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Web評論誌「コーラ」
19号(2013/04/15)

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柄谷の態度変更・批評から体系へ
 80年代以後の日本を代表する批評家・思想家である柄谷行人の著作『世界史の構造』が出版されたのは、2010年6月のことだ。その時、書物好き、思想好きの人の間では、この本は大きな話題になったと思うのだが、僕は80年前後からの愛読者でありながら、この本をこれまで読まずにきた。正直、柄谷に対する関心が、いつ頃からかすっかり薄れていたためである。
 ただ、この大作の概要のようなことが書かれている『世界共和国へ』という本が、2006年に岩波新書から出され、そちらの方は読んだ。だから、著者の主張の大枠は知っていたわけだが、その内実というか、思想の中味のようなことについては、この本を読んではじめて知ることになったと言っていいと思う。
 特にそういう印象を持つ理由は、分量の大きさだけではなくて、この『世界史の構造』の序文のなかに、次のようなことが書かれているからである(以下、引用文は、特に書名の表記がない場合は『世界史の構造』岩波書店、2010年から)。
しかし、このようなオプティミズムは、二〇〇一年、ちょうど私が『トランスクリティーク』を出版したころに起こった、九・一一以後の事態によって破壊された。この事件は、宗教的対立と見えるが、実際には「南北」の深刻な亀裂を露出するものである。また、そこには、諸国家の対立だけでなく、資本と国家への対抗運動そのものの亀裂があった。このとき、私は、国家やネーションがたんなる「上部構造」ではなく、能動的な主体(エージェンシー)として活動するということを、あらためて痛感させられた。資本と国家に対抗する運動は一定のレベルを越えると必ず分断されてしまう。これまでもそうであったし、今後においてもそうである。私は、『トランスクリティーク』で与えた考察を、もっと根本的にやり直さねばならない、と考えた。
 (中略)今回、生涯で初めて、理論的体系を創ろうとしたのである。私が取り組んだのは、体系的であるほかに語りえない問題であったからだ。(pix〜x)
 最初に「このようなオプティミズム」と呼ばれているのは、著者がそれまで、1999年のシアトルの反グローバリゼーション運動に象徴されるような、「資本と国家への対抗運動」が、いわば自然に国境を越えて連帯しながら展開し成果をあげていくだろうと、「漠然と」考えていたことを指している。
 だが2001年の「9・11」を契機として突きつけられたのは、現実はそのようには展開しないものだということ、対抗運動が一定のレベルを越えると、資本と国家はその権力性をあからさまにして、運動を分断したり、あるいは力ずくで押さえ込んでしまう。
 また、ネーションの力もそこに動員される。それは、9・11直後のアメリカ社会の狂乱ぶりを思い出しても明らかだろう。著者がこの本の中で示唆しているように、国境を越えた自然な連帯というようなものは、危機に際して発動される国家とネーションの作用(戦争への意志)に対しては、あまりに無力なのである。実際、19世紀の帝国主義の時代においても、20世紀の二度の世界大戦においても、労働者のインターナショナリズムと呼ばれたものは、国家の論理とナショナリズムの沸騰の前に、繰り返し打ち砕かれてきた。
 9・11において柄谷は、「南北」の間に実在している(資本や国家による)「亀裂」の深さと、危機に際してはあからさまに姿をあらわして、対抗運動をやすやすと分断し無力化してしまう国家の実力というもの、またネーションの抗い難い威力、そうした現実に直面して、思想の根本的な態度変更のようなものを強いられた。そういうことが、ここに書いてあるのだ。
 現実に直面したことで、自分のそれまでの考えに不十分なものがあったことを率直に認め、これまでとは根本的に異なった仕方で思想を構築しようとする。こんな宣言を巻頭から読まされたら、古くからの愛読者の一人として、それはいわば自分自身を問われるようなことでもあるので、向き合って読まざるをえない。
 この本で「思想の中味」をはじめて知った、と書いたのはそうした意味である。
 ところでその態度変更とは、どのようなものであったか。上記の引用文の終わりの方で「(中略)」となっている部分から下を、一部繰り返しになるが引用してみる。
そこで、私は交換様式という観点から、社会構成体の歴史を包括的にとらえなおすことを考えた。この考えはもともとマルクスが提起したものである。ところが、これを全面的におこなうには、旧来のマルクス主義の公式を否定する必要があった。もはやマルクスのテクストを再解釈することでは足りないと私は判断した。2001年にいたるまで、私は根本的に文学批評家であり、マルクスやカントをテクストとして読んでいたのである。いいかえれば、自分の意見ではあっても、それをテクストから引き出しうる意味としてのみ提示したのだ。だが、このようなテクストの読解には限界がある。私の意見が彼らに反することが少なくなかったし、また、彼らが考えていない領域や問題が多かった。したがって、「世界史の構造」を考えるにあたって、私は自身の理論的体系を創る必要を感じた。これまで私は体系的な仕事を嫌っていたし、また苦手でもあった。だが、今回、生涯で初めて、理論的体系を創ろうとしたのである。私が取り組んだのは、体系的であるほかに語りえない問題であったからだ。(px)
 柄谷は、それまでの「批評家」的な態度、マルクスやカントの著作をテクストとして読むことで現実に介入していくという態度の限界を自覚して、それを改め、理論的体系を創ることを決意したというのである。
 この「私は根本的に文学批評家であり」という自己規定も、はっとさせられるところがある。ここでの「文学」も「批評」も、別に否定的な意味で用いられてる言葉ではないだろう。ただ、そこには当然ながら限界もある。そこで、現実の在り様と、そのなかに存在している自分の姿とが、新たに明らかとなった今は、別の方法、「嫌っていたし、また苦手でもあった」方法をとることにした。そう述べられている。
 従来の批評家的な態度、かつて著者自身も言及していた日本の思想史の流れにおいては江戸の注釈学につながるものとも考えられると思うが、それを棄てて、マルクスがおこなったような社会構造についての「理論的体系を作る」仕事に進む。この態度変更が意味しているものは何だろう。
***
 その理由は、序文で明快な説明がなされている。
 本書における分析の重要な枠組みである「資本=ネーション=ステート」というシステムは、前著『トランスクリティーク』(批評空間、2001年)においても語られていたものだが、柄谷によれば、この「巧妙なシステム」を最初に明確に(ただし観念論的に)捉えたといえるものは、ヘーゲルによる理論的体系であった。次にマルクスは、このヘーゲルの体系をいわゆる唯物論の立場から批判して、生産様式にもとづいた(それを下部構造とする)世界史の解明ということを行った。柄谷はこのマルクスの分析にもとづき、そのテクストを「批評する」という仕方でこれまで仕事をしてきたわけだが、9・11の事態を見て、そこに限界を感じざるをえないことになった。
 それは上記のように、国家やネーションが、マルクスが言うようなたんなる「上部構造」であるといってすませられないような現実的な力であることを突きつけられたからだ。
マルクスがヘーゲルの体系的思想から切り捨てた部分、つまり「資本」のみならず、「ネーション」や「ステート」にも、おのおの唯物論的な根拠があると考えざるをえない。
 それらおのおのの根拠が、何らかの形で強固に連関するようなシステムとして、社会的現実を把握する必要があるということだ。そこで、マルクスが生産様式を下部構造としたことに換えて、柄谷は新たに、交換様式という概念を下部構造(原理)として世界史を解明するような理論的体系を構築することになったのである。
 以上が、自ら体系を作ることに踏みこんだ理由である。
 だが、さらに柄谷によれば、『トランスクリティーク』と本書との差異はそればかりではない。大きな違いは、本書においては、ヘーゲルが行ったような(「資本=ネーション=ステート」という)システムのたんなる記述ということを越えて、そのシステムを乗り越える道を提示するという姿勢が、より明確にされていることだ。これは、ヘーゲル的な思想のあり方によっては、システムの完璧さをいわば称揚することはできても、それを乗り越える可能性は、むしろ閉ざされてしまうということを意味するだろう。
だが、私の関心はむろん、それを称揚することではなく、それを越えることにある。(p ix)
 僕がこの本を読み始めて、まず最初に驚いたことは、柄谷がこれまでまったく眼中に置いていないとこちらで勝手に思っていたヘーゲルの思想が、序文の冒頭から、大きな意味をもって語られていることだった。これまで、この『コーラ』での連載のなかで、柄谷をその代表格にあげて、80年代以後の日本のいわゆる「現代思想」の大きな特徴あるいは欠点であるものを「ヘーゲルの不在」と名指してきたと思うが、この本ではその柄谷がヘーゲルの思想の重要性を力説している。これはまったく僕の不明のいたすところで、柄谷はこれまで名前は特に出さずとも、ヘーゲルの思想の重要な点をきちんと掴んでいたのであろう。いや、名前を出してなかったというのは、たんなる僕の思い違いで、ただマルクスやカントやフロイトほどには多く語られることがなかった、ということかも知れない。
