誰かが、泣いて居る。
揺らめく光の向こう側で、独りの子供が膝を抱えて居た。
其れは、3歳ぐらいの子供だ。
俺は、目をこらし、子供を観ようと思うが、揺れる視界に遮られる。
だから、顔は、解らない。
其の子供に、今度は、子供より大きな少年が近づいた。
少年は、金髪を揺らし、子供に手を伸ばす。
『・・・お前、何処から来たの?』
子供は、問われた。
子供は、力無く首を振った。
まだ、ろくに喋れる年齢では無いからだ。
生きる為には、泣く事しか出来ない、小さな子供だからだ。
其れをすぐに悟って、金髪の少年は、微笑を浮かべた。
『すまん、言えないよな。
ナバールは、そんなのばかりだから、気にするな。
それより、コイツを食べるか?
喉は?
・・・乾いては居ないか?』
少年は、泣いている子供へ、果物を差し出した。
半分に割られた実を、飢えていた子供は、奪う様に捕った。
ガツガツと、果汁を啜りながら、獣のように食べた。
そんな子供の姿を、愛しそうに見つめながら、金髪の少年は語る。
『なあ、お前。
俺が食い物を持ってきた事は、皆に内緒にしてくれよ。
今は乾期で、他の奴らも苦しい時期だ。
ホントは、誰も、特別扱いなんか出来ない。
でも、お前はまだ、こんなに小さいから・・・。
だから、俺の分を、半分やろうな。
元々俺のだし、別にいいハズなんだが、立場上、見つかると・・・色々と面倒臭くてな!』
困ったように頭を掻きながら、金髪の少年は、子供を抱き上げようとする。
子供は、6歳程度の少年にゃあ、でかいサイズの子供だ。
少年には、結局、重くて抱き上げられなかった。
それでも、子供は、抱かれた事で、とても安心したようだ。
もう泣いては居ない。
オズズオズと、少年が差し出した手を取って居た。
口の周りを、果汁でびちゃびちゃにしながら、笑って居る。
そんな子供に、少年は、優しく微笑みかけてから、誇らしげに名乗った。
『俺の名前は、イーグル!
・・・お前の名前は?』
■
揺らめきの向こう側に広がって居た、景色が消えた。
代わりに、目前に広がったのは、不思議な壁だ。
白くて、光沢が在り、軽量感がある。
見た事が無いような素材だった。
周囲を見渡すと、四方を壁に囲まれた、手狭な部屋だと解った。
此の部屋には何も無い。
唯一つ、壁に掛けられた、巨大な黒の鏡以外は。
「アラ。
ようやく気が付いたの。
・・・ナバールの坊や」
(!)
漆黒の鏡の前に、美獣が佇んでいる。
俺は、すぐに、クナイを引き抜こうとする。
けれども、出来はしなかった。
身体が思う様に動かなかったからだ。
動かしたかった右腕は重く、見慣れない銀の篭手に変わって居る。
指先までを、紫紺の防具が覆い、全身を、漆黒のローブが覆って居た。
「無理をするんじゃないよ、ホークアイ。
まだ、<闇の力>が、ちゃんと根付いて居ないのだから。
あと小一時間はそうしてなきゃね。
せっかく、黒の貴公子様がくれた時間だ。
・・・楽におしよ」
「・・・。
冗談じゃない。
誰が、お前なんかと、こんな場所で一時間も・・・。
・・・ツ!」
「・・・ホラ、痛いだろ?
ソレは身体の痛みじゃないからね・・・。
動こうと思えば、出来る。
でも、お勧めはしないね。
何せ<闇の力>は、あのイーグルも操った力だ。
どんなに優秀でも、ヒトには荷が重いだろう」
美獣は、フと笑みを浮かべた。
其の顔は『かつては自分も荷が重かった』と言いたいみたいだ。
今の美獣は、魔族の癖に、まるで、人間のような語り方をする。
俺は、軽く吐き気を感じた。
出来る事なら、美獣の顔には、唾でも吐きたいぐらいだ。
人間のフリなんか___。
お前がやるなと。
心底思う。
けれども、重い身体がそれは許さず、今の俺には、美獣を睨むまでが限度だった。
「・・・安心おし。
これから、私は、ローラントのお嬢ちゃんを迎えに行く所さ。
お前は、此処でゆっくりと休んで置くがいい。
・・・黒の貴公子様も、酔狂な事だ。
あんな<女神の僕>が欲しいとは」
「・・・クッ。
忌々しい、魔族どもめ。
リースまで、一体どうするつもりだ!」
「其れは私の知る所では無い。
我が主の判断だ。
ホークアイ、お前も、魔界の手に堕ちた事だ。
ローラントのお嬢ちゃんも、きっと上手く行くだろう」
「・・・。
何故、お前達は俺を捕らえた?
