ソプラノ版で知っていた、歌曲「初恋」(詞:啄木、作曲:越谷達之
助)を、先日テノール版で耳にしたとき、「この歌はソプラノこそ似つかわしい」と強く思った。何故そう思ったのかをずっと考えていた。いま、その理由が分かった。
啄木の初恋の相手、堀合セツ(節子)が唱っていると思えたからに違いない。
砂山の砂に腹這ひ
初恋の
いたみを遠くおもひ出づる日
(『一握の砂』啄木 より)
作曲:越谷達之助 歌唱:唐澤まゆこ
【初恋】
砂山の砂に
砂に腹這い
初恋のいたみを
遠くおもひ出づる日
初恋のいたみを
遠く遠く
ああ ああ
おもひ出づる日
砂山の砂に
砂に腹這い
初恋のいたみを
遠くおもひ出づる日
啄木の初恋の相手とは才媛と謳われた堀合セツ(節子)である。
岩手県立盛岡中学校二年の時で、当時啄木十三歳。少年の初恋だ。
セツへの恋は、啄木が短歌に本格的に取り組み始めた15歳の頃から、相互の恋となって育って行ったと言う。セツは、啄木の下宿へ、詩作を学ぶとして入りびたり、街に噂が立ち、セツの父は妹の同行を条件にしたり、次に交際を全面に禁じたりしたが、セツの巧みな戦術で突破される。父は心配し、一途な娘の姿にその前途を案じた。
1902年(明治35)10月、十六歳の啄木は苦手科目のカンニングが発覚し、退学勧告を受け已む無く退学。それを機に念願の上京(東京に出て、文士になる?)を敢行。同じく十六歳の節子はこう言葉を贈って激励する。
「理想の国は詩の国にして理想の民は詩人なり、狭きアジアの道を越え、立たん曠世の詩才、君ならずして誰が手にかあらんや。」と……。
啄木は、結核を患い、翌1903年(明治36)2月父に迎えられるカタチで故郷に戻る。
節子との恋愛は続き、節子の父は本気度に負け、かつ節子姉の説得を受け、1904年(明治37)1月、ついに堀合家が折れ婚約に同意する。
10月、十八歳啄木は、詩集刊行を目的に東京へ向かう。啄木の才能を100%信じていた節子は、滝沢村篠木尋常小学校の代用教員となって、啄木の成功を待つ。
1905年(明治38)5月、第一詩集『あこがれ』刊行。啄木の父、宝徳寺住職罷免。
啄木への無理な仕送りによって曹洞宗宗費上納が滞ったため「公費を私した」と責められたと言われている。父が婚姻届を出し結婚。妻・父母・妹……一家を支えなければならぬ(つまり定収入なき若造には無理な)立場が始まった。結婚式の日、いくら待っても啄木の行方がわからず、花婿不在のまま披露宴が行われた。時に啄木十九歳。
一人花嫁の座にあった節子は堂々としていたと言われている。啄木の友人たちは節子に結婚を思いとどまるよう話すが、節子の返信には、「吾はあく迄愛の永遠性なると云ふ事を信じ度候」とあった。
6月になって、啄木が盛岡に帰り、父母・妹との同居の新婚生活が始まる。盛岡市内の二間の借家。四畳半の一室を夫婦が使い、八畳間に父一禎と母カツ、妹が住んだ。
その新生活は……
(下記年表:各種資料から作成)
1906年(明治39)
函館駅長の義兄を訪ね一家の窮状打開を相談。失敗。
節子と母を伴い渋民村に戻る。節子父の尽力で渋民村尋常小学校代用教員となる。堀田秀子に同僚以上の思慕つのる。啄木の中では渋民と秀子は同じ観念のものとなっており「自分が渋民を去つてから、故郷と秀子さんとは同じものになつて頭の中に宿つてゐた。渋民を思出して此人を思出さなかつた事はない」(日記)。
「かの家のかの窓にこそ春の夜を 秀子とともにかわず聴きけれ」
12月、長女:京子生まれる。
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1907年(明治40)
ストライキ騒ぎで退職。5月、単身函館に移る。節子・京子を節子の実家に、妹を駅長の義兄に託す。6月、函館弥生尋常小学校の代用教員に。同僚の橘智恵子に恋する。
「かの時に言ひそびれたる大切の 言葉は今も胸にのこれど」
「君に似し姿を街に見る時の こころ躍りをあはれと思へ」
7月、函館に節子・京子・母を呼ぶ。
8月「函館日日新聞」の社外記者に。函館大火に遭う。
「函館の青柳町こそ悲しけれ 友の恋歌矢ぐるまの花」
9月、札幌で「北門新報」の校正係、9月末、小樽に移り「小樽日報」の記者ともなる。12月退社。小樽では同僚に野口雨情がいた。
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1908年(明治41)
正月、家族を小樽に残し、釧路新聞社に勤務する。釧路往きの小樽駅はさすがに啄木の心を締め付けたのか、その場面をこう詠んでいる。
「子を背負い 雪の吹き入る停車場に われ見送りし妻の眉かな」
辿り着いた釧路の街も詠んでいる。
