イスラエル4000年の歴史を訪ねて
(1994年1月1日〜1月9日)
旅行記その1

 

1、イスラエルのあらまし

建国 
 1948年
面積  
 約21000平方キロメートル(ほぼ四国と同じ面積。ただし、ヨルダン川西岸及びガザ地区を除く)
地形
 南北約450キロメートル、東西は一番広いところでも130キロメートルほど。西の地中海から東の死海まで車で2時間ほどで行ける。国の中央に南北に向かって中央山脈が走リ、国土全体が丘のようになっている。エルサレムは標高835メートル。死海は海抜下398メートル。ヨルダン川・死海の地溝帯はシリア・アフリカ地溝帯の一部である。イスラエル南部にはネゲブ砂漠が広がり、その先端はアカバ湾に面している。       

 

 

 

 

 

 

 

 

首都
 エルサレム(60万人、ただし東エルサレムを含む))
都市
 テルアビブ(行政機関所在地35万人)、ハイファ(25万人)など、多くは地中海側に位置する。そのほかナザレ(5万人)、エイラット(3万人)など。
人口
  596万人(ユダヤ人490万人、パレスチナ人約100万人、その他)。
その外、ヨルダン川西岸、ガザ地区などにイスラエル国籍をもたないパレスチナ人180万人が住む。イスラエルでは、学校はユダヤ人用とアラブ人用が別々に政府によって建てられる。一緒の学校には絶対に行かない。学校も法律も2本立てである。
 なお、現在の世界のユダヤ人人口は、アメリカの約600万人、旧ソ連の約200万人などを合わせると約1400万人になる。
言語
 ヘブライ語(ただし、道路標識などはアラビア語、英語も併記)
通貨
 1シェケル=約30円
一人あたりGDP
 1万6180ドル(1998年)
政党
 保守的なリクード党と労働党があるが、近年は小党乱立気味。1977年にリクード党が戦後初めて労働党から政権奪取した。リクード党は占領地への入植政策を積極化した。 
兵役の義務
男子は18才から21才の3年間、女子は18才から20才の2年間の兵役の義務が課せられている。
気候

  11月〜3月は冬で雨季。残りの7ヵ月は夏で乾季、雨が一滴も降らない。
土地制度
 イスラエルの土地は全て国有である。
産業
 イスラエルの最大の産業は農業。地中海に面したシャロンの野でかんきつ類が栽培されている。2番目が観光。年間100〜200万人が主としてヨーロッパから訪れる。そして、3番目がダイヤの研磨。日本のダイヤの40%はイスラエルからのものである。                

 
(ヨルダン川西岸の畑)           


(ダイヤの研磨)


(↑くつろぐイスラエル女性兵士)

 

2、歴史
 現在のイスラエルを理解する上で、その歴史を知ることは大切である。ユダヤ人の経典である『旧約聖書』には、ユダヤ人の歴史が事細かに書かれてあり、その律法は今なおユダヤ人の民族的絆となっている。

第一神殿・第二神殿時代
 ユダヤ人(アブラハムはその伝説上の始祖)は、紀元前2000頃にパレスチナに定着し、前1700年頃に一部はエジプトへ移住した。しかし、そこで迫害を受けたため前1230年頃 モーセに率いられエジプトを脱出(出エジプト)、途中シナイ山で神から律法(モーセの十戒)を授かった。

 旧約聖書の最初の五書はモーセ五書とよばれ、その中の『出エジプト記』『申命記』に十戒が書かれている。十戒はいまでもユダヤ人の生活の基本的指針となっている。

 前1020年にヘブライ王国の王政が開始された。初代国王はサウル王、2代目がダビデ王。第3代目のソロモン王の時エルサレムに神殿が建設された(前960年)。この頃がユダヤ人の絶頂期とされる。その後、前922には王国はユダとイスラエルに分裂し、前722年にイ スラエル王国はアッシリアにより滅亡。一方ユダ王国も前586年に新バビロニ アによって滅ぼされてしまった。この時第一神殿は破壊され、ユダヤ人はバビロンにつれ去られてしまった(バビロン捕囚)

 ユダヤ教は、このころの苦難の中から誕生したといわれる。前538年、バビロニアからの帰還を許され、エ ルサレムで神殿が再建された。再建後は第二神殿時代といわれ、前1世紀にはユダヤ人が独立し栄えた時期もあった。

 

ローマ帝国の支配
 しかし、前63年からパレスチナはローマ帝国に支配されるようになり(〜AD313)、 前37にはヘロデがローマの援助で王となった(〜BC4)。ヘロデはユ ダヤ人ではなかったために尊敬されていなかった。そこでユダヤの尊敬を勝ち取るために第二神殿を大きなものに改修した。