 だが、本書でヘーゲルの名が特にあげられているのには、他にも大きな理由があると思われる。それは、問題の9・11をめぐる事態に関連したことである。すなわち、有名なヘーゲル学者であるコジェーヴの弟子、フランシス・フクヤマをはじめとしたネオコンのイデオローグたちが、9・11を受けて起きたいわゆるイラク戦争(アメリカによるイラク侵略)に際して持ち出したのがヘーゲルの歴史哲学であり、なかんずく「歴史の終焉」と呼ばれる考えだったことだ。
 この文脈では、ヘーゲルの思想、柄谷の言葉を使えば「資本=ネーション=ステート」というシステムの巧妙さを記述したその体系は、システムの完璧さを「称揚」し、そこから逃れ出ることの不可能性を読む者に思い知らせる、遂行的な働きをもってしまう。
 柄谷は本書において、このヘーゲルの思想、あるいは優れた体系的な思想一般が持つ、未来を変更しようとする人々の意欲を抑えこむような働きに対抗しようとしたのだといえよう。そのためにあらためて召喚されることになるのが、カントなのである。
***
 だが、このヘーゲルの体系的思想とカントの思想との、柄谷における関係性については後ほど書くことにして、ここでは、本書における柄谷の態度変更、つまり批評から体系へという思想のあり方の変更がもつ意味について、もう少し考えてみたい。
 現実を理論的に説明しつくすような体系を作るということは、自分に見えている現実を把握してそれに対抗しうるような、一個の構築物を作り上げようとする営みだろう。だが、それが真に現実の世界を的確に捉えているものなら、その認識は、思考する自分自身の存在をも、その世界のシステムのさなかに存在しているものとして掴んでいるはずである。
 つまりは、理論的体系の構築とは、自分が現実を形成しているシステム(柄谷によれば「資本=ネーション=ステート」)の一部であることを、思考する当人が受け入れるということを意味しているのだ。したがって、自分が把握し批判するシステムのなかに、それを構成する一部として自己が確かに存在することを、思想家が責任をもって引き受ける意志が、体系の構築という行為には込められているはずである。ここに、思想の態度変更ということの意味がある。
 この文章のはじめに、僕はかつて愛読していた柄谷の思想に、ある時期から関心を持てなくなったことを書いた。だがそもそも、なぜ僕は彼の書く言葉や発言にあれほど惹かれていたのだろうか。いま考えてみると、それはまさしく柄谷が言うように、彼の思想が「批評」的なものだったからだと思う。自ら現実を説明するような理論的体系を打ち立てるのではなく、既存の何らかの体系や思想を批評するという仕方で現実を論じようとする。そこから紡がれて出てくるのは、自分が現実の諸対象と同じ位置に立つことなく、安全な高みからそれらを見下ろして裁断していくかのような全能感を、読む者に感じさせる文章だったのである。その感覚が、僕にはとても心地よかった。それは、自分がその語られる対象(世界)と同じ場の中にたしかに存在し生きているという苦しさを、忘れさせてくれるような体験だったからだ。
 こうした、いわば超越的な柄谷思想の魅力は、彼がNAMなどの運動実践に入り込むようになったのを契機に、僕の中では急速に薄れていった。僕自身の身辺の変化もあろうが、柄谷の文章や発言にあまり関心を持たなくなった理由は、このことが大きいと思う。
 そうした運動実践への参加が、柄谷のなかでどういう意味を持ったのかは分からないが、9・11の衝撃を経て振り返ると、そこまでの自身の思考のあり方全体が、彼には「文学批評家」的なものだと感じられたようである。そのことは、自身の思考がいまだ現実の諸対象と同じ場に存在するものだという事実を引き受けていないことへの自覚、言い換えれば、現実に対して真に有効な対抗的思想となりえていないという自覚を意味するのではないか(これは、体系的思考と批評的思考のどちらが優位あるいは有効か、といったこととは別である)。
 僕は、柄谷がこの本で体系を志したということは、9・11という出来事から受けた思想上の衝撃を受けとめ、その新たに見出された現実のさなかで、対抗的な思想を形づくっていこうとする意志の現われとして捉えるべきだと思う。その新たな現実の相貌とは、とりわけ国家やネーションの具体的な実在、その「能動的な主体」としての威力ということである。
 「資本=国家=ネーション」を傍から見出してそれを分析したり「批評」するのでなく、むしろそのシステムを動かしている現実的な一部として自分の存在と思考を自覚し、その認識のもとに対抗的な思想を築こうとすること。それが理論的体系の形成ということであり、それはいわば現実のシステムのさなかに、そのシステムの原理に沿い、そのシステムの構造に相似するようなものとして一個の対抗的構築物を作り上げようという、自覚的な「悪」の姿勢(自己の政治性・権力性の自覚)とも呼べるようなものではないか。
 ヘーゲルの精緻な哲学が、いまなお強力な意義と力を持つとされるのも、それが自己の権力性の自覚のもとに、システムの似姿として自身の構造を作り上げていることに、理由があるのだろう。無論、その自己の悪(権力性・政治性)への自覚が失われるとき、その意義と力は、ネオコンにおけるように単に人々を抑圧するものへと変じるのだが。
 そして既に書いたとおり、柄谷の場合は、この体系への意志という現実的な力を、体系(システム)の抑圧を打破するためにこそ使用しようとするのである。
 ところでそのためには、ヘーゲルのような観念論的体系ではなく、マルクスのような唯物論的な方法をとることが是非とも必要となる。その方法だけが、現実的・物質的条件の人間自身による改変の道を示し得るからだ。ただ柄谷によれば、その唯物論には限界があった。それは国家やネーションの実在性について的確に把握出来ないようなものであるし、のみならず資本に関しても貨幣や信用というその「上部構造」的な側面については十分な理解が出来ないものだからである。この点では、マルクスが方法上の理由からあえて切り捨てた(と柄谷が見なす)ヘーゲルの体系的・総合的な世界認識の重要性に、あらためて注目する必要がある。
 そこで、世界の構造を「資本=ネーション=ステート」のシステムとして的確に見定めたヘーゲルの洞察を、旧来のマルクス主義のような単純な下部構造の理解(生産様式にもとづいた)によっては捉えられない現実の全体像を把握する論理として重視しながら、それに新たな意味での唯物論的な根拠(交換様式)を与えるような新たな体系を創り出すことによって、その完璧に思えるシステムからの脱却(解放)への道筋を論理的に示すことが、本書の企図となるのである。
 
四つの交換様式の説明
 柄谷が「資本=ネーション=ステート」からの解放の道筋を示すために召喚しているのは、先述したように、ヘーゲルに対する批判者としてのカントの思想だといえるのだが、そのことを書く前に、多くの読者には周知のことだろうが、本書で語られている「世界史の構造」の基本的な図式、四つの交換様式の関係について簡単に説明しておかなくてはならない。
 柄谷は、世界史を形成する下部構造(土台となる仕組み)を、A(互酬)、B(略取と再分配)、C(商品交換)、D(X)という四つの交換様式として考えている。DがXとされているのは、どういう呼び方をしても誤解を招くからだと書いてあるが、これが彼が「理念」として提示している、目指されるべき交換様式(社会的・物質的関係性)のあり方だと言っていいだろう。
 歴史的な記述においては、部族社会においてはAが支配的な交換様式であり、国家が形成されるようになるとBが支配的となり、さらに資本制社会になるとCが支配的となる、という風に移行する。そしてDについては、それは支配的な力として実在するものではなく、普遍宗教や社会主義におけるようにあくまで「理念」という姿で歴史に影響を与える、とされるわけだが、大事なことは、歴史のどの段階においても、これら四つは複合的に並存すると考えられていることである。
 たとえば部族社会といっても、国家や貨幣経済の萌芽のようなものはすでにあるし、現代社会でも互酬原理が全く消失してしまう(それならナショナリズムの成立の根拠もなくなる)ということはなく、また自由市場の拡大によって国家が消滅したり衰退してしまうなどという事態も実際には生じていないのをみれば、そのことはよく理解できよう。
 ある交換様式は、歴史の進行にしたがって抑圧されるということはあるが、それは消滅することはなく、形を変えて存続するのであり、またある場合には「回帰する」という仕方で現実に働きかけるとされる。これが柄谷理論の非常に重要なポイントだ。
 たとえば、部族社会の原理だったA(互酬)は、支配的な様式となった国家の体制の内部でも機能して、国家や共同体のあり方を様々に規定するとされる。なかでも注目されているのは、それが歴史の各段階で集権的国家や専制国家の形成を妨げる機能を果してきたという事実である。
 また、資本制社会である「近代社会」(現在もそこに含まれる)でいえば、先述の「資本=ネーション=ステート」のうち、A(互酬)はネーションに、B(略取と再分配)はステート(国家)に、C(商品交換)は資本に、それぞれ対応するのであり、ヘーゲルが洞察したように、この三つは相互補完的な円環を形成している。たとえば、資本主義経済の発達によって成立したブルジョア社会や近代国家をみても、そこでは交換様式Bが無くなってしまったわけではなく、ただ「略取と再分配」から「納税と再分配」へと国家の支配形態が変形しただけである。また同様に、資本主義経済の発達は宗教共同体などの伝統的共同体を破壊してしまうが、それがかえってネーションという近代特有の「想像の共同体」を生み出す条件になるのである。もっと具体的に言うなら、自由市場の侵襲的な拡大というイメージは、(自由市場化とは実は国家の権力によって可能になっているものであるにも関わらず)国家に対する人々の帰依の高まりとナショナリズムの沸騰という形で、「資本=ネーション=ステート」システムへの対抗運動を分断・回収してしまうのだ。
