忠臣蔵論争への挨拶
忠臣蔵論争というものがあった。『仮名手本忠臣蔵』(以下、忠臣蔵と略記)は歌舞伎の人気演目だから、これをめぐる論争はいくつもあったろうが、ここで私が念頭に置いているのは、今年(2012年)の10月に亡くなった作家・丸谷才一と国文学者・諏訪春雄とのあいだで、1985年に交わされた論争である。論争のトピックスとなった忠臣蔵とそのモデルである赤穂事件については、現代でもたびたび舞台、映画、テレビドラマ化され、関連書籍も多数発行されているので端折らせてもらう。
さて、この忠臣蔵論争の発端は、1984年に発表された丸谷による評論『忠臣蔵とは何か』(講談社)だった。民俗学や人類学を参照しながら、忠臣蔵とは御霊信仰を動機にしたカーニヴァル的演劇だと論じた丸谷は、同書の結論部分で「うんと大づかみに言へば、春と冬の対立と交替といふ自然界の循環の比喩の上に、将軍徳川綱吉あるいは徳川体制への呪ひを盛りつけたのが『仮名手本忠臣蔵』の基本の構造」だと自説を要約している。
この『忠臣蔵とは何か』は刊行当時たいそう評判になったが、翌85年に諏訪によって全面的な丸谷批判「御霊信仰と判官びいき」(諏訪春雄『聖と俗のドラマツルギー』学藝書林、所収)が書かれた。これに対して丸谷の反論「お軽と勘平のために」(『丸谷才一批評集第三巻 芝居は忠臣蔵』文藝春秋、所収)が出され、諏訪の再批判「忠臣蔵のために」(諏訪、前掲書)、さらに丸谷の再反論「文学の研究とは何か」(丸谷、前掲書)と続いた。
ところで、諏訪の丸谷批判「御霊信仰と判官びいき」は最終節で「本稿の意図は丸谷氏の論の全否定にあるのではない。忠臣蔵を日本文学史の正当な場所に位置づけたいという氏のお考えには深く共鳴する」とことわって、評論家・山崎正和の「この本は、世界的な演劇祭祀論の力強い傍証であり、現実は時にそのまま演劇でありうるという、新しい意味での「世界劇場」論の試みになっている。それはまた、優れた日本文化論であるとともに、都市論でもあるのはいうまでもない」という『忠臣蔵とは何か』評を引用し、「同感である」としている。
丸谷の反論「お軽と勘平のために」はここに噛みつくところから書き出された。
諏訪春雄はわたしの『忠臣蔵とは何か』(講談社刊)を批判した『御霊信仰と判官びいき』の終わり近くで、「本稿の意図は丸谷氏の論の全否定にあるのではない」と記してゐる。忠臣蔵は御霊信仰でもないしカーニヴァルでもないと論じたあげく、こんな挨拶をするのは筋ちがひだらう。まさしく「全否定」の論旨だからである。
これに対して諏訪は再批判「忠臣蔵のために」で「氏自身がいわれるように当該個所はまったくの「挨拶」である」と応酬した。自分の批判は丸谷説の「全否定」であると表明したのである。
この後、丸谷が再反論「文学の研究とは何か」で国文学研究の方法を問題にし、諏訪の態度を「素朴なリアリズム」と決めつけたため、この論争は、実証を重んずる研究者と想像力を重んずる作家・批評家とのあいだで、事実の究明か文明論的洞察かを争ったものであったかのような印象も生じた。ひらたく言えば、正しいのは諏訪だが、面白いのは丸谷だ、というようなところに世間の評判は落ち着いた。もっともこれはあくまでも当時の文学青年だった私の浅薄な印象にすぎないので、それこそ実証的な批判に耐えるものではないけれども。
しかし、丸谷と諏訪の対立軸は方法論ではない。「挨拶」の応酬に見るとおり、忠臣蔵は御霊信仰に根ざした芝居であり、カーニヴァル、すなわち祝祭的演劇である、これが丸谷説の核心であり、諏訪はそれを「全否定」した。これが論争の焦点である。そして、「御霊信仰」と「カーニヴァル(祝祭)」についての両者の定義が違うため、この論争は最初から最後まで平行線をたどったのであった。
一見、両者とも譲ることのできない対立のように見えるが、実はそうでもないのではないか、というのが、論争から三十年近く経って両者の言い分を読み返して私が抱いた感想である。
御霊信仰論のアンチノミー
赤穂浪士による吉良邸討ち入りに江戸の庶民が喝采した背景には、犬公方・綱吉の悪政への呪詛があったと丸谷は仮定している。おおやけに幕政批判をすることが禁じられていた江戸時代、庶民は吉良上野介との確執の真相が解明されないまま即日切腹となった赤穂藩主・浅野内匠頭長矩に同情し、彼の霊を菅原道真や平将門のような御霊(怨霊)に見立てて、その怨霊の霊威による世直し、綱吉政権の打倒を願った。「民衆は死霊に怯えながらも、異変をもたらすことのできる不吉な英雄に憧れたらう」と丸谷は想像した。江戸庶民の期待通り異変は起きた。元赤穂藩家老・大石内蔵助の率いる赤穂浪士が、江戸・本所の吉良邸に討ち入り、吉良上野介を討ちとったのである。
孝道も武士の倫理も実は意識の表層にある徳目にすぎず、彼らはもつと深いところで、古代以来の信仰によつて動かされてゐた。四十六人の浪士は、ちようど菅原道真の霊をなだめて落雷その他の災厄をまぬかれようと、高位を贈つたり、神社を建てたり、その神社へ天子が拝礼したりするのと同じような、怨霊慰撫の儀式として吉良上野介の首をあげた。(丸谷『忠臣蔵とは何か』より)
赤穂浪士は御霊信仰というフレームを通して自らの行動を理解していた、そして、江戸庶民も御霊信仰というフレームを通して赤穂浪士の行動を理解した。これをベースに成立したのが忠臣蔵という芝居だというのが、丸谷の第一の主張であった。
諏訪の丸谷批判「御霊信仰と判官びいき」は、近世演劇史に照らして丸谷の事実誤認を指摘しながら、御霊信仰の定義について丸谷の拡大解釈を難じて、忠臣蔵の核心は御霊信仰ではなく判官びいきだと論じた。確かに、浅野内匠頭が怨霊化したと丸谷は言うが、雷を落としたわけでも、首が江戸から赤穂まで飛んで帰ったわけでもない。そんな派手な大技でなくても、せめて誰かに取り憑いて「我は浅野長矩が怨霊なり。汝内蔵助、吉良の首を討ち取れ」と御託宣くらいはしてほしいところだが、そうした話も伝えられていない。また、丸谷が御霊信仰説の傍証として挙げた事柄は、あらかた諏訪によって事実誤認を指摘されてしまい、これで丸谷説の説得力は大きく減じた。
もっとも、諏訪は歌舞伎の「荒事系の人物でなければ御霊神とはなれない」と限定しているが、それでは佐倉惣五郎(宗五郎)は祟らない。宗五郎の名は、諏訪自身が御霊の例として挙げているので、これは重大な自己矛盾である。丸谷は「諏訪の流儀で打消してゆけば、日本史に御霊神がゐなくなつてしまふだらう」(「文学の研究とは何か」)と皮肉っている。
このように諏訪が自己矛盾を犯してまで断固として丸谷説を排撃するのには別の理由がある。丸谷がかみついた諏訪の「挨拶」には、実は続きがあって、そこで諏訪は丸谷忠臣蔵論を厳しく批判した動機を次のように述べている。
ただ、私の恐れたことは、そしてそれは本稿執筆の動機でもあるが、丸谷氏の主張がそのまま世に行なわれるとすれば、忠臣蔵の本質が誤られるにとどまらず、江戸時代に対する偏見を醸成しはしないかということである。江戸時代は怨霊が跳梁し、そこに生きた人々は政府の圧政と災害に苦しみ、毎年の新春から体制転覆の呪詛劇を上演していたというような。それは新しい江戸時代暗黒論の復活であり、江戸時代に現代日本の故郷を見る私にはとうてい受け容れがたいことである。(諏訪、前掲書より)
江戸時代観についてはなるほどと思う。ここで諏訪は取り上げていないが、綱吉の悪政の代名詞のように言われる生類憐みの令は当時としては必ずしも突飛な政策ではなかったという説(塚本学『生類をめぐる政治』平凡社、1983)もすでに発表されていた。犬公方の悪政に苦しむ江戸庶民という図は、後世の新井白石らによって誇張されたイメージなのである。しかし、気になるのは「江戸時代に現代日本の故郷を見る私にはとうてい受け容れがたい」という文言である。諏訪の言う「日本」とは何か。これは論争のもう一つのテーマであるカーニヴァルとかかわってくる。
お軽勘平カーニヴァル
諏訪の批判に対する丸谷の最初の反論が「お軽と勘平のために」と題されているのは、お軽勘平の物語を丸谷が重視しているからである。お軽と勘平の悲恋は忠臣蔵の人気のあるエピソードだが、最近の映画やテレビドラマは史実の赤穂事件を意識して作劇される傾向があるためか、あまり大きく扱われない。
芝居の早野勘平のモデルは、実在した赤穂藩士・萱野三平である。萱野は、浅野内匠頭切腹の第一報を、江戸から早駕籠を飛ばして赤穂に知らせた人物で、赤穂藩お取りつぶしの後に討ち入りのメンバーに加わるが、父親から仕官を強く勧められて板挟みとなり、討ち入り前に切腹して死んだ。どういう事情があったか知らないが、どちらかを断ればいいじゃないか、と思わないでもないが、芝居の作者は、仇討ちという本懐を遂げられずに死んだこの萱野三平をモデルに早野勘平を造型し、腰元・お軽(大石内蔵助の妾がモデルとされている)との悲恋をとり混ぜて、運命に翻弄された青年の悲劇を描き出した。
