであるのだから、「神話」の浸透は図られていたのであろう。
そしてこれら先住民たちは、1945年の日本敗戦によって、ふたたび次のような状況にさらされることになったのだという。アイヌたち(戸籍所持)は「引き揚げ」船に乗り、そのほとんどが北海道に移住。ニブフ、ウィルタは「戸籍不所持」のため(自らを「帝国臣民」とみなすよう教育されていたが)、「引き揚げ」できず、若い男性の大半は「諜報活動」を理由に、強制収容所へ送られたという。そして1950年代になり、少数の生存者とその家族に日本への移住が認められたが、その理由は、旧帝国臣民として「広義の日本人」であり「日本民族たる日本人」と同じ戸籍への登録が認められる、ということであった。
それにしても、「日本人」「外地戸籍日本人」「旧土人」「土人」「広義の日本人」「日本民族たる日本人」である。いったい「日本人」は何個あれば気が済むのであろうか、と思うのは私だけであろうか。そして「旧土人」と「土人」に対する「農業従事への熱心な説得」である。
私は、司馬遼太郎の『菜の花の沖』を思い返さずにはいられないのであった。この長編小説は、当然にアイヌに関する記述を数多く含んでおり、作家は、次にあげる観点を一貫して示していたからなのである。
(1)『古事記』や『日本書紀』に出てくる蝦夷の中にアイヌの祖であ
る人たちがいたが、蝦夷は人種論的概念と見るべきではなく、中央
が推し進める弥生式の稲作農耕になじまず、 伝統的な暮らし方であ
る採集生活を頑なに維持している人々と見るべきである。
(2)古い時代の北海道は、わざわざ農耕せずとも採集だけで食べてい
ける島であったから、農業は発達せず、高度の漁法も発達しなかっ
た。
(3)農業が発達しなければ、高い文化は発達しにくい。
(4)江戸期、松前藩のアイヌ搾取は凄まじいものであった(実際に手
を下していたのは「場所」を請け負っていた商人たちである)。
(5)1799年からの一時期、幕府が直轄して行った、蝦夷地経営やアイ
ヌの生活改善は積極的に評価できる(この点で高田屋嘉兵衛が極め
て大きな役割を果たした)。
私は、主人公・高田屋嘉兵衛の生きざまに打たれてときに感涙し、また作者自身の「領土論による国家間の紛争ほど愚劣なものはない」という言明や、「要するにロシアと日本は、貂とラッコ、ニシンを追い求め、結果、土地そのものを領土にした」という指摘に頷きながら、この小説を読んだのであった。そしていまあげた点については、かすかなひっかかりを感じつつも、ほぼ自然なものとして受け入れていたのである。しかし私は、『辺境から眺める』によって「アイヌの農業」について教えられ、そして「日本人がいっぱい」になった理由の一端を教えられたのであった。この2つは深く関連していたのである。
そもそも、「アイヌ社会の農業は未開なままであった」という広く流布しているとおぼしき認識には、多くの事実が欠落しているようなのである。アイヌは実際には、モロコシ、キビ、豆、野菜を耕作しており、その農業形態は、18世紀後半までの日本の様々な地方で行われていたものと、ほとんど変わらなかったという(1780年の最上徳内によれば、和人入植者たちもアイヌと同じ焼き畑農業を行っていたが、それはたとえば佐渡島と同じものであった)。つまりアイヌたちは、自らの暮らす気候条件に適した農業を営んでいたのである。ではなぜ、「アイヌ社会にはほとんど農業がなかった」ように見えるのか。実は、それは「なかった」のではなく、「なくなった=奪われた」のであった。
江戸時代中期の代表的な商品作物である木綿の生産増大は、肥料の利用によるところが大きく、それは「金肥」とも言われた干しニシンであった(「ニシン」も、「エトロフ」「クナシリ」「シコタン」「ハバマイ」と同じくアイヌ語である)。和人商人は、武力をもってアイヌを奴隷的労働(漁猟と加工)に駆りたて、これを生産したのである(この点は司馬遼太郎も強調している)。
淡路島の百姓出身であった高田屋嘉兵衛は、その優れた人格と才覚によって一流の廻船業者となったのであるが、その後幕府に乞われて、流通の拠点としての箱館を開発、また択捉島に多くの漁場を開き、アイヌたちを雇って経営(小説によれば、奴隷的労働ではなく「賃金労働者として」)、大量に収穫する漁法も教え、生活の向上にも尽力したという(農業も教えたと書かれていた)。
しかし、高田屋嘉兵衛の経営がいかに立派なものであったにせよ、日本とアイヌの関係を考える上では、「農業をしなかった」のではなく、ニシン工場の労働者にさせられたがために(幕府の直轄経営はそれを加速しなかっただろうか)、農業が出来なくなったという認識は(佐渡島と同程度で「高度」ではなかったにせよ)、より重要と思われるのであった。「アイヌ社会を狩猟採集社会として再構築したのは、日本の近代発展過程にほかならな」かったのである。
テッサ・モーリス・スズキによれば、江戸期の数多くの文書にアイヌの農業についての言及があるという。私は、「アイヌ社会には農業がほとんどなかった」と『菜の花の沖』を読む前から思い込んでいたのである。そして、関連資料を調べ尽くし、最上徳内や間宮林蔵の業績はもとより、その人となりまでを見事に描く司馬遼太郎氏も、アイヌについては、「粗放な農耕と古代的な採集生活」「徹底した採集生活者」といった言葉をくり返しているのであった。
