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Web評論誌「コーラ」
11号(2010/08/15)

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「見えない者に紅を説くことはできない」
――『わたしの名は紅』  
 
 
一 「東も西もアラーのもの」
 
 2006年にノーベル賞を得たトルコの作家オルハン・パムクの長篇小説『私の名は(あか)』(☆1)は、十六世紀末のイスタンブールの細密画師――ペルシアが本場である“ミニアチュール”の描き手。訳者によれば、この時期、トルコの細密画は「本家ペルシアの芸術を凌駕する域に達した」という――の世界を舞台に、「わたしは屍」「わたしの名はカラ」「私は犬」「人殺しとよぶだろう、俺のことを」という具合に、語り手がいちいち名乗り出るかたちの表題を持つ59の章から成っている。いったい何人の語り手がここにはいるのだろう。
 実際には、これらの章は、語り手が一度きりで消えるか、繰り返し現われるかによって、二つに分けることができる。二回以上出てくる語り手は、“物語”――細密画師が殺された事件の犯人探しと、それに関連する一組の男女(カラとシェキュレ)の関係の進展――の進行役であり、彼ら自身が主要登場人物でもある(これが探偵小説だとすれば、この中に真犯人がいるわけだ)。
 試みに、章の名を順に書き出し、複数回出てくるものはその回数をカッコ書きしてみる(逆に一度しか出てこないのは太字にした)。
 
 わたしは屍
 わたしの名はカラ(12)
 わたしは犬
 人殺しとよぶだろう、俺のことを(5)
 わしはお前たちのエニシテだ(4)
 ぼくはオルハン
 あたしの名はエステル(5)
 わたしはシェキュレ(8)
 わたしは一本の木だ
 人はわたしを“蝶”とよぶ(2)
 人はわたしを“コウノトリ”とよぶ(2)
 人はわたしを“Iリーヴ”とよぶ(2)
 わたしは金貨
 わたしの名は“死”
 わたしの名は紅
 わたしは馬
 名人オスマンだ、わしは(2)
 わたしは悪魔
 わたしらは二人の修行者
 わたしは女
 
 これで語り手は20(「二人の修業者」は1と数えるとして)、「人殺しとよぶだろう、俺のことを」と言っているのは匿名の殺人者で、実は身許の明らかな語り手の一人とダブっているので1を引くと19にまで絞られた。ちなみに松岡正剛はこの小説について、「登場人物やら死体やら犬や木が語る」が、「このやり口は必ずしもめずらしいわけではなく、たとえば芥川龍之介の『薮の中』をはじめ、多くの作家がけっこう使う手だ。物語がミステリアスになるには、この手口がふさわしい。が、パムクはたんに語り手を変えただけではなく、すでに死んだ者や植物や動物にも語らせた。これがこの物語をなんとも異様にさせたのだった」(☆2)と、ずいぶん不正確な言いかたをしている。だいたい、『薮の中』のように、互いの言い分が矛盾して整理がつかないなどという稚拙な仕掛けはここにはない。「この奇妙で贅沢な引き延ばされたスリラーは、殺人者も含む計十二の視点から語られた五十九の章からなる」と書くジョン・アップダイクの方がまだしもだ(もっとも、後述するようにアップダイクも、他の点ではかなりいい加減なことを言っている)(☆3)。十二の視点とはまた急な減りようと思われるかもしれないが、「屍」と「オルハン」以外の一度しか出てこない語り手は、実は同一人物のペルソナだからこれで計算が合うのだ。
 
 上の仕掛けは、カラ(形式上の主人公)がはじめて登場する第二章で、最後に彼がコーヒーハウスに入ってゆき、「咄し家」が壁に「犬の絵を掛けて、時々絵の犬を指さしながら犬の口調で語ってい」るのを見る直後に章が改まり、「わたしは犬」と犬の語りがはじまるのだから本来見誤りようがない。第一章では文字通り井戸に突き落されて発見されないままの屍体が語るわけで、この話全体がフィクションに他ならぬことのあざといまでの(かつ紋切型の)提示であり、「ぼくはオルハン」は一篇の結びで作者に擬されるシェキュレの息子オルハンの幼い姿での顔出しで(兄のシェヴケトには語り手としての出番はない)、(オルハン・)パムクの贋の署名だろう。
 つまり、一度しか登場しない語り手(咄し家によって演じられたものも含め)の語りは作品の枠組に自己言及する部分であり、それ以外は、カラとシェキュレの恋物語および殺人事件の解決(これは彼らの結婚の成就の条件でもあり、カラは探偵役をつとめることになる)という、一篇の表面上のプロットにかかわるものだ。
 
 実は最近まで、パムクという小説家についてはほとんど何も知らなかった。数年前、トルコの作家がノーベル賞を受けたことは知っていた。いや、トルコということさえ意識していなかったかもしれないが、村上春樹が賞を逸したという新聞記事に付随して出ていたのを目にした記憶はある。何やら政治的な状況に置かれた作家が受賞という小さな扱いではなかったか。村上春樹受賞なんて冗談みたいな話が本当にならなくてよかったと思っただけで、すっかり忘れていた。
 それが、本誌10号に「特別寄稿」として載せてもらった論考(“父子愛”と囮としてのヘテロセクシュアル・プロット――トールキン作品の基盤をなすもの)の共著者である平野智子から『私の名は紅』について聞かされた。彼女が話してくれたのはもっぱら「咄し家」のことであった(ラヴ・ストーリーについては、通常そう読まれるようにそれがメインではないことが指摘された。私たちが前回トールキンについて論じたのと同様に、「囮としての“ヘテロセクシュアル・プロット”」の一種とも言える)。だから、「咄し家」についての以下の解釈も、平野に負うところが大きい――ほとんど受け売りであると先に断わっておかねばならない。
 
 それにしても、小説の核心部分とも言える「咄し家」について、なぜ誰も何も言わないのだろう。といっても、そもそもパムクが日本において一般に評論の対象にされているのかどうかさえ、寡聞にして知らない。英語で読めるものをインターネットに探して、アップダイクのレヴューを見つけた。
 はたしてアップダイクは「咄し家」についてかなりのスペースを割いていた。それまでの章で犬、木、“死”、紅という色、馬、悪魔、二人の修行者として語った「咄し家」は、最後に〈女〉として語る。アップダイクの文章を引こう。
 
《トルコでは女の話は、全然おもてに出てこないのだと咄し家は言う。
「ヨーロッパの町では、女たちは顏だけでなく、一番魅力のある艶やかな髪や、それからうなじ、腕、美しい喉を、さらには聞いたところによると、美しい脚の一部をも見せて歩くという。その結果、男たちも、絶えず前が勃起するので恥ずかしいやら苦しいやら、やっと歩いていて、このことは社会をも麻痺させることになる。ヨーロッパの異教徒がオスマン・トルコに対して次から次へと連日城を明け渡すことになった理由はここにあるのだ」
 
 咄し家は独身であるが、年少の頃、この馴染みのないジェンダーに対する好奇心に負け、母とおばの衣裳を着てみたと告白する。たちまち彼は女らしい感受性の疼きに浸透されて、「全ての子供に対するやみがたい愛を感じ」「全ての人に料理を作って、乳を飲ませ」たいと思った。おばのピスタチオ豆の緑の色の絹のブラウスに靴下やナプキンを詰め込んで乳房を作った彼は、矛盾した感覚の豊かな幅を楽しんだ――
「男たちがこの巨大な胸の影を見ただけで後を追い、口に含みたいと夢中になるにちがいないと思って、私は自分を強力に感じました。でもこれが私が望んでいたことなのでしょうか? 良くわからなくなりました。自分が強くもありたいし、同時に憐愍の対象にもなりたかったのです。全く知らない金持ちで、力強く賢い男が私に狂ったように恋するのを望む一方では、彼らを恐れるのでした」
 
 こうした両性具有的な直観から、咄し家はこの小説につきまとう二重性を次のように歌う。
「私の他の部分は、私が男でいるときには女であれと言い、女であるときには男になれと言う/人間であるとは何と難しいことか、人間として生きるのはもっと難しい/私は前でも後ろでも楽しみたいだけ、東と西の両方でありたいだけなのだ」
 
 なお、ここまでの『わたしの名は紅』からの引用は和久井路子訳に依ったが、上の「咄し家」の歌は重訳になるのをかえりみず、あえて英語から訳してみた。むろん、もとのトルコ語を知らないから訳の正しさを云々したいわけでは全くないが、この小説の核心をあらわすものだと考えられるフレーズの意味は英訳の方がよく出ていると思われたからだ。
 この小説につきまとう二重性、とアップダイクは言う。しかし、「両性具有的な直観」を文字通りのものと考える私たちと違って、彼のいう両性具有性/二重性とは、次の引用に見るとおり、政治的な「東」と「西」のそれである。
 
このように朗唱した直後、咄し家は、エルズルムのヌスレト師を信奉する暴徒に殺される。 この説教師は、イスタンブールを悩ます災い――火事、疫病、戦死者、贋金、修行僧の頽廃した薬物使用その他――は、「われわれが預言者ムハンマドの道を外れ、コーランの教えを無視したからだ」と説いていたのだ。パムク(「パブリッシャーズ・ウィークリー」のインタヴューで、彼は、自分がトルコでサルマン・ラシュディを擁護した最初の人間であることを指摘し、子供の頃、「宗教とは貧乏人と召使のものだと思っていた」と言っている)は、再び彼の言葉を引くなら、「原理主義運動が、教養ある西洋化されたトルコ人への貧乏人からの復讐である」ような文化における、咄し家[英訳ではstoryteller]の運命を示して私たちを戦慄させる。 六月に「タイムズ」はイスラム教国で本や小説が置かれている厳しい状況について伝えた。それによれば、「近年、エジプトでは、どこかの宗派が小説の内容をたんに問題にしたというだけで、通常、発禁にされる十分な理由になる」。『わたしの名は紅』のイスラム教にかかわる内容にトルコ国内の宗派はどう反応したのだろうか。
 