 これに対して交換様式Dは、世界史の展開の上でも、あくまで「理念」としてその働きを見出しうるものとして論じられている。その(いわば)出現の原理は、フロイトのいう「抑圧されたものの回帰」である。やはり序文のなかに、こうある。
……また、交換様式Dは、原初的な交換様式A(互酬性)の高次元における回復である。それは、たんに人々の願望や観念によるのではなく、フロイトがいう「抑圧されたものの回帰」として「必然的」である。(pxvi)
 また序説においては、こう述べられている。
 交換様式Dは、複数の社会構成体が関係する世界システムのレベルでも考えられるのである。というより、むしろそれは一つの社会構成体だけでは考えることができない。資本=ネーション=国家の揚棄は新たな世界システムとしてのみ実現されるのだ。(p43)』
 Dの「回帰」ということは、理論的体系によって把握される世界史のシステムのなかで必然的である。その必然性は、「資本=ネーション=国家」の「揚棄」が現実の目標として掲げられることを根拠づけるだろう。世界システムはたしかに完璧だが、その完璧さが指し示しているのは、このシステムの「揚棄」を目指すことの重要さと不可避さに他ならない、というわけである。
 ここで目論まれているのが、ネオコンによって使用されたヘーゲルの体系的思想の抑圧的な意味合いを逆転させることであるのは明らかだろう。ヘーゲルが観念論の形ながら見出した、その現実のシステムのあり方は(過去のマルクス主義者の予測に反して)完璧と呼ぶしかないものなのだが、その完璧なシステムの内部には、それが「揚棄」されていく道筋が、すなわち「抑圧されたものの回帰」の必然性が秘められている。いやむしろ、その現実のシステムの論理(体系)のなか以外に、その「揚棄」への道筋を切り開く鍵は存在しないというのが、柄谷の言わんとするところであろう。
 
カント導入の意味・理念と経験
 ともあれ、「交換様式A(互酬性)の高次元における回復」としての交換様式Dこそが、近代世界において完成された「資本=ネーション=ステート」による三位一体のシステムからの解放の原理である。その交換様式は明確に、「贈与の力」によって形成されると語られていて(p43など)、これは重要な問題をはらんでいると思うのだが、この小論ではそれには詳しく触れられない。
 ここで大事なのは(ここでやっと話の本筋に戻れるのだが)、「抑圧されたものの回帰」としての交換様式D、現実のシステムからの解放の原理であるその存在が、カント的な意味での「理念」(統整的理念)として語られていることだ。
 先にも述べたように柄谷は、そうしたものとしてのカントの思想を、ヘーゲル的な思想のあり方への批判として見出している。やはり序文から引く。
 ヘーゲルにとって、物事の本質は結果においてのみあらわれる。すなわち、彼は物事を”事後”から見るのだ。一方、カントは物事を”事前”から見る。未来に関して、われわれは予想できるだけで、積極的に断定することができない。それゆえ、カントにとって、理念は仮象である。だが、それは「超越論的仮象」である。(中略)このような理念は「統整的理念」である。すなわち、それは「構成的理念」とは違って、けっして実現されることはないが、われわれがそれに近づこうと努めるような指標としてありつづける。(pxiii)
 ヘーゲルの体系においては、物事(歴史)は完結した一個の実在物として、すでに完了しているものとして見出されている。それは完結した歴史の像を描くが、その歴史は、いわばすでに終わったものなのである。それに対してカントの思想は、歴史をわれわれが完全に見通し断定することが出来ない、未来の事柄として捉えている、というわけである。
 この柄谷における、ヘーゲルとカントの対比は、多くのことを考えさせる。
 ところで上の文中に「超越論的」という言葉が出てくる。これは柄谷が以前からよく用いているカントの言葉だが、柄谷自身は、この語をカントが使っていたのとは異なる、独自の意味合いをもって使っていると、繰り返し述べてきたと思う。だがここでは、とりあえずカントにおけるこの語の意味を調べてみよう。
 この『コーラ』の同じ号に載ったSTさんの論考にも、『純粋理性批判』からカント自身による明確なその説明が引かれているはずだが、ここでは熊野純彦著『西洋哲学史』(岩波新書)の、下記の解説を参照する。
 対象の認識にではなく、対象を認識するア・プリオリな水準にかかわり、経験が可能となる条件を問題とする認識が、「超越論的 transzendental」なものと呼ばれる。『純粋理性批判』はこの超越論的な次元に身を置いて、可能な認識の範囲と限界を確定するこころみである。(『西洋哲学史 近代から現代へ』 p128)
 つまり「超越論的」とは、経験が可能となる条件について認識しようとする態度だということだ。経験は、それ自体によってだけでは普遍的な認識に達することは出来ないと、カントは考えた。経験には、自分では乗り越えることの出来ない、その条件(限界)というものがある。これは言い換えると、われわれ人間が普遍的な認識だとするものは、実はどこまでも限界付けられたものでしかありえない、ということだろう。
 「超越論的」な立場とは、そうした考え方を示すものであり、カントはその立場に立つことによって、われわれの経験を超越するような存在の領域を確保しようとしたのだと考えられる。
 その存在を、神と呼ぶことも出来るし、また理念と呼ぶこともできよう。それは、われわれ人間が現実の中に実在として見出すことは決して出来ないが、われわれの理性そのものを条件づけ、方向を与えるようなものとして確かに働いている何かである。
 このように捉えるなら、柄谷による「超越論的」という語の用いられ方は、カントにおけるそれと、やはりそんなに大きく隔たったものではないと思える。
 それは、われわれが(歴史の中に)実在として見出す(経験する)ことは出来ないけれども、われわれの歴史を限界付け、またその方向性を知らぬ間に与えるようなものとして働いているような、ある存在ないし力を想定するという態度である。この態度は、経験を絶対とするような態度とは異質なのだ。
 次に同じ本から、カントの「理念」について書かれたくだりを引いてみよう。
 経験の条件と経験の対象の条件とが一致する以上、経験を越えている対象については一般にどのような認識も成立しない。物自体は経験不可能であり、したがってまた、どのような認識もありえない。旧来の形而上学が理性(Vernunft)の認識の対象と考えてきたことがらのすべてから、その認識の根拠が奪いとられる。理性が与える「理念」は「経験の可能性を踏みこえる」ものだからである。理念は、対象に対して「構成的 konstitutiv」なものではなく、経験にとって「統制的 regulativ」なものであるにすぎない。(同上、p137)
 「統制的」と、柄谷の使っている「統整的」とは、同じ意味の訳語なのだろう。僕には難解な文章だが、「理念」は、経験には対象として十分認識できないものであるにも関わらず、経験をある仕方で規定するような存在だ、という意味のことが言われているようだ。
 だとすると、この「対象として認識できない」ということを、フロイト的な抑圧の意味にとると、これはまさしく「抑圧されたものの回帰」として歴史に働きかけるような力、つまりは柄谷のいう「交換様式D」のことだとも捉えられるだろう。
 このように、柄谷は、カントが用いた「理念」という言葉を、経験を越えるものであって、同時に経験に働きかけて方向を規定するようなものという意味で用いていると思えるのだが、それは柄谷の唯物論的な論理においては、「神」のような存在ではなく、フロイト的な無意識のメカニズムとして記述されているのだといえよう(もっとも、フロイトの思想自体も、カントから影響を受けていないはずはないのだから、フロイトを接続させることで柄谷がカントの考えの枠組みから大きく外れたとはいえないかもしれない)。
 ともあれ、柄谷がこの『世界史の構造』でも用いている「超越論的」とか「理念」という言葉を、カントは元々、経験を絶対とするような考え方、経験のみによって普遍的な認識が可能であるとする考え方への反駁という文脈において用いたということは、やはり重要だと思う。
 このことは、哲学史的には無論、ヒュームの経験論に対するカントの批判、ということなのであろう。だが柄谷は、このカントの批判の枠組みを、彼よりも後に出てきたヘーゲルの体系的思想に対する批判の材料として用いているわけである。このことを、どう考えるか。
***
 ここで、やや唐突だが、先に述べた「批評と体系」というタームを思い出していただきたい。
 9・11に直面して理論的体系の構築を志すようになるまで、柄谷がとっていた思想の態度は、批評家としてのそれであったという。そして、本質的に批評家だったという柄谷は、体系的思考が苦手であり、またそれを嫌っていたというのである。
 僕の記憶では柄谷は、ドゥルーズの著作の中では初期のヒューム論を最も好きなものとして挙げていたし、また自身の著作でも、漱石論など比較的初期の論考ではヒュームの思想を重視していたという印象がある。批評的という、9・11以前の柄谷の思想のスタイルは、ヒューム的な、経験論的な立場に重ねられるのではないかと思う。
 そうすると、@9・11以前の批評的な思想のあり方はヒューム(経験論)的なもの、A9・11以後にその重要性を再認識した体系的な思想のあり方はヘーゲル的なもの、そして、Bそのヘーゲル的な体系の思想の弊害を打破するために召還される新たな思想のあり方がカント的なものと、一応、こう整理できるのではないか?
