「お久しぶりね、デュラン」


落ち着いている、なのに、切迫を秘めた、甘い声がする。
許されないはずなのに、俺は、思わず瞼を開いてしまった。
其処には、白のシフォンドレスに身を包んだ___アンジェラが佇んで居た。

彼女の囁きが、都の喧噪の中へ、掻き消されて行く。
騒めきと、七色の光が、透けるシフォンと、白い肌を包んで居る。
深く煌めく、翡翠の瞳。
其の瞼が、ゆっくりと閉じられては、黄昏に沈んで行った。


まるで<マナの女神>のような姿___。


けれども、次の瞬間のアンジェラは、当時のままに戻る。
服が違うだけで、アバズレ感は健在だ。
王女の癖に、締まりがないムードも、そのままだ。
そんなアンジェラが、コロコロ笑いながら、ごくフツウに話し出した。


「お手紙のお返事と、プレゼントのラビ饅頭、あ・り・が・と!
季節ごとに、チャンとお返事をくれるなんて、案外マメだったのネ、デュランって。
ダケド、手紙内容が、いつも『俺も元気だ』だけって。
それはどうなの?」

「・・・そ」


『それは、お前もだろう!』と言い掛けて、俺は、寸止めをした。
今は、ひたすら堪えるのみだ。
此処は、檀上・・・。
誰もが俺達を見て居る。
・・・だから。


「要件が在るのなら、後で伺いましょうか。
___王女殿下」


いつものように、乾いた声で、答えるだけだった。
俺は、瞼を閉じたまま、アンジェラの姿を、もう見ないで済むように、背を向けた。
けれども、そんな俺に。
瞼の向こうで、背中の後ろで、慈愛の籠った微笑が向けられた事が、気配で解ってしまう。
『ンもう、しょうがない子ネ!』と言わんばかりの溜息や。
冒険中と変わらない、年上ぶった声が、落ちて来る。


「何だかんだ言って私達、もうアルテナではよく逢うじゃない。
3年前からでしょう?
アンタも、団長さんについて、よくウチまで来るようになったのはネ」

「・・・」

「私、とても嬉しかったわ。
最初は、遠目からだけでも、デュランに逢えたのだもの。
だったら、其の後は、ずっと自然の成り行きだったって、そう想えるの。
だから、今も、そのハズだと信じてる。
なのに、貴方にとっては、違うのかしら?
デュラン・・・」

「・・・ですが、殿下」

「___<アンジェラ>って、呼んで」


___アンジェラの甘い声___。


容赦無く降り注ぐ音。
俺は、蜜のような声を振り払うように、無言のまま、此の舞台から立ち去る事を、強く願った。
其れなのに、何度も舌打ちをしながら、大股で、舞台裏へと、歩を進めるしかなくなるんだ。
アンジェラは、俺の判断を見越していて、間を空けてついて来るから、尚タチが悪い。
此れも・・・いつもの事だ。

ビロウドのカーテンを抜けて。
暗闇の深くなる、奥深くまで。
誰が来たとしても、決して目につかないと解る、奥の奥まで・・・。
二人で、深い闇の奥へ、向かうしかなくなる。

嫌になるほどの、いつも通りの工程。
今夜は場所が違うだけ。
『仮面の道士』の壁画が掛かった、大道具置き場の、漆黒に塗りつぶされた巨大なキャンバスの___。
其の背後まで。
俺達は、逃れるしかなくなる。
壁画の裏で、俺は、アンジェラを___。
強く、抱きしめた。


「・・・」


沈黙が、深い暗闇の奥を、流れて行く。
俺が乱暴に扱うせいで、アンジェラの着衣が乱れて行く。
絹ずれの音だけが、暗闇に、木霊す。
俺は、もう___。


「・・・ッ!」


無理矢理、着衣を正して見せた。


「・・・此れで、満足か」


微笑を浮かべたままで、濡れた翡翠の瞳が、見守る様に、俺の事を見つめて居る。
さっきよりも、ずっと乱れた、甘い声が振り注いで来る。


「ん・・・っ・・・ダ、メ。
だって、私達・・・家族でしょう?
もう・・・」


けれども俺は、甘い余韻も、分かちがたい温もりも、断ち切るように。
抑えた声音のまま、鈍く唸る。


「・・・っ、何度言ったら、解る。
もう、駄目だ・・・。
お前は、いつも、目立つやり方ばかりをする・・・!」


其の時、天井から吊るされた、薄いキャンバスの向こうから、沢山の人声と、足音が近づいて来た。
騒めきと喧騒が、静寂の暗闇を破る。
俺は、息を殺し、聞き耳を立て、高鳴る心臓を抑え、冷静なフリをして・・・。
アンジェラを叱った。