 アップダイクは、エルズルムの説教師によって、コーランの教えをないがしろにしたせいだと決めつけられている小説中のイスタンブールが抱える災いを数え上げているが、これは第二章で十二年ぶりに帰郷したカラが人から聞く話に直接拠っている。大火、疫病、戦争、贋金とアップダイクは順に並べながら、以下の部分については薬物のところしか拾っていない――「ならず者や反逆者がコーヒーハウスに集まって、夜が明けるまで教えに反する行いをしているのだと聞いた。いかがわしい貧乏人、麻薬中毒の狂人、非合法のカレンデリ派信者が、アラーの道に従っていると主張して、修行僧の家で音楽に合わせて踊ったり、自分を突き刺したり、あらゆるやり方で堕落したあげく、暴力的に犯しあったり、少年を見つければ相手かまわず犯したりしているのだと」(☆4
 
 つまり、コーヒーハウスというところ自体がいかがわしいわけで、人々が「預言者ムハンマドの道を外れ、コーランの教えを無視」することを憤る連中は、コーヒーと美少年の愛好をセットで目の敵にしているのだが、アップダイクの文章はそのあたりをネグレクトしている。同様のことは、ヨーロッパの町ではヴェールをつけない女たちが歩き回っているというすでに引用したくだりについても言えて、実はあの部分には、直前で次のような記述が先行していた。
 
宗教が命じているように、女は、特に美しい女は、結婚するまで全く見ないのが一番だ。やむを得ず情欲を満足させるためには、女の代わりになるほど麗しい少年たちと親しくなるのが唯一の方策であるが、これはついには甘美な習慣となる。
 
 この小説の特色と称して、松岡正剛は「欧米のメディアに訴えるところとなり、ノーベル賞をとる理由になった特色とおぼしいのだが、物語の全編を通して「東は東、西は西」という姿勢と哲学を徹底して貫いたことだった。パムクは、ここに全力を傾注したといってもいい」と言っている。もしそうなら、「東」ではそれが「甘美な習慣」となっており、登場する男たちはみな美少年が大好きであること――“主人公”のカラも、しかも結婚後にさえ、「かわいい男の子を追いかけた」「かわいい男の子や馬鹿騒ぎに熱中した」と二度も(妻となったシェキュレによって)言われている――を、「西」との差異として強調してもよさそうなものだが(アップダイクはともかく、松岡正剛なら)、触れてもいない。
 
 実際には、少年への愛は、細密画師たちの芸術と切り離すことができないものであり、全篇を通して記述に入り込んでいる。また、「東は東」とパムクが主張しているというのも事実ではない。《この「東は東、西は西」という言葉は、終盤でエニシテを殺めた殺人犯(これは内緒)が「東も西もアラーの神のものだ」と言うと、カラが「東は東だ、西は西だ」とぽつりと呟く場面にも象徴的に使われている》と松岡は言うが、これは小説の登場人物の会話に過ぎず、カラの意見は即パムクの意見ではない(あたりまえだ)。実際、カラの科白は、もう一人の登場人物によって、「細密画師は傲慢でいけない。東だの西だの気にしないで、心に思うままに描くべきだ」と反論される。これに対して語り手は《「その言葉はまさに正しい」と俺はいとしい“蝶”に言った。「お前の頬に口づけしたい」》と応じるのであり、この場面もまた男同士の愛に浸透されているのである。
 
 実は、「東も西もアラーのものなり」とは、コーランから引かれ、本書のエピグラフとして巻頭に置かれた三つの文句のうちの一つである。作中では、二人目の犠牲者となる“エニシテ”の死後の語り――「この自由を恐怖と歓喜をもって感じるや否や、わしはアラーの神が近くにおられることを理解した。同時に、絶対的な、何物にも比すことのできない紅い色の存在を敬虔な思いで感じた」――の中で、このフレーズは他ならぬアラーによって発せられる。壮麗な紅い色が近づいてくるのを感じて、“エニシテ”は涙を流して告白する――「生涯の最後の二十年間ヴェネツィアで見た異教徒の絵画に影響されました。一時期自分の肖像画をも彼らの手法で描かせたいと望みましたが、恐れました。その後、あなたの宇宙を、僕たちを、あなたの影であるスルタンを、異教徒の手法で描かせました」。
 するとアラーは次のように応える。
 
アラーの声は覚えていないが、わしに与えられた答えは覚えている。
「東も西もわたしのものだ」
 興奮してどうしてよいかわからなかった。
 
 これは東と西の宥和などというものではない。「私は前でも後ろでも楽しみたいだけ、東と西の両方でありたいだけなのだ」と「咄し家」は歌っていたではないか。「咄し家」のコンテクストでは、「東も西もアラーのもの」とは、「東も西も男のもの」ということである。つまり、「男も女も男のもの」なのだ。女の服をつけ、女になり、鏡に映った〈女〉に向かって勃起した思い出を語る「咄し家」の挿話は、〈女〉が男の作り物でしかないこと、女らしさが幻想であり、男の夢である――「女は存在しない」――ことを、男だけが「東と西の両方であり」うることを端的にあらわしている。
 
 パムクにおいて政治的なものは口実に過ぎない。同様に、細密画師の世界もまた、彼にとっては素材であり、彼が現実に属する国の文化や過去の歴史に取材していることは偶然に過ぎないのだ(むろん、すばらしい素材ではある)。シェキュレの幼い息子のうち年少の方に、彼は自分の名前を与え、『わたしの名は紅』日本語版序文の結びで、あからさまにそのことに私たちの注意を喚起する。
 
これはわたしの一番幸せな本です。子供のように色や絵について思うままに語ったからだけではありません。この小説で語った母親と二人の男の子の物語は、彼らの名前に至るまで自分自身の生活から取ることができたからでもあります。もちろんわたしの父親は一五九一年にペルシアとの戦争で今日のイランへ行きはしませんでしたが、一九五〇年代の始めに、実存主義者やサルトルにかぶれて、わたしたちを置いてパリに行って長い間戻りませんでした。
 
 たぶん、日本の読者は試されているのだろう。訳者はあとがきで、「日本語版への序文にも書いているように」シェキュレもシェヴケトもパムクの母と兄の実名であり、「父親が長く家を留守にした時期があり、母親は再婚を考えたことがあったという。しかしこれらの事実以外は、ほとんど作者の作り話であろう」と書いている(ちょっと挨拶に困る記述ではある)。実際のところ、パムクは自分の実人生を、少年が着る叔母のピスタチオ・グリーンの絹のブラウスやその胸に詰め込む靴下やナプキンのように使っているのだろう。あるいは、フロベールが読者に、ボヴァリー夫人と愛人を乗せた馬車が狂ったように走り回るあいだ、窓掛を降ろした車内で起こっている出来事の代りに描写してみせた、馬車がかすめ過ぎる塀の内側で老人たちが散歩している養老院のありさまが、子供時代にギュスターヴが見た、家に隣接する父親の病院の庭の風景に起源を持っているようなものだろう。
 
 もっとも、アップダイクも「からみあった十二の視点の考案者である作家は、彼の小説の外にも内にもいる。シェキュアの下の息子はオルハンと呼ばれ、彼女の協力を得て、彼がこの小説を書いたのだとわかる」と書いているのだから、騙されるのは日本の読者だけではないのだろう。成長したシェキュレの息子が十七世紀初めにこの小説を書くことは、一五九一年にパムクの父親がペルシアとの戦争に行くのと同様ありえない。芸術家としての作者の“分身”を作中に探すとしたら、それは「咄し家」であろう。政治的犠牲者としてではもとよりなく、彼自身の抑圧された受動性すなわち女性性をもおのが身に引き受けた両性具有性もさることながら、〈女〉になった「咄し家」は、男を求めて「亡くなった父がいろいろな口実の下に家に招んだパシャの息子たちや貴族を、覗き穴から覗き見はじめました。その状況が細密画家の全てが恋している二人の子供がいる小さな口のかの有名な美女に似ていることを願いました」と、なんとシェキュレに言及する。シェキュレが覗き穴から、父を訪ねてくるカラを覗いていることなど第三者が知るはずもないのだが(「咄し家」が覗いていたのは過去のことだから、アナクロニックでもある)、もしかしてシェキュレは、カラも足を運んだコーヒーハウスで演じている「咄し家」のレパートリーの登場人物なのだろうか。そうだとすれば、その相手のカラも――そして「咄し家」自身も――物語の中の存在なのか(第一、今はいつなのか)。「もしかしたら、あのかわいそうなシェキュレの物語をしたらいいのかも。でもちょっと待ってね、水曜日の晩はこの話をすると約束しましたよね。」そう言って「咄し家」は別の物語を話しはじめ、話し終えるが、そこに暴徒が乱入してくる。
 