 @とBは、いずれもネオコンが主張するような体系的思考に対立するものなので、一見同じようであるが、Bは@とは違って、Aの重要性を十分理解した上で、その体系をいわば内在的に批判(脱却)するような論理として捉えられているということになる。実際、本書におけるカントの思想(世界史についての考え方)の位置づけは、そうしたものになっているといえる(最終章「世界共和国へ」・後述)。
 だがすでに述べたように、Aも、ヘーゲル自身の思想においては、元々は自己の「悪」(権力性)を自覚するという、自己の限界に対する意識、すなわち「超越論的」契機を有していたというのが、僕の考えである。それが失われたときに、Aはネオコンにおけるような抑圧的な体系的思想(イデオロギー)へと変じたのである。
 この観点に立つと、@の経験論的、批評的な思想のあり方と、Aのうちのネオコン的・俗流ヘーゲル主義的な思想のあり方とは、共に超越論的性格、つまり自己の限界や権力性に対する自覚を欠いているという意味では、実は似ているということが分かる。
 本書『世界史の構造』で、ヘーゲルの体系的な思想の意義を重視しながら、同時にネオコン的なヘーゲルの抑圧的使用に抗して、カントを導入することでヘーゲル的なシステムへの体系的把握を体制変革の為の思想へと変えようとする柄谷の企図は、また同時に、現在ヘゲモニーを握っている経験主義的な思考が有する没理念的な性格に対する批判という意味をも持っているのであろうというのが、僕の見方である。
 そう思うのは、今の社会では、「理念」の意義を認めず、経験の積み重ねや集積だけで普遍的なものに到達できるとする、過度に経験主義的な考え方が、実際にはネオコンの俗流ヘーゲル主義と同様に、システムを護持するためのイデオロギーとして機能しているに違いないと思うからだ。(注1 ここでもうひとつ気がつくのは、体系的思考に対する批判という意味で言うと、@の経験論的・批評的な立場は、レヴィナスによる全体性批判に似ているのではないか、ということだ。かつてデリダは「暴力と形而上学」のなかで、レヴィナスの用語である「形而上学」(普通の意味では「形而上学を批判するもの」にあたると思うが) を指して、それは実は経験論であると書いていたが、それはこの意味だったのではないか。レヴィナスはその後、そのデリダの批判を受けて思想を変化させていったはずであるが、それは上記の@からAあるいはBへという、柄谷の思想の歩みと似ているのかどうなのか。
 そのことに関心を持つのは、レヴィナスの倫理的な思想、とりわけ日本で解釈されて90年代頃から広く影響力を持つようになったそれが、9・11以前における柄谷の批評家的と自称される思想(@)と同様に、システムや国家の悪を内在的なものとして捉える意識を奇妙に欠いているように思われるからである。
 つまりこの思想は、倫理的である自己自身の政治性・権力性を十分に自覚していない節がある。あるいは、それを自覚せずに済ませることを、その重要な性格としているのではないかと思えるところがあるのだ。そこで、レヴィナスの著作のタイトルでいえば、「全体性」とそれを批判する契機としての「無限」(他者)とが、実は本当に対立するもの足りえているのかという疑いが出てくる。デリダによるかつての批判は、そのことに関わるものだったのではないか?その意義は、現代の日本の思想のなかで受け継がれているのだろうか。)
 
本書の枠組みへの肯定的評価
 このように、本書『世界史の構造』で柄谷行人は、ヘーゲルがその観念論的体系において把握していた「資本=ネーション=ステート」という近代世界システムからの解放の可能性を、カント哲学における「理念」の現実に対する働きのうちに見出そうとしている。その働きとは、柄谷独自の唯物論的体系の用語でいえば、交換様式A(互酬的交換)の高次元における回復(「抑圧されたものの回帰」)としての、交換様式Dの出現ということである。
 交換様式Dは、歴史のなかでは、普遍宗教や社会主義、アナーキズム、アソシエーショニズムといった諸形態を生じさせる。またネーションも、両義的であるが、一面では国家と資本の支配に対するプロテストという側面を持っているとされる(p330)。それらはいずれも、世界史のなかで、とりわけ近代世界のなかで抑圧されてきた互酬的交換の原理が、「理念」というかたちで回帰してきた結果だというのである。それらが形を変えて、繰り返し歴史のなかに姿を現わし続けるのは、「抑圧されたものの回帰」という現象が、フロイトが言ったように強迫的、必然的、命令的なものであるからだ。
社会主義とは互酬的交換を高次元で回復することにある。それは、分配的正義、つまり、再分配によって富の格差を解消することではなく、そもそも富の格差が生じないような交換的正義を実現することである。カントがそれを「義務」とみなしたとき、互酬的交換の回復が、人々の恣意的な願望ではなく、「抑圧されたものの回帰」として、一種の強迫的な理念として到来することを把握していたのである。(p347〜348)
 この「理念」の命令は、柄谷の体系が説明するように、唯物論的な根拠を持つ以上は、国家や資本による支配を補完する想像的な回復(ネーションのような)を生じるにとどまるのではなく、現実に実現されるべきものである。それまでは「理念」の声は『けっしてやまないのである』(p351)。
 そして、その実現のために不可欠なものとして柄谷があげているのは、各国における対抗運動と共に、「国連」の役割である。
国連を新たな世界システムにするためには、各国における国家と資本への対抗運動が不可欠である。各国の変化のみが国連を変えるのである。と同時に、逆のことがいえる。国連の改革こそが、各国の対抗運動の連合を可能にする、と。各国の対抗運動は、国家と資本によって分断される恐れがある。それが国境を越えて自然につながるだろうという見通し、つまり、「世界同時革命」が自然発生的に成立するという見通しは成立しない。(p464)
 「資本=ネーション=ステート」の現実の力を考えるなら、「世界同時革命」(それが国内の「革命」の絶対的な条件である)の自然発生的な成立はありえない。システムの現実のなかでの「理念」の漸進的な実現としての国連の存在を土台とし、それを改革していくことを伴うことによってしか、解放は訪れない。
 「資本=ネーション=国家の揚棄は新たな世界システムとしてのみ実現される」(p43)と先に述べられていたのは、こうした意味だったのである。
 これが、この本での柄谷の唯物論的体系にもとづく考察の、実践上の結論だと言っていいだろう。それは、システムの乗り越え難さの認識のうえに立った、国際民主主義と呼べるものにも思える。
 結局、柄谷が提示しているのは、システムを否定することで脱却するような道筋ではなく、システムの変容を通して国家や資本からの解放を実現するプランだということになろう。
***
 以上のような、『世界史の構造』の議論の枠組みを、どう捉えるか。
 まず言えることは、柄谷がカント的な「理念」(統整的理念)を導入したことは、歴史に対峙して現実を作り上げていく行為のなかに、理念的なものを復権しようとする、ひとつの試みであろう、ということだ。
 現代の経験主義の支配が没理念の傾向を持っているというだけでなく、ネオコンが用いるような「歴史の終焉」の議論も、実は没理念的なもの、言い換えれば、シニシズム(冷笑主義)に満ちたものである。だがそれは、ヘーゲルに代表されるような近代的な歴史の理念性(構成的理念?)がはらんでいる否定的なものの結果であるとも考えられる。理念を実体的に掲げた現実の変革は、結局システムの力の前に破れざるをえない。「壁の崩壊」というような現象だけでなく、資本主義はもとより社会主義体制もまた非人間的であるという認識の広まりが人々にもたらしたものは、そうしたシニカルな感情ではなかったか。
 それに対して柄谷は、明示することの出来ない(Xとしか名指せない)統整的理念という仕方で、歴史認識のなかに理念を、言い換えれば未来への意志を、復権させようとしているのだと考えられる。
 柄谷は、次のように述べている。
今日、歴史の理念を嘲笑するポストモダニストの多くは、かつて「構成的理念」を信じたマルクス=レーニン主義者であり、そのような理念に傷ついて、理念一般を否定し、シニシズムやニヒリズムに逃げ込んだ者たちである。しかし、彼らが社会主義は幻想だ、大きな物語にすぎないといったところで、世界資本主義がもたらす悲惨な現実に生きている人たちにとっては、それではすまない。(p351)
 
観点への疑問・自然と犠牲
 柄谷の試みの意味を、ひとまずこのように肯定的に捉えた上で、ここで本書の観点(まなざし)に対する一つの疑問を提示しておきたい。それは、ここでの柄谷の議論における、ヘーゲルとカントの歴史観の対比に関わっている。
 ヘーゲルの考えでは、(中略)覇権国家がないかぎり平和はありえない。しかも、戦争自体はたんに否定されるべきではない。ヘーゲルの考えでは、世界史は諸国家が相争う法廷である。世界史的理念はその中で実現される。(中略)そこに「理性の狡知」があるというのである。
 しかし、カントは、ヘーゲルがいうように、「理想論」をナイーブな観点から唱えたのではない。カントはヘーゲルとは違った意味で、ホッブズと同様の見方をしていた。つまり、人間の本性(自然)には「反社会的社会性」があり、それをとりのぞくことはできないと考えていた。この点で、カントをホッブズと対照的に見るのは、あまりにも浅薄な通念である。カントが永遠平和のための国家連合を構想したとき、暴力にもとづく国家の本性を容易に解消することはできないという認識に立っていた。だが、彼は世界共和国という統整的理念を放棄するのではなく、徐々にそこに近づけばよいと考えたのである。諸国家連邦はそのための第一歩である。
 しかも、カントは諸国家連邦を構想しつつ、それが人間の理性や道徳性によって実現されるとはまったく考えなかった。それをもたらすのは、人間の「反社会的社会性」、いいかえれば、戦争だと、カントは考えたのである。このような考えは、ヘーゲルの「理性の狡知」に対して、「自然の狡知」と呼ばれることがある。(p453〜454)
 こう書いた後、柄谷は、二度の大戦を経て国連の形成へと至った過程は、カントのいったことが「自然の狡知」によって実現されてきたものと考えざるを得ないものだと述べ、カントの眼差しには「ヘーゲルのリアリズムよりも、もっと残酷なリアリズムがひそんでいる」(p455)と記している。