丸谷がカーニヴァルについて論じるのは、『忠臣蔵とは何か』の最終章「祭としての反乱」においてである。ここで丸谷はエリアーデ『聖と俗』、バフチン『ドストエフスキー論』、マレー『魔女たちの王』など、欧米の宗教学・民俗学・人類学の仮説を参照しながら、カーニヴァルとは「もともとは自然界の死と再生に関係のある、太古の農耕儀式」だとして、祭のあいだだけ王に擬せられた者(偽王)が象徴的に殺されることに注目する。
カーニヴァルの王とはつまり冬の象徴である。あの祭の本質は、冬が一時は権勢を誇るがやがて権威を失墜するといふ比喩なので、古代人は、自然がこの祭儀に感銘を受けてそれを模倣することを期待したのだ。とすれば、その背後にかくれてゐるのは、かつて王であつた春が冬によつて倒されたけれど、その冬がいま王冠を奪はれたので春が再び王位につくといふ、春の王の物語にほかならない。
そして忠臣蔵は「このカーニヴァル型の祭とそつくりの構造で出来てゐるやうに見える」と言う。高師直が冬の王で、塩冶判官が春の王である。だから高師直は祭のクライマックスにおいて偽王として殺されなければならない。そして、判官切腹の後、劇中で春の王の身代わりとして活躍する(悲劇的な死を再現する)のが早野勘平(したがってお軽は判官の妻・顔世御前の身代り)であり、忠臣蔵とは「春の王としての塩冶判官とその身代りとしての勘平が冬の王を討つ芝居」だというのが丸谷の見立てである。すなわちカーニヴァルにおける偽王殺しの大がかりなものというわけだ。
丸谷はさらに大胆な仮説に向かう。御霊神を祀る御霊会とカーニヴァルとは起原を同じくするのではないかと想像するのである。
すなはち人類は遠い遠い昔、春の王である若者を祭り、悼み、祝ふことで豊穣を祈り、それによつて、茫漠としてとりとめのない時間にリズムを与へてゐたのだらう。それはどちらも、御霊会ともカーニヴァルとも名づけられてゐない原始の祭で、おそらく両者はかなり似てゐたに相違ないし、こんなふうに考へて来ると、御霊会とカーニヴァルとの関係など、もはやどうでもよくなつてしまふ。太古の民が春の神を信じ、何か御霊会=カーニヴァル的な春の祭をしてゐたと想定すればそれですむのである。(丸谷『忠臣蔵とは何か』より)
そして、丸谷が想定する「万古の神話と祭が民族の意識に刷り込まれてゐて」、それが「何かのはづみでとつぜん」「人々を激しく動かす。そんな奇蹟的な出来事が忠臣蔵事件だつたのだらう」とするとき、これはもう推論というより、願望や夢想の域にある。
日本的悲劇の原像の幻想
丸谷説に対して諏訪は「高師直を偽王である冬の王にあてるのは認められる推定である」としながら(その点で忠臣蔵にカーニヴァル的側面のあることを暗に認めながら)、勘平が春の王の代理だというのは、芝居の展開に即して無理がある、と断じる。それなら「勘平はなぜこんなにも人気があるのか」と丸谷に問われた諏訪は再批判「忠臣蔵のために」で「勘平の魅力の根本は、彼の死が、悠久の古代からの日本人の死生観に合致することにある」、勘平の「犠牲は可憐さとはかなさの感傷を伴う」からだという解釈を示し、その根拠として自身の論文「日本的悲劇の成立と展開」の参照を求めている。該当箇所と思われるところを同論文から引く。
悲劇をギリシア型悲劇から解放して、各民族に各民族固有の悲劇の形式があるとする筆者の立場は、近松の悲劇的作品をもって日本的悲劇の典型と考える。そして、近松に代表される日本の悲劇は、日本人の死生観の演劇的表現であったとみる。
これもすでに明らかにしたように、日本人の基本的な死生観は、聖的なものと俗的なものとの二元の対立を想定し、俗的なものが生命を更新するためには犠牲を媒介として聖的なものに接触しなければならず、犠牲はまたみずから破壊されることによって犠牲自身も永遠の生命を獲得できるという汎世界的な死生観の枠内にある。ただ、日本的死生観は農業供犠を源流とするため、犠牲は動物供犠とは異なる可憐さとはかなさの感傷を伴う。
この死生観を時代浄瑠璃が追求する政治的主題に置き換え、聖的なものを歴史を過去から現在に貫通する正義、俗的なものを劇の主人公、生命の更新をこの世における歴史的正義の実現、犠牲を主人公周辺の弱者と考えれば、近松の時代浄瑠璃の悲劇の構図が完成する。
くり返すが、劇の主人公は犠牲なしには、この世に歴史的正義を実現することはできないのである。そして、犠牲はみずからを破壊することなしには歴史的正義の実現に貢献することはできないのである。そして、日本人の死生観は日本の供犠にその起原を得ているのであるから、犠牲の破壊は祭式の中心に据えられなければならず、犠牲の死は明確な目的意識に支えられている。(「日本的悲劇の成立と展開」、諏訪前掲書所収より)
諏訪は「悲劇をギリシア型悲劇から解放して、各民族に各民族固有の悲劇の形式があるとする」のが自らの立場だという。この論文の冒頭で諏訪は、スタイナー『悲劇の死』(筑摩書房)がギリシア悲劇に範をとった悲劇理解から「日本の演劇は、残忍な場面や儀式的な死でみちている」がそれは悲劇とは呼べないとしたことに異議を唱え、『国姓爺合戦』と『オイディプス王』を比較して共通性を取り出し、ヤスパース『悲劇論』も援用して「神でも仏でもないところの人間が、人間としての可能性をぎりぎりのところまでつきつめて追い求め、そして自分の責任において没落していく行為の描かれていることが、悲劇の本質」だと定義している。これは「悲劇をギリシア型悲劇から解放」したというより、あくまでギリシア悲劇を起源とする西欧の演劇論の伝統を基準にして、日本の演劇を西欧世界に承認させようとする議論に思えるのだが、今はそのことはおくとしよう。
それでは、日本民族に固有の悲劇の特徴は何かということだが、「日本人の基本的な死生観は、(中略)汎世界的な死生観の枠内にある」としている以上、ここまでは日本民族に固有とは言えない。ちなみにこの「汎世界的な死生観」はもっぱらモースとユベールの『供犠』(法政大学出版局)を論拠に抽出されている。そして、ラグラン『文化英雄』(太陽社)、ハリソン『古代芸術と祭式』(筑摩書房)を参照して、「悲劇的精神は、その信仰儀礼の中でも特に供犠における神の供犠に起源を持つ」とした。
諏訪は大嘗祭などを念頭に「日本的死生観は農業供犠を源流とするため、犠牲は動物供犠とは異なる可憐さとはかなさの感傷を伴う」点に日本の固有性があるとしているが、これにはもちろん例外がある。諏訪自身が挙げている例のみに限っても、文献では『日本書紀』、『続日本紀』、『日本霊異記』、『今昔物語集』、『宇治拾遺物語』、『神道集』、地理的には沖縄のウンジャミ、北海道アイヌのイヨマンテの祭などに動物供犠が認められる。諏訪はこれ以外にも「日本で動物を犠牲とする例はけっして少なくはない」とことわっている(例えば諏訪は挙げていないが信州・諏訪大社には動物供犠の記録がある)。
これだけの例外を列挙してみせる諏訪の誠実さのおかげで、農業供犠を源流とする日本的死生観の適用範囲が、大きく見積もっても時代的には中世以後、地理的には本州の稲作農業が盛んな地域、すなわち柳田民俗学のいう常民の生活空間に限定されることがわかる。だから諏訪が「江戸時代に現代日本の故郷を見る」のも「近松の悲劇的作品をもって日本的悲劇の典型と考える」のも当然なのである。諏訪が日本人の民族性の背景として思い描く「農耕を中心とした穏和な生活を繰り返していた」社会とは、歴史的には近世を迎えてから現実化したものだからだ。
結局、諏訪のやっていることとは、西欧の古典学、人類学、宗教学などの方法と概念によって悲劇の本質を供犠から説明する一般的モデルを設定し、そこに柳田民俗学によって再構成された日本人像を偏差として加味して、日本的悲劇の特性をとらえるということである。
それでは丸谷はどうかと言えば、『忠臣蔵とは何か』のあとがきから、次の一文を挙げておくだけでよいだろう。
これは忠臣蔵といふ事件と芝居を江戸時代の現実のなかに据ゑながら、しかも、古代から伝はるわが信仰と関連づけ、さらには、もつと普遍的な(全世界的と言つてもいいかもしれない)太古の祭とのゆかりを明らかにした本である。当然、民俗学的な方法が取入れられてゐるし、そのことに当つては柳田國男と折口信夫に負ふところがすこぶる大きい。しかしわたしは日本民俗学よりはむしろ、フレイザー以来の西方の学風に学んでゐる。
もはや言葉を費やす必要はないだろう。要するに、この二人は同じことをやっているのである。世界文学史の中に忠臣蔵を位置付けたい。この場合、「忠臣蔵」とは日本文化の隠喩であり、しかもその日本文化とは、二人がそれぞれに思い描くものでなければならないのだから、とどのつまり、自分の日本文化理解の世界文化史における位置づけを探る試みということになる。身も蓋もない言い方をすれば、グローバル時代におけるナショナル・アイデンティティ探究の先駆であり、それも高度経済成長を成し遂げて自信と余裕を持っていた日本社会を背景にしてなされたディスカバー・ジャパンなのである。ただし、その後の、国柄とか伝統・文化とかの言葉だけが踊る空疎な言説にくらべれば、両者とも内容といい、視野の広さといい、はるかに優れた議論であったことは言うまでもない。