 もしも暴徒に妨害されなかったら、「咄し家」はシェキュレの物語を語りはじめてしまい、その中には「咄し家」も出てくるのだから、物語はいつまでも終らないことになる。そういう事態を回避するためにも、ここで「咄し家」は殺されなければならなかったのかも(こうした入れ子の無限ループについては、『千夜一夜物語』にかこつけてボルヘスが書いており、パムクも読んでいるにちがいない)(☆5)。しかし、「咄し家」は本当に殺されたのだろうか。最終章で、「絵には描けないこの物語を、もしかしたら、言葉には書けるかと思ってオルハンに語った」とシェキュレは言い、「もしカラを実際よりもぼんやり者だとか、わたしたちの生活を実際よりも大変だったとか、シェヴケトを悪く、私を実際よりも美しく恥しらずに語っているとしても、オルハンの言うことを決して信じないでください。なぜなら彼は物語を面白く説得力あるようにと、どんなうそでもためらわないのですから」と読者に呼びかける(これが小説の結びでもある)(☆6)。アップダイクのレヴューのサブタイトルは、「十六世紀の探偵小説がトルコの魂を探求する」とほとんど「美しい日本の私」であるが、「トルコの魂」も「美しい日本」も、作り物であるのはいうまでもない。その技巧を凝らした精緻な細工にこそ作家は細密画師のように心血をそそぎ、「どんなうそでもためらわない」のだ。
 ところで、これは本当にシェキュレが語っているのだろうか。もしかしたら、コーヒーハウスで美しいシェキュレの絵(あるいはシェキュレとして描かれた美しい女の絵)を傍に、自らの死をも含む物語を「咄し家」が、「私はシェキュレ」と、〈女〉として語っているのかもしれないではないか。
 
 フロベールにとっての患者の歩き回る病院の庭やパムクにとっての不在の父親同様、『わたしの名は紅』の(十六世紀の)宗教的対立も素材に過ぎない。せっかく「咄し家」について書きながら、「イスラム教国で本や小説が置かれている厳しい状況」へ筆を移してしまうアップダイクの短絡ぶりにはがっかりさせられた。エジプトとトルコでは事情が違うだろうに、「イスラム教国」としてまとめられてしまったのではパムクもがっかりしたのではないか。仮にパムクの小説がアクチュアルな問題に結びついて見えるとしても、それは暫くのあいだの話だ。そういうものが消滅したあとにもパムクの小説は残るだろう。そしてそのときにも、「東も西もアラーのもの」という語句は通用するだろう。コーランから採ったもう一つのエピグラフ(ついでに言えばコーランも“素材”である)「盲と目明は同じではない」という句の示すとおり、縁なき衆生にはわからない――遍在するものが見えない――という事態は相変らず存続するにしても(☆7)。
 
二 傷つく少年
 
 サー・リチャード・バートンのいわゆる“男色帯”(☆8)をトルコからさらに東へたどると、日本の東京の本郷から不忍池へ抜ける途中に弥生美術館のこぢんまりした建物があらわれる。せんだって何度目かにここを訪れた際、高畠華宵の作品に、彼の描く少年に手足に繃帯をしたものがしばしばあったため、怪我もしていないのに繃帯を巻くことが昭和初年の少年少女の間に流行したという説明が付されているのに出会った(晩年の中原淳一が作った人形が、やはり繃帯を巻いた“傷ついた男”であったことが思い出された)(☆9)。「[華宵は]美少年が捕らわれて縛られたり、危機に瀕して傷を負った場面を多く描いています。/清潔さと不屈の精神を持った凛々しい少年たちはまた、不思議な色気を漂わせ、甘美な感傷に包まれています」と説明は続いていた。
 
 この解説のせいで、ミュージアム・ショップで『昭和美少年手帖』〔中村圭子編、河出書房新社 2003年〕を買うことになった。なるほど、同書の華宵のページには「傷つく少年」という見出しもあり、「少年が、捕らわれて縛られたり、大勢の刺客に取り囲まれて刃傷を負ったような場面を華宵はよく描いた。伊藤彦造ほどの緊迫感はなく、ある程度様式化されてはいたが、被虐のエロスというものを華宵も好んで表現した」と説明されている。伊藤彦造については、編者の中村による巻末のエッセイ「日本の美少年絵画」に、「〈...〉彦造は熱烈な愛国主義者であった。第二次大戦中、彦造は少年誌を離れて、国史に題材を取った日本画を描くなど、憂国の士として活躍する」、「彦造の少年の官能性は、闘いに命をかける少年の、死に直面した極限状況によってもたらされたものであった」とある。
 そして、華宵については――
 
たとえば、華宵は好んで包帯を巻いた少年を描いた。それが当時の少年をときめかせ、べつに怪我をしたわけでもないのに、純白の包帶を手足に巻くことが流行ったという。この現象にはやはり嗜虐のエロティシズムが働いている。/世界の美術史に目を向けたとき、いかに多くの美少年・美青年絵画が、嗜虐や死と結びついた主題において描かれてきたか......。/殉教する聖セバスチャン、オルフェウスの首、自らの姿に恋して死ぬナルキッソス、イカロスの失墜......などが、絵画における定番テーマとして繰り返し描かれ続けてきた。
 
 そして、「つかのまの美である少年の美を永続させるものは「死」であり、したがって「少年美」が「死」と結びつけられて語られる傾向は、世界中の文学や絵画に見られる」とあるのだが、これは、「それに比べれば、女性美は希生欲求[引用者註;“希死欲求”に対立させて言われている]にもとづいて描かれた、明るくおおらかなエロティシズムが多いような気がする。それは、女性のエロスが生殖という生命の継承につながるからだろう」という記述とともに、ずいぶん“適当”ではないか。美しい女の死といえば、エドガー・ポーにとっては文学の主題そのものだったし、世紀末芸術に目をやれば、捕われの女、生贄の女、殺される女、死んだ女は枚挙に暇がなく、そのエロティシズムは男のサディズム(そして密かなマゾヒズム)のあらわれだろう。また、悪の象徴としての、男を死と破滅に引き込む女の主題もある。こうした女の表象は確かに少年のそれとは異なるが、それは〈女〉の表象と〈少年〉の表象では担いうる意味が違うということであり、女性のエロスが生殖にうんぬんという生物学的本質主義に基づく解釈はこじつけにすぎまい。
 
 それにしても「被虐のエロス」とは――「凛々しい少年たち」の「不思議な色気」とは――「甘美な感傷」とは――あるいはそう呼ばれているものは――いったい何であろうか。誰が〈それ〉を感受しているのか。それは少年へのサディズムなのか、それとも少年に同一化してのマゾヒズムなのか。
 
 むろん彼らが〈女〉の“代用”なのは確かである。この場合、〈女〉とは受動性のことであるが、しかしこれは、現実の女にとって受動性が本質であり、男女の交際が妨げられない場へ行けば男の欲望は同性を離れて本来の女へ向くということではない。中村の言うように「思春期の男女の接触を厳しく隔離された当時の少年たちは、同性の美に敏感だったから」〈それ〉へ向かったとういう意味ではない。また、“読者”としての女性について中村は、かつては美少年は少年雑誌に描かれていたが、「昭和も四〇〜五〇年代になると、美少年はむしろ少女雑誌に活躍の舞台を移した。女性が社会的な立場を獲得するにともなって、女性も少女も、異性の美に興味があることを表現するのが当たり前になってきたからである」と説明しようとするが、これはいかにも進歩主義的、戦後民主主義的、男女交際的な、異性愛本質主義的史観である。
 
 まさか間違える人はいないと思うが、異性愛本質主義と言ったのは、少年愛と呼んで男性同性愛としないのは同性愛者の存在をないがしろにすることだといった類の主張からではない。女が〈それ〉を感受するのを、異性愛的に男に惹かれるからだと決めつける暴力について言ったのだ。
 むろん中村も、〈それ〉が男性同性愛者という特殊な人々の趣味嗜好であるとも、そう見られたいとも思っていないはずだ。女性である中村自身、それでは自分が〈それ〉に惹かれる理由を説明できないと感じていよう。「文学に描かれた美少年」という文章で、「これはあくまで「美少年文学」についての稿であり、「同性愛文学」ではないので、その点を混同されぬようにお願いしたい」と言っているのはそのためだ(この抵抗――精神分析的意味での――にもかかわらず、そのような分割――政治的にはともかく――が可能とは思えない)。また、「戦争協力的なものもあり、死を美化したという非難もある」伊藤彦造の絵について、「人間誰しもの心の深層に眠る被虐的な快感を呼び起こしてしまう、希有な力をもっている」(強調引用者)とするのも、戦争協力者と決めつけられることから彦造を救おうとするとともに、「人間誰しも」という普遍化によって、「快感」の内実をそれ以上問うことを抑制しているのだろう。
 
 華宵の章には、「異性から厳しく隔離されていた昭和初期の少年少女は、同性のもつ魅力に敏感であった」とあるが、ここで“少年”同様、いわば「男並み」に“同性”の「魅力に敏感」とされた“少女”とはいったい誰のことであろう。「当時の読者たちは、華宵の描き出す妖しい両性具有性に強く惹きつけられたのであった」と文章は続くが、パムクの「咄し家」の場合もそうであったように、両性具有を体現するものは、実は男なのである。華宵の少年の絵と少女の絵を見較べるとき、その違いがどこにあるかは明らかだ。少年は物語の中にいて「身を挺している」が少女は違う。例の繃帯を少女は巻いていないようだし、傷ついてもいないのだ。これを、「女性のエロス」は「生殖という生命の継承につながるから」だと言う者はまさかいまい。(ちなみに「身を挺している」とは三島由紀夫の『仮面の告白』の主人公が、最初に魅了された“汚穢屋”に認めた属性である)。「身を挺する」者だけが傷つきうるのだし、傷つきうる者だけがそのヴァルネラビリティゆえにエロティックなのだ。少女には「身を挺する」ことができない。華宵の少女が美しい着せ替え人形にしか見えないのはそのためだし、三島の小説の主人公もすでに幼児期においてそれを感知しており、それゆえジャンヌ・ダルクが女と知って興味を失ったのだっだ。
 