しかし実はこの、「(採集だけで食べていけたから)伝統的な暮らしを維持してきた」という一見説得的な見方は、これまた司馬氏が示しているもう一つの観点、つまり「蝦夷を人種論的に見るべきではない」と深く関わっていたのである。
思えば私は、司馬氏の「人種」という言葉づかいに、ひっかかりを覚えてはいたのであった。そして先の(1)に引用した「人種論」という用語には、日本の学者たちの行ってきた研究に対する批判が含まれているのかもしれない、と考えもしたのである。つまり研究者たちは、アイヌの「人種的特徴」を調査することに血道を上げ、墓をあばいて人骨を収集し、各種計測の標本として研究室に放置してきたからなのである(初めて告発がなされたのは1980年であり、『菜の花の沖』の執筆時期と重なっている)。
しかしそれはともかく、先の(1)の部分をもう少し詳しくまとめると次のようになるのであった。
(1)『古事記』『日本書紀』に出てくる蝦夷は「水田農耕をしない
人々」という意味である。
〈A=水田耕作者=現在の日本人の主流、B=非水田耕作者〉
(2)平安期中頃までに、日本列島は津軽までが水田耕作社会になった
が、この間、混血が行われ、蝦夷も現在の日本人の祖先の一派にな
った。日本人が、朝鮮民族に比べて多毛な人が多いのはそ結果と
思われる(「水田耕作が朝鮮からもたらされた」と考えられること
から、作家は朝鮮民族と比較しているのである)。
(3)それでも水田耕作社会に入ることを好まなかった人々が蝦夷地に
渡ったと想像できる。
〈BがB1(水田耕作者)とB2(非水田耕作者)に別れ、X=Aと
B1およびその「混血」が現在の日本人、B2がアイヌの祖であ
る〉
司馬氏は(2)において「多毛な人が多い」と書いているのであり、AとBになにかしらの「人種的差異がある」こと自体は否定していないのである。そしてまた別のところでは、嘉兵衛の目を通してではあるが、「蝦夷人の顔の特徴」を「くぼんだ眼窩、濃い眉、灰色に近い白い皮膚」と書いているのであった。
しかし私は次のように思うのである。
(1)たとえば集合Aと集合Bにおける「体毛密度」分布を調べることが可能であったとしても、それは正規分布になるであろうし、その2つの山型曲線は、ほとんど一致するのではないだろうか。
(2)また、2つの山型曲線にずれがあったとしても、「体毛密度何パーセント以下はAであり、以上はBである」というような「基準」を設定することは困難ではないだろうか(山型曲線が重なっている限り、個体の比較においては「多毛であるAの人」と「多毛でないBの人」という逆転が起こるのである)。
(3)したがって、より正確な「判定基準」を作ろうとすると、「眼窩の深さ」や「肌の色」なども必要となるのであり、つまり嘉兵衛のそれは、「体毛が多い」かつ「眼窩が深い」かつ「肌が灰色に近い白」(PかつQかつR)が、Bの特徴ということなのである。
(4)しかしながら、このような「判定基準」は、そもそも不公平なものではないだろうか。なぜならそれは、「Pかつ非Q」(体毛は多いが眼窩は浅い)や「Qかつ非R」など、「PかつQかつR」でないものすべてを、なぜかAの方に含めてしまっているからである。
(5)集合Xと集合B2について言えば、(4)の態度は自然に見えるかもしれない(XはB1を含み「広い」のだから)。しかし(1)から(3)における「手続き」は、ますます強引なものになってしまうだろう(「PかつQかつR」であるXの人はB1に分類されるのであろうか)。
私は、北海道・白老にある「アイヌ民族博物館」で見た民族舞踊の公演後に、次のような場面に出くわしたのであった。ある観光客が資料売り場の職員に対してこう話しかけていたのである。「いま出演していた人たちの多くはアイヌではないのではないか」と。その人は、出演者たちの多くが「PかつQかつR」でなかったことが不満だったのである。
また私はあるとき、近所の公民館で行われていた市民講座『楽しい英会話』に参加してみたのであったが、そこでは次のような問答を聞いたのであった(講師と受講者たちは、日系米国人Aさんのお宅にホームステイしてきたということであった)。
講師「Aさんの顔は、日本人の顔とどことなく違うように感じませんでしたか?」。受講生たち「いえいえ、日本人にしか見えませんでした」。
私が思うにこの質問が意図していたのは、日本語と英語ではその発音において口唇周辺の筋肉の使い方が違うという指摘であり(「だから英語の発音は難しいのですよ」と説明するため)、なるほど、英語ばかりしゃべっていたら私の顔つきも変わっていくのだろうかと、印象に残ったのではあった(そしていま思うにこの質問は、「日本人の顔」というよりは「日本国内でよく見かける顔の表情」との比較を求めていたのであろう)。
しかしそれはともかく私は、「日本人の顔」というのはいったいどんな顔のことを言うのであろうか、と思ったのである。「典型的日本人顔」など存在するのであろうかと。それともその構成要素は、「目が細い」「鼻はそれほど高くはないが低くもなく、少し長く、かすかにワシ型」「上唇よりも下唇の方が若干長い」「初老になると白髪が目立つ」等々なのであろうか。