「さいはての駅に下り立ち 雪あかりさびしき町にあゆみ入りにき」
釧路では仕事をこなしたようだが、独りの冬に耐えかね下記の有り様。
「よりそいて 深夜の雪の中に立つ 女の右手のあたたかさかな」
「小奴といひし女のやはらかき 耳たぶなども忘れがたかり」
3月には東京での創作活動へのあこがれが募り、釧路を離れる。
4月より東京、千駄ヶ谷の新詩社に暫く滞在。5月、与謝野鉄幹に連れられ 森鴎外宅での観潮楼歌会に出席する(参会者は、他に伊藤左千夫、北原白秋、佐々木信綱、平野万里、吉井勇等8名)。
5月、中学で一学年上であった金田一京助の援助もあり本郷区菊坂町赤心館に止宿、生計のため小説を売り込むが成功せず。
逼迫する生活の中、6月23日から25日にかけ「東海の小島の磯の……」「たはむれに母を背負ひて...」など、後に広く知れ渡る歌を作り、続いて作った246首とともに翌月の『明星』に発表する。金田一は、 自身が結婚するまで、友人として啄木に金銭を含む見返りを求めない献身的な支援をしている。金田一は常々「君には天賦の才がある」「ぼくに文学を諦めさせ、進むべき道を考えさせてくれたのは君だ」と心底言っていた。
9月6日、下宿先を本郷区森川町蓋平館に移す。
11月『東京毎日新聞』に小説「鳥影」を連載。『明星』は終刊するも、続けて『スバル』の創刊準備にあたる。
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1909年(明治42)
就職活動が実り、3月1日に『東京朝日新聞』の校正係となる。
1970年代になって公刊された「ローマ字日記」には、浅草に通っての娼妓との遊行が赤裸々に描写されていた。彼の借金のほとんどはこうした遊興に費やされたようで、それが為の貧困であったと思われる。
一方節子は、前年4月の啄木の上京後、函館で啄木の母・カツと娘京子と暮らしていたが、啄木から送金もなく、小学校の代用教員をしてやっと生活をしていた。
6月16日、節子はついに意を決して、京子・カツとともに函館から上京する。本郷区本郷弓町の床屋「喜之床」の二階に移る。長女京子はわずか二歳半であった。10月、節子の体調不調、結核に蝕まれ始める。こうした苦境の中で、節子とカツとの積年の関係が爆発。頼みとした啄木の冷淡な態度に絶望し将来を悲観した節子は、10月2日置き手紙を残し、三歳前の長女京子を連れて盛岡の実家に向かうも、金田一の尽力で暫く後に戻る。
12月には、父も同居するようになる。
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1910年(明治43)
3月、『二葉亭全集』の校正を終え、引き続き刊行事務全般を受け持つ。
5月末宮下太吉ら4名逮捕の「爆裂弾事件」を口実に数百人の社会主義者・無政府主義者の理由無き大量逮捕が行なわれ、幸徳秋水・菅野須賀子ら26人が明治天皇暗殺計画容疑として起訴され、翌年1月24名に死
刑判決。(12名無期に減刑)。大逆事件である。
5月下旬から6月上旬にかけて小説『我等の一団と彼』を執筆。
7月1日、社用も兼ね、入院中の夏目漱石を見舞う。
8月下旬には評論「時代閉塞の現状」を執筆するが
「われは知る、テロリストのかなしき心を――
言葉とおこなひとを分ちがたき ただひとつの心を、
奪はれたる言葉のかはりに おこなひをもて語らんとする心を」
『朝日新聞』には掲載されていない。
同時期の作歌:
「何もかも行末の事見ゆるごとき このかなしみは拭ひあへずも」
「秋の風我等明治の青年の 危機をかなしむ顔撫でて吹く」
9月15日、『朝日新聞』紙上に「朝日歌壇」が作られ、その選者となる。
朝鮮併合後の作「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨を塗りつつ秋風を聴く」があるが、歌集には収録しなかった。
10月4日、長男真一が誕生したが、27日に病死。鉄幹、葬儀に来る。
12月、第一歌集『一握の砂』を東雲堂より刊行。啄木満24歳。
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1911年(明治44)
友人の平出修弁護士と会い、幸徳秋水の弁護士宛「意見書」を借用する。
啄木は、「大逆事件」の拘引以前から社会主義思想にひかれていたが、幸徳の「陳弁書」を読み、より深く社会主義を研究し始める。
啄木の幸徳事件への思いは尋常ではなく、膨大な公判記録を読み込み、裁判全体は政府がフレームアップしたものと確信していた。
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1912年(明治45)