「いいか、アンジェラ。
お前は、3か月後には、戴冠式なんだ。
そうなれば、お前が、アルテナ国の王なんだ。
・・・代わりは居ない。
だから、もう駄目だ。
アンジェラ、お前は、いつまでも俺が、お前を庇い切れると想うのか?!」


けれども、アンジェラは、平然としたままだ。
サラリと、最後についたドレスの皺も、直してしまう。
そして、明るい声のまま、アッケラカンと言い放った。


「あら、デュランなら、大丈夫よ。
アンタなら、私の背中を支えてくれるって、信じれるもの。
だって、デュランは、ちゃんと約束をしてくれたわ。
私とは『家族だ』って。
だから、これから先に、何が起こったとしても・・・。
きっと平気よ」


『エヘヘ!』とハニカミながら、落ちたティアラを拾い、長い髪に絡ませて行く、アンジェラ。
細いうなじに、白銀の葉と黄金の弦が、ゆっくりと巻き付いて行く。
アンジェラは、器用に、乱れた髪も指先だけで整えて行くから、もう何処にも俺の跡が無くなる。
最後に、アンジェラが、柔らかな髪を掻き上げた時___。
其処には、魔法王国の王女が在った。


「安心なさい、デュラン。
どんな形であっても、私は、必ず、務めを果たすのだから」







数時間前・ウィスプの刻
___光の神殿<イルージアの庭>


俺は、午前中の聖都という場所は、歩いて居て、とても気持ちがイイナと想う。
チュンチュンと鳥サンが鳴いてたり、梢が鳴ったりして、いかにも爽やかだからだ。
特に、神殿や寺は、そんな場所の気がする。

俺の傍には、光の神殿が在った。
神殿は、随分古い建物だ。
マメに修復がされているせいで、観る方に、全くそんな気を起こさせ無いが。
実は、千年もの間、此の場所に建って居る<古代遺跡>である。

立ち並ぶ白の列柱は<女神の家>を現して居る。
緑の深い庭や、蒼い水の流れる庭は、<失われた聖域>を表現して居る・・・ンだそうだ!
手元の『光の神殿・観光パンフレット』にゃ、そう書いてある!


「ホークアイ!
遅れて申し訳がありません・・・っ」


今、美しい女神の庭に、黄金色の風が吹き抜けた。
リースだ。
リースは、慣れない物を履いたような足取りで、一生懸命、俺の傍にやって来てくれた。


「いやあ、全然待ってないサ♪
俺の可愛いお嬢さんっ」

「いいえ、約束の時間より、15分は遅れてしまいましたから、お待たせしてしまいました。
面目ありません・・・」

「気にしない、気にしない。
15分も、君を想いながら、森で憩う事が出来た・・・。
俺には其れで十分だ。
こんなにゆっくり出来るなんて、今の俺にはレアだしな。
だから、在り難い時間だった。
待たせてくれた、君のおかげだ」


午前中と言っても、昼が近い庭園は、随分と人で賑わって居た。
ピクニックがてらのランチ客で、芝生広場は一杯だ。
此の庭も、神殿と同じく、千年前から在るらしい。
此処は<イルージアの庭>と名付けられた、古式庭園だった。

植物自体は、千年前から生えちゃいないだろうが、選ばれた品種は、古い物ばかりだ。
庭の造形が、全体的にドッシリとして居る。
リースと俺は、光の神殿の中央に位置された庭園で、3か月ぶりの再会を果たして居た。


「あれから、ホークアイは、お変わりありませんか?
冬にお逢いした時も、とてもお忙しそうでしたね。
私、心配になってしまいます。
貴方に無理が重なっておられないかと・・・」

「こっちこそ、なかなか時間が取れなくて、済まないな、リース。
諸々の制約は、ルールだと思って、楽しむしかないよなあ。
で、今回のライザさんは、何時に帰って来いって?」

「12時です」

「じゃあ、ちょいと早いけど『昼飯ぐらいはOK』ってとこダナ!」


売店が在ったので、マダンゴのサンドと紅茶を買って、俺達は芝生に座った。
まふまふと、サンドを頬張るリース。
そんな、可愛過ぎるリースの向こうには、泉が広がって居る。
楕円形の泉に向かい、一本の大きな滝が、光の神殿から流れ落ちて居た。
庭のド真ん中で、ゴーッと、結構な水量だ。
庭全体が、端正な静けさに包まれて居る中で、中央の滝だけが、イヤに存在感を放って居る。