 カントの用語である「反社会的社会性」とは、攻撃性と言い換えられる言葉だと思うが、攻撃性によってこそ、また戦争を通してこそ、永遠平和という理想、「理念」が命じる地点に徐々に近づいていくのだという、カントの「自然史」的な思想がここで語られているといえるだろう。これが、柄谷が本書でネオコン的な歴史観に対して提示した、対抗的な世界史解釈の原理だといってよい。
 まず確認しておきたいのは、これが、戦争の体験がわれわれにもたらす平和への理念の実質的な重さを強調する意図をもった語りだろうということである。カントの「永遠平和」の理念は、決して空虚な理想主義のようなものではなく、戦争という過酷な現実のなかから不可避的(必然的)に発生してくる、確かなものであり、それは人間がしばしばそれを忘却して過ちを繰り返すとしても、執拗に回帰してきて少しづつ真の実現に近づいていく。実際、歴史はそう推移してきた、と言われているのだ。
 こうした現実の見方には、異論があるだろう。戦争や、原発事故などの人為的な破壊の規模は、歴史の進展とともに、むしろ回復不能なほどに甚大なものになってきている。とても未来に対して、そんな希望的な気持ちにはなれないという思いは、僕にもある。だが柄谷は、ここで希望を語っているのではなく、歴史の必然性について語っているのであり、そのなかで生きて行動するわれわれの指針としての理念というものについて、説き明かしているということだろう。希望を持とうが絶望しようが、われわれは理念の力に反して歴史を形成することは出来ない。そういうことだろう。
***
 ところで僕は、ここに出てくる「自然」という言葉に注意を引かれる。本書『世界史の構造』では、序説のところで、何度か「自然史」という言葉が出てくる。それは、マルクスや、その先行者であるモーゼス・ヘスの思想、とくに交通(交換)概念に関わり、現代の環境問題、エコロジーの運動につながってくる、人間と自然とを物質代謝において見るような考え方としてである。
 実はこの本を読みはじめたとき、自然史という言葉が、このような意味合いで何か積極的に語られていることに戸惑った。僕の頭のなかには、過去に柄谷がしばしば語っていた、上記の文章に出てくるようなカント的(同時にフロイト的)な、ある種の残酷さを帯びた「自然(史)」のイメージしかなかったからである。
 だが考えてみると、この二つの自然史は、まったく別のものだとは言えない。人間を自然との物質代謝(生態系)のなかにおいて捉えるということは、単純な人間中心主義と呼べるような観点から見るなら、残酷に映るだろう。
 宮沢賢治の童話「なめとこ山の熊」では、主人公の猟師が、これまで狩猟によって殺すことで自分の生活を成り立たせてきた存在である熊に襲われて、今は自分が食べられる側に回るべきだと思ってすすんで身を投げ出すのだが、そこでは人間の死は、食物連鎖の一環をなすものとして、いわば有機的に意味づけられているわけである。
 これは、ヘーゲルの国家観のように、個人と国家の関係を、細胞と個体全体との関係のようなものと考え、個人の死を、国家全体という有機体の維持のためのものとして意味づけるタイプの、犠牲の正当化の思想とはやや異なるが、別のタイプの犠牲の正当化の思想、死を全体の名において意味づけてしまう思想になりうるものではないか?
 この別のタイプを、ある意味での自然主義、あるいは生物学主義(上記のように、ヘーゲルのそれも生物学と無縁ではないと思うが)と呼んでいいかもしれない。
 カントが依拠している自然史という概念には、このような生物学主義の危険があるということは、ニーチェ以後の歴史が教えていることでもあるだろう。柄谷が、それを知らないはずはない。だがそれでも、彼がカント的な「自然」の意義を称揚するのは、それが「理性」を絶対のものとするヘーゲル主義的な歴史観(「理性の狡知」)を批判するものとして重要だと考えているからだろう。だがそのために、柄谷は自然史という考え方が持つ、生物学主義の危険性を軽視する結果になっているのではないか。(注2 柄谷は、人間と自然との関係を社会構造から切り離して考えがちなエコロジー的な思想の限界については、本書のなかで注意を促しているが。p31〜32)。
 「戦争」による人々の死を、「理念」の実現のための不可避の過程として捉える柄谷の自然史的な考え方は、たしかに、永遠の平和という理念が、攻撃性や戦争という現実に根を持つ実質的なものであることを表現する重要な思想なのだが、その反面で、ある仕方で「戦争」や「犠牲」を容認するような論理に横滑りする危険をはらんでいるのではないかと思うのだ。
 この意味で、柄谷の思想には、僕がかつて論じた(『コーラ』16号「現代思想を再考する 3」)、今村仁司の思想とも共通する、現世における生と死への「諦念」のようなものが、やはり感じられるということを、とくに書いておきたい。そこからは、「今村―柄谷(そして賢治)」に共通するローカルな思想の傾向性を考えることも出来よう。
 つまり、マルクスと共にヘーゲルを重視した今村の思想の性格を、弁証法的、文化・社会構成論的、理性主義的、近代的な犠牲の思想(第三項排除)への是認と捉えるなら、それとは異なる、非弁証法的、自然(生物学)的、そして無意識的、前近代的と呼べるような犠牲の思想への是認の気分が、柄谷の論には見出せるように思うのである。
 ここで忘れてならないことは、ヘーゲルの「理性の狡知」の思想と、カントの「自然の狡知」の思想とは、決して現実についての異なる解釈を示したものではないということだ。「自然の狡知」として描かれる現実の姿は、実は「理性の狡知」として描かれる現実の姿が、その文化的・社会的な装飾を脱ぎ捨てて、直接に露呈したものにすぎないのである。
 言い換えるなら、ヘーゲルが理性の次元において捉えた現実の像を、カントは無意識の次元において捉えて描いているだけだということである。それはいずれにせよ、ある特定の理解の文脈(キリスト教的な?)に依拠した現実の解釈に過ぎないのであって、その限りでは、ヘーゲルの記述と比べてカントのそれがとくに倫理的であるということではない。
 それら(ヘーゲルの思想にせよ、カントの思想にせよ)は、たんなる文脈依拠的な言明であることにとどまる限り、現実の悲惨さ(人の死や暴力など)を意味づけによって隠蔽してしまう、システムのための思想であるにとどまる。つまり、犠牲の論理の各バージョンをなすに過ぎないということだ。
 思想が、それを免れるには、つまりシステムの維持のための言説であることをやめ、倫理や解放に関わる思想となるためには、あえてカントの語を用いれば、そこに真の意味の超越論性が導入されねばならない。つまり、いくらか大雑把な言い方を許していただくなら、現実の解釈をめぐる自他の権力性を照射するような、価値の光が投げ込まれねばならないのである。
 そのことによってはじめて、思想は人々の生死の現実性と、それを支配し管理しているシステムの力とに向き合うことが出来るはずなのだ。
 だが、ちょうど今村がヘーゲルの弁証法的な犠牲の論理に「諦念」をもってしか応じなかったように、柄谷はここで、カントが描き出しているような無意識の次元における犠牲の論理(暴力の正当化の構造)に、十分に抗いえていないように思われる。つまり、ここでの柄谷の思想は、カントの思想が捉えている人間の歴史の無意識的な次元の暴力性というものに、自他の権力性を暴き出す価値の光を投げかけることによって、システムの圏域の外でこれを把握するには至っていない。
 それは、いまや社会や文化の装飾を脱ぎ捨て、あからさまになった暴力の(システムによる)政治的利用と氾濫という現実にたいして、柄谷の議論が、十分対抗しうるものになっていないということを意味しているだろう。そのことは、フロイトの用語を用いるなら、エスの直接的な政治的利用という日本(あるいは世界)の政治の現状に対して、柄谷の分析を乗り越えるような、どんな対抗の仕方が可能なのかという問いを、あらためてわれわれに突きつけずにはいないのである。(注3 ファシズムとの関連を考えれば、カントが理念を形容するのに「統制的」という語を付したことは、意味深長かもしれない。)
 
自由と交換
 上記の問いに対して、僕に答があるわけではないのだが、その手掛りを得るためにも、
ここで再び、本書の大きな枠組み、つまり柄谷の唯物論的体系と、カントによるヘーゲルの乗り越え、という問題に戻って考えをすすめよう。
 まず柄谷の唯物論的体系の特徴は、マルクスが生産様式を基礎にして社会と歴史の構造を捉えようとしたのに換えて、交換様式を基礎にして新たな唯物論的な体系を作ろうとするものだということだった。それを志した理由は、その方法によらなければ、ヘーゲルが観念論的に捉えていたようなシステムの現実的総体を把握しきることが出来ないと考えられたからである。
 いわば下部構造を交換(関係)に見出すという考え方自体は、マルクス主義や弁証法的思想の歴史、とりわけ日本のそれのなかでは特別に珍しいものではないだろうが、柄谷の本書での試みの重要な意義は、国家やネーション(それに資本の観念的側面)が持つ現実的・政治的な「力」の根拠を解明しようとしたことにあると言えるだろう。本書の中で柄谷は、共同体の内部の制度である「構造」に対して、共同体間の交換において働くものとしての「力」を明確に区別している(p74)が、本書の全体を貫いているのも、この「力」の働きを捉えようとする姿勢だといえる。それは、これまで自明とされた近代的な社会の仕組みが瓦解し、「力」の論理が露呈しつつあるように見えるこの時代に相応しい思想の態度と言えるかもしれない。カントとフロイトという二人の思想家への着目も、攻撃性や意識下の欲望が社会の表面に露呈しているような、現在の社会状況に見合っているとも考えられるのである。
 だが繰り返すが、歴史を捉える体系の基礎として交換様式が持ち出されたということの意味は、ヘーゲル的な現実把握を唯物論化するということである。ということは、ヘーゲル以前には、このような認識は思想史上に存在していなかったと考えられる、ということでもある。
 とすると、カントによってヘーゲルを乗り越えるという、本書の企図そのものが怪しく思えてくるのだ。柄谷の論でいくと、カントの哲学には既にヘーゲル的な認識が、実際上は胚胎されていたかのような印象を受けるのだが、ほんとうにそういうことでいいのであろうか?