諏訪は丸谷の忠臣蔵カーニヴァル説を否定しているが、「犠牲はみずからを破壊することなしには歴史的正義の実現に貢献することはでき」ず、その「犠牲の破壊は祭式の中心に据えられなければなら」ないのであれば、諏訪の考える悲劇もまた「祭式」という形式を持つ祭=祀りである。こうしてみると両者の悲劇観は祭祀の目的についてこそ違いがあるが、供犠を伴う祭祀を範とする点では同じである。この点でも両者とも、山崎の言っていた「世界的な演劇祭祀論」の潮流のなかで議論しているのであり、そして忠臣蔵は常に史実の赤穂事件と対比されながら語られるわけだから、「現実は時にそのまま演劇でありうるという、新しい意味での「世界劇場」論」(山崎)でもあるわけだ。以下ではこの世界劇場論の条件と可能性について考えてみたい。
勘平の死の意味
例えば、ドラマの登場人物が劇中で死ぬ。舞台の上では塩冶判官も勘平も死ぬ。しかし、それを演じている役者が死ぬわけではないし、舞台の上で死んだ登場人物も、史実の浅野内匠頭や萱野三平が死んだように死んだわけではない。象徴的な次元では生き返ったり、生まれかわったり、生き続けたりすることもある。それは脚本や演出によってそうする場合もあるし、観客の心のなかで生き続ける場合もある。この点を強調したのが丸谷『忠臣蔵とは何か』だった。丸谷を批判した諏訪も「犠牲はまたみずから破壊されることによって犠牲自身も永遠の生命を獲得できる」というくらいだから否定はしないだろう。ドラマのなかでは誰も死なない。それがこの論争の前提だ。
こうした前提が生きてくるためには、一つの条件がある。「永遠の生命」を獲得する死者は、作品世界の構成要素でなければならないということである。作品世界は、それを構成する要素の一つ一つが互いに有機的に関係し合って、各要素が全体のなかで意味のあるはたらきをしているような秩序ある全体である。その具体例が、演劇作品であり、文学作品であり、あるいは作品化された神話・伝説、物語としての歴史等々である。目の前で現実に起きた出来事でも、もしその光景を映像作家が一つの場面としてとらえてカメラにおさめたら、それはもう作品だ。
この前提は、『新しい文学のために』(岩波新書、1988)で大江健三郎も共有している。大江はバフチンを参照して、「カーニバル的な世界感覚」と「グロテスク・リアリズム」という視点から井伏鱒二『かきつばた』を読んでみせる。
文学のなかの事物・人間は、総合的な、つまり分割できぬ総体としての意味を担っている。井伏鱒二の短編『かきつばた』は、広島で原爆を、さらに福山で大空襲を体験して精神に変調をきたした娘の自殺を描く。それも、池に浮かんだ娘の死体のわきの、かきつばたの狂い咲きをつうじて。時季はずれのかきつばたに娘の自殺体をかさねたイメージは、狂い咲きつまり太陽のめぐりの異変ということを介して、宇宙的な感覚の動揺を呼びおこす。同時にたびかさなる戦争の災厄による狂気ということをつうじ、社会的な悲惨へ読み手の眼をひらかせもする。
しかも、読み手に対して提示されているのは、あくまでも娘の自殺体とかきつばたの花の、かさなったイメージ、肉体ともののイメージである。それは分割できぬ総体としてある。娘は死んでおり、花は狂い咲く。このイメージの総体は悲惨で苦にがしいものだ。しかし、そこにグロテスク・リアリズムの読み方をみちびきこめば、イメージはさらにもうひとつの方向づけへと、読み手をみちびく。正常な季節のめぐりと幸福な娘という、裏返しのイメージもまた、読み手に見えてくるのである。
だから、ドラマのなかでは誰も本当の意味では死なない。推理小説の冒頭で登場人物の一人が殺される。犯人は誰だ? というところから物語が始まる。被害者は殺されたのだから死んでいる。けれども、作品のなかでは決して忘れられない。その意味では殺されたことによって生き続けているのである。
舞台の上では死も一つの演技であって、人の死はすべて意味のある死である。だからこそ、悲惨な死を遂げた『かきつばた』の娘も、グロテスク・リアリズムの光をあてれば、「憐れな娘を生命の側に呼び戻し、世界の物質的・肉体的原理と健康に結びなおしてやる」ことができると大江は想像する。
しかし、現実はそうではない。『かきつばた』で描かれた娘の死が現実の光景だった場合、第三者がその死を、たまたま季節はずれに咲いていた花と結びつけて、いかなる感傷にひたろうが夢想にふけろうが、死者を「生命の側に呼び戻し、世界の物質的・肉体的原理と健康に結びなおしてやる」ことなど決してできない。それが可能であるのは、その死が文学作品という区切られた世界における死だからである。「犠牲はみずからを破壊することなしには歴史的正義の実現に貢献することはできない」という諏訪の主張も、それが演劇論であるから肯く人もいるのであって、これが現実の世界について言われた言葉であれば、自己犠牲を必須要件とする「歴史的正義」とは何かと、ただちに問われることになるだろう。しかし、先走って言えば、当事者性や倫理的な問いを棚上げにして、死の意味すら語ることができるのも世界劇場論的思考の利点である。そこでは死や不在や欠如や忘却すら「分割できぬ総体としての意味を担って」おり、大江の言うように何らかの方法的意識をもって作品に臨めば意味を読みかえることすらできる。
意味のある死、永遠の生命が成り立つのは、それが区切られた世界、有機的な秩序をもつ一つの作品の「分割できぬ総体」に含まれていることが条件となる。「この世は舞台、人はみな役者。出たり引っ込んだり」(シェイクスピア)である。これを中村雄二郎が『魔女ランダ考』(岩波書店)で提唱した「演劇的知」の条件といってもいい。これは重大な制約である。私にとっての私の生は、私が死ぬまで完結しない。だから、どれほど筆の速い作家でも、完全な自伝を本当の意味で完結させることは原理上できない。私は私の死=生を意味づけることはできない。私の生は、私の死を見届けた誰か他者によってしか意味づけられない。完結しない歴史は、便宜的な区切りをつけない限り作品化できない。世界を演劇と見立てることには、このような限界が伴う。
思えば、演劇的知と人類学的思考の相性がよいのは、70年代から80年代にかけてのその提唱者である中村雄二郎と山口昌男に親交があったからではなく、対象から距離をとって全体を見渡す視線、当事者の自己理解を離れて解釈や意味づけを行う態度などが共通しているからだろう。前者には舞台と客席の距離があり、後者には植民地と帝国の距離に加えて文化的差異がある(中村の『魔女ランダ考』はバリ島(異文化)の演劇(作品)をモデルとすることで二重の対象化を仕組んでいる)。現実をドラマと見立てる世界劇場論にとって、対象と距離をとることは重要な条件である。
世界劇場論的思考の可能性
あくまでもその限界を承知したうえで、なのだが、世界劇場論的思考の可能性について考えてみる。例えばそれは、応用倫理学の流行とともに広く知られた救命ボート問題などとは似ているようで違う。救命ボート問題は単純計算である。定員10人の救命ボートしかないのに乗客は11人いる! さてどうするか? である。このクイズは、全体が生き延びるために個が犠牲になるのは仕方のないことだというメッセージを伝えるためのものなので、緊急事態の対処法について真の解決を求めているわけではない。正解は、11-10=1、誰か一人死んでもらいましょうということに決まっているのだ。だから、詰めあってもう一人分のスペースを作るとか、余計な荷物を捨ててもう一人乗れるようにしようとか、そういうごく常識的で実際的な解決は却下されるのである。
スケープゴートの問題は、ドストエフスキー『悪霊』のスタブローギンのセリフを引いて、全員一致で一人を殺すこと、と定式化されることもある(ジラール)。これは一見すると救命ボート問題に似ているように見えるが、『悪霊』におけるシャートフ殺しは、救命ボート問題とは人間観において決定的に異なる。
忠臣蔵からいきなりドストエフスキーとはずいぶんな飛躍だと冷やかされるかもしれないが、江川卓は、シャートフ殺しの主犯ピョートルの陰謀がロシアのフォークロアを背景に企てられていることを指摘している。
何より彼の政治プログラムが、ロシア・フォークロアの精神をそのままになぞっていた。前代未聞の破壊と混乱の果に、ピョートルが登場させようとするのは、ロシア民話の桃太郎ともいうべき「イワン皇太子」なのである。灰色狼や、大烏や、魔女ババ・ヤガーをさえ味方につけ、怪物を退治して美女を解放し、暗黒の世に光明をもたらすイワン皇太子――それはロシア民衆の救済願望の外在的な表現であった。社会主義は「古い力」を破壊することはできるが、「新しい力」をもたらすことはできない。「イワン皇太子」こそは、ロシア民衆が待望する「新しい力」であり、この力があれば、全地球を持ちあげることも可能だ、とピョートルは力説する。(江川卓『ドストエフスキー』岩波新書、1984)