そして私はまた、受講生たちの回答が質問の意図をくみ取っていないばかりか、自信たっぷりであったことに面食らったのであった(むしろ自信が意図を無視させたようであった)。この自信はいったいどこから来るのであろうかと。しかしいま思うにそれは、「Aさんの顔は米国人の顔には見えない」ということではなかったかと思われるのである。この場合、受講生たちは事前に「日系」と聞いていたのであったから、答えは「2つに1つ」のようであり、「日本人に見える」と「米国人には見えない」は論理的に同値のように見えて、しかし問題は「見える」であるからには、それらは「同じこと」ではなかったのである。つまり、米国人の顔を特徴づける何かがまずは前提されていて、Aさんの顔にはそれが発見されなかったということなのであり、言わばこの「順序」が、自信のもとであったのである(あるいはこうも言えるであろう。「米国人」は国籍概念であり、Aさんに米国人顔の特徴を探しても見つからなかったのは当然だったのである)。
つまりはこういうことではないだろうか。私たちは、私たちの「人種的特徴」については、何ら問題にしないにもかかわらず(日本人顔の特徴など言えないのである)、他者の「特徴」についてはあれこれ言ってはばからないのである。
そしてまた私は、あるラテンアメリカ人のことを思い出すのであった。彼は「中国人に親しみを持っていない」らしく、彼によれば中国人の目は「つり上がっている」からすぐにわかるとのことであったのである。ところがある日、ある「目がつり上がっている人」と話した際に相手が「中国人でない」と知るや、それ以降、その人の目は「つり上がっている」ようには見えなくなったのである……。
司馬遼太郎氏は、「蝦夷は人種論的概念と見るべきではない」と書き、また「水田農耕をしない、ということにすぎない」と書きつつも(また「容易に断定しがたい」など慎重な言い回しを用いながらも)、「多毛」その他の特徴をあげているのであった。私は、司馬氏の言う「見るべきでない」の意味がやっとわかった気がするのである。つまりここでの司馬氏は、「アイヌは私たちとは違う」と考えている読者を想定し、「人種的差異はあるが人種論的に見るべきでない」=「私たちと同じと見るべきだ」と教示しているのである(BのうちのB1は「私たち」を構成しているのであるから、B2もそう「見るべき」なのである)。
しかし、この「私たちと同じ」には、実際には、このような初等集合では表すことのできない複雑な問題が含まれていたのであり、それは私なりに整理すれば次のようになるのである。
(1)ロシアとの対抗上、アイヌは日本人でなければならない(1855
年条約の交渉においても「樺太アイヌの住む所は日本領」と主張
している)。
〈この場合の日本人=日本国の構成員(国籍保持者のようなも
の)〉
(2)しかし、アイヌは言語・風習からみて和人と同じではない。
〈和人=アイヌとは別の民族=大和民族=日本民族たる日本人〉
(3)しかし、日本は「多民族国家ではない=日本人だけの国」である
から、アイヌは同化しなければならないし、出来るはずだ。
〈この場合の日本人=神話的日本人のようなもの〉
(4)しかし、ほんとうに同化は可能なのか? アイヌと「私たち」
は、どう違うのか?
〈私たち=和人と神話的日本人が渾然一体となった何か。つまり
「私たち」を和人とすれば、アイヌは「私たちでない」し、「私
たち」を「神話的日本人」とすれば、アイヌも「私たちである」〉
そしてこの複雑な問題に答えるために導入されたのが、実は、時間軸であったのである。いわば空間における難問を時間で解決しようとしたのであった。つまり、アイヌは「私たちである」と同時に「私たちでない」のではなく、それは「「過去の私たち」として再定義」(テッサ・モーリス・スズキ)されることになったのであった(「差異はあるが同じと見るべき」という要請の方こそが、BやB1やB2といった集合概念を作ったのではなかっただろうか)。
「蝦夷地という大田舎にいたために遅れているのだ」と、高田屋嘉兵衛のアイヌ観を司馬氏は書いているのであった。そして、嘉兵衛は「ただの人間としてアイヌを見ることができた」がために、「石器時代の日本人」という「考えと似た考え」をもつことができた、という意味のことも書いているのであった。しかし、このアイヌ観が成立していったのは、これもまた司馬氏自身が書いているように、「アイヌとは人種的にどういうひとびとであるかということが議論され」た明治以降のことなのである(そして作家は、なぜそんな議論が必要になったのかについては、述べてはいないのである)。
「アイヌ社会には農業がなかった」のではなく、それは「なくなった=奪われた」のであった(江戸期)。そして「日本人」をめぐる難問が「伝統的な暮らし方を維持している人々=過去の私たち」という「定説」をもたらし(明治以降)、この「定説」によって、「日本人がいっぱい」になることができたのである。