 話を振り出しに戻すようではあるが、やはりそこをよく考えるべきではないかと思うのだ。カントの場合も、たしかに柄谷が参照する「自然史」や「世界史」に見られるように、人間社会の歴史のあり方に対する深い洞察を行なった人であると思われる。だが、彼の言う社会性は、結局、「非社会的社会性」ということ、つまり攻撃性の歴史ということ以外のものではないのではないか(柄谷の参照の仕方を見る限りでは、そう思える)?ヘーゲルの歴史観が、それより人間的だったとか平和主義的だったなどとは、とても言えないだろうが、それでもやはりヘーゲルのような意味での社会(関係)の把握の仕方とは、それは根本的に異なったものではないのか?要するに、カントの「自然の狡知」とは結局、本来なら社会的存在である人間が引き受けるべき事柄を、すべて「自然」に委ねてしまったというだけのことではないのか?
 本書の内容に即して、このことを考えてみよう。これは、柄谷がここで語っている「自由」や「個」という概念の内容に関わってくる問題なのである。
 本書の議論で印象的なのは、交換様式Dの出現の条件として、近代世界において支配的な力を持つにいたる交換様式C(商品交換)の働きの不可欠さが強調されていることである。
 このことは、交換様式Dが、第三象限の市場経済(C)の上で、第一象限の互酬的な共同体(A)を回復しようとするものだということを意味する。その場合、交換様式Aは回復されるけれども、もはや個々人を共同体に縛りつける力をもたない。その意味で、交換様式Cが先行していないかぎり、Dはありえないということができる。(p188〜189)
 交換様式Cの働きの重要性は、それが個人を共同体から切り離して、他者との自由な関係性のなかに置くということである。人は共同体による拘束から切り離されたとき、はじめて自由で単独的な存在として他者との倫理的な関係に入ることが出来る。そう考えられている。
他者を「目的として扱う」とは、他者を自由な存在として扱うということであり、それは他者の尊厳、すなわち、代替しえない単独性を認めることである。自分が自由な存在であることが、他者を手段にしてしまうことであってはならない。すなわち、カントが普遍的な道徳法則として見出したのは、まさに自由の相互性(互酬性)なのである。それこそ交換様式Dである。(p345)
 このように、交換様式C(商品交換)によってもたらされるような自由は、共同体からの自由であるが、それこそが他者との関係のなかに真の互酬性(贈与)を回復する条件であるとされているのである。贈与と商品交換は、交換といっても同じ性格のものではないのだが、前者を可能にする条件は後者にほかならない。
 実際、商品交換(たとえばお金による決済)という契機を否定して、共同体的な論理だけで社会生活を営もうとするなら、心理的な債務関係がのしかかってきて、さまざまなところで多くの犠牲が生じることは確かだろう。商品交換の論理は、たしかに人を共同体による犠牲や債務感情から解放し、他者との倫理的な関係の条件を作り上げるものであろうと思う。
 しかし、ここで考えたいのは、たとえば次のように書かれる二つの「自由」は、果たして同じものかということだ。
 国家や共同体を越えて超越化した神は、他方に、国家や共同体に依拠することができないような個人の存在と照応するのである。
 しかし、普遍宗教がもたらしたのは、たんに国家や共同体から離れた個人が直接に神と関係するということではない。むしろ、それを通して、個人と個人の関係を新たに創り出すことである。(p213)
 「労働力」の商品化は、こうしてつねに二重の意味をもつ。それは、個々人を自由にする、つまり、交換様式Aや交換様式Bによる拘束から解放する。他方で、労働力商品の所有者としての個々人は、新たな拘束や服従を強いられる。いつ解雇されるかもしれない恐怖にさらされるし、事実解雇される。それでも、人々は共同体や家族に従属するよりも、労働力を売って生きるほうを好むのである。(p280〜281)
 柄谷の論でいくと、前者で語られている、普遍宗教を契機としてもたらされるような個人と個人との関係は、より一般的には、後者におけるような資本制経済下で(制度的に)実現される個人の自由を条件として可能となる、ということになると思う。
 だがそうした考えは、自由や個というもののあり方を、あまりに縮減して捉えていることにならないだろうか。交換様式Cに重きを置く柄谷の自由の概念とは、たとえば次のように語られるものなのである。
「労働力」の商品化は、こうしてつねに二重の意味をもつ。それは、個々人を自由にする、つまり、交換様式Aや交換様式Bによる拘束から解放する。他方で、労働力商品の所有者としての個々人は、新たな拘束や服従を強いられる。いつ解雇されるかもしれない恐怖にさらされるし、事実解雇される。それでも、人々は共同体や家族に従属するよりも、労働力を売って生きるほうを好むのである。(p280〜281)
 資本制経済下で実現もしくは保証されるような自由を基盤とした、柄谷の人間同士の交換(交通)の概念は、現実に人間が生きているあり方を、捉え損っていると思う。それは、商品交換という形式に、個人の存在のすべてを覆いつくすような過剰な意味を与えているか、もしくは逆に、商品交換というものの意味合いを過度に狭く設定したうえで議論を進めているためにそこで実現・保証されるべきものの実像を捉えきれていないかの、どちらかだということだ。要するに、柄谷が論じている「自由」の概念は、あまりに限定的なものである。
 こうした柄谷の議論においては、贈与や正義はもっぱら交換(自由な個における相互的な関係)にだけ存在するのであって、共同体内的な正義というもの、つまり分配的正義は、その意義を否定されるということになる。本書の特徴的な主張のひとつは、分配的正義の意義が否定され、交換的正義の重要さだけが強調されていることだ。つまり柄谷は、分配・再分配という行為に正義や贈与が生じる可能性を、原則的には認めていない。再分配とは結局、国家による支配の一形態だという断定で終わってしまうのである。
 だが人は、資本制的な意味での自由な個人であると同時に、別な領域における自由にも関わることで生きている存在ではないのか。その限りで(資本制経済によって切り崩されるような)共同体内的な正義の論理、つまり(再)分配的正義の追求ということも、やはり現実においては重要であるというのが、僕の考えだ。
 この問題は、おそらく柄谷の議論における「贈与」というものの性格にも関わってくる事柄ではないかと思う。それらは、あまりにも縮減された個の規定を前提にしていて、個がはらんでいる社会性や集団性を十分に射程に収めていないと思えるのである。
 以上のような、柄谷における「自由」や「個」の狭さという事柄を、カントとヘーゲルの思想上の差異に結びつけてよいのかどうか、僕には分からない。だがここには、(産業資本主義や新自由主義といったスパンにとどまらず)自由と社会性との関係をどう捉えるかという、恐ろしく長い歴史的背景をもった問いが含まれているようでもある。
 交換様式(関係)に基礎を置くという発想の重要さを認めながらも彼の体系に何か僕自身の価値観と相容れないものがあるとすれば、それはやはりその交換様式論の中味、とりわけ、その起点をなすべき個や自由というものの位置づけにあると思えるのである。
***
 まとめに入ろう。
 ここで(やはり唐突だが)先ほどの、「理念」が歴史のなかで最終的に実現される過程での「国連」の重要性が語られた一節を、もう一度引いてみたい。
国連を新たな世界システムにするためには、各国における国家と資本への対抗運動が不可欠である。各国の変化のみが国連を変えるのである。と同時に、逆のことがいえる。国連の改革こそが、各国の対抗運動の連合を可能にする、と。各国の対抗運動は、国家と資本によって分断される恐れがある。それが国境を越えて自然につながるだろうという見通し、つまり、「世界同時革命」が自然発生的に成立するという見通しは成立しない。(p464)
 あらためて考えてみると、この『国境を越えて自然につながる』ということは、柄谷の前著の題名(『トランスクリティーク』)にも用いられている、トランス(越える)ということであり、この語にはまた超越という意味もある。
 国連のような、システムに内在し現実の国家とつながっているような機構の介在を経ることなく、自然発生的に国境を越えてつながることができるという考えが、つまりトランス(超越)の発想なのであり、それは経験がそれだけで直接に普遍的なものに到達できるという考えに等しい。