周知のように、ピョートル一派によるシャートフ殺しは、実際に起きたセクト内の同志殺害事件、ネチャーエフ事件がモデルになっている。事件の首謀者ネチャーエフについては詳しいことはわからないが、ロシアのアナーキズム思想家バクーニンと通じていたらしい(ヒングリー『ニヒリスト ロシア虚無青年の顛末』みすず書房)。バクーニンは世界各地を旅し、フランスではプルードンの知遇を得、社会主義インターナショナルでマルクスと論争するなど第一級の国際派知識人であった。当時の先端的思想と互角に渡りあったバクーニンのアナーキズムと、ピョートルの民俗的な「政治プログラム」との落差は大きい。民間信仰に着目し民衆の世直し願望をなぞる点で、ピョートルの「政治プログラム」は西欧のアナーキズムよりも丸谷が忠臣蔵に読みとった、御霊信仰に由来する江戸庶民の「異変をもたらすことのできる不吉な英雄」への期待によほど近い。
ピョートルは、政治グループの結束を強めるために仲間の一人シャートフを裏切者に仕立て上げ、他の仲間をそそのかして殺させる。そして、隠ぺい工作のため、その罪をキリーロフに負わせて自殺させる。この陰惨なドラマのなかで、シャートフもキリーロフも11-10=1という数式のなかの1にはとても収まらない存在感をもって描かれている。それは陰謀家ピョートルを凌駕しており、シャートフの死はピョートルの小者ぶりを浮かび上がらせてしまう。キリーロフの自殺に至っては、ピョートルがキリーロフのニヒリズムを利用しているのか、キリーロフがピョートルの小細工を利用しているのか、定かではない。
忠臣蔵の場合はどうだろうか。例えば丸谷の見立て通り、この芝居が浅野内匠頭長矩の御霊を召喚し、徳川綱吉の悪政にせめてもの鬱憤晴らしをしようとしたものであるとすれば、綱吉の身代わりである高師直(吉良上野介)を討ち取るまでの物語中の死者はすべて、塩冶判官(浅野長矩)の霊威を増すために捧げられた供物ということになる。なかでも勘平は、塩冶判官の分身という性格を持っていて、劇中で判官の切腹(無念の死)を再演し、その霊は(実際には描かれていないが)判官の名代として由良之助一党の討ち入りにも象徴的に参加しているはずだというのが丸谷の見立てである。
それではこの勘平は体制批判のシンボルかというと、そう単純な話でもない。
勘平の現身はともかくその魂魄だけは討入に加はつたといふことが、観客に対して、これはまるで自分たちが心ではそのことを望みながらしかし悪政の王を襲はなかつた(そして今も襲はうとしない)のとおんなしだ、といふ感じを与えたことだらう。(中略)かうして勘平は、体制を呪ひながら何もしないでゐる人びとにとつて、この上なくありがたい守り本尊になつたし、これはおそらく『仮名手本忠臣蔵』の作者たちの立場だつたに相違ない。彼らはこの登場人物によって、自分たちを含める日本人全体の政治思想を侘しく宣揚したのであらう。(丸谷『忠臣蔵とは何か』より)
勘平をこの芝居全体の隠れた主人公とする丸谷にとって、それは「日本人全体」の政治についての態度「怠慢と忍従」を正当化してくれる存在でもある。
一方、諏訪にとっての勘平は、重要ではあってもあくまで脇役の一人である。諏訪は次のように解釈する。
「仮名手本忠臣蔵」に即していえば、高師直の悪によって汚染された劇中世界の政治秩序を回復するための犠牲としての役割を勘平は果たしている。勘平の死を契機として、由良之助に代表される善の勢力は劇中世界の正義を回復するきっかけをつかみ、過去から当代に貫いて存在する歴史的正義の実現が可能になる。(諏訪、前掲書)
この場合、勘平の死は由良之助一党にとって意味があるのであって、丸谷説とは大きく異なる。なお、諏訪の言う歴史的正義とは「歴史をつらぬく大義の存在を認める理念」のことであり、その実現とは「私的な小状況の困難を解決するために企てられながら、公的な大状況の矛盾を解決するうえに決定的な役割を果たした」ということであるらしい。勘平の場合は、舅殺しの疑いをかけられて、姑からも同志たちから非難され、進退きわまった挙句、わが身の潔白を示すために(私的な小状況の困難を解決するために)切腹した。その直後に疑いが晴れ、あっぱれ忠義の士よということになって浪士たちの士気が高まる(公的な大状況の矛盾を解決するうえに決定的な役割を果たした)のだが、どうやらこれが歴史的正義の実現ということのようである。
このほかに、諏訪の勘平像はもう一つある。勘平は「劇中世界の政治秩序を回復するための犠牲」だが、諏訪によれば「日本的死生観は農業供犠を源流とするため、犠牲は可憐さとはかなさの感傷を伴う」とされているので、「可憐さとはかなさの感傷」を呼び起こす人物、これが勘平のもう一つの側面となる。
勘平一人をとっても、これだけ違いがある。読み手によって違うのは当然として、一人の読み手にとっても複数の側面のある人物としてとらえられる。丸谷は「勘平のいろいろな局面」として青年、武士、恋人、駆落者、浪人、不忠者、忠臣、律儀な男、猟師から討ち入りに参加する亡霊に至るまで、実に二十の面を数えあげている。最後の亡霊というのは、諏訪によれば丸谷の思い込みなのでこれは除くとしても、勘平は十九の面を持った人物である。これに諏訪の挙げた二つを足せば二十一の顔を持つことになる。そして、「実生活ではわれわれは誰でもみな、これと同じやうな、あるいはこれ以上に複雑な条件で(ただしもつと平凡な複雑さで)生きてゐる」(丸谷)。
世界劇場論的思考は、私たちの実生活の「複雑な条件」を考慮に入れて事態をとらえることができてこそ意味がある。人間一人をとってみても、その存在は11-10=1という計算式に還元されない多面的なもので、役割=顔を見れば二十一面相である。そして私たちの社会は、無数の二十一面相たちの織りなす重層的な空間である。それをとらえようとすれば、どうしても議論は入り組んだものになるだろうし、簡単に表現することはできない。論者によって複数の解釈が成り立つ。どこまでもあいまいさが残り、きっぱりしたテーゼを提示できずに暗示するほかない場合もあろう。いかにも格好の悪いことであるが、現代で世界劇場論を模索するなら、舞台と観客という演劇的知の条件を織り込みつつ、脱神話化された社会でなお語り出される物語が再神話化される契機を批評的につかむこと、こうしたことがその端緒になるのではないだろうか。
忠臣蔵論争に話を戻すと、おそらく諏訪がもっとも反発した丸谷の忠臣蔵理解の一側面「体制に対する反抗と呪詛の藝能としての『仮名手本忠臣蔵』」に世界劇場論的批評の一つの姿が表れている。「この狂言は蜂起や暴動を直接的に示唆したり煽動したりする宣伝劇では決してなく、ただ権力を呪うだけの、今日の眼から見ればずいぶん安全な性格のものだつた」(丸谷)。
この芝居の見物は、今日も明日も明後日も、出刃包丁や天秤棒を手にして江戸城や大阪城に押しかけることは決してしないだらう。重税と悪法に悩み、いつまでも屈服と忍従をつづけながら、しかし死霊のたたりが猛威をふるうことに期待を寄せるだらう。その態度を、だらしがないと咎めるにせよ、賢明だと賞讃するにせよ、とにかく実情はさうだつたし、しかも大切なのは、『仮名手本忠臣蔵』はかういふ仕掛けの呪術的演劇、政治的儀式だつたからこそ当時の日本人の精神風俗にきれいに合致してゐて、それゆゑあれだけ人気を集めることができた、あれだけの藝術的完成を持つことができた、といふ事情なのである。あれは当時の日本人の政治に対する関係をまことに正当に反映したもので、それを含めて、彼らの世界の見事な表現であつた。(丸谷『忠臣蔵とは何か』より)
丸谷の言う「あれ」とはまさしく『仮名手本忠臣蔵』のことなのか、「当時」というのは江戸時代のことなのか、「日本人」とは誰のことなのか、「彼らの世界」とは誰の世界のことなのか。ともあれ、史実と一致するかどうかは別にすれば、観客の存在に着目したところに、丸谷の批評家としてのセンスが光っている。
世界劇場の鬼門
実は世界劇場論にとってカーニヴァル的現象は鬼門である。
精神病理学者の木村敏は、祝祭をキーワードとして代表的な精神疾患(とそのアナロジーで語られる性格類型)を分類した(引用文中の「分裂病」は現在では統合失調症と呼ばれている)。
われわれは、分裂病の未知なる未来との親近性を、「祭の前」を意味する「アンテ・フェストゥム」の概念で捉え、一方鬱病者における既存の役割秩序との親近性を、「祭の後」を意味する「ポスト・フェストゥム」の概念で理解してきた。この「祭」という語は、特別な意図もなく、いわば偶然に見出された表現であったけれども、ここで第三の狂気の本質的な特徴を「祝祭的な現在の優位」という形で取り出してみると、われわれはそこに、もはや偶然では済まされない一つの符合を見出すことになる。われわれはこの第三の狂気に、「祭のさなか」を意味する「イントゥラ・フェストゥム」の形容を与えようと思う。イントゥラ・フェストゥム的意識に特徴的な時間構造は、いうまでもなく、現在への密着ないしは永遠の現在の現前である。(木村敏『時間と自己』中公新書、1982より。傍点を省略)