 念のため言っておけば、女は制度の外にいるので、「社会的な立場を獲得するにともなって、女性も少女も、異性の美に興味があることを表現するのが当たり前になってきた」などと主張して〈それ〉を正当化しなくとも、つまり、異性を対象として欲望する女性主体という立場を捏造しなくとも、対象が少年だろうが女だろうが男だろうが、女の場合、対象へのナルシスティックな同一化――三島の主人公の「私が彼になりたい」――を阻む〈法〉は存在しない。
 
 伊藤彦造について中村が強調する、「義に殉ずるストイックな少年・青年像」とか、「信義や忠義のために命をかける[...]その潔さには目もくらむような官能性がある」というのは、まさしく「身を挺して」いるのである。「伊藤彦造ほどの緊迫感は」ない華宵にしても、『昭和美少年手帖』に「躍動する少年美」としてまとめられた、雑誌「日本少年」の表紙絵(「当時の少年たちは、華宵が描くスポーツ少年を羨望のまなざしで見つめたことだろう」とある)に、時局の刻印は明らかだ。これらが「日本少年」の表紙を飾ったのは1925〜33年であるが(ちなみに平岡公威は1925年生れ)、少年たちはスポーツをしているばかりではない、鍔広のヘルメット様の帽子をかぶって“南方”へ“蛮地”へ探検に赴いているとおぼしい少年は、あるいは銃を手に虎を踏まえ、あるいは日章旗や旭日旗を靡かせている。
 
 その一枚――旭日旗を染め抜いたランニング・シャツ一枚で、月桂樹の葉をつらねたリースを袈裟がけに、坊主頭に白鉢巻を締め、切れ長の無表情な目、半ズボンから伸びるすんなりした素足の少年が、抜刀し、湧き上がる雲の中、翼持つ裸馬を駆る(「日本少年」昭和2年8月号)――を見たとき、ゆくりなくも私の胸に鳴り響いたのは、宝野アリカ歌う「神風」であった。
 
 いざ進まん 時を越えて/日出づる国 生まれし者らよ(中略)
 かつて黒馬に跨り/駆け回った神の野山も/現世(いま)は繁栄の都(中略)
 いざ進まん 運命(さだめ)を抱き/日出づる処 目覚めし者らよ/行く手阻む敵があれど/雲間を裂く(いかづち)
 その身体に/流れるのは大和の血/嗚呼 千代に八千代に/いつまでも
 
 1927年にはその絵はベタで国粋主義の表現で(も)ありえたろう。今日それは、日本的なもの(ある時代の)とギリシア的なもの(ペガサス、月桂樹)の無節操な混淆、ノスタルジックでキッチュなハイブリッドとして私たちの目に映る。瓦解した帝国の欠片(かけら)をつづり合わせ、「花と散った遠き友が/万世の櫻花を咲かす/身捨つるほどの未来のためと」と、それ自体がパロディである短歌の破片をも混ぜ込んだ宝野の歌詞が寺山のさらにその先を駆ける時、華宵の少年は先陣を切って(くう)を往く。
 
 一般に表象はそれがどう受け取られるかを完全にコントロールすることは不可能で、いかにイデオロギーに忠実でそれ以外に解釈の余地がないように見えようと、規範から外れたやり方で読まれる可能性はつねにある。「被虐のエロス」の代表として「傷ついた少年」のぺージに載せられた、華宵描く敗残の若武者や、血を流しながら戦う若者や、縛り上げられた少年は、逆にこうした絵にも、描かれた当時はエクスキューズ(イデオロギー)があったことを思い出させる。エロティシズムはその余剰であり、残余であり、瓦解の後にも残る本質である。
 
 かつて少年や切腹のアイコンを使ったポスターでこの種のパロディをやってみせ、どうしてあの子はあんなにわかっているのかと三島由紀夫を感嘆させたのは横尾忠則であるが、思えば三島自身、イデオロギーをエクスキューズとしたパロディストであった。『仮面の告白』の主人公を――少年の、そして幼年の彼を――思い合わせるなら、華宵の描く少年少女の双方について、「両性具有の妖しさ」とか、「少年の中に少女がいるし、少女の中に少年がいる」(『昭和美少年手帖』6ページ)とか言うのが適切でないことは――少なくとも、問題のありかをぼやかし、誤魔化すことであるのは――明らかだろう。少女はたんに少女であるが、少年は少女にもなりうる。「両性具有」とは男の特権なのだ。華宵の作品の少年だけでなく少女をも「両性具有の妖しさ」に含めようとするのは、両者をひとしなみに、たんにジェンダー秩序を攪乱する存在と見せかけることで、華宵の作品のペデラスト性を隠蔽し、和らげようとする力が働くからだろう。
 
三 ロマネスク
 
 谷崎潤一郎に『金色(こんじき)の死』という短篇がある。1914年に新聞紙上に発表されたきり、作者自身に疎まれて生前はついにどの単行本にも入らなかったといういわくつきの“失敗作”だが、1970年4月刊行の「谷崎潤一郎集 新潮日本文学6」に付された三島由紀夫による「解説」は、一巻の解説でありながらもっぱらこの一作に偏して論じている。三島による内容紹介を借りるなら、《「金色の死」は「私」の少年時代からの友人の岡村君の美的生涯を描いた物語であり(...)岡村君は、「私と同い年にも拘らず、一つか二つ下に見える小柄な品のいゝ美少年」であつたが、富裕の家に生れ、長ずるに及んで、機械体操の訓練を重ねた結果、アポロのやうな美青年になる。数学、歴史を嫌ひ、語学に長じ、秀才ではあるが、学校を出てからは快楽生活に没入し、しばらく世を避けたのち、箱根に無可有の郷を建設して、「芸術体現」の思想を実現し、つひに諸人の鑽仰のうちに「金色の死」を遂げて、生と芸術の一致を成就するのである。》
 
 終りの方は未読者には意味不明だが、それはあとで説明するとして、ここで「岡村君」のことを、三島は「アポロのような美青年」と呼んでいる。読み過ごしていたが、この形容が三島のオリジナルであることを、『肉体の迷宮』(谷川渥、東京書籍 2009年)という本の中の一章「谷崎潤一郎vs三島由紀夫――『金色の死』をめぐって」で知った。三島の「解説」について谷川は、「つまるところ三島の関心は、ひとえに〔...〕「自己の美的な死」に収斂する」と言う。簡単に言うなら、美の創造者が美の体現者も兼ね、それはまた死の瞬間でもあるという、谷川も触れているとおり間近に迫った自らの死 (同年11月)を重ねての思い入れたっぷりの議論である。創造者も体現者もともに男であることは言うまでもない。
 
 谷川がここで三島の『鏡子の家』から引いている科白――「そんなに筋肉が大切なら、年をとらないうちに、一番美しいときに自殺してしまへばいいんです」は、『昭和美少年手帖』の「つかのまの美である少年の美を永続させるものは「死」であり」云々を想起させようし、四十五歳でようやく自らを殺すことに成功した作家に対する哀れを催させもしよう。谷川は著書の前書きで、この章では《谷崎と三島の「肉体」あるいは「肉体美」に対する構えの違いを浮き彫りにする》つもりだと述べている。しかしこれは要するに、「美」を体現するのは男か女か(あるいは性的に男女どちらに惹かれるか)という話であり、「両作家の「肉体」というトポスにおける交叉と差異は、ドラマティックにして象徴的である」と、三島の筋肉さながら大仰に構えるようなことではないのではないか。
 
 谷川によれば、三島が「解説」の中で岡村君の「想念」に基づいてまとめた、つまり「谷崎の短篇に即して作り上げられたかに見える」論理は、「ある種の判断停止ないし等閑視を前提していると思わざるをえない」。そのことは「最も美しいのは人間の肉体だ」あるいは「最も貴き芸術作品は実に人間の肉体自身なり」という命題と、「人間の肉体に於て、男性美は女性美に劣る、所謂男性美なるものの多くは女性美を模倣したるもの也」との間を《どのように考えるかに関係する。三島はそこに「おそらくもっとも本質的な矛盾がひそんでいる」と書いている》。「岡村君」ないし谷崎の言うとおりなら、男である「自己の肉体を美にする事」がなぜ必要なのか。《三島は「故意にか偶然にか」岡村君の想念をもっぱら男の肉体にのみ関わらせることで、男の肉体を「最も貴き芸術品」とみなし、しかもそれを「自己の美的な死」へと一挙に結びつけるという論理的離れ業を演じているのである》と谷川は説く。
 
だが、それにしても岡村君はなぜ「自己の肉体を美にする事」にあれほど打ち込んだのだろうか。三島ならずとも、この「肉体が」がひとえに「男の肉体」にほかならぬと思い込みそうになるではないか。谷崎のテクストには、しかし三島があえて触れなかった側面がさりげなく、いやむしろ周到に挿入されている。岡村君が鉄棒に腰を掛けている姿を見て、「私」はこう述懐する。「派手なお納戸色の運動服をぴつたりと身に着けて、殆ど半裸体になつてゐる彼の姿を、不思議に美しく妖艶に感じました」。
 
「不思議に美しく妖艶」――むしろ「妖しい両性具有性」の側に「岡村君」はいるのであり、三島がそれを「アポロのよう」と強弁したということらしい(補足すれば、妖艶な岡村君を「私」が見出したのは彼の邸の運動場であり、人間業とは思えぬ妙技を見せてのち「お待ち遠様」と「私の傍に彳んだ岡村君の、肌理の細かい白い兩脛には、無數の銀砂がうすい靴下を穿いたやうに附着して居ました」)。「機械体操」に打ち込んだ「岡村君」は「筋骨の逞ましい、身の丈の高い、優雅と壮健とを兼ね備えた青年」になったが、《それはどうも三島のいうような「アポロのような美青年」とは微妙な、しかし決定的な差異を示しているようだ。そもそも岡村君の「肌膚はいつも真白で日に焼けるということを知」らないのである》と谷川は言う。
 あらためて『金色の死』を繙くなら、実際、「岡村君」は次のように記述されている。「岡村君は(...)極端に陥らない範囲で成る可く女柄の反物を仕立てさせては其れを着込んで歩いてゐました。」「月に五六度づゝ美顔術師の許に通つて、頻りと化粧に浮身を窶し、外出する時は常に水白粉をほんのり着けて、唇に薄紅さへさしてゐましたが、もともと容貌が美しかつたので、そんな真似をして居ようとは、誰も氣が着きませんでした。」(中央公論社『谷崎潤一郎全集』第一巻)
 
