パレスチナ問題

 

1.パレスチナ問題の本質は「土地問題」

(1)デイアスポラ
 今から3千年前(BC1000年頃)、パレスチナはユダヤ人の土地だった。ところがAD.1世紀、ユダヤ人はローマ帝国によってここを追い出され、その後2千年近くにわたって世界中を放浪し (ディアスポラ)各地で迫害され続けてきた。

 19世紀末のシオニズム運動をきっかけに、ユダヤ人たちが再びパレスチナに集まり始め、自分たちの国家をつくる運動を展開し始めた。しかし、放浪していた2000年の間に、当然、パレスチナにはすでに別の人々(パレスチナ人)が住んでいた。

パレスチナはいったい誰のものなのか。一つの土地をめぐって、ユダヤ人とパレスチナ人の血なまぐさい争いが始まった。

 

嘆きの壁

 

(2)こじれたきっかけ
 問題がこじれたのは、第一次大戦中、トルコと戦っていた英がアラブ・ユダヤ双方に対して、戦争に協力することと引き替えに、パレスチナにそれぞれの独立国家をつくることを約束したことに始まる。

アラブ(パレスチナ人)との約束をフサイン・マクマホン協定、ユダヤ人との約束をバルフォア宣言という。第一次大戦後、約束の履行を求められたイギリスは結局この問題を解決できず、第二次大戦後、国連にげたを預けてしまった。

3)4度にわたる中東戦争
 国連は1947年、パレスチナ分割案を可決した。ところが国連の案は、アラブ側に不利であったためアラブ側がこれを拒否。1948年のイスラエル建国と同時に双方の間で戦争が始まった(第一次中東戦争)。

その後、4次にわたる戦争でイスラエルは領土を拡大した。とくに1967年、第三次中東戦争でイスラエルはゴラン高原、ヨルダン川西岸、ガザ、シナイ半島を占領した。これに対して国連安保理は同年ただちに占領地からの撤退をうたった決議242号を採択した 。

シナイ半島は1982年に返還されたが、ゴラン高原及び東エルサレムは法律 でイスラエル領に編入された。

4)パレスチナ難民
 こうした一連の紛争の過程で250万人に及ぶパ レスチナ人がイスラエルに追われ、家や故郷を失いパレスチナ難民となって周辺のアラブ諸国などに逃れていった。 パレスチナ難民は、これをイスラエルによる「ナクバ」(アラビア語で「大破局」を意味する)と呼んだ。

彼らは1964年に領土なき国家・PLO(パレスチナ解放機構)を組織し、アラファト議長を中心にイスラエルと激しい抗争を繰り広げた。

(5)遠い和解への道
 イスラエルでは一般に労働党が左派・良識派を代表し、リクード党は右派・領土問題妥協拒否派の支持を集め、積極的に入植政策を展開する。1993年9月 、イスラエルのラビン首相(労働党)とPLOのアラファト議長は、パレスチナ暫定自治協定に調印し、ようやく和平に向けた歴史的和解の第一歩踏みだした (オスロー合意 1993年)。

 しかし、ラビン首相はその後右派により暗殺された。かつて、イスラエルと和解したエジプトのサダト大統領も、アラブの裏切りものとして自陣営から暗殺された が、下手に妥協すると、味方の陣営から暗殺される。そこに、この問題の難しさが象徴されている。

 ファタハを率いてきたアラファトは2004年に死んだ。2006年、非PLO系のハマス(アメリカはハマスをテロ組織と指定する)が第一党となり、アラファトの後任となったアッバース議長と武装衝突が激化している。パレスチナ側も一枚岩ではないのだ。

一方、イスラエルはテロを防止するためと称して、パレスチナ人居住区との間に分離壁を建設しており、解決の見通しはまだまったく立っていない。

 

 

 

2.双方の言い分

 ユダヤ・アラブ双方の言い分をまとめると次のようになろうか。

ユダヤ人の主張  聖書の中に「その日、主はアブラムと契約を結んで言われた、『わたしはこの地をあなたの子孫に与える。エジプトの川から、かの大川ユフラテまで』」(聖書、創世記第15章)とあるようにパレスチナの土地は神から与えられた土地である。

したがって、「イスラエルの土地に対するアラブの領有権の主張は、盗難車の場合と同じだ。何百年使っていようが、いくら修理に金をかけようが、正当な所有権は初めに持っていた者に属するのが当然だ。

ユダヤ人から最初に土地を盗んだのはローマ人だが、その後アラブが手に入れたからといってアラブに所有権はない。」(『エルサレムは誰のものか』 平山健太郎 NHK出版)

パレスチナ人の主張  聖書になんて書いてあろうと、そんなことはわれわれには関係がない。

はっきりしていることは、われわれの土地に突然ユダヤ人がやってきて、イスラエルという国を建国したという事実だけだ。

ユダヤ人はパレスチナの土地を盗んだ泥棒だ。そのため600万人のパレスチナ住民のうち300万人近くが難民となり、200万人がいまもガザとヨルダン川西岸に不自由な生活を送っている。

彼らを地中海にたたき込むまでは戦争をやめない。百歩譲ってイスラエルという国を認めるとしても、少なくとも1967年の第3次中東戦争で占領したガザとヨルダン川西岸は返還すべきだ。

 

イスラエル旅行記(1994年)を読む

                 

 

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