「・・・ふう。
神殿のお庭って、お城とは、全然違うのですね。
何だか、ちょっとした異世界みたいで、簡単に人が入れる感じがしませんね」

「そうだよなあ。
城の庭は、どんなに綺麗でも、人の生活空間だが・・・。
神殿は<神様の家>だからな。
だけど、俺みたいな男とっちゃあ、水が沢山在るってだけで、何処でも異世界みたいなもんサ」

「・・・」


其の時、まふっと、リースの頬張りが停まった。
コクコクと紅茶を飲む音と、滝の音だけが、暫くの間、芝生広場に響いて行く。
やがて、ずっと考え込んでいた様子のリースが、じっと俺を観た。
空の蒼みたいな、透明な瞳が、俺を映して、揺れた。


「・・・ホークアイ。
とても言いにくいのですが、実は・・・。
ライザは、まだ反対なのです。
私達の取り組みには。
『風の城壁の情報を、ナバールに売るなんて、絶対にいけない』と。
未だに話も聞いてくれません」

「・・・リース」

「だけど、城壁の技術が在れば、砂漠の灌漑施設が、もっと良いものに出来ますよね。
お水だって、もっと沢山、水源から引けるのです。
それなのに、何故、ライザは反対なのでしょうか?
私には、解りません。
何だか、今の私も、名前だけの外交官みたいで・・・。
でも、私達は、絶対に、間違ってはいないはずよね。
だから、私、此れからも頑張りますねっ。
ホークアイ!」


最後に、まふうっ!と、サンドイッチを頬張ったリースが、立ち上がる。
サラッと零れるブロンドの合間から、薄化粧を施した唇が観えた。
21歳のリースは、少しだけだが、大人びたと想う。
俺は、そんなリースを応援する為にも___。
君の前では、ずっと、笑みだけを。
与える男で居たいと願った。







夕暮れのウェンデルは、まるで、違う街のように観える。


燃えるような夕日が、黄金色の街を染め上げ、やがて、黄昏へと沈み、闇に堕ちて行く。
闇夜に沈んだ路地裏には、何処からともなく、独り、また独りと、派手な衣装に身を包んだ女達が立ち始めた。
もう、服とは呼べない布を、巻いただけの子供達。
女子供が、花を差し出しながら、俺に『買ってくれ』とねだり続ける。
俺は、群がりながら、差し出される手を、優しく振り解いて行った。

聖都の路地裏から、一歩外に出れば、安宿と酒場が、何処までも並んで居る。
ウェンデルの中でも、南端の外れに当たる、此の地区は『そういう場所』だ。
ウェンデルは、公式に、此処らの一帯を、都の一部だとは、認めちゃあ居ない。
けれども、実際には、此れだけ多くの人間が、街外れには住んで居る。

それでも、聖都サンは、此の街と自分達は、別物だと言いたいようだ。
地区の外れには、区切りを入れるように、白くて高い壁が聳えて居た。
高い壁には、瑞々しい、緑の蔦が絡まって居る。


「チッ。
全く、こんな場所で、初デートの待ち合わせとはな」


俺の手元には、昼の内に配り終わった物品のリストと、一枚のメモが在った。
今回の仕事の依頼人が、俺に渡したメモだ。
『午後6時 <奈落の壁>にて待て』そう短く書いて在る。

あんな美人の誘いを、俺には無下に出来ん。
呑み会の誘いをくれた、デュランにゃあ悪いが・・・。
呑み相手を顔だけで判断するのなら、俺は、間違いなく、依頼人を選ぶ。

其れに、何と言っても、俺のお客サンだ。
其れも飛び切りの上客。
条件が重なり過ぎて、断れない相手である。
15分どころでは無く、ガチで遅刻をかましてくれちゃあ居るがな。
こんな相手なので、本当の処は気乗りがせんが、仕方が無い。

やがて、俺の目前に、一台の馬車が留まった。
明らかに、俺の正面についたまま、5分間も動かない。
つう事は、だ。


「あのう、すんません。
俺は、コイツに乗れと、それでイイのカナ?」


御者に名前を聞かれ、素直に『ホークアイだ』と答えると、即『乗んな』となる。
という事は、やっぱり、車の雇い主は、俺の客なのだ。
聖都御用達の車である証の、ウェンデルの紋が、車体には刻まれて居た。

車に乗り込むと、所定のルートで運ばれて行く。
揺れる車窓の向こう側にも、余り拝みたくは無い景色が広がった。
まだ、南端の街でも、生きて住めて居たのなら、女も子供も救われて居たのだろう。
眼を背けたくなる光景が、其処には広がって居た。