 つまりそれは、われわれが実際にはシステムにすっかり捉えられて生きており、国家やネーションの力に規定されて存在するほかないものだという、現実の厳しさへの直面を回避する思想の態度だ。柄谷はこの本の序文において、そうした態度を、批評的と呼んだわけである。
 「超越論的」とは、こうした、超越が安易に可能であると考える思考に対して、その乗り越えることの出来ない外部を、つまり国家やネーションや資本の現実的な力(唯物論性)を突きつけるような思想の態度なのだと思う。
 だとすると、本書で柄谷が見出している国家やネーションの現実性は、マルクスの「生産様式」に変わって、彼が新たな唯物論性として提示する「交換様式」なるものの、その内実に関係しているということであろう。
 すなわち、彼の理解する交換様式の性格が現状のシステムに内属的であるとき、見出される国家やネーションの像も、またしたがって解放への道筋(プラン)も、やはりどこかシステムに内属的であるということになる。
 僕の考えは、柄谷の交換(交通)様式についての考えは、その交換の単位たる個の概念が、歴史的な限定(縮減)を強く被っているが故に、世界の現状に対する十分な対抗と、解放の道筋の適切な提示が出来なくなっているのではないか、ということだ。
 たしかに柄谷が提示しているカント(そしてフロイト)的な歴史へのまなざしは、もはや「社会的」でありえなくなったこの世界の現状を、的確に捉えているものだと思う。だがそれは、自身のまなざしの歴史的限定性を疑問に付すような「価値の光」を十分に帯びていないために、いまだシステムの称揚、内属的な論述というものに止まっていると思えるのである。
 この限界を越えて、「個」や「自由」の内容を再審に付したうえで、新たな交換様式の体系を構想することができた時、われわれは初めて、目下の危機に対峙しうる唯物論性を獲得できるのではないだろうか。
 
【コメント】
広坂朋信
 
 岡田氏によるこの柄谷論をもって、私たちの試みの第二期の始まりとしたい。それにしても、こんな本格的な評論にコメントするのは自らの凡庸さを省みて気がひけるが、読みながら連想したことを書き留めておく。
 
回帰する歴史について
 藤田省三に「戦後の議論の前提」という文章がある(『精神史的考察』、平凡社所収)。この文章をつい最近まで私は知らなかった。それどころか、恥ずかしながら藤田省三という人にほとんど関心をもっていなかった。ところが、この「コーラ」の前号に寄稿させてもらい、その過程で、私が偏愛してきた「非歴史的な「文化」の理論家たち」(柄谷)の理論の弱点として、ファシズムや全体主義を捉えきれない、むしろ、それに近づこうとすると対象と同化してしまいかねないことに気がつき、あわてて藤田省三『全体主義の時代経験』(みすず書房)を読み、その慧眼に感嘆した次第である。うっかり者の私が何にびっくりしたかは「コーラ」前号掲載の拙稿をご覧いただくとして、今回注目したいのは『精神史的考察』所収の「戦後の議論の前提」である。ここに「現代思想を再考する」という時の再考の仕方についてのヒントがあると思うからである。
経験が疎外態となって「利用の素材」となっている時、その時に「太古の化石」としての疎外態の中から太古の生きた姿を再形成するのが認識に課せられた光栄ある任務なのである。(藤田省三『精神史的考察』平凡社、のどこかより)
 さて、「戦後の議論の前提」で藤田は「戦後の思考の前提は経験であった」と言っていた。それがいかなる経験かを見る前に、藤田の言う「戦後」が、ふだん漠然と使っている戦後という区分、すなわち、日本が第二次世界大戦に敗戦してから以後という把握よりは、もっと限定的であることに注意したい。1981年に『思想の科学・第七次創刊号』に掲載され、82年に単行本『精神史的考察』(平凡社)に収められたこの文章を藤田は「とりわけ、「高度成長」を経て社会の構造が根底から変貌して了った今日」という時代認識に立って書いているので、藤田の言う戦後とは敗戦後の復興期から60年代初めくらいまでのことではないかと想像される。
 このことを念頭において、藤田の言う戦後の思考の前提としての経験がいかなるものであるかを見ていこう。
 戦後の思考の前提となる経験は三つ挙げられている。
1.国家(機構)の没落が不思議にも明るさを含んでいるという事の発見
2.すべてのものが両義性のふくらみを持っていることの自覚
3.「もう一つの戦前」、「隠された戦前」の発見であり、同時に「もう一つの世界史的文脈」の発見
 この三つのうち、1はわかりやすい。その当時のことをじかに経験していなくても、第二次大戦の敗戦が日本社会に歴史的に大きな変化をもたらしたことはわかる。敗戦とは屈辱と失意の経験でもあったろうけれども、同時に庶民にとっては全体主義体制からの開放ももたらしたわけで、国家の没落が不思議にも明るさを含んでいたというのも、例えば壺井栄『二十四の瞳』の大石先生の感慨や手塚治虫『紙の砦』を思い浮かべながら想像することはできる。
 2は、1のうちにすでに含まれていた側面を取りだして展開したものと言えるだろう。暗い経験であるはずの国家の没落に明るさも含まれていたというのも両義性の経験の一つだろう。戦前・戦中に主流だった価値観が没落し、かわりに場合によっては相反することもあるような新たな価値が湧き上がってきたということもあるだろう。
 3は、戦後的な新たな価値と見えたものが、実は戦前に可能性としてあった(が戦争体制によって抑圧されていた)ものが、戦後になって表舞台にあらわれたものであったことの発見とも考えられる。具体例としては、オールド・リベラリストとして南原繁、マルクス主義者として共産党の戦後初期の指導者、文学者としては椎名麟三が「もう一つの戦前」の典型として挙げられていた。国家があるひとつの価値を社会の前面に押し出したときに、それまで共存・競合していた他の諸価値は周縁に追いやられ、その担い手は場合によっては抹殺される。けれども、その国家が没落すれば抑圧されていた諸価値のうちいくらかは息を吹き返し社会に回帰してくる。このような価値の生態を藤田は指摘したのだろう。
 ところで、2の両義性の自覚については気になることがある。藤田は「戦後の経験の核心としての、没落と明るさ、欠乏とファンタジー、悲惨とユーモア、混沌とユートピア等々の両義性の典型的結実もまた「受難」を引き受けた者の中にこそ在った」と言い、「それらの「受難」の有りさまを描いて思想像にまで仕上げた作品」として、石川淳『焼跡のイエス』(1946)、坂口安吾『白痴』(1946)、花田清輝の評論などを挙げて、石川淳『焼跡のイエス』の描く世界については「カーニバル」という言葉を使っている。
石川淳の『焼跡のイエス』は闇市の汚らしい浮浪児が欠乏と惨めさと不良性を一身に担うことによって此の世のイエスと化していることを示してはいないか。おまけに其処には、軍国下の「物価統制」や今日的な管理された「定価」などから解放されている闇市の「バザール」的性格と「カーニバル」的性格が鮮やかに表現されてはいないのか。(藤田、前掲書)
 藤田の回顧する戦後がカーニヴァル的(祝祭的)空間だったとすると、藤田の時代認識は木村敏の枠組みになぞらえれば「祭の後」、すなわちポスト・フェストゥム的意識に立っていることになる(木村敏の枠組みについては前回拙稿参照)。これは単に懐古的意識というだけではない。木村敏は『時間と自己』(中公新書、1982)で、人間の時間意識を祝祭をキータームとして、前夜祭的なアンテ・フェストゥム、後の祭的なポスト・フェストゥム、「祭のさなか」を意味する「イントゥラ・フェストゥム」に分類し、ポスト・フェストゥム的意識は鬱病に親和的(メランコリー親和的)だとした。私は何もパトグラフィーのまねごとをしようというのではない。ただ、戦後を回顧する藤田の時代認識が祭(カーニヴァル)の後であることから、ポスト・フェストゥム的意識からくる偏差とでもいうものがあれば、それに注意しておきたいだけだ。
 木村敏によれば、現在を「祭の後」と感じるポスト・フェストゥム的意識は、単なるノスタルジーではなく、「もはや取り返しがつかない」という意識を伴っていることだという。藤田の思考に、このポスト・フェストゥム的意識に由来する偏差があるとしたら、それは、この「戦後の議論の前提」執筆時の藤田にとっての現在(1981年)もやがては過去になるということが考えあわされていないということだろう。藤田にとっての「戦後」はただ一度の経験として特権化されている。しかし、第二次世界大戦以前にも戦争はあったし、今後もないとは限らない。過去を省みるとき、回顧する視点は現在にあるわけだが、その現在もまた歴史のなかで動きつつある。