そして「いままでといまからという有限な個別性の規定から解放された永遠のいまにおいて、宇宙大に拡大した自己が、根源的一者としての自然との和解の祝祭に酔いしれる」、これが「祝祭的な現在の優位」、「永遠の現在の現前」なのだという。木村はこのイントゥラ・フェストゥム的意識の具体例として癲癇や躁病の症例のほかに、ドスエフスキー作品の登場人物、『白痴』のムイシュキン、『悪霊』のキリーロフ、リザヴェータ、『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャを挙げている。彼・彼女らに共通するのは、現在の瞬間に永遠や全世界を感じとるアウラ体験、あるいは躁病的エクスタシーである。「いよいよ残り五分ばかりで、それ以上命はないというときになりました。当人のいうところによりますと、この五分間が果てしもなく長い期限で、莫大な財産のような思いがしたそうです」(ムイシュキン)、「それは一度に五秒か、六秒しか続かないが、そのとき忽然として、完全に獲得されたる永久調和の存在を直感するのだ」(キリーロフ)、「彼女は『自分がほんの一瞬間しか持続できない女だとわかっているので』、思いきって決心して『全人生をあの一時間きっかり〔の情事〕に賭けてしまった』」(リザヴェータ)。ちなみに、ムイシュキンのセリフにある「当人」とは作家本人のことで、ドストエフスキーが死刑判決を受け、処刑直前に減刑された体験をしたことはよく知られている。
ドストエフスキーの意識における現在のこの豊かさは、彼がアウラ体験において死の側から生を眺めたときの壮麗な光景と、どこかで深くつながっているのではあるまいか。死は、生の側から未知の可能性として眺められたときには、身も縮まるような恐怖の源となるだろう。しかしもし死を現在直接に生きることができるなら、それはこの上なく輝かしいものであるにちがいない。(木村、前掲書)
こうしたイントゥラ・フェストゥム的意識は「祝祭的気分」とも言い換えられるが、それを描写する木村がお祭り気分で浮かれているわけではない。良きにつけ悪しきにつけ祝祭的な気分の支配がまねく非理性的事態の例として、個人レベルでは「愛の法悦、自然との合体感、美や神秘への沈潜から、酒や麻薬への耽溺、ギャンブルへの熱中、放火や窃盗に伴う快感、理由のない狂暴な殺人」、集団レベルでは「音楽の合奏や合唱における自我意識の解消、ある種の宗教の集団催眠的な効果、デモや災害時の群集心理、そしてなによりも祭の心理と革命や戦争の心理」(木村は挙げていないが当然「いじめ」の集団心理もここに含まれるだろう)を挙げて、祝祭には輝かしい面だけでなく負の側面もあることに注意を促している。
祝祭はつねに死の原理によって支配されてもいる。死は、それ自体としてみれば美わしい永久調和を意味するであろうけれども、個別的生命に執着する日常性の意識にとっては恐怖の対象以外のなにものでもないだろう。殺人や犯罪、革命や戦争はそれなりに人類の祝祭なのである。祝祭を主宰する神的な存在は、聖なるものであると同時に畏怖すべきものでもある。祝祭に犠牲は不可欠である。犠牲の死によって、はじめて祝祭は祝祭として完結する。ドストエフスキーの作品の暗黒の部分を考えてみるとよい。彼の作品も、そして彼の生涯も、陰惨であると同時に輝かしい一巻の祝祭であった。(木村、前掲書)
ところで、祝祭=カーニヴァルの性格について、丸谷も大江も参照していたバフチンのドストエフスキー論に次のような指摘があることは留意すべきだろう。
カーニバルとはフットライトもなければ役者と観客の区別もない見世物である。カーニバルでは全員が主役であり、全員がカーニバルという劇の登場人物である。カーニバルは鑑賞するものでもないし、厳密に言って演ずるものでさえなく、生きられるものである。カーニバルの法則が効力を持つ間、人々はそれに従って生きる。つまりカーニバル的生を生きるのである。
(バフチン『ドストエフスキーの詩学』筑摩書房より。引用にあたり強調は省略)
私は世界劇場論的思考が有効にはたらく条件として、それが区切られた世界を対象とし、観察者が対象とのあいだに距離をとることができることを挙げた。ところが祝祭とは「役者と観客の区別もない見世物」だという。「鑑賞するものでもないし、厳密に言って演ずるものでさえなく、生きられるものである」のだとすれば、それは芝居の約束事の通じない現実にほかならない。これは世界劇場論的思考にとっては恐るべきことではないか。演劇的知はここでつまずく。
実際に、その祭の輪のなかに自分が参加していなくても、見物しているだけでお祭り気分に感染し、どこか浮かれた気持ちになるということはある。それは上演された芝居を観ていても起こることである。
バフチンはカーニヴァルのときに民衆が体験する放埓な喜び、常軌を逸した生、逆転や異変や無遠慮な接触のもたらす興奮を、カーニヴァル的世界感覚と名づけた。たぶんさうとでも呼ぶしかない混沌とした満足なのだらう。そしてわれわれが『仮名手本忠臣蔵』によつて味はふものは、御霊会=カーニヴァル的世界感覚とでも形容するしかない猥雑な静けさ、秩序感にあふれた混冥、感動と哀愁と解放と浄化である。(丸谷『忠臣蔵とは何か』より)
もし、私たちが、カーニヴァル的世界感覚の対極にある日常性の意識(木村)、平凡な複雑さ(丸谷)、言いかえれば、正気を維持することにつとめなければ、私たちはカーニバルの法則の支配に従って生きることになるわけだが、「祝祭はつねに死の原理によって支配されてもいる」のであり「祝祭に犠牲は不可欠」である(木村)。こうした負の側面を避けるにはどうしたらよいか。
柄谷行人は評論「大江健三郎のアレゴリー」のなかで次のように言っていた。「非歴史的な「文化」の理論家たちは、かかる暴力の偏在性を指摘する。しかし、近代の政治に在るものが祭式やカーニバルに在るものと同一であるといったことを指摘することは児戯に類する。問題は、その先にある」。
われわれの疑問は、たとえば「生の肯定」、「生の蕩尽」としてカーニバル的にあらわれたものが必ずファシズムに転化するのはなぜかということだ。ニーチェやベルグソンはファシストではないといってもはじまらない。もはや純粋なカーニバルなどありえないように、純粋な「生の哲学」もありえない。それはいったん歴史的な文脈に存在するやいなや、思いもよらぬ反転や置換を強いられるのだ。本当は、「暴力的なもの」は《近代》に出現するのだといってもよい。(柄谷行人『終焉をめぐって』)
この柄谷の問題提起、「たとえば「生の肯定」、「生の蕩尽」としてカーニバル的にあらわれたものが必ずファシズムに転化するのはなぜか」という問いに対して、残念ながら今の私には、何か自分なりの粗末な感想を述べるほどの準備すらない。ただ、アドルノの「社会全体が狂っているときに正しい生活というものはあり得ない」(『ミニマ・モラリア』)という言葉を思い出しただけである。
【コメント】
鳥獣の論理
岡田有生
はじめに
丸谷才一についてだが、10月に逝去したとき、毎日新聞に作家の辻原登による短い追悼のコメントが載っていた。
それによると、丸谷の作品は、ちゃんとした職業を持った人物を主人公にしたという点で、日本の小説としては画期的なものだったという。僕は、丸谷の作品を全く読んだことがないのだが、この辻原の評言は印象に残った。自分とは隔絶した人生観・価値観のようなものが、そこにあると思えたからである。
考えると、僕はこれまでの50年の人生で、定職と呼べるようなものについたことがほとんどない。今まで丸谷の作品に全く関心をもたず、書評などの短い文章を読んでも好意的な印象を持つことがなかったことの一因は、そこにあるとも考えられるのだ。
それでさらに思い出したのは、辻原と同郷の大物作家である中上健次が亡くなった時(だったと思うが)、ある雑誌に載った座談会で作家の奥泉光が、中上の或る長編(たしか『地の果て 至上の時』だったと思う)について次のようなことを言っていたことである。
この小説には、主人公の土方仕事の同僚で「○○さん」と呼ばれる人物が登場するが、中上の作品に、このように職業を持った普通の市井の人物が登場するのは、たいへん意義深いことだ。
たしか奥泉は、そういうことを言っていた。
辻原登と奥泉光は、ともに90年代以降に脚光を浴びた作家だが、その二人が先輩の大作家の仕事について、いずれも、「ちゃんとした職業」をもった、「普通の人」を主人公にしたり登場させたりしたことに着目し、それを称賛している。