私はまた、次のことを告白しなければならないのである。私は、「アイヌには鍛冶の技術がなく、鉄器を生産していなかった。それらは交易によってもたらされた」と信じていたのである(いくつかの書物に書かれていたと思う)。私は、旭川市博物館でそれを否定する資料、つまり金属加工品が出土しているという展示を目にしたときにも、「まだ量的に少なく、定説を覆すまでには至っていない」というふうに感じたのであった。ふたたび『辺境から眺める』によれば、 間宮林蔵は、アイヌの鍛冶技術について記録しているという。 アイヌの金属加工品は、日本製品の移入とともに次第に消滅していったのであった。
司馬遼太郎氏の著作の総発行部数は、軽く1億を超えているという。読みやすい文章、多岐にわたる歴史事象の解説とその簡潔な要約、生き生きとした人物造形、「……ということはすでに述べた」という形で適宜くりかえされる「復習」。「大人の教科書」といっても過言ではないその影響力を思うとき、読書に求められる慎重さを思わざるをえないのであった。そして私は、次のように言いたい衝動に駆られ、衝動に負けて言ってしまうのである。問題はやはり「人ら=汝ら臣民」だったのである……。
ロシア製ベープマットはよく効き、シーツは交換され、全身が斜めに傾いてしまうベッドも気にならなくなり、私はすることがなくなったのであった。やはり日本時代の建築物である州立美術館(旧北海道拓殖銀行)は休館。チェーホフ記念劇場は、もう何ヶ月も公演が開催されていないようであった。私は、かなり大きな公園であるガガーリン記念文化公園(旧豊原公園)をぶらつき、子ども鉄道に乗り、ナムルをあてにビールとウォッカを飲み、別の自由市場で上着を買い、土産物屋で「クリムトはロシアの画家」と騙されそうになり、カジノに入ろうとして思いとどまり、本屋を覗いて過ごしたのであった。
ノグリキ
私は傘をなくしたのである。東急ハンズネットショップで購入した折りたたみ式旅行用傘を、さっき降りたタクシーの中におき忘れたのであった。私は、サハリン北部にあるノグリキという町のホテルにチェックインしたばかりであったが、その時したかったことは、インスタントコーヒーを買うことであり(幸いなことに湯沸かしポットが部屋にあった)、その後しなければならないことは、この町の唯一の見所である北方民族博物館まで行ってみることなのであった。しかしこの雨は止みそうになく、傘はどうしても必要なのである。
ユジノサハリンスクから北へと向かう寝台列車に乗ること16時間、終着駅につくと激しい雨が降りしきっていた。乗客たちは、さらに北へと向かうバスに乗り込んで行った人たちを除いて、数十人が駅舎にたむろしていたが、ときおりやって来る家族か仕事仲間らしき人の車にポツポツと乗り込んでいくだけで、他の人たちは、やはり誰かの迎えか、町の中心部へと連絡する路線バスを待っているはずであった。
「はずであった」というのは、 私もその路線バスを待ってはいるのであったが、時刻表らしきものがやはり見当たらず、また、まだ8月だというのに、ひんやりと打ちつけてくる雨に気持ちまで遮られているような按配で、「町までのバスはいつ来るのか」と誰かに聞くための作文をする気にもなれず、タバコばかりを吸っているからで(そのたびに駅舎を出て傘をさした)、もしかしたら路線バスというものは存在しないか(『地球の歩き方』には「1時間に1?2本」と書いてあった)、この時刻には運行しないかであって、この物静かな乗客たちは、町の中心まで徒歩40分程度と、やはり『地球の歩き方』に書いてあった道のりを歩き始めるために、雨が止むのを待っているのかもしれなかった。
そして私は何本目かのタバコに火をつけた時に目撃したのである。それとはっきりわかるタクシーが駅舎近くに到着するやいなや、老夫婦とおぼしき2人が足早に駆け寄り乗り込んだかと思うと、瞬く間にそれは泥水をはね上げながら走り去って行ったのであった。
それを見た私は決心したのである。来るか来ないか分からぬ路線バスを待つのはやめて、次に来たタクシーに乗るのである。そうすれば「イズビニーチェ(すみません)と「スパシーバ」の間に言うべき肝心の文章も作文しなくてすむのである。
それにしても、あの老夫婦の年齢に見合わぬすばしこい動作をみるに、競争は並大抵のものではないようであった。またタクシーも、駅舎の前までは来ず、25メートルは離れたところに停車したのは、まるでその先陣争いを楽しんでいるかのようである。また私はさっき、それらしき車が幹線道路からこちらへと曲がって来る時にも、よもやととっさに体が反応し、スタートの遅れを取り戻すべく傘をたたんで走り出そうとしたものの、こういう時には超軽量超小型日用品は扱いにくいもので、「ポチ」の押し込みに手間どっているうちに、もはや彼我の差は明らかなのであった。
しかし私は有利なスタートラインを得ていたのである。というのも、私がタバコを吸っている場所は駅舎の外だったからであり、重厚なガラス製ドアに遮られた地元民よりも先に、タクシーを発見できる可能性は高く、またゴールまでの距離も短かったのである。
そして実際に、次に来たタクシーに乗り込むことができたのも、当然といえば当然の成り行きだったのである。私は後部座席に腰を下ろすなり、「ドブリ・ジェーニ(こんにちわ)、ノグリキ・アテーリ、パジャルスタ(ノグリキ・ホテル、お願い)」と言い、「ふ〜」と胸のなかで息を継いだのであったが、走り出してまもなく、さっきは横顔を見せて頷いていた運転手が今度ははっきりとこちらを向いて、「×××……」と聞いてくるものだから、それに対し私は、得意の「ネ・パニマーユ・パルースキー(ロシア語は分かりません)」を繰り出したのである。