言っておくが、今の俺は、魔王なんぞには仕え無いぞ。
もしも、俺が、協力をするとしたら・・・お前達、魔族の考えを知ってからだ」
俺は、動かない身体のまま、美獣を睨んで問い続ける。
せめて、逃げる前に、相手の情報を盗んでやろうと思った。
けれども、美獣は何も答えず、軽く息を吐くと、ケープを纏う。
イザベラが、いつも纏って居た、ゼブラ模様のケープだ。
美獣が布を纏う時、いかにも女の匂いが___鼻を突く。
俺は、嗚咽に堪える___。
俺は、モチロン、女が好きだ。
だけど、イザベラだけは違う。
死んでも女扱いはしない・・・!
それでも、美獣が鏡の前でルージュを直し、髪を整えていく姿は。
何処から見ても、ヒトにしか見えなかった。
『ホークアイ。
お前は、知って居るのか?
美獣というのは、彼女の魔界における名だ。
元はニンゲン。
当時の名を、イザベラと言う・・・』
俺は、考えた。
もしも、本当に、黒の貴公子が語ったように、かつての美獣が人間で。
それも、将を務めるほどだったなら。
今の彼女は、何故、魔族に堕ちてまで、魔王に仕えて居るのだろう。
「・・・」
美獣は、俺の問いには答えない。
其の代わりに、黒の鏡を、ドアをノックするように3回叩いた。
すると、ずっと硬質だった鏡の表面が、グニャリと柔らかくなる。
鏡は、波紋を広げながら、ヴンと鈍い音を立てた。
嫌に人工的な音だ。
それなのに、リンと鳴る様子は、魔法の鏡みたいだ。
___鏡面の波紋を見つめる、美獣の背中。
大きく開いた素肌は、何も語らない。
それでも、黒の貴公子の名が出た瞬間から、彼女は、よりヒト臭くなったと想う。
其の時、肌を晒した背中が囁いた。
「ナバールの坊や。
お前は、心の底から、人を好きになった事がある・・・?」
美獣・イザベラは___軽く息を吐いた。
其の声は、弱々しくて、いつもの美獣みたいじゃない。
本当に弱ってしまった女みたいだ。
かつてはヒトだった女が、俺に語り掛けて来る。
「私には、あの人が全て」
次の瞬間、美獣は振り返らないまま、鏡の向こうへと消えた。
ヴンと波紋が広がり、鈍い音が部屋中に響く。
彼女は去る。
黒き鏡の向こうへ、波紋を残しながら。
独り取り残された俺は、動き辛い身体で想った。
(・・・あの人が私の全て?)
・・・。
そんな事で・・・。
美獣、お前は、魔界なんかに心を奪われたのか・・・?
___信じられない。
なのに、どうして、今の俺には理解が出来るのだろう。
<美獣>は<魔界の化身>に違い無い。
それでも、美獣が、一人の女として、一人の男を慕う事は・・・。
俺にも解る・・・。
(イザベラ・・・。
・・・哀れな奴)
俺自身は、これからも、イザベラを女扱いはしない。
だけど、本当の美獣は、今まで出会った誰よりも、ヒトの女なんだ。
其れは、知りたくも無い現実だ。
けれども、事実は事実だった。
俺だって・・・。
戦う訳を、誰かに問われたなら・・・。
『大切な人の為だ』と答えるだろう。
______ズクン。
其の時、俺の左胸が、僅かに傷んだ。
物理的に痛いという訳じゃない。
でも、心臓の奥が捩じられるような、鈍い実感が走る。
最初は、僅かに感じられるだけの、小さな違和感だった。
それが___。
(俺の『大切な人』___。
リース・・・。
イーグル・・・。
ウッ)
二人の名を思い出した瞬間から、痛みが、徐々に大きく育ち始める。
やがて、リースとイーグルだけじゃない・・・。
ファルコンの面影も、俺の心に育ち始める。
コノ世界デ、モウ居ナクナッテシマッタ人達ノ影ガ、弾ケル。
「・・・クッ!」
一体、何故だろう。
俺は、息が苦しくなり、立っている事も、覚束なくなって行く。
俺は、誰かの名前を呼びたくなってゆく。
苦しさの余り、俺は、黒き鏡の前へ倒れ込んだ。
鈍い音を立てながら崩れ落ちると、鏡面に、弱っていく自分の姿が映る。
すると、ずっと忘れていた記憶が、蘇る___。
昔、俺が置き去りにされた、砂漠の景色。
物心つく前に、親は亡かった。
随分と、長い間、誰も俺を守らなかった。
それでも、差し伸べられた手が、飢えて乾いた俺を、守ってくれた事を。
「・・・!」
其の時、俺が映る鏡の向こうに、6歳のイーグルが見えた。
更に、ファルコン、更に遠く、サンドアロー・・・。
俺は、鏡の奥へと手を伸ばす。
ヴン!と鈍い音がして、黒の鏡面が、波紋で揺らぎ始めた。
漆黒の波打ち際にズブズブと、俺の指先から腕までが、呑まれて行く。
そのまま引き込まれるように、俺の半身が沈んだ。
自動的に鏡へと引き込まれて、自分の意思が、上手く働かない。
それでも、俺は、抗う気持ちにならない。
(家族に逢いたい)
今は、其の願いが、何よりも勝ったから。

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