つまり、市民社会的な「普通」ということ、定職をもった普通の人の暮らしや感覚というものに、それだけ価値が見出されるようになったということだろうが、それは裏を返せば、そうした「普通」の生活というものが、現実の社会においてはもはや成立しにくくなっていることを示すものなのかもしれない。本当にありふれたものなら、人はとりたててそれに関心を寄せたり称賛したりはしないであろう。
実際僕は、ほとんど一度も「ちゃんとした職業」を持たずに来たし、僕より下の世代の人たちの多くは、持ちたくとも定職を持てない人が急速に増えた。そういう意味では「普通」の日常というものが、崩され成立しにくい社会になった。それが90年代以降の大きな変化だろう。ただ自分のことを考えると、そうした変化の予兆は、それよりかなり前の時期、世間的には好景気と言われていた頃からあったような気がする。
もっともこの話は、たとえば性別でいえば男性にのみ当てはまることであって、女性の場合には、元々そういう定職のようなものに就く機会は限られてきたわけだが。
ともあれ、丸谷をめぐる広坂さんの論は、こうした「日常」の意義と危機とに、深く関わるものだと思えるのである。
世界劇場論の限界について
さて、広坂論文では、忠臣蔵をめぐる丸谷・諏訪の論争が、当時の世界的な潮流だった『「現実は時にそのまま演劇でありうるという、新しい意味での「世界劇場」論」(山崎正和)』の文脈にあるものと捉えられ、そこから、この世界劇場論の限界と可能性とが考究されている。
まずその限界については、区切りをつけられないもの、私自身には意味づけられないものであるはずの生の体験を、完結した有機的な秩序をもった演劇的世界になぞらえて捉えることから来る弊害が述べられる。『当事者性や倫理的な問いを棚上げにして、死の意味すら語ることができる』のが、世界劇場論の利点であり欠点でもある、ということだ。
現実には私にはその意味を了解することが出来ないような出来事、不慮の他人の死といったことも、世界劇場論では何らかの象徴的な意味を付与されて了解可能な事象、むしろそのように了解するべき事柄のように考えられる。
注意すべきなのは、生を演劇のように語って理解しようとする、この世界劇場論的な発想というものが、たんに出来事の暴力性から一時的に生存者を庇護するといったもの、つまりは暴力性を見えにくくしておくための装置ではなく、それ自体が、他者が創り出す大きな物語の枠組みから排除されるような人たちにとって暴力的な抑圧として働くものにもなりうる、ということだろう。
実際、この枠組みの中では、全体の利益や秩序の維持のために誰かが犠牲になるということも、容易に「仕方のないこと」とされてしまうことになりかねない。
世界劇場論的な思考の難点は、ここにあると考えられるわけである。
私にとって私の生は、私が死ぬまで完結しないものであるはずなのに、それが誰かによって意味づけられることで完結したもののように見なされ、私からこの生の固有の重さや手触りが奪われてしまう。
意味づけられない生の余剰をも物語の中に回収してしまうことで、私の生を固有ではないものにすり替えてしまおうとするかのような、この世界劇場論の負の機能は、構造主義的な思考にわれわれが感じる息苦しい抑圧的な感覚にも通じるものだと思うのだが、こうした抑圧への抵抗の意志を表明した優れた戦後の思想のひとつは、『全体性と無限』におけるレヴィナスのそれだったのではないかと思う。
そうしたふたつの哲学のはざまで私たちは、地上の生存の展開、私たちがエコノミー的生存と呼ぶものの展開のただなかで<他者>との関係を記述することを提案する。(中略)歴史が<私>と他者とを非人称的な精神のうちで統合すると称したところで、そのいわゆる統合は残忍さであり不正であって、言い換えれば<他者>を黙殺することである。人間のあいだの関係としての歴史は、<他者>に対する<私>の位置を無視している。<他者>は私との関係において超越的でありつづけるのである。(岩波文庫『全体性と無限』上巻p83〜84 熊野純彦訳)
このように書くレヴィナスがこだわったのは、「非人称的」な「統合」から残忍に切り落とされてしまうような、日常的な他者との関わりの経験の重さであり、その言わば物語にとっての剰余を抹殺してしまおうとする大きな暴力に対する抵抗の精神だったのだと思う。
それは、他者に対する倫理性の問題を、あくまで日常における関係性から出発して考えようとする姿勢だといっていい。
そして、レヴィナスにとって、生の固有性や、日常的な関係の重要さが、あくまで(超越的とされる)「他者」に関わるものだったということは、とりわけ大事な点だろう。
広坂論文に戻ると、そこで指摘されている世界劇場論の限界は、それが(恐らくは他者に関わる)生の経験の重さ、意味づけて了解することが不可能な部分を、あたかも存在しないかのように扱ってしまいかねない点にある、と考えられる。そして、「存在しないかのように」扱われたものは、レヴィナスにおけるようにそれが他者との関係に定位されて考えられるのでなければ、行き場のない息苦しさとして社会の底に澱んでいくはずである。
レヴィナスはここで、ファシズムの発生の問題を、むしろ内在的に考察していたのかもしれない。
世界劇場論の可能性について@
次に、広坂論文が示唆する、世界劇場論の「可能性」に関して考えてみよう。
ここで考えられているのはまさに、物語や「歴史」から取りこぼされたり、切り落とされてしまうような生の余剰を、他ならぬその世界劇場論が救出しうる可能性だといえよう。
ここでは、世界劇場論が、われわれが実生活において生きている「複雑な条件」(丸谷)、多数の「役割=顔」の交錯した重層性という事情を考慮に入れることで、現代社会における物語の再神話化(つまり物語による、人々の生の抑圧・回収)を牽制する可能性が考えられているのである。
世界劇場論的思考は、私たちの実生活の「複雑な条件」を考慮に入れて事態をとらえることができてこそ意味がある。人間一人をとってみても、その存在は11-10=1という計算式に還元されない多面的なもので、役割=顔を見れば二十一面相である。そして私たちの社会は、無数の二十一面相たちの織りなす重層的な空間である。それをとらえようとすれば、どうしても議論は入り組んだものになるだろうし、簡単に表現することはできない。論者によって複数の解釈が成り立つ。どこまでもあいまいさが残り、きっぱりしたテーゼを提示できずに暗示するほかない場合もあろう。いかにも格好の悪いことであるが、現代で世界劇場論を模索するなら、舞台と観客という演劇的知の条件を織り込みつつ、脱神話化された社会でなお語り出される物語が再神話化される契機を批評的につかむこと、こうしたことがその端緒になるのではないだろうか。
この「格好の悪い」、「あいまいさ」を手放さない執拗な態度こそが、現代における物語と再神話化の暴力に対抗する、一つの有力な態度ではないか。
そうしたことが、このくだりでは述べられているのだと思う。
現代社会を覆う巨大な暴力は、一般的に人間の生存を危機に追いやるものであるが、その重要な特質の一つは、生の「あいまいさ」や「複雑な条件」というものを否認し、解消してしまおうとする点にあるだろう。それを消し去った方が、支配や破壊には好都合だからである。
「複雑な条件」を重視する態度は同時に、レヴィナスに見られるような、他者を超越的なものとして設定する対抗のあり方が、物語の再神話化に寄与してしまうこと、そうすることで近代的な暴力のある種の出現を幇助してしまうことへの牽制でもあるのかもしれない。
ともかく、人間の生を社会的な「役割」の束のようなものとして捉える世界劇場論は、それがこうした「複雑な条件」へのまなざしと、「舞台と観客」との距離の感覚(倫理性)とを失わない限りで、現代社会の支配的な暴力に対する抵抗の機能を持つ。
広坂論文のこの指摘は、たいへん示唆に富むものだと思う。
だが現代の社会では、そうした各個の「役割」というものに攻撃が加えられることで、われわれの生をこのような重層的な空間として認知する枠組み自体が成立しにくくなっているのではないかということが、僕が冒頭に書いたことであり、また広坂さんも、これに続くくだりで示唆されているところであると思う。
広坂論文において見出されている世界劇場論の可能性は、レヴィナスのそれとは違った質を持つものとして、現実の暴力に抵抗するのに一定の有効さを持つと思えるのだが、もはやその枠組みを多くの人が実感したり共有したりすることが困難なところまで、現実の暴力の侵攻は進んでいる。
そういう現状ではないかと思えるのだ。
だが、そう決め込む前に、この抵抗の可能性の独自な内実について、もっと考えてみなくてはならない。
世界劇場論の可能性についてA
「役割=顔」の複雑な重層についての広坂論文の記述を読んでいて(そう言えば、レヴィナスもまた「顔」を語り続けたわけだが)、僕が想起したのはやはり、エッセイ「面とペルソナ」をはじめとする和辻哲郎の戦前の文章のことである。