其れは『墓地』だ。

それも、墓地と呼んでいいのかも、解らんような森。
スラム街で死んだ者が、投げ捨てられるだけの場所。
まだ生きている者も居るが、病を持って居るか、あるいは年老いて・・・。
後は、死を待つだけの連中。
人間の成れの果てが、枝葉の奥で蠢いて居る。

響き渡る啜り泣きを、蟲の音が、辛うじて掻き消して居た。
老いと、病と、死が、車窓を流れて行く。


「しかし、旦那も、運が悪いねえ。
あんな奴らを、祭の日に観るとは、ツイてない。
でもね、此の道しか無いんですよ。
___神殿の裏側へ抜けられるのはね」

「・・・へえ。
いつも、こんなアゼ道が、聖都サン御用達なのかい?」

「最近じゃあ、使う事が、めっきり減りましたけどね。
でも、昔は、よく通ったもんです。
光の神官とは言っても、生きた人間の集団ですよ。
ワシらは、それはもう、色々と運ばされたもんですから」

「・・・」


其処で、ブツリと会話が途切れる。
後は、揺れる車窓の向こうに、黒い森が広がるばかりになった。

やがて、森が途切れ、湖沿いの小道を、車は走って行った。
窓に映る湖面は、風が凪ぐ事も無いなら、まるで鏡のようだ。
動かない、漆黒の鏡面に、満月が映る。

俺が、月に目を留めた時、車も留まった。
ルクを払う事も無く、俺は馬車を下りる。
眼下には、視界一杯に、漆黒の世界が広がって居た。

___夜のアストリア湖。

其処では、満月を中心にして、黄金色の波が、ゆっくりと波紋を広げてゆく。
ちゃぷんと揺蕩う波音が、湖面の風と、戯れて行った。
異界へと至る扉。
もし此の世界に、そんな扉が在るとしたら、其れは、湖面に映る月なのかもしれない。
『異界は生きた人を拒む』と、遠い昔に、誰かから教わった事を、俺は思い出した。


「かつては、此のアストリア湖も」


其の時。


サク、と、夜露に濡れる草を、踏み分ける音がした。
車が去る音と、草の音に混じって、透明な声が、俺の背後から・・・近づいて来る。
俺は、湖面を睨んだまま、懐のダガーに意識を向けた。
客は、飛び切りの美人だ。
けれども、危険な匂いがする人だから。


「古の伝承によると、本当に、湖面に映る満月の事を、<魔界への扉>と呼んだそうだよ。
月が魔界の入り口だと、当時は信じられていたようだね。
其れは、千年も昔の事だ」


サク。


草を踏み分ける音に混じって、蟲の音が、静かに響いてゆく。
草と蟲の音色に、厳かな声が、幾重にも折り重なって、流れて行く。
___まるで『祈り』のように。


「其れは、マナの女神が生まれる、ずっと昔・・・。
何処とも知れぬ、遥かな次元の話。
世界は、独りの魔女によって、闇に包まれた。
<アニス>と言う名の其の魔女は、やがて、樹の守り人によって、打ち滅ぼされたと言う。
しかし、其の闇と呪いは、数多の次元を貫いて、あらゆる世界に降り注いだのだ」

「・・・あの、ソイツは。
観光案内とか、そんなノリなのカナ?」

「<今の君>は、そう思ってくれ給え。
私は、気の赴くままに、古文書の序文を諳んじたまで。
千年前が、懐かしくてね。
聖都の観光案内には、決して乗らない、古代の文章を、愛でて居るだけだよ」

「・・・」

「古の人々は、異界の存在を、肌で知って居たのだろう。
・・・いい時代だった」


俺のすぐ背後で、足音が止まった。
夜風に乗って、黒い森と、土の香が舞う。
余り、振り向きたいとは、思わなかった。

今も、目前には、満月を映す湖面だけが在る。
遠くから、祭の始まりを告げる、鐘の音が木霊してゆく。
劇の開演が近い。


「・・・手短にお願いします。
俺も、祭は楽しみたい派で、生憎、古典を愉しむタチでも無い。
教養は、老後の愉しみにして置きません?
俺、貴方とは、夜店でデートをしてみたいナ☆」

「まあ、もう少し付き合ってくれないか。
ホラ、劇が、今年も始まったね。
あの忌々しい惨劇が。
其の残虐性に<君の中の君>なら、もう気付いているはずだよ。
例え<表面上の君>が、少しも気づいていなくとも、ね。
そうだろう?
___<闇の力を得た、ホークアイ>君___?」

(・・・!?)


其の時、風に乗って、遠くから、歓声が聴こえて来た。
聖都の僧侶が、高らかに、詩を読み上げて居る。


______麗シキ、我ラノ女神ヨ!


其の時、俺は、俺自身は望んでも居ないのに、振り向く事しか出来なかった。