ずっと降っていた雪が止んだ。
墨絵のような黒雲の向こうに、満月が浮かぶ。
金と銀を帯びた光が、優しく雪原を照らす。
木立に咲く、雪の華も、染め上げていく。
馬車は、滑るように走る。
音も無く。
景色を、車窓から流して。
伸ばされた、アンジェラの手。
重なった、指と指。
手の平から伝わる温度を。
俺は、もう、拒否が出来なかった。
□Long Goodbye
人里を離れた丘の上からは、アルテナの王都がよく見えた。
此処は、雪深い針葉樹の森を抜けた先に在る、人知れない場所だ。
ひっそりと静まり返り、凍り付いた池の、動かない水面。
そんな池の周囲では、微かに残ったマナの結晶が煌めく。
水面の、冷たい輝きに横顔を晒して、アンジェラが囁く。
「・・・ブライアン。
どうして、逝ってしまうの・・・?」
視線の先には、二人で探した、小さな石が在った。
マナが作った水晶だ。
透明で、まるでブライアンの瞳のような、クリスタルだった。
水晶の輝きを、今は、深い闇夜が包んでいる。
アンジェラは、マナの結晶に、自分の腕にはめていた腕輪を、そっと重ねた。
___ブライアンの腕輪だ。
「・・・コッチは、アンタのね。
・・・もう一つは、私が貰うね。
今日だけは、トコトン文句を言ってやるんだから。
___やめてよ。
腕輪になんか、勝手に刻まないで頂戴。
<いつか、最も大切な者に>なんて・・・。
・・・止めなさい。
そういう事は、生きて、直接、私に言いなさい・・・」
アンジェラの瞳から、大粒の涙が、ボロボロ零れ落ちる。
しゃがんで、結晶の前で俯く、アンジェラの___長い髪。
零れ落ちる髪の合間から、水晶より、透明な涙が落ちる。
言葉も___零れ落ちる。
「アンタなんか、奈落に落ちて、猛烈に反省してから、生まれ変わればいいのよ・・・。
そして、絶対に、謝りに来てよ・・・。
アンジェラ、お前を独りにしてゴメンって___言いなさい。
自分から死んだアンタなんか、ちゃんと謝るまで、許してあげない」
そんなアンジェラの姿を、俺は、少し離れた場所から、ずっと見つめていた。
その涙も、苦しみも。
俺には、見つめてやる事しか、できなかった。
___今だけじゃない。
ずっとずっと、そうだった。
出逢った時も、冒険中も、そして、今に至るまで___。
俺は、アンジェラの、後ろに立っている事しか、出来なかった。
・・・それから、どのくらいの時間が経っただろう。
いつの間にか、東の空にあった満月が、夜空の頂点で輝いている。
___もう真夜中だ。
冴え渡たった夜空から、粉雪が舞い落ち始めた。
雪は、散りゆく花の嵐みたいだ。
吹き上げた冷たい風が、アンジェラと俺の肌を凪いでいく。
「・・・。
花はいいのか。
アンジェラ」
俺は、もう___此処までにしようと想う。
だから、切り出すように、アンジェラの傍らへ立った。
そして、彼女が持参した薔薇を、濡れた瞳のすぐ傍に差し出す。
花の名前は解らない。
___薄紅色の花びらが、美しい薔薇だった。
「___ん」
傍らの花びらに、目を留めたアンジェラが、ほんの少しだけ、我に返る。
ゴシゴシ乱暴に涙を拭いて笑う。
・・・また笑顔だ。
あの、無理をして、辛さを押し隠す微笑だった。
それは、まるで女神の微笑みたいだ。
___もう、俺は___。
そんな笑顔ばかり見せるアンジェラに、耐えられなくなっている。
俺の前でだけ___もっと、崩れればいい。
そう願ってしまっている。
やがて、俺の想いを受け取ったように、アンジェラが立ち上がった。
そして、墓石に花を添え、黄金色の腕輪に、最後の口づけを___落とした。
■
雪の上を滑る、帰りの馬車の中も、静かだった。
降り積もる雪の音さえ聴こえそうだ。
隣に座ったアンジェラは、行きと同じく、終始無言の中、俺の手だけは握る。
だから、俺も握り返して___。
でも、それだけだ。
言葉は無い。
アンジェラの左手には、紅蓮の魔導師の腕輪が光る。
もう、アンジェラの手から、決して離れる事が無いように、腕輪は輝いていた。
「・・・いつか、きちんと弔える時も来るだろう。
国中が、今は、アイツを裏切り者だと罵っても・・・。
お前だけは知っているんだ。
・・・本当の事を。
だから、いつか・・・」
俺は。
もう、強く重なった手の平は、外そうと想った。
だが、アンジェラの指は、俺が僅かに動かした手を___引き止める。
エメラルドの瞳が、涙に濡れたまま、問いかける。
「・・・いつかって、いつかしら?」
「___アンジェラ」
「・・・デュラン、私ね。
こんなコトでもなきゃ、囚人みたいな暮らしなの・・・。
王女とはいっても、実権は、無いに等しいのよ・・・。
お母様のお許しがないと、外出もできない。
だから、ブライアンの所に行きたくても、まず行けないわ。
デュラン、アンタとも・・・」
「・・・」
「・・・此処でお別れ」
もう一度アンジェラは、ゴシゴシと、腕で乱暴に涙を拭う。
俺は、これからの暮らしを、心の中で想う。
後少しで、馬車が留まった後、俺達は、どんな日常に戻るのだろう。
アンジェラは、王城でも、限られた場所で暮らすに違いない。
俺は、フォルセナに戻り、小さな家へ帰る。
再会は、きっとある。
___でも、こうじゃない。
次に逢うとしたら、それは、唯のアンジェラと、デュランではいられない。
アンジェラは、アルテナの後継者だ。
そして、俺は___フォルセナの騎士だった。
「・・・ね。
・・・だから、最後の、お・ね・が・い・・・♪
それなら、聴いてくれる・・・?