すると、運転手は無線機を取り出して何やら確認し、やおらUターンを始めるのであった。そして駅まで戻ったタクシーに駆け寄ってきたのは、2人連れの中年婦人だったのであり、彼女らは大きな声を響かせて運転手と言葉を交わしながら乗り込んで来たのである。私はこの時になってやっと理解したのであった。先に老夫婦が乗り込んで行ったタクシーも、いま私が乗っているこのタクシーも、電話か無線を通して呼び出されたものだったのである。
その後タクシーは何事もなく町の中心部へと向かい、ある場所で1人の婦人を降ろし、また別の場所でもう1人の婦人を降ろし、そして最後にホテル・ノグリキに到着したのであった。私は「スパシーバ。スパシーバ。ボリショイ(大きい)、スパシーバ」と繰り返し、割り勘となったために結果的に格安となった料金を支払ったのであった。そして、傘を忘れたのである。
ロシアではこれが一般的なのであろうか、あるいはサハリンの特徴なのであろうか、とにかくサハリンでは、レストランや本屋その他の店舗のドアや窓がミラー張りであることが多く、店内の様子が覗けないようになっているのである。その上、店舗の場合には、商品は売主の背後の棚に陳列されているのが通常の形態であって、買主はそれらを勝手に手に取ることができないシステム、つまり言葉の出来ない外国人旅行者には、少々しんどいシステムなのであった。
私を出迎えたのは、扉の正面にしつらえられたカウンターの向こうに並び、雑談を中断されてこちらに一斉に振り向けられた3人の女性の眼差しであった。「ドブリ・ジェーニ。あー、あー、あー、ゾーンチク(傘)」と言いながら視線を泳がすに、傘はあるにはあったのであったが、それは折りたたみ式ではなく、またかなり大きいもので、私が「折りたたみ式が欲しい」という一文中の「折りたたみ式」という、出てくるはずのないロシア語単語に頭を巡らせているうちに、こちらから見て左端の店員Aはそれを手に取り、大きく開いて見せるのであった。私がようやく「マーリンキー(小さい)、マーリンキー(小さい)」と言いながらパントマイムしてみせると、「あーあ」という感じでうなずいたAは、いま開いた傘をたたむ作業を真ん中の店員Bに任せてからこちらに背を向けて屈み込み、折りたたみ傘を取り出して、再び開いて見せるのであった。私が「ダーイチェ・エータ(くれ・それ)」と言うとAは再びそれをBに手渡し、かわりに先の傘を受け取って元の陳列場所に戻し、そして折りたたみ傘をたたんだBは、右端の店員Cに手渡すのであった。Cはレジ係なのであり、確認した金額を打ち込んだ電卓を私に見せ、傘をBに返す。その後、私はCに紙幣を渡し、Cはレジに打ち込みを行い、私はBから傘を受け取ったのであった。長年にわたってこうした段取りを守って商品を販売してきたのであろうか。3人の連携作業はまったく無駄のないスムーズさで流れるように進んだのであったが、受け取ったそれは、ずっしりと重く、タクシーの中に置き忘れた東急ハンズ製の5倍の重量はあるように思われるのであった。
私は、旅行荷物の総重量削減にとりつかれるたちなのであった。たとえば私は3週間の旅行の場合、下着のパンツ3枚をカバンにつめるのであったが、日頃身につけていた綿素材トランクスが約80グラムであるのに対し、ユニクロにて発見したスーパーシルキートランクスは何と40グラム。すなわち総重量は120グラムの削減になるのである。しかも速乾性である。靴下1足が同じく約40グラム、Tシャツがやはり薄手の速乾性で約100グラム、といった具合である。こうやって数百グラムの削減を実現したはずなのであったが、その努力を一気に無駄にした計算になるのであった。
私はホテルからのほぼ一本道を、北方民族博物館を目指して歩き始めた。しばらく行くと小さなレストランがひとつあったが、営業は長らくしていないようで、舗装道路もそこで尽きると、泥道になった。自動車は頻繁に通り過ぎて行き、トラックの跳ねあげる泥水を避けるために、歩みは蛇行せざるをえなかった。それが先住民族の住居だと何かで見た板張りの建物が並ぶ一画があったが、窓から顔を出しているのは金髪の若い女性で、訪問してきた青年2人とパーティーか何かの相談をしているように見えた。
「ムゼーイ(博物館)?」と声をかけると、足を投げ出す格好で椅子に腰掛け、タバコを吸っていた男の顔に笑みが広がり、さっと立ち上がって綺麗な振る舞いを見せた。「ガイドは必要か」というようなことを聞かれたと思うが、よく分からないまま入場料を払った。出迎えてくれたのは、上品な顔立ちの小柄な女性だった。30歳ぐらいだろう。ニブフの特徴だとやはり何かに書いてあった、アザラシか何かの革で作るという、くるぶしまでを包む靴を履いていた。しかし私には、ニブフとウィルタの区別などできないのである。色鮮やかなセーターを着ていたと思う。