人を表現するためにはただ顔面だけに切り詰めることができるが、その切り詰められた顔面は自由に肢体を回復する力を持っている。そうしてみると、顔面は人の存在にとって核心的な意義を持つものである。それは単に肉体の一部分であるのではなく、肉体を己れに従える主体的なるものの座、すなわち人格の座にほかならない。(「面とペルソナ」 岩波文庫『和辻哲郎随筆集』p27)
(前略)そうなるとペルソナは行為の主体、権利の主体として、「人格」の意味にならざるを得ない。かくして「面」が「人格」となったのである。
ところでこのような意味の転換が行われるための最も重大な急所は、最初に「面」が「役割」の意味になったということである。(同上 p28)
ここでは、「面」としての顔面の優位ということが語られているが、この顔面とは、個としての人間存在ではなく、人間の社会的な在り様のことだと考えていいだろう。社会的に規定されたさまざまな「役割=面」の束のようなものとして人間は生きているのであり、そうした人間の社会的な生というものは、制度や資本が規定する存在の仕方に対して先行するばかりか、物質的・肉体的な存在に比してさえ根源的である。
和辻の近代(個物主義)批判の思想の一端が、ここによく示されていると思う。それは、たんなる人間中心主義といったものではなく、生を支配や管理のために都合のいい単位に縮減してとらえようとする力への、反抗を目指したものだと考えられる。
それでも、このような和辻の思想が、現実には日本のファシズム化や軍国主義化に対して、何らの抵抗も示せなかったではないか、という反論は当然あるだろうし、そうした批判や反省は常になされなければならないものだろう。再びレヴィナスの思想と比較するなら、同じく日常の経験に定位して近代的な論理への対抗を目指すものでありながら、和辻の思想はその国家や国民主義への批判の欠如において、したがって「他者」についての倫理的な感覚の弱さという意味で、決定的な欠点を持つものだったということは確かである(今回『全体性と無限』の引用部分の前後を再読して、レヴィナスの近代国家主義への批判が、イスラエルのそれをも射程に収めていたことに、初めて気づいた)。
だが僕は同時に、和辻がファシズム化していく日本の社会の動向に、どのような深さで対峙していたのかということを、現在を生きるわれわれは、よく考えるべきではないかと思う。
それはまさしく、広坂論文で言及された「複雑な条件」へのまなざしということに関わるが、近代化の暴力に曝されている現実の社会において、人がどのような回路を通して「ファシズム」と呼ばれる状況のなかにみずから身を投じ、呑み込まれていくのかを、和辻は彼なりに凝視し、そうした動きへの抵抗を試みたのではないか、ということである。
***
そのことについて、少し考えを進める。
坂部恵は、和辻が戦後、文楽の前身である「操り浄瑠璃」に深い関心を寄せたことに注目し、それが和辻の生得的な思想の可能性に通じるものであるとして、刺激的な議論を展開している。
さらに加えて、われわれは、死せる一片の物体としての人形が、ときに生身の生きた人間以上に、生と死の交錯の場においてある人間の真実をあかしすること、ここにおそらく、和辻自身も近代主義流の偏見にさまたげられて十分には意識化しえなかった、人形と「現実よりも強い存在を持ったもの」、「超地上的な輝かしさ」を感じさせるものの表現を結ぶ秘められた交錯の回路が存するにちがいないこと、をも見定めておいた。(『和辻哲郎 異文化共生の形』(岩波現代文庫)p62〜63)
坂部はここに、和辻の思想が、近代主義的な思考の限界を越え出て、「構想力による共感の回路」、「一種の宇宙的共感」に達する可能性を垣間見ながら、和辻は結局は人間の「働き」が全てを決めるのだという近代主義・人間中心主義の枠内にとどまった(それは上記の、「役割=顔」の肉体に対する優位に通じることだが)が故に、その回路をみずから閉ざしてしまったのだと批判するのである。
だが僕は逆に、和辻があくまで人間の「働き」の優位性という要素を手放さなかったところに、彼の思想の重要なポイントが存するのではないかと思うのだ。
人間の世界を、何ものかに操られる人形芝居のように見る視線というのは、その背後に主体の「死」を、空虚さの実感を露呈させるものだと思う。恐らく坂部が言うように、和辻は幼児期から、そういうものに対する鋭い感覚を持っていたのであり、それが彼の近代批判の根底にあるもののひとつなのだろう。
だが和辻の思想(倫理学)の真の意義は、そうした実感が招来するものに抗うことを自分に課したことにあるのではないか。「現実よりも強い存在を持ったもの」の到来は、現実の政治の文脈の中に置かれれば、ファシズムの支配を意味するだろうが、それもまた近代という力の一つの現われに他ならないことを、和辻は知っていたはずである。
坂部は、和辻が「人間」の「働き」に最終的な優位性を認めたり、あるいは若い時期には雑種的・コスモポリタン的な日本文化論を披瀝していながら結局は国家主義的・国民主義的な思考の枠から出ることがなかったことを批判する。
だが、和辻において「人間」とか「国民」という概念は、それらの概念の選択自体は誤りであったとしても、「人間」を軽視したり、自分がコスモポリタン的な位置に立ちうると安易に考えたりする傾向への抵抗という意味では、正当性を持つものだと思う。この抵抗は、そうした人間軽視や、上っ面のコスモポリタン的な思想が、大衆社会におけるファシズムの支配と密接に関連したものであるという事実に関してだけは、正確に標的を見定めていたと思えるのである。
***
和辻の思想が、そしてまた(たぶん)丸谷の文章が示しているのは、日常的な関係の複雑さへのまなざしを失わず、そこから出発して世界の現実に対する、という態度だろう。
近代という暴力は、まさにそうした態度を不可能にしようとする。ファシズムは、そこから帰結する最悪の現実の一つであると思える。
レヴィナスもまた同じ暴力に、ただしそこでは「他者」の超越性ということにより力点を置きながら、対峙していたはずである。
和辻や丸谷のような抵抗の態度に、(おそらく)レヴィナスのそれとは異なった意義を認めながらも、そうした態度の保持そのものが今日危機に瀕しているのだとしたら、その危機の克服は可能だろうか?
だがしかし、そもそもこの危機(限界)は、はじめから和辻や丸谷の思想のなかに組み込まれていたものだとも考えられる。それは、彼らの思想においては、日常において経験される他者の概念が、それがレヴィナスにおけるような超越性を帯びていないことは良しとするとしても、あまりにも強く秩序や共同体の刻印を押されてしまっているように思える、ということである。
おそらく重要なことは、和辻や丸谷がというよりも、われわれ自身が、この「あいまいさ」や「複雑さ」によって守るべき生の空間、関係の質のようなものを、国家や制度によって引かれた線から十分に逸脱して掴み取ることが出来なかった、というところにある。
どんな秩序や共同体も、必ず排除される存在を生み出すのであり、われわれの日常は、実際にはそうした排除の行為と不可分に形成されている。排除された者たちが日常において不可視であるのは、そのことによってわれわれの生の外縁が定められ、日常というものが構成されているからである。だが、われわれが想像する生の条件の「複雑」さは、いまだこの根本的な構成の要素に届いてはいない。「複雑な条件」へのまなざしが成立するための基盤は、近代の暴力によって解体されつつあるのではなく、元々それ自体近代(国民)主義的な排除の論理にあまりにも埋没していたのではないか、と思うのである。
ここに、「役割=顔」の重層として生を捉えることによって、近代的な暴力に対抗しようとする思想の、根本的な挫折の理由がある。
それは、われわれが社会における自前の「役割」というものを、まだ十分に作り上げられていない、ということでもあろう。国家や資本といった近代的な装置によるのでない、自前の「役割」の束として、われわれが相互の関係性を紡ぎ上げられたとき、それは可視と不可視との境界を自分たちの力で不断に引き直すような、他者に対して開かれた社会の到来を意味しているはずである。
われわれがみずからの「人格」を相互的に形成するべき他者は、日常から隔絶した超越的な場所に見出されるのでも、共同体の閉塞した空間(構造)の内(および外)に置かれているのでもなく、日常のなかで不可視なものにされている境界、外縁部にこそ存在している。
むしろ和辻や丸谷の思想的営みは、そうした自前の関係性を創出する可能性を、国家や資本による近代化の暴力のさまざまな形態に抗して、その「あいまいさ」や「複雑さ」のなかで手繰り寄せようとするベクトルを持つものとして、捉え直すべきなのではないだろうか。
ならば僕らにいま求められているのは、こうした日常の経験がはらむ「あいまいさ」や「複雑さ」を重視する精神(「倫理学」)を、共同体や国民主義の呪縛を脱し、秩序を維持するための論理の外側へと、押し広げていくことではないだろうか?