・・・デュラン」
「な、なんだよ?
最後のお願いって・・・」
「ウフフ♪
せっかく、今夜だけは、外出オッケーなんだもん。
サッサと帰って、寝るだけなんて、勿体なくない?
貰った時間は、もっと有効に使いましょうよ。
・・・私、今から、アルテナ城を案内してあげる!」
馬車が停まった後、悪戯っぽい笑顔のまま、アンジェラは車を掛け下りた。
俺も、慌ててそれに続く。
アンジェラは、雪の中では引きずるしかない、ドレスの裾を全く気にしない。
御者が『ウワァ』と顔をしかめても、お構いなしだった。
枯草と雪で、ドレスを汚しながら、アンジェラは進む。
最初に案内されたのは、図書室だ。
アンジェラは___『此処で、ホセに怒られてたの』と言う。
次に連れて行かれたのは裏庭だ。
紅い蓮の群れが、咲き誇る庭だった。
アンジェラは___。
『ブライアンと、よく、此処で遊んだの』と言った。
___『私がね、どれだけずっと、アンタを想ってたか、知ってるの・・・?』
池の蓮に目をとめ、ヨシヨシと撫でるアンジェラ。
俺の中で、ドラゴンズホールでの言葉が重なる。
その、幼い日は・・・。
俺には解らない。
俺は、瞳を閉じて、今のアンジェラを___受け止めるだけだ。
やがて、何も言わない俺を、寂しそうに見つめてから、アンジェラが立ち上がる。
そして、最後に俺を誘った先は___画廊だった。
「此処はね、ウチの絵が、全部飾ってあるトコなのよ。
アルテナ王家が、全員集合なの。
こっちが、若い時のお母様。
あれは、私のおばあちゃん。
みんな美女でしょう」
「アー、もう否定はしねえ。
しかし、アルテナ王家って、全員似たような顔だなあ・・・?」
「ウチにはネ。
子作りに、コンセプトがあるからネ」
「・・・!!」
サラッと爆弾発言をするアンジェラに、ドン引きの俺。
けれどもアンジェラは、特に恥ずかしい訳でも無いようだ。
あははと笑って、まるで仕事のように語る。
「___ブライアンは、私の許嫁だったの。
ウチは、家族を選ぶ時の基準が、全部<魔法>だから。
マナの力が一杯ある、才能同士が結婚をするのよ。
だけど、ブライアンと私は、魔法がテンでダメだったからさあ。
だから、婚約は解消になっちゃった。
アルテナで、この仕組みは、永久に変わらないわ。
千年もの間、ずっとそうなのよ。
・・・ホラ見て、デュラン」
やがてアンジェラは、俺に、一枚の壁を指刺した。
其処には、幼いアンジェラと、理の女王が描かれた、一枚の絵が在る。
___絵の中には、父親の姿が___無い。
絵の額縁を、壁画に描かれた、蔦が覆っている。
絵の具で描かれた蔦は、画廊の、ずっと奥まで伸びていく。
俺達は、枝葉を辿りながら、奥へと進んで行った。
壁の絵は、進めば進むほど、遠い過去へと遡る。
アルテナ王家の、千年。
其れが、伝説のように描かれていく。
遡のぼるほどに、周囲は画廊じゃない、王家の起源を現す、古代遺跡へと変わって行った。
「・・・ビックリしちゃうわよね!
ホラ、これなんか<魔導要塞ルジオマリス>って描いてある。
ちょっと見ただけでも、ギガンテスより、高度な空中要塞だわ。
こんなモノを、昔から使っていたのね・・・。
あと、コッチはさあ、未だにナゾなのよ。
お母様にも解らないの。
___この、最初の所」
「んあ?
なんだこりゃ?
ギザギザ???」
「ンもう!
それは、ギザギザじゃないわ。
文字よ文字。
古代文字!