小さな展示室。短い単語を添えながら展示物の1つ1つへと案内してくれたが、解説文を含めて言葉はほとんど何も理解できなかった。それでも適切な距離を置いて付き添ってくれるこの人に、私は好感をもった。「熊祭り」を行うことはアイヌと共通するようであった。「ゴッド」「ベアー」「セイム」といった英単語と「アイヌ」という単語を言ってみたと思う。見学者は私一人だった。若い母親が小さな息子を連れて入ってきたが、なぜかすぐに出て行ってしまった。しばらくすると、恰幅のいい中年女性を先頭に学芸員らしき人々が来て、私をガイドしていた女性の表彰式が始まるらしかった。
私は、網走にある北方民族博物館で、2、3本の短いビデオテープを見ただけで、ソ連・ロシアにおける先住民族の暮らしについては、何の知識も持ち合わせていなかった。ビデオに収められていたインタビューでは、漁業コルホーズの労働者として働いているが、独自の風習が失われてアイデンティティーが保てず、アルコール依存症に陥る人も多い、といったことが語られていたと思う。私はむしろその博物館では、サーミという北方民族の人々が漁に出るときのダイナミックな体つきや、イヌイットのお祭りで、横一列に並んだ女性たちが棒きれで丸太を叩く姿に目を奪われていた。
私は、ソ連における先住民族の歴史の一端についてもまた、『辺境から眺める』によって教えられたのである。
(1)「多民族連合国家」と自らを定義するソ連では、ロシア人と少数
民族との「民族的つながり」が問題にされることはなかった。国家
の構成者は「社会主義への進歩という目標を共有する公民」であ
り、「先住民族社会は、適切な指導があれば、現段階から社会主義
段階に移行できる」と考えられた。
(2)1925年、サハリンに先住民(ニブフ、ウィルタ、エヴェンキ)
学校が作られている。またレーニングラード大学では、国内各地か
ら先住民族の学生を集め、エリート(先住民学校の教師)を育成す
る取り組みが進められた。そして1931年には、国内の13の先住民
族言語のためのアルファベットが作られている。
(3)しかし、「進歩」と「ロシア化」の混同は避けられなかった。ま
た1920年代後半以降に始められた大規模開発にともない、入植者
が増大するにしたがって、先住民の自治・自律はないがしろにされ
ていく。そしてコルホーズにおける集団労働は、環境に応じた先住
民の生活を破壊していった。
(4)1930年代、サハリンの先住民コルホーズのいくつかは、農業への
転換を求められている。
(5)1930年代半ば以降、より大きな村への強制移住とコルホーズの合
併が始まる。1962年から1986年にかけては、サハリンにおける村
の総数自体が約1000から329に減少。ニブフの大部分はノグリキ
とネクラソワという2つの村に集住させられる。大規模化した新村
ノグリキは、住宅設備も不適切なもので、「釣りに行くのにも18
キロも歩かなくては」ならなかったという。
私が歩いた博物館までの道、立ち並んでいた板張りの家屋。たしかにトゥミ川近くに開かれていたとはいえ、私が、これが先住民ニブフの村だと単純に思い込んでいたそれらは、「新村」において建設されたものであったのだろう。
ホテル近くの公園まで戻り、タバコを吸った。ロシア正教の小さな教会があったが、鮮やかすぎる青と白の壁は、テーマパークを思わせた。失業者らしき中年の男がベンチに座り込んでいたが、タバコをくれとは言ってこなかった。乳母車に幼児を乗せた母親もすぐに行ってしまった。
夕食はホテルの食堂でとるしかなかった。紙切れに書きなぐっただけのメニューからは、何も読み取れなかった。「リーズ」という単語を言ってみたと思う。ウェイトレスが指差した文字に目を凝らすと、確かにそう書いてあるように思えた。親切な気持ちでそうしてくれたのだろう。まだ20代前半とおぼしきウェイトレスは、それが米をどう料理したものであるかを説明してくれたが、「チキン」という英単語だけが聞き取れた。私は「チキン?」と聞き返しながら、鶏の羽根に見たてた両手をヒラヒラさせ、「ダーイチェ・エータ」と言った。ウェイトレスは、踵を返して向こうへ歩き始めたかと思うと、私の鶏形態模写を同僚に再現して見せ、嘲るような笑い声をたてた。その態度に私は親しみを持たなかった。
ビールを運んできたのは、これも若いウェイターだった。彼はすぐまたやってきて、大ぶりな干し魚を私の前に差し出した。サービスだということはわかった。男がその干し魚をかじる仕草を見せたような気がするのは、彼に親しみを覚えたからだろう。私は魚の名前も知らない。ししゃもの5倍ぐらいの大きさのそれは冷え切っていて、生臭さかったが、塩味を探すつもりで噛り付き、ビールで流し込んだ。身体も冷え切っていた。ウォッカにすればよかったと後悔したが、私はとっさに「ピーヴァ」という単語が口から出てしまうのだ。それが短く単純で、必ず通じる単語だからだろう。
ロシア語の名詞には、男性・中性・女性の区別があり、その区別に応じて形容詞だけでなく、数詞の「1」や「2」も変化する。たとえば「2」は「ドヴァ(男性・中性)」「ドヴェ(女性)」で、「ヴァダー(水)」は女性名詞だから、ミネラルウォーターが2本欲しいとき、「2つの水」は「ドヴェ・ヴァダー 」となる(本当は「ヴァダー」もさらに変化するはずだが手に負えない)。これが簡単には覚えられない。キオスク(雑貨店)で「ドヴァ・ヴァダー」と言って、「ドヴェ」だと訂正されたという話をしたとき、「そんなん、ツーウォーターでええんとちゃうんか」とある友人に言われたが、試してはいないので自信はないが、サハリンでは通じにくいと思う。それに私は、英語の必要性は痛感しながらも、正直にいえば、通じてほしくないとも思っているのだった。