「岡村君」のこのような性情に関連して、谷川は、『金色の死』の二年前に発表された谷崎の短篇『秘密』を引き合いに出す。こちらの主人公の「私」は、東京の「騒擾を傍観しながら、こつそり身を隠して居られる」場所として「浅草の松葉町邊」の寺に一間を借り、夜な夜なさまざまに変装して浅草界隈を歩き回るうち(「岡村君」にも通じる扮装趣味だ)、「ある晩、三味線堀の古着屋で、藍地に大小あられの小紋を散らした女物の袷が眼に附いてから、急にそれが着て見たくてたまらなく」なる。
 
一體私は衣服反物に対して、単に色合ひが好いとか柄が粋だといふ以外に、もつと深く鋭い愛着心を持つてゐた。女物に限らず、凡べて美しい絹物を見たり、触れたりする時は、何となく(ふる)ひ附きたくなつて、丁度戀人の肌の色を眺めるやうな快感の高潮に達することが屡々であつた。殊に私の大好きなお召や縮緬を、世間憚らず、恣に着飾ることの出来る女の境涯を、嫉ましく思ふことさへあつた。
あの古着屋の店にだらりと生々しく下つて居る小紋縮緬の袷――あのしつとりした、重い冷たい(きれ)が粘つくやうに肉體を包む時の心好さを思ふと、私は思はず戦慄した。
 
「一も二もなく其れを買ふ気になり、ついでに友禅の長襦袢や、黒縮緬の羽織までも取りそろへ」、「襟足から手頸まで白く塗つて、銀杏返しの鬘の上にお高祖頭巾を冠り、思ひ切つて往来の夜道へ紛れ込んで見た」主人公について、谷川は次のように言う。「男は、みずからを女と仮構することによって、「練りお白粉」や「長襦袢、半襟、腰巻、それからチュッチュと鳴る紅絹裏の袂」が与えてくれるところの「普通の女の皮膚が味はふと同等の触感」を享受しようとする。女の肌を眼差し、あるいはそれに触れようというのではない。自分の肌を女の肌と想定する屈折した意識のもとで、外からのではなく内からの皮膚感覚に身を委ねようというのである。」
 
 それがどういう感覚かと言えば――
 
口邊を蔽うて居る頭巾の(きれ)が、息の為めに熱く(うるほ)つて、歩きたびに長い縮緬の腰巻の裾は、じやれるやうに脚へ縺れる。みぞおち[原文傍点]から肋骨(あばら)の邊を堅く締め附けて居る丸帶と、骨盤の上を括つて居る扱帶(しごき)の加減で、私の體の血管には、自然と女のやうな血が流れ始め、男らしい気分や姿勢はだんだんとなくなつて行くやうであつた。
 
 これはもう、「亡き母の薔薇の刺繍のついている毛の下穿きをはくと、体の中に甘いやさしさが広がって、自分も母のように心細やかに感じました。おばがもったいないといって着なかったピスタチオ豆の色の緑の絹のブラウスが裸の肌に触れると(...)」と述懐するパムクの「咄し家」の世界ではないか。
 
『金色の死』を作者が嫌ったことについて谷川は、もともと「ひたすら女性の美を、その肌の白さを称揚し続けた」谷崎は、『金色の死』に関しては《「男性美は女性美に劣る」との抜きがたい信念のために、何か中途半端な、不徹底な、不自然な作品にしてしまったとの思いにとらわれたのではなかったろうか》、「男性美の存立を描くことそれ自体の不可能をみずからの気質において悟らされたからではあるまいか」と述べる。そして、「三島由紀夫と谷崎潤一郎の二人の作家を、ナルシシズムとマゾヒズムという精神分析的概念であげつらうことは避けようと思う。[...]二つの概念を単純に対立させることに、さほど意味があるとは思えない」と言う。
 谷川の結論は次のようなものだ
 
三島と谷崎の差異は、前者が肉体をトポスとする自己作品化の美学を自己の死によってまっとうしようとしたのに対して、後者が、白い紙に文字を置いていく作家としての作業と、刺青師のように女の白い肌に図柄を浮き出させる行為に固執し続けることを重ね合わせて、あくまでも男を製作者、女を作品として自立させていく道を選んだことにある。二人の作家の「肉体」というトポスにおける交叉と差異を、そのように見ることができるのではないだろうか。
 
 これは何とも凡庸で空疎な比喩としか言いようがなくて、別にナルシシズムもマゾヒズムも使いたくないのなら使わなくてもいいけれど、同性愛と異性愛という概念をどうして使わなかったのかは説明しておいてほしかった。むろん、それらを「単純に対立させ」たところで意味はないが。
「解説」に三島は次のように書いている。
 
「芸術は先づ自己の肉体を美にする事より始まる」から、岡村君は機械体操に熱中しかつその美貌を磨き立てるのであるが、同時に岡村君は男であるから、その官能の命ずるところ、美的対象として女を求め、「人間の肉体に於て、男性美は女性美に劣る」といふ結論に達せざるをえない。もし岡村君がゲエテのやうに、「純粋に生物学的見地から見れば、男性美は女性美にまさる」と言つてゐるのならともかく、官能的享受がすべての美の客観的(!)基準だと信ずる岡本君は、女性美の優越性を認めざるをえない。そのとき、なぜ「自己の肉体を美にする事」が必要なのか、そこに撞着が起るのである。
 
 三島を念頭において必要な修正を加えるならば、彼の場合、「その官能の命ずるところ、美的対象として男を求め、「人間の肉体に於て、女性美は男性美に劣る」といふ結論に達せざるをえない。官能的享受がすべての美の客観的基準だとすれば、三島は「男性美の優越性を認めざるをえ」ず、それゆえ「自己の肉体を美にする事」が必要だったということになろう。谷川の議論が不得要領なのは、両性具有が男の特権であることと、同一化のシステムを見誤っているからだ。『秘密』という短篇をもう少し細かく見てみよう。『秘密』は、谷川が要約するような、「男が女装の快楽にうつつを抜かす話」ではないのだから。
 
 先ほど、『秘密』の語り手の、女の衣裳を触覚的に味わうことで女になるという描写を引いて、パムクの「咄し家」と似ていると言ったけれど、実はこの二人には大きな違いがある。「咄し家」が男から〈女〉として見られ、欲望されることを望んだのに対し、「もう一度幼年時代の隠れん坊のやうな気持を経験して見たさに、わざと人の氣の附かない下町の曖昧なところ」に「身を隠し」、外出するときは変装に正体を紛れさせている「私」は、「芝居の辨天小僧のやうに、かう云ふ姿をして、さまざまの罪を犯したならば、どんなに面白いであろう」と思い、「探偵小説や、犯罪小説の讀者を始終喜ばせる「秘密」「疑惑」の氣分に髣髴とした心持で、私は次第に人通りの多い、六區の公園の方へ歩み運んだ。さうして、殺人とか、強盗とか、何か非情な残忍な悪事を働いた人間のやうに、自分を思ひ込むことが出來た」と語るのだ。そして「常磐座の前へ來た時、突き當りの冩眞屋の玄関の大鏡へ、ぞろぞろ雑沓する群集の中に交つて、立派に女と化け終せた私の姿が映つてゐ」るのを見る。
 
こつてり塗り附けたお白粉の下に、「男」と云ふ秘密が悉く隠されて、眼つきも口つきも女のやうに動き、女のやうに笑はうとする。(...)私の前後を擦れ違ふ幾人の女の群も、皆私を同類と認めて(あや)しまない。さうして其の女達の中には、私の優雅な顏の造りと、古風な衣裳の好みとを、羨ましさうに見てゐる者もある。
 
 ここでは、女装の結果、他の女たちが、自らの優位を確信させてくれる競争相手としてあらわれてくる感覚が語られている。表題の「秘密」が意味するものの少なくとも一つは、女としての外見の下に隠し持つ《「男」と云ふ秘密》であるが、また、秘密を所有していることには、チルチルが回すダイヤモンドさながら、外界を変容させる効果もある。「いつも見馴れて居る公園の夜の騒擾も、「秘密」を持つて居る私の眼には、凡てが新し」く思えるのであり、《「秘密」の帷を一枚隔てて眺める為めに、恐らく平凡な現實が、夢のやうな不思議な色彩を施される。》
 種村季弘がそのボードレール論「覗く人――都会詩人の宿命」(『壺中天奇聞』所収)で引いている、「群衆とは、それを透して見る遊民の目に、見慣れた街が幻像のように映ずるヴェールである」というベンヤミンの言葉は、この、夜の遊歩者にもふさわしかろう。「人形町で生れて二十年來永住してゐる東京の町の中に、一度も足を踏み入れた事のないと云ふ通りが、屹度あるに違ひない。いや、思つたより澤山あるに違ひない」と信じる「私」は、紛れもなく、「見なれた町がが幻像となり、故郷であるここが異郷あるいは演劇的空間となる覗き仕掛(からくり)の制作者」(種村)の一人なのだ。
 