私は、読めないんだけどね。
ブライアンは、読めてたナ。
______<マナの一族>。
そう書いてあるって、言ってた・・・」
「・・・マナの・・・一族」
アンジェラは、右手の腕輪を撫でながら、巨大な壁画を見上げる。
歴代の王族を、蔦で絡めながら、起源へと結び付けていたのは___。
一本の、巨大な樹だった。
千年前の壁画に描かれた大樹は、何度も絵師が、修復した跡がある。
大樹の下には、見たことも無い文字で、<マナの一族>と描かれているようだ。
そして、古代文字が読めない俺にも、その樹が何かは、直感できた。
「・・・なあ、アンジェラ。
これ、マナの樹じゃねえか?」
だが、アンジェラは、首を横に振った。
力無く心元ない保留だ。
「凄く似てるケド、でも、すぐにそうとは言い切れないわよ。
お母様にも言い切れない事だもの。
多分、そうとしかね。
ただ、お母様にも、知らない事はあるわ。
私達だけが、あの場所に入れたんだもの。
___<マナの聖域>に」
「・・・」
「壁画に描かれた、植物のカンジとか。
真っ白の列柱の絵なんか、ほんとソックリよね。
だとしたらアルテナ王家は、マナの聖域と、縁が深いのかもしれないわ。
婚姻の決まりも、千年前から在るそうだし。
___ブライアンは。
二人で画廊に来ると、よく言ってた・・・。
そんなのバカバカしい、古臭いって・・・。
・・・。
・・・っ」
そして、アンジェラは___一粒の、涙を流す。
涙で掠れる囁きを交えながら、俺に語り続ける。
「・・・ずっと、不思議だったの・・・。
此処に来ると、他の子の絵には、お父様が居るのに、私にだけ居ない。
でも・・・今なら・・・解るわ・・・。
それは___」
______次の瞬間。
アンジェラの手が、俺に伸びてくる。
細い指先が、頬に触れる。
滴に濡れた碧の瞳に、今、揺れた俺自身が、映る______。
「こういう・・・事だったの・・・ね・・・」
アンジェラの両腕が、俺を抱きしめる。
もう、その姿は、後ろ姿なんかじゃ無い。
真正面から、俺を見据えたアンジェラが、真っすぐに、俺へと身体を預けた。
マナの聖域で触れた。
あの花みたいな、香りがする。
薔薇に似た香りが、ゆっくりと、俺の肌を撫でていく。
紅蓮の魔導師と同じ、傍に来て、初めて解る、香り___。
其れが、俺に触れた。
柔らかな肌の温度が、白銀の甲冑越しでも、強く伝わる。
胸の谷間に、涙の滴が零れて、流れ落ちるのさえ、はっきりと見えてしまう。
___そんな、距離になる。
___駄目だ。
「・・・」
紅蓮の魔導師の腕輪が、視界の片隅で揺れていた。
月明かりに照らされて、薄く光る、黄金色の腕輪。
形見の腕輪を、アンジェラは、長い睫毛の向こうで、心から大切そうに見つめている。
俺は、その腕輪を___もう、外すように、指を絡める。
今、それを受け容れる、アンジェラの瞳が閉じられる。
「・・・いつからかしら。
私も、お母様みたいになろうって、決めていた___。
でも、ブライアンは、私を止めたの。
そして、ワザと、私を呼び捨てにしてくれた。
アルテナは古臭いって、バカにして。
アンジェラ、お前だけが、重荷を負うことは無い、って・・・」
「・・・」
「だけど、私達には、魔法が使えなくて、結局、家族にはなれなかった。
それからよ。
アイツが、私の事を、王女様って、呼ぶようになったのはね・・・。
___ホントは、凄くイヤだった。
私は、家族には、呼び捨てにされていたかった。
だけど、言えなかったの。
___今思えば___私も、なんて、バカだったんろうね?
素直になれば。
もっと、違う結果だったかも、しれない、の、に、ね・・・」
アンジェラの身体が、俺に預けられたまま、腕だけが、背中に伸びていく。
マナの樹の壁画に描かれた、トビラ。
それが、アンジェラの手で開かれた。
壁画じゃない、本物の扉へ___。
音も無く、俺達は落ちていく。
月明かりだけが、満ちている。
何も無い、小さな部屋へ。
「許されないのは、解っているの。
お母様と、同じように。
それでも、今だけは、素直でいたい・・・。
たった一度でいい。
今夜だけでいい・・・。
だから・・・。
お願い、デュラン・・・」
「・・・あ。
・・・駄目だ、アンジェラ・・・。
俺は・・・」
「デュランは、身体の中にマナが少ない、フォルセナの男の子・・・。
貴族でもない。
理解してるわ。
でも、駄目よ。
私は、デュランが好きだもの・・・。
・・・大好き、なんだもの!」
そして、アンジェラは、情熱に身を任せる。
抱擁を、重ねてしまう。
女神のような、辛さを押し隠す___微笑。
それが、俺の前でだけ、崩れ落ちる。
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