鳥獣の論理
戦前に活躍した国文学者、水谷不倒(弓彦)の著作『絵入浄瑠璃史』(太洋社)には、和辻が愛好した江戸初期の浄瑠璃の台本の梗概や考証が豊富に掲載されているが、そのひとつに、京や大坂を中心に隆盛した「機巧(からくり)人形派」の代表的な人気作とされる『信田妻』がある。
ちなみに、この「機巧人形派」は、寛文年間頃から現われ、大仕掛けのカラクリを用いて、神仏の霊験談や妖怪変化の物語を舞台に載せて喝采を博したそうである。道頓堀の水力を利用した仕掛けの趣向などもあったというから、当時としては破格のエンターテイメントだったであろう。
『信田妻』はもちろん、安倍晴明の出生にまつわる、いわゆる葛の葉伝説を題材にしたものである。水谷不倒によれば、葛の葉伝説が安倍晴明の出生に結びついたものとして広く知られるようになったきっかけは、この浄瑠璃の上演の成功によるものであろうという程のヒット作だったようである。
葛の葉伝説については、広坂さんが以前、ご自分のブログにたいへん優れたエントリーを書いておられたので、横着な言い様になるが、詳しくはそちらを参照してもらいたい。
このエントリーの最後には、論文のなかに丸谷才一の論争相手として登場した諏訪春雄による葛の葉伝説への言及も紹介されていることも、僕には好都合である。
僕自身はこの伝説について、やはり文楽愛好家として知られた谷崎潤一郎の『吉野葛』や、中上健次の幾つかの短編やエッセイを通じて親しんできたのだった。
さて、この『信田妻』だが、最後に京の一条の橋で、晴明の父とされる安倍保名が、晴明の政敵蘆屋道満の手の者によって八つ裂きにされて殺害されると、鳥獣が集まってきて、死骸の各部分を持ち去ってしまう。後からそこにやってきた晴明は、それを見て驚き、橋の上に祭壇を作って祈願を行うと、これらの鳥獣が持ち去っていた手や足などを咥えて集まり、死体を元の状態に戻して、ついには蘇生するに至るのである。
和辻は「面とペルソナ」のなかで、『切り詰められた顔面は自由に肢体を回復する力を持っている』と書いていたが、ここではかえって肢体が、主体の生命の回復を可能にしている。しかも、それらは鳥獣という、自己でないどころか人間(人格)でさえない、周縁的な存在によってもたらされているのである。物語のなかで、晴明の母が野狐とされていたことも思い出されよう。
和辻が語ったように、人格を形成するものが、主体という個的なものに還元されないという理解は重要だとしても、それは既成の共同体の枠内においてだけ形成されるものではない。むしろ人間の生が、ファシズムを含めた近代化の暴力のさまざまな形態に回収されないような、真の力を有したものとして蘇生するためには、秩序や共同体から排除されたものたち、周縁に追いやられて不可視とされているものたちとの邂逅こそが、根本的な契機となる。そのことを通して、われわれ自身が、この強いられた秩序の外側で、ファシズムという最悪の陥穽からも身を守りつつ、ほんものの「日常」を構築する権能を掴み取ることこそが肝要なのである。
『信田妻』に登場する鳥獣たちは、そうしたわれわれの生の奪回を可能にする論理を、秘儀のように明かしているかに思える。
【コメント2】
岡田有生氏への「挨拶」
広坂朋信
岡田さん、私の駄文にコメントと言うより真に論考と言うべき「鳥獣の論理」をお寄せくださいまして、まことにありがとうございました。
ただ、岡田さんはどうも私を買いかぶっておられるようです。といいますのも、私が世界劇場論を再評価しようとする動機を、「現代社会の支配的な暴力に対する抵抗」を試みようとしているかのように見立ててくださっているからです。かたじけないことです、五十前だというのに懐古談とはとんだ馬鹿者よ阿呆よと笑われるかと思いましたのに、抵抗の可能性とはうれしいことをおっしゃいます。
私が前回の山口昌男論と今回の忠臣蔵論で試みたことは、「支配的な暴力に対する抵抗」などという、そんな大それたものではありません。抵抗とはほど遠い見物人的態度です。いっそのこと、お気楽な見物人的態度を決め込んでいられた時代の知に学び直してみようかと思ったのにすぎません。世界劇場というと大げさでも、せめて世界小劇場の見物人くらいではありたい、ということです。
ところで、この原稿を書き上げて岡田氏に回覧してお返事を待つあいだ、藤田省三『全体主義の時代経験』(みすず書房)という本を読みました。80年代中頃から90年代初めにかけての藤田氏の文章を集めた本です。1994年10月に書かれた「あとがき」で小「悲劇」という言葉が使われていて、その語についての(註)があります。ちょっと長いですが、丸ごと引きます。
(註) 元来の「悲劇」は、祭式の一環であり、次いで芸術の一つとして、安定的に繰り返す日常生活とは別の次元のものであった。そういう特別の「時」の行事として、逆に、日常社会の中に居る人々に対して、「運命と闘う人間の徳と智慧」が如何にすばらしく謳歌すべきものであるか、を表現し且つ教えた。
しかし、今日の(特に此処で言う)「悲劇」は、それとは違う。むしろ逆である。G・スタイナーの言う「悲劇の死」以後、すなわち特に十九世紀後半以来の「世紀末」から二十世紀の「黙示録時代」には、「悲劇」はもはや祭式でないのは勿論、芸術の一大分野ですらなく、世俗社会の実生活内の出来事そのものであり、又、「人間の徳の謳歌」などではなく、逆に、「人間のうぬぼれの破産」と「愚かしさの承認」を示す現象であって、そこには、人間の「原罪性」に懊悩する深刻な人間の自己対面が貫いている。
それは、実生活の内奥そのものであるから、社会の最小単位である個人や家族を出来事の場から除外することなく、むしろ逆に、其処をこそ主要な現場とする。だから深刻さは、一層、陰惨複雑なものとなる。大規模な枠組みだけで勝負する政治や経済社会の「全体主義」とは反対に、小さなトゲに満ちた辛辣な深刻事の多面体が其処には常時存在している(「実存」のような儚い刹那的現れとは異なって)。
それを「超越的主観」から認識する時には、私たちは「泣き笑い」することしかあり得ないような、そういう「悲劇」が現代人の生活の核心をなしている。だからこそ、其処から生ずる不安を基礎として「全体主義」が生存し続けようとする。私たちは、社会を挙げて生活の中心部にある其の小「悲劇性」からこそ「方向転換」しなければならない。
先ずは、「小悲劇性」の「現象学的了解と記述」の集積から始めなければなるまい。その点で、「社会人類学」の地道な数十年の歩みと蓄積は参考となる。(藤田、前掲書より)
藤田の言う「原罪性」とか「実存」とか「社会人類学」とかが具体的に何を指しているのかはよくわからないのですが、全体としては、私が忠臣蔵論争を題材にしてしどろもどろに言おうとしたことが見事に言い表されているように感じて、自分の不勉強と読むべき本がいかに多いかをあらためて自覚しました。
しかし、ひるがえって、「小悲劇性」の「現象学的了解と記述」の集積から始めるとして、はたしてこれで時代の速度に追いつくのか、と思わないでもありません。テンポの速い芝居の展開に追いついていけないとあれば、世界小劇場の見物人としては由々しき事態です。なぜならば、現代演劇は見物人を観客の地位に安住させてくれず、見物人もいずれは物語に巻き込まれてしまうからです。関ヶ原の合戦のときに、近隣の住民は弁当持参で合戦を見物していたそうですが、現代ではこうはいかない。犠牲の血に見物衆が熱狂したときに観客席は舞台に、日常は劇場(戦場)に早変わりする。このことに対する私の怯えに、岡田さんは「抵抗」という華々しい名前を付けてくださったのでしょう(もしや精神分析的な「抵抗」でしょうか?)。
もっとも岡田さんの論考をよく読めば、現代では(世界劇場論的思考が前提とするような)「われわれの生をこのような重層的な空間として認知する枠組自体が成立しにくくなっている」、「もはやその枠組みを多くの人が実感したり共有したりすることが困難なところまで、現実の暴力の侵攻は進んでいる」、つまり広坂の妄言は時代遅れであり非現実的であると言っているわけで「まさしく「全否定」の論旨」です。ということは、広坂のおしゃべりに「抵抗の可能性」を見ようとするのは、岡田さんの紳士的なユーモアから出た「挨拶」にすぎないのかもしれません。
しかし、その岡田さんもご論考の最後にはご自身のビジョンを浄瑠璃『信田妻』の一場面、それも中心と周縁、死と再生の物語に託して語られていますので、私としては歓迎の挨拶を申し上げるべきでしょう。
ようこそ、世界劇場へ。
余談ですが、『信田妻』と言えば忠臣蔵でも言及されています。七段目、祇園一力茶屋で、大星由良助と斧九太夫が腹の探り合いをする場面です。「いか様此九太夫も。昔思へば信田の狐。ばけ顕はして一献酌もふか。サア由良殿。久しぶりだお盃」。(今回はこれにて)。
Web評論誌「コーラ」18号(2012.12.15)
<現代思想を再考する>第5回:怨霊と祝祭、または世界劇場論的思考のために(広坂朋信)
Copyright(c) SOUGETUSYOBOU 2012 All Rights Reserved.
|