啄木が亡くなる数カ月前の日記は、無残ともいえる二人の関係を伝えている。「髪も梳らず、古袷の上に寝巻きを不恰好に着」て「時々烈しく咳をする」妻を、啄木は「醜悪な姿」といい、それを見るたびに「暗い怒りと自棄の念に捉へられずには」おれない、と書いている。
3月7日、母カツ死去。4月9日、土岐は第二歌集刊行を啄木に伝える。
4月13日、啄木、小石川区久堅町にて肺結核のため死去。妻、娘、父、友人の若山牧水にみとられている。享年26歳。皮肉にも、カツ死去からの一ヶ月間が、節子にとって「邪魔」されない初めての啄木との二人の時間となった。
4月15日、浅草等光寺で葬儀、夏目漱石も参列する
啄木亡き後、幼い娘をかかえた節子は孤立無援の8ヶ月の身重。肺結核もすすんでいた。金になりそうな物は、啄木愛用の机や火鉢まですべて売り払った。育ち盛りの京子を抱え、出産を控えているのだ。
すべてを売り払い寒々とした部屋に残された、自分と京子のわずかばかりの衣類を、留守にした隙に空き巣に盗まれる。
節子は啄木が絶縁を申し渡していた実家に戻ることを避け、千葉館山のキリスト教宣教師カルバン夫妻の、極貧層結核患者への福音医療=施療院を頼ることになる。千葉房総で、長女京子とともに孤絶した生活をおくる節子を支えたのは、夫の残した原稿や日記など作品が散逸しないようまとめる作業だった。出産をひかえた体に肺結核という病。しかし、出産までの日々、夫の残した遺稿の調書をまとめ上げる作業の中で、結婚前に熱く交わした言葉、自身が吐いた言葉をひとつひとつ抱きしめ、「砂山の砂に……」を「これは私のことだ」と強く思ったに違いない。
6月14日、節子、次女房江を出産。
6月20日、第二歌集『悲しき玩具』刊行。
7月30日、天皇睦仁崩御。明治は終った。
夢を追い、夢を食った啄木らの、青年明治は破綻し、軍国昭和への道を築き拓いた天皇睦仁は、命を終えたのである。
大正となった9月、節子はやっと二児を連れ実家のある函館へ戻る。
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1913年(大正2)
正月、病状は悪化し節子 二人の娘を実家に預けて入院する。
東京、函館の2ヶ所で行われた啄木一周忌の集にも出席できず。
節子実母トキが京子と房江を育てることを約束。節子は、哀しみの中にも病院の中で遊ぶ京子(6歳になっていた)を見ることができた。
節子が入院中に残した短歌
「六号の婦人室にて今日一人死にし人在り 南無あみだぶつ」
「わが娘 今日も一日外科室に 遊ぶと言ふが悲しき一つ」
5月5日、節子死亡(27歳)。遺児二人は節子の実父母が養育。
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1930年(昭和5)
長女京子 次女房江、相次いで死亡。京子(24歳)には幼い二児あり。
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かつて、堀合家から節子との婚約の承諾を得た時(1904年、明治37年1月)、十七歳の啄木は手放しの歓びを表明している。
「余がせつ子と結婚の一件また確定の由報じ来る。
待ちにまちたる吉報にして、しかも亦忽然の思あり。
ほゝゑみ自ら禁ぜず。友と二人して希望の年は来りぬと絶叫す。」
明治にあっては、結婚し、家庭と生活を維持するということのその根本に於いて男の生業の確立・収入の確保は前提条件だった。若すぎた婚姻だった。男が家族を食わすのだという黙契、幼子を抱えて女性が働く場とて無い社会……明治という時代の制約に翻弄され、時代の黙契にやはり囚われていた啄木。「早すぎた」芸術カップルは時代の重圧と己たちの限界に追い詰められて行った。
もし、父が住職罷免となっていなければ、もし啄木が妻が働くことを認めないという「常識」の壁を越えていたら、もし病魔を上手く撃退できていたら……とは思う。思うが、であれば啄木全巻は日の目を見ていないに違いない。
「砂山の砂に……」は、1910年(明治43)発行『一握の砂』所収だが、冒頭に「明治四十一年夏以後の作一千余首中より五百五十一首を抜きてこの集に収む。」とあり、仕事や生活、貧困や家庭内事情の蹉跌のただ中の作歌だ。
同じ『一握の砂』に探すと、妻節子への想いを告白している。それが垣間見える。
「わが妻のむかしの願ひ 音楽のことにかかりき 今はうたはず」