 深夜、帰宅した「私」は、「地獄極楽の圖を背景にして、けばけばしい長襦袢のまゝ、遊女の如くなよなよと蒲團の上へ腹這つて、例の奇怪な書物のページを夜更くる迄翻すこともあつた」。例の書物とは、「魔術だの、催眠術だの、探偵小説だの、化學だの、解剖學だのゝ奇怪な説話と挿繪に富んでゐる書物」である。「次第に扮装も巧くなり、大擔にもなつて、物好きな聨想を醸させる為めに、匕首だの麻醉薬だのを帶の間へ挟んでは外出した」。しかし「私」は、やがて遅れて東京にやって来て、本当に「探偵小説中の人物」になる、江戸川乱歩描くところのカウンターパートのように、能動的に何かをしようというのではない。剣呑な品物もそれで世界に働きかけるのではない。「私」自身の言うとおり、「犯罪を行はずに、犯罪に附随して居る美しいロマンチツクの匂ひだけを、十分に嗅いで見たかつたのである」。ふたたび種村季弘がボードレール(とある種の都会文学者)について述べるくだりから引くなら、「彼は世界のいたるところにいながら世界といっかな接触しないファントマであり、対象のあらゆる細部を観察しながらそれから絶望的に隔てられている覗き仕掛を覗く少年に似ている。一切を掌中にしながら、一切と接触不能なのである」。このロマネスクでリヴレスクな男は、しかし、思いがけない形で〈現実〉に出会うことになる。
 
 ある晩、「私」は映画館の「貴賓席へ上り込んで」、「奥深いお高祖頭巾の蔭から、場内に溢れて居る人々の顏を見廻した。さうした私の舊式な頭巾の姿を珍しさうに窺いて居る男や、粋な着附けの色合ひを物欲しさうに盗み視てゐる女の多いのを、心ひそかに得意として居た。見物の女のうちで、いでたちの異様な點から、様子の婀娜っぽい點から、乃至器量の點からも、私ほど人の眼に着いた者はないらしかつた。」
 このナルシシズム。それが粉微塵になるのは、いつの間にか隣の席に、「総身をお召の空色のマントに包み、くツきりと水のしたたるやうな鮮やかな美貌ばかりを、此れ見よがしに露はにして居る」女が掛けているのに気づいたときだ。
 
明りがつくと連れの男にひそひそ戯れて居る様子は、傍に居る私を普通の女と蔑んで、別段心にかけて居ないやうであつた。實際其の女の隣りに居ると、私は今まで得意であつた自分の扮装を卑しまない譯には行かなかつた。表情の自由な、如何にも生き生きとした妖女の魅力に気壓されて、技巧を盡した化粧も着附けも、醜く浅ましい化物のやうな氣がした。女らしいと云ふ點からも、美しい器量からも、私は到底彼女の競争者ではなく、月の前の星のやうに果敢なく萎れて了ふのであつた。
 
 この敗北はしかし、次なる勝利の前段階に過ぎない。この美女は行きずりの他人ではなく、「二三年前に上海へ旅行する航海の途中、ふとしたことから汽船の中で暫く関係を結んで居たT女であり」、互いに身許を匿し合ったまま上海に着き、「私は自分に戀ひ憧れてゐる女を好い加減に欺き、こツそり姿をくらまして了つた」、「以来太平洋上の夢の中なる女とばかり思つて居た」女なのである。
 
「私は美貌を羨む嫉妬の情が、胸の中で次第次第に戀慕の情に變つて行くのを覚えた。女としての競争に敗れた私は、今一度男として彼女を征服して勝ち誇つてやりたい」――そう思った「私」は、明晩同じ席で会おうという走り書きの手紙を女の袂に投げ入れる。そうして戻って着物を脱ぐと、「ぱらりと頭巾の裏から四角に畳にたゝんだ小さい用紙の切れが落ち」る。女は最初から彼だと見抜いており、明晩は、「雷門前でお出で下されまじくや。其処にて當方より差し向けたるお迎ひの車夫が、必ず君を見つけ出して拙宅へ御案内致す可く候。君の御住所を秘し給ふと同様に、妾も今の在り家を御知らせ致さぬ所存にて、車上の君に眼隠しをしてお連れ申すやう取りはからせ候」と、早くも返事をよこしていたのだ。
 
 『秘密』の「私」の女装趣味は前半のみであり、ここに至ってぴたりと止んで、この主題は二度とあらわれない(話題としても)ことをぜひ強調しておかねばならない。手紙に応えて「私」が女の許に至ろうとする、はじめての「晩は素晴らしい大雨であった」。この大雨が素晴らしい。「私はすつかり服装を改めて、對の大島の上にゴム引きの外套を纏ひ、ざぶん、ざぶんと、甲斐絹張りの洋傘に、瀧のごとくたゝきつける雨の中を戸外(おもて)へ出た。」小紋を買うくだりで「大柄の女が着たものと見えて、小男の私には寸法も打つてつけであつた」とあるから長身のはずはないのだが、ゴム引きの外套と洋傘で完全防備し、石突は直ぐ天を指し、瀧のごとき雨中に(船腹を打つ波さながらのざぶん、ざぶんが凄い)すっくと立った雄々しい姿、それまでの隠れん坊をしたがっていた子供とは別人のように、「新堀の溝が往來一面に溢れてゐるので、私は足袋を懐へ入れたが、びしょびしょに濡れた素足が家並みのランプに照らされて、ぴかぴか光つて居た」というファリックな生足もあらわな成年男子が仁王立つ。雷門まで行くと人気の絶えた中を俥の赤い提灯が近づいてきて、車夫に約束通り目かくしをされ、「私」は車上の人となる。
 
しめつぽい匂ひのする幌の上へ、ぱらぱらと雨の注ぐ音がする。疑ひもなく私の隣りには女が一人乗つて居る。お白粉の薫りと暖かい體温が、幌の中へ蒸すやうにこもつて[原文はこもるが漢字]ゐた。〈...〉右へ曲り、左へ折れ、どうかするとLabyrinthの中をうろついて居るやうであつた。(...)
長い間、さうして俥に揺られて居た。隣りに並んでゐる女は勿論T女であらうが、黙つて身じろぎもせずに腰かけてゐる。(...)海の上で知り合ひになつた夢のやうな女、大雨の晩の幌の中、夜の都會の秘密、盲目、沈黙――凡べての物が一つになつて、渾然たるミステリーの靄の裡に私を投げ込んで了つて居る。
 
 雨(もはや華々しい水との接触もない)を避けて女と相乗りした俥に閉じ込められた「私」は、最前の勢いはどこへやら、ここではうってかわって触覚と嗅覚だけの受け身の存在となっている。「黙つて身じろぎもせずに腰かけてゐる」のは女ばかりではなく、ここは、目隠しを取り外すことなど思いもよらない、されるがままの、「生まれる前の身じろぎ」(カフカ)の世界なのだ。やがて女が、「私」の「固く結んだ」唇を分け、「巻煙草」を押し込んで火をつける。「海の上で知り合ひになつた夢のやうな女」――といっても、そんなことが本当にあったのだろうか。船内で女と知り合って夢中にさせただの、自分に恋い焦がれる女を置いて姿を消しただの、どこかの海の上で起こったそんな一人前の密事は、文字通り地に足のつかない作り話ではなかろうか。雨音も幌に遮断されて弱くしか聞こえないそこで、外界の騒擾を逃れて〈内部〉に隠遁した彼は、口唇期に退行して匂いと味に耽溺しながら夢を見続けているのではあるまいか。母のように世話を焼いてくれる夢の女にさらわれてゆく夢を。
 
 その夜から、「私」は毎夜迎えの俥に乗り、目かくしされて女の家に連れて行かれ、帰りはまた同じように雷門まで送られるようになる。やがて「私」はその道筋を知りたくてたまらなくなり、ついにある晩、車上で、「一寸でも好いから、この眼かくしを取ってくれ」と言う。
 
「いけません、いけません」
と、女は慌てゝ、私の両手をしツかり抑えて。その上へ顏を押しあてた。
何卒(どうぞ)そんな我が儘を云はないで下さい。此処の往来はあたしの秘密です。此の秘密を知られゝばあたしはあなたに捨てられるかもしれません。」
「どうして私に捨てられるのだ。」
「さうなれば、あたしはもう『夢の中の女』ではありません。あなたは私を戀して居るよりも、夢の中の女を戀して居るのです。」
 
 それでもとうとう目かくしを取らせた「私」の目に映ったのは――
 
美しく晴れ渡つた空の地色は、妙に黒ずんで星が一面にきらきらと輝き、白い霞のやうな天の川が果てから果てへ流れてゐる。狭い道路の両側には商店が軒を並べて、燈火の光が賑やかに町を照らし出してゐた。
 
 夢の外部に見るものもまた夢であり、道の続くかぎり夜空の果てまで夢の光が照らしている。「不思議な事には、可なり繁華な大通りであるらしいのに、私は其れが何處の街であるか、さつぱり見當が附かなかつた。俥はどんどん其の通りを走つて、やがて一二町の先の突き當りの正面に、精美堂と大きく書いた印形屋の看板が見え」てくる。これは、物語の最初の方で子供の頃の思い出として語られる、父に連れて行かれた深川の八幡様の境内の裏手に、思いがけない「川や渡し場が見えて、其の先に廣い地面が果てしもなく續いてゐる謎のような光景」が、「夢の中で屡々出逢ふことのある世界の如く思はれた」ことと直接つながるものだ。「私は其の時まで、たびたび八幡様へお参りをしたが、未だ嘗て境内の裏手がどんなになつてゐるか考へて見たことはなかつた。いつも正面の鳥居の方から社殿を拝むだけで、恐らくパノラマの繪のやうに、表ばかりで裏のない、行き止まりの景色のやうに自然に考へていたのであらう」とかえりみる「私」は、「だんだん大人になつて(...)東京市中は隈なく歩いたやうであるが、いまだに子供の時分経験したやうな不思議な別世界へ、ハタリと行き逢ふことがたびたびあつた」と語っているのだ。
 