次の朝、朝食チケットを持ってふたたび食堂に行くと、食堂係からの拒絶にあった。「もう閉店だ」と言われているらしく、チケットに記されている時間帯を示して抵抗したが、拒絶理由の説明は続いているようだった。「ガスボンベが空になった」とか「食材がなくなった」とか言われているような気がしたが、すべて意訳にもなっていない当てずっぽうである。
かなりの時間、一方的にしゃべられていたと思う。背後からも大きな声を掛けられたかと思うと、先客の男が自分の皿を差し出しているのであった。 そして「俺のを食べろ」と、これははっきりと意訳できる言葉をかけてくれるのである。皿の上にはピザトーストの最後の一切れが残っており、朝食のメニューはそれであるらしかった。男性は夫人を連れてきていた。私は、「スパシーバ、……バット、ノー、サンキュー」と言ったように思う。このやりとりを見ていただろうか。いつのまにか厨房に行っていた食堂係が小さな皿を持って帰ってきて、そこには昨夜食べたチキンライスがわずかに載せられているのだった。「これでもいいか?」ということらしかった。私は「ダー、ダー」と言い、いまだ成り行きを見守ってくれている男性にもう一度礼を言い、席についた。出てきたのは、そのチキンライスとさっき勧められたピザトーストであった。私は、何が起こったのか理解できなかったが、ピザトーストは暖かく、美味かった。
私は、この文章を書き始めてから『辺境から眺める』の存在を知ったのであり、この「旅行記のようなもの」も、途中からはその「紹介文のようなもの」に変化してしまっているのであった。ところがこの書物の最後の章は、書きつづける意欲さえも失わせかねないものだったのである。というのも、「終章サハリンを回想する」は、次のように書き出されていたからなのである。「サハリンに向かうフェリーの中で、……をわたしは読んでいた」。「旅行記」はすでに書かれてしまっていたのである。
稚内=コルサコフ定期航路が復活したのが1995年。テッサ・モーリス・スズキは、その翌年にサハリンを訪れているのであった。そしてもちろんのこと、事前に稚内の北方記念館を訪れ、その建築様式から展示内容までを見事に書きとめ、分析を加えているのである(私はといえば、「譲り受けた」と「茶色いボール」しか覚えていないのであった)。
そしてフェリーの中では、「(記憶を主題にした書物を)読んでいた」だけではなく、同乗していた元サハリン在住の老人たちから話を聞き、その記憶に思いをめぐらせ、そればかりか、在サハリン朝鮮系住人やニブフ、ウィルタの人たちとも会話を交わしている(私は二日酔いで寝ていただけである)。
そしてまた当然のことながら、ユジノサハリンスクの郷土博物館を訪れたテッサ・モーリス・スズキは、稚内と同様にその展示内容を丁寧にたどり、その上で、この両者が示す相似性について述べているのであった。
この両者に共通していたのは、「探検者の目を通して先住民を見る」という姿勢と、それぞれの国民が回想すべき「国民的物語」の呈示だったのである。2つの博物館は、いずれもその展示順序において、「この地域の探検史」から語り始めるのであり、つづいて「先住民族に関する展示」へと見学者を誘導していくのであった。そして、展示内容の終着点は、稚内においては「九人の乙女」であり(日本軍は捨象されている)、サハリンにおいては「パルチザンによる祖国防衛」や「トナカイ集団牧場による生産の向上」となるであろう。
私はこの文章を書きながら、もう一度「旅」をした気分にもなっているのだった。『辺境から眺める』の著者が読者を誘いたいと考える「旅」とは、「国史や世界史を違った視座から再訪する旅」なのである。私はよき同行者であったか自信はないが、ともかくも読み終えたのであり、この文章も終わりに近づいているのである。
コルサコフ
ふたたび夜行列車に乗り、ユジノサハリンスクからそのまま中距離バスに乗り継ぎ、コルサコフまで戻ってきたのだった。最後の2日間を過ごすのである。ただ一つの宿泊施設であるホテル・アルファは、小綺麗なペンション風で、快活な若女将といった雰囲気の女性が笑顔で出迎えてくれた。
ここでの観光場所は、歴史郷土博物館、旧北海道拓殖銀行大泊支店、そして旧亜庭(あにわ)神社跡石段である。私は、神社の石段を歩いたあと、歴史郷土博物館へと向かった。電灯はついていなかったが、閉館しているわけではなく、来場者が来るたびに点灯するのである。私は、これが合理的なのだと、このときには思えるようになっていた。たとえばユジノサハリンスクのチェーホフ記念文学館は、数個の小部屋で構成されており、学芸員は見学者をエスコートしながら、小部屋ごとに点灯・消灯を繰り返していたのである。ホテル・ラーダの売店では、真っ暗な部屋の奥に販売員が座りこんでいるのに気づき、思わずぎょっとしたのであったけれども。