 紀元後66年、ユダヤ人はローマに反旗を翻した。しかし、70年にエルサレム及び第二神殿は破壊され、73年にはユダヤ人の最後の砦であったマサダ要塞が陥落した。132年の第二次ユダヤ戦争にも 破れ、この あとユダヤ人は完全に流浪民化した。


「嘆きの壁」(現在残っているはヘロデ王時代の擁壁の一部である。 )

 

ディアスポラ(離散)の時代
 約2000年間にわたるディアスポラ(離散)の時代に、ユダヤ人たちはヨーロッパやロシアなどを放浪し、世界各地で迫害を受けた。ユダヤ人の住んでいたパレスチナの土地には、その後別の人たちが住むようになり、彼らはパレスチナ人と呼ばれるようになった。

 パレスチナはその後、636年からアラブの支配するところとなり、さらに1517年からはオスマントルコの支配下に入った。(〜1917)  

 

イスラエルの建国


 
(↑写真、シオンの丘)

ユダヤ人が再びパレスチナに国家を作ろうというきっかけになったのは、1894年のドレフュス事件である。これ以降彼らは、シオニズム運動とよばれる建国運動を開始する。

 1915年、イギリスは第一次世界大戦を有利に戦うためにマクマホン書簡によってアラブの独立を約束した。その一方でイギリスは、1917年にはバルフォア宣言によってユダヤ人にも国家の建設を約束した。1920年に、一端はイギリスの委任統治(〜48)となったものの、一つの土地をめぐる紛 争はその後もつれ、第二次世界大戦後紛争は国連に持ち込まれた。この間ナチスによって600万人のユダヤ人が大量虐殺(ホロコースト)されるという悲劇も起きた。   

 国連は、1947年にパレスチナ分割案採択。翌、1948年にはただちにイスラエルの独立が宣言され、周辺のアラブ諸国と第一次中東戦争が展開された。その後、1956年には第二次中東戦争(スエズ戦争)、1967年には第三次中東戦争(六日戦争)、1973年には第四次中東戦争が行なわれ、周辺のアラブ諸国と戦った。

 4度の戦争でイスラエルはことごとく勝利を収めた。特に第三次中東戦争でイスラエルは、ヨルダン川西岸、ガザ、ゴラン高原、シナイ半島を占領(シナイ半島は後に返還)し、領土を拡大した。

 その後、1992年に15年ぶりに政権を奪取した労働党のラビン内閣は、1993年PLOのアラファト議長と暫定自治協定に調印し、和平に向けて大きな前進を見せた。さらに、1994年にはガザ、エリコに関する先行自治協定も調印された。しかし、中東問題の解決にはなお多くの課題が残っている。

 

3、パレスチナ問題の本質は「土地問題」

 以上に述べた歴史的経緯からもわかるように、パレスチナ問題の本質は「土地問題」であるといってよい。多くのユダヤ人にとってパレスチナの土地は神から約束された土地であり、地球上の他のどの土地とも代わることが出来ない土地である。聖書には、パレスチナ(カナン)がユダヤ人に約束された地であるとする次のような記述がある。

 その日、主はアブラムと契約を結んで言われた、『わたしはこの地をあなたの子孫に与える。エジプトの川から、かの大川ユフラテまで。すなわちケニびと、ケニジびと、カドモニびと、ヘテびと、ペリジびと、レパイムびと、アモリびと、カナンびと、ギルガシびと、エブスびとの地を与える。』」(聖書、創世記第15章)

「『わたしはあなたと後の子孫とにあなたの宿っているこの地、すなわちカナンの全地を永久の所有として与える。そしてわたしは彼らの神となるであろう。』」(聖書、創世記第17章)
 
(↑ 写真 どこも石ころだらけの土地だった)

 それゆえ、「イスラエルの土地に対するアラブの領有権の主張は、盗難車の場合と同じだ。何百年使っていようが、いくら修理に金をかけようが、正当な所有権は初めに持っていた者に属するのが当然だ。ユダヤ人から最初に土地を盗んだのはローマ人だが、その後アラブが手に入れたからといってアラブに所有権はない。」(『エルサレムは誰のものか』 平山健太郎 NHK出版)という主張を当然と受けとめる人は多い。

 ユダヤ人にとっては2千年間の時間の流れも、「契約」という概念の前では昨日のことに等しい。しかし、百年前の証文さえ意味をなさない時代に2千年前の証文が有効といえるのか。

 その上、ユダヤ教徒が彼らの神との間にかわした「契約」などアッラーの神を信ずるイスラム教徒に対して説得力などあろうはずもない。「千数百年来の人の土地に入ってきてそれを奪おうとしている」というパレスチナ人の反発は強い。

 

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