盛岡女学校に通っていた節子は、当時としては珍しくバイオリンを習い歌も上手かったという。父、盛岡上田の士族堀合忠操は後年啄木との結婚を渋々(節子の頑なさや、姉の脅しはあったが)認めたのだが、女性の向学心や社会性に「理解」ある人物だったのだろうか……。いずれにせよ、周囲の子女より知的世界情操世界に触れて育った節子は「音楽のこと」への夢を持っていた。それを含む節子の希いと可能性を自分は潰したのだという自戒ではある。そこに偽りは無い。
「何がなしにさびしくなれば出てあるく 男となりて三月にもなれり」
これは、未公開だった啄木の「ローマ字日記」(1970年代に公刊)に登場するという、啄木の娼妓放蕩三昧のことだろう。むしゃくしゃしては、なけなしの金を持ち出し、色街に出歩いていたのだろか、……ったく。
社会的評価・肩書・収入に報われず、悶々としていた啄木はこう詠む。
「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買ひ来て妻としたしむ」
こう出られては妻への深い理解・感謝・労わり・謝罪であり、自身への自省・自戒・相対化「のようなもの」だろうと思いもする。だが、実は繰り返しては謝り・甘え・抱擁さえする、DV夫のように始末に悪い。節子は義母との確執を抱える日常の中に在って、ここに詠まれた妻像を果たしたのだ。お互い相手から離れられなかったある「絆」を感じると同時に、そこにこの男女の相互依存と「宿業」、節子の哀れを思う。
節子が恋人啄木に求めたものは、処世としての成功・経済力ではなかった。「理想の国は詩の国にして理想の民は詩人なり」……・。少女が描いた「詩人」こそが彼女の理想だったのである。生きて行く為に必要な現実的な条件を考慮の外に置けるほど、節子の幼い「信頼」は濃いものだった。ある意味では、啄木もそれに応えようとしたのだ。「初恋」の罪ではある。
節子は、「初恋」のときの少女的信頼「狭きアジアの道を越え、立たん曠世の詩才、君ならずして誰が手にかあらんや」から決して降りないところに自身を据え、その「いたみ」を生きることの核とし矜持とし、それをもって、云わば恋愛に於ける「非転向」を貫いたのか。「愛の永遠性なると云ふ事を信じ度候」との宣言が必然的に、全ての退路の遮断であったと言えはしまいか……。
啄木が無謀な選択をするたびに、結局それを受け容れた節子。東京で名を遂げるはずの啄木を待ち続けた節子。未熟(社会生活的に)で早熟(表現領域での)な、そして名を上げることばかり夢見ている青年の、「爪先立」った「背伸び」のように持続困難な姿勢の「無理」が、成就し(てしまっ)た「初恋」の「病理」として巣食っていた。人が「初恋は成就しない」あるいは「してはならない」と言うのには理由があるのだ。
最後の日、節子は病院にあつまった実家の人々に「みなさん、さようなら」とあいさつしたという。二人の娘を実家に託し、夫の遺稿を友人に託し、節子は静かに夫の後を追って逝った。
いま、唐澤まゆこのソプラノの歌声が、「初恋」を「信じたく候」と訴えた節子の声となって迫ってくるのだ。劇画『「坊ちゃん」の時代』(全五巻、双葉社)第三巻『かの蒼空に』は「啄木篇」なのだが、そのラストシーンの上野駅が浮かぶ。
明治42年6月16日。たまりかね、函館から幼い京子と姑カツを伴い上京、ホームに降り立つ節子。金田一を伴って迎えに来た啄木。小樽駅の別離れを経て釧路へ、釧路から東京へ、東京での蹉跌……しばらく振りの再会の、ぎこちなくどこか白々しい感じを、劇画は活写していた。
ふと、「初恋のいたみを……」の一首は啄木の歌である以上に、95年前、函館の病院で、二十七歳で亡くなる時、節子の脳裏に去来した「十五の春」への想いであるに違いないと思えた。「いたみを遠くおもひ出づる日」が、さながら、啄木の上の句「砂山の砂に腹這ひ初恋の」に続く節子の下の句だと思え、不覚にも込み上げてしまった。
あの歌は、期せずして節子の独白だ。節子のものだ。彼女の「生」の証しだ。
啄木ではなく、節子こそが「初恋のいたみ」に殉じたのだと思えて来る。合掌。
★プロフィール★橋本康介(はしもと・こうすけ)1947年、兵庫県生まれ。1970年、関西大学社会学部除籍。1977年、労働争議の末、勤務会社倒産。5年間社屋バリケード占拠の中、仲間と自主管理企業設立。1998年、20年余の経営を経て、同企業及び個人、自己破産。2002年、『祭りの笛』出版(文芸社)。フリーター生活開始。2006年、『祭りの海峡』出版(アットワークス)。現在、東京単身出稼ぎ業務中。
Web評論誌「コーラ」08号(2009.08.15)
コラム「コーヒー・ブレイク」その2:啄木の妻──節子の「初恋のいたみ」(橋本康介)
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