歴史郷土博物館はとても小さなものであったが、展示されていた一枚の写真が印象に残っており、そしてそれを正確に再現できないことがやはり情けないのである。その写真は、1945年にここコルサコフで撮影されたもので、ある雑貨屋か何かの店舗の前に集合した朝鮮人たちと、その店舗の看板に大きく掲げられた「ソヴィエト」の文字を記録しているのであった。この一枚は、日本統治下のサハリンにおいて、帝国主義からの解放を闘っていた人々が存在していたこと、そして1945年のソ連による占領は、この願いを実現するものであったことを示しているのである。
私は、日本統治下におけるサハリンで、どのような活動が行われていたかについて、何ら知識がない。この写真は、ソ連共産党のプロパガンダの性質をいくらかは含んでいるだろうし、捏造写真である可能性すら否定できないかもしれない。しかしそれでも、2万5千人以上いた朝鮮人労働者の中に、ソヴィエト樹立による解放を願っていた人が皆無であったと想定することは、それ以上にできないと思われるのである。
私は、ユジノサハリンスクの郷土博物館で、1918年のウラジオストク上陸から始まる「シベリア出兵」を東方からの黒太い矢印で表し、1941年から始まるナチスドイツの侵攻を、ふたたび今度は西方からの黒太い矢印で表し(1939年にナチスと行ったポーランド分割は捨象されている)、それら侵略を撃退して現在のロシア国家が保たれているという展示を見たような気がする。日本で言うところの「シベリア出兵」が、ソ連・ロシアからは「侵略」と捉えられていることの証拠として、印象に残ったのであった。けれども私は、旅行先での発見という意味で、この一枚の写真を思い出すのである。
私には、写真を撮るという習慣がない。I take pictures in my mind.などと、これはinではなくonかもしれないと思いながら、意地にもなっているのであった。しかし私は「見たと思う」「気がする」などとばかり書いているのであり、もうこの意固地にすぎるこだわりも、修正すべきなのかもしれないと思いもするのである。
私は、旧拓殖銀行前の通りをアニワ湾が見えるところまで歩き、港近くの「ペンギンバー」に入った。そしていつものようにピーヴァを頼んだあとメニューと格闘している私に、ボルシチやビーフストロガノフを熱心に勧めてくれたのは、ボディコンラバースーツ・パンクファッションに身を包んだウェイトレスだった。彼女は、『旅の指さし会話帳』に描かれた料理の絵とメニューの文字を1つ1つ対応させて、音読までしてくれたのである。彼女目当てとおぼしきおやじたちがたくさん飲みに来ていたのも、当然のことといえよう。
ホテルの朝食は、白ごはんの小盛りに韓国スープとキムチ、そしてサワークリームがたっぷりかかった巨大なケーキだった。他に一品あったかもしれないが忘れた。その日は自由市場を覗いてみたが、欲しいものは何もなかった。不良中学生の2人組が、携帯電話を買わないかと声をかけてきた。 インターネットカフェでは少年たちがゲームに熱中していた。 ピザ屋に入るとやはりラバースーツ・ボディコン・パンクがウェイトレスをしていた。小学校教員風の中年女性が一人で静かにコーヒーを飲んでいた。大通りに屋台を出していたクワス(軽いビールのような炭酸ドリンク)を買い、公園に行った。たくさんの鳩が餌をついばんでいた。そして私は、話の尽きることを知らない老人たちの声を聞きながら、長い時間を過ごした。
帰りのフェリーは空いていて、ロシア人のツアーグループが目立っていた。小学生ぐらいの子どもを連れたいくつかの家族がいた。午後1時半、稚内着。私は札幌までのバスに乗ることにし、発車までの待ち時間を、街にまで出て、コインランドリーで洗濯をしながら過ごした。バスターミナルまで戻ると、フェリーで一緒だったロシア人ツアーの人々でほとんど満席だった。フェリー乗り場で時間を潰し、そこから乗ってきたのだった。サービスエリアに着くたびに、子ども達はよく遊び、はしゃいだ。すっかりくたびれはてた頃、札幌に着いた。ロシア人ツアーの人たちも、どこかのバス停で降り、夜にまぎれていった。
〈参考書〉
『短歌の友人』(穂村弘・河出文庫)
『2009年版われらの北方領土』(外務省)
『北方領土問題を考える』(和田春樹・岩波書店)
『北方領土問題』(和田春樹・朝日出版社)
『シベリア出兵』(原暉之・筑摩書房)
『天皇制の侵略責任と戦後責任』(千本秀樹・青木書店)
『松代大本営』(青木孝寿・新日本出版社)
『八月十五日の神話』(佐藤卓己・ちくま新書)
『泰緬鉄道と日本の戦争責任』(内海愛子他・明石書店)
『ワールドガイド・サハリン』(徳田耕一・JTB)
『地球の歩き方・シベリア鉄道とサハリン』(ダイヤモンド社)
『旅の指さし会話帳・ロシア』(情報センター出版局)
『チェーホフ全集12』(ちくま文庫)
『辺境から眺める』(テッサ・モーリス=鈴木・みすず書房)
『菜の花の沖』(司馬遼太郎・文春文庫)
『侵略神社』(辻子実・新幹社)
★プロフィール★
加藤正太郎(かとう・しょうたろう)。
Web評論誌「コーラ」26号(2015.08.15)
<旅行記>(加藤正太郎)
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