賑やかな商店の多い小路で突きあたりに印形屋の看板の見える街、―――どう考へて見ても、私は今迄通つたことのない往来の一つに違ひないと思つた。子供時代に経験したやうな謎の世界の感じに、再び私は(いざな)はれた。
 
「子供時代に経験したやうな謎の世界の感じ」――再び見出した幼年時と、成年の力とを、今や二つながらに具える「私」は、「一體此處は何處なのだか私にはまるで判らない。私はお前の生活に就いては三年前の太平洋の波の上の事ばかりしか知らないのだ。私はお前に誘惑されて、何だか遠い海の向うの、幻の國へ伴れて來られたやうに思はれる」と言うと、女は「しみじみと悲しい聲で」答えて、「後生だからいつまでもさういふ気持でいて下さい。幻の國に住む、夢の中の女だと思つて居て下さい」と涙を流す。
 
 字面の上では夢の中の女ではないと主張しているが、ここで女が言っているのは「あたしはあなたの夢の中の女です」より他のことではない。ここに〈他者〉はおらず、科白もすべて夢見る人の中で発せられ、それを他人の声のように聞く、完全な一人二役である(しかし谷崎はそれを夢としては書かなかった)。「往来」を見てはいけないという禁忌も、男が自ら課して、自ら破るものである。当然ながら、男はそれを破ることになる。
 
「私」がついに「精美堂」の看板とそこに至る通りを見つけたとき、それはもはや、その向うにまだ見ぬ世界が広がる魅力的な書割ではなかった。
 
散々私を悩ました精美堂の看板の前に立つて、私は暫く彳んで居た。燦爛とした星の空を戴いて夢のやうな神秘な空気に蔽はれながら、赤い燈火を湛へて居る夜の趣きとは全く異なり、秋の日にかんかん照り附けられて乾涸びて居る貧相な家並を見ると、何だか一時にがつかりして興が覚めて了つた。
 
 さらにその先へと進み、Labyrinthを行きつ戻りつしたあげく、男はついに女の家をつきとめる。(小路の)「中へ這入つて行くと右側の二三軒目の、見事な洗ひ出しの板塀に圍まれた二階の欄干から、松の葉越しに女は死人のやうな顏をして、じつと此方を見おろして居た」。まるで彼の来ることを知って、待っていたかのように――むろん、女にはわかっていたのだ。男の顔もさぞや死人のようであったに違いない。女はそこで、ミノタウロスのように、あるいはむしろスフィンクスのように彼を待ち受けていたのである。
 
四 「男」と云ふ秘密
 
 もしも『秘密』が、夢想家が〈現実〉に――夜の夢の女ではなく、昼の現の女に――直面し、虚の世界が一挙に色褪せた結果、女を捨てるという話であったなら、前半の女装の部分は不要であったろう。
 女は何者だったのか。「芳野と云ふその界隈での物持の後家」という種明かしは、次元の違う話で答えになっていない。
 最初の雨の晩に戻ってみよう。人力車の胎内に庇護されての旅の終りにどことも分からぬ家の中で見出した女は、いや、目かくしのまま「私」が放置された座敷に入ってきた女は、「無言の壗、人魚のやうに體を崩して擦り拠りつゝ、私の膝の上へ仰向きに上半身を(もた)せかけて、さうして両腕を私の(うなじ)に廻して白羽二重の結び目をはらりと解いた」。
 
「よく来て下さいましたね。」
 かう云ひながら、女は座敷の中央の四角な紫檀の机へ身を(もた)せかけて、白い両腕を二匹の生き物のやうに、だらりと卓上に這はせた。(強調引用者)
 
「昨夜と恐ろしく趣が變つてゐるのに、私はまづ驚かされて」、「こんな事を[身分を知られないよう毎日身なりを変えると]云ふ女の素振りは、思つたよりもしとやかに打ち萎れて居」り、「もう今度こそは私を棄てないで下さいまし。身分も境遇も判らない、夢のやうな女だと思つて、いつまでもお附き合ひなさつて下さいまし」と語る一語一句が「遠い國の歌のしらべのやうに、哀韻を含んで私の胸に響」いた。
 
「昨夜のやうな、派手な勝氣な悧發な女が、どうしてかう云ふ憂鬱な、殊勝な姿を見せることが出來るのであらう。さながら萬事を打ち捨てゝ、私の前に魂を投げ出してゐるやうであつた。」そう「私」はいぶかしむが、理由は明らかであろう。かつて「私」が三味線堀で見つけた小紋縮緬は「古着屋の店にだらりと生々しく下つて居」て 、夜毎の冒険から寺へ戻った「私」は、「疲れた體の衣裳も解かず、毛氈の上へぐつたり嫌らしく寝崩れ」たり、「遊女の如くなよなよと蒲團の上へ腹這つ」たりしていたのだが、今ではそうした男らしからぬ動作や姿態はすべて、人魚のような、蛇のような女が代行してくれることになったのだ。「萬事を打ち捨てゝ、私の前に魂を投げ出してゐる」女とは、「私」の受動性――一人前の男であれば放棄せねばならぬもの――の外在化であり、さればこそ「派手な勝氣な悧發な女」も「憂鬱な、殊勝な姿」も、「私」の欲望の関数として自在に「私」の前に現われる。
 
 お高祖頭巾のうちに女の手紙を見つけたとき、「私」はこう語っていた。
 
私は此の手紙を讀んで行くうちに、「自分がいつの間にか探偵小説中の人物となり終せて居るのを感じた。不思議な好奇心と恐怖とが、頭の中で渦を巻いた。女が自分の性癖を呑み込んで居て、わざとこんな真似をするのかとも思はれた。
 
「女が自分の性癖を呑み込んで居て」――むろん、呑み込んでいるにきまっている、この女は「私」の中から生まれてきた夢の女、「私」が縮緬をまとい、お白粉を塗っての扮装にまさる、「私」の〈夢〉の具現化なのだから。袂に女への文を投げ込めば向うも返事を襟元に差し入れてくれ、「私」が住所を教えたくないのに対応して、女も家の場所を明かしたがらず、実際に女の家へ行ってみれば、「昨夜と恐ろしく趣が變つてゐ」る女は、「あなたは、今夜あたしがこんな風をしてゐるのは可笑しいと思つていらツしやるんでせう。人に身分を知らせないやうにするには、かうやつて毎日身なりを換へるより外に仕方がありませんから」と、「成る可く人目にかからぬやうに毎晩服装を取り換へて公園の雑沓の中を潜つて歩い」ていた彼の変装趣味にそっくりの言いわけをするのだから、やはりこの女は彼の鏡像なのだ。
 
 雨に閉ざされ温気に包まれた幌の中からもはや遠く、人魚や蛇の生きられない干上がった世界で、女は、「二階の欄干から、松の葉越しに」「死人のやうな顏をして、じつと此方を見おろしてゐた」。
「別人を装うても訝しまれぬくらゐ、その容貌は夜の感じと異つて居た。」
 
 この〈女〉は男である。「私」が女装するのも夜だけであった。自分の扮装よりも完全な夢の女を手に入れて、「私」は女に化けるのをやめた。「秘密」とは、この〈女〉もまた男であるという秘密であった。生物学的に男であるというのではない。だが、迷宮の中心には鏡が仕掛けられているのであり、それに映った「別人のように見える」女は、「秘密を發かれた悔恨、失意の情が見る見る色に表はれて、やがて静かに障子の蔭へ隠れて了つた」。
 自らも失意の情をありありと浮かべていたであろう「私」が出会わなければならなかった〈現実〉とは、長の年月、逢いつづけていた女が、彼の「夢の女」とは別の自立した〈他者〉であることではなかった。かつては女装にうつつを抜かした「私」が発見したのは、自らに認められない受動性を女に担わせているのだという、〈現実〉すなわち男たちの秘密であった。
 
 男とは制度的に、受動性を禁じられ、自らの受動性を〈女〉として外在化するしかない存在である。“異性愛者”の谷崎には、この図式が無理なく当てはまる。三島の場合、「岡村君」に具現されるべき「男性美」が、「女性美を模倣したるもの」であっては受け入れ難かったにちがいない。とはいえ、この女性(美)優位は見せかけにすぎない(女性性を持つ男性が美しいというのは、男のみが両性具有的でありうるということだ)。「東も西もアラーのもの」である以上、あくまで主導権は男が握っている。マゾヒスト谷崎しかりである。男がいなければ〈女〉が存在しないのは自明のことだ。「藝者とも令嬢とも判断のつき兼ねる」、「堅儀の細君ではないらしい」、「始終一人の男から他の男へと、胡蝶のやうに飛んで歩く種類の女」であるT女あるいは「芳野の後家」も、所詮男につきあって娼婦のまねごとをしただけだった。
 
 三島は『金色の死』に何を見ていたのだろう。《「金色の死」の、美の理想郷の描写に入ると、とたんにこの小説は時代的制約にとらはれたものとなる。(...)ロオマも支那も、世紀末も密教美術もおかまひなしの東西混淆は、当時の知識人の夢の混乱と様式の混乱を忠実にあらはし、ひいては、統一的様式を失つた日本文化の醜さを露呈する》と彼は書くのだが、たとえば三島邸にしたとて、「金色の死」の規模と馬鹿らしさには及びもつかぬものの、文化的混淆については似たようなものではなかったか。
 
「僕は君の來るのを遠くから眺めて居た。彼処の柱に倚りかかつて―――。」
彼はかう云つて、隔たつた山の一角の、白亜の洋館の廊下(ベランダ)を指しました。
 
「彼処の柱に倚りかかつて―――」と言ったのはむろん「岡村君」であって三島ではなく、三島の白亜の洋館の門とベランダの間はそこまで遠くなかったろうが、また、岡村君のやうに「羅馬時代のゆるやかな白い外袍(トーガ)を身に纏ひ、足には草履(サンダル)を穿いて」客を出迎えはしなかったろうが、しかし、西武百貨店であつらえたミリタリー・ルックとこのトーガが全く別のものというわけではないことは承知していただろうし、矢を射込まれた聖セバスチャンに扮することと、「金色の死」に至る十日間、衣裳をとっかえひっかえして「不思議な風俗で私に接し」た岡村君の扮装――「彼は此の頃の露西亜の舞踏劇に用ひられるレオン、バクストの衣裳を好んで、或は薔薇の精に扮し、或は半羊神(フオオン)に扮し、しまひには服装を換へるだけでは飽き足らずなつて、SCHEHERAZADE(シエへラザアド)の踊に出てくる土人に変じて體中を眞黒に染めたりしました」――が異ならないこともわかっていただろう。「僕は何時でも自分の姿は繪になつて居ると信じて居る」と「豪語して居」た「岡村君」同様、彼もまたそう信じて好んで被写体になり、また、舞台で奴隷に扮して力瘤を見せたり、やくざや軍人や侍や剥製になった姿をフィルムに残したりしたのではなかったか。
 
 岡村君の最期を三島は、「つひに諸人の鑽仰のうちに「金色の死」を遂げて、生と芸術の一致を成就するのである」と書いていた。未読の人にはさっぱりわかるまいから、以下にその部分を引く。
 
十日目の晩には多勢の美男美女を撰りすぐり、羅漢菩薩の姿をさせたり、悪鬼羅刹の装ひをさせたり、揚句の果に自分は満身に金箔を塗布して如来の尊容を現じ、其の壗酒を呷って躍り狂ひました。
 徹夜の宴に疲れ抜いて、殿堂の廊下や柱や長椅子にしどけなく酔ひ倒れたまゝ、明くる日の明け方まで何も知らずに睡り通した一同の者は、やがて目を醒ますと部屋の中央の卓子の上に、金色の壗氷の如く冷めたくなつて居る岡村君の死骸を発見したのです。彼の邸に雇つてあつた醫師の説明によると、金箔のために體中の毛孔を塞がれて死んだのであらうと云ふ事でした。
菩薩も羅漢も悪鬼も羅刹も、皆金色の死體の下に跪いて涙を流しました。其の光景は其のまゝ一幅の大涅槃像を形作って、彼は死んでも猶肉体を捧げて自己の藝術のために努力するかと訝しまれました。
 
 このファルス、このナンセンス、この無意味な死を、三島はうらやんだに違いない。来るべき自己の死が、結局のところこれと本質的には違わない見世物であることを、生と芸術の一致を成就させたとそのとき世人が鑽仰してくれるとは限らぬことを、賢明な三島は承知していたに違いない。金箔も軍服もつまりはコスプレである。
 
 谷崎自身は上の事件を指して、「歓楽の絶頂に達した瞬間に彼が突然死んで了つた事柄」と語り手に言わせており、あるいはこれは文字通りに取るべきなのかもしれない。というのは、「(...)その外にまだ、牛乳、葡萄酒、ペパアミントなどを湛へた小さな浴槽が三つ四つあつて、其處にも人魚が遊んで居ます。最後に私達は、人間の肉體を以て一杯に埋まつて居る「地獄の池」の前に出ました」とか、「其處には生ける人間を以て構成されたあらゆる藝術がありました。此の宮殿の女王と言はれる一婦人が、錦繍の帷の奥に、四人の男を肉柱とした寝臺に横たはつて居る有様をも見せられました」とか語られる酒池肉林(?)のテーマパークは、「私はもう、此れ以上の事を書き續ける勇氣がありません」と語り手も言うように、それ以上書いたら当時としては検閲に引っかかるようなものだったのかもしれなくて、「多勢」の「美男美女」が「殿堂の廊下や柱や長椅子にしどけなく酔ひ倒れたまゝ」眠っていたのは、映画『地獄に堕ちた勇者ども』の、折り重なる裸体をやがて(あけ)に染めることになる男たちのようなオージーの果ての姿(☆10)で、「金色の死」はプレイ中の事故だったかもしれないからである。文士で昆虫採集の好きなのが珍しい蝶を追ううち、崖から足を滑らせて転落死するということもあると吉田健一も言っている(「三島氏のこと」)。
 
『金色の死』は次のように結ばれる。
 
紀文や奈良茂のように無意味な豪遊を試みてさへ、後世に大盡の名を歌はれるのですから、彼の名前は尚更不朽に傳はらねばなりません、しかし世間の人々は、彼のやうな生涯を送つた人を、果して藝術家として評價してくれるでせうか?
 
 しかし世間の人々は、彼のやうな死に方をした人を、果して藝術家として評價してくれるでせうか?
 
「男性美は女性美に優る」との抜きがたい信念のために、三島にとって「岡村君」はあくまで「アポロのような美青年」でなければならなかったのだろう。「不思議に美しく妖艶」で「肌膚はいつも真白」、現代日本の男の服装は非芸術的だと主張して、水白粉も縮緬の肌触りをも愛する(金箔を塗るのもその延長であろう)「岡村君」を三島は無視して、谷崎は一度きり男性的な「自己の美的な死」を描き、その後、この作品を否定することで「自己が美しいものとなることを断念」し、「『金色の死』の芸術論の大切な前提を断念」したと主張しなければならなかったのだろう。
 
 だが、むろん、三島は受動性を自分に許していたのである。異性愛の男のようにそれを他者化してはいなかったからだ。〈女〉と見られることは絶対に嫌だった――幼年時代にはよしや天勝に扮装したことがあろうとも、長じてからは筋肉で身体を鎧うのが彼の扮装だった。鎧の下が〈女〉では、嫌いなジャンヌ・ダルクになってしまうではないか。
 それでも、男が女になりうること、もともと女であり女でしかない存在とは違って両性具有でありうることを、彼は証明して見せねばならなかった。最後には自分が「傷つく少年」であることを、鍛えられた筋肉の被傷性(ヴァルネラビリティ)を、〈女〉とは男であることを、天下に示してみせねば止まなかったのだ。
 
 
 
☆1 『私の名は紅』和久井路子訳、藤原書店 2004年。パムクについては拙ブログでも書きつつある。http://kaorusz.exblog.jp/m2010-06-01
☆2 「松岡正剛の千夜千冊」                 
☆3“Murder in Miniature: A sixteenth-century detective story explores the soul of Turkey”by John Updike 
☆4 英語からの拙訳のため、不備はお許しいただきたい。『紅』の日本語訳からこのパラグラフがそっくり落ちている件はブログで触れた。
☆5 アップダイクはサルタンの宝物殿の細密画の描写(“名人オスマン”視点)についてボルヘスの『アレフ』を引き合いに出しているが、私見では『アレフ』の語り手が地下室の階段で見つける「アレフ」の描写を思わせるのは、死んだエニシテが高みから自らの葬列を眺めつつ、「全てを同時」に見るくだり(邦訳353-354)である。パムクがあれを「アレフ」を意識せずに書いたなどということは――共通の起源があるいはあるとしても――ありそうにない。
☆6 作中人物が自らを作り物だと明言し、書かれているものを信じるなと自己言及する幕切れである。
☆7 アップダイクは次のように書評を結んでいる[引用文含め拙訳]。《血の色です、と「紅」は誇らしげに言う。「私がページを彩るとき、それは世界に「在れ!」と命じるようなものです。見えない者は否定するでしょうが、実際、私はいたるところにいるのです。」世界の名前は、言いかえれば「紅」なのである》しかし、アップダイクには「紅」が見えているのだろうか。
☆8 「男色帯」については、『バートン版 千夜一夜物語』別巻か、「コーラ」10号「“父子愛”と囮としてのヘテロセクシュアル・プロット――トールキン作品の基盤をなすもの」第三章「そしてホビットは?」の、「オリエントとしてのアルダ」の項を参照されたい。http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/kikou10-3.html
☆9 中原については「『父 中原淳一』」(1)〜(4)としてブログに書いたことがある。 http://kaorusz.exblog.jp/4428380
☆10 三島はこの映画にオマージュを捧げているが、そのことを含めブログ記事「萌えの人・松田修」に少々記した。あわせてお読みいただければ幸いである。
 

★プロフィール★鈴木薫(すずき・かおる)平野智子さんからは、本文で述べたことに加え、宝野アリカについての教示、弥生美術館タダ券恵贈の上同行、『わたしの名は紅』貸与、「谷崎潤一郎vs三島由紀夫――『金色の死』をめぐって」の章にざっと目を通したのみでの的確な批評、草稿へのアドヴァイス等、有形無形の恩恵を受けました。「東も西もアラーのもの」とは「東も西も男のもの」の意味で、つまり「男も女も男のもの」なのだと電話で言われたときにはちょっとぞくぞくしました。彼女なしでは本稿はこのような形を取らなかったことでしょう。記して感謝します。/その平野さんと、トールキン・サイトを開設しました。サイト名は「アルダの歩き方」http://atanatari.exblog.jp/ 目下、アルダに降り立ったヴァラールのように(洞窟を掘っているドワーフだと本人は言うのですが)平野さんが基礎作りをしている――幸い、メルコールに邪魔される心配はありません――段階ですが、近いうち私も書くつもりです。

Web評論誌「コーラ」11号(2010.08.15)
「新・映画館の日々」第10回:男と云ふ「秘密」――パムク、華宵、谷崎、三島(鈴木 薫)
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