 こうしてみると、「もう一つの戦前」、「隠された戦前」の回帰も一回とは限らない。現在を過去と切断されたまったく新しい時代として見るよりも、直近の過去においてはなにかの理由によって実現されなかったもう一つの過去が現在の要素となっていると見立てることもできるのではないか。
 高度経済成長の時期、日本社会は武器を使わない戦争を戦っていたのだとも言える。単に産業界が国際競争に勝ち抜くために熾烈な争いをしたというだけでなく、国内的にも交通戦争や受験戦争という言葉が使われた。公害闘争もあった。国際社会での経済競争に勝ち抜くために、頻発する交通事故、過熱する受験競争、公害の惨禍などの犠牲を国内に強いた時代でもあったわけだ。
 その意味で、ポスト高度成長の時代、70年代後半からバブル崩壊までは、もう一つの戦後のような時期だったとも言える。そうだとしてみると、コジェーブのヘーゲル講義の日本についての注で、日本社会をスノビズムと評したのが日本国内では好意的に受けとめられたのも納得がいく。後に宮台真司によって「終わりなき日常」と言い換えられた、歴史の終わりの後を生きるスノビズム、これはポスト高度成長の時代の日本社会にとってしっくりくる評価だったのではないか。「歴史の終わり」ブームや宮台に先駆けて終わりなき日常を見事に表現したのが、アニメーション映画『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(押井守監督、1984年公開)であった。もう一つ、村上春樹の長編小説『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985年、新潮社)も挙げておきたい。
 学生運動でも「三丁目の夕陽」でもない、もう一つの60年代、ありえたかもしれない別の戦後への萌芽が、ポスト高度成長の時代に回帰していたのかもしれない。高度経済成長によって失われた戦後の別の可能性としてすぐに思い浮かぶのは、和辻哲郎らが主唱した文化国家路線である。実際、敗戦後、文部大臣だった天野貞祐の依頼で高坂正顕が起草した国民道徳論は、70年代に『期待される人間像』(中教審答申の付帯文書)として新たなる装いとともに再登場した。こうした動きは「京都学派の復権」と呼ばれたこともあるが、単純な戦前回帰とみなすよりも、高度成長期以前の戦後の回帰と見た方が実態に近いのではないか。
 それでは、ポスト高度経済成長の時代の経験とは何だったのか。これまた藤田の言葉を借りるなら、それはおそらく「喪失の経験」だろう(「ある喪失の経験」藤田、前掲書所収)。何があったか、何が生まれたか、よりも、何が失われたか、何が忘れられたかに注目してこの時代の知的営みの概略図を眺めてみると、顕著な特徴があることに気づく。実存主義の不在である。
 
「個」と「自由」の再審について
 八十年代に日本思想界のチャンピオンと目された中村雄二郎に『西田哲学の脱構築』(岩波書店、1987)がある。中村の西田論はポストモダンの立場から西田哲学を肯定的に評価したものと評されたことがあったが、この『西田哲学の脱構築』では西田の限界について「自民族中心主義の表明に堕してしまった」と手厳しい。ヘーゲルと西田哲学の対比を主とする「終章 西田幾多郎の宗教論と歴史論」においては、西田がヘーゲル、マルクス、キルケゴールらの弁証法と対決し、その乗り越えをはかったことを描写しながら、西田が自らの「場所的弁証法がヘーゲル、マルクスの過程的弁証法を含むものだとしている」ことについて「そのような西田の言い分には無理があり、十分に根拠づけられていない」と斬り捨てた上で、「西田の場所的弁証法のいちばん大きな問題は、そこにヘーゲル−マルクス流の弁証法の核心的部分ともいうべき<疎外的客体化>や<物象化>の論理が、骨抜きにされて含みこまれていることである」と辛辣に批評している。
西田が歴史の重要な契機として自覚に注目したことは、それ自体としてはきわめて正しい。しかし、歴史性と物質的なものとの関係でいえば、歴史的世界においてわれわれ人間の精神や意思は、客体化され、制度化され、物質化されてはじめて、現実的な力をつよく持つのである。したがって、西田のいうところとは反対に、事実は、表現的世界でもある歴史的世界においては、われわれ人間の精神や意思は、否応なしに制度化され、物質化されるので、<第二の自然>にもなるのであろう。その限り、人間のつくり出す歴史は、法則的あるいは論理的に理解し把握することもできるのである。(中村、前掲書)
 つまり、ヘーゲルの言葉でいえば「客観的精神」の位相についての洞察が西田には欠けていると中村は言っているわけだ。
 中村は、西田の不足を乗り越える試みとして、『実存と労働』、『響存的世界』、『西田幾多郎の世界』などで響存哲学を提唱した鈴木亨と、もっとも早い時期に内在的批判『西田哲学の根本問題』を著し、戦後は「<被造物即創造者>の神学」を形づくった滝沢克己を挙げている。両者とも実存哲学的思索に軸足を置きつつ、宗教(鈴木は仏教、滝沢はキリスト教)とマルクス主義という問題設定で議論を展開し戦後思想界にインパクトを与えた。だが、中村が西田論を発表した八十年代当時、鈴木や滝沢の問題提起はその枠組み自体が古びたものとみなされて、あまり注目されなかったように記憶している。あれから三十年近くたった今、忘却か継承かが問われる機会はめぐってくるのだろうか。
 鈴木や滝沢が忘れ去られたままである理由の一つとして、実存主義の凋落がある。実存的な関心自体は現在でも盛んに語られている。一時は再評価ブームとなったアーレントもハイデガーとヤスパースの愛弟子である。ところが、「レタンモデルヌ」誌に拠った狭義の実存主義の代表者のうち、ボーヴォワールはフェミニズムの先駆者のひとりとして、メルロ‐ポンティは知覚や身体の現象学者として顧みられることはあっても、実存主義者として再評価されることはない。そして極めつけはサルトルである。1980年、サルトルの死は、戦後の終わりを象徴するような死として大々的に追悼され、そしてすぐに忘れ去られた。いや、忘れられたというより抹消されたと言った方が近い。王殺しの心理がはたらいていたのではないかと勘繰りたくなるくらいの忘れっぷりである。その後、サルトル本人と浅からぬ因縁のあるレヴィナスの実存論的哲学がもてはやされたのに、いま、サルトルを扱った思想書の新刊をほとんど見かけなくなった。実にアンバランスな光景である。
 この怪現象の説明の一つとして考えられるのは、実存主義そのものの潜在力が減退したのではなく、実存主義とマルクス主義との緊張関係という問題状況が失われたのだというものだ。日本の戦後改革は、事実上アメリカの主導によっておこなわれた。しかし、それ以外の可能な戦後というものもヴァーチャルにはありえたはずで、米主導に対抗する別コースの戦後の理念を思想のレベルで担ったのがマルクス主義と実存主義であったと見立てることもできる(米主導に対抗する思想は他にもありえただろうが、現実に影響力を発揮し得たのはマルクス主義と実存主義だった)。そこで、同じ根から育ちながら相いれぬところも多い二つの思想の緊張関係を一身に体現したかのようなサルトルは戦後思想界のスターと目された。しかし、旧ソ連の衰退とともにマルクス主義が現実的な選択肢とみなされなくなるとサルトル人気もかげりが見え始める。つまり、衰退したのは実存主義ではなく、マルクス主義と実存主義の緊張関係という問題設定の方だった。
 しかし、国際情勢の変化によって問題の枠組みへの関心が薄れたとはいえ、彼らの思想的営為はマルクス主義と実存主義の緊張関係をどう処理するかということに尽きるものではない。十把一絡げに忘れ去るには惜しい遺産である。キルケゴールはヘーゲルの哲学体系との対決で知られるが、彼の闘争は理論面に限られたものではなく、教会という現実のシステムとの闘いでもあった。「個」や「自由」の内容を再審しようとするとき、広義の実存主義をどう継承するかが一つのポイントになるのではないかと思う。
 

Web評論誌「コーラ」19号(2013.04.15)
<現代思想を再考する>第1回[第2期]:柄谷行人『世界史の構造』の枠組みについて(